彗星の如くインターネットに現れ、下ネタと狂気を孕んだテキストで暴れまわったレジェンド「ねんまに」氏による、脚色一切なしのブラック企業体験レポート! 衝撃の薄給、狂気の同僚に囲まれたねんまに氏がたどりついた転職の極意とは…?

01:こうして僕はブラック企業に就職した

皆さん、はじめまして。元ブラック企業勤めのエンジニアです。

名前は「必殺!年賀状マニア」と申します。

若気の至りとは怖いもので、僕はこの、インパクトだけを求めて2秒で思いついたハンドルネームを名乗って、過去には数年間に渡ってブログのようなもので文章を垂れ流してきました。

人は見た目が9割、などと申しますが、インターネットはハンドルネームの凄みが9割、とあの頃の僕は信じて疑っていなかったからです。

時は流れ、僕がそのような活動をしていた頃から早10年近くが経過しました。人々はネットで普通に本名や顔を晒すようになり、むしろハンドルネームとかつけている人間のほうが頭がおかしい時代になりました。

とは言え、今さら本名を名乗るのも屈辱的なので、僕はこれからも必殺!年賀状マニアとして生きていきます。ちなみに特に年賀状のマニアではないですし、誰かを必殺することもないです。

まあそんなことは死ぬほどどうでもよいのですが、今回、僕が書いた文章がどういうわけかこの「明日を乗り切るチカラになる」でおなじみのDybe!というサイトに掲載される運びとなりました。

皆さんからすると、日々の仕事の悩みや、将来のキャリアパスへの不安を解消すべく「よし! いっちょDybe!で先人たちのコラムやインタビューを読んで、問題解決の糸口を掴むか!」という真面目なテンションでサイトにアクセスしてみたのに、なぜかいきなり不真面目極まりないハンドルネームの人の自己紹介を目の当たりにすることになったわけですから、戸惑いが隠し切れないことだと思います。(僕だったらキレます)

なんでこんなことになってしまったのかは僕自身にもよくわかりませんし、「大丈夫なのかこのサイト?」と問われると、少なくとも編集長は頭がおかしいとしか思えません。

ですが、僕はこう見えて転職というか就職活動全般に一家言ある男でしてね。

先ほども言った通り、元ブラック企業勤めのエンジニアという身でありながら、今では国内の大手ゲームメーカー(超ホワイトなところ)に華麗な転職を決めたという輝かしい経歴を持つほどです。

「いきなり自慢みたいなのやめろよお前! 何なんだよ一体!」

という怒りの声が聞こえてきそうですが、だ、だってしかたないじゃないですか。あらかじめそんな話でもしておかないと、こいつマジで仕事とか会社に一切関係ないコラムを延々と書き綴る気じゃね……?? ってテンションになってすぐ読むのをやめるでしょ皆さんは。。。

ちなみに僕が働いていた会社のブラックぶりについても軽く触れておきますと、新卒で入ったんですが、月給の手取りが9万円とかでした。

「バイトかな?」とか「ウソでしょ?」と思っている方にお伝えしておきたいんですが、正社員でしたし、しかも残念ながら実話でした。

この中にも、「俺の会社マジでブラックだし、クソすぎるわ!」と日々憤っている方は多いかもしれませんが、もうちょっと、まあたぶん、12万円くらいはもらっていらっしゃったりはするんじゃないでしょうか? わかんないですけど。

こんな会社に大事な新卒カードを使ってしまったとなると、人はどうしてもネガティブな感情に陥りがちです。

つらい就職活動を勝ち抜いて入った会社が、まさかの月給9万円……。これでもう、自分のブランド価値は完全に傷つけられてしまった……。もはや転職だってまともにできるはずがない……。

そうやって悲嘆に暮れ、絶望の中で過ごす日々。最後の気力を振り絞って転職サイトにアクセスしてみたものの、上級スペック保持者と自分のスペックや職歴を脳内で比較して、登録にすら踏み切れないでいる始末。

死にたい……。

結局考えるのはそのことばかり。さりとて人間、そう簡単に死ぬ勇気を持てるはずもなく。

しかたなく、スマホをポチポチしてネットサーフィンしているうちに、いつの間にかワケのわからない文章を読まされるはめにあっているあなた! そう、そこのあなたです! あなたのような方にこそ僕は言いたい!!

なんていうかこう、人生と真面目に向き合いすぎ……? っつーか?

ちゃんとできてなきゃダメだ、的な気持ち強すぎない……??

いいですか?

こう言っちゃなんですが、マジでちょろいですからね人生とかいって。

クラブ……? などと言ういかがわしい場所で夜な夜なアルコール漬けになって頭がとろけてしまっているようないわゆるパリピ風に言うと、「ちょれえwwww 人生www ウケるwwwww」って感じです。

ちなみにクラブと言えば、僕は15年ほど前に知人に連れていかれ、なぜかDJというものをさせられたことがあるのですが、その時の条件が「アニソン縛り」というどう考えてもモテない、というかむしろ侮蔑されるものだったため、当然ひどい目にあい、それ以来一方的にあの場所を憎んでいます。当時は今ほど、オタクに寛容な世の中ではなかったことを示す貴重なエピソードです。

まあそれは死ぬほどどうでもいいんですが、とにかくちょろいんですよ人生は!

僕も35年ほど生きたこの歳になって、そのことを悟りました。

そしてその中でもとりわけ、就職活動なんてものはちょろさMAXです。

ですが、どうしてもみんな、人生の重大事と考えて身構えすぎてしまうから、及び腰になったり、本来のパフォーマンスが出せなかったりするのではないでしょうか。

もちろん、素晴らしい会社に入社できるに越したことはないですし、そのために努力をすることは絶対的に正しいとは思うのですが、運だってあります。

というかむしろ、ほぼ大体のことは運です。そもそもで言えば、運良く資産家の両親のもとに生まれていたらもう就職自体する必要がないわけですから、極論すると就職活動、転職活動とはこれはもう完全に単なる運です。

ですので一度くらいのつまづきでそこまで絶望的な気持ちにならず、まあちょっと落ち着いてみましょう。そして、とりあえず転職活動を死ぬほど適当に開始することを検討してみましょう。

適当でいいわけないだろ! 他人の人生だと思ってケンカ売ってんのかてめえ!?

そう言いたくなる気持ちもわかります。

ですが僕は、新卒の就職時も、その後の転職活動の時もマジで自分でもあきれるほど適当でしたが、そうやって就活を繰り返していくうちにノウハウが蓄積され、人生が好転したという自覚があります。大切なのは、とりあえず一切何も考えずにチャレンジしてみることっつーか……?

これからそのことを、実体験のエピソードを通して証明します。

ですのでそれを読んで、皆さんにも「こういうケースもあるのか」ということを知ってほしいのです。そうすれば、鬱屈(うっくつ)とし続ける今日までよりは、多少は心が軽くなった明日がやってくるかもしれません。仮にやってこなかったとしても、このサイトの運営者の人にクレームとかそんな感じのことはマジでやめてください。僕が本気で怒られて泣くことになるからです。

そんなわけで話は2005年頃にさかのぼります。

その頃の僕は、前述したインターネットで書いていた文章によって、一定の層の同志たち(人の目を見て話すことができないという共通の特徴を持つ。日光にも弱い。しかも全員男)から、当時としてはそこそこの支持を頂いていました。

そうなると人間、簡単に調子に乗るもので、これだけインターネットで知名度があれば、就職についても企業側から勝手にオファーが来るものだろうという破滅的楽観思想に至るのも無理はありませんでした。

ですが、毎日メールを待っていても企業側からのコンタクトはなしのつぶてです。

不思議に思った僕は、公開する文章中にも、大学4年生であることと、溢れ出る才能の塊がこのままでは無職になる可能性があることをさりげなく、かつ結構な頻度で書き綴りました。

けれど、やはり依然として電通や博報堂、トヨタや三菱商事といった大手企業からの反応はありません。それでも僕は、待ち続けさえすればいずれ就職はできる、というスタンスを崩すことはありませんでした。

今思えば「必殺!年賀状マニア」という頭がどうかしているとしか思えないハンドルネームの人間を採用するような会社は即座に潰れるはずなので、三菱商事が今でも倒産していないのはそういう人間を採用してこなかったからだと理解できるのですが、当時の僕にはそんな世界の理なんてわかるはずがありませんでした。

そうしてずっと永久に企業のオファーを待ち続け、気がつけば僕は大学5年生になっていました。インターネットに夢中になり過ぎて、留年をしたからです。

その「留年した」という事実に、僕が大学で真面目に勉学に励んでいると信じて疑っていなかった両親は驚愕し、慌てて大学の事務局的なところに出向きました。

「何かの間違いだろ!?!」

「うちの子に限って!」

しかしそこで彼らが遭遇したのは、自分たちが愛情をもって育てた、真面目でおとなしい勤勉なはずの実の息子が、週に1コマ程度さえも授業に参加していないうえに、引きこもってインターネットばかりしていたせいで大学には友達がひとりもいない、という戦慄すべき真実だったのですから、この世界は残酷です。

そうです。

僕は大学から徒歩3分という素晴らしい立地で一人暮らしをさせてもらっていたにも関わらず、気温や湿度が絶妙なバランスを見せた時以外は授業に出ないという、フリースタイルの学生生活を実践していたクズだったのです。

そうして両親の逆鱗に触れた僕は、一人暮らしという特権を奪われ、大学生活5年目は片道2時間かかる実家からの通学を余儀なくされました。当然実家だと通学していないとバレバレですし、インターネット以外にコミュニティを持たない僕には、サボるための場所さえありません。自然と僕は、毎日授業に出る真面目な学生の姿を取り戻していきました。

その一方で僕を苦しめたのは、両親、特に母親からの、就職はどうするの!? 攻撃でした。

この攻撃は本当に執拗で、「AV女優のブログを日々熟読しておくことで、作品鑑賞時に日常とのギャップを想像して通常の数倍の興奮を得る」という、HUNTER×HUNTERで言うところの制約と誓約に基づく特技を持つ僕ですらも精神を病む寸前であったといいます。

ですが僕にできることといえば、一流大手企業からのオファーを待ってメールの受信ボックスを狂ったようにリロードし続けることしかありません。

早く……! 早く僕という存在に気づいてくれ各企業の人事担当者!! このままじゃ僕は……、

実の母親に殺される……!!

べジータ戦で悟空を待つクリリンのごとく、焦燥に駆られながらメールを待つ日々……。やむことのない母の怒声と、時折聞こえてくる嗚咽……。

いよいよ精神が擦り切れていくのを感じながら、ある日ついに僕は気づきました。

これ、もしかして、いくらインターネットで文章を書いたりして多少の支持を得たところで、就職には特につながっていない……?

ここに至り僕はようやく、大学生活の4年間インターネットで文章を書き続けてきたのは単なる時間の浪費だった、という皆さんからすると、「いや、それって当たり前では……?」級の真実をようやく理解すると同時に、この就職しろ攻撃の地獄から逃れるためには自ら動くしかないということを悟ったのです。

しかし、そうは言っても困った。

そもそも悟るのが遅すぎですし、それに加えて僕は、自分から就職することなんて一切考えていなかった身ですから、いったい自分が何をしたいのかということすらわかりません。

これを知らない人に言うと、いつも「そういうウソによるかまってちゃんアピール、マジでいいんで」みたいな顔をされるのですが、僕は「桃鉄」を人間1人(自分)とCPU3人で99年対戦し、その様子を淡々とインターネット上に記載し続けていたという悟りの境地のような過去を持つ男です。「桃鉄」はめちゃくちゃ得意ですので、「社長」は明らかに向いてると思うのだが?

そんなことを思うのですが、丸紅から「社長になってください」というメールが届く気配はありません。かと言って、やりたくもない仕事で妥協するなんてまっぴらです。きっと、こんな僕でも何かしたいことはあるはず。考えるんだ。これまで僕は人生で、どんな夢を思い描いてきた?

そうして幼い頃からの記憶をたどる中で、そういえば僕には昔から大好きなゲームメーカーがあったのを思い出しました。これや! これやんけ! ゲーム開発の仕事なら楽しそう!

いそいそとその会社の公式サイトを開き、新卒の求人情報を開きます。ですが……。

「あれ? 募集がもう終わってる……?」

季節はすでに、初夏を迎えようとしていました。

そう、この時僕は初めて、就活とは、卒業する年ではなく、その前年の後半にはもうスタートしているものということを知ったのです。

憧れのゲームメーカーへの就職に2秒で失敗する僕。そもそものスタートラインに立つことすら失敗していたことを知り、一気にやる気を失います。

失意に陥ったその時、パソコンの画面でメッセンジャーのアイコンがチカチカと点滅していることに気づきました。ネットの知人が話しかけてきたのです。

あれ、でもおかしいな。今日は平日。僕はたまたま授業がない日だったので家にいますが、この人は社会人だったはずだけど……。

「今日は会社は休みなんですか?」

「いや、俺はシステムエンジニアだからね。SEだと、仕事中でもネットし放題なんだよ」

これや!!

仕事中でもネットし放題。この言葉で、僕は自分の未来が決まったことを確信しました。

仕事しながらネットができるだなんて、なんと素晴らしい環境だろう。僕も仕事しながらネットがしたい。というかむしろ、ネットの片手間に仕事をするくらいの心構えで業務に臨みたい。

ちなみに僕は留年するほどインターネットに夢中でしたが、ITリテラシーは極端に低く、日々のネットサーフィンで獲得したスキルは、良質な無料エロ動画サイトを検索する能力くらいでした。ウイルス的なものに感染して200ドルくらい払いそうになったこともありつつ得たこの“力”を僕は誇りに思っていましたが、まあたぶん、仕事では役に立たないでしょう。

ですので当然プログラムとかもは1ミリも知りませんでしたが、まあそういうのはきっとなんとかなりますしね!

そうと決まれば早速、ということで僕は、就活サイトでアカウントを作成しました。

就活サイトの具体名を伏せますが、使ったのはまあ皆さんご存知のリクなんちゃらっつーあそこです。あそこにアカウントを登録して、「システムエンジニア」というキーワードで検索をかけました。

先ほどのゲームメーカーのような、僕でも知っている有名企業はどこも募集を締め切ってしまっていましたが、聞いたことのないIT企業であればまだまだ求人中だったので、それらに片っ端からエントリーをしていきます。これにより、企業側の説明会に参加でき、書類選考が受けられるという仕組みなのです。

こうしていよいよ、僕の就職活動が本格的にスタートしました。大学生活と並行して、スーツ姿で説明会を巡る日々。

あっという間に20社ほどを回りましたが、いまだに1社も書類選考を突破しません。

まあ聞くところによると、100社とか受ける人もざらにいるらしいですしね? きっと就活とは、基本的にこういう地道なものなのでしょう。

僕はなぜ書類選考が通らないのか、などということは深く気にせず、「100社くらい受けたら、なんか知らんけどそのうち採用されるだろ理論」を掲げ、元気よく活動を続けました。

ですがそんなある日、説明会で出会った他校の学生たちが、僕のほうをちらちらと盗み見ながらひそひそと何かささやいていることに気づきます。

僕は基本的に、世間の人たちは全員、常に僕のことを見て嘲笑(あざわら)っていると思って生きていますが、インターネットによると「それは単なるあなただけの妄想に過ぎないですし世間はそんなにあなたのことになど注目していません」という情報も同時に得ていましたので、これもきっとその類に違いない。世間は僕になんて興味がない興味がない……。

そう思い込んで視線を振り払おうとしました。ですが、今回ばかりは違う。これは明らかに僕を見て、僕のことを話している。

「あの、何か……?」

耐えきれなくなった僕は、知らない人に話しかけてはいけないという祖母の教えを破り、他校の学生たちに思わず声をかけていました。

そうすると彼らは、何やら気まずそうにぼそぼそと答えます。

「あ、いや、そんな髪の色で就活している人に出会ったの初めてだから、ちょっと驚いて……」

髪?

その頃の僕は、頭髪をほぼ赤と言ってもいい派手目のカラーにしていました。そうやって虚勢を張らなければ、この世界は僕が生きていくにはあまりにも冷たく厳しかったからです。それにあと「赤い髪」は、主に中二病的なオタクが好んで選ぶ色であり、オシャレというよりはむしろ痛々しいだけというのも重要な点です。

ですが確かに、周りにいる説明会の参加者たちを見てみると、そんな色の髪の毛の学生はいません。茶髪すらいない……。

なんだか自分が場違いな存在に思えてきて、少し不安になりながら、僕はその人たちに尋ねました。

「まずいですかねこの色? 受からないとかあります?」

「いや、絶対に受かるわけないよ!!!」

そんなに力強く!?

絶対、という言葉の重さに僕は驚愕します。

想定していた回答としては、「ちょっとまずいかもしれないですね」とか「確かに気にする人もいるかもしれませんね」「黒髪のほうが無難かも」ぐらいの温度感だったのに、彼から出た言葉は「絶対」「絶対受かるわけがない」。

同時に、この人が急にタメ口になっているところも見逃せないポイントです。初対面にも関わらず、いきなりタメ口で「お前なんて受かるわけない宣言」をされるこの感覚は、なんというか、見下されている。

就活というステージにおいて、髪を染めていてはいけないという常識すら知らないうえに、口を半開きにして魂が抜けたような呆けた顔で説明会を受けていたこの僕のことを、自分より劣った人間だと決めつけて、即座に「こいつにはタメ口で十分」と判断した、その思考の過程が手に取るようにわかる!

まあそれは事実だからどうでもいいのですが、しかし何ですか就活って。髪を染めてたら絶対受からない? なにそれ? 結局見た目ですか。やっぱりここでも、人は見た目が9割理論ですか。

こう言っちゃなんですが、僕は就活のこういうところが一番嫌いなんですよ。そうじゃないだろ? 髪を染めてたら何だっていうの? そんなことよりも、もっと僕の内面を見てくれよ。髪の色なんかにごまかされてないで、本質を、見極めてくれよ?

そもそも僕は、本当は柔道着で就活に臨もうと考えていたくらいなのです。みんなが同じような就活スーツを着て、個性も何もない学生たちを見て楽しいか人事担当者ども!! 僕はそんなルールには縛られない!! この柔道着が僕にとっての正装なんだ!! だったらその僕を見て、判断して、そして採用しろよ!? 人と人との本質的なつながりって、結局そういうことなんじゃないのか!?

という熱い思いを持っていたのですが、よく考えると僕は柔道を一度もやったことがない、っていうかそもそもルールすら知らなかったし、どこに行けば柔道着が買えるのかもわからなかったので、それはまあ勘弁してやるよ……とぶつぶつ一人で不気味につぶやきながら、結局他の人と同じように就活スーツを買いに行ったというエピソードがあります。

なのでまあ、ついでに髪も黒くしてしまってもいいかな……。よく考えたらそんなにこの髪の色に強い思い入れがあるわけでもないし、まあ、そろそろ黒くしようかと思ってた時期だしね……。

早速翌日には美容院に行って、髪を真っ黒に染めました。世間のしきたりとかマナーとかに無意味に反抗心を持つくせに、実際にはプライドも何もなくわりとすぐ従順になるのは僕の良い点のひとつなのです。

とは言え、髪を黒くしただけでそう簡単に何かが変わるはずはありません。まだ20社くらいしか受けていないという状況には変わりありませんし、一度も書類選考に受かったことがないから、面接の経験だってない。

7月に突入し、就活サイト上でも求人している企業の数は明らかに減ってきていました。

こんなペースで本当に就職できるのか……? さすがの僕にも、少しばかり焦りが出てきた……と思ったのも束の間。なんと髪を黒くしたらその次に説明会に行った企業から、あっさり書類選考突破の通知が。

やっぱ髪だよなー!! 髪だけだったわ、問題は!! こんなことなら、もっとさっさと黒くしとけばよかった! ありがとう、他校の学生たち!!

人間とは現金なもので、髪の色で内面を見てくれないことへの怒りなどは即座になくなっていました。そもそも、企業だって取りたくないですよね。赤い髪で説明会に来るようなヤツなんて。

書類選考突破のお知らせメールによると、このあと4回の面接があり、それが終われば晴れて採用らしいです。4回も色んな人と話をしなければいけないという厳しすぎる現実に目の前がくらくらしますが、自分でも意外なことに心無い言葉で口から出任せを言うことだけは得意だったらしく、なんと1回目の面接はあっさり合格。続く2回目の面接も、終始良い雰囲気で終えることができました。

これはもしかするとこのまま合格しちゃうかもな……? そんなふうに浮かれながら3回目の面接を待つ僕に、ある日、その企業から突然電話がかかってきました。

これまで連絡はメールだけだったので、唐突な事態に焦る僕。あれ? 何かやばいことしちゃったかな……??

「あ、ど、どうも。え、えーと、何かありました? へへへ……」

動揺のあまり思わず卑屈な笑みを漏らしながら、必死の電話応対です。

「どうも、お世話になっております。人事の花岡です。これまで2回の面接、お疲れさまです」

「は、はい。あ、いえいえ……。次の面接は、まだもう少し先ですよね……?」

もしかして3回目の面接の日付を勘違いしてしまったりしていたかな、と焦り、電話しながらカレンダーを確かめるも、間違っているわけではなさそうです。

「そこなんですが、これまで2回の面接が非常に優秀な結果だったんです。ですので、残り2回の面接はカットしてもう合格とさせていただこうかなと」

え、なにそれ!? そんな飛び級みたいなのあるの!?

「い、いいんですか? 合格ということは、つ、つまり……?」

「はい、採用です」

マジか! 確か残っているのは、役員や社長との面接のはずだけど、カットしてしまっていいのかそれ!! 社長との面接をカットして採用してしまうくらい、優秀だったのか僕は……!!!

「このあとお送りする書類にご署名頂いたら、正式に内定という形になります」

「は、はいいいい。あ、あ、あ、あの、ありがとうございます!!」

電話を切った後も、しばし呆然とする僕。採用です、という言葉が頭の中で残響しますが、それを実感するにはしばらく時間を要しました。

採用。内定。

残り2回の面接はカット。

つまり僕はもう、「最終面接まで進んだのに不合格になってしまった」「死ぬほど長いエントリーシートをまた何枚も出す」といったプレッシャーからは解き放たれ、見事内定を勝ち取ったということになるのです。実質、髪を黒くしただけで。

きっと、あの他校の学生たちは、タイミング的に考えてまだ就活中のはずです。なのに見下されていた僕は、もう取ってしまった。内定を。髪を黒くした、その次の瞬間に。

「やっぱ髪だよなー!!」

人は見た目が9割!!!

この理論を、ずっと胸に刻み付けてこれからの人生を歩んでいこう。そんな誓いを立てつつ、僕は自室で小躍りしました。

そうして浮かれ続けることしばし。

ようやく色々なことが考えられるほどには落ち着いてきた僕は、今後の人生について想像してみることにしました。採用された企業で、来年の4月から僕は働く。そこでは、仕事をしながらネットをする。何しろシステムエンジニアなのだから、日中からネットをする。

それでたまに仕事もして……またネットを……。あれ、いや待てよ、仕事……? そういえば僕は、どんな仕事をするのだろう?

システムエンジニアということで、何かまあパソコンをカチャカチャするのだろうということはわかりますが、具体的には何をするのかがまったくわかりません。ついでに言うと、給料をいくらくれるのかも知らない。

そうです。僕は志望企業を、就活サイトで表示されるリストで上から順番に適当に選んだだけに過ぎず、その仕事内容や待遇についてはマジで何ひとつ目を通していなかったのです。

今考えると、よくこんなので面接が通ったなと思いますが、それでも社長面接をカットするくらいの好成績を叩き出すわけですから、ずば抜けた自分の才覚には恐れ入ります。それにまあ、その企業のことを何も知らずに面接を受けるというラフさが、却ってリラックスした空気を醸し出し、円滑に面接を進められたという可能性すらあります。

「それじゃあまあ、調べてみますかね。この僕を採用した、先見の明のある会社について」

キモオタ特有の自画自賛系独り言をPC前で繰り出しながら、早速googleにアクセス。受かった会社の名前をカタカタと入力して、エンター。検索開始です。

これで、その会社の公式サイトが検索結果に表示され、僕は会社の情報を手にする。ただそれだけのことのはずでした。

しかし……。

「あれ、何だこれ? 2ちゃんねる……?」

検索結果の最初に表示されたのは、会社の公式サイトではなく、なぜか巨大匿名掲示板の2ちゃんねるのひとつのスレッドでした。

え? なんで? 会社名だけ入れて検索したのに、なんで公式サイトよりも2ちゃんねるが上位に出てくる……??

直感的に、何か嫌な予感がしました。いつの間にか、先ほどまでの浮かれた空気はすっかり消え、代わりに辺りを支配するのは、冷たく重い澱み……。背中を伝う一筋の汗……。

だって、検索結果の2ちゃんねるのスレッド名には、こう書かれていたんです。

「ブラック企業偏差値ランキングスレッド」

え…? え……??

震える手で、「ブラック企業偏差値ランキングスレッド」と書かれたそのリンクをクリック。

表示されたページにまとめられていたのは、ブラック企業としての「偏差値」とそれに該当する企業の名前――。

僕が、僕がたった今採用されたあの会社は……? まさかここに……??

視線をゆっくりと動かしていきます。

偏差値は上位から順に書かれており、そして、僕が自分の会社を見つけるまで時間は少しもかかりませんでした。だって……。

「へ、偏差値72……!?」

エリートでした。僕が採用された会社は、偏差値72の、大学で言うと東京大学クラスの名門として、ランキングの最上位グループに堂々と君臨していたのです。

「あ、あわわわわわ………」

当時は、今ほどブラック企業という言葉は一般的ではありませんでした。ですが、言葉の響きからまともでないことはわかります。それこそ、こんなスレッドがわざわざまとめられて、注意が促されるほどには。

その中でも、偏差値72……。ブラック企業界の名門中の名門……。

そ、そんなバカな!

確かに僕は就活を死ぬほど舐めてましたし、びっくりするほど適当にこなしました。

僕がやったことと言えば、せいぜい髪の毛を黒く染めたくらいのことです。会社の公式サイトですら内定をもらうまで一回も開いたことはありませんでした。というか今この時点ですら、2ちゃんねるに辿り着いたせいでまだ公式サイトを開いていない。

だとしても、72は!

そんなすごいところにぶち当たってしまうだなんて、いくらなんでもそれはひどくないですか! 神様!! 星の数ほどある企業の中で、よりによって72は!!

他校の学生たちの顔が、再び脳裏によぎります。ああ……。彼らは、こうならないように一生懸命就活を頑張っていたんだな……。なのに僕は、「内定」という言葉だけで判断して、一人で浮かれて……。

冷静に考えると、社長面接のカットもまともじゃない気がしてきました。きっと、ブラック企業偏差値72ということに気づいていないアホな学生にはさっさと内定を出して、逃げられないようにしているのでしょう。だって、会社名で検索するだけでわかるのですから。

対象は、それすらもできない、怠惰で無能な人間――つまり、僕のような。

だが……! だが僕は今、気づいてしまったぞ!! ギリギリだけど、それでも気づいた!!

どうする!? ここが分水嶺だ。このままこの悪徳企業に入社してしまったらやつらの思うつぼだが、内定を承諾する前に気づくことができたんだから、今のうちに辞退してしまえばいい。

やつらはきっと歯ぎしりすることでしょう。ああ、気づかれてしまったか。と。そして同時に思うことでしょう。「まあ、ググれば出るもんな」とも。

思えば、前述の「無料エロ動画巡り」か「AV女優のブログ熟読」ぐらいでしか活用していなかったインターネットだけど、やっていて本当に良かった。お母さん、僕を他の人よりも5倍ぐらい性欲旺盛な人間に産んでくれてありがとう……!

そしてついでに、何も知らないまま入社という最悪の事態になる前に、せめて検索をするというギリギリの脳味噌も与えてくれてありがとう……!!

しかし、ブラック企業――聞きなれない言葉ではあるが、何とも邪悪な響きだ。

念のため、この「ブラック企業」という言葉についても調べてみることにしました。

ブラック企業の定義

  • 過労死する。具体的には社風として残業するのが当たり前、休日返上当たり前
  • その割に給料がめちゃめちゃ安い
  • 入社後3年以内の離職率が高い
  • 誰でも覚えられる低レベルな仕事が多く、スキルが身につかない

最悪やんけ!!

しかも、その中でも偏差値は72。環境の過酷さは、国内でも有数ということになります。

これらの情報を得た僕が、今取るべき選択肢は……進むべき道は……!! 偏差値72……面接カットでの採用……それらの悪魔的で狡猾な罠の前に、僕が出した答えは……!!

「まあ、別にいいか」

すいません。本当にすいません。僕のようなやつがいるから、こんなにもわかりやすいブラック企業ですら、倒産することはなく毎年新卒社員という名の奴隷を採用することができてしまうんです。

でも、だって、もう面倒だったんです。もう一度企業を探して、説明会に出て、面接を何度も受けるなんてことは。僕には。だって、髪を黒く染めたんですよ!? じゃあ、もうそれで十分じゃないですか……。採用されたんだから、それでもういいじゃないですか……。

自室を出て、僕は母親がいるリビングに向かいました。

「母さん、聞いて。内定が出たよ。受かったんだよ」

「え!? 本当に!!? 採用してもらえたの!!!???」

ほら、母さんだって喜んでいる。飛び上がらんばかりに、喜んでいる。

このままもう無職になるしかないと思っていた息子に就職が決まったんだ。だったら僕には、その喜びを奪うことなんてできない。母さんが喜んでくれている。これ以上、望むことなんて何がある?

「良かった! 本当に良かった!!」

涙を流し、狂ったように喜びの声を上げ続ける母。僕はその時、生まれて初めて、親孝行ができた気がしました。

これでいい。これでいいんだ。ブラック企業――偏差値72――。僕の人生は、これでいいんだ。

いろいろな言い訳を並べましたが、ただただ僕はすべてが面倒なだけでした。結局のところ僕は、人生の、その全てを舐めていたのです。こうして僕は、偏差値72のブラック企業からの内定を受諾しました。

この先に何があるのか、そんなことすら考えるのも面倒で。ただ、就活が終わって、母親からうるさく言われなくなったことに満足した僕は、またインターネットの世界に戻っていくのでした――。

02:ブラック企業は内定式にも罠を仕掛ける

かくして、2ちゃんねる有志判定によるところのブラック企業偏差値72という他に類を見ない希少なブランドを持つ会社の内定をゲットした僕は、特に思い悩むこともなく日々を過ごしていました。

就職は決まったのだから、あとは大学を無事に卒業しさえすれば、来年からはまた実家を出て一人暮らしの生活に戻れます。何者にも縛られることなく思うがままに、だらけきった生活を送る日々――。それを想像することはとても魅力的で、自分が入社する会社がいかにヤバそうかなどということはすぐにどうでもよくなりました。

そして内定を承諾した日以来、ネットでブラック企業というキーワードや、その会社自体のことについてあれこれ調べるのはやめにしました。何か想像を超えるようなとんでもない情報を見てしまうことで、自分の選んだ道が間違っているんじゃないかと(実際には完全に間違えているのですが)考えるようになってしまうことが怖かったからです。

そうこうしている間に、季節はすっかり秋になっていました。社会人になるまで残り半年を切ろうとしていましたが、それよりも僕は大学5年生にして卒業に単位が足りるかどうかの瀬戸際だったため、これまでの失われた4年間を取り戻すべく大学に足しげく通い続ける日々を送っていました。

誰とも会話したり目を合わせたりすることもなく、ただ授業に出て無言で帰宅する日々は修行僧のような苦行を思わせ、時に狂いそうになることもありましたが、これまでの人生で一番真面目に生きていた瞬間であったことは事実です。

そんなある日、久しぶりに内定した会社からメールが届きました。

「なになに? 内定式開催のご案内……?」

聡明な皆様におかれましては説明の必要はないかもしれませんが、なんかまあ、内定が決まった学生たちを一堂に集めて何やら式典が催されるようです。一説によると、この前僕が承諾したのはあくまで内々定というものであり、正式な内定承諾は実際にはこの式で書面にサインすることで完了に至るのだとか。

でもまあ、一度決めた意思を今さら曲げる気はないので、その辺はもうどうでもいいのです。

それよりも僕は、世間の他の企業と同様に内定式というものを自分の会社が開いてくれることを嬉しく思いました。

なんかブラック企業とかいって、結構ちゃんとしてんじゃん!? メールで届く文面も丁寧だし、今のところおかしなところは何もない。

結局、2ちゃんねるのやつらがどこかで聞いた噂を鵜呑みにして、無責任に騒いでただけということではないでしょうか。むしろ、本当は完全なホワイト企業なのに、志望者がライバルを減らすために72という偏差値を設定したのかもしれません。

「なるほど……! 策士め! 頭いいなあ……!」

僕はこの情報化社会に生きる者の一人として、あっさりとインターネットの書き込みを信じてしまったことを少し恥ずかしく思いました。

内定式は、会社が入居している雑居ビル内の一室で執り行われました。参加者は僕以外にも、数名の男女がいます。

ほんの数行少し前に、「あっさりとインターネットの書き込みを信じてしまって恥ずかしい」などと書いたとは言え、やはり、ブラック企業偏差値72なんて書かれている会社にわざわざ就職することは普通避けるでしょう。つまりここにいるのは全員、完全に頭がおかしい、もしくは異常なまでの情弱ということになります。(自分含む)

そんな国内でも選りすぐりの情弱……まあ、言ってしまえばバカである僕たちを集めた内定式は、粛々と進行していきました。何かエラい人たちが色々話していたような気もしますが、僕はバカなのでよく覚えていません。

ただそれよりも僕には、ひとつ気懸りなことがありました。開始時点からずっと、何かこの式全体に対し、違和感のようなものを感じるのです。それが何なのかはハッキリとはしないのですが、でも何かがおかしい。変だ。

言葉に表せない不気味な感触を抱いたまま、僕は違和感の正体を探ることに神経を集中させました。考えろ、考えるんだ。きっとどこかにヒントが転がっているはずだ。おかしなものは、チリひとつ見逃すな……。

他の人たちはその違和感に気づいていないのか、変わった様子は見られません。

ですが、これが気のせいということは絶対にありません。何かが、おかしい。

僕はさらに集中を高めることで、自分の感覚が研ぎ澄まされたナイフのように鋭敏になっていくのを感じました。

何しろ僕は、就活を始める前は探偵になろうと思って、探偵専門学校の資料を取り寄せたほどの男です(学費は2カ月で40万円。後に、その学校の講師のほとんどが前科者であることを知って入学はやめました)。ですので、こういう時の推理力、洞察力は異様なまでに高いのです。

ですが結局、内定承諾書を手渡される段階になっても僕は真相にはたどりつけずにいました。

あとはこの紙にサインさえしてしまえば、今日の式は無事終了。この場はお開きということになります。だけど、ダメだそれじゃ……! 何がおかしいのかさえ気がつかないまま終わってしまうなんて、そんなの……!!

落ち着け。息をゆっくり吸って、視界を広げ、俯瞰して状況を見るんだ。会議室の前方にあるホワイトボードには、「〇〇株式会社 2006年度内定式」の文字。立ち並ぶ数人の社員、役員連中。そして周りの席を埋める国内有数のバカたち――。さらに僕の目の前には、今手渡されたばかりの内定承諾書があって、そしてそこにも「〇〇株式会社」の文字が……

って、あ!!!?

あーー!!!

つ、ついに僕はその時、気づいてしまったのです! 自分が何に違和感を感じていたのか! その正体に!!!

「こ、これ、この会社名……! この会社名は……!!!」

こんなことが本当にあるのかな、と思いました。そして僕が心配なのは、今からお伝えすることがあまりにも突拍子もなさすぎて、皆さんに嘘つき扱いされてしまうんじゃないかということです。

だけど、それは確かに現実で。だから僕は、思わず叫ぶしかなかったのです。

「僕が受かった会社の名前と違う!!!!?」

そう。違和感の正体はこれでした。

なんと、今僕が出席している内定式は、僕が面接を受けて、採用通知の連絡を受けたあの会社の名前とは別物なのです。あまりにもわかりやすすぎる違和感でしたが、堂々としすぎている分、盲点でしたし、国内有数のバカである僕には難問とも言えました。

え、でも、こ、こんなことって。こんなことってあるかな? 内定式に行ったら、別の名前の会社の式典だったなんて、こんなことあるかな?

厳密には、まったく異なる名前というわけではありません。ただ、僕が受かった会社は漢字の名前だったのに、読み方は一緒だけどそれが完全にカタカナになって、さらに末尾に変な言葉がついています。

これは単なる例ですが、たとえば、「武田薬品」に受かったのに、「タケダチェーン」という名前の会社の内定式に出席してしまっているという、わかりやすく言うとそんな状況です。

いや、同じ武田だから別にいいのか? こういう、振り分け……? のようなものは、世間一般ではよく行われているものなのか??

僕には何もわかりませんでした。だって国内有数のバカだったから。就活を、死ぬほど適当にやってしまっていたから。

けれどもし、世間では面接時と違う会社に勝手に入社させることは通常行っておらず、これが異常な事態なのだとしたら、さすがにこれを看過してしまうのはまずいんじゃないのか? ブラック企業とはいえ、僕が自分で選んだ会社が、よくわからない力によってさらに別の会社にされようとしているのは、これはもう「罪」なんじゃないか?

心が決まりました。

周囲の内定者たちが何の疑問も持たずに承諾書にサインしていることに恐怖を覚えながら、僕はおずおずと手を挙げました。

「あ、あの……ちょっといいでしょうか……?」

「はい、どうしました?」

人事の担当者が、眉をしかめて僕に問いかけます。

「そ、そのですね……。ぼ、僕は……僕たちは、その……」

「はい?」

「なんという会社に採用されたのでしょうか……???!」

冷静に考えると、内定式で繰り出すものとしては最上級に意味のわからない類の質問になっている気がしますが、その担当者は顔色ひとつ変えずに承諾書を指して言いました。

「そこに書いてあるでしょう」

「で、ですが、なんというか、面接を受けた時と会社名が変わっているような……気がして……」

男が、ニヤリと笑ったような気がしました。ほう、気づいたか。とでも言いたげに。

バカの中でも、お前はまだ「まともなバカ」だ。そんな顔で、しかし彼は言いました。

「いえ、最初からずっとこの名前ですよ」

そう、ですか……。

力なく呟き、僕は視線を承諾書に落としました。

そう、なのかな……。僕がバカだからわからなくなっているだけで、本当は最初からこの名前だったのかな……。そもそも僕は、就活サイトで会社を探した時も名前すら見ずに登録してしまって、そのあともずっと確かめることもしなかったから、そこまで言われると自信がなくなってきて、もう何もわからなくなってきた……。僕は一体、本当は何という会社を受けていたのかな……。

「さて皆さん、承諾書へのサインは終わったでしょうか」

男が煽るように言います。僕以外の全員は、もうすでに記入して、押印もすませてしまっていたようでした。

ダメだ、わからない。。なんだか酷く頭が痛い。記憶が混濁して、何が本当で何がウソかがわからなくなっている。だけど、確かに漢字の名前の会社だったんだ。それだけは、間違えていないはずだ。でも、でもこの会社は、すべてがカタカナなんだ――!

「さあ、いいですか。承諾書を回収しますよ」

タイムリミットが近づいていました。

今ならまだ間に合います。少しでも不審な点があるのであれば、サインは避けるべきだ。

ただでさえブラック企業偏差値72という疑いがあるのに、もし僕の記憶に間違いがないんだったら、理由はわからないけれど詐欺のような行為を受けていることになる。

こんな会社には、自分が信頼できないような会社には、入るべきではない。

「さあ、紙を――」

人事の男の手が迫ります。ここだ。また僕は、人生の分水嶺を迎えようとしている。

漢字の会社名……カタカナの会社名……ブラック企業偏差値72……。最初からずっと、この会社名でしたよ。最初から、ずっと。

さまざまな情報が頭の中を駆け巡り、ガンガンと激しく痛みます。こめかみを押さえながら、僕は必死に思考を巡らせました。ほんの一瞬のことだったはずなのに、それは永遠にも似た時間のように感じられて。そうしてようやく僕は、ついにひとつの答えを出したのです――。

「まあ、別にいいか」

すいません。本当にすいません。もしかしたら僕は、目の前で行われている犯罪行為をあっさり見過ごしてしまったのかもしれません。

ですが大げさに悩んでみたものの、冷静に考えたら、たかが名前ですしね!?

一応、会社名が違ったとしたら何か問題があるのかな? ということも考えてみましたが、特に気になるポイントは見当たりませんでした。元々知らない会社の名前がさらに知らない名前に変わっただけの話ですし。あとむしろ、カタカナのほうが書く時に楽だ。

いったん決めてしまうと、頭痛はウソのように引いていき、僕は晴れやかな気持ちで内定承諾書にサインをしました。人事の担当の人も、嬉しそうな表情でそれを受け取ってくれました。ありがとうございます! 来年からお世話になりまっす!!

帰宅後、面接の時にやり取りしたメールや書面などを色々と引っ張り出して確かめましたが、やはり会社名は漢字でした。よかった。僕の記憶は間違えていなかった。でもどうして、こんな回りくどいことをしたのだろう……?

これは後にわかったことです。

僕が面接を受けた会社――「漢字名」のほうは、かつては自社の工業製品を持つメーカーで、中堅どころのそれなりの会社でした。ですが次第にその製品は売れなくなり、色々あってIT会社に買収されました。その時にできたのが、「カタカナ名」の会社です。

そうなった時点で、「漢字名」の会社のほうは、ほとんどもう運営停止状態でした。ですが、かつてその会社が自社製品を持つメーカーであったということは事実です。そして当時は、怪しいIT会社と比較すると、メーカーを志望する学生のほうが圧倒的に多かったのです。

やはり、自分の会社でモノを作っているほうが安心できますし、ITなんて今に比べればずっと地位が低かったのです。今回の件は、そこに仕掛けられた罠でした。

すでに運営停止状態の「漢字」のほうで、あたかもまだ自社で製品を作っているかのように求人広告を出す。そしてそれを見て、メーカーだと思って面接に来た学生を、そのままIT会社である「カタカナ」のほうに送り込む。まともな学生は、その過程で気づいてとっくに辞退しています。

実際、この手口自体はネットではもう周知の事実だったのか、僕が「漢字名」で検索した時も、ブラック企業としてヒットしたわけですしね。ですから最終的に残るのは、内定式で会社名が変わっていることにすら気づいていない、なんというかまあ、国内有数のバカだけです。

けれどこの時の僕は結局、そんなことはわかっていなかったし、「メーカー」というのも「会社」という意味だと思っていたほどです。彼らの狡猾な罠にひとつ穴があったとしたら、「メーカー」というウソの餌すら認知できていないレベルのバカがいたということでしょうか。

とは言え、自分の記憶がおかしくなかったことを確かめられた僕は、内定式も無事に乗り越えられてやり遂げた気持ちでした。あとはもう、大学の単位を卒業に必要な分だけ集めたら、来年からは予定通り、都会での一人暮らしに舞い戻ることができます。

記憶が正しかったことが証明できたということは、すなわち彼らが自分を騙したことは決定的になったわけですが、でもやっぱりそんなことは僕にとってはどうでもよかったのです。仕事とかいってまあ、どうせネットしながら適当にやるだけですしね!

そうして僕は人生を舐め切ったまま、2006年3月、ひとつでも単位を落としたら再度留年、というギリギリの状態で何とか卒業に成功。季節は春。遂に僕は、社会人としての輝かしい一歩を踏み出すことになるのです――。

03:ブラック企業における自己紹介は何かが壊れていた

「じゃあ、このVisualStudioというソフトをパソコンにインストールして」

2006年4月、僕の社会人生活が幕を開けました。こぢんまりとした雑居ビルの一室、新人たちには小さな机とパソコンが貸与されました。これからしばらくは、プログラムの研修を受ける日々が始まります。

ブラック企業に就職してしまった僕ではありましたが、この辺はおそらく普通の企業とさほど変わりないことでしょう。

部長の簡単な挨拶のあと、プログラムを書くためのソフトをインストールするよう講師役の先輩社員の指示を受けながら、僕はほっと胸をなでおろしていました。研修制度も充実してるし、なかなかどうしていい会社じゃないか。

「このディスクをパソコンに入れてインストールするんだ」

手渡されたソフトは、海賊版でした。

CD-Rにマジックペンで「Visual Studio」と殴り書きされたそれは、誰がどう見ても一目で海賊版とわかる代物でした。ですが、ナチュラルに別会社に入社させられるという目にあってる僕からすると、もはやこれくらいのコンプライアンス違反では動じることはありません。

「よし、ウイルス対策ソフトも入れよう。まずは無料版をインストールして」

なるほど、セキュリティにもちゃんと気をつかっている。正直、そんなものはガバガバだと思っていたので、これまた意外な展開です。

「次に、このファイルで、パソコンの中にあるウイルス対策ソフトの設定ファイルを書き換えるんだ」

インストールが完了すると、先輩の口からなんだかプログラマっぽい指令が飛び出します。

設定ファイルの書き換え! なんかかっこいい! これをすると、何が一体どうなるんだ?

「2047年まで、ソフトのライセンスが有効になる」

違法のチートコードでした。

いやちょっと待ってください皆さん。さっきの海賊版からの一連の流れを見てドン引き……もしくは、これ犯罪告白じゃね? 通報します! というテンションになっておられる方もいらっしゃるかもしれませんが、ちょっと待ってくださいよ。

こう言ったら何ですが、僕だって被害者ですからね!?

だって無理じゃないですか! いますか!? 入社初日にインストールしろと言われたソフトが海賊版や違法チート版だとして、許せん! という気持ちになりこそすれ、正義感を振りかざしていきなり上司の目の前でディスクを叩き割れるような人、この中にいますか!?

それに自分を擁護するわけではないですが、この時の僕は、いや、僕たち新入社員はあまりにもバカでした。今からプログラマになろうというのに、ITリテラシーなど微塵もなく。

この時も僕は、実際に延長にされた期限を見て、うわ、なんかわかんないけどマジで延びた!? プログラマやべえ! と無邪気に感心していたくらいです。(ちなみに後に、そのチートコードは海賊版サイトから手に入れただけのものであることが発覚し、特にこの会社の技術力がすごいわけではないことを知りました)

社会人として多少経験を積んだ今なら、この行為がいかに下劣で許しがたく、反社会的なことなのか当然理解できます。この点では、やはりブラック企業はめちゃくちゃでした。

だけどこの時集められていた僕たちは、そんな善悪の区別すらつけられないようなどうしようもないボンクラばかりだったのです……。

つまり何が言いたいのかというと、皆様におかれましては何とぞ、そういう通報? みたいなのはどうかご勘弁頂けないでしょうか……。僕も今この場を借りて、こうやって勇気を出して時を越えた過去の内部告発をしているわけですし……。

とまあ、そんな保険もかけたところで、話を進めます。

前述の通り、僕だけではなく、こんな会社に入ってしまった同期の連中も当然どうしようもないボンクラである――このことは、直後に訪れた同期社員同士での自己紹介タイムですぐに発覚しました。

「じゃあ、インストールの待ち時間を使ってお互いに自己紹介して。しばらくは自由に話してかまわない」

そんな指示が出て、僕たち新入社員たちは気まずそうに顔を見合わせました。こういう時、普通の会社であれば誰か仕切り屋の人が、じゃあここから時計回りに自己紹介しましょう! とかやってくれそうなものですが、そんな人は当然この場にはいません。

自然と、近くの席の人とだけお互いに自己紹介し合うという婚活パーティーのような状況になってしまいました。何組かのペアができ、皆互いに話し始めたので、取り残されてはやばい! と、僕も近くにいた女性に果敢に声をかけます。

あれ? というかそもそも、こんな人内定式にいたかな?

秋に開催された内定式では見た記憶がない顔だったため、お互いの名前を伝え終えたあと、僕はそのことを尋ねました。もしかすると、大学の行事などが忙しくて参加できてなかったのかもしれません。

「ううん。そうじゃなくて、私まだその時ここに受かってなかったから」

あー、なるほど。そういうことか。でも、内定式は10月に開催されたのに、それよりも後のタイミングって遅すぎでは?

普通、就職活動ってよっぽどじゃない限り、その頃には終わっているはずです。そもそも内定式も開かれて、企業側だって募集を締め切るはず。不思議に思いながら僕は、いつ採用されたのかを尋ねました。

「3月」

数日前じゃん!!

なにそれ、この会社そんなギリギリまで募集かけてたの? いくらネットで悪評が高いからって必死すぎでは??

締切、という概念の無さに僕は驚愕するしかありません。

「っていうか私、大学でプログラムやってたんだよね」

尋ねもしないのに、女性は自己紹介を続けます。

「あ、そうなんだ。じゃあこんな研修楽勝なんじゃ?」

「ううん、全然わかんない」

じゃあなんでプログラムの経験があるとか言ってきたんだよ?!?! という内心のイライラを抑えながら、会話を続けます。

「だって大学の時は、周りの男の子が全部やってくれたから」

なんかムカつきませんこの女!!?!?

なんで他の男にやらせてるんだよ! 大学の課題ならちゃんとやれよ自分で!!

大学をさぼりまくった挙句親の金で留年した自分の所業は完全に棚に上げつつ、僕は正論を訴えました。それにそもそも、なんで周りの男たちはそんなに手伝ったんだ?

あまりにも不思議だったため苦労して話を聞き出していくうちにわかったのは、どうやら彼女が通っていたのは工業大学で、クラスに女性は彼女一人しかいなかったようなのです。

なので、周りの男子たちは皆一様にちやほやしてくれていたとのこと。

(ふむ、なるほどね)

僕たちの物語は、いつだって性欲から始まります。

彼女が今、大学で学んだはずのプログラムが一切わからないという残念な状況にあるのは、あわよくばという気持ちで課題を手伝った周りの男たちの問題でしょう。それでも僕は、顔も知らぬ工業大学の男子たちへの同情を禁じえませんでした。

だってそこに、女という性別の生き物がいる限り。

人は、性欲から逃れられない。

それは、生命が生まれ持つ業のようなものだ。それはとても儚く、そしてあまりにも哀しい――。

なんか彼女とこれ以上話してたら、僕もあわよくばこの女とやりたいと思っている男たちの一人と勘違いされかねないという誤解を生みそうだと思ったので、適当なところで切り上げ、次は男性メンバーと自己紹介をし合うことにしました。

ちょうど他の人と自己紹介し終えた様子の男性がいたため、声をかけて名乗ります。

「黒岩です。よろしく」

少々ぶっきらぼうに話す彼は、内定式でも見かけた記憶があります。いわば、別会社入社事件を共にくぐり抜けた戦友でもあるわけですから、彼とならば仲良くできるかもしれません。

ですが、このブラック企業においてそんな風に考える僕はまだまだ甘かったようです。

「俺の経験人数は、100人を超えてる」

まだ名乗っただけだというのに、突如黒岩君は、会社内での自己紹介という場にはあまりにもふさわしくない情報を僕に与えてきました。

「は、はい?」

そして得意気に口の端を歪めると、お前はせいぜい片手で数えられるほどか? と、値踏みするように僕を見てきます。

ニホンザルのような男でした。

経験人数という動物としての本能的な部分で優劣を競い、自分がここでのボスだ、とまるで縄張りを主張しているかのように。

ですが黒岩くんは失礼ながら、経験人数100人オーバーという言葉にはまったく似つかわしくない容姿――簡単に言うと、デブオタでした。その僕の疑念を感じ取ったのか、黒岩くんが続けます。

「いや、俺の大学って本当にバカ校でさ。女もバカしかいないから、頼めば絶対にやらせてくれるんだよ」

なにその楽園。そんなとこあるの日本に?

生まれ変わったら絶対行きたい、そう思って僕は黒岩くんに出身大学名を尋ねました。

失礼ながらそれは、僕がこれまで聞いたことのない大学でした。

「偏差値32。誰でも入れる最低のバカ校だよ」

自嘲気味に、ですがなぜか若干誇らしげに黒岩くんが言います。まるで、その偏差値の低いワイルドな部分さえ自分の武器だ、とでも言わんばかりに。

まだわずかに話しただけですが、なんとなく彼のヤバさの一端のようなものは理解することができました。なんと言いますか、一風変わった価値観を持つというか、もしくは誇大妄想癖っていうか……。何しろ彼の言葉はどれも、僕が今まで知っていた自己紹介とは微妙にズレていて、そのズレは生理的な恐怖すらもたらしていたからです。

でも結局、僕は気圧されていただけなのかもしれません。

経験人数100人オーバー。

その数値はあまりにもわかりやすく、僕と黒岩君の人間としての格の違いを教えてくれました。それを意識した途端、黒岩君に対し、萎縮してしゃべってしまっている自分を感じました。

そう、たったこれだけのことで僕ら2人の間での格付けは完了したのです。

「よし、じゃあそろそろ自己紹介タイムは終わりだ。席に戻って」

講師の指示が飛び、愕然としつつも、黒岩君との会話を切り上げて自席に戻る僕。

くそ…! そもそも、こいつが100人オーバーという証拠なんてどこにもないのに! ていうか絶対こいつの妄想なのに!!

けれどそれでも、自己紹介からのノータイムでの経験人数告白は、あまりにも破壊力の高すぎるコンボだったのです……。

「では、ここでひとつ君たちに仕事を与える」

自己紹介も終わり、またプログラム研修再開かと考えていた僕らに、講師社員が意外な言葉を放ちます。

「来週金曜日、君たち新人の歓迎会が開催される。その場で君たちにはひとつ、何か芸をしてもらいたい」

うわー、出た! なんか社会人っぽいやつ!

「今座っている席が近いメンバー同士でグループになって、グループごとに芸を発表するんだ。歓迎会までに、打ち合わせと練習をしておくこと!」

(あわわわわ、どうしよう。どうしよう!)

自己紹介で打ちのめされた矢先のこの絶望イベントの発表に、僕は動揺が隠しきれません。

人前で何かすることが極端に苦手というわけではないのですが、こういう、「どうあがいても絶対にスベる」系は無理です。

そもそもこれまでの人生でも、この手のイベントはすべて逃げてきた僕です。大学で入った部活動でも同様のノリが求められたため、「退部」という究極奥義を発動して、1週間に渡る部活動生活に終止符を打ったくらいです。

だからこういうのは無理、ホント無理。

何やっても絶対つまんないし、そもそも人と一緒に何かをするのがまず無理。ムリムリムリムリムリ!!

「お前らってさ――」

そうやって僕が発狂しかけていた時、突如、黒岩君が口を開きました。どうやら、彼も僕と同じグループに所属しているようです。

「お前らって――どうせこういうの考えられないんだろ?」

お前らとは、僕を含む数人のグループメンバーたちを指しているようでした。ゆっくり僕らを見回しながら、黒岩君は言います。

「だって、面白いこととか何もできそうにないもんな」

今日初めて会話した、というか自己紹介しあっただけの間柄とは到底信じられないような尊大な口調に一瞬度肝を抜かれますが、すぐに僕は気づきます。

(完了したんだ、これ――格付けが――)

僕だけではなく、この場にいるグループメンバーの男たち全員に、格付け――黒岩君の経験人数の宣言が。

その数値に恐れをなし、萎縮してしまったのは僕だけじゃなかったのです。

それを理解して、黒岩君はこのような態度に出ても問題ないと踏んだに違いなかったのでした。

「俺が一人でコントとかやるほうが笑いが取れるだろうしさ、もう俺が企画考えるってことでもいい?」

格付けが完了した相手には容赦がない黒岩君は、畳み掛けるように言います。

しかし逆に言うとこれは、願ってもないチャンス。一体何をやればいいんだ、と頭を抱えていたのに、黒岩君が全部考えてくれるというのですから。

他のみんなも同じ思いだったのか、僕らのグループは満場一致で、黒岩君にリーダー兼企画立案者になってもらうことで合意しました。

黒岩君もまんざらでもないのか、「マジで笑い取りに行くよ俺」「こう見えてちょっと前まで芸人目指してたし」「今も連絡取ってるセフレが5人いる」みたいなことを繰り返し言っています。

(しかし……)

面倒なことがなくなって、ほっと胸を撫で下ろしながら、僕は改めて黒岩君の姿をじっと見ました。

デブオタでした。やはりどこからどう見ても彼は、経験人数100人オーバーだなんて到底思えないデブ、いや、ふくよかな男性だったのです。

もちろん、容姿だけですべてがわかるわけではありません。いわゆるデブ芸人の人たちだっています。ですが僕にはどうしても、彼が自分たちとは異なる属性――つまり、いわゆるパリピ的な――を持つ存在とは思えなかったのです。

ホントにそんな笑いを取れるような企画を考えられるのかな? 半信半疑になりながらも、僕はそれ以上歓迎会のことについて考えるのはやめました。失敗しても成功しても、もはやすべては黒岩君の問題なのですから。

そうして、1週間後の新人歓迎会――。

満を持して黒岩君が出してきた企画は「みんなで歌を唄う」というものでした。

本当に、ただ単に特に何のひねりもなく、浜ちゃんの『wow war tonight』をグループメンバー全員で朗々と歌い上げるだけ、という恐るべき企画です。というかもはや、企画と呼んでいいのかすらわからない。

他のグループは、マジックや演劇を披露していました。半裸になって、体を張っているグループもありました。そんな中僕たちは、棒立ちで直立不動のまま、最後まで『wow war tonight』を歌い上げました。

『wow war tonight』の、どことなく哀愁の漂う切ないメロディは、場を静まり返らせるにはぴったりでした。

目の前に居並ぶ社長や役員たちは当然のように終始真顔で、僕は少しだけ、「あ、死にたいなこれは」と考えたことを覚えています。

もちろん、僕たちのグループは最低の評価を受けました。黒岩君の言う、コントや笑いは、影も形もありませんでした。

グループのメンバーたちは、誰もそのことには突っ込みませんでしたし、黒岩君も何も言いませんでした。ただ僕たちの間には、気まずい静寂だけが広がりました。

その日を境に、黒岩君は急速に求心力を失っていきました。所詮、ハリボテの経験人数だけでは、カリスマを維持することなどできるはずがなかったのです。

あれから12年経過した今になっても、僕はいまだに、この時黒岩君が一体何をしたかったのかがどうしてもわかりません。ウソとしか思えない経験人数を告げてマウントを取り、さらには歓迎会の企画立案を買って出て、たぶん一度もやったことのないコントの話を振っておきながらも、実際にやるのは合唱――。よりにもよって、合唱です。

狂ってるな――。

あの時も今も、黒岩君のことを考える時、僕はただそうつぶやくことしかできません。

誇大妄想癖――。あるいは、もはや心が壊れているとさえ言ってもおかしくないような異常さ。這い寄るような静かな恐怖を感じさせる常人とのそのズレは、ですが、彼にとっては鬱屈とした自分を変えるための――いわば、社会人デビューのための、ひとつの儀式だったのかもしれません。

もちろんこんなことは単なる想像です。ですがそう考えると僕は、就職を機に自分を変えようとしていた黒岩君のことを、単純に頭のおかしいやつだったと馬鹿にすることはできないのです。

学生生活の延長のような気分でいた僕とは違い、彼は、彼のできる範囲の中であがこうとしていたのだから。たとえ行き着いた先が、まともな自己紹介なんてものすら存在しないブラック企業だったとしても。

彼が合唱で選んだ曲は、浜ちゃんの『wow war tonight』。副題は、「時には起こせよムーブメント」――。ムーブメントは、確かに起こったのかもしれない――

04:僕がブラック企業で見つけたこの世界の真実

プログラム研修が始まって、早2週間が経過していました。

この期間で僕は、テキストに文字を書いたり消したりするプログラムや、機能の少ない電卓のような計算ソフトを作成していました。どちらも鼻くそみたいなものですが、初めてプログラムに触れた僕にとって、作ったものが思い通りに動くというのは新鮮な体験で、日々の研修も特に苦痛はありませんでした。

ただ、少しだけ気がかりだったのは、どう考えてもこの会社において、何らかの業務を行っている様子が感じられないということでした。フロアにいるのは、僕たち新人と、講師役の社員、そして管理職の連中と数人の事務員だけ。

本来いるべきはずの、「プログラムを開発している社員たち」がどこにも見当たらなかったので、僕はこの会社が本当に何かを生産しているのかが不安になりました。

ですがそんなある日、ついにその謎の理由を知る時がやってきました。

「君の現場が決まった」

会議室に僕を呼び出した上司は、席に着くなりそう告げたのです。

「明日から早速向かってくれ。場所はここだ」

そう言って、地図をプリントアウトした紙を僕に渡します。

「え? え?? 現場ってどういうことですか……? 僕はここで仕事をするんじゃないんですか??」

この会社に採用されたのだから、当然この場所で仕事をする。それ以外の想定なんて一切していなかった僕は戸惑います。

「うちは客先常駐型の案件しか取らないからな。基本的に、すべての仕事はお客さんの会社に行って、そこでやることになる」

「はあ……そういうもんなんですか」

社会人経験がまだ2週間しかないのでよくわかりませんが、普通は仕事というのは自分の会社でするものなのではないでしょうか。それに、「客先常駐」とか言うと多少は響きがいいけれど、それってつまり自社では何も開発してないってことじゃん。自社製品は何にもないってこと??

正社員として採用されたのに、自分の会社で働くこともできず、結局は派遣先からの給料をピンはねされるだけ? しかも、そんな話は面接や内定式の場でも、これまで入社前には一切聞いていません。

これもやはり、この会社が新卒社員を採用するときにはひた隠しにしていたことのひとつでした。もちろん、あなた方はどこかの会社に派遣されます、貴方の給料はピンはねした残りです、などと告げたら入社希望者が激減するからです。

「お前のリーダーはここにいる長谷川になる。入社面接の時に話しているだろう」

上司の横にいた男が、軽くうなずきます。そこにいた男性は、確かに僕が一次面接で話した相手でした。

「君のことは面接の時から目をつけててね。俺のプロジェクトに参加してもらうよ」

俺のプロジェクト。

その言葉だけを聞くとなかなかカッコいいですが、実際に主導しているのは常駐派遣先の会社の人でしょう。この人自身に大した権限はないはずです。僕は、少々醒めた気持ちで長谷川さんに会釈をしました。

「長谷川のプロジェクトは厳しいぞ。何しろ、うちの会社でも稼ぎ頭だからな」

上司が、長谷川さんの肩を叩きながら、まるで自分の手柄のように言います。それを受け、誇らしげな表情で答える長谷川さん。

「ああ。それは覚悟しておいたほうがいい。厳しいことも多いと思うが、ついてきてくれよ。俺だって今はこんな風に普通に話しているが、明日にはお前を怒鳴りつけているかもしれない。そういう、世界だ」

ふーん、なるほどね。とうとうブラック企業が、その本性を見せてきたってわけか。

入社してから発覚する後出しの派遣業務に、現場に行く前から始まるパワハラめいた脅しの言動。きっとこの地図の場所に行けば、それこそタコ部屋みたいなところに押し込まれて、劣悪な環境での過酷な労働が僕を待ち受けているのでしょう。

人間である僕たち社員を、まるでレンタル機材か何かのように客先に送りつけ、格安の労働力として提供する。それを僕たちが理解したうえでやるならまだしも、入社して身動きが取れなくなってからタネあかしするなんて完全に詐欺、ほとんど人身売買のようなものです。

この会社が、3月になってさえ人を採用し続ける理由もわかりました。だって、売れる商品は少しでも多いほうがいい。

あまりの悪どさを前に、偏差値72という数値が頭をよぎります。やはり、なんだかんだ言ってネットの情報は間違ってはいなかったのです。

ですが、僕はさほど事態を深刻にはとらえていませんでした。

まあ別にいい。嫌なことがあったら翌日からバックれるだけだ。だって、僕の人生は逃げることの連続でできていたから。

僕はこれまでの、「レンタルビデオ屋:3日」「パン屋:1日」「ゲームショップ:5分」といった、過去の輝かしいバイト最短勤務記録の数々を思い出していました。

まあこれまでと多少違ったのは、これがバイトではなく正社員ということでしたが、どうせ大して変わんないだろ。

そうして迎えた翌日。地図で指定された場所に向かった僕を待ち受けていたのは、都心の一等地に立つ超高層ビルでした。

「おおおおお……?」

「やあ、よく来たな。今日からよろしく頼むぞ!」

ビルの1階まで迎えに来てくれた長谷川さんに連れられて、エレベーターで一気に20階に向かいます。

そこは、たとえ大声を出してもフロアの端から端までは届かなさそうな広大な空間で、ゆったりとしたサイズの机が並んでいました。しかも南の方角に向かって全面大きなガラス張りになっており、採光性も抜群。じめじめとした空気なんかとは無縁です。

「おおおおおおおおおおお………??」

「あと、こっちにも案内しておこう。ついてきてくれ」

長谷川さんが連れて行ってくれたのは、40階に位置する巨大なカフェテリア型の社員食堂です。41階と吹き抜けになっており、解放感のあふれる豪華な作りになっていました。

「この社員食堂は、俺たち客先常駐の人間でも自由に使える。300円もあれば、何でも腹いっぱい食べられるぞ」

す、すすす、すげええーーー!!

よく知らないけど、六本木ヒルズとかってこんな感じなのかな!? すげーよマジで! いいんすか! こんなところで働かせていただいていいんすか僕!!

タコ部屋どころか、昨日まで研修を受けていた自社と比べても天と地ほどの差があるような圧倒的な環境でした。ここに来る前は、風俗店とかも入るような雑居ビルの一室にぎゅうぎゅうに詰め込まれたあげく、システムエンジニアの仕事かなこれ? と思わずにはいられないような、封筒の糊付けとかの作業を延々とやらされるような想像をしてたんだけど、裏切りすぎ! ビビりますからこんなの!!

僕自身の手柄では一切ないのに、まるで自分の力で超一流企業に入ったような気持ちになってきてテンションが上がるのを抑えられない僕。

いや、でも待て! こんなことで油断していたらダメだ‼

たとえ職場の住環境は良くても、結局はブラック企業から奴隷としてここに売られてきたことには変わりないのだから。長谷川さんの言葉を思い出せ。

「明日にはお前を怒鳴りつけているかもしれない――」

そう。楽しい時間はここまで。席につき、プロジェクトについての概要説明を受けたら、いよいよここが地獄の入り口。ブラック企業偏差値72の詐欺会社が送る、絶望のデスロードの始まりです。僕みたいなぼやぼやしたやつなんて、一体いつ怒鳴りつけられることやら。耐えられるのか、僕は。それに。

「じゃあ、デスクトップ画面にあるそのショートカットをダブルクリックして。そう、これがこのプロジェクトで作っているソフトウェアだ」

長谷川さんが隣に座り、仕事の説明をしてくれます。

「そしたらこの紙を見ながら、機能チェックをしてくれ」

そう言って手渡してきた数枚の紙には、エクセルで作った表が印刷されていました。そこには「機能の名前」「テスト結果」「エラー内容」といった項目が並んでいます。

機能の名前とは、「”次の画面に進む”ボタンを押す」というような感じです。

「上から順番に機能をテストしていって、正常に動けば〇。ダメなら×をつけるんだ。×の時は、どうダメだったかも記載してくれ」

ふむふむ。つまり今立ち上げたソフトウェアが、ちゃんと動くかどうかをチェックすればいいわけか。

散々脅されたわりには、さすがにプロジェクト初日だけあって、簡単な仕事を与えてくれます。僕はふっと警戒を解き、指示された通りに作業を進めていきました。

「機能」は全部で50個ほどありましたが、基本的には書かれている名前のボタンを押して、「テスト結果」欄に〇×をつけていく。それだけ。特に迷う個所もなく、僕は30分ほどでその作業を終えました。

「あの、できました」

結果を記入したシートを携え、長谷川さんに声をかけます。

「え?」

怪訝な顔で僕を見る長谷川さん。しまった、今は話しかけたらダメなタイミングだったかな? それとも、初めてとは言え、たったこれだけの作業に時間をかけすぎただろうか――。

罵声が飛んでくることに備え、思わず僕は身構えます。ですが、そのあとの長谷川さんの反応は意外なものでした。

「できたって……何が?」

「え、いや、ですので、先ほど指示されたこちらのテストのほうが……」

どうにも話が噛み合いません。ですが終わったのは事実ですし、僕としてもそのことをありのまま伝えるしかありません。

「嘘だろ? だってお前、俺に何も質問してないじゃないか。なのに、終わらせられるはずがないだろ」

なるほど、ちゃんと質問をしなかったことが逆鱗に触れてしまったのだろうか。でも、紙に書かれたことをやるだけなのに、質問もクソもないっていうか、逆に質問したら怒られるレベルの作業だと思うのだけど……。

「で、でも、紙に書かれている通りにやるだけですので、特にお聞きするほどのことはないかと思いまして……」

「そんなバカな……おい、ちょっとその紙を見せてみろ!」

血相を変えた様子で、長谷川さんは僕が持っていた紙をひったくるように奪いました。そして、鬼気迫る表情でその内容をチェックしていきます。

「全部、〇×がついている……ちゃんと、できてる……」

横でその様子を見ていた別の社員の人も、「お、おい! マジか?」と話に割り込んできます。

「ああ、見てくれこれを――」

そのやり取りを僕は、キツネにつままれたような気持ちで見ているしかありませんでした。

なんだろうこれ……。何かこう、新入社員をからかうための儀式なのかな……。

「確かに、全部できてる……。おい、なんでだ!?」

長谷川さんの隣に座る、まだ名前も教えてもらっていない先輩社員が、問い詰めるように僕に言います。

な、なんでも何も。紙に書いてある通りの手順で、内容をチェックし、〇×をつける。×ならどうダメだったかを記す。ただ、これだけ。いや、なんでも何もないだろこれ……!?

「で、ですから、ここに書いてある通りにやるだけですし、こんなの誰でもできるでしょう……?」

「できないんだよこれが!! 普通は!!」

ええ……??

この一連のやり取りは、特に誇張ではなく、実際に当時僕の目の前で繰り広げられたことでした。ですからその時の僕も実際に、「ええ……?」と呆然とするしかありませんでした。

いや、できるよ……? できるでしょ……?? ええ……???

「あいつにも! あいつにも! みんなにやらせたけど、最初はできなかったぞ!!!!」

そう言って、居並ぶ他の社員たち――つまり、僕の先輩たちの顔を次々に指しながら、彼は叫ぶように言います。ええ……全員できなかったの……? マジで……??

僕は別に自分のことを優秀だとは思わないですし、なんならすでに皆さんもお気づきの通り、かなりのレベルの底抜けのバカな自覚はあります。ですがそもそもこの作業には、優秀もクソもありませんでした。

日本語です。日本語の問題です。いたって普通に日本語が読み書きできれば、できないはずがないんです。もちろん、この文章を読んでくださっている皆さんも、普通にできる作業です。

なのに、それができたことにこの人たちはどうやら本気で驚いている。今、目の前で繰り広げられているこの現象は、一体どういうことなんだ――?

その時僕の脳裏に、以前調べた「ブラック企業」の定義のひとつが浮かびました。

  • 誰でも覚えられる低レベルな仕事が多く、スキルが身につかない

あ――!

そうだ、そうだった! ブラック企業の仕事って、こういう――!!

そしてさらに、蘇るのは内定式の時の記憶です。集められた国内有数の情弱たち。彼らは、面接時と会社名が変わっていても、誰も手をあげることなく承諾書にサインする――。その時、ただ一人疑問を持った僕に、人事の男はニヤリと笑いました。

お前はまだ、「まともなバカ」だ――。

ああ――!!!!

これは、つまり――!!!!!! そうか、そういうことか――!!!!!!

低すぎるんだ、レベルが!!!

ネットで検索すれば一発で判明するブラック企業。そして、ウソの会社名での採用や、実態は派遣業務など、そのやり口もすさまじく杜撰(ずさん)。知れば知るほど、こんな会社にまともな人材が入るわけがありません。

申し訳ないですが、もはや思考――。そう、人としての思考そのものを失った狂人でなければ、入社するなんて選択肢はありえないんです。通常では。

ですが僕の場合は、恐らく少しだけ状況が違いました。この会社に入ったのは人生を舐めていたことが原因であり、ただただ企業を調べたり、就活をやり直したりするのが面倒だったからというのがその理由です。

たぶん、こういった動機で入社する者は限りなく少なく、僕のような人間はこの場においてはイレギュラーでした。裏を返せば、この会社にいる大半の人間は、そういった既存の枠組みを遥かに飛び越えたような気狂い――まさに、狂いのエリートたちでした。

黒岩君のことを思い出してみてください。そう、求められているのはあのセンス。僕のようなやつからすると、すべてが壊れているようにしか見えない支離滅裂な思考、行動。

僕の考えでは、ブラック企業はその偏差値が70を超えた時点で、もはやその会社においては世の中の礼儀・常識・物理法則などは全て意味を失います。ですからきっとここでは、黒岩君のような人間こそがスタンダードでした。

そこに紛れ込んでしまった異分子。「まとも」なバカ――。

ある意味では、これほど屈辱的な言葉はありません。まともというレッテルを貼られたその時、僕はバカであることすら否定されたのです。バカにすらなれないバカ。とどのつまりそれは、単なる人――「凡人」でした。

そう。僕は自分でも嫌になるくらい、どうしようもないまでに凡人でした。狂人たちに囲まれて自覚する自分の普通さ。常識という物差しで測れてしまう思考の単調さ、面白みのなさ。

常に人と違うように生きたいと願っていた僕にとって、髪を赤く染上げた僕(中二病)にとって、それは敗北でした。

「まとも」であることを自覚させられた瞬間に、これまで僕が思い描いていた自分という人格は、ガラガラと音を立てて崩れていってしまったのです。

ですが、実際の社会生活においてはそれはむしろメリットでした。狂人の群れに放り込まれた、たった一人の凡人。僕ならば、そんなつまらない僕であれば、「普通に仕事ができる」のです。

打ちひしがれながらも、僕は思いました。

これはきっと、逆転の発想だ――。

恐らくたぶん、まだ誰もたどりつくことのできていないこの社会に秘められた、ある意味での究極の真実――。

真っ当な会社には相手にされず、仕事についていくことができない。さりとて、本物のバカにもなれない。そんな中途半端な、僕のような凡人には。たぶん、「有り」なんだブラック企業は。

僕がたどりついた、この社会に秘められた究極の真実――。

あえて、ブラック企業に就職する。

だってここなら、このすべてが壊れてしまった、狂人しかいない異常な世界であれば。

凡人でさえ、英雄になれるんだ――!!

異世界モノの小説の主人公になった気分でした。現実では冴えない、何の取り柄もない僕が、召喚された異世界では他の誰もが羨むような凄まじい能力を持つヒーローになれるのです。

取りたてて努力をすることもなしに。

「じゃ、じゃあ次はこの仕事をやってみろ!」

怯えたように叫ぶ長谷川さんから渡される業務を、難なくこなして見せる僕。真実に気づいた僕にはもはや、恐れるものは何もありませんでした。

「次は――」

長谷川さんの顔面は蒼白で。

「次は、何をすればいいんですか――?」

そこにはもはや、「明日にはお前を怒鳴りつけているかもしれない」などと僕を脅してみせたその姿はどこにもありませんでした。

「だ、だったら、お前にはもういきなりプログラムを組んでもらう! いいか、2週間だ! 2週間で、この仕様書を見て実装するんだぞ!!」

3日後。

毎日わずか15分ずつほどの作業時間で、僕はその業務を完璧に終了させました。本当は1日あれば終わらせることができましたが、長谷川さんのプライドを保つため、あえて僕は時間をかけてゆっくりと作業しました。ですがそれでも、引っ張って3日が限界でした。

なぜならその作業は、すでに他の人が作成したプログラムのコードを、ほんの2行ほど書き換えるだけで完成するものだったからです。落ち着いてプログラムの構造を読み解きさえすれば、時間がかかる要素は皆無でした。

「さあ、次は――」

そう尋ねようとする僕の発言を遮り、長谷川さんはやけに晴れやかな笑顔で言いました。

「まあまあ、そんなに仕事ばかりすることもないだろう。いいものを仕上げてくれたんだから、休息もしないと」

この現場に来て、そもそもほとんど働いた記憶がないのですが、長谷川さんの上機嫌は止まりません。

「お前が作ったプログラムな。あれ、60万円の作業見積もりを出したら通ったんだ。いいか、お前の仕事でお客さんが60万払ってくれるんだぞ、60万だ」

僕の実作業時間は、調査も含めて45分。書き換えたコードは2行だけ。

(払うほうも払うほうだな)

ブラック企業の狂いは伝播する。まともだったはずの、クライアントの企業にまで。

「それで、僕の次の作業は――」

「特にない。あれで2週間は使ってもらうつもりだったからな。まあさっきも言った通り、仕事ばかりしてたら疲れるだろう。しばらくはゆっくりしててくれ」

それからの1週間少々を、僕は毎日ネットサーフィンをして過ごしました。もちろん誰も、僕をとがめることはありませんでした。

あえて、ブラック企業に就職する――。それは逆転の発想による、物事の見方、価値観を180度変えることでたどりついた僕の新理論。

事前に思い描いていた通りの、真昼間からネットの海に沈むという社会人生活を送りながら、僕はその理論が揺るぎない真実であることに確信を持ち始めていました。

都心の一等地の高層ビルという恵まれた職場。狂人しかいないがゆえに、通常以下の能力でも過剰に評価されるという特殊な環境。

「おいおい、ブラック企業さまさまじゃないか――」

この時の僕は、本気でそう信じていました。

それは大いなる勘違いであり、ここに至ってもやはり、自分はまだ人生を舐めていただけということに気づく日が来るのですが、それはまだ未来。もう少しだけ、先のお話です――。

05:そして僕はついにブラック企業の本性を知る

そうして、あっという間に1年半が経過しました。

仕事内容は先ほども言った通りの状況であり、とにかくすべてが楽勝でした。

ブラック企業と聞いて真っ先にイメージされるきつい残業地獄を味わうこともなく、毎日定時で帰っていました。僕の目論見は完全に成功していたのです。

ここで、冒頭でも軽くお伝えしましたが、皆さんが気になっているであろうブラック企業の賃金についても触れておきましょう。

まず、僕の基本給は約13万円でした。ここに残業代が加算されることになりますが、前述の通り僕は一切残業をしていなかったので、加算額は0円です。ですので、13万円から所得税だの年金だのを引かれた額が手取りになります。

ただ、それとは別に互助会? 的なものがありまして、その名目で、会社から月にさらに数千円が引かれていました。

これは、たまに開催される会社主催の飲み会の費用として勝手に徴収されて勝手に使用されるお金となります(実際に使用された額は一切わからず、仮に余りが出ても社員には1円も還元されないという素晴らしい仕組み)。

こうして算出される手取りの額は、約10万円ちょっと……!! なお2年目からは、1年目には発生してなかった住民税というものも収めなければいけなくなるため、手取りは9万円でした。

当時の大卒初任給の平均手取り金額を調べると、約17万円という数字が見つかりましたので、それに比べるとかなり低いと言わざるを得ないでしょう。

ですが、僕は思いました。

「なんか……意外と多いな」

大学の時、僕は自分の性格を十分に分析できていなかったため、スーパーのレジという接客業務をバイト先に選んでしまっていました。

そこでの出来事の詳細は今は省きますが、絶望的に愛想とは無縁である僕は、あまりにもその職に向いていなかったのでしょう。毎日、部長から怒鳴られるこち亀の両さん並みに「お前はクビだ!!」と店長から怒鳴られまくるうえに、「頼むからあのバイトを辞めさせてほしい。あいつが他のバイトの人と同じだけ時給をもらっていると思うと本当に許せない」「姿勢や表情が不愉快」というお客さまからの声(アンケート用紙)を貰うという地獄の日々を送っていました。

そうして人格を否定されまくりながら得る給料が、週4勤務で月にせいぜい6,7万円程度。

なのに今は、フルタイム勤務とは言えやってることはほぼインターネットだけなのに、10万円近くも貰えるのです。

そのうえさらにボーナスまでもらえてしまいます。そう、僕の会社はブラック企業偏差値72でありながら、ボーナスまでくださる超優良企業だったのです。

ただ、ボーナスというものに言葉の響きからある程度のまとまった金額をイメージしていた僕は、1年目の夏に支給された額を見て、思わず愚痴めいた言葉を先輩に伝えてしまいました。

なぜなら賞与明細には、「2万5000円」と書かれていたからです。

「結構、少ないんですね……。もっとボーナスってこう、給料何カ月分、みたいなイメージでしたよ。ははは……」

ですが先輩社員は、不思議そうに僕を見つめ、そして言いました。

「え、でもさ。iPod nanoとか買えるじゃん?」

なるほど。iPod nano。

「確かに」

確かに。確かに買えるな。ボーナスで、iPod nano。自分へのご褒美。

先輩からそう真顔で言われると、なんだか確かにそれは、生きていくうえでは十分すぎるほどの報酬のように感じられてきたのです。

僕は想像します。

iPod nanoから延びるイヤホンを装着して、颯爽と職場に出勤する自分を。

その姿になんだか僕は嬉しくなり、思わずにやけてしまいました。先輩も、わかってくれたか、という風に深く頷きます。ですから僕は、強がりとかではなく、給料に対する不満はありませんでした。もちろん、これで十分多いなどと言うつもりはありません。ですがまあ、生活するには問題ない額でしたし、むしろ貯金すらできていました。

「人生とかいって、マジで余裕すぎるな……」

もうこのままでいいや、と思いました。

仕事らしい仕事をしなくても、誰からも怒られないどころかむしろ一目置かれる日々。世の中には、ストレスのあまり会社に行くことすらできなくなる人もいるといいますが、この先きっと僕はそんな生活とは無縁でしょう。しかも、お金にだって困らないんだから、これ以上何を望むことがあるでしょうか。

ですがそんなある日、一生続くと思われた僕の日常は、いともあっさりと奪い去られてしまったのです。

その日僕は、出向先である高層ビルではなく、ぼろい雑居ビルの自社に呼び出されていました。久々に対面する上司と、その横には社内で敏腕営業と言われている清水さんがいました。

「お前には、そろそろ他のプロジェクトに移ってもらいたいと思う。これからはもう、十分独り立ちできると思うしな」

「え……? プロジェクトを移るんですか……!!?」

上司の言葉を予想していなかった僕は、この会社に入って初めてというくらいに狼狽しました。プロジェクトを移る……? ということは、僕が築き上げた今のあの超ぬるま湯環境も失われてしまう……!!?

ですが考えてみれば、これはある意味当然のことでした。僕たちは所詮、会社からすると派遣の商材です。ですので、会社都合で他の現場に移されることだってあって当たり前でしょう。けれど僕は、当時あまりにもそういうことについて無知でした。

「ああ。長谷川から、お前はできると聞いてる。そういう人材には、いずれはリーダーを任せていきたいからな」

「ちょうどいい現場があるんだ。うちの会社からは一人だけ入れられそうでね。お前には、他の会社の人たちと協力してプロジェクトを進めてもらうことになる」

上司の言葉を継ぐように、清水さんが言います。

「一人……? ってことは、僕は全然知らない他社の人たちしかいない環境で働くんですか? いきなり??」

半泣きになりながら非難めいた口調で言うも、当たり前だろとでも言いたげに、清水さんはふっと息をつきます。

「君は、javaの経験はあるか?」

javaとは、プログラム言語のひとつです。ですが僕が今の現場で使っていたのはC++というプログラム言語でしたし、研修でもjavaには一切触れていません。僕は素直に、経験はないし何も知識がないことを伝えました。

「うーん。でも元々お前は、大学時代もプログラムの経験はなくて、新人の時の研修と今の現場での業務だけでC++は書けるようになったんだろ?」

「まあ、そうですけど……」

それは、死ぬほど簡単なことしかやっていないからです、という言葉をぐっと飲みこみます。

「それならいけるいける! javaだって、必要なら勉強するだろ?」

「それはまあ、はい……」

「じゃあ十分だ。よし、クライアントへの紹介状にはjavaのエキスパートと書いておく」

「はい?」

今の一連のやり取りを完全に無視した清水さんの発言に、僕は思わず間の抜けた声をあげてしまいます。

「一人だけ入れられそう、と言っただろ。先方が求めているのはjavaの高レベルなプログラマでね。それなら即決でOKと言われてるんだ。まあでも大丈夫。お前ならいけるいける」

「い、いや、ですから僕は初心者どころか何も知らないんですって! 絶対バレますよ!!」

助けを求めて上司のほうを見ますが、さすが清水だ、とでも言わんばかりにうんうんと頷いています。

敏腕営業の清水――。

なんてことはありません。ただ単に清水さんは、存在しない人材をでっちあげて、クライアントを騙して契約数を稼いでいただけなのです。どうせ一人しか入れられないような関係性の薄いクライアントですから、最悪バレても別にいいという考えなのでしょう。

それに、結局のところ困るのは僕です。一人で客先に送り込まれ、ただでさえ孤立無援の状態。そこで、「あれ? 君はjavaのエキスパートと聞いてたけど、何やってくれちゃってんの?」という周りの目に殺されたくなければ、必死で勉強するしかありません。

そうやって、どうしようもない状況に追い込むことで、より使える商材に僕が成長すれば尚良し。そうでなければ、切り捨てるだけ。それが、彼等のやり方でした。僕の声にならない怒りを感じ取ったのか、清水さんが先手を打つように言います。

「まあ、そんな顔するなって。俺は、お前ならいけるってホントに思ってるんだから。あと、あっちに原田っていうのがいてさ。他社の人間だけど、俺の知り合いでデキるやつだから、こいつにお前の面倒を見てもらうように頼んどくよ」

お前ならいける、と言われていますが、僕が清水さんとまともに話したのは入社以来この時が初めてでした。

「……わからないことがあれば、その原田さんに聞けばいいんですか?」

「ああ、実質リーダーだと思って構わない。お前の仕事の責任は持ってもらうように言っとくから。何かあれば原田が尻をぬぐってくれるさ」

そう言われても、不安は払拭されません。今の現場にいる長谷川さんたちは狂人ではありましたが、やはり彼らは同じ会社の仲間であり、何かあれば助けになってもらっていたのも事実です。

なのに今後は周りにいるのは、他社の人間だけ。このブラック企業の人間がいない環境ということは、それはつまり「凡人でも英雄になれる」というブーストも、もはや無効になってしまうことを意味します。だってきっとそこにいるのは、「普通に仕事ができる会社員」ばかりなのですから。

そんな中、javaのエキスパートを名乗ってやってくるjavaの素人。僕的には自分は完全な被害者なのですが、クライアントや他社の人間からすればそんなことは関係ありません。

彼らにとって僕は全くの他人であり、思い通りに使えないのであれば不要になるだけの部品でしかないのですから――。

「あ、それと現場はここな。京都ね」

僕が住んでいたのは大阪市内で、今通っている現場も同じく大阪市内にありました。ですので、通勤時間は20分程度だったのですが、次の現場は京都。しかも清水さんは簡単に京都と言っていますが、地図を見ると結構外れた場所にあるので、通勤には1時間半近くかかりそうです。

「じゃあ、来週から早速こっちの現場に出て。よろしく」

色々なことが一気に変わっていくのを感じました。それが、僕の意志は一切関係なく、会社の都合だけで決まっていく。これって実は、僕はかなり不利な状態でこの会社にいるんじゃないのか……?

当たり前すぎることに、僕は今さらながらようやく気づき始めていました。

「おいおい、こんな資料を作成したのは誰だ!」

場所は京都の外れ。往復3時間かかる新しい現場に通い始めて1月半ほどが経過した頃、クライアントの部長の一喝がミーティング中に轟きました。それは、僕が作成したものでした。

「あ、それは僕ですね……」

黙っているわけにもいかず、おずおずと手をあげます。ですが、この言葉をつけたすことは忘れません。

「僕が作成して、原田さんにチェックしてもらってOKをいただいたものです」

営業の清水さんの友人の原田さん――。僕がこのプロジェクトで唯一人頼れるはずの人物。「何かあれば原田が尻をぬぐってくれるから」清水さんの言葉が頭の中でリフレインします。

実際、原田さんがOKを出したんだし、僕はこの中では新人。きっと、原田さんが僕をフォローしてくれるはず――。

「いや、俺は見てないですよ! 俺が見たやつじゃないだろそれ!」

マジで一切フォローしてくれませんでした。なんならウソまでついています。

実はこの現場に来て早々、僕はこの人の人間性に疑問を感じていました。

一見人当りは良く、確かに仕事ができそうな雰囲気はあるのですが、一方で原田さん自身も知らないようなことを聞くと途端に不機嫌になって回答を拒まれました。また、自分の仕事が終わって帰ろうとしても、「おいおい、まだみんないるのに帰るのか?」ということも平気で言ってくるような人です。

「え、原田さんにチェックしてもらってますよ!? メールで依頼して、返答ももらってますけど……」

「知らないって!」

清水さんは、原田を頼ればいい、などと言いましたが結局それは僕を説得するためだけの口先の約束に過ぎなかったのです。

ミーティング後、僕は原田さんに別室に呼び出されました。

「お前さ、クライアントもいる場のミーティングでああいうこと言うとか何考えてんだ? 自分がちゃんとできてなかったんだろ?」

「確かに内容に不備があったのは僕のミスですけど……。原田さんだってチェックした以上責任はありますよね……?」

「なんで俺がお前の成果物に責任を持たなきゃいけないんだよ!!」

原田さんからすれば、それが本音でした。他人の子どもを預かったら、その子がした悪戯で怒られているようなものですし、納得いかないのもわかります。ですが、僕もそこで折れるわけにはいきませんでした。

「見て、これでいいって言ったじゃないですか……! いざとなったら関係ないとか、おかしいですよそんなの……! チェックする意味ないじゃないですか……!」

「もういい! 黙れ!!!!」

勢いよく立ち上がると、原田さんは携帯で電話を始めました。

「もしもし、清水さん!? あんたんとこの若いやつ、全然使えないよ! 外してくれすぐに!!」

それから1週間後。僕は、その京都のプロジェクトを外されました。

やってしまった、とか、もう少し頑張ればよかった、などという気持ちは微塵もありませんでした。ただただ僕は思っていました。これでもう、3時間もかけて通勤しなくてすむ……と。

プロジェクトを外されて自社に戻った僕は、清水さんと面談をしていました。

「お前にはがっかりだよホント。めちゃくちゃ評判悪いよお前」

そもそもは、javaのエキスパートという架空の存在をでっちあげたことが発端だと思うのですが、清水さんはそんなことは意に介する風もなく僕を罵倒し続けます。

「そういう、技術力云々の部分じゃなくてさ。もっと人間的な姿勢とかそういうところで、ダメだって言ってんだよお前は。舐めてんのかよ会社を」

ようやく気づきましたか――。

思わず僕は、そう言いそうになりました。

そうです。僕は最初から舐めていました。ブラック企業偏差値72をつけられるような会社を――。臆面なく人を騙すような会社を――。

舐めないはずがない。

そこまで言っても、一言も謝りもしない僕に怒りを隠し切れないのか、清水さんは言いました。

「お前の給料、これから毎年下げ続けるからな。そういう態度である限り、一生減給が続くと思ってろ」

基本給13万。手取り、9万円とちょっと。まだ下げる余地はあったのかこれ。

「あと、お前来週から姫路の現場に行け」

姫路……!

この地名はまったく予想していなかったので、逆に僕は楽しくなってしまいました。

京都ですら遠かったのに! 姫路は、徒歩も入れたら片道2時間はかかる……!!

こんな、島流しのようなプロジェクトをわざわざ用意してくれたのかと思うと、頭が下がります。ですがこの会社では、これすらもリストラのための嫌がらせではないのです。

前にも書いた通り、ブラック企業では偏差値が70を超えた時点で、この世の中の礼儀・常識・物理法則などはすべて意味を失います。ですから、彼らには不要でした。辞めさせたいやつに嫌がらせをして追い込むことなんて。そのことを、僕はもう知っていました。だって。

僕が、京都のプロジェクトを外される少し前のことです。

黒岩君がリストラされました。

皆さんもご存知の通り、黒岩君は狂っていました。それは、僕に完膚なきまでに敗北感を与えるくらいの圧倒的な狂い方でした。ですが同時にそれは、現実の社会では彼がまともにはやっていけないこととイコールでもあります。

どうしてもプログラムを覚えることができなかった黒岩君は、どこの現場にも行くことができませんでした。派遣の会社にとって、それは不良在庫であることを意味します。何の利益も生まず、さらに本人には給料を払い続けなければいけません。

それは、派遣業務という形態を取る以上、その元締めが負うべきリスクとも言えます。ですが、あの会社は違った。

ある日、黒岩君は上司に呼び出され、クビを言い渡されました。

理由は、「服装が乱れている」ということでした。

黒岩君は、スーツのボタンがひとつ外れていたのです。ひとつ。たったひとつ。その日だけ、スーツのボタンが。

信じられないかもしれません。それを言い渡す会社も、受け入れてしまう黒岩君も。

けれど、ここはブラック企業だったから。この世の中の法則はすべて、意味をなくしてしまうから。

だからここには、追い込み部屋も、嫌がらせも、そんなものは必要なかったのです。辞めさせたい相手がいれば、難癖をつければいい。

この時点で僕は、この会社を「悪」と断定しました。

ネットの噂やブラック企業という言葉だけが独り歩きしていたりします。一部の人間だけがあの会社はブラックだ、と騒いでいるような例もあるでしょう。だから、他の会社のことはわかりません。ですがこの会社だけは、本当に許されることのない「ブラック企業」だ。

僕を辞めさせないということは、清水さんたちは僕の給料を限界まで下げて姫路に行かせることで、まだ多少の利益を搾り取れると考えているのでしょう。そんな彼らには悪いですが、僕の心はとっくに決まっていました。

「アホらしい。やめまーす」

嫌なことがあれば、すぐに逃げればいい。これが僕にとっての人生の真理です。

エピローグ

躊躇なく会社を辞めた僕ですが、もちろん不安がなかったわけではありません。何せ職歴は、ネットで調べたらすぐにわかるブラック企業のみ。業務経験も、超ぬるま湯のまるでスキルの身につかないプロジェクトと、途中で追い出されたプロジェクトだけしかありません。言うなれば低スペックです。

しかし、転職活動はスペックだけの勝負ではないのです。その後転職活動をしていてわかったことですが、職歴や業務経歴、スキルリストなんかは、別の角度――つまり企業側の視点から見た時には、自分が考えていたものとはまた違う評価のされ方をすることが非常に多いです。

たとえば、上記の僕の経歴でいくと、まずブラック企業にいたこと自体はほとんどの会社からはマジで一切気にされませんでした。むしろ、厳しい環境にいたのであれば精神的にもタフなのでは? という見方をされてプラスに転じたくらいです。(実際には根性は皆無なわけですが)

ぬるま湯のプロジェクトも、なんだかんだ言って超大企業のインフラを支えるシステムを1年半に渡って開発し続けていたわけですから、そこで得た知識や経験は確実にポジティブにとらえられます。さらに、javaエキスパートとして潜り込んだあのプロジェクトも、途中でトラブルがあったとは言え、結局その時まではエキスパートを演じて1か月半なんとかやっていたわけですから、適応力はあると見なされました。

ただこういうのって、やっぱり自分ではわかりませんしね。なので皆さんも、「自分なんてマジでスペック低いわ……」と判断して絶望する前に、まずは市場価値を確かめてみればいいんじゃないかと思います。

もちろん、いきなり年収1000万円は無理でも、徐々に価値を高めていけばいいだけのことですし。その過程を、のんびり人生を過ごしながら楽しむのがいいのではないでしょうか。

そんな感じで、結果的に次は、実に5社からの内定を獲得!

適当にブラック企業に入社して、しかも2年と経たずにさっさと辞めてしまって……などということは一切気にする必要はありませんでした。やっぱり人生ってちょろい、という僕の理論が補強された形です。

そうして、その中で一番残業時間が少なく(重要)、かつ給与の高い会社に就職することに成功した僕は、170万円だった年収も実に370万円へのスーパージャンプを遂げたのでした! ハードル低いね!

しかし、それはまだ終わりではなかった!

ブラック企業からの転職を決めた僕は、次の会社のホワイトっぷりに戸惑いが隠せませんでした。

まず、Visual Studioなどのソフトが海賊版ではなく、ちゃんと正規品なのです。しかも、ライセンスもパソコンの台数だけきちんと買ってあって、まるで異世界のように思えました。

さらに基本給が以前に比べると約2倍になっているのに、残業代や、うっかり会社に早く着いた時の給料まで1分単位で支給される始末。(9時始業なので、8時半に着いたら30分の手当てがつく)

それに、自分の会社で働けるというこの奇跡! もう姫路まで行けと脅されたりすることもないというのは、当たり前のことではある気がするのですが、僕にとっては一番嬉しいことでした。

ですが、非常にワガママで申し訳ないのですが、僕にはその状況でも満たされない心がありました。確かに環境は素晴らしく、仕事も丁寧に教えてもらえ、自分に力がついていくのも感じます。ただ、肝心の仕事内容があまりにも興味のないジャンル過ぎて、長く続けていくのは厳しいだろうと考えるようになり始めたのです。

そんなもん事前に調べとけやテメー!?

とお思いの方もいるかもしれませんが、ちょ、ちょっと待ってくださいよ……。新卒の時は会社名すら調べていなかった僕が、今度は5社も内定を取った挙句、その中から残業時間や給与面などから判断して選択したんだからそれだけでも大した進歩でしょ!?

それに、仕事内容はもちろん面接で聞いたりしていたんですが、やっぱり短い時間で話すだけだといまいちわからないじゃないじゃないですか。そういう意味では現代は転職支援サービスなどが充実していて、待遇面もわかりやすいです。それらをフルに活用するのも手です。

まあそんなわけで、2年ほどその会社で働いた僕ではありますが、どうしても興味のあるジャンルの仕事に就きたいという気持ちが抑えられず、ここに来て再度の転職を決断。

僕がどうしても行きたかったのは、新卒の就職活動の時に唯一希望し、そして既に募集自体が終了していることを知って絶望したあのゲームメーカーでした。

新卒では、そもそもエントリーすることすらできなかった。ブラック企業を辞めたあとは、自分の酷すぎる経歴ではそんな高望みは許されないと思った。

けれどそれから2年の時を経て、修行を積んでスキルを高め、なんとなく自身の市場価値がわかってきた今であれば! 挑戦することくらいはできるんじゃないか?

躊躇する理由はありませんでした。どうせダメで元々。失敗しても僕にダメージはありません。そう、「転職活動は死ぬほど適当でいい」のです。

もちろん、ブラック企業から救ってくれた今の会社に対する申し訳なさのようなものはあります。けれど、モチベーションを高められないままずっと居続けるほうが、きっと最終的には迷惑をかけるでしょう。それならば、今転職という手段を選択することのほうが、お互いのためでもあります。

そうして僕は、2度目の転職活動に臨みました。行きたい会社はひとつだけ。ほとんど博打のような転職活動。けれど僕は、なぜか不思議と自信がありました。ブラック企業に居た時のことも含めて、自分の人生すべてを肯定できるような妙な高揚感が僕を包んでいたのです。

そして――。

例のブラック企業のその後の話をしましょうか。

僕が辞めてからしばらく後、あの会社は大規模なリストラ劇を起こしました。

黒岩君の件だけでも普通の会社では有り得ない事件のような気がしますが、今度はその比ではありません。

2008年。リーマンショックが起きた年。各企業の「内定取消」というものが問題になったことを皆さんも覚えていらっしゃるでしょうか。内定を出していた新入社員に、「不景気になって仕事がないので、やっぱり取り消させてくれ」と企業側から採用のキャンセルをかけた行為です。

社会的な問題になった内定取消は、政府により実施した企業のリストが公開されるほどの事態となりました。

それを嫌ったブラック企業は、ひとまず全員をそのまま採用するという手段を選択。そして、4月に入社した新入社員たち全員に、自らの手で退職願を書かせました。

「書け」

会議室に新入社員一同を集めて退職届を配り、有無を言わさずそこへの記入を迫る行為。

わけもわからず、逆らうこともできない新人たち。

この話は、まだ会社に残っていた元同僚に聞いただけではありますが、その光景を想像したらさすがに胸が痛みました。何しろ、新人の彼らはきっと狂人情弱でありながらも、真っ当に生きようとしていたのです。そして、ブラック企業ではあるものの、その会社に就職することを選択した。

その先で辞めることになるか、はたまたリストラにあうか――。それはそれでしかたがない話だと思います。ですが、彼らが何もしていないうちから、その希望を踏みにじるかのように「仕事がない」という理由だけで全員を辞めさせるその行為は、決して許されるものではないでしょう。

僕のように適当にブラック企業に入社した人間が言っても説得力がないですが、このような企業をなくすためにも、ネットの情報も多少は鵜呑みにしてもいいのかもしれません。

少なくとも、就活先の会社がブラック企業偏差値ランキングスレッドが引っかかる時は、一歩踏みとどまって慎重に検討されることをお勧めします。

さて、そんな僕はと言いますと。

すでに皆さんも予想されている通り、2度目の転職は成功。希望したゲームメーカーへの転職を無事果たし、現在に至ります。

やはり興味のあるジャンルということは大きく、すべてからすぐに逃げ出していた僕ですが、今ではもう10年近く勤務を続けています。

ただ最近は、より面白い開発ができる会社であれば転職もアリかなという気持ちになっています。今まで僕にとって、転職はネガティブなことから逃げるための手段だったので、そう考えると大人になってしまったなという悲しい気持ちもありますが、まあもう35歳なので大人というよりは単なる中年男性ですから、そういうこともあるでしょう。

でも、やはり今でも言えることがあります。深刻にとらえる必要なんてない。やはり転職活動は死ぬほど適当でいい。その心意気が大切だと。

だから、自分の現状に思い悩んでいる方がいれば、まずは軽い気持ちで行動してみることをお勧めします。

きっとそうして踏み出す一歩は、これまでとは違う何かをあなたに与えてくれるはずだから!!

あ、そうそう。

僕を散々にこき下ろして永久減給宣言をした営業の清水さんのその後についても、念のため最後に触れておきましょう。

彼は、僕があのブラック企業を退職してからほどなくして、会社をクビにされた挙句、告訴されました。

一時は敏腕営業ともてはやされ、社内でもカリスマとして君臨していた男が、クビのうえ告訴。

これはなんというか、自己紹介からの経験人数宣言並みに衝撃的なコンボです。

実は清水さんは、ブラック企業に在籍する身でありながら、自分でも別の会社を密かに経営していました。

そうしてブラック企業側で目をつけた人材に声をかけ、元よりも少しだけ良い条件で引き抜いて、自分の会社でも独自で派遣業務を展開していたのです。

何しろブラック企業にいる人たちは会社自体には何の思い入れもないですし、給料も9万円の世界です。少しでもマシな条件で雇ってくれるとなれば、誰だって躊躇なくその話を受け入れたことでしょう。

これにより、派遣先からのピンはね代金はそっくりそのまま清水さんの会社に転がってくることになります。

こうして清水さんは、営業を続けながら気になった人に声をかけるだけというこの「配置換え」的な行為を繰り返すことで、何の苦労もなく多額の利益を得ていました。

結局彼にとってブラック企業にいた僕たち社員は、最後まで単なる商材でしかなかったのです。

その話を聞いた時、僕は清水さんに「人間的な姿勢」を否定されて罵倒されたことを思い出していました。

あの時は黙っておとなしく聞いていましたが、当の本人は、他の社員や会社を騙し続けた挙句、告訴されるような男だったのです。

そんなやつに人間性を否定されて説教されてたかと思うと、なんか死ぬほどムカついてきたわ……。

せめて一言、「本当に人間性がおかしいのは自分のほうでした、すいませんでした」と清水さんに言わせたい。あんなやつに言われっぱなしのままで終わるなんて、そんなの僕のプライドが許せないよ……!

そんな風に考えてハラワタが煮えくり返っていたある日のこと。

ウソのようなホントの話なのですが、僕はなんと、地下鉄のホームで偶然にも清水さんに遭遇したのです!

神様……! やっぱり神様っているんですね!!

これってつもり、この僕に復讐の機会を与えてくれたってことですよね!!

そう考えると、もう居ても立ってもいられません。

僕は音も無く清水さんに近づくと、躊躇なくその胸倉をつかんで締め上げました。

「う、うわっ! な、なんだ君は!?」

ブラック企業から追われる身となった清水さんは、以前よりもやつれている気がしました。

しかし、僕は構わず力を込め続けます。

「おや、覚えていませんか? あなたにjavaのエキスパートに祭り上げられた男ですよ……」

ですが清水さんは前科が多すぎたのか、ピンと来ない様子でわめき続けるだけです。

「だとしたら、永久に減給を宣言された男……。こう言えばわかりますかね……?」

そこまで言われてようやく思い出したのでしょう。

あっ、という顔で清水さんは呆然と僕を見つめます。

彼にとっては、単なる不良在庫でしかなかった僕の、その目を。

「人間としての姿勢がダメだから僕は仕事ができない、と以前あなたに言われましたが、それってどっちですか……? 人として本当におかしいのは、一体どっちなんですか……!?」

「お、おい、あいつら何やってんだ!?」

「キャー、喧嘩よ!!」

「あんなに締め上げたら、死んじまう! おいあんた、やめるんだ!!」

周りの人たちが騒いでいた気がしましたが、僕の耳にはもはや何も聞こえませんでした。

ただ、この男を裁かなければ。そうしなければ僕の気が済まない。

いや、僕だけじゃない。辞めさせられた黒岩君や、新人社員たちのためにも……!!

「や、やめてくれ! あの時の言葉は俺の意志じゃない! 上から言われてたんだ、お前の給料を下げろって! だから頼む! 離してくれ!!」

この期に及んで命乞いする姿が余計に卑しく見えて、僕は清水さんを締め上げる自分の力がますます強くなっていくのを感じました。

「どうでもいいんだよ給料なんて!!」

「ひぃっ!!」

僕の一喝に、清水さんが情けない悲鳴をあげます。

「人間的に間違えているのはどっちかって聞いてるんだよ! 答えろよ!!」

「お、おい! やめるんだ君!!」

「このままだと本当にその人が死ぬぞ!!」

複数の人たちに腕を抑えられ、羽交い締めにされようとしていました。

ですが僕は止まりません。止まれないんです、ここまで来たら。もう。

「答えろよ!! 清水ーーーーーー!!!!!!」

これが最後だとばかりに、僕は渾身の力で清水さんを締め上げました。

あのブラック企業で運命を翻弄された人たち全員の怒りを込めて。

「お、俺、いや私のほうです! 人間的に間違えていたのは私のほうです!!」

そうして、ついに清水さんが自分の非を認めました。

その言葉を聞いて、僕は少しだけ力を緩めます。

「そうだよな? 人間的に間違っているのはお前だよな? 社員も騙して、会社も騙して、自分の利益のことだけを考えていたのは、お前だよな?」

「は、はい。そうです。私は自分のことしか考えていませんでした。すいません! 本当に申し訳ありません!」

必死に謝るその姿は本当に惨めでちっぽけで。

そこにはもう、かつての敏腕営業の面影は存在していませんでした。

「行け」

僕は手を離すと、清水さんの胸をドンと突きました。

「消えろ。二度と僕の前に姿を見せるな……」

急に解放されたことに戸惑ったのか、清水さんはその場で尻餅をついたまましばらく僕の顔を呆然と見つめていましたが、不意に我に返ると、「うわああああ!」と叫びながらすごいスピードで走り去っていきました。

「ふん……」

くだらないな。まったく、くだらない。

本当に、心の底からくだらない男だったよお前は。

そんな復讐劇を頭の中で妄想しながら、僕は駅のホームで遭遇した清水さんの横を、黙って通り過ぎました。

胸倉をつかむどころか、「クビになったらしいですねアンタ」とイヤミのひとつを言うことすらありません。

そんな行動力があれば、そもそも僕はきっと最初からブラック企業になんて入っていませんでした。

ですから、これでいいのです。それによく考えたら、結局今こうして会社を辞めているのもある意味清水さんのおかげですしね!

そうして偶然駅ですれ違った僕らは、何の言葉も交わさないままそれぞれ別々の方向へと歩き出しました。

二人の運命が交わることは、この先も永久にないでしょう。

(しかし実際問題、営業のトップがクビになった挙句訴えられるとかメチャクチャだな――)

やはりどこまでいっても、あのブラック企業は狂っていました。

「あー。転職してよかった……」

僕はぼそりと呟き、新しい職場への道を急ぎました。

地下鉄の改札を抜けて地上にあがると、ビルの谷間に広がっていたのは青い空。

本当にどこまでも雲一つない、青い青い空でした――。

<企画・編集/ヨッピー、pato>

この記事を書いた人

必殺!年賀状マニア

必殺!年賀状マニア

インターネット上に夜な夜な狂ったように文章を書き殴る日々を送り続けた結果、大学を留年したという悲しい過去を持つ。しかし数年後、その時の経験が元でWebライターの仕事にありつけるようになるわけで、人生とはわからない。雑談力が極端に低いため、何をつぶやけばいいかわからずTwitterというツールに存在意義を見出せずにいるが、そのくせアカウントだけはしっかり持つという自己矛盾に耐えきれず、ついに彼はダークサイドに堕ちた。

Twitter:@nennmani