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いつきのみやと今様の謎

 2021/04/25(Sun)
 またまたご無沙汰しております、コロナですっかり美術展禁足令となり、早一年が過ぎてしまいました。以前であれば考えられないような生活ですが、馴れとは恐ろしいもので、これはこれでこんなものかと段々当たり前になってしまいました。おかげで長らく東京に行かず、美術散歩もすっかりご無沙汰の代わりに、目下せっせと図書館通いの日々を過ごしています。

 というわけで、今年になってから今まで見落としていた賀茂斎院関連の論文を色々と見つけまして、またちょっとばたばたしていました。というのも、雑誌掲載の論文はCiNiiやBoogle Scholarで割合早く情報が出ますが、図書掲載の論文はなかなか探しにくく厄介なのです。特に斎院長官についての論文は、本自体は昨年に出ていたのに全然気づかず、今年の2月になってからたまたま情報に遭遇して慌てて図書館に取り寄せをお願いする羽目になりました(学術書は高くてなかなか全部は買えないのです…)。

 ところでもう一つ、斎院御神楽についての論文(これは初出時に確認済)がやはり本になったので改めて読み返してみたところ、24代令子内親王と今様について取り上げた研究書があることを知りました。『今様の時代――変容する宮廷芸能』(沖本幸子)という本で、発行は2006年なのですが、今様となると守備範囲外ということもあって全然気づかなかったのです。
 しかし賀茂斎院と今様とは、今まであまり考えたことのなかった組み合わせですが、考えてみると令子の姉は田楽大好きで一大ブームを巻き起こした郁芳門院ですし、弟の堀河天皇も知る人ぞ知る音楽好きです。白河天皇とその子供たちはどうやら音楽の素養のある一家だったようで、当時の宮中は賑やかで明るい雰囲気だったのでしょうね。



 さてそれはいいのですが、この『今様の時代』でもう一つ、大変興味深い考察に遭遇しました。
 『今鏡』の最後の方「敷島の打聞」に、斎宮御所で起きたというとあるエピソードが紹介されています。ちょっと難しいですが、原文は以下の通り。

 いづれのいつきのみやとか、人の参りて、今様うたひなどせられけるに、末つ方に、四句の神歌うたふとて、
  植木をせしやうは 鴬住ませむとにもあらず
と歌はれければ、心とき人など聞きて、「憚りあることなどや出で来む」と思ひけるほどに、
  くつくつかうなが並め据えて 染紙よませむとなりけり
とぞ歌はれたりけるが、いとその人歌詠みなどには聞えざりけれども、えつる道になりぬれば、かくぞ侍りける。この事刑部卿とか人の語られ侍りしに、侍従大納言と申す人も侍りしが、さらば理(ことわり)なるべし。

 どの斎宮のことだったか、御所に人々が参上して今様を歌っていた時、神歌で「僧」「経」という言葉が出てくる歌がありました。(斎宮御所で)それを歌ってはまずいのでは?と他の人が思っていると、歌い手はとっさに「僧」を「かうなが(髪長)」、「経」を「染紙」に置き換えて歌ったそうで、その道の達人だからできたことなのだろう、という話です。
 この斎宮が一体誰だったのかは最後まで明かされず、また歌を詠みかえた人物も官職だけで名前は記されていませんが、従来の説では刑部卿は平忠盛(清盛の父)、また侍従大納言は忠盛と親しかった藤原成通とされています。これについて、沖本氏は刑部卿は今様の名手であった藤原敦兼であろうとし、また「いつきのみや」を斎宮ではなく斎院令子内親王ではないか、と推測しているのです。大変魅力的で面白い説ですが、ここでちょっと待てよ、と思いました。

 平安時代に「いつきのみや」と言えば、頭に「賀茂」と付かない限り、普通に考えて連想するのはやはり伊勢斎宮でしょう。私も全部の文献を確認したわけではありませんが、斎院を「いつきのみや」と表記した史料というのは、あまり覚えがありません。
 さらにもうひとつ、この逸話は『延喜式』に定められた斎宮忌詞が深く関わっています。当時神事の場では仏教に関するものは忌避されており、従って斎宮でも「僧侶」とか「経典」のような言葉は穢れに関する言葉と同様にタブーだったというのは、ちょっと斎王について知識のある人ならご存知でしょう。
 しかしここに重大な落とし穴がありまして、同じ『延喜式』に定められた賀茂斎院の忌詞には、何故か仏教関係の言葉は含まれていないのです。ということは、「僧」を「髪長」と言い換える必要もなく、つまりこの逸話自体が斎院では生まれるはずがない、ということになってしまうわけで、ということはやはりこれは賀茂斎院ではなく伊勢斎宮での話なのではないでしょうか。

 またもう一点気になったのが、従来「刑部卿」=平忠盛とされてきた理由です。そもそも忠盛の最後の官職が刑部卿であったことから、死後の彼の呼称は「刑部卿」「刑部卿忠盛」が一般的だったようで、当然それが大きな理由の一つでしょう。ただもしかするともう一つ、彼が「伊勢平氏」であることも関係があるのでは、と思ったのです。
 もっともちょっと調べてみたところ、忠盛の時代には一族の基盤は伊賀へ移っていたらしいのですが、と言っても伊賀といえば伊勢のすぐお隣です。あいにく平氏については勉強不足でよく知らないのですが、『今鏡』執筆当時忠盛の(さらにその子清盛の)一族が「伊勢平氏」という認識であったのなら、地元である伊勢の斎宮御所に出入りするのは当然の事、と思われたのではないでしょうか。

 というわけで、沖本氏の論文より後に出版された『今鏡』注釈書でもこの点は特に追及されていなかったこともあり、問題提起としては面白いかと思って令子内親王の項目に載せてみました。できれば問題の「いつきのみや」が誰なのかを特定できればもっと面白いのですが、目下のところそこまでの手がかりはなさそうなので、これは今後の宿題としてまた改めて取り組んでみたいと思います。

 そうそう、最後になりましたが、今回の更新で『天皇皇族実録』のリンク情報も追加しました。あいにく近場にゆまに書房の復刻版を所蔵している図書館がないため、以前は東京まで出向かないと閲覧できなかったのですが、いつの間にか宮内庁のDBで原本が全巻公開されていて、これは本当に大助かりでした。
 とはいえ、天皇によってはどの巻に斎院になった皇女が掲載されているのか判りにくいため、すぐに探せるように全斎院にリンクをつけました。もちろん斎院以外の皇子・皇女や后妃の情報も充実した貴重な資料ですので、ご存知なかった方は是非ご利用ください。
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