音訳と朗読の違い
- 2015/08/17
- 00:16
朗読と音訳はどう違うのか?
よく言われることです。
「音訳は淡々と読む」が代表的な言われ方ですね。
ここでは結論から申しましょうか。
音訳は朗読の1ジャンルです。
なぜなら、朗読とは、【朗読】名詞:声を出して詩・文章などを読む事(大辞林) だからです。
「音訳」は朗読の中で、「著作権法37条3項に規定された」、【当該視覚著作物に係る文字を音声にすることその他当該視覚障害者等が利用するために必要な方式により、複製し、又は自動公衆送信(送信可能化を含む。)を行うこと(抜粋)】というジャンルです。
どこにも、「淡々と読む」或いは、これも良く言われる「語りかけるように読む」なんて書かれていません。
一番問題なのは、「必要な方式により」であり、これは「音声にすることその他」にかかっていますから、音訳者の世界で言う「処理」、つまり写真・図表・表紙の解説や音訳者注のことです。
そして「音声にすることその他」ですから、何も「音訳者注~注終わり」なんて言わなくとも、音で現して「ピッ(音訳者注を表す音)⇒注を読む⇒ピッ(音訳者注終わりを表す音)」としたほうが、煩わしくないのです。
しかも、音声にすること、ですから、例えば、男女の会話を男女の音訳者で読んだって一向構わないのです。
音訳は、本来、自由度の高いジャンルでもあるのです。
現在、視覚障害者・識字障害者・学習障害者・その他障害者に対する音声での情報伝達を意味して使われる場合の「音訳」は本来「朗読奉仕」と言われてきました。
そして、音訳とは、もともと、巴里(パリ)・倫敦(ロンドン)・倶楽部(クラブ)のように外国語を「漢字の音を使って訳す事」です。
1989年に、ある点字図書館員が「朗読奉仕」を「音訳」と言い換えたのが始まり。
もともとの意味をご存じだったかどうかは分かりません。
しかし、そこに見て取れることは、
「正確に、ありのままの情報を伝達する事」
「分かり易い発声で錯誤なく伝わる事」
に尽きるでしょう。
「正確に、情報を伝達する事」は、例えば<1>を「カッコイチ」と読むのではない、「ヤマガタカッコ イチ」と読むことで、表記が(1)じゃない、<1>なんだ、ということを分かってもらう、ということでしょう。
じゃ、「米」をアメリカ、「露」をロシアと読むのは、如何なものか?という疑問も発生します。
この場合だって、「文中にはアメリカをベイ、ロシアをロ、と漢字一字で表記してある場合も、国名で読みます」と注を入れておけばいいのです。
中には、「いやいや、正確にありのままに読まなきゃ、著作権法の複製権侵害になる」と思う方もいるようです。
会話の表現で、「そうですね」と書いてあったら、『カッコ ソーデスネ カッコトジ』と読むべきだと。
これは、おかしいんです。
世の中に「そうですね」を『カッコ ソーデスネ カッコトジ』と読むことはありません。
それが「慣習」です。
そして、法の成文は慣習を上回るものではありません。
なぜなら、法というものは、生活や権利の利便のためにあるものだからです。
感情表現はいけない事か
では、芸としての「朗読」に見られる「感情表現」は音訳には禁止なのでしょうか。
無論、そんなことはありません。
充分に訓練された「芸」を持つ音訳者なら、一向構わないでしょう。
聴く人を唸らせるようなリアルな音訳は人気があります。
しかし、一般の(殆どの)音訳者はボランティアです。
「芸域」に達している方は一握りです。
「芸」が未熟な演者が感情表現をする、それは、「キモチ悪い」だけでしょう。
ですから、聴く人の事を考えるなら「淡々と読む」のが、殆どの場合は正解です。
「相手に語りかけるように」読む、これは、実はアナウンスの基本です。
これも、「芸」、従って、目指すべきではあっても、出来ないうちは「淡々と」読むべきでしょう。
ですが、「将来、思う存分芸としての音訳をしてみたい」と思う事は重要な事です。
それが「技倆の向上」に繋がるのです。
ですから「淡々と読まなければならない」と決めつけるのは間違いです。
音訳は、ともかく、早く、大量の情報を提供すべきだ、その為には技倆を求めるヒマはない。
のも、事実です。
最近、全国的なボランティア団体の会報で悲しい記事を見ました。
「鼻濁音やアクセントなんてどうでもいい、どうせ、倍速・三倍速で聴くんだから」
という全盲の方の意見です。
モットモです、目で見る情報を耳で聞くには、5~100倍程度の時間がかかるでしょうから。
眼でパッと見た情景を音で説明する場合など1000倍以上の時間がかかるでしょう。
しかし、そこには、「音訳は我々の為だけにある」という錯誤が見て取れます。
高齢で中途失明された方などは、なかなか機械の操作にも慣れません。
まして、複合した障害をお持ちの方も多く、倍速では困る状況も多々あるのです。
識字障害、学習障害の児童にも音訳は提供されているのです。
よく言われることです。
「音訳は淡々と読む」が代表的な言われ方ですね。
ここでは結論から申しましょうか。
音訳は朗読の1ジャンルです。
なぜなら、朗読とは、【朗読】名詞:声を出して詩・文章などを読む事(大辞林) だからです。
「音訳」は朗読の中で、「著作権法37条3項に規定された」、【当該視覚著作物に係る文字を音声にすることその他当該視覚障害者等が利用するために必要な方式により、複製し、又は自動公衆送信(送信可能化を含む。)を行うこと(抜粋)】というジャンルです。
どこにも、「淡々と読む」或いは、これも良く言われる「語りかけるように読む」なんて書かれていません。
一番問題なのは、「必要な方式により」であり、これは「音声にすることその他」にかかっていますから、音訳者の世界で言う「処理」、つまり写真・図表・表紙の解説や音訳者注のことです。
そして「音声にすることその他」ですから、何も「音訳者注~注終わり」なんて言わなくとも、音で現して「ピッ(音訳者注を表す音)⇒注を読む⇒ピッ(音訳者注終わりを表す音)」としたほうが、煩わしくないのです。
しかも、音声にすること、ですから、例えば、男女の会話を男女の音訳者で読んだって一向構わないのです。
音訳は、本来、自由度の高いジャンルでもあるのです。
現在、視覚障害者・識字障害者・学習障害者・その他障害者に対する音声での情報伝達を意味して使われる場合の「音訳」は本来「朗読奉仕」と言われてきました。
そして、音訳とは、もともと、巴里(パリ)・倫敦(ロンドン)・倶楽部(クラブ)のように外国語を「漢字の音を使って訳す事」です。
1989年に、ある点字図書館員が「朗読奉仕」を「音訳」と言い換えたのが始まり。
もともとの意味をご存じだったかどうかは分かりません。
しかし、そこに見て取れることは、
「正確に、ありのままの情報を伝達する事」
「分かり易い発声で錯誤なく伝わる事」
に尽きるでしょう。
「正確に、情報を伝達する事」は、例えば<1>を「カッコイチ」と読むのではない、「ヤマガタカッコ イチ」と読むことで、表記が(1)じゃない、<1>なんだ、ということを分かってもらう、ということでしょう。
じゃ、「米」をアメリカ、「露」をロシアと読むのは、如何なものか?という疑問も発生します。
この場合だって、「文中にはアメリカをベイ、ロシアをロ、と漢字一字で表記してある場合も、国名で読みます」と注を入れておけばいいのです。
中には、「いやいや、正確にありのままに読まなきゃ、著作権法の複製権侵害になる」と思う方もいるようです。
会話の表現で、「そうですね」と書いてあったら、『カッコ ソーデスネ カッコトジ』と読むべきだと。
これは、おかしいんです。
世の中に「そうですね」を『カッコ ソーデスネ カッコトジ』と読むことはありません。
それが「慣習」です。
そして、法の成文は慣習を上回るものではありません。
なぜなら、法というものは、生活や権利の利便のためにあるものだからです。
感情表現はいけない事か
では、芸としての「朗読」に見られる「感情表現」は音訳には禁止なのでしょうか。
無論、そんなことはありません。
充分に訓練された「芸」を持つ音訳者なら、一向構わないでしょう。
聴く人を唸らせるようなリアルな音訳は人気があります。
しかし、一般の(殆どの)音訳者はボランティアです。
「芸域」に達している方は一握りです。
「芸」が未熟な演者が感情表現をする、それは、「キモチ悪い」だけでしょう。
ですから、聴く人の事を考えるなら「淡々と読む」のが、殆どの場合は正解です。
「相手に語りかけるように」読む、これは、実はアナウンスの基本です。
これも、「芸」、従って、目指すべきではあっても、出来ないうちは「淡々と」読むべきでしょう。
ですが、「将来、思う存分芸としての音訳をしてみたい」と思う事は重要な事です。
それが「技倆の向上」に繋がるのです。
ですから「淡々と読まなければならない」と決めつけるのは間違いです。
音訳は、ともかく、早く、大量の情報を提供すべきだ、その為には技倆を求めるヒマはない。
のも、事実です。
最近、全国的なボランティア団体の会報で悲しい記事を見ました。
「鼻濁音やアクセントなんてどうでもいい、どうせ、倍速・三倍速で聴くんだから」
という全盲の方の意見です。
モットモです、目で見る情報を耳で聞くには、5~100倍程度の時間がかかるでしょうから。
眼でパッと見た情景を音で説明する場合など1000倍以上の時間がかかるでしょう。
しかし、そこには、「音訳は我々の為だけにある」という錯誤が見て取れます。
高齢で中途失明された方などは、なかなか機械の操作にも慣れません。
まして、複合した障害をお持ちの方も多く、倍速では困る状況も多々あるのです。
識字障害、学習障害の児童にも音訳は提供されているのです。
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