R45 ALL THAT 補足 (文&画 柳田光司)
「R45オールザットらじヲ」を担当しています「柳田光司」です。
「柳田?!? 誰やねん?」というクレームを少しでも解消するため
「長~い 長~い自己紹介」をさせていただくことになりました。
第43回「夏の終わりで イキり満開ソング」(2018年8月24日 OA)
私、「猪木」より「馬場」派です。
洗練された「平成プロレス」も好いですが…「昭和プロレス」は捨てがたい。
世代的には、力道山が旗揚げした「日本プロレス」に興奮し
「街頭テレビ」の前で手に汗握ったわけではありませんが…
戦後史と重なる プロレスの歩みには すごく興味をおぼえる性質。
正統派で甘いマスクの「ベビーフェイス」より
粗悪で乱暴者の「ヒールレスラー」になぜか心を奪われっぱなし。
悪役レスラーが入場口に現れると絶妙のタイミングで流れる入場曲に狂喜乱舞。
会場に張りつめる高揚感が大好きなんです。
しかし、「ジャイアント馬場」だけは別格。
私 誰が何と言おうが「ジャイアント馬場」の味方です。
馬場さんを初めて“生(なま)で見たのは”小6の時。
日本中が「MANZAIブーム」の真っただ中のころ。
昭和55(1980年)9月10日
場所は、実家から自転車で10分「大津市皇子が丘公園体育館」
なんとその日は、「NWA認定世界ヘビー級選手権試合60分1本勝負」
当時、世界でもっとも権威があったとされたベルトを賭けた一戦。
数日前、佐賀スポーツセンターにて 馬場さんが王者ハーリー・レイス
を破り王者に返り咲いた直後の防衛戦であることを知っていた早熟少年でした。
…にもかかわらず 馬場さんはコーナーポスト上段から大技を仕掛けようとした途端…誤って股間を打ち万事休す。11分58秒片エビ固めで王座転落。
あの時、私の横を通り過ぎて行った「美獣の二の腕に掘られたタトゥー」と
肩からぶら下がった「NWAのベルト」は 今なお忘れることができません。
馬場さんの生い立ちについては、曖昧でしたが…当時から把握していました。
プロレス大国「アメリカ」で今なお語り継がれている
伝説の悪役日本人レスラー 『ジャイアント馬場』
イチローや大谷翔平が いない時代
身長2メートルを超える ジャイアント馬場は
日本人をネガティブに誇張した 悪役レスラーとして君臨。
馬場さんは 全米興行を牽引する ドル箱選手でした。
キャラクターにない 無精髭。アメリカ本国に 卑怯な真珠湾攻撃を仕掛けた
日本人を蔑む ふんどし姿。リングで塩をまきながら 相撲のしこを踏むパフォーマンス。見世物扱いされる 邪道な大男に 観客は 容赦なくブーイングを浴びせかけたことも なんとなく見聞きしていました。
人一倍 大きい身長にコンプレックスを抱き続けた少年時代。
内向的でやさしい性格の馬場さんは 荒々しいプロレスの世界は 不向きだったにもかかわらず… 日本へ帰国するという選択肢は なかったそうです。
新潟市三条市生まれの まずしい家庭環境。
鳴り物入りで 読売巨人軍の投手として将来を有望されるものの…
合宿の風呂場で転倒。プロ野球の道を閉ざされ
たどり着いたのが もっともやりたくない見世物家業「プロレスラー」でした。
おそらく私が馬場さんに魅かれる要因は
「芸人さんにも似た哀愁」と「途方に暮れる猫背の後ろ姿」だったのでしょう。
いち早く 日本へ帰国を懇願するものの…
皮肉にも 全米での馬場さんの人気は急上昇。
「興行を支えるドル箱レスラーとなった人気レスラー」と
「アメリカの興行主の思惑」の狭間で 悩み続ける毎日。
そんなある日、世紀の悪役
「ザ・ジャパニーズ スモウ レスラー」の前に
ひとりの女性が 控室に現れたそうです
――――「伊藤 元子(もとこ)」さん。
後に、ジャイアント馬場夫人になる女性でした。
元子さんと馬場さんとの出会いは、十代のとき。
元子さんの実家は兵庫県明石市にある旧家。当事、明石市でキャンプをしていた読売巨人軍のスター選手を自宅に招いて食事会を開くのが恒例でした。
或る年、巨人軍に入団したばかりの馬場正平(17歳)も巨人軍の選手として招かれたようです。それが馬場さんと元子さん(当時15歳)との出会い。
間もなく二人は文通交際を始め… 互いに「初恋を実らせた 結婚」を夢見る。
そんな最中。超大型投手の馬場正平は左ひじを負傷し プロ野球選手を断念。
プロレスラーへの転身を機に、二人は結婚を決意したそうですが…
由緒ある 元子さんの実家は
不可解な職業に転身した馬場さんとの結婚に猛反対。
まるで「ロミオとジュリエット」を彷彿させる恋愛ドラマです。
馬場さんにとって「悪役レスラー」に徹することは、
かけがえのない初恋相手である 元子さんとの結婚を認めてもらうための術。
アメリカの興行主たちは 向こう10年
何億ドルものギャランティー契約を持ち込むものの…拒否。
馬場さんは あくまでも 元子さんとの二人三脚を臨み
近い将来、必ず 日本でも繁盛する新しいプロレス興行のカタチを画策する。
※元子さんは神戸市の短大卒業後 米国に留学。
そのまま旅行代理店に就職。
家族には秘密にしていたが、当時アメリカで活躍していた馬場さんとの
交際を本格化させるためだった(後年に、元子さん本人が明かしている)
※昭和41年(1966年)に婚約するも馬場さんは すでに大スターだったため、長く婚約の事実は伏せ続けた。
昭和47年(1972年)馬場さんが全日本プロレスを旗揚げすると、
元子さんは裏方として団体を支え 巡業にも同行。
外国人選手からは「ミセス・ババ」と呼ばれ…
結婚の事実が公にされたのは…昭和57年(1982年)のことでした。
うさん臭いと言われようが… バカにされようが…
ビジネスライクだと罵られようが…私にとっては大好きな浪花節。
奇しくも同じ誕生日(8月21日)である
「円 広志」さんと「関根 勤」さんも 熱狂的なG馬場派。
ジャイアント馬場さんこそが、私にとつてのミスタープロレスラー。
その思いは その後も変わることはないと思います。
ただひとつ 今も後悔しているのは1995年1月19日。
大阪府立体育会館大会の試合を生で観戦できなかったこと。
阪神淡路大震災が発生の2日後の興行でした。
誰もが、大会は中止だと思っていたらしいのですが…
代表であった馬場さんは 大会を決行することを発表しました。
メインイベントは「川田利明」VS「小橋建太」の三冠統一ヘビー級試合。
60分一本勝負。まぎれもなく平成に残る、プロレス名勝負のひとつです。
譲らぬ攻防。結果は、60分時間切れ引き分け。
両選手 リングの上で大の字になり 拍手が鳴りやまない。
試合後、小橋選手が叫ぶ。
「僕らはリングの上から勇気づけることしか出来ないんです!
でも例え60分の間だけでも、
地震のことを忘れてもらえたら プロとして本望です」
みなさんはご存知でしょうか?
親子連れが憩う兵庫県立明石公園の正面入り口奥。
西芝生広場に 白御影石の碑が立っていることを…!?
「明石公園」は かつてプロ野球のキャンプ地。
馬場さんが読売ジャイアンツ時代、
明石キャンプに来て妻元子さんと知り合った場所。
碑は、当時、全日本プロレス代表だった馬場さんが興行で募った「震災義援金」を 明石ロータリークラブに寄付し、建立されたもの。
碑の高さは、ジャイアント馬場さんの身長と同じ209センチ。
世界でもっとも人気を博した悪役レスラーからの熱い思いが刻まれています。
『R45 ALL THAT “らじヲ”supported by Joshin』をお聞きのみなさま!
お時間があるとき ぜひ一度、馬場さんのデカさを生で体感してみて下さい。
こんな全日派の私が
推薦したのは ≪D.J.JazzyJeff & The Fresh Prince≫の『サマータイム』
なぜ?私がこの曲を推薦したのか?気になる方は、ラジコのタイムフリー(1週間無料サービス)でも番組をお聞きください!
私「柳田光司」宛の 応援メール、ハガキ、郵便なんでも結構です。
一行メッセージでもかまいません。必ず目を通させていただきます。
こちら「R45 ALL THAT 補足」も読んで下さいね~!
次回の『R45 ALL THAT “らじヲ”supported by Joshin』は、
8月31日(金曜日)夜9時から。
来週も お付き合いのほど よろしくお願いいたします。
谷口「わー、わー、言うてます!」
柳田「お時間です!」
2人「さようなら!」 …(つづく)