マスカーニのオペラ、カヴァレリア・ルスティカーナから「讃えて歌おう」です。オペラ自体はシチリアを舞台にした痴話喧嘩絡みの殺人事件を扱ったものですが、美しい曲で満ちています。素朴な信仰心から激情に至る様々な感情が描写されています。一般的には、映画「ゴッドファーザー3」で劇中劇として取り上げられたことが有名かもしれません。現在最も人気のあるメゾソプラノの一人である、エリーナ・ガランチャが歌っています。
言葉を扱えず知の蓄積ができない日本人
日本人は知の蓄積ができません。何か事が起こると、その度に対策をいちから考えるのです。彼らが作り出した策には碌(ろく)なものがありません。そうして懲りずに何度でも失敗を繰り返すのが日本流です。結果はどうでも良くて、やったフリをする事だけが大事です。
日本人は自力で文字を作り出すことが出来なかった人たちです。文字が無いという事は知の蓄積ができないという事です。文明は、知の蓄積が前提です。文字を扱えないのではサルと一緒です。言葉と文字の有無こそが、獣と人間を分けている点なのです。
日本には「正書法」がありません。定まったルールも無しに文章を記録するとは、なんといい加減な連中なのでしょうか。「知」に対してまったく鈍感な人々です。敬意が欠けています。公文書の改ざんだって平気で行います。
学校では修辞法も教えられません。つまり彼らには知のフレームワークが無いのです。考える方法を知らないのです。
国語の授業では、実態に合わない文法も教えられています。教えている方も良く分かっていません。学者も含めて日本語の構造を理解していないのです。
さらに漢字の問題があります。日本では、昔ながらの画数の多い漢字を未だに使っています。漢字を書けないだけでなく、読めもしないのにです。このため、実質的な文盲が日本には多く存在します。
文法がいい加減で正書法も定まっていない日本では、人々は格助詞や助動詞を適当に省略してしまいます。もともと日本語の語順は滅茶苦茶なのに、格助詞や助動詞を省略してしまったら、文意が伝わらなくなってしまいます。ネットのニュースタイトルを見てください。文字数制限があるとはいえ酷いものです。
受け手も「分からない」と言えば良いのに、ただ頷くだけで何も言いません。そのせいもあり、地位が上にある日本人は、長ったらしくて意味のない演説をぶってしまうのです。ビジネスの現場でも、うっかり同じ文を繰り返してしまって「大事なことなので2回言いました」と取り繕う人がいます。外見だけで中身が空っぽな日本人の特徴が、ここにも表れています。
庶民用の、簡略化した日本語が必要です。あるいは、上層階級だけ別の言語を使うという選択もあり得ます。頭が悪いのに、小学校から中学校まで時間をかけて漢字を覚えている場合ではありません。その上に英語やプログラミングだなんて無理でしょう。もっと大事な事が沢山あるのです。
文語体と口語体の乖離も問題です。どこの国でもそうですが、まともなオツムを持つ人々が国語をメンテナンスしていかなければ、国語は容易に劣化していきます。
今の時点では、こういった基礎が出来ていないので、彼らが長い文章を理解するのは絶望的です。SNSでのやり取りを観察していると、文章を読んでいるのではなく、キーワードに反応しているだけなのが分かります。たぶん彼らは、ほとんどの文章を視覚的に処理しているのでしょう。小学生のように、まずは音読からやり直した方がいいです。
日本人は思考力だけでなく、共感力も貧困です。「相手の身になって考える」「相手の感情を想像し寄り添う」といった人間として当たり前のことが出来ないのです。
共感力はありませんが、自分の利益のために、想像力を活用して相手を利用する事はあります。
日本では、説得する際には相手が「腹落ち」してくれる事が大事です。言葉では納得しないのです。言葉を並べるだけでなく、対面でコミュニケーションをし、飲食をともにすることが必要です。相手に「自分が上である」と感じさせ、食欲や性欲を満足させたり、物品やカネを渡すことが必要です。日本では、言葉の重要度が相対的に低いのです。
思考力や共感力だけではありません。彼らには「世界観」というものが無いのです。「世界や人間には目的がある」という見方が、ついぞ出来なかった人々です。これは、彼らが宗教や哲学を持ちえなかったという事とも関係しています。
実は、世界や人間に目的が無くても構わないのです。「目的があるはずだ」という仮定の基に、さまざまな物事の「理」を追求していく姿勢が大事なのです。
人間の脳は、続けて起こったAとBという事象から、自然と因果関係を求めるように出来ています。さらに「自我」が発達することによって、自分と他人、自分と世界を分けて考え、これらの対峙する2つの関係を考察するようになるのです。
ところが言語野が発達しておらず、自我の目覚めが遅い日本人は、こういった考えにまで至らないのです。人によっては死ぬまで自我に目覚めない人もいます。
彼らは家の中でTVの前に座り、画面を見るように自分の人生を眺めているだけの「傍観者」に過ぎないのです。
幼児思考の日本人
日本人は幼稚園児と同じです。幼い子供のような考えをします。人格が未成熟なためです。これを仮に「幼児思考」と名付けておきます。
成長が未熟なのは、(1)栄養の偏りもさることながら、(2)幼少の頃から繰り返し受けた精神的虐待が原因として考えられます。(3)言語として不完全な日本語の特性もあります。
さらに、(4)抑圧的な社会が拍車をかけています。日本人がどうしても逃れることができない、(5)「ウチ」と「ソト」といった自閉的傾向も要因のひとつです。
それぞれを深掘りしていると長くなってしまうので、上に挙げた点の幾つかについて述べます。
ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」は強制収容所で人間がどのような状態になるかを冷静に記述した興味深い記録です。これを見ると今の日本人も、抑圧的な社会で人間性を奪われて拘禁反応を呈しているようにも思えます。
収容所において人々は3つの段階を経るとフランクルは述べます。まず第一は不適切な反応です。悲劇なのに、なぜかヘラヘラ笑ってしまうのです。心を守るための防衛機制です。
第二段階では、全てにおいて無感動となります。周りで仲間が殴られても死んでも、何も感じなくなるのです。何時までこの状態が続くのか先も見えません。目的もありません。失業者と同じように抑鬱状態に陥ります。しかし飢餓と睡眠不足で一日中イライラしています。
第三段階はいよいよ収容所から解放された時の状態です。自由を与えられても、彼らは何をしたら良いのか分からず途方に暮れてしまうのです。却って以前に自分が受けていたような権力と暴力を好み、自らも行使するようになります。この状態から脱するには、「自分は喜んでもいいのだ」「自分を喜ばせるために何かしよう」というように、自ら決意して、再度、人間として一から学ぶ必要があるのです。
日本人にとっては「ウチ」だけが仲間です。余程の事が無い限り排斥しません。却って仲間を守るためにはどんなウソでもつき、どんな非道な事もやってのけます。その一方で「ソト」は敵です。客には丁寧に接します。しかし一時的なものです。
ところが最近ではネットやSNSが普及したので、日本人は混乱しています。自分の気に入った人をフォローしていても、「ソト」からのつぶやきがタイムラインに流れこんで来ます。ちょっとでも自分の意見と異なるつぶやきは、「ウチ」に土足で踏み込んでくる憎い敵です。激しい攻撃を加えます。
彼らは精神の拠り所を求めます。「日本スゴイ」と言ってくれる人は味方です。「俺もスゴイ」と自分を慰めることができるからです。当たり障りのない事を言ってくれるTVだけが慰めです。ちょっとでも権威に盾突く人は「悪い人」です。
また彼らは陰謀論にはまり易い人たちです。哲学や科学の基本を身に着けていない人にとっては、現代の科学技術がまるで「魔法」のように見えています。それは学者とて同じことです。30年前と今ではまるで違うのです。そういった人たちはシンプルな陰謀論に騙されてしまいます。科学よりも陰謀論の方が複雑な現象を分かりやすく説明してくれるように感じるのです。彼らは、高度な文明に接した未開人と同じです。
ここで、日本人をいくつかのタイプに分けてみます。
(1)まずは、相手によって節操なく態度をコロコロ変えていく人達です。ウソや誤魔化しを常としており、人間としての一貫性がありません。日本社会ではこの技術は必須であり、下層社会に位置する大部分の人がこのタイプです。笑いながら媚びへつらう様な人間を信用するので、自身も容易に騙されます。
(2)次に「このままでは良くない」と精神的に目覚めた状態の人々です。彼らは精神的な拠り所を求めます。それが「ニッポン」なのです。陰謀論にはまり、敵を攻撃し、宗教の勧誘のように他人にも「ニッポン」を崇拝するように勧めます。
(3)最後はマニピュレーターです。社会の階層を上がっていくと、相手の方が自分に合わせてくれます。どんな我儘も通ります。ここで日本人は幼児へと逆戻りをするのです。また彼らは「ニッポン」の実態を知っています。自分こそが「ニッポン」そのものなのです。それを利用して、人々を使役します。人々は「〇大卒」とか「〇〇省」「〇〇商事」という肩書を聞いただけで平伏するのです。サイコパスやソシオパスに近い人々です。
日本人というのは、どう要領良く生きれば、他人からカネをかすめとれるかと考える人達です。「人生において自分は何を問われているのか」などという考えは思いもつかない人々です。 人間として深みがなく、接していて物足りない人たちです。彼らは互いに未成熟な人間を好んで求め合っているように見えます。思い通りになるペットのような存在をです。
最後に、日本人の栄養不足について少し話しておきます。
1961年頃の田舎における栄養不足を記録したフィルムを観ました。僻地では「胴長寸胴、低身長、低体重」の児童が多く見られており、食べ物の改善が急務だと訴えています。学校で食べる弁当には、白米の他に、オカズとして芋の煮つけやカツオの削り節ぐらいしかありませんでした。魚を食べるのは祭りなどの特別な日だけだったそうです。
近年、日本人の身長の伸びは止まり、座高は高くなっているようです。鶏肉を食べられるのは未だ良い方で、鶏皮揚げで飢えをしのぎます。肉体的に未成熟であれば、精神も何らかの影響を受けているでしょう。
子供の頃から「痩せたソクラテス」などあり得ません。これからの日本人は劣化していく事はあっても、これ以上の成長は望めないのです。
ベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番 (op. 132)第3楽章
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番から、第3楽章です。ベートーヴェンは15番の作曲中に重い病にかかりました。この第3楽章は、病気から快復した喜びを描いたものです。コラール風の主題と、自身の健康に感謝しつつ喜びに溢れた主題の2つから構成されています。2つめの主題は、ベートーヴェンが描いた曲の中でも、もっとも美しい調べのひとつです。
15番となっていますが、実際に作曲されたのは第12番の後になります。第11番「セリオーソ」から、ベートーヴェンの曲調が変わり始めましたが、この15番では従来の4楽章構成からも離れ、自由な5楽章構成になっています。
ちなみに第15番の最終楽章はもともと、交響曲第9番の最終楽章となる予定で描かれました。結局、第九は現在の合唱を含んだ最終楽章が採用され、スケッチは第15番の5楽章となったのです。
演奏しているのは、デンマーク弦楽四重奏団です。メンバーはいかにも北欧系といった風貌です。若いですが、ヴァイオリンの音色が美しく、繊細で精緻なアンサンブルを披露しています。
Danish String Quartet - Beethoven quartet no. 15 in A minor, op. 132
(2つめの主題は、4:00からと 10:07 において繰り返されます)