ブッダは「生きることは苦しみである」と説いた。芥川龍之介も、「どうせ生きているからには、苦しいのは当たり前と思え」と発言している。私が言っても琴線に触れないだろうが、偉人らが言うと、妙に説得力がある。この現世こそが、まさしく地獄ということなのだ。その証拠に、毎年少なくとも2万人が自殺している。若者の死因第1位も自殺。それも日本という、比較的豊かな先進国で起きている事態だ。
豊かになることは、なにもメリットだけではない。ここからは私の推測も入ってしまうが、豊かになればなるほど当然ながら生活水準は上がる。その生活を維持するコストも、それ相応にかかる。
さらに、インターネットの普及で物欲が刺激され、何が本当に必要か判断する能力が下がっている。ちょっとSNSを開けば、タイムラインに高級料理を目の前にした写真が定期的に流れてくる。でも、自分が食べるのは400円くらいの牛丼。まるで馬鹿にされているような気分にもなるかもしれないし、悲しくなってきてしまうかもしれない。
つまり(言葉は悪いが)お金持ちと貧乏な人の住み分けが曖昧になったことで、ストレスを感じやすい世の中になったのだ。夕飯にカツ丼を食べて、それで充分と思っていても、SNSにはウナギを食べたという報告があったりする。その情報は果して必要なのか。私もSNSに嫌気が差してアカウントを削除し、いったん離れたことがあるが、「余計な情報を入手にせず生活する」これほど快い過ごし方があるとは知らなかった。快適そのものである。
話が少し脱線してしまった。自殺願望のある人は当然ながら死にたいと思っている。まずなぜ死にたいと思うのか。その原因とメカニズムを解明しないといけない。実は私は、その原因のひとつとして、先述した情報化社会があると思っている。人間、上を見たらキリがない。セレブや、それに準ずる人、人気芸能人なんかの情報を毎日のように入手していれば、「どうして自分はこうなのだろう」と、だんだん気が滅入ってくるのも致し方あるまい。
私の知り合いで、25歳にして首吊り自殺をしてしまった男がいた。彼には彼なりの事情があったはずだし、仕方ない選択だったのかもしれない。だが、私は今でも、相談相手にならなかったことを悔やんでいる。私の他にも、悲しんでいる人はいるだろう。
「生きててナンボ」私はこの言葉が地味に好きだ。そう、人間は生きていてこそナンボである。死んでしまえば骨だけになって、土に埋められてしまう程度の存在なのだ。
命は、とても重い。お金がなかろうが、信用を失おうが、学校を中退しようが、逮捕されようが、命があれば裸一貫やり直すことはできる。繰り返しになるが「生きててナンボ」。今、苦しい状況に置かれている人も、少しばかり我慢すれば、その状況から脱することができるかもしれないのだ。決して早まってはいけない。
これは私見で、ソースがないのであまり真に受けないで欲しいが、自殺を完遂してしまう人にはわりと衝動性が強い傾向がある。根は真面目だが、自己の感情のコントロールが苦手とでも言おうか、我慢、忍耐を苦手とする。そして数多くの悩みを抱えて頭の中がパンクし、錯乱した状態になって衝動的に自殺するパターンはわりと多いように感じる。他にも自殺で亡くなった方を何人か知っているが、ベランダから飛び降るなど、いずれも衝動性や勢いが必要な方法で自殺している。
それにしても、自殺で親より先に逝く、これほど悲しくて悲惨な最期はない。まるで苦しむために生まれてきたようなものになってしまう。人それぞれに解釈はあるだろうが、私は自殺では死にたくない。言い方が失礼かもしれないが、人生における敗北宣言のようなものと考えているからである。
人間も所詮は動物。寝て、食って、働いて、セックス(オナニー)に興じていればそれでいいのである。それ以上、あれやこれやと求めていれば、手に入らないストレスに蝕まれて精神を病むのは当然、というのは言い過ぎだろうか。