高橋脩 拘置所からの手紙①
内閣府賞勲局は勲章の授与者については審査を厳格にせよ
前略用件に入ります。平成天皇は在位中毎年多くの功労功績のあった人々に叙勲されてきました。
トータルすれば多大な人数になります、その中に日本一番の不適当不適切な人がいたことは知らなかつたと思います
内閣府ショ-クン局がやつていることです天皇様は知らなかつたこと、心いためないでください。選考違反等多大にありますがそれどころでないもっと人間としての本質に係わる事です。
玉澤の父は、息子徳一郎によって自殺へ追い込まれた
自分の血の繋がった親から金を絞りに絞り上げ親(惣平)はどうにもならなくなつて、S、54年暮 倅徳一郎を永田町の議員会館にSOSで急行したのです。その年の国会は年末ギリギリまで閉会できなかつた。惣平(父)が議員会館に付き、公設秘書の細川浩が議場から徳一郎を呼び出して親子二人奥の部屋に入つて一〇分もしない内にオマエマダソンナゴドシテルのが大変な剣幕で父をガナリツケガンガンは聞えるが 会話は聞き取れない(会館の防音工事はしつかりしてる)ガンガンがあまりにもひどいので女性事ム員には用件を付けて外出させた。
15分ぐらいして部屋の仕切のドアがこわれるような音がして徳一郎は議場え。惣平はしばらく出てこない 気にかかつたが入ること出来づ待つた。
ロ-ソクの様な顔色と油汗で出て来てバカ丁寧な挨拶で帰つた、いやな予感がした。
その四日後朝田老の実家で惣平は首を吊つて発見された。秘書の細川氏は命令を受け田老に急行して警察 役場等々一切を命令通り ソノ一年後ウツ病とウソの云でまるめて火葬埋葬の手続全部をやらされた。
細川氏はこれは人間としての道からはづれたものだ、せめて徳一郎の弟健児さんには本当のこと話さなければ 自分も人間でなくなつてしまう、私に健児さんの住所聞き出して同行して会つてくれとのことでした。
私はそれをやれば惣平さんが生き返るわけもないからと細川氏をなだめました。それから間もなく細川氏は去つて行きました。
早大の裏門からの入学
徳一郎は早大に入学するにも金を束で大学に寄付して入学してます。窓口は石川準十郎 盛岡(玉山)出身の早大の教授です 日本にナチスヒトラ-を早くに紹介導入した人です。徳一郎の母 英子とその実姉 大丸屋(当時盛岡一番の和菓子屋)のオカミサンはこの石川教授と長年密接に結ばれていました。
教授とはお友達だと自慢したことがあります もちろんお金が絡んでの事です。
岩手県北盛岡方面で石川教授に早大の裏門を紹介された人は長年にわたつて多大な人数になります。(貴様なんでソンナコト知つてる??県南で親子二代同じこと出来た人から閉めて知ってる その人は誰れの前でも証言すると云つてます。)
徳一郎なる人間は大丸屋のオカミサン母英子この二人のマザコンに石川教授も加わり変形奇形児になるのもあたりまえと私はみます。
大学生になって石川先生は憧れの人から父親的な存在になつて行つたのです。
カルトM.R.A.の洗脳を受けて人の心を失う
私とシンミリした話の中で母の血統は良いが 父はよくないと云つたのには驚きました。あまりにひどい話なので記憶に残つます。大学生になつてその気持ちから右翼の持急新幹線で右え右えと邁進してからの終着駅は道徳再武装(M.、R、A)教祖フランクブツクマン(宣教師)アメリカネオコンの一派です。
カルト集団です、解りやすく云えば麻原ショ-コ-のオオム教の親戚みたいなものと私はみてます今カンコクのトーイツ教会と仲良しになつてます。
大学院のとき金など出さなかつた父惣平さんが正しかったのです。手おドロにして働いだ金二年もセツセツと送つたのはバカとしか云よがないです
全国探しても二人といないでしよう、ところがそれがS、54年の父に対してのイジメガナリツケそして首吊まで行ってしまうのです。
阪神大震災当時、玉澤は防衛庁長官だった
このような人間性の下地からとんでもない問題に発展したのが阪神淡路大震災でのブザマな大惨事です。このときの防衛庁長官(大臣)は徳一郎です。このブザマは私が書くのもおこがましいですが思い切つて書きます二千名からの人々がトジコメられたりハサマレたりしてしまい道路がツブレ消防では動きが取れない。
この状態に機材を持込み救出消火等出来るのは ヘリコプタ-を存分につかえる自衛隊しかないぐらいのこと 小供でも気のきいた者は考えることです、知り会の自衛隊のO、Bの方は今でも残念だと云つてます。
今日はここまでとします 又書きます
〇〇君え 脩より
MRAについて
道徳再武装(どうとくさいぶそう、英語: Moral Re-Armament、略称MRA)は、1921年にメソジストのフランク・ブックマン[1]牧師率いるオックスフォード・グループ[2]が発展する形で発足した、キリスト教に端を発し、あらゆる宗教や社会的背景に属する人々によって構成される非政府の国際ネットワークである。MRAは、「4つの絶対標準」[4]と呼ばれる考え方に則っている。MRAはその支持者に対して、政治的活動や社会的活動に参画することを奨励する結社。日本で参加した政治家は岸信介(CIAエージェント)が代表とされる。他に中曽根康弘などが有名。
高橋脩 拘置所からの手紙②
阪神大震災時、防衛長官はなぜ自衛隊を動かなかったか
前略用件に入ります。
揺が終わつて2時間後には第一陣が出動できるよう準備が出来てた待つても待つても出動命令は来なかつた。
今でも自衛隊の騙草になつてるとのことでした。
村山富市をツブスためわざとの説まであつたのです。その当日徳一郎は一本木(岩手県)の自衛隊に来てたことはたしかです、次の日の朝一番の新幹線で盛岡から東京え(トボケタ話です) 私はその真相を知りたいと長年考えてました。
しばらく後の事 志賀節さんも村上富市さんも隠居さんになつてお互行来してるとのことを知り志賀さんに聞いてくれとたのんだのです、志賀さんはサツソクの人です聞いたら村山さんの顔がみたことのない顔になつてしまつたので、話題を変えざるおえづ話を別の話に切り変たとのことでした。私もそれ以上の追跡は出来ませんでした。
みな様はみなさんの判断をして下さい。
金権政治の成れの果て
その後森総理が誕生したことはたしかです。森喜朗、小渕ケイゾ-、玉澤徳一郎 この三人は運命のイタヅラみたいなものに翻弄されたとしか言ようがありません。早大の雄弁会で一同に会してしまうのです早大雄弁会三羽ガラスと歌われたのもたしかです。玉澤はヤキモチ、ジエラシ-が特別です、二人に挟まれて狂うような苦しさだつたでしょう、自宅のWCで朝ガナリ声を立ててともあつたのです、そのころから天下を取る取るとお経のように譫を言い始めるのです。マトモな仕事など出来る神経でないです。
このようなS47年の時から満州の阿片のニオイの付いたような金が渇水のように流入したのです 私からの借りた一千万円が呼水となつたのはたしかです。
S、47年は金が流入し始めてから選挙まで日時がなかつた。
しかしS51年初当選までの勢はすごいものでした。七~八憶の金が流れ込んだのです、今のレ-トに換算してみて下さい、
(目を回さないで下さいよ)それは私らの知る範囲です、その外に千田正 秋田の石田将英 橋本ヤオジ 等々は私等の知ることでない当時の生命保険会社の外ム員基本給は一五,〇〇〇円ぐらいです 七~八憶とはどんな金か少しは解るでしよう。惣平の自殺はS、54年の晦です 二千万円などラクラク返済できたのです。大学院の学費のこともありますが 始めから弁済の気などないのです。誰に対してもです、私に対しても同じです。この様な者を世間ではゴロツキ、サギシと云うのです。
人間界からはみだしたものに叙勲等とは国家をユガメル外なにものでもないのです。内閣府ショ-クン局にはしつかりと問題意識を持つてもらわないと大変なことになると思います、国家の存亡に係わることと考えます。
桜を観る会 などとは全く別の話です。
親をガナリ付けイジメて首吊させてソノ年ウツ病とのことにして蓋に蓋を重ね40年も選挙民を欺き投票してもらい、国民を欺き大臣を二つもやる等とんでもないことです 大変な背信行為です、始めから終りまで公選挙法を守つたことなど一度もないそれに気付きながら捨鉢にしておいた私は重大な罪人です 本心でみな様に御詫します。
(沈黙は金だ)など故語ですな
S、20年八月末と記憶します アツキ飛行場にマツカーサーなる人が持つて来てくれた自由民主主義なる苗木みたいなもの花が咲いたでしようか 実を付けたのみましたか
私はみたような気がします 実もかじつてみたような気がします。西風で赤い毒リンゴの種子がとんで来て繁茂しないよう畑の手入れをしっかりやつておけばよいのです右だ左だと騒ぐのは当てはづれです。
選挙政治に我々一人ひとりが参加する意義
民主主義が成立ち人々が幸セに暮せる世にすることを選挙する人も、される人も真剣に考え毎日を行動するしかないでしょう、そうでないと昔誰かが云つた愚象政治となつてしまいます。中央も地方も議場にサギシ、ゴロツキを入れてはなりません、タマリ場にしてもなりません。貴様そんなエラソーなこと云えるかと云れそうなのでこのへんでやめます。
拘束されて一年になろうとしてます 仮釈放出来れば、阪神淡路に足をはこび線香を手向けたいと本気で考えてましたが出来ませんでした 被災された血縁の方々には誠に申し訳ありませんが塀の中から心を込めて祈つてます お許し下さい。三〇年も過ぎてるぞと云われると思います外に居るときは漠然としたものでした 塀の中にとじ込められて強く意識するようになりました(弱いものです)立派なこと云えないですね
今日はここまでです
〇〇君え 脩
高橋脩 拘置所からの手紙③
MRAに異を唱えた坊主
前略用件に入ります
昨今ユネスコの世界遺産が東北北海道の縄文文化に注目してます 発掘された遺骨から不具者 障害が強く生れたのに長年の生存が発見され医学界からも社会学からも多大に注目されてます。
私は北の民の優しい血の源流でないかと思つてます 私(S、12年1月生)の生れ育った岩手県花巻市石鳥谷町に、光林寺(時宗)と云う寺があります、私がお棺に入つたときお世話になる寺です、ここの先代の住職がルンビニー学園(障害者の学園です)なるものを創設立上げたのです、今はかなりの実績です このときの住職が私等が農村青年会のときの先生であり説教者であり田畑の事は別ですが人生の師だつたのです。
俺は日本人の食料をつくつてるの気概で胸が張り裂けるよう張切つてました、このころ町に近い地帯ではハサの稲穂がハサミで切り取られることが多々あつたのです私の祖父の実家(花巻空港の近く)でも大部の被害にあつたのですが全々ケロンとしてるのです ハラがスイテ持つ行つたのであればしようがないだろうの考えです、優しさとノホ-ヅというよですな。
このころ玉澤はMRAの活動で南米に行つてて航空郵便の手紙をくれました共産主は悪魔だ悪魔だ等としながら演劇活動やつてる等と書いてありました航空郵便など生れて始めて手にしたのです 昂奮しました 向が宣教師ならこつちは坊主だ みたいなもの 青年会の解りの良い者3~4人と寺に行つて自慢気に手紙を読んでもらいました。住職はしばらくなにも云わないので変に思つてました、しばらくしてお前等はこの様なものやつてはいけない でないとイマニ(後での意)人を殺すことになるぞ との説教でした、同行した仲間には顔が立ない 穴があつたら入りたいの気持でした。
このころ歌手の坂本九が上を向いて歩こうと歌つてるのが住職は気に入らないとのこと、上には限度がない、道を歩くときは右にも左にも寄つてはいけない 真中を行きなさい、上を向かないで足元をしつかりみてとのこと。仏教の中道の教え 説教が長くなつて外に出たとき東の空が少し明るくなつてたのが鮮明に思い出されます。それにつけても住職の眼力には恐れいります。
私は終つたときこの寺の世話になることを誇りに思てます。スパルタが素晴しい。ナチスヒトラーが凄い等と小供のころウソブイタ者は大人、老人になつても狂いが治らないですな、迷路に入つて出られなくなつてしまうのでしよう。
マインドコントロールは本当に怖いです私等は平成天皇様と同じ時代に育ち供有するものが多くあります。困つてる人によりそい手をさし延べる、南洋の島々を回つての慰霊のときは私も泣いてしまいました。
本当に御共労様でした。
勲章授与者の審査には宮内庁も参加するべき
叙勲について一言強く提言します。選考は内閣府だけでなく宮内庁も金も人員も十分に用してしつかり調査して強い立場で選考に参画するようにして下さい。外にも参画者があつてよいでしよう内閣府の一人舞台が一番に問題が多大です。憲法にも係わることと思いますがしつかりお願します 九十九%政治家が問題です
倅の選考で金を使い果しヤミ米にまで手を付け同業者に恐喝されてSOSで倅に行つてガナリつけられ 首吊して死んで頭が狂つて死んだなどとして始末父はヤミ米 倅が農林大臣 これはあつてはならないことなのです。
私の罪は殺人未遂ではない
大震災で二,〇〇〇名からの人々が防衛庁のヘリコプターさえ出動すれば助かつたのに玉澤長官大臣の出動命令が出ないばかりにミス ミス 火に巻かれて死でしまう。自衛隊法がわるい等として雪が降つた 雨が降つたとして自衛隊を出動してお茶をニゴしてる。マスコミも国民も云わづダンマリ これは日本国が捩じれていまつたとしか云ようがないです。ヨジレは私の今塀に入れられている件の裁判でも現れてます。
始め殺人未遂との取調べでした。私は殺す気など毛頭なかつたので頑張つて今の罪名になつたのです。その進行中に徳一郎の裁判所に提出した調書を見ました。
日本国の大臣二つもやつた者が裁判所に提出したものかと驚きでした。読んでる間に吐き気を覚えました。検事と玉澤がフザケながら書面を作ってるのがみえるようなものです。取調べ中のこと私は素直に取調べに応じていました。
その最中バカヤロ-80も過ぎてそれが解らないかとのことがありました。半年過ぎて今も解りません。
高橋脩 拘置所からの手紙④
マインドコントロール
前略 〇〇君え そろそろ終りたいと思います。用件
検事も徳一郎の勲章でマインドコントロールされたとみます。これは人間の脳ミソも骨の髄までも変質させてしまうものです。小供のころ吉田潤一君が不登校なつて松尾村から出て来なくなつてしまつたとき雪の中 夜気車で行つて連れてきた徳一郎はどこにも居ないのです。幻なのです、私も吉田君もその幻の影を親つてるだけで人生を翻弄されたとしか云ようがありませんな。
陛下からの勲章は大きな格式と力があるのです。それに似合う人物の所に座つてこそ本物の勲章なのです。座る場所間違えた 勲章などは世の災の元源にしかならない。
このような考えからその勲章をツブシてしまえの考えで徳一郎の家に行つたのですがツブス前に事故になつてしまつて、私は今ここに居るのです 年が明ければ84才です。
終幕です
これからの日本へ
外のみな様にお願します。日本国がヒン曲がつたり捩れたりすることだけは防いで下さい。
獣でも親子は庇い合います。なんの落度もない親をイジメて首吊させてなにが勲章ですか。
繰返になりますが私は嘘を書いたり創作したりなど一切してません下手クソの文面ですが意とするは解つてもらえると堅く信じて終ります
〇〇君え 脩
事件後多数のアクセスをいただきました。刑事事件となり国選弁護人によりホームページが閉鎖されましたが、事件の真実を皆様にお伝えしたく再掲する。
令和元年(2019)年12月、私は玉沢徳一郎元農相の自宅内で拳銃を発砲し自首した
長年主張してきた「貸金」の返済を改めて求める目的で玉沢氏宅に押し掛け、勲章を潰すためだ、上皇様にはなんの責任もないが、このような人物が勲章を授与されるなどあってはならないこと、内閣府賞勲局は果たしてどこまで調べたのか
私と玉澤と吉田君は、盛岡一高の柔道部の同期として青春を共にした。玉澤は早稲田大学に進学し、昭和44年の衆議院選へ出馬することになる
早稲田大学に進学した玉澤は、M・R・A(道徳再武装)という団体に入信、没頭して約2年間休学し、中南米を演劇等して回っていた。そんな玉澤の大学院時代に、私は、親も出さなかった学費を、手をドロにして野菜を作り、かせいだ金を願われるまませっせっと送っていた。
大学院を卒業後の昭和44年、衆議院選挙に出馬することになると、私は事務局長として、吉田君と共に選挙活動を行うことになった。
投票日の夜、太田橋の下で事務所の紙類を全部燃した。 バラマキメモは隠し持ってた。何が起きても、玉を守るの一念からである。一万八千の得票であったが、小生誰も出来ないことを、やってのけたの気分で誇りであった。投票の翌日文章違反が一つ出た、来たなと思い、バラマキメモを水で溶かしトイレに流した。
昭和47年、2度目の衆議院選への出馬を決めた玉澤は、会社設立して間もない私たちに選挙資金の融資を願った。
昭和四十七年七月、東京の右翼の超大物で、関山義人と云う人がいる。児玉誉士夫と同格の人物で、そのトップの番頭に、井上と云う大人物がいる、その人に選挙資金を願ったら、地元で金が出ないのでは出せない。地元で出るなら、出してやると云われたので是が非でも出してくれ、との話であった。
会社設立から一年そこそこ、余裕金等あるわけでない。 二三百の金では役に立つどころか、笑われると考えた。 誰彼に話せることでもない。経理の者が苦い顔をするなか、仮払金として壱千万円を小生名義に引出して、貴君の家に行き、借用証等、紙切一切無しで、小生の手から貴君の手に借した。
神農道では、この様な金は、命が担保だ。玉澤はこの一千万円を呼水に三千万円を借り入れた。一か月後位に、関山義人本人が来盛して主だった30名に檄をとばした。11月末になると選挙選が始まった。
実際に要された金額は10倍を超えるものだった。
結果は落選、しかしながらその後からの選挙資金は贅沢そのもので、法定費用は一度も守ったことはない。
昭和51年の衆議院選に三度目の出馬で当選する。念願の議員となった玉澤であったが、やがて政治思想、哲学、大義を無くした醜塊となり下がる
そこにいたのは、今となってみれば、私が知っている「玉」などではない。永田町に行って、金バッジをつけ、威張りチラシたいだけの、醜い野心の塊である。磨くなどしたら、ウンザリと、悪と害が、北上川のごとく流れ出す。防衛庁長官、農林水産大臣を努めたが、平成12年(2000)に落選する。「落選すれば引退」としていたが、引退を撤回した。