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30代斎院 怡子内親王(女王)


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
いし よしこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:輔仁親王(後三条皇子)
  (1073-1119)
母:源行宗女
未詳(1104-1110頃?) 未詳(1170以降?)
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
崇徳(1123~1141,いとこ孫)
近衛(1141~1155,いとこ孫)
後白河(1155~1158,いとこ孫)
二条(1158~1165,いとこ孫の子)
卜定:長承2年(1133)12月21日
   (中御門烏丸土佐守
    [藤原?]顕保宅)
初斎院:長承3年(1134)9月21日
   (大膳職)
本院:長承4年(1135)4月15日
退下:平治元年(1159)閏5月19日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
守子(1111-1156,異母姉妹)
 [伏見斎宮]
 父:輔仁親王
 母:源師忠女
卜定:保安4年(1123)6月9日
   (六角堀川)
初斎院:天治元年(1124)4月23日
野宮:天治元年(1124)9月27日
群行:天治2年(1125)9月14日
退下:永治元年(1141)12月7日
天皇譲位
妍子(1161没,いとこ孫)
 [吉田斎宮]
 父:鳥羽天皇
 母:藤原家政女
卜定:康治元年(1142)2月26日
   (母儀五條堀川第)
初斎院:康治2年(1143)2月22日
   (大膳職)
野宮:康治2年(1143)9月27日
群行:天養元年(1144)9月8日
   (長奉送使:藤原公能)
退下:久安6年(1150)5月10日
疾病
喜子(いとこ姪?)
父:堀河天皇?
卜定:仁平元年(1151)3月2日
   (●小路室町
    左馬頭藤原隆季宅)
 ●=亞+鳥、こちらを参照
初斎院:仁平元年(1151)9月19日
   (一本御書所)
野宮:仁平2年(1152)9月30日
群行:仁平3年(1153)9月21日
   (長奉送使:藤原忠基)
退下:久寿2年(1155)7月23日
天皇崩御
亮子(1147-1216,いとこ孫の子)
 [殷富門院]
 父:後白河天皇
 母:藤原成子
卜定:久寿3年(1156)4月19日
   (三條猪熊
    左馬頭藤原隆季家)
初斎院:保元元年(1156)9月
   (大膳職)
野宮:保元2年(1157)9月15日
群行:なし
退下:保元3年(1158)8月11日
天皇(父)譲位
好子(1148?-1192,いとこ孫の子)
 父:後白河天皇
 母:藤原成子
卜定:保元3年(1158)12月25日
初斎院:不明
野宮:不明
群行:永暦元年(1160)9月8日
   (長奉送使:宣房)
退下:永万元年(1165)6月25日
天皇譲位

略歴:
 長承2年(1133)12月21日、斎院に卜定。
 長承3年(1134)9月21日、初斎院(大膳職)に入る。
 長承4年(1135)4月15日、本院に入る。
 保延6年(1141)12月7日、崇徳天皇譲位、近衛天皇践祚。

12月27日、近衛天皇即位。
 久寿2年(1155)7月23日、近衛天皇崩御。

7月24日、後白河天皇践祚。

10月26日、後白河天皇即位。
 保元3年(1158)8月11日、後白河天皇譲位、二条天皇践祚。

10月20日、二条天皇即位。
 平治元年(1159)閏5月19日、病により退下。

号:北小路斎院

斎院長官:藤原重兼(長承4年(1135)4月1日~天養元年(1144)以前)
     源雅重[伯父](天養元年(1144)4月16日以前~保元2年(1157)4月3日)
     源基能[従兄弟](保元2年(1157)4月3日~?)

白河天皇猶子。
 母源行宗女は、父輔仁親王の従姉妹。
 (※輔仁の母基子(1049-1134)と行宗(1064-1143)が姉弟)
 異母兄弟に源有仁(花園左大臣,1103-1147)、守子内親王(伊勢斎宮,1111-1156)らがいる。
 斎院長官の源雅重は行宗の子で、行宗女の異母兄弟であったらしい。その後雅重の子基能も長官職を引継ぎ、親子二代で斎院怡子に奉仕した。

          ┌──────┐
          │      │
後朱雀天皇===禎子内親王   小一条院
      │          │
      │          │
      │         源基平
      │          │
      │          ├───┐
      │          │   │
    後三条天皇=======源基子 源行宗
      │     │        │
      │     │        ├─────┐
      │     │        │     │
     白河天皇  輔仁親王=====源行宗女  源雅重
      │     │    │        [長官]
      │     │    │         │
     堀河天皇   守子  ◆怡子       源基能
      │    (斎宮)            [長官]
      ├─────┐
      │     │
     鳥羽天皇   喜子
      │    (斎宮)
      ├──────┬─────┬────┐
      │      │     │    │
     崇徳天皇  後白河天皇  近衛天皇  妍子
             │          (斎宮)
   ┌────┬────┤
   │    │    │
   亮子   好子  二条天皇
   (斎宮)  (斎宮)

 父輔仁親王は後三条天皇第三皇子(母は小一条院孫の女御源基子)。夭折の同母兄実仁親王に次ぐ皇太子候補と目され、優れた資質から世間の期待も高かったという。しかし白河院が実仁親王の没後強引に我が子堀河天皇を即位させたことにより立太子を阻まれ、さらに永久元年(1113)の永久の変(千手丸事件)で閉門、不遇の内に没した。

 怡子の在任期間26年は歴代三位(16代選子内親王(57年)、14代婉子内親王(36年)に次ぐ)。『今鏡』執筆当時「六十などにや余り給ふらむ(60歳を越えている=嘉応2年(1170)頃には存命?)」とあり、逆算すると天仁3年(1110)以前の生まれか(祖父源行宗(1064-1143)の年齢から見て、母行宗女は少なくとも1180年以降の生まれと見られ、1110年当時30歳以下と考えると矛盾はない)。
※なお斎院卜定の上限を30歳と仮定すると、怡子の生年は1104年以降ということになり、これも『今鏡』の記述と一致する。

 1133年当時、伊勢斎宮は異母姉妹の守子内親王であり、怡子卜定から1141年の守子退下までの8年間、姉妹揃って斎宮・斎院の任にあった。天皇の娘ではない皇女が姉妹同時に斎宮・斎院となることは極めて珍しく、この斎宮守子・斎院怡子の例のみである(ただし両名共に内親王宣下を受けていたようで、女王の斎宮・斎院ではなかった)。
※姉妹の女王が同時に斎宮・斎院となったケースとしては、斎宮繁子女王・斎院穆子女王が初例だが、元慶8年(884年)3月22日の斎宮繁子卜定の際既に父光孝天皇は即位している。また繁子自身も同年4月9日に内親王宣下を受けたため、姉妹女王の斎宮・斎院であったのはわずか20日ほどであった。
 なおもう一例、後朱雀天皇の斎宮良子・斎院娟子も長元9年(1036)11月28日の卜定時は女王であったが、この時も父後朱雀天皇は既に即位済で、良子・娟子姉妹も同年12月5日には内親王宣下を受けている。

 怡子が卜定された頃、崇徳天皇には皇子女はまだなかった(※その後も生まれたのは皇子2人のみで、皇女はなかった)。また崇徳の姉妹(鳥羽天皇皇女)も、同母の28代統子内親王・29代禧子内親王が既に斎院となっており、それ以外の異母妹達(八条院、高松院等)も生まれる前のことであったため、斎王候補となる「内親王」は存在しなかった。さらに鳥羽天皇の兄弟にも親王宣下を受けた皇子はおらず、よってその娘の女王もいなかったため、崇徳から見て祖父の従姉妹という遠い血縁ながら、白河天皇猶子として内親王宣下された怡子が卜定されたと見られる(あるいは斎院卜定にあたり宣下を受けた可能性もある)。
 なお怡子の異母兄弟・源有仁も白河院の猶子となっており、姉妹の怡子を猶子・内親王としたことも、失脚した弟輔仁親王に対する白河院の配慮の表れと思われる。また同じく輔仁の娘である斎宮守子(1111-1156)についても、『中右記部類』第27・臨時神事第9「斎宮群行下」(天治2年9月14日条)は「守子内親王」と記している(『本朝皇胤紹運録』『帝王編年記』等も同様)。守子は有仁の同母妹であるので、守子もまた共に白河院の猶子とされ宣下を受けていたと思われる。

参考論文:
・所京子「『中右記部類』斎宮守子の群行発遣記録」
 (『斎王の歴史と文学』p163-202, 国書刊行会, 2000)

参考リンク:
『天皇皇族実録80.後三条天皇 巻2』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※怡子内親王(後三条皇孫女)については119~128コマにあり
≪斎院・怡子とその周囲の系図≫

 後三条=====源基子
  │   │
  │   ├───┐
  │   │   │
  白河  実仁  輔仁
  │   (東宮)  │
  │       ├─────┐
  │       │     │
  堀河      怡子    守子
  │      (30代斎院)  (斎宮)
  │
  │
  鳥羽=======藤原璋子
  │    │   [待賢門院]
  │    ├─────┬────┬────┐
  │    │     │    │    │
  近衛   崇徳   後白河   禧子   令子
             │    (29代)  (28代)
             │
             二条

【輔仁親王の娘たちについて】
『天祚禮祀職掌録』によれば、崇徳天皇の即位(保安4年(1123)2月19日)で褰帳(けんちょう/天皇の即位式において、天皇が座る高御座(たかみくら)の御帳を開く役の女王・女官)を務めた「仁子女王」は、輔仁親王女であるとされる。この仁子が当時既に成人していた(=裳着を済ませていた)と仮定し、大体13歳以上とするならば、崇徳帝即位から逆算して少なくとも1111年以前の生まれかと思われる。『今鏡』に仁子についての記述はなく生母も不明だが、名前が「仁子」で父輔仁の片諱(かたいみな/親の名から一字を取った名前)であることから、長女もしくは次女であろうか(記録にはないが、姉妹に「輔子」がいた可能性も考えられる。なお参考までに、後述の顕広王の娘で褰帳を務めた「顕子」女王は恐らく長女で、妹(四女もしくはそれ以下)に「広子」女王もいたことがわかっている)。
 斎王は2歳で卜定の例もあるが、褰帳は平安中期には典侍が任命されることも多く、天皇即位という晴れの舞台において臣下一同の前に初めて即位した天皇の姿を公開するという、非常に重要な役割を担うものであった。よって本来は幼児に務まる役目ではないと想像され、仁子は当時輔仁の娘の中でも年長の方であったかと思われる。
※これより約40年後の六条天皇即位式における褰帳女王について、『顕広王記』永万元年(1165)7月27日条に「抑女子参褰帳<十歳>、頻雖申辞退難遁、仍今暁参入東廊宿所」とある。この時褰帳女王となった顕広王の娘信子女王は当時10歳で、上記記述から顕広王が始め辞退したことがわかる。
 この辞退の理由として、小松馨氏は経費の莫大なことと共に、信子女王自身の年齢が幼かったこともあろうとしている。大役を務めるには年少すぎる信子女王が敢えて任命された理由は不明だが、当時は親王・内親王宣下の減少に伴い王・女王の人数も減少しており、斎宮・斎院卜定と同様に候補者が少なかったことが大きな要因かと思われる(なおこれ以降、褰帳女王は代々白川伯王家の女子が任命されるのが慣例となった)。

参考論文:
・小松馨「即位儀礼と白川伯王家」(『神道体系月報』87, p5-8, 1989)
 ※『神道体系/論説編・伯家神道』(神道大系編纂会, 1989)付録

参考リンク:
・『顕広王記』全文画像(大和文華館本)
 国文学研究資料館・電子資料館提供。
 「所蔵和古書・マイクロ/デジタル目録データベース」目録検索画面で検索。
 (※永万元年(1165)7月27日条は27コマ目にあり)

 なお斎宮守子内親王が卜定されたのも、崇徳天皇即位と同年の保安4年(1123)6月9日であった。仮に怡子が1110年以前の生まれとすれば、守子の異母姉ということになる。既に褰帳を務めた仁子女王は候補外としても、この時怡子が選ばれず正室所生の守子が卜定された理由は不明であるが、可能性としては当時怡子が母方の親族の喪中であった等が考えられる。
『一代要記』では怡子を輔仁の第三女としているが、守子(1111-1156)・仁子との年齢差は不明である。長女「輔子」が存在したと仮定すれば、次女が仁子、三女が怡子で、守子は四女であったかとも考えられるが、輔子は早世して仁子、守子、怡子が長女、次女、三女と見なされていた可能性もある。

 ところで『長秋記』元永2年(1119)11月23日条で病篤くなった輔仁親王の様子を述べる記事には、家領の処分(相続処理)について「家領荘園等可奉介[分]三位中将(源有仁)并姫御前也」とある。このことについて、『長秋記』の記主源師時(左大臣源俊房の次男)は輔仁から子供たちのことを託されており、特に「就中三位中将姫君事偏所憑汝也、姫君無縁人也、如汝子可思也」との記述がある。
 師時は生母が源基平女で、さらに大納言源師忠の娘を妻としており、輔仁とは従兄弟であると同時に妻同士が姉妹の相婿でもあるという近しい関係だった。輔仁室(1102年結婚)は有仁(1103-1147)と守子(1111-1156)の母でもあるので、師時にとっては有仁・守子兄妹は従兄弟の娘であると同時に妻の甥・姪にあたる(なお師時の妻もまた、師時とは父同士が兄弟の従姉妹である)。さらに怡子の母行宗女も、輔仁や師時の従姉妹であった(ただし源行宗は輔仁の叔父とはいえ、当時は兵衛佐にすぎず、行宗女も輔仁の妻の一人とされるが恐らく側室かと思われる)。
≪輔仁親王・源師時周辺の系図≫

           源基平
            │ 
 ┌──────────┴───────┬────────┐
 │    ┌─────┐       │        │
 │    │     │       │        │
 女===源俊房   源師忠     源基子      源行宗
   │        │    (後三条女御)     │
   │    ┌───┤       │        │
   │    │   │       │        │
  源師時===女  輔仁室=====輔仁親王=====行宗女
                │   │    │
           ┌────┤   │    │
           │    │   │    |
          源有仁   守子  仁子   怡子
               (斎宮)     (斎院)

 輔仁室はこの元永2年の処分において荘園等の目録を託されており、また『長秋記』同年12月5日条には、「宮上(輔仁室)」が輔仁の葬儀にあたり服喪した等の記述がある。一方怡子の母行宗女の消息は輔仁薨去・葬儀の記事にも見られないが、怡子の外祖父源行宗(源兵衛佐、輔仁の母方の叔父)は葬送に供奉しており、「中納言殿(有仁)・姫宮(守子?)・母堂(源基子、輔仁の母)・源兵衛佐(行宗)・美濃権守(源忠宗、輔仁の従兄弟)・八郎大夫・今御前<兵衛佐孫也>・仁和寺禅公(信証、輔仁の子)給参服」とある。
『大日本史料』では「姫君」「姫宮」を「守子女王・怡子女王」の二人を指すものとしているが、文脈から見て複数の姫君たちを意味しているとは思われない。また「姫君」「姫宮」の名が登場する時は大抵「中納言殿(有仁)」または「宮上(輔仁室)」と共であり、処分においても有仁の次に重視されていることから、この姫君は正室腹で有仁の同母妹である守子のことと思われる(「無縁人」とあるのは、外祖父源師忠が永久2年(1114)に死去しており、さらに父輔仁の死によって頼りになる後見を失うことを指したものか)。
 なお上記の葬送に供奉した顔ぶれの中に「今御前」とある人物は、他の面々の殆どが輔仁の肉親か姻戚であることと、「兵衛佐(源行宗)孫也」という注から見て、怡子を指すと思われる(「姫宮」より扱いが軽いのは、正室腹でないことによるものであろう)。

 ところで、輔仁の葬儀に際して「姫宮并上出砌著服、於姫宮者不令著参服、幼少故也」とあり、「姫宮」は幼少のため服喪しなかったことがわかる。平安時代には幼児は両親の死にも服喪しなかったとされるが、この姫宮が当時10歳以下とすれば、4年後に褰帳を務めた仁子である可能性は低く、やはり9歳の守子と思われる。





崇徳天皇
史料 月日 記述
帝王編年記
十三代要略
ほか
長承2年
(1133)
12月21日 【怡子内親王、斎院卜定】
『帝王編年記』
(崇徳院)
齋院(中略)
 怡子内親王<輔仁親王女白河院御猶子 長承二年十二月廿一日卜定>

『十三代要略』
(崇徳院)
 長承二年 十二月廿一日。卜定怡子女王爲齋院。<輔仁親王女。>
中右記 長承3年
(1134)
2月12日 【四月斎院(怡子)御所料のこと】
(未入力)
中右記 長承3年
(1134)
4月15日 【初斎院の間御禊なしのこと】
(未入力)
中右記 長承3年
(1134)
4月18日 【賀茂祭。斎院不参加】
(未入力)
中右記 長承3年
(1134)
4月19日 【賀茂祭還立】
(未入力)
中右記 長承3年
(1134)
9月10日 【斎院諸司卜定】
 今日夕新中納言(藤原)伊通行斎院諸司卜定事、又有出車定云々、
中右記 長承3年
(1134)
9月21日 【斎院(怡子)御禊、初斎院(大膳職)に入る】
 今日斎院(怡子)御禊、入給大膳職、日者坐中御門烏丸土佐守顕保宅、前駈新宰相中将(藤原)重通、
秉燭之後被出河原、甚雨之間次第違亂、上卿新中納言(藤原)伊通卿、行事右中辨公行、大膳職新造伊賀守光房成功造進也、
行向一條留、
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
3月13日 【初斎院灌仏の例】
(未入力)
長秋記 長承4年
[保延元年]
(1135)
3月18日 【斎院(怡子)御禊のこと】
 參鳥羽殿、(中略)(藤原)伊通今日云、齋院御禊[傍書:齋院御禊雖凶會被用式日事、]、雖凶會可在式日、大宮齋院(悰子)不忌式日凶會、遠子并大齋院各居職、延長仍被問諸卿被用式日、
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
4月1日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
 御禊前駈定、上卿(藤原)伊通卿、宰相(藤原)経忠、
  大納言(源)顕雅、中納言(藤原)宗能、参議(藤原)家保、(藤原)公教、
  四位四人、忠基、通基、公隆、忠頼、五位四人、忠兼、公信、公重、光隆、
 斎院司除目被行、
  右少史大江季遠、    中務少輔平忠盛、兼、
  内舎人大江基景、    藤原奉忠、
  太皇太后宮少進藤原永範、式部録中原宗遠、
  醫博士丹波重成、    右京屬内蔵重貞、
  斎院長官藤原重兼、   次官藤原資康、
      高階業雅、   判官中原成清、兼、
      藤原重清、   主典惟宗義基、
      中原為俊、兼、  修理大屬菅野頼経、
    算師菅野成宗、   権大工平群重貞、
    少工藤井依兼、   権少工藤井武國、
    山城介紀教重、   大和守源重時、
    伊勢守平盛國、   阿波権守藤原實重、
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
4月8日 【灌仏なし】
(後略)
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
4月9日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
(前略)御禊前駈此中宮■[大夫?]有所勞不能勤仕由、以消息申關白(藤原忠通)殿了、(後略)
中右記
長秋記
長承4年
[保延元年]
(1135)
4月15日 【斎院(怡子)御禊、紫野本院に入る】
『中右記』
 初齋院御禊初入本院給也、午後天陰雨下、入夜渡大路云々、
  前駈源大納言顯雅、中納言(藤原)宗能、
   参議二人云々、<(藤原)實衡不参云々、>
   四位四人、五位四人、
   雑色所衆、
   所前駈御覽如常云々、頭辨候御前、
今夕檢非違使宣旨下右衛門尉宮道宗賢、是志成國死替也、上卿左兵衛督(藤原)宗輔、

『長秋記』
(前略)
<齋院御禊事、雖初齋院不依日次用式日事、>
御禊也、齋王(怡子)秉燭後渡給云々、雖初齋院、不依日次用式日吉例云々、前駈上達部大納言(源)顯雅、中納言(藤原)宗能、參議(藤原)實衡、(藤原)重通等也、其中、於宗能實衡者遂不參、被待之間臨夜陰云々、
宮通光賢蒙使宣旨、<右衛門尉、>志成國去頃死去、其替云々、上卿左兵衛督(藤原宗輔)也、
中右記
長秋記
長承4年
[保延元年]
(1135)
4月18日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記
長秋記
長承4年
[保延元年]
(1135)
4月19日 【賀茂祭還立】
(未入力)
宇塊雑抄 保延2年
(1136)
4月24日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 保延2年
(1136)
9月4日 【斎院祭の夢のこと】
(未入力)
別本台記 保延2年
(1136)
11月14日 【殿上中宮及び斎院(怡子)淵酔】
(未入力)
中右記 保延3年
(1137)
4月3日 【祭除目】
(未入力)
中右記
実能記
保延3年
(1137)
4月15日 【斎院(怡子)御禊】
(未入力)
中右記
実能記
保延3年
(1137)
4月18日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 保延3年
(1137)
4月22日 【甲斐国鎌田庄を斎院に寄進のこと】
(未入力)
古事談 保延5年
(1139)
4月25日 【斎院(怡子)、本院に帰還】
(未入力)
近衛天皇
史料 月日 記述
本朝世紀 永治2年
[康治元年]
(1141)
3月1日 【賀茂社に奉幣、斎院(怡子)の不替を奉告】
 權大納言藤實行今日參仗座。被立伊勢賀茂兩社奉幣使。依被告齋宮卜定。并齋院(怡子)不替之由也。以正三位藤清隆卿爲賀茂使。以散位橘頼兼爲次官。以神祇權大副大中臣定長。正親正顯廣王。散位從五位下齋部宿祢憲重。神祇少佑卜部兼継等爲伊勢使。顯廣王賜右馬寮御馬也。先是於八省東廊有大秡事。相召外記不參。
本朝世紀 永治2年
[康治元年]
(1141)
4月7日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
 權中納言藤原公能卿參左仗定申齋内親王禊前駈事。(中略)
仍上卿使左中弁藤資信朝臣書禊定文。(後略)
本朝世紀 永治2年
[康治元年]
(1141)
4月19日 【斎院(怡子)御禊】
 賀茂齋内親王(怡子)禊也。權中納言藤公能卿行之。參議各申障不參。又行事左中弁藤資信朝臣也。
本朝世紀 永治2年
[康治元年]
(1141)
4月22日 【賀茂祭】
 賀茂祭也。上卿(藤原)公能卿一人行之。参議各申障不參。(後略)
台記
本朝世紀
康治2年
(1143)
4月7日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
『台記』
(未入力)

『本朝世紀』
 權中納言藤公能卿參左仗定申齋内親王禊前駈事。參議同清隆卿書定文。(後略)
本朝世紀 康治2年
(1143)
4月10日 【斎院(怡子)御禊出車定】
(前略)今日。(藤原)公能卿參齋院有御禊出車定。(後略)
本朝世紀 康治2年
(1143)
4月19日 【斎院(怡子)御禊】
 齋内親王(怡子)禊也。權中納言藤公能卿。參議藤清隆卿行其事。右衛門佐藤宗保雖有失火之穢。勤仕前駈畢。但不着本院座(云々)
(十九日裏書)
 觸穢仁勤御禊前駈例
  長和元年四月廿二日。御禊如常。但從前日内裏有死穢。雖然所被行也。或觸穢人々奉仕。但不着齋院座。乍立奉仕者。
御禊前駈
 左衛門<佐藤家房 少尉源資清>
 右衛門<佐藤宗保 尉中原國清>
 左兵衛<權佐平家盛<番長經方取口> 少尉藤宗言>
 右兵衛<佐代伊勢守藤爲頼 尉源仲頼>
 次第使右馬允宮道成兼
本朝世紀 康治2年
(1143)
4月22日 【賀茂祭】
 賀茂祭也。近衛使。<右少將藤公親。>馬寮。<右馬助橘清則。>内藏寮使。<佐安倍信業。>(後略)
一代要記
公卿補任
康治2年
(1143)
12月24日 【外祖父源行宗薨去】
(未入力)
少外記重憲記
本朝世紀
天養元年
(1144)
4月7日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
『少外記重憲記』
(前略)今日、可有前駈定云々、然而不参陣、後聞、権中納言(藤原)重通卿、参議(藤原)顕業卿、左少弁師能、右少史宗遠参斎院、有出車定、外記不参事上卿頻被尋云々、然而依無先例不参云々、定了及申剋卿相参内、(中略)
 賀茂斎王禊日
  前駈
   左衛門権佐藤原朝臣親隆
   右衛門権佐藤原朝臣憲方
   左兵衛佐 藤原朝臣俊盛
   右兵衛佐 藤原朝臣季行
   左衛門尉 平朝臣家弘
   右衛門尉 藤原朝臣為成
   左兵衛尉 平朝臣正時
   右兵衛尉 藤原朝臣孝成
  次第使
   右馬助  源朝臣長俊
   左馬允  清原真人兼遠
    天養元年四月七日

『本朝世紀』
 卿相被定御禊前駈次第使。先於本院有出車定。
少外記重憲記
本朝世紀
天養元年
(1144)
4月13日 【斎院(怡子)御禊】
『少外記重憲記』
(前略)賀茂斎王御禊也、兼日行事外記任定文催前駈、<以廻文取奉、>仰左右京職召進属差文、当日上卿左兵衛督(藤原重通)、相公<藤宰相、><蔵人弁、>外記<忠弘、><宗遠、忠行依為伊勢斎宮群行行事不勤、>先著本院客殿座被行次第事之後、卿相連立一条堀川辺、<東上北面、>次弁已下乗車前行、前駈次第使等如定文云々、(後略)

『本朝世紀』
 御禊也。
本朝世紀 天養元年
(1144)
4月16日 【賀茂祭】
 賀茂祭也。長官(源)雅重依重服。次官友兼爲代官。(後略)
本朝世紀 天養2年
[久安元年]
(1145)
4月15日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
 卿相被定御禊前駈次第使。(後略)
本朝世紀 天養2年
[久安元年]
(1145)
4月19日 【斎院(怡子)御禊】
 御禊也。上卿權中納言(藤原)重通卿。外記重憲自閑路參禊所。行事外記忠光去十五日任山城介。不任其替。大外記大江知政依未●可爲行事之由雖被仰下。今日依當忌不能參仕。

●=伇(役の異体字。こちらを参照(字源))
本朝世紀 天養2年
[久安元年]
(1145)
4月22日 【賀茂祭】
 賀茂祭也。(後略)
本朝世紀 久安2年
(1146)
4月11日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
 權中納言藤[重]通卿參仗座。定申御禊前駈事。(後略)
本朝世紀 久安2年
(1146)
4月19日 【斎院(怡子)御禊】
 賀茂齋内親王(怡子)禊也。權中納言藤重通卿。參議同忠雅卿。權右中弁藤朝隆朝臣。權少外記三善成重。右大史中原頼季等行此事。
 前駈
  左衛門佐藤原家房
  右衛門佐代阿波守藤原頼佐
  左兵衛佐藤原俊盛
  右兵衛佐[代]美作守平親家
  左衛門少尉藤原惟俊
  右衛門少尉大江永重
  左兵衛少尉源行頼
  右兵衛少尉源重定
 次第使
  右馬權助源長俊
  左馬少允宮道頼盛
本朝世紀 久安2年
(1146)
4月22日 【賀茂祭】
 賀茂祭也。左近權少將藤原家明。内藏助和氣兼相。皇太后宮大進高階泰盛。各爲本所使。山城介大江久俊同以供奉。
本朝世紀 久安3年
(1147)
4月1日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
(前略)先是(藤原)重通卿定申齋王禊前駈事了。(後略)
本朝世紀 久安3年
(1147)
4月13日 【斎院(怡子)御禊】
 齋内親王(怡子)禊也。權中納言藤重通卿。參議藤經定卿。右少弁藤光房。權少外記惟宗長基。左大史小槻宿祢永業爲行事。
前駈
 左衛門權助藤原光頼  尉中原廣重
 右衛門佐藤原信隆   尉藤原為信
 左兵衛佐藤原重家   尉平貞清
 右兵衛權助藤原清成  尉藤原清成
 左馬助藤原資行<次第使>
 右馬少允惟宗信隆<同>
本朝世紀 久安3年
(1147)
4月16日 【賀茂祭】
 今日。賀茂祭也。(藤原)重通卿。(藤原)經定卿等先參本院。次向列見辻。右少弁藤光房。左大史小槻宿祢永業。權少外記惟宗長基等渡大路向社頭如常。但長基依觸昨日燒亡。不參本院。(後略)
台記
本朝世紀
久安4年
(1148)
4月3日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
『台記』
(未入力)

『本朝世紀』
 内大臣(藤原頼長)參仗座。定申齋王禊前駈事。參議藤忠雅卿書定文付藏人。右少辨藤光房被内覽。(後略)
本朝世紀 久安4年
(1148)
4月19日 【斎院(怡子)御禊】
 近日前齋院統子内親王有御不豫事<云々。>
今日。賀茂齋内親王(怡子)禊也。上卿權中納言藤季成卿。右中辨藤朝隆朝臣。權少外記惟宗長言。右大史三善兼康等爲行事。參議不參。
御禊前駈
 左衛門佐藤原宗保  權少尉藤原宗兼
 右衛門佐藤原信隆  權少尉中原清賢
 左兵衛佐藤原重家  權少尉源頼賢
 右兵衛佐藤原長成  權少尉大中臣盛弘
次第使
 右馬助藤定兼    左馬少允橘行兼
本朝世紀 久安4年
(1148)
4月22日 【賀茂祭】
 賀茂祭也。右近權少將藤原實長朝臣奉仕近衛使。内藏助和氣兼相爲本寮使。右馬助源朝臣盛業勤仕寮使。山城介高橋業盛同以供奉。(後略)
本朝世紀 久安5年
(1149)
4月9日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
(前略)次定申賀茂齋内親王禊前駈事。少外記中原長俊進硯例文等如常。(後略)
本朝世紀 久安5年
(1149)
4月19日 【斎院(怡子)御禊】
(前略)今日未克雨。下齋内親王禊也。權中納言季成卿。權右[中]弁光頼。權少外記中原在俊。右大史佐伯仲友等爲行事。今度參議不參。上卿先參本院。次立車見參見辻。弁外記史等渡大路如常。
前駈等
左兵衛佐藤隆長<●左近番長秦經方 ◆候一允者也 白襖上下 付造紙筥形>
  少尉宮道光重
右兵衛佐藤清成<無●數旅勤仕之故也>
  少尉藤原宗季
左衛門佐藤忠親<●左近府生秦武正 攝政随身同敦方<府> 縹上下付檜扇 紺青丹上下付幔左右張縄<云々>>
  少尉平忠遠
右衛門佐藤信隆
  少尉藤守光<檢非違使也>
次第使
左馬助源盛業  右馬允大江清遠

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
◆=示偏+弖
本朝世紀 久安5年
(1149)
4月22日 【賀茂祭】
 賀茂祭也。右少將藤公保爲近衛使。<●左將曺秦兼◆[弘]。新院御随身。付釼裝束。右將曺中臣重近。新院御随身。付童女裝束。>(中略)參議同公隆卿立車於列見辻行事。整行列。弁外記史同御禊日。

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
◆=方+ム
台記 久安6年
(1150)
4月3日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
(未入力)
本朝世紀 仁平元年
(1151)
4月8日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
(前略)申刻。左大臣。權中納言(藤原)忠基卿。參議(藤原)資信朝臣着右仗。先有位禄定事。次被定賀茂齋王御禊前駈。依當御物忌。先以藏人奏聞。次召大外記中原師直。内覽關白(藤原忠通)。即下給。事了。大臣以下退出。(中略)今日。依當神事無灌佛事。
兵範記
台記
本朝世紀
仁平元年
(1151)
4月17日 【斎院(怡子)御禊】
『兵範記』
(未入力)

『台記』
(未入力)

『本朝世紀』
 賀茂齋王(怡子)御禊也。權中納言(藤原)清隆卿。參議(源)雅通卿。權少外記中原師尚。右大史惟宗時重參着齋院客殿座行事。<左少弁範家雖爲行事弁。依爲右衛門權佐。勤前駈不着座。> 酉剋。齋王出本院。亥剋還本院。今日。前駈左衛門佐忠親雖蒙催。稱所勞遂不參。又不被催代官。左京進又不供奉。
宇槐記抄
本朝世紀
仁平元年
(1151)
4月18日 【藤原忠親、御禊前駈不勤により辞官】
『宇槐記抄』
(未入力)

『本朝世紀』
(前略)入夜。左大臣召權少外記(中原)師尚於里第。仰左衛門佐忠親辭官事。
  左衛門佐從五位上藤原忠親
左大臣宣。奉勅件人依爲巡●。雖蒙催促。不勤御禊前駈。闕如無止神事。所爲之旨。豈可然哉。◆令解却見任者。
   仁平元年四月十八日      權少外記中原師尚(奉)

●=伇(役の異体字。こちらを参照(字源))
◆=冝(宜の異体字。こちらを参照(字源))
本朝世紀 仁平元年
(1151)
4月20日 【賀茂祭】
 賀茂祭也。仍廢務。右近少將行通朝臣爲近衛府使。(中略)權中納言(藤原)清隆卿。參議(藤原)公通朝臣。左少弁範家。權少外記(中原)師尚。左大史(惟宗)時重參本院行事。今日。左大臣(藤原頼長)於一條室町<内大臣(藤原実能)棧敷>見物。行事弁外記史檢非違使等下車馬渡其前<云々。>
本朝世紀 仁平元年
(1151)
閏4月6日 【右京進国盛(姓不明)、斎院御禊前駈欠怠のこと】
 藏人左少弁範家仰外記云。右京進國盛乍蒙催闕怠賀茂齋王御禊前駈。早可召籠外記局者。
本朝世紀 仁平元年
(1151)
閏4月29日 【右京進国盛(姓不明)免職】
 藏人左少弁範家仰外記云。右京進國盛可優免者。
本朝世紀
百錬抄
仁平元年
(1151)
8月26日 【藤原仲盛と行康(姓不明)を、斎宮斎院召使を凌辱の罪で取り調べる】
『本朝世紀』
(前略)今日。大納言(藤原)伊通卿并參議(藤原)教長卿宅檢非違使行向。懸靭木於門上。責申凌辱齋宮參院召使之濫行下手人<云々><去四月比。少監物藤原仲盛執行信乃國沙汰之間。陵轢齋院召使。去比。又齋宮召使乱入教長卿宅。縫殿大夫行康蹂躙彼召使<云々>。付伊長卿被責仲盛。付教長卿責召行康<云々>。>

『百錬抄』(8月24日条)
 付使廳使於(藤原)伊通卿。(藤原)教長卿。譴責信濃阿波雜掌陵礫齋院下部之下手人。
兵範記 仁平2年
(1152)
1月8日 【斎院長官源雅重、正五位下に叙す】
(前略)今夕女敍位云々、執筆左府殿、男位相加、正五位下源雅重、齋院長官勞歟、
兵範記
本朝世紀
仁平2年
(1152)
4月13日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
『兵範記』
(未入力)

『本朝世紀』
 權中納言(藤原)清隆卿。參議(藤原)爲通朝臣着仗座被定賀茂齋王御禊日前駈事。(中略)
<賀茂齋王禊日>
前駈
 左衛門佐藤原朝臣忠親
 右衛門佐藤原朝臣信隆
 左兵衛佐藤原朝臣實國
 右兵衛權佐藤原朝臣清成
 左衛門少尉源朝臣滿清
 右衛門少尉源朝臣爲經
 左兵衛少尉源朝臣爲宗
 右兵衛少尉藤原朝臣保頼
次第使
 左馬少允紀朝臣宣盛
 右馬權助源朝臣時光
   仁平二年四月十三日(後略)
山槐記
本朝世紀
仁平2年
(1152)
4月18日 【斎院(怡子)御禊】
『山槐記』
 齋王御禊也、予前駈、

『本朝世紀』
 賀茂齋王(怡子)御禊也。權中納言(藤原)清隆卿。參議(藤原)爲通朝臣。<參議不參本院<云々>。>右少弁資長。權少外記大江以隆。左大史三善良康參入行事。今度右京進不供奉。
本朝世紀 仁平2年
(1152)
4月21日 【賀茂祭】
 賀茂祭也。仍廢務。未刻。權中納言(藤原)清隆卿。右少弁資長。外記史等本院行事。但參議不參<云々>。(後略)
本朝世紀 仁平3年
(1153)
4月6日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
 權中納言(藤原)經定卿着仗座。被定申御禊前駈事。參議不參。右少弁資長書之。定了。(中略)
賀茂齋王禊日
 前駈
  民部少輔藤原朝臣信保
  右衛門佐藤原朝臣信隆<改出羽守高階泰盛>
  河内守高階朝臣資泰
  右兵衛權佐藤原朝臣信頼
  左衛門少尉大江遠兼
  右衛門權少尉源義康
  左兵衛少尉源則信
  右兵衛少尉藤原爲貞
 次第使
  左馬助平朝臣定房
  右馬少允藤原親通
   仁平三年四月六日(後略)
兵範記 仁平3年
(1153)
4月7日 【右衛門佐信隆家火災。斎院(怡子)御禊前駈出立物具等焼失】
(未入力)
兵範記
本朝世紀
仁平3年
(1153)
4月11日 【斎院(怡子)御禊】
『兵範記』
(未入力)

『本朝世紀』
 賀茂齋院(怡子)御禊也。上卿權中納言(藤原)經定卿。參議(藤原)資信朝臣。右少弁資長。權少外記中原祐安。左大史清原宗景等行之。
兵範記
本朝世紀
仁平3年
(1153)
4月14日 【賀茂祭】
『兵範記』
(未入力)

『本朝世紀』
(前略)賀茂祭。上卿以下行事如御禊日。(後略)
兵範記
本朝世紀
仁平3年
(1153)
4月15日 【賀茂祭還立】
『兵範記』
(未入力)

『本朝世紀』
 今日齋王(怡子)還本院。(後略)
本朝世紀 仁平3年
(1153)
5月20日 【斎院の怪異を軒廊に卜する】
 權中納言(藤原)經定卿着仗座。行軒廊御卜事。齋院司言上去四月十五日夜南庭松樹顛倒事也。<依本所神事不淨不信所致歟。占。依神事不淨違例所致之上。從巽南方奏事歟。又恠所有病事歟。>(後略)
兵範記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
2月2日 【春日詣。斎院長官源雅重参列】
(未入力)
兵範記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
3月27日 【斎院判官名前】
(未入力)
兵範記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
4月15日 【賀茂祭延引】
(未入力)
台記
兵範記
仁平4年
[久寿元年]
(1154)
4月20日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
(未入力)
台記
兵範記
仁平4年
[久寿元年]
(1154)
4月24日 【斎院(怡子)御禊】
(未入力)
兵範記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
4月27日 【賀茂祭】
(未入力)
台記 久寿2年
(1155)
4月11日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
(未入力)
兵範記 久寿2年
(1155)
4月12日 【賀茂祭除目】
(未入力)
台記
山槐記
兵範記
久寿2年
(1155)
4月18日 【斎院(怡子)御禊】
『台記』
(未入力)

『兵範記』
(未入力)

『山槐記』
 御禊前駈左衛門代佐渡守為清、右衛門權佐惟■■兵衛佐通家、右定隆、行事辨雅教、■■■
兵範記 久寿2年
(1155)
4月21日 【賀茂祭】
(未入力)
後白河天皇
史料 月日 記述
兵範記 久寿2年
(1155)
9月3日 【斎院宮主のこと】
(未入力)
兵範記 久寿2年
(1155)
10月22日 【斎院次官名前】
(未入力)
兵範記 久寿3年
[保元元年]
(1156)
4月11日 【斎院(怡子)御禊】
(未入力)
兵範記 久寿3年
[保元元年]
(1156)
4月14日 【賀茂祭】
(未入力)
兵範記 保元2年
(1157)
3月26日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
(未入力)
兵範記 保元2年
(1157)
4月3日 【小除目。源基能、斎院長官に任命】
(前略)今日小除目、上卿左衛門督忠雅、藏人勘解由次官親範、宣下之、
 右京少進中原盛信、
 齋院長官源基能、<父(源)雅重譲、>
兵範記 保元2年
(1157)
4月5日 【斎院(怡子)御禊用途のこと】
(未入力)
兵範記 保元2年
(1157)
4月11日 【斎院(怡子)御禊】
(未入力)
兵範記 保元2年
(1157)
4月14日 【賀茂祭】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
4月17日 【斎院(怡子)御禊】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
4月20日 【賀茂祭】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
4月21日 【賀茂祭還立】
(未入力)
二条天皇
史料 月日 記述
帝王編年記 平治元年
(1159)
閏5月19日 【斎院(怡子)退下】
 二条天皇
 斎院怡子内親王<如元、平治元年閏五月十九日依病退出>



史料 記述
十三代要略
崇徳院
 長承二年 十二月廿一日。卜定怡子女王爲賀茂斎院。<輔仁親王女。>
一代要記
崇徳天皇
(賀茂)
 怡子内ヽヽ[親王]<輔仁親王女、長承二ー卜定、歴四代、送廿七年、>

近衛院天皇
(賀茂)
 怡子女王<元、>

後白河院天皇
(賀茂)
 怡子女王<元、>

二條院天皇
(賀茂)
 怡子女王
帝王編年記
崇徳院
(齋院)
 怡子内親王<輔仁親王女白河院御猶子/長承二年十二月廿一日卜定>

近衛院
(齋院)
 怡子内親王<如元>

近衛院
(齋院)
 怡子内親王<如元>

後白河院
(齋院)
 怡子内親王<如元>

二條院
(齋院)
 怡子内親王<如元/平治元年閏五月十九日依病退出>
二中歴
(齋院)
 怡子<輔仁親王女後三條孫 長承二年(奉遇四代帝治二十七年)>
皇代暦
崇徳天皇
(齋院)
 怡子女王 輔仁女長承二年卜定
本朝皇胤紹運録
(輔仁親王子)
怡子女王[齋院。號北小路齋院。長承二十二廿一卜定。母大藏卿行宗女]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
怡子内親王<號北小路(右傍書)> 長承二年卜定。輔仁親王第三女。後三條院孫。母大藏卿行宗女。<經四代朝。廿七年。>
賀茂斎院記
怡子内親王
輔仁親王之女也。<輔仁者後三条院之皇子。号三宮。>母大蔵卿行宗之女。
長承二年卜定。怡子之在斎院。暦崇徳。近衛。後白河。二条四朝。<前後二十七年。>
号北小路斎院。
今鏡
(8・月の隠るる山の端)
 三の親王(みこ/輔仁親王)の御子には、また信証僧正とて、仁和寺におはしき。(中略)
御むすめは、大臣殿(源有仁)の一つ腹(守子女王)に、伊勢の斎宮にて下り給へりき。後は伏見の斎宮と申しし、これにやおはすらむ。
 また(源)行宗の大蔵卿のむすめの腹に、斎院(怡子)もおはするなるべし。このごろ六十(むそぢ)などにや余り給ふらむ。その斎院におはせしころ、大臣殿、本院に有栖川のもとの桜のさかりなりけるにおはして、歌など詠み給ひけるに、女房の歌とて、

  散る花を君ふみわけて来ざりせば庭のおもてもなくやあらまし

とぞ聞えし。
行宗集
  • 長承二年十二月二十一日、斎院卜定次日雪朝、遺宣旨之許
(108)さしそむるはつさかきばの白雪はちとせふるてふためしなりけり
(さし初むる初榊葉の白雪は千歳降るてふ例なりけり)

  かへし     宣旨越後
(109)よろづよもさしこめられしさかきばに心のゆきは今もふりつつ
(万代もさしこめられし榊葉に心の雪は今も降りつつ)

  • 祭還日、神館にて、斎院宣旨の許へ
(120)かくばかりうれしく見ゆるうの花はちとせの今日もさこそにほはめ
(かくばかり嬉しく見ゆる卯の花は千歳の今日もさこそ匂はめ)

  かへし
(121)うれしさのかぎりなければみな人はかかるうづきをためしにやせん
(嬉しさの限りなければ皆人はかかる卯月を例にやせん)

  • 保延元年十一月十日、斎院のあへむへ[相嘗?]のうちいでのさまざまにめでたくせられたりしをみて、宣旨許へ
(129)ちとせとぞいつきのみやのいつくしくうちいでのきぬのいろにしらるる
(千歳とぞ斎の宮のいつくしく打出の衣の色に知らるる)

  かへし
(130)ちよふべきつまとていだすうちいでのいろをもしりていはいけるかな
(千代経べき褄とて出だす打出の色をも知りて祝いけるかな)
山家集
  • (雑)斎院おりさせ給ひて、本院の前を過ぎけるに、人の内へ入りければ、ゆかしくおぼえて、具して見侍りけるに、かうやはありけんとあはれにおぼえて、おりておはしましける所へ、宣旨の局の許へ申し遣はしける
(1224)君住まぬ御内は荒れてありす川いむ姿をもうつしつるかな

  かへし
(1225)おもひきやいみ来(こ)し人のつてにして馴れし御内に聞かんものとは

『日本古典文学大系』『新潮日本古典集成』等の注はこの「斎院」を33代頌子内親王とし、所京子氏も同様と見なす(『斎王和歌文学の史的研究』1989)が、頌子は本院入りの前に退下しており、ここでは適切でないと思われる。従って同じく本院入りのなかった32代僐子内親王も除外され、残る候補は怡子内親王と31代式子内親王だが、この場合は西行の出家前から長年斎院を務めていた怡子の可能性が高い(高柳祐子「『山家集』の斎院」2013)。


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