1972年4月20日生まれ
川崎市立長沢小学校・長沢中学校卒業後、渡米
米国アトランタ・マッキントッシュ高校卒業
米国ファーマン大学卒業(政治学専攻)
衆議院議員秘書を務めた後、2003年神奈川県議会最年少で県議会議員(宮前区)に初当選。2007年、県議会議員2期目当選。2009年、川崎市長選挙に挑戦するも惜敗。
早稲田大学マニフェスト研究所・客員研究員、県知事秘書などを経て、2013年10月川崎市長選挙で初当選。第12代川崎市長に就任。
● 趣味:料理、キャンプ、ボーイスカウト活動
● 家族:妻、長女、長男、次男の5人家族。宮前区在住
川崎市は、関東大震災の翌年、復興の中から市制が誕生しました。
先の戦争で中心部は焼けつくされ、しかし力強く立ち上がりました。
公害に苦しみましたが、青空を取り戻し、環境先進都市となりました。
度重なるピンチをチャンスに変え、課題を成長に繋げてきた、しなやかな力強さが、わがまち川崎の誇るスピリットです。
いま社会が抱える大きな課題を成長や豊かさに変えていきたい。
そのことを市民力で乗り越え、創り出していくリーディング都市でありたい。
これからも“市民市長”として、対話と現場主義で全力を尽くします。
1972年(0歳)
昭和47年4月20日生まれ。この月に川崎市は政令指定都市になりました。
1977年(5歳)
楽しい幼稚園の思い出は甘いオレンジの味がします。
1979年(7歳)
ジャイアンツの選手に憧れた時もありました。
1983年(11歳)
小学校・中学時代はボーイスカウト活動が何より楽しかったです。(募金箱を持っているのが私)
1985年(13歳)
仲間と励まし合い、助け合いの登山は、以降、私の趣味になりました。
1988年(16歳)
中学卒業後、父の転勤により米国アトランタへ。大苦手だった中学英語からいきなり現地校へ。大変でした。
1989年(17歳)
休みの度に、ひとり車を8時間走らせて政治の都、ワシントンD.C.へ行きました。
1990年(18歳)
高校生が当たり前のように地域貢献活動をしたり、政治を議論する姿勢にカルチャーショックを受けました。
1993年(21歳)
大学での寮生活。政治学を専攻しました。毎日出される宿題の量にヘロヘロ(笑)それでも、楽しかった。
1995年(23歳)
無事卒業しました。
1997年(25歳)
衆議院議員会館での勤務。松沢しげふみ事務所で7年間お世話になりました。
2000年(28歳)
山登りは、社会人になってからはあまり行けなくなりましたが、やっぱり最高!
2003年(31歳)
県議会議員へ初挑戦。若い仲間と一緒に戦った初めての選挙。必勝祈願の一コマです。県議会最年少での当選になりました。
2005年(33歳)
「虫の目、鳥の目」で県民、県土を考えて議会で提言しました。荒廃する山林や海岸浸食を上空から視察した経験は印象的でした。
2006年(34歳)
水源環境保全対策には特に力を入れました。荒れ果てた山林を歩いて視察しました。
2006年(34歳)
県議会サッカー部の一コマ。この時ばかりは議会の党派は対立なしでした。
2007年(35歳)
予算委員会では、税金の効率的、効果的な使い道について厳しく質問しました。
2007年(35歳)
本会議場でも質問に立ちました。毎回、行政のチェックという観点だけでなく、提案型の質問を心がけました。
2009年(37歳)
「次の川崎市長」を目指して、現市長に挑戦するも及びませんでした。
2013年(41歳)
川崎市長選挙で初当選
私が「よし、政治家になろう!」と思い立ったのは、高校3年生の時です。
中学校を卒業後すぐ、父の転勤に伴い米国へ行くことになり、現地の高校に入学しました。学校の授業で政治について先生と生徒、また生徒同志が活発に語り合う光景は、まさにカルチャーショックと言うにふさわしいものでした。また放課後家に帰れば、ご近所の方々が頻繁に集まり、自分達の住む街の学校、道路、環境、防犯などの様々な分野で、お互いを尊重しながらも真剣に意見を戦わせていました。まさに私が “自治”というものを初めて目の当たりにし、実感をしたのはこの時です。そんな時、祖国日本は相変わらずの政治体質で、何度スキャンダルが起きようと大勢には影響しない緊張感のない政治。それが半ば当たり前ともなっていたような状態でした。
やり場のない不甲斐なさを感じていたこの時期に、ワシントン DC を訪れる機会があり、ケネディー大統領の眠るアーリントンの丘へ行きました。そこで生まれて初めて碑に刻まれたケネディー大統領の就任演説を読んだ時、身体全体から奮い立つものを感じました。かの有名なスピーチの一説、「国が何をしてくれるのかではなく、貴方が国に何ができるのかを問うてほしい。」です。
より良い社会をつくるのは、私たち一人ひとりの意志だというごく当たり前のことを、もっと真剣に考え、そして行動する必要があるのではないかと痛切に感じたのです。