←前

戻る

次→ 



24代斎院 令子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
れいし よしこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:白河天皇(1053-1129)
母:中宮藤原賢子(贈皇太后)
  (1057-1084)
承暦2年(1078)5月18日 天養元年(1144)4月21日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
堀河(1086~1107,同母弟) 卜定:寛治3年(1089)6月28日
   (近衛萬利小路
    前越前守源高實宅)
初斎院:寛治4年(1090)4月9日
   (大膳職)
本院:寛治5年(1091)4月15日
退下:承徳3年(1099)6月20日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
善子(1077-1132,異母姉)
 [六角斎宮]
 父:白河天皇
 母:女御藤原道子
卜定:寛治元年(1087)2月11日
   (加賀守藤原家道
    三条烏丸宅)
初斎院:寛治元年(1087)9月21日
   (左近衛府)
野宮:寛治2年(1088)9月13日
群行:寛治3年(1089)9月15日
   (長奉送使:藤原公実)
退下:嘉承2年(1107)7月19日
天皇崩御

略歴:
 承暦2年(1078)(1歳)5月18日、誕生。
 承暦3年(1079)(2歳)4月26日、内親王宣下。
 応徳元年(1084)(7歳)9月22日、母藤原賢子崩御。


11月14日、准三宮。
 応徳3年(1086)(9歳)11月23日、父白河天皇譲位、弟堀河天皇践祚。


12月19日、堀河天皇即位。
 寛治3年(1089)(12歳)6月28日、弟堀河天皇の斎院に卜定。
 寛治4年(1090)(13歳)4月9日、初斎院(大膳職)に入る。
 寛治5年(1091)(14歳)4月15日、紫野本院に入る。
 康和元年(1099)(22歳)6月20日、病により退下。


以後、中納言源国信(叔父)の五条坊門東洞院家に滞在。
 康和4年(1102)(25歳)11月17日、宮中に入り、弘徽殿を御所とする。
 嘉祥元年(1106)(29歳)3月2日、二条堀河亭に移徙。
 嘉祥2年(1107)(30歳)7月19日、堀河天皇崩御。


10月12日、甥鳥羽天皇(5歳)の准母となる。


12月1日、皇后宮に冊立。
 大治4年(1129)(52歳)7月7日、父白河法皇崩御。


7月26日、出家。
 長承3年(1134)(57歳)3月19日、太皇太后。
 天養元年(1144)(67歳)4月21日、崩御。


4月29日、岩陰に葬られる。

号:二条大宮、二条太皇太后
鳥羽天皇准母、皇后宮
同母兄弟:敦文親王(1074-1077)
     媞子(ていし)内親王(1076-1096,郁芳門院)
      ※「てい」=女偏+是。字はこちらを参照(字源)。
     堀河天皇(1079-1107)
     禎子内親王(1081-1156,25代斎院)

斎院長官:源国信[叔父](寛治3年(1089)4月~同7年(1091)2月)
     藤原忠教(寛治7年(1091)4月~承徳元年(1097)4月)
     藤原惟信(承徳元年(1097)4月~同2年(1098)2月9日以降)

白河天皇第三皇女。
 母藤原賢子は源顕房女で、後三条天皇の再従兄妹。関白藤原師実養女となり入内した。
 (※父方の祖母尊子が、後三条天皇の祖母上東門院彰子・三条天皇中宮妍子の異母妹。なお養父師実と実父顕房は従兄弟)
 斎院長官源国信は、母賢子の異母弟。また同藤原忠教は関白師実の子で、母賢子・祖父後三条天皇の再従兄弟にあたる。

      藤原道長
       |
 ┌───┬─┴────────┬──────────┬──―――─┐
 |   |          |          |      |
 頼宗  彰子===一条天皇  妍子===三条天皇  尊子     頼通
 |      |          |       |      |
 |      |          |       |      |
 能長   後朱雀天皇========禎子     源顕房     師実
 |            |            |      |
 |            |            ├──┐   |
 |            |            |  |   |
 |          後三条天皇          | 源国信  忠教
 |            |            | [長官]  [長官]
 |            |            |
 道子==========白河天皇=========藤原賢子
       |            |     (師実養女) 
       |    ┌────┬──┴─┬────┐
       |    |    |    |    |
       善子  堀河天皇  媞子  ◆令子   禎子
      (斎宮)       [郁芳門院]

 令子内親王が誕生した時、白河天皇は長男敦文親王を前年に大流行した疱瘡(天然痘)で亡くしたばかりであり、東宮実仁親王(白河天皇の異母弟)の次の世継ぎとなるべき皇子がいなかった。そのため再びの男子誕生が期待されていたが、女子であったことで周囲は落胆したという(『栄花物語』。この翌年、善仁親王(堀河天皇)が誕生した)。
 誕生時より斎院卜定まで、令子内親王は関白師実邸にて養祖母源麗子(師実室)に養育されていたとみられる(所京子「斎院令子内親王関係の和歌集成」)
 なお『後二条師通記』(応徳3年3月25日条)によれば、堀川殿において「姫宮」の御袴衣(着袴)があり、『大日本古記録』はこの皇女を令子としている。ただこの時令子は数え9歳であり、着袴の年齢としてはかなり遅い点が不審であるが、同母妹の禎子(数え6歳)は生後間もなく太皇太后藤原寛子の猶子となって四条宮に引き取られており、他に師実の元に該当する皇女がいた記録はない。

 令子12歳の寛治3年(1089)、23代斎院斉子女王が母瑠璃女御(小一条院妾)の死により4月12日に退下、その2か月後に令子内親王が新たな賀茂斎院に卜定された。以後10年に渡る在任期間において、斎院御禊や賀茂祭以外で知られる令子の消息は少ないが、藤原師通が新年の拝賀や慶申等で令子の下に参向したことが日記『後二条師通記』から知られ、藤原宗忠も日記『中右記』に歌合の記録を残している。
 なお『後二条師通記』承徳3年(1099)3月17日条4月3日条には、斎院での蹴鞠の記録がある。また『行宗集』詞書にも「まりのこと」にまつわる回想が記され、さらに斎院退下後も『殿暦』『中右記』等から、令子内親王御所で蹴鞠が行われたことが知られる。平安時代の蹴鞠の記録は圧倒的に春が多く、令子の場合も大抵2月から3月にかけてで、主に桜の季節に花見に合わせて楽しまれたものらしい。もっともこれ以前にも皇妃や皇女の蹴鞠見物の記事は散見されるが、これほど長期に渡り複数の記録が残る例は珍しく、あるいは令子本人が特に蹴鞠見物を好んだのかもしれない。ことに10代の多感な時期の大半を賀茂斎院として過ごし、賀茂祭以外では外出など思うに任せぬ不自由な身の上であったろう令子にとって、『源氏物語』さながらの華やかな蹴鞠見物は、同母姉の媞子内親王(郁芳門院)が田楽を好んだように数少ない楽しみでもあっただろうか。

 ところでその媞子は、斎宮を退下し都に帰還して以降、父白河院に溺愛されて行動を共にすることが多かった。『今鏡』では「院(白河上皇)いづれをも(媞子、令子、禎子のどの娘も)おろかならず見たてまつらせたまふ」とは言いながら、「(斎院に)定まらせたまひなば、御対面も難かるべければ」とあるように、当時令子とはやはり現任の斎院という身分柄、気安い対面は簡単ではなかったらしい。少なくとも現存史料に限って言えば、寛治7年(1093)に花見御幸の一環で斎院御所に立ち寄った一回以外、白河院と斎院令子の対面の記録は見られない。一方で斎院令子の後見には養父母師実夫妻が摂関家を挙げて力を入れており、令子の在任中は斎院御神楽が特に盛んであったという指摘もある(髙野瀬惠子「令子内親王家の文芸活動」、中本真人「院政期の斎院御神楽と賀茂斎王」)。幼児期に両親と縁薄いまま成長した令子には、師実夫妻は実の親以上の頼もしい後見であったろう。
 その後中宮からさらに女院郁芳門院となった媞子は、令子が斎院を下りるのを待たずに永長元年(1096)21歳の若さで死去、父白河院は悲嘆のあまり出家を遂げた。しかし早くから別々の生活を送っていた令子や禎子にとっては、同母とはいえ馴染みの薄かった長姉との永別はそれほどの悲しみもなかったのか(あるいは白河院の悲嘆が激しすぎたためか)、『今鏡』には妹たちの感慨は何も語られていない。その3年後、斎院令子内親王は病により22歳で任を退いた。

 斎院退下後の令子は、始めは主に叔父の中納言源国信の五条坊門東洞院邸(左京五条三坊十五町)に滞在。後見であった師実の没後は弟堀河天皇と行動を共にすることが多く、年も近い二人は仲の良い姉弟であったようで、宮中での令子は主に弘徽殿を曹司としていたらしい。嘉承元年(1106)里第の二条堀河邸が完成した後は、堀河院と里第を行き来していた他、しばしば方違えの記録も見られる。また令子のサロンにはすぐれた歌人である女房が多く仕えており、『今鏡』にも令子の御所が奥ゆかしい有様であったことが語られている(7・有栖川)。塚谷多貴子氏によれば、「令子歌壇の活動期は金葉集期に完全に一致している」(「皇后宮令子歌壇論」)とのことであり、その家風は「(立后後は)堀河院後宮の揺曳に加えて時の皇后宮の重々しさが備わっていたものであろう」とされるが、当の令子自身はそれほど歌を詠まなかったようで、本人の詠歌は伝わっていない。
 堀河天皇の没後は、白河院の命で生母を早くに亡くした甥鳥羽天皇の准母となり、皇后宮に立后した。しかし大治4年(1129)絶大な権力をふるった父白河院がついに崩御、その死を悼んだ令子は52歳で出家した。以後は仏事に専念する余生を送ったらしく、令子後宮歌壇の活動も殆ど知られない。さらに長承3年(1134)57歳で太皇太后となるが、晩年の消息は少なく、天養元年(1144)67歳でその生涯を終えた。
 なお幼年で即位した鳥羽天皇は誕生直後に生母と死別しており、叔母にして准母となった令子内親王を慕ったと言われる。令子が没した時には既に鳥羽の長男崇徳天皇も譲位し近衛天皇の御代であったが、葬送に際しても鳥羽上皇は実の父母と同等の礼を尽くし、葬礼には数百名が参列した(『台記』4月26日条同29日条。葬送場所の岩陰は、現在の京都市北区衣笠鏡石町付近)
 墓所は上醍醐陵(京都府京都市伏見区醍醐醍醐山。醍醐寺女人堂から登山約50分)。

 皇后→皇太后→太皇太后の順に寄らず、皇后からいきなり太皇太后となったのは、令子内親王が最初である。

参考論文:
・塚谷多貴子「皇后宮令子の歌壇――金葉集期の女房歌壇――」
 (『国語国文研究(北海道大学)』(52), p24-35, 1974)
・所京子「斎院令子内親王関係の和歌集成」
 (『聖徳学園女子短期大学紀要』15, p86-74, 1989)
 [機関リポジトリ全文あり]
・高野瀬恵子「令子内親王家の文芸活動―院政前期の内親王とその周辺―」
 (『総合研究大学院大学学術情報リポジトリ』(日本文学研究専攻), 2008)
 [機関リポジトリ全文あり]
・中本真人「院政期の斎院御神楽と賀茂斎王」
 (『アジア遊学』(174), p211-224, 2014)
 ※『内侍所御神楽と歌謡』(p71-83, 武蔵野書院, 2020)改題収録

※その他関連論文はこちらを参照のこと。

参考リンク:
『天皇皇族実録85.白河天皇 巻5』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※令子内親王については56~79コマにあり


【媞子・令子姉妹と准母立后について】
 天皇の准母として立后した初例は、令子の同母姉・郁芳門院媞子内親王である。
 父白河院鍾愛の内親王だった媞子は、同母弟堀河天皇の養母格の「中宮」として、前例がないとする周囲の反対を押し切り立后された。しかしその後媞子は21歳の若さで病のため早世。悲しみのあまり出家した白河院は強引に媞子を立后させたことを後悔し、大神宮に謝罪したという(『中右記』嘉承2年11月26日条)。
 その後、令子が甥にあたる鳥羽天皇の准母として立后するか否かについても反対があったが、「前斎院」では即位する天皇の輿に同乗はできないなどの反論もあり、結局令子の宣命は姉・媞子と同じ「中宮」ではなく「皇后宮」に決定した。これがいわゆる「尊称皇后」の始めである。
 以後、不婚内親王が天皇准母として立后する際には、令子の例に倣って必ず「皇后宮」とされる決まりとなった。橋本義彦氏はその根拠について、「太皇太后まで転上し、六十七年の生涯を平穏裡に終えた令子内親王の事例が、最吉の佳例として後世の規模とされたためであろう」(「中宮の意義と沿革」)としている(歴代尊称皇后については、用語集・考察を参照)。

参考論文:
・橋本義彦「中宮の意義と沿革」
 (『平安貴族社会の研究』p117-150, 吉川弘文館, 1976)
・鈴木英雄「天皇養母考 白河院政の成立をめぐって」
 (『中世日本の諸相(上巻)』p437-455, 吉川弘文館, 1989)
・栗山圭子「准母立后制にみる中世前期の王家」
 (『日本史研究』465, p1-24, 2001)
 ※『中世王家の成立と院政』(p75-112, 吉川弘文館, 2012)収録


【令子内親王の名前のこと】
「令子」の訓読みについては『兵範記』嘉応元年(1169)9月24日条にて、新斎院選出にあたり命名を討議した際に藤原経宗が「僐字、釈に云う、善なりと云々、善子斎宮と令子斎院は、その訓が共に僐と同じ」と述べており、「よしこ」である可能性が高い(なおこの討議の結果、「僐」の字が採用されて32代僐子内親王が新斎院に決定した)。ただし善子斎宮と令子斎院は共に白河天皇皇女であり、異母姉妹の二人がどちらも同訓の「よしこ」であったかはやや疑問が残る(ちなみに善子・令子の弟である堀河天皇の諱は「善仁(たるひと)」とされており、善子斎宮も「たるこ」であった可能性が考えられる)。

参考リンク:
・「よしこさんがいっぱい」(斎宮歴史博物館)
 ※『兵範記』読み下し文は、斎宮歴史博物館の上記記事を参照した。


【令子内親王と今様】
 令子内親王の同母姉媞子は田楽を好んだことで知られ、同母弟の堀河天皇も音楽好きであったが、令子内親王もまた今様との接点が多いことが、沖本幸子氏により指摘されている(「今様の場をつくった人々」)
 特に令子の場合、斎院在任中だけでなく退下後も御所で淵酔が数多く行われた記録がある。淵酔は主に宮中で行われた酒宴で、朗詠や今様、歌舞が楽しまれたといい、宮廷行事の中でも砕けた無礼講なものだった。令子の斎院時代には神楽も多かったことから見て、令子自身もそうした賑やかな宴や芸能を好んだらしい。斎院は神に仕えるという性質上、紫野本院にあっても清浄に身を慎む生活を送っていたというイメージが強く、『今鏡』に語られる退下後らしき令子御所の様子も貴婦人らしい優雅な佇まいが強調されているが、令子は関白夫妻の養女ということもあり、斎院御所では無聊を慰めるための華やかな催しも多く行われていたようである。
なお、沖本氏は淵酔の一例として『中右記』(寛治5年(1091)11月19日条)の記事を挙げており、この時の淵酔を「野宮での潔斎中」としているが、この場合の「野宮」は伊勢斎宮で言う卜定2年目の潔斎のための野宮ではなく、既に潔斎を終えて入った紫野本院を指す。無論、本院は神に仕える斎王の住まいとして初斎院や野宮以上に厳しい清浄さを守るべき御所であり、相嘗祭の神楽等はあっても、本来は淵酔のような無礼講の宴とは無縁であったと思われる。

 ところで『今鏡』(10・敷島の打聞)には、次のような逸話が紹介されている。
 いづれのいつきのみやとか、人の参りて、今様うたひなどせられけるに、末つ方に、四句の神歌うたふとて、
  植木をせしやうは 鴬住ませむとにもあらず
と歌はれければ、心とき人など聞きて、「憚りあることなどや出で来む」と思ひけるほどに、
  くつくつかうなが並め据えて 染紙よませむとなりけり
とぞ歌はれたりけるが、いとその人歌詠みなどには聞えざりけれども、えつる道になりぬれば、かくぞ侍りける。この事刑部卿とか人の語られ侍りしに、侍従大納言と申す人も侍りしが、さらば理(ことわり)なるべし。
 従来この「刑部卿」は平忠盛(1096-1153)、侍従大納言は藤原成通(1097-1162)とされ、「いつきのみや」については白河皇女の斎宮恂子内親王や斎院官子内親王等諸説ある(宇津木言行「四句神歌享受の一態」)。一方で沖本氏は今様の名手であった藤原敦兼(1079-?)を刑部卿、斎宮は同時代に斎院であった令子内親王ではないかと推測している。
 しかし、ただ「いつきのみや」と言えば、通常はまず「斎の宮」即ち伊勢斎宮を指す。『今鏡』の他の箇所では賀茂斎院はすべて「斎院」や「賀茂の斎院(いつき)」等の用語で呼ばれており、この「いつきのみや」だけが例外的に賀茂斎院を指すものとは断定できない。
 また問題の逸話は斎宮で仏教関連の言葉を憚ることから、「法師」→「かうなが(髪長)」、「経」→「染紙」と斎宮忌詞に置き換えた機転を称賛したものとされる。しかし『延喜式』が定める斎院忌詞は「凡忌詞、死称直、病称息、泣称鹽垂、血称汗、完称菌、打称撫、墓称壌」となっており、仏教用語は含まれていない点が斎宮忌詞と大きく異なる(宇津木説・沖本説はこの点を指摘していない)。時代は『延喜式』成立から200年あまり後のことだが、当時も『延喜式』の通りであったとすれば、そもそも仏教用語を禁忌とする規定のない斎院御所(紫野本院)ではこうした逸話自体が生まれなかったはずである。
 斎宮は言うまでもなく卜定から群行までの2年あまりを除けば殆どは伊勢にいるもので、斎宮の交代も白河院の存命中は媞子(1078~1084)、善子(1087~1107)、恂子(1108~1123)、守子(1123~1141)と任期の長い斎宮が続いており、従って当時の都においては斎宮忌詞も滅多に意識されることはなかったであろう。一方で大内裏からほど近い紫野の斎院御所は公卿らもしばしば出入りしており、また斎院在任中は賀茂祭に伴う斎王御禊も毎年行われていたから、忌詞の決まりについてはむしろ斎宮よりも馴染んでいたはずで、斎宮忌詞と斎院忌詞を誤った可能性は低いのではないか。なお『紫明抄』『河海抄』が同様の逸話に触れており、そちらは「成通卿斎院に参りて」(『紫明抄』)としているが、この両書は斎院制度が既に廃絶した後に成立したものである。一方『今鏡』は平安末期成立とされ、現実に賀茂斎院が存在していた時代の作なのはほぼ確実であることから見ても、やはりこの「いつきのみや」は伊勢斎宮であったと思われる。

 ともあれ、忌詞にこだわるところから見てもこの「斎宮」が「前斎宮」ではなく、当時現任の斎王であったのは確かであろう。そして忠盛は言うまでもなく「伊勢平氏」の出であった。ただし伊勢平氏の祖となった維衡(伊勢守)はともかく、その玄孫である忠盛の頃には伊勢よりも伊賀を基盤としていたようだが(飯田悠紀子「伊勢平氏の領主的性格」)、伊賀は伊勢の隣国であり、忠盛の子清盛の家人にも伊勢の武士たちがいたことから見て、伊勢においても先祖伝来の影響力を有していたのは確からしい。その縁から伊勢の斎宮御所に親しく出入りした可能性も高く、そうした中でこの逸話の出来事があったとするのは、ごく自然なことと思われる。
 ただし「いとその人歌詠みなどには聞えざりけれども」という点は、歌人としても名を遺す忠盛には当てはまらず不審であるとする指摘もある(※竹鼻績『今鏡全訳注』(1984)。なお忠盛は仁平3年(1153)没、『今鏡』は嘉応2年(1170)頃成立とされる)。これについては、宇津木説では「この逸話が『金葉集』成立以前の成通、忠盛ともまだ歌人として名声を確立していない若年時のこと」であったかとしている(忠盛の刑部卿任官は仁平元年(1151)であり、その2年後に死没した彼の最終官位だったので、刑部卿=忠盛ならば『今鏡』の執筆時期と上記逸話にはかなりの時差があったことになる)。竹鼻氏は逸話の前半が伝承、後半が『今鏡』作者またはその同時代の説を付会したものとするが、むしろ『今鏡』の頃には既に歌人として知られていた忠盛(?)の往時の逸話を敢えて無名の人物として語り、最後にその名を明かすことで聞き手を驚かせ、なるほど若い頃からその歌才の片鱗を見せていたのかと得心させるのが作者の狙いであったのかもしれない。
 ところでここで今一つ可能性として考えられるのは、「斎宮」の御所は必ずしも伊勢とは限らず、問題の逸話は下向前の宮中初斎院や野宮での潔斎中の出来事だったのではないか、ということである(※宇津木説や沖本説も、明記はないもののこちらを想定していると思われる)。そして「刑部卿」が沖本説の藤原敦兼だとすれば、年齢的に見て斎宮善子内親王(1087卜定、1089群行)でも早すぎるため、上限は斎宮恂子内親王(1108卜定、1110群行)ということになろうが、いずれにしても断定はしがたい。

 とはいえ、従来「刑部卿」が平忠盛とされてきたのは彼が伊勢と深い結びつきを持つ人物とされ、従って伊勢斎宮にまつわる逸話があっても不思議ではないと思われたことが大きな理由であろう。今一人の候補として侍従大納言(成通)も挙げられるが、成通ではなく忠盛の名が先に挙げられたのも、同様に伊勢に繋がりの強かった忠盛の立場故と思われる。
 なお問題の斎宮が「いづれのいつきのみやとか」とされたのは、内容から見て個人を特定することに不都合があったようには思われないので、伝承が時代を経るうちにどの斎宮であったか忘れられてしまったため、伝聞した作者も本当に知らなかったのであろう(ただしこれは、既に述べたように逸話の主役を特定する手がかりを敢えて伏せたのかもしれないが、斎宮の名は最後まで明かされないので、やはり作者も知らなかった可能性が高いと考える)。それは「この事刑部卿とか人の語られ侍りしに、侍従大納言と申す人も侍りしが」とする点も同様で、言い換えれば『今鏡』のこの文章が書かれたのは問題の出来事から長い時間を経て人々の記憶も曖昧になっていた頃であった証明とも考えられる。だとすれば、既に故人となっていた忠盛の当時の官職も恐らく作者は知る由もなく、従って忠盛の家集が別名『故刑部卿集』『故刑部卿詠』とも呼ばれたように『今鏡』においてもよく知られた最終官位で記されたのであろう。

参考論文:
・宇津木言行「四句神歌享受の一態――『今鏡』所載説話から――」
 (『文化女子大学室蘭短期大学研究紀要』(19), p1-9, 1996)
・沖本幸子「今様の場をつくった人々――白河院皇女と今様」
 (『国語と国文学』81(4), p30-42, 2004)
 ※『今様の時代――変容する宮廷芸能』p43-60, 東京大学出版会, 2006)収録
・飯田悠紀子「伊勢平氏の領主的性格」
 (『学習院史学』(3), p65-87, 1966)[機関リポジトリ全文あり]





白河天皇
史料 月日 記述
扶桑略記 承暦2年
(1078)
5月18日 【皇女令子誕生】
 中宮(賢子)誕生皇女(令子)
水左記
為房卿記
ほか
承暦3年
(1079)
4月26日 【皇女令子内親王宣下、家司を補す】
『水左記』
 今日中宮可入内給也、定令參給歟、又可有内親王宣旨事次第等可令尋具者也、答申承之由、戌刻着束帯參中宮、今夜入内給之故也、先之人々參入、々給之後下官着陣座、頃之頭辨(藤原)實政朝臣來仰云、皇女令子宜爲内親王者、<書御名二字於檀紙一枚所下也、>下官奉之、即下同辨了、是左大辨不參之間所下也、依爲同大辨也、相次又同辨來仰云、以左大將藤原朝臣(師通)可爲令子内親王別當者、即仰藏人辨伊家了、

『為房卿記』
(※『天皇皇族実録』による)
(前略)又以今上女三宮(令子)可爲内親王之由、被下宣旨、<全[令?]子、>即被下勅別當宣旨、<左大將(藤原師通)、>又被補家司、<道良、基綱、>
職事<公家等也、左大將被書下之、>
為房卿記 承暦3年
(1079)
7月27日 【中宮賢子入御。姫宮(令子?)関白師実夫妻に同車】
(未入力)
水左記 承暦4年
(1080)
1月26日 【令子内親王預授給】
(未入力)
帥記 承暦4年
(1080)
5月27日 【姫宮(令子?)不例】
(未入力)
水左記 承暦4年
(1080)
閏8月14日 【姫宮(令子?)入内のこと】
(未入力)
後二条師通記
扶桑略記
栄花物語
ほか
応徳元年
(1084)
9月22日 【母中宮賢子崩御】
『後二条師通記』
 中宮極重煩給、於三條殿已以薨給、萬參人泣涕難止、

『扶桑略記』
 中宮源賢子三條内裡崩。于時年二十八歳。主上悲泣。數日不召御膳。

『栄花物語』(40紫野)
(前略)御遊びなどあるべきを、中宮(賢子)例ならずおはしますといふ事ありて、華やかなるはとまりぬ。(中略)
宮の御心地重くおはしますとて、十七日に急ぎ帰らせ給ひぬ。いと重くおはしましけり。日を経て重くならせ給ひて、九月廿二日うせさせ給ひぬ。(後略)
十三代要略 応徳元年
(1084)
11月14日 【令子内親王を准三宮とする】
(白河院)
 皇女(中略)
  令子内親王<母同媞子。>
   承暦三年四月廿六日。爲内親王。
   応徳元年十一月十四日。准三宮。
堀河天皇
史料 月日 記述
為房卿記 寛治元年
(1087)
8月20日 【令子内親王家及び摂政家政所所充】
(未入力)
為房卿記 寛治元年
(1087)
8月26日 【令子、高階為家第に移徙】
(未入力)
中右記 寛治元年
(1087)
10月27日 【姫宮(令子)、鳥羽殿に移徙】
(未入力)
中右記 寛治元年
(1087)
10月30日 【姫宮(令子)、鳥羽殿から帰還】
(未入力)
後二条師通記 寛治2年
(1088)
1月18日 【姫宮(令子)、院に入る】
(未入力)
中右記 寛治2年
(1088)
1月19日 【堀河天皇、大炊殿へ朝覲行幸】
(未入力)
後二条師通記 寛治2年
(1088)
4月7日 【令子、宇治に渡御】
(未入力)
中右記 寛治2年
(1088)
11月11日 【春日祭使藤原忠実出立。前駈に斎宮(?子)・姫宮(令子)より摺袴下賜】
(未入力)
公卿補任 寛治3年
(1089)
4月 【源国信、斎院長官に任命】
(承徳二年)
 參議 正四位下 源國信(中略)
<年月日叙爵。承暦三十一ー信濃權守。承保[永保?]元八ー右兵衛佐。同三正ー從五上<勞>。同十二月ー右少將。同四月ー遷左近。同四正ー兼美作權介。應徳三正五正五下<勞>。同月十四日補藏人。同十一月廿六更補藏人<受禪日>。寛治二正ー從四下<勞>。同三正五從四上<無品媞子内親王御給>。同月兼備後介。同五正ー叙正四下<院御給>。同月ー轉左中將。同四月ー兼齋院長官。同七二ー兼中宮權亮<止長官>。(後略)>
後二条師通記 寛治3年
(1089)
6月5日 【姫宮(令子)、六条殿へ渡御】
(未入力)
後二条師通記 寛治3年
(1089)
6月15日 【斎院卜定のこと】
【後二条師通記】(裏書)
 申剋許殿(藤原師実)令渡給之、斎院卜斎[定?]事被仰云々
後二条師通記 寛治3年
(1089)
6月25日 【姫宮(令子)、六条殿に渡御】
 姫宮(令子)令渡六条殿給事也
後二条師通記
中右記
ほか
寛治3年
(1089)
6月27日 【令子内親王、賀茂斎院卜定】
『後二条師通記』
 (朱)「斎院卜定」
姫宮(令子)御駈束帯也、摂政殿宿御装束也、御駈束帯、上達部上臈源大納言<師忠>、左衛門督(藤原)家忠、人[ゝ脱?]可入尋欤

『中右記』
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治3年
(1089)
6月28日 【斎院卜定儀】
(未入力)
後二条師通記 寛治3年
(1089)
7月20日 【賀茂斎院奉幣】
(未入力)
中右記 寛治3年
(1089)
11月13日 【斎院(令子)相嘗祭】
(未入力)
後二条師通記 寛治4年
(1090)
4月1日 【斎院(令子)幣被立】
 斎院(令子)幣被立云々
後二条師通記
中右記
寛治4年
(1090)
4月9日 【斎院(令子)御禊、初斎院入り】
『後二条師通記』
(未入力)

『中右記』
 斎王(令子)初度御禊也、禊東河、入御大膳職也、御所近衛萬利小路前越前守高實朝臣宅也、其道、自近衛御門大路、経洞院東大路并二條、便以二條末、為御禊所也、午時摂政殿下、<著御衣冠、御檳榔、>左大臣、<衣冠、>内大臣、<束帯、今日始出仕、先被著陣也、>治部卿俊明、<今日上卿、>左衛門督、<家忠、>左兵衛督、<俊實、>左大辨、<匡房、>三位侍従、<能實、已上束帯、>および殿上人数輩参會、未時自上皇被奉御扇一雙、<以右少々顕實朝臣、為御使、>頃而自内被奉(右に朱書で「勅使」)女房扇廿枚童女扇四枚、<置柳筥、三枚、小舎人著衣冠捧之、>以蔵人右少将俊忠為勅使<暫徘徊中門邊、>以勅別當左少将國信朝臣召勅使、<先敷座於諸卿座上、高麗端畳一枚、其上加茵、院職司諸大夫二人役之、>(中略)
斎王乗御、了摂政殿下以下、<左大臣同車、>相引到二條大路富小路御見物、雲客飛花軒次第扈従、(中略)
御禊了、給社司禄、次供御膳、事了、入大膳職了、於此所給前駈禄、已上官行事所沙汰也、(後略)
中右記 寛治4年
(1090)
4月14日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 寛治4年
(1090)
11月18日 【殿上淵酔の後、公卿ら斎院(令子)へ参向】
(未入力)
後二条師通記 寛治5年
(1091)
4月15日 【斎院(令子)御禊、紫野本院入り】
 (朱)「斎院御禊<大膳職>」
御禊日也、五行物忌也、予宿衣参大膳職、上達部座敷筵、其上有高麗端三枚、傍御簾立四尺御屏風、件所神殿西廂也、庭中曳所司幔、立蔀令[今]日不見之、御輿立庭、次有糸毛御車、<件所西方設之云々、>前駈座設侍所、<筵并畳等四尺御屏風等立之、>右大臣退出云々(中略)
<有御祓事、>
未剋許寄御輿於南簾、此間無驚[駕?]丁者、于時斎院被揚御髪、有御裳、御乗、御共候女房不向前令乗者、(中略)
民部卿(源経信)車下了、烏丸南行一町許、東折参河原、<一条也、>寄御輿東、<後三条殿[院]斎院御時、寄西、上達部諾[議?]云、可寄東云々、>先之掃部寮令敷筵、下御了、御輿宿舁居之、即令催御禊具等、從北第二間院御坐、膝突置庭中、<今日■[令]遅置云々、>供御祓長官(源)國實[信]、別當有資、次官(藤原)惟信、各毎手持御祓、北二第御簾下跪、付女房、又取傳奉之、<御祓具居四本、猶一本可令居也、治部卿説也、日記等可見也、>此間神祇奉御麻、長官取之進之、即返給、神祇給之、宮司進庭中、<東方御云々、>御麻被給之後、着膝突、此間東河原徃反人不令渡、仰検非違使制止、御禊了宮司退、(中略)
東山纔望月、于時寄御輿、巻上御簾懸、輿左右立几帳、裏入殿給、予外簾所候也、乗御了、自本路到列見、更北折、入御自院南門、(後略)
後二条師通記 寛治5年
(1091)
4月20日 【賀茂祭】
(未入力)
後二条師通記
為房卿記
寛治5年
(1091)
8月28日 【斎院(令子)御悩により御卜】
(未入力)
為房卿記
中右記
寛治5年
(1091)
11月7日 【斎院相嘗祭】
『為房卿記』
(未入力)

『中右記』
(11月8日条)
 齋院(令子)御神楽、
中右記 寛治5年
(1091)
11月19日 【童女御覧。殿上人、斎院野宮(紫野)に参上】
 申剋有童御覽、女御(篤子内親王)并北政所(源麗子)御坐御殿中、右大臣(源顕房)・源大納言<師(師忠)、>・中宮大夫<雅(源雅実)、>・新大納言<家(藤原家忠)、>・三位中將<忠(藤原忠実)、>令候簾前給、秉燭之程事了、殿上人等引參齋院(令子)野宮、有盃酌三獻、一獻、<源少將師隆、>二獻、<兵部大輔(藤原)通輔、>三獻、<權弁基綱、是本院職事也、>此後朗詠・散樂、入夜退出了、<今日付童殿上人、宰相中將、<新中納言宗通一人也、>右兵衛督(源雅俊)、>
後二条師通記
為房卿記
中右記
寛治6年
(1092)
1月3日 【師通拝賀。斎院(令子)に参る】
(未入力)
後二条師通記 寛治6年
(1092)
1月27日 【中納言慶賀。斎院(令子)に参向】
(未入力)
後二条師通記 寛治6年
(1092)
3月20日 【師通、斎院(令子)に参向】
(未入力)
為房卿記
中右記
寛治6年
(1092)
4月2日 【斎院(令子)御禊前駈定】
(未入力)
後二条師通記 寛治6年
(1092)
4月13日 【師通、斎院(令子)に参向】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年
(1092)
4月18日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年
(1092)
4月21日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
4月24日 【斎院(令子)長官記事】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
6月27日 【斎院(令子)御神楽】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
7月20日 【斎院(令子)御神楽】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
9月5日 【斎院(令子)御物忌、賀茂社に奉幣】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
11月13日 【斎院(令子)相嘗御神楽】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
1月9日 【師通、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記
公卿補任
寛治7年
(1093)
2月22日 【源国信、斎院長官を停止。中宮(篤子)権亮となる】
『中右記』
(未入力)

『公卿補任』
(承徳二年)
 參議 正四位下 源國信(中略)
寛治二正ー從四下<勞>。同三正五從四上<無品媞子内親王御給>。同月兼備後介。同五正ー叙正四下<院御給>。同月ー轉左中將。同四月ー兼齋院長官。同七二ー兼中宮權亮<止長官>。(後略)>
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
3月10日 【白河上皇、斎院(令子)御所に御幸】
(未入力)
公卿補任 寛治7年
(1093)
4月 【藤原忠教、斎院長官に任命】
(康和二年)
參議 正四位下 藤忠教<二十六> (中略)
<年月日叙爵。寛治二七ー民部權大輔(剰闕)。同三正ー美作守。同四八ー尾張守。同五八ー左權少將<守如元>。同七二十六正五位下<郁芳門院入内日賞>。同四ー齋院長官<少將守等如元>。同八三卅從四位下<郁芳門院去寛治元年御給>。同十二月十七日叙從四上。嘉保二正二正四下<院行幸賞>。同月ー兼尾張守。同三正ー轉中將<守如元>。永長元年四八禁色。承徳元四ー辭長官。(後略)>
後二条師通記 寛治7年
(1093)
4月10日 【師通、斎院(令子)に参向】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
4月12日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
4月15日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
4月18日 【斎院(令子)御神楽】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
5月1日 【諸社奉幣、賀茂社禰宜禄の後斎院へ入る】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
5月5日 【郁芳門院根合。斎院(令子)に薬玉と根を献上】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
11月6日 【斎院(令子)御神楽】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
12月10日 【師通、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
1月5日 【叙位。斎院(令子)御給】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
2月25日 【白河院御幸。師実、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
3月9日 【師通関白就任。斎院(令子)に慶賀】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
閏3月22日 【大殿下(師実)、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
4月12日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
4月16日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
4月18日 【斎院(令子)御神楽】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
10月17日 【斎院の穢により、斎院相嘗祭を延引】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
11月7日 【斎院(令子)相嘗延引】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
11月18日 【斎院(令子)相嘗御神楽】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
1月3日 【師実・師通、斎院(令子)へ拝賀】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
2月3日 【除目。斎院(令子)御給】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
4月5日 【賀茂祭御禊前駈定】
(未入力)
中右記
餝抄
嘉保2年
(1095)
4月17日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
4月20日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
4月24日 【斎院御神楽】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
11月22日 【殿上淵酔。宗忠、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
11月23日 【斎院相嘗祭】
(未入力)
長秋記目録 嘉保2年
(1095)
11月29日 【御神楽なし】
(未入力)
後二条師通記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
1月3日 【師通、斎院(令子)に拝賀】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
2月11日 【春日祭。斎院(令子)奉幣なし】
(未入力)
後二条師通記
中右記
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
4月2日 【斎院(令子)御禊前駈定】
(未入力)
後二条師通記
中右記
長秋記目録
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
4月11日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
後二条師通記
中右記
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
4月14日 【賀茂祭】
(未入力)
後二条師通記
中右記
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
5月8日 【斎院令子内親王家歌合】
(未入力)
後二条師通記
中右記
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
5月15日 【斎院令子内親王家歌合により賀茂社に奉幣】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
11月6日 【斎院御神楽】
(未入力)
後二条師通記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
12月8日 【師通、斎院(令子)に参向。地震】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
1月5日 【叙位。斎院(令子)御給】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
1月12日 【斎院中放火】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
3月25日 【藤原忠実、慶申。斎院(令子)に拝賀】
(未入力)
公卿補任 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月 【藤原忠教、斎院長官を辞任】
(康和二年)
參議 正四位下 藤忠教<二十六> (中略)
<年月日叙爵。寛治二七ー民部權大輔(剰闕)。同三正ー美作守。同四八ー尾張守。同五八ー左權少將(守如元)。同七二十六正五位下(郁芳門院入内日賞)。同四ー齋院長官(少將守等如元)。同八三卅從四位下(郁芳門院去寛治元年御給)。同十二月十七日叙從四上。嘉保二正二正四下(院行幸賞)。同月ー兼尾張守。同三正ー轉中將(守如元)。永長元年四八禁色。承徳元四ー辭長官。(後略)>
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月5日 【斎院(令子)御禊前駈定】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月8日 【斎院(令子)御禊点地】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月11日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月14日 【賀茂祭】
(未入力)
殿暦 承徳2年
(1098)
2月9日 【斎院長官藤原惟信、春日使のこと】
(前略)次戌剋許有奉幣事、春日使齋院長官藤原朝臣惟信、率川使(藤原)宗仲、各有告文、作者(藤原)正家朝臣、奉幣間人〃弁[并?]予不參會云々、
殿暦
中右記
長秋記目録
承徳2年
(1098)
4月16日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
4月19日 【賀茂祭】
(未入力)
長秋記 承徳2年
(1098)
4月27日 【斎院御神楽】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
11月22日 【藤原宗忠、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記
長秋記目録
承徳2年
(1098)
11月23日 【斎院相新御神楽】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
12月23日 【慶申。藤原師実、斎院(令子)に参上】
(未入力)
後二条師通記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
3月17日 【藤原師実・師通等、斎院(令子)御所で花見】
(3月17日条)
(前略)參齋院(令子)、白[百?]花神妙ゝ也、先小弓一度了、左大將諸矢科的、懸物給了、次擧鞠之間余立加、此間花散如雪下、萬人驚目、感深交深、<是宇治殿(藤原頼通)於白川殿擧御鞠、權帥<經信>所語也、>了黄昏雨降、着饌、絲竹各置前云々、秉燭之間事了分散、
裏書、雪盛硯●歌書薄體
女房(二条太皇太后宮大弐)讀之、
 はなさくらちりしくにはをはらはねはきえせぬゆ■[き]となりにけるかな
中宮大夫(源師忠)返事、
 しめのうちにちりしくにはの花なれとちとせのはるもなにかかはらむ
(3月18日条)
(藤原)惟信朝臣爲斎院御使申云、昨日遊事所被仰也、承了之由可令申也、
後二条師通記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月1日 【斎院(令子)御所歌合】
(未入力)
後二条師通記
中右記目録
長秋記目録
承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月3日 【斎院(令子)御所に小弓、蹴鞠、管絃、和歌御会】
 未剋參京極殿、〃人〃參會、參齋院小弓、次鞠、殿上人以下所勤仕也、酒希[肴?]了於簀子敷有■■[管絃]事、秉燭之後稱[講]和哥、中宮大夫(源師忠)・權大納言(藤原家忠)・左大將(藤原忠実)・二位中納言(藤原経実)・頭弁(藤原)宗忠、
後二条師通記
中右記目録
本朝世紀
承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月9日 【斎院(令子)御禊前駈定】
(未入力)
後二条師通記
中右記目録
長秋記目録
本朝世紀
承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月22日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
後二条師通記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月25日 【賀茂祭】
(未入力)
長秋記目録 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月29日 【斎院御神楽】
(未入力)
中右記目録 承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月16日 【斎院(令子)病により、京極殿仁王講を延引】
(未入力)
後二条師通記
中右記目録
本朝世紀
帝王編年記
承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月19日 【令子内親王、斎院退下】
『本朝世紀』
(6月20日条)
 賀茂斎王<令子>依病退出本院。
殿暦 康和2年
(1105)
1月11日 【前斎院(令子)、京極殿へ渡御】
(未入力)
殿暦 康和2年
(1105)
2月15日 【前斎院(令子)、前関白(師実)夫妻と宇治へ渡御】
(未入力)
殿暦 康和2年
(1105)
7月19日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向。琵琶を賜る】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
3月21日 【藤原師実法事。中宮(篤子)・前斎院(令子)より御誦経】
(未入力)
長秋記目録 康和3年
(1101)
4月23日 【前斎院(令子)、河原で除服】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
6月22日 【令子内親王御所付近で火災】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
7月21日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
9月8日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
9月16日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記目録
康和3年
(1101)
9月25日 【前斎院(令子)、辛崎祓】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
12月1日 【前斎院(令子)御給のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
1月17日 【前斎院(令子)御悩】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
2月13日 【師実忌日法会。中宮(篤子)・前斎院(令子)御誦経】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
8月6日 【前斎院(令子)御所のこと】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
8月25日 【藤原師実室麗子、前斎院(令子)に渡御】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
9月6日 【前斎院(令子)御所のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
9月12日 【前斎院(令子)御所を予定していた安芸守藤原経忠第焼亡】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
11月9日 【前斎院(令子)参内、右大臣忠実に使者を賜う】
(未入力)
殿暦
中右記
長秋記目録
康和4年
(1102)
11月17日 【前斎院(令子)参内、弘徽殿を曹司とする】
(未入力)
殿暦
中右記
長秋記目録
康和4年
(1102)
11月20日 【堀河天皇、前斎院(令子)御所弘徽殿に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
長秋記目録
康和4年
(1102)
11月29日 【堀河天皇、弘徽殿で舞楽を御覧】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
12月12日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
12月20日 【鳥羽天皇御仏名。前斎院(令子)御方】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
1月1日 【右大臣藤原忠実、右大弁藤原宗忠、弘徽殿前斎院(令子)に拝礼】
(未入力)
中右記
御産部類記
康和5年
(1103)
1月24日 【前斎院(令子)、宗仁親王産養九夜主催】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
2月2日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
3月5日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
6月16日 【令子の御方に女房管絃】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
7月1日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
7月20日 【堀河天皇、前斎院(令子)御所に渡御】
(未入力)
中右記目録 康和5年
(1103)
7月26日 【令子、安芸守藤原経忠第に還御】
(未入力)
殿暦
中右記目録
康和5年
(1103)
9月4日 【前斎院(令子)、藤原有佐の三条町尻第(鬼殿)に移徙】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
10月4日 【前斎院(令子)禁中に還御】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
10月21日 【堀河天皇、令子内親王の御座所弘徽殿に渡御】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
10月29日 【堀河天皇、令子内親王の御座所弘徽殿に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
11月1日 【前斎院(令子)、紀伊守藤原有佐第に御方違】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
11月2日 【前斎院(令子)御方違】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
11月11日 【前斎院(令子)禁中に還御】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
11月14日 【五節参入。殿上人、前斎院(令子)に参上】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
11月16日 【殿上人、前斎院(令子)と斎院(禎子)に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
12月9日 【藤原忠通昇殿。中宮(篤子)・前斎院(令子)に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
12月21日 【前斎院(令子)、越後守藤原敦兼第に方違】
(未入力)
中右記 康和6年
[長治元年]
(1104)
1月2日 【藤原宗忠、斎院(令子)に拝賀】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年
(1104)
2月23日 【前斎院(令子)、越後守藤原敦兼第に方違】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
3月9日 【石清水臨時祭。前斎院(令子)参列】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
4月5日 【前斎院(令子)御方で小弓あり】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
4月8日 【令子、越後守藤原敦兼第に方違】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
5月22日 【最勝講結願。公卿ら、前斎院(令子)に参集】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
7月27日 【相撲。前斎院(令子)参内】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
8月1日 【弘徽殿御八講。中宮(篤子)、前斎院(令子)参列】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
8月10日 【令子方違】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
11月3日 【令子、紀伊守藤原有佐第に渡御】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
2月17日 【勅使、前斎院(令子)御所のこと】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
2月29日 【前斎院(令子)御所に御鞠】
(前略)今日無別事、齋院(令子)御方聊有鞠事、(後略)
殿暦 長治2年
(1105)
閏2月11日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
3月14日 【前斎院(令子)、藤原有佐第に移徙】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
4月5日 【藤原宗忠、斎院(令子)に参上】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
6月8日 【前斎院(令子)御所上棟】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
6月26日 【中宮御願寺御堂及び前斎院令子内親王の新造御所堀河院上棟】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
6月29日 【前斎院(令子)禁中に移る】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
7月2日 【前斎院(令子)御所堀河院上棟のこと】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
8月10日 【前斎院(令子)方違】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
9月15日 【藤原師実室麗子、宮中前斎院(令子)に参上】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
9月18日 【堀河天皇、前斎院(令子)に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
9月24日 【前斎院(令子)方違】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
9月30日 【前斎院(令子)、紀伊守藤原有佐第に渡御】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
10月14日 【前斎院(令子)禁中に移る】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
12月28日 【右大弁藤原宗忠、斎院(令子)に参上】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月11日 【前斎院(令子)御渡定】
(未入力)
殿暦
中右記
長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月13日 【前斎院(令子)弘徽殿に入る】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月19日 【藤原師実室麗子、前斎院(令子)に参上】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月23日 【前斎院(令子)渡御のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
長治3年
[嘉承元年]
(1106)
3月2日 【前斎院(令子)、堀河院に移徙】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
3月3日 【前斎院(令子)饗饌】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年
(1106)
4月27日 【前斎院(令子)、禁中に移る】
『永昌記』
 今曉前齋院(令子)入御、以黑戸上御局等爲御所、今夕東宮(宗仁親王)又入御、以弘徽殿爲御所、藏人廣房仰輦、傳内府以下啓陣、宮司等供奉如例、亮有所勞不被扈從、宮即昇御上御局、前齋院有仰[御?]奉謁、被獻銀馬形御本等、依可有猶子之義、自去年有御奉謁之議、度々延引也、今夜宿侍、

『中右記』
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
10月22日 【前斎院(令子)、禁中に移る】
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
11月14日 【公卿ら、前斎院(令子)弘徽殿へ参上】
(未入力)
殿暦 嘉承元年
(1106)
11月15日 【関白藤原忠実と威徳(忠通)、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
12月9日 【前斎院(令子)、二条殿に還御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
1月2日 【関白藤原忠実、前斎院(令子)に拝礼】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
1月6日 【前斎院(令子)尊勝寺に渡御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
4月8日 【前斎院(令子)、師実室麗子御方に方違】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
4月21日 【関白藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
7月6日 【白河法皇、令子内親王御所に御幸】
(未入力)
殿暦
中右記
為房卿記
ほか
嘉承2年
(1107)
7月19日 【堀河天皇崩御】
(未入力)
鳥羽天皇
史料 月日 記述
中右記 嘉承2年
(1107)
8月27日 【即位式において、前斎院(令子)准母同輿のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
10月6日 【前斎院(令子)立后の沙汰】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
10月15日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)に渡御】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
10月18日 【前斎院(令子)入内定】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
10月20日 【鳥羽天皇、宮御方(令子?)に渡御】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
10月26日 【前斎院(令子)入内】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
10月28日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)に渡御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
閏10月8日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
閏10月9日 【前斎院(令子)立后のこと】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
閏10月11日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)御所に渡御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
閏10月15日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)御所に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
閏10月20日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)御所に渡御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
閏10月28日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)御所に渡御】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
11月7日 【前斎院(令子)立后のこと】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
11月8日 【皇后宮(令子)同輿のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
11月26日 【摂政忠実の第にて立后・即位の事を議する】
(未入力)
殿暦
中右記
水牙記
嘉承2年
(1107)
11月29日 【前斎院(令子)立后兼宣旨を賜る】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
12月1日 【鳥羽天皇即位の儀。准母令子内親王を皇后と為す】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
12月2日 【皇后宮(令子)で饗あり】
(未入力)
殿暦
中右記
公卿補任
嘉承2年
(1107)
12月5日 【皇后宮司除目。大納言藤原家忠、皇后宮大夫に任命】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
12月8日 【皇后宮(令子)行啓定】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
12月9日 【皇后宮(令子)、二条堀河殿に渡御】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
12月28日 【藤原忠通、昇叙の慶申。皇后宮(令子)に拝賀】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月2日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)に拝賀】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月3日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)二条堀河御所に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
2月7日 【皇后(令子)入内】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
2月10日 【鳥羽天皇、皇后(令子)御所に行幸】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月5日 【皇后御封官符請印】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月15日 【鳥羽天皇、皇后(令子)御所に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
公卿補任
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月20日 【皇后(令子)、二条第に行啓】
(未入力)
中右記
朝野群載
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月23日 【皇后(令子)、岩清水八幡他に奉幣、立后を奉告】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月7日 【摂政藤原忠実、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月8日 【皇后宮(令子)灌仏】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月17日 【賀茂祭(斎王不参)。皇后宮使あり】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月20日 【皇后(令子)、六条内裏に入御】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
5月4日 【皇后(令子)、堀河殿に方違行啓】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
5月16日 【皇后(令子)、二条堀河院に行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
5月17日 【皇后宮(令子)大進源仲正、刃傷の罪により捕えられる】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
5月19日 【摂政藤原忠実、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
6月13日 【摂政藤原忠実、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
6月17日 【皇后(令子)不予】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
7月1日 【摂政藤原忠実、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
岩清水文書 天仁元年
(1108)
8月10日 【皇后(令子)、陰陽助賀茂光平に勘申を命ずる】
(未入力)
殿暦
中右記
天仁元年
(1108)
8月20日 【皇后(令子)、六条殿に入御】
(未入力)
殿暦
中右記
天仁元年
(1108)
8月21日 【鳥羽天皇と皇后(令子)、内裏へ還御】
(未入力)
殿暦 天仁元年
(1108)
10月3日 【鳥羽天皇御悩、皇后(令子)祇候】
(未入力)
殿暦
中右記
江記
天仁元年
(1108)
10月21日 【鳥羽天皇大嘗会。皇后宮(令子)入御】
(未入力)
中右記 天仁元年
(1108)
11月2日 【春日祭】
(未入力)
殿暦 天仁元年
(1108)
11月8日 【大嘗会で皇后(令子)同輿のこと】
(未入力)
中右記 天仁元年
(1108)
11月21日 【童御覧。皇后宮(令子)列席】
(未入力)
殿暦
中右記
天仁元年
(1108)
11月28日 【鳥羽天皇と皇后(令子)、大炊殿へ還御】
(未入力)
殿暦 天仁元年
(1108)
12月15日 【鳥羽天皇物忌。皇后(令子)参上】
(未入力)
中右記 天仁元年
(1108)
12月25日 【皇后(令子)御仏名】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
1月30日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
3月14日 【皇后(令子)、二条に滞在のこと】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
4月8日 【右中将藤原忠通、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
5月2日 【皇后(令子)不例】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
5月20日 【皇后(令子)、内大臣源雅実の土御門第に移徙】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
6月16日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
6月19日 【皇后(令子)、土御門第より内裏に還啓】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
8月18日 【白河法皇、鳥羽殿で御塔供養。皇后(令子)参列】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
11月14日 【右中将藤原忠通、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
3月2日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦
永昌記
天仁3年
[天永元年]
(1110)
3月11日 【一切経供養。白河法皇と皇后(令子)、法勝寺に臨御】
(未入力)
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
4月8日 【皇后(令子)灌仏】
(未入力)
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
5月21日 【皇后宮(令子)不例】
(未入力)
殿暦 天永元年
(1110)
9月8日 【斎宮群行。鳥羽天皇出御、皇后(令子)同輿】
(未入力)
殿暦 天永元年
(1110)
12月28日 【中宮(篤子)・皇后(令子)御仏名】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
1月24日 【右中将藤原忠通、権中納言に任官、皇后(令子)に慶申】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
2月1日 【権中納言藤原忠通、従二位。皇后(令子)に慶申】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
2月20日 【皇后(令子)の御方に管絃】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
3月5日 【皇后(令子)、祭の使いのことで攝政藤原忠実に沙汰】
(未入力)
長秋記 天永2年
(1111)
3月8日 【白河法皇、皇后(令子)女房を勘当】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
3月18日 【皇后(令子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
3月21日 【皇后(令子)、阿波守藤原忠長三条第に行啓】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
4月1日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
長秋記 天永2年
(1111)
4月8日 【皇后(令子)御悩】
(未入力)
中右記
長秋記
天永2年
(1111)
5月25日 【皇后(令子)、三条第より内裏に入御】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
6月14日 【祇園御霊会。皇后(令子)の御封物押取により、祇園神人を赦免】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
6月30日 【皇后(令子)の御封物のこと】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
8月17日 【皇后(令子)入内】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
9月16日 【皇后(令子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
9月20日 【鳥羽天皇と皇后(令子)、土御門殿より高陽院東対に移御】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
9月25日 【皇后(令子)不予、二条殿に行啓】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
10月26日 【摂政藤原忠実、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
12月8日 【皇后宮(令子)鎮魂祭】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
12月21日 【皇后(令子)御仏名】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
12月22日 【皇后(令子)、二条第より高陽院に還啓】
(未入力)
殿暦 天永3年
(1112)
3月18日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に慶申】
(未入力)
殿暦
中右記
体源抄
天永3年
(1112)
3月22日 【皇后(令子)、童舞を高陽院東対で観覧】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
3月28日 【皇后(令子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
4月1日 【皇后(令子)二条殿に行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
4月8日 【内及び皇后宮(令子)の灌仏を停止】
(未入力)
殿暦 天永3年
(1112)
5月8日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
6月30日 【皇后宮(令子)、二条殿より藤原忠長三条第に行啓】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
8月18日 【皇后宮(令子)の御方に御修法】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
9月19日 【皇后宮(令子)、母后のために五部大乗経供養】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
9月23日 【皇后宮(令子)御読経供養結願】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
9月27日 【皇后(令子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
10月1日 【皇后(令子)、三条第より内裏に還啓】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
10月11日 【皇后(令子)不予により、阿波守藤原忠長三条第に行啓】
(未入力)
殿暦 天永3年
(1112)
11月13日 【殿上人ら、皇后(令子)に参向】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
12月26日 【皇后(令子)御仏名】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
12月28日 【皇后(令子)内裏に還啓】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月2日 【源師時、皇后(令子)に拝賀】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月7日 【源師時、皇后(令子)に参向】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月8日 【皇后(令子)大炊殿に行啓】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月14日 【鳥羽天皇、皇后宮(令子)に渡御】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
3月14日 【皇后宮(令子)昇給】
(未入力)
殿暦 天永4年
[永久元年]
(1113)
4月23日 【賀茂祭。皇后(令子)使いのこと】
(未入力)
殿暦
長秋記
永久元年
(1113)
7月13日 【皇后(令子)京極殿に行啓、源麗子見舞う】
(未入力)
長秋記 永久元年
(1113)
7月14日 【皇后(令子)還啓】
(未入力)
殿暦 永久元年
(1113)
10月5日 【皇后(令子)御方に落書のこと】
(未入力)
殿暦 永久元年
(1113)
11月13日 【殿上人ら、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 永久元年
(1113)
11月25日 【皇后(令子)不予により、二条殿に行啓】
(未入力)
殿暦 永久元年
(1113)
12月6日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 永久2年
(1114)
1月3日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に拝礼】
(未入力)
殿暦
中右記
永久2年
(1114)
1月29日 【皇后(令子)内裏に還啓】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
2月12日 【皇后(令子)堀河殿に行啓】
 皇后宮(令子)從内出御、進出車、依神心屈不供奉行啓、(後略)
中右記 永久2年
(1114)
2月13日 【皇后(令子)還啓】
(前略)今夕皇后宮(令子)又令入内給云々、昨今物忌、仍不供奉行啓、
中右記 永久2年
(1114)
2月27日 【皇后(令子)、二条殿に方違行啓】
 今夕皇后宮(令子)爲御方違、白地從皇居行啓本御所二條殿、権大夫、<顕(源顕通)、>予、源中納言、<能(能俊)、>左大辨、<重(源重資)、>供奉殿上人七八人、曉更可入御者、仍留近隣法性寺座主房、
中右記 永久2年
(1114)
2月28日 【皇后(令子)還啓】
 鶏鳴之間皇后宮(令子)令還入給、予権大夫二人外無他上達部、此間雨脚殊甚、
中右記 永久2年
(1114)
3月10日 【皇后(令子)、二条殿に方違行啓】
(前略)今夜皇后宮(令子)依御方違從禁中出御二條殿云々、
中右記 永久2年
(1114)
3月12日 【皇后(令子)、二条殿より還啓】
(前略)今夕皇后宮(令子)又令還入内給云々、権大夫右兵衛督供奉云々、(後略)
中右記 永久2年
(1114)
4月5日 【故関白藤原師実室源麗子薨去。皇后(令子)、二条殿に行啓】
(前略)依有催入夜参皇后宮(令子)行啓、今夜從皇居出御御二條本御所、是依京極殿北政所事、出御禁中也、此皇后宮年來被養育彼北政所給也、仍爲有憚、俄出御禁中、予巻纓、随身胡●、参入之處、源中納言<能(能俊)、>被参、示云、今夜行啓不可有尋常儀之由、今朝於院被沙汰了、(後略)

●=籙(竹冠+禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
中右記 永久2年
(1114)
4月8日 【皇后宮(令子)の灌仏を停止】
(前略)今日依大神使立日、公家并皇后宮(令子)無御灌佛、
殿暦 永久2年
(1114)
8月30日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に参向】
殿暦
中右記
為房卿記
白川御堂供養記
永久2年
(1114)
11月29日 【皇后(令子)白河阿弥陀堂に行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
永久2年
(1114)
12月15日 【藤原忠実、皇后(令子)御所を検分】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
12月25日 【皇后(令子)御仏名】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
1月2日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に拝礼】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
2月6日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に参向、琵琶を賜る】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
4月8日 【皇后(令子)灌仏】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
11月12日 【権大納言藤原忠通、五節舞姫を奉仕。皇后(令子)より装束を賜る】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
11月26日 【皇后(令子)新造内裏大炊殿に行啓】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
1月3日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に拝礼】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
4月8日 【皇后(令子)灌仏】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
8月17日 【内裏焼亡。皇后(令子)、二条殿に行啓】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
12月29日 【皇后(令子)内裏に参入】
(未入力)
殿暦 永久5年
(1117)
4月15日 【賀茂祭。皇后宮(令子)使のこと】
(未入力)
殿暦
百錬抄
永久5年
(1117)
9月14日 【皇后(令子)御所二条殿焼亡】
(未入力)
殿暦 永久5年
(1117)
12月12日 【皇后(令子)白河殿に行啓】
(未入力)
殿暦 永久5年
(1117)
12月13日 【皇后(令子)、藤原璋子の着裳の腰結を務める】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月2日 【藤原宗忠、皇后(令子)御所に参上】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月16日 【皇后(令子)年給記事】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月23日 【皇后宮(令子)少進名前】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
2月28日 【皇后宮(令子)に蹴鞠及び和歌の会】
(2月29日条)
(前略)或人談云、昨日依仰宰相中將三人、殿上人十人許參皇后宮(令子)御所六條、先上鞠、次官■[管絃?]、又講和歌、盃酌之間宰相中將實隆持盃之程被出和歌、已無返歌、頗以興醒云々、(後略)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
3月15日 【皇后(令子)尊勝陀羅尼を供養】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
6月19日 【皇后(令子)、西六条殿の怪異により、忠長の三条第に遷御】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
7月1日 【皇后(令子)内裏に還啓】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
7月25日 【伊勢皇后宮(令子)領のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
元永元年
(1118)
8月8日 【皇后(令子)内裏に還啓】
(未入力)
殿暦
中右記
元永元年
(1118)
8月9日 【皇后(令子)三条殿に行啓】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
8月29日 【小除目。皇后宮(令子)職】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
9月1日 【権中納言藤原宗忠、白河院に皇后宮(令子)御領の事を奏上】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
閏9月15日 【皇后(令子)、新作の箏を藤原宗忠に試弾させる】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
閏9月21日 【藤原宗忠、皇后宮権亮と共に宇治へ出立】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
11月11日 【春日祭使記事。皇后宮権亮名前】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
11月23日 【皇后(令子)新写大般若経を供養】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
1月8日 【皇后宮(令子)権亮少将記事】
(未入力)
中右記
法性寺殿御記
元永2年
(1119)
2月2日 【皇后宮(令子)権亮源顕国宅に火災】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
2月9日 【皇后宮(令子)三条町尻御所のこと】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
2月15日 【皇后(令子)里亭のこと】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
3月22日 【皇后(令子)糸毛車のこと】
(未入力)
中右記
長秋記
元永2年
(1119)
4月8日 【灌仏。皇后(令子)布施】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
5月2日 【中宮(璋子)御産沙汰】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
5月28日 【皇子(顕仁)誕生】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
6月6日 【皇子(顕仁)九夜。皇后(令子)主催】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
7月16日 【皇后宮権大進藤原説雅卒去】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
7月22日 【皇后宮(令子)権亮名前】
(未入力)
長秋記 元永2年
(1119)
12月25日 【皇后宮(令子)御仏名】
(未入力)
中右記 元永3年
[保安元年]
(1120)
1月11日 【白河院、法勝寺御幸。皇后宮(令子)女房参入】
(未入力)
中右記 元永3年
[保安元年]
(1120)
2月2日 【朝覲行幸。皇后(令子)御所にて対面あり】
(未入力)
中右記 保安元年
(1120)
12月19日 【円宗寺法花会始】
(未入力)
中右記
朝野群載
保安元年
(1120)
12月25日 【皇后(令子)御仏名】
(未入力)
中右記
不知記
源礼記
百錬抄
保安2年
(1121)
12月13日 【皇后(令子)、二条堀河殿に移徙】
『中右記』
(未入力)

『不知記』
(未入力)

『源礼記』
(未入力)

『百錬抄』
 皇后宮(令子)遷御新造二條堀川第。
永昌記 保安3年
(1122)
12月19日 【藤原為隆、皇后宮(令子)に慶申】
(未入力)
法性寺関白記
百錬抄
十三代要略
帝王編年記
一代要記
ほか
保安4年
(1123)
1月28日 【鳥羽天皇譲位】
『法性寺関白記』
(未入力)

『百錬抄』
 天皇讓位於第一親王顯仁。<五歳。>先爲皇太子之由戴宣命。

『十三代要略』
(未入力)
崇徳天皇
史料 月日 記述
百錬抄 保安4年
(1123)
12月15日 【皇后(令子)、堀河第内の御堂を供養】
 皇后宮(令子)供養堀川第内堂。
長秋記 保安5年
[天治元年]
(1124)
1月5日 【崇徳天皇、上皇御所二条殿に朝覲行幸。皇后(令子)参列、同輿】
(未入力)
有仁公記
永昌記
天治元年
(1124)
6月7日 【通仁親王産養九夜】
(未入力)
中右記目録
十三代要略
天治元年
(1124)
11月28日 【皇后(令子)、賀茂に行啓】
(未入力)
中右記目録 天治2年
(1125)
3月15日 【皇后宮(令子)御読経】
(未入力)
中右記目録 天治2年
(1125)
3月25日 【皇后宮(令子)御読経結願】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
1月1日 【藤原宗忠、皇后(令子)二条堀河第に参上】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
2月8日 【皇后(令子)、二条殿怪異により土御門第へ行啓】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
3月3日 【源雅実の薨去により、皇后宮(令子)の御燈停止】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
5月18日 【臨時給爵(皇后宮(令子)御給による)】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
8月20日 【皇后(令子)、堀河第に渡御】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
9月19日 【雅仁親王産養九夜】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
11月9日 【春日祭。皇后(令子)使】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
1月1日 【崇徳天皇元服。皇后宮(令子)大夫・権大夫】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
1月8日 【皇后(令子)、扇を藤原聖子入内の料に進める】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
1月9日 【摂政藤原忠通女聖子入内。皇后宮(令子)、薫物を贈呈】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
1月12日 【后宮(令子?)、女御聖子に卯杖を贈る】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
1月25日 【皇后(令子)、呪師御覧】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
2月18日 【皇后宮(令子)、二条御堂修二月会】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
2月29日 【源師時、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
3月7日 【皇后宮(令子)、尊勝陀羅尼供養】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
3月12日 【前斎院(禎子)土御門御堂供養。皇后宮(令子)御誦経使】
(未入力)
中右記
長秋記
大治4年
(1129)
5月27日 【皇后宮(令子)御懺結願】
(未入力)
中右記
長秋記
ほか
大治4年
(1129)
7月7日 【白河法皇崩御】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
7月8日 【待賢門院御産、皇后(令子)九夜のこと】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
7月15日 【故白河院葬送。皇后(令子)・前斎院(禎子)ら、素服麻布を着用】
(未入力)
中右記
長秋記
永昌記
大治4年
(1129)
7月26日 【皇后宮(令子)出家】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
8月6日 【皇后宮大夫藤原能実、除服】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
8月28日 【皇后宮(令子)所充】
(未入力)
中右記
長秋記
大治4年
(1129)
9月27日 【皇后宮(令子)、白河殿に行啓】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
9月28日 【結縁供養。皇后宮(令子)、北庇を御所とする】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
12月23日 【皇后宮(令子)御仏名】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
1月6日 【叙位。皇后(令子)申文】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
1月21日 【皇后宮(令子)乳母子記事】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
2月26日 【皇后宮(令子)、三条殿に渡御】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
3月7日 【皇后宮(令子)、本宮に還御】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
5月25日 【皇后宮(令子)記事】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
5月27日 【皇后宮(令子)合爵】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
6月1日 【皇后宮(令子)合爵】(6/7条)
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
6月7日 【皇后宮(令子)の侍者等闘乱、侍長実清を投獄】
(未入力)
中右記
長秋記
大治5年
(1130)
6月28日 【皇后宮(令子)と待賢門院、三条殿で御経御仏を供養】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
7月2日 【鳥羽上皇・待賢門院・皇后宮(令子)、御誦経】
(未入力)
長秋記
中右記
大治5年
(1130)
7月12日 【皇后宮(令子)、御喪服を除く】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
9月7日 【皇后(令子)記事】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
9月23日 【皇后(令子)御堂供養】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
10月5日 【皇后宮(令子)御給】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
10月10日 【中将(藤原頼長)慶申。皇后宮(令子)に参上】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
12月15日 【皇后(令子)所司記事】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
6月8日 【皇后宮(令子)属記事】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
8月22日 【皇后宮(令子)所宛】
(未入力)
一代要記
今鏡
天承元年
(1131)
9月20日 【皇后宮亮藤原有佐卒去】
(未入力)
中右記 天承2年
(1132)
1月8日 【皇后宮(令子)申文】
(未入力)
中右記 天承2年
(1132)
1月22日 【除目。皇后宮(令子)権亮名前】
(未入力)
中右記
長秋記
天承2年
[長承元年]
(1132)
6月1日 【皇后宮(令子)、得長寿院に行啓】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
8月18日 【皇后宮(令子)大夫藤原能実出家】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
9月10日 【皇后宮(令子)大夫藤原能実薨去】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
12月17日 【皇后宮(令子)御仏名】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
12月25日 【皇后宮(令子)申文】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
12月26日 【権中納言中将(藤原頼長)慶申。皇后宮(令子)に参上】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
2月18日 【皇后宮(令子)と待賢門院、仁和寺より還御】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
7月7日 【皇后宮(令子)・前斎院(禎子?)、御誦経御経供養なし】
(未入力)
長秋記 長承2年
(1133)
8月24日 【皇后宮(令子)と鳥羽上皇・待賢門院、北殿へ渡御】
(未入力)
長秋記 長承2年
(1133)
8月25日 【皇后宮(令子)と待賢門院、鳥羽より還御】
(未入力)
長秋記 長承2年
(1133)
8月28日 【皇后宮(令子)所宛】
(未入力)
長秋記 長承2年
(1133)
9月22日 【皇后宮(令子)御仏経供養】
(未入力)
中右記 長承3年
(1134)
2月17日 【一切経会。皇后宮(令子)布施、参列】
(未入力)
中右記
長秋記
十三代要略
一代要記
帝王編年記
皇代暦
ほか
長承3年
(1134)
3月19日 【皇后宮令子内親王を太皇太后とする】
『中右記』
(未入力)

『長秋記』
(未入力)

『十三代要略』
(崇徳院 後宮)
太皇太后令子内親王
  大治四年七月廿二日。出家。
  三月廿九日。爲太皇太后。

『一代要記』
(崇徳天皇)
大皇大后宮 令子内親王<長治[承]三ー三月十九日改皇后爲大皇大ヽヽ[后宮]、泰子立后日、大治五ー七月廿六日落餝爲尼、>

『帝王編年記』
(崇徳院 後宮)
皇后令子内親王<長承三年三月十九日爲太皇太后>

『皇代暦』
(崇徳天皇 後宮)
皇后宮令子内親王
長承三年爲太皇太后大治五年出家
長秋記 長承3年
(1134)
9月6日 【鳥羽御念仏結願。太皇太后(令子)と鳥羽上皇・待賢門院、鳥羽より還御】
(未入力)
長秋記 長承3年
(1134)
12月4日 【源師時、大宮(令子)へ参上】
(未入力)
長秋記 長承4年
[保延元年]
(1135)
1月9日 【太皇太后宮侍貞利、修理進国兼を傷く】
(未入力)
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
1月9日 【除目。后三所(中宮藤原聖子、皇后藤原泰子、太皇太后令子)】
(未入力)
長秋記 長承4年
[保延元年]
(1135)
3月8日 【大宮(令子?)御消息記事】
(未入力)
長秋記 長承4年
[保延元年]
(1135)
3月24日 【太皇太后(令子)舞御覧】
(未入力)
中右記 保延2年
(1136)
1月6日 【叙位。太后宮(令子)申文】
(未入力)
長秋記 保延2年
(1136)
1月26日 【太后(令子)亮記事】
(未入力)
中右記 保延2年
(1136)
3月23日 【鳥羽上皇、鳥羽御堂供養。太皇太后宮(令子)布施】
(未入力)
台記 保延2年
(1136)
12月13日 【内大臣藤原頼長、慶申。大宮(太皇太后令子)・土御門斎院(禎子)に参向】
 今日予慶申也、(中略)
院示聞食了由、次二拜、此間、予車引過南門南也、爲參大宮也、次參大宮、<御所白河也、院御所也、本是法印信縁大泉亭也、>自西面欲參入之處、宮侍出來、示自南門可參之由、仍入自南門、立庭中門下、以亮實兼申事由、示聞食了由、二拜之後、定兼示有召由、予居殿上、次參簾中、女房擡簾、頃之、退出時、女房擡簾、又欲着履之間、女房●簾招實兼、實兼參、女房、入大刀於錦袋差出、實兼取之授予、左手乍持笏、以右手取之、給顯親云、以亮可返進也、顯親給實兼、實兼給女房、次參前齋院、<土御門(禎子)、>入自万里小路西門、■石履脱下、、<依無中門立此所也、>以權辨雅綱申事由、歸出示聞食了由、予二拜了、雅綱示有召由、予昇自件石履脱、參御前、女房擡簾令參入也、出時同擡、欲着履之時、雅綱、持錦小袋横笛、授左馬權頭顯定、予示可返上之由、仍返上畢云々、(後略)

●=褰(こちらを参照(字源))
公卿補任 保延5年
(1139)
8月3日 【大納言源師頼、大宮大夫を辞任】
 大納言正二位 源師頼<七十二> 大宮大夫。七月十六爲躰仁親王勅別當。八月三辭大夫。同日勅授帶釼。十二月四薨(先是出家)。依喉所勞也。
兵範記(人車記) 保延7年
[永治元年]
(1141)
3月8日 【鳥羽上皇、六条万里小路の故源資成第に大宮(令子?)を訪問】
(未入力)
近衛天皇
史料 月日 記述
本朝世紀 康治2年
(1143)
4月8日 【盗賊、太皇太后宮大進藤原清兼を負傷】
(未入力)
台記
重憲記
本朝世紀
帝王編年記
一代要記
ほか
天養元年
(1144)
4月21日 【太皇太后令子内親王崩御】
『台記』
 太皇太后(令子)崩、權大夫忠基卿、承法皇詔、行喪事、

『重憲記』
 未剋、太皇太后宮、<令子>崩給、<春秋六十七、>十余ヶ日以来令煩物気給云々、

『本朝世紀』
 未時。太皇太后宮(令子)崩給。<春秋六十七。>

『帝王編年記』
(近衛院 後宮)
 太皇太后令子内親王<天養元年四月廿一日崩于二條堀川亭>

『一代要記』
(近衛院天皇)
 大皇大后宮 令子<天養元ー四月廿一日崩、尼也、<六十七、>>
台記 天養元年
(1144)
4月26日 【鳥羽法皇、養母令子の喪に服す】
 親隆來語曰、太后(令子)葬雜事、明日可被定云々、法皇(鳥羽院)、自明日可令觸穢給、忽依有養母之義、可有五月御服、<衣色、同喪父母、>喪、禮、偏法皇所令沙汰給也、君子曰、明王以孝治天下、此之謂也、昔喪白川太上法皇、哀容過于禮、今喪太后、又不失節矣、孝道之美、豈有所加哉、
重憲記
本朝世紀
天養元年
(1144)
4月27日 【故太皇太后(令子)入棺】
『重憲記』
 今夜、大宮(令子)御入棺云々、

『本朝世紀』
 今夜、有大宮(令子)御入棺事。
台記
重憲記
本朝世紀
天養元年
(1144)
4月29日 【故太皇太后令子を岩陰に葬送】
『台記』
(前略)葬太皇太后(令子)石陰、入夜、乘女車、向中御門大宮、見太后葬禮、卿已下、會葬之數百、

『重憲記』
(前略)次召大外記仰云、依太皇太后宮(令子)崩給事、今日以後廃朝五ケ日、兼又可停音奏由、宜仰内竪者、還腋陣以司人助正不可音奏由召仰内竪大主鈴伴為忠了、(中略)
今夜、大宮御葬送也、予為見物竊向待賢門辺、新中納言、権大夫、堀川宰相已下、蔵人五位諸大夫卅人許、并衛府諸司等自院被催進云々、戌剋、有此事、其路壊冷泉面築垣、<御所、二条北油小路東、>自油小路北行、大炊御門西折、出大宮北行自一条北行、至香隆寺、左少将光忠著●麻与権大夫在御車後、(中略)
今夜、仙院(鳥羽院)著御紵[錫脱]給云々、<五ケ日歟、>依御養母儀也、出家之人為傍親可有御服哉事、有其沙汰云々、但外記不知事也、

『本朝世紀』
 次召大外記仰云。今日以後五箇日間。可為廃朝。又可停音奏由。可伝仰内竪者。次召諸衛官人有警固召仰。<四府。>依大宮(令子)御葬送也。

●=縗(糸偏+衰。喪服またはその衣のこと。こちらを参照(字源))
台記 天養元年
(1144)
5月9日 【太皇太后令子崩御による鳥羽院穢のこと】
 寅刻、下人云、法皇御所<北白川殿、>火、即與大將軍、同車參入、先之、渡御南殿、法皇觸太皇[后?]穢、仍先日、公卿、不可昇堂上之由被仰、然而、今日皆昇、(後略)
台記 天養元年
(1144)
5月28日 【故太皇太后令子御法事】
 太后(令子)御法事云々、欲參入、而法皇不幸、仍會葬之人外、卿相不參云々、依不參入、
台記 天養元年
(1144)
6月10日 【故太皇太后令子御法会】
 法皇(鳥羽院)、幸尊勝寺阿彌陀堂、請百僧行太皇太后(令子)正日之事、法皇服斬衰、群臣吉服、但權大夫忠基卿、服●衰、導師興福寺別當覺譽、事畢行香、布施、予共預此役、法皇已致母義、臣不能忌憚也、請實範聖人、令供養銅像如意輪、依願成就、所奉鋳也、可爲本尊、

●=緦(糸偏+思。喪服に用いる目の粗い麻布のこと。こちらを参照(字源))
台記 天養元年
(1144)
9月17日 【太皇太后令子崩御の除服】
 參院(鳥羽法皇)、高陽院、除太后服之後、今日初幸歓喜光院、(後略)
台記 天養2年
[久安元年]
(1145)
3月6日 【太后(令子)法事のこと】
(未入力)
台記 天養2年
[久安元年]
(1145)
4月21日 【法皇(鳥羽)、故太皇太后(令子)一周忌の法会を修す】
(未入力)



史料 記述
十三代要略
白河院
(皇女)
 令子内親王<母同媞子(中宮賢子関白左大臣女)。>
  承暦三年四月廿六日。爲内親王。
  應徳元年十一月十四日。准三宮。

堀川院
 寛治三年 六月廿八日。卜定令子内親王。爲賀茂齋院。
 嘉承二年 七月十九日。辰刻。(堀河)天皇崩于堀河院。<年廿九。>(後略)
      十一月一日。(鳥羽天皇)即位大極殿。<年五。>令子内親王准母儀蒙立后宣旨。

鳥羽院
 天仁元年 十月二十日。大嘗會御禊也。皇后同■[輿?]。
(後宮)
 皇后 令子内親王<太上法皇(白河院)第三女/母中宮賢子。>
  嘉承二年十二月一日。爲皇后擬母儀。

崇徳院
 天治元年 (十一月)廿八日。皇后宮行啓賀茂。
 大治四年 (七月)七日。辰刻。<白川>法皇俄崩御。于三條室町亭。<七十七。>
      廿六日。皇后宮出家。
 大治五年 (十月)廿五日。女院(待賢門院)御願。法金剛院供養也。上皇(鳥羽院)女院皇后宮渡御。
 長承三年 二月十七日。上皇(鳥羽院)於法勝寺今自供養金泥一切經。(崇徳)天皇行幸。女院(待賢門院)皇后宮同渡御。有勤賞。
(後宮)
 太皇太后 令子内親王
  大治四年七月廿二日。出家。
  三月廿九日。爲太皇太后。
一代要記
白河院天皇
(皇女)
 令子内親王<賀茂斎、><准宮、承暦三ー四月二十六日爲内親王、<二才、>同四ー三月十六日給別封五百戸、/應徳元ー十一月十四日准三宮、 年 月 日薨、號二条大宮、>

堀河院天皇
(斎院)
 令子内ヽヽ[親王]
 白河院二女、承暦三ー四月廿六日爲内親王、<二才、>寛治七ー六月廿八日卜定、應徳元ー十一月十四日准三后、號二條大宮、>

鳥羽院天皇
(皇后)
 令子内親王嘉承二ー十二月一日爲皇后、天皇即位日擬母儀、>

崇徳天皇
(大皇大后宮)
 令子内親王<長治[承]三ー三月十九日改皇后爲大皇大ヽヽ[后宮]、泰子立后日、大治五ー七月廿六日落餝爲尼、>

近衛院天皇
(大皇大后宮)
 令子<天養元ー四月廿一日崩、尼也、<六十七、>>
帝王編年記
白河院
(皇女)
 令子内親王<母同堀川院/号二條大宮>

堀河院
(齋院)
<准三宮>
 令子内親王<法皇(白河院)第三皇女寛治三年六月廿八日卜定/承徳三年六月廿一日依病退出>

鳥羽院
(後宮)
 皇后宮令子内親王<法皇(白河院)第二皇女>

崇徳院
(後宮)
 皇后令子内親王<長承三年三月十九日爲太皇太后>

近衛院
(後宮)
 太皇太后令子内親王<天養元年四月廿一日崩于二條堀川亭>
二中歴
(齋院)
 令子<白河女後鳥羽御母代 寛治三年(號一[二]條大齋院)>

(后妃)
 令子<皇后令子内親王 鳥羽殿女房>
皇代暦
堀河天皇
(齋院)
 令子内親王 白川院第三女依病退之

鳥羽天皇
(後宮)
 皇后宮令子

崇徳天皇
(後宮)
 皇后宮令子内親王 長承三年爲太皇太后大治五年出家

近衛天皇
(後宮)
 太皇后宮令子 天養元年四月廿一日崩尼也年六十七
本朝皇胤紹運録
(白河院子)
(286)令子内親王[齋院。准三宮。皇后鳥羽准母。母同堀河院(中宮賢子)。]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
令子内親王<准三后皇后(右傍書)> 寛治三年卜定。白河院第八御女。母中宮賢子。鳥羽院准母。二條大宮。
賀茂斎院記
令子内親王
白河院第八之皇女也。母中宮賢子。太政大臣師実之女也。<実右大臣顕房女。>
寛治二年卜定。其後為鳥羽院之准母。
号二条大宮。
栄花物語
(39・布引の滝)
【令子内親王誕生】
 中宮(白河后賢子)、五月十八日、いとやすらかに女宮(令子)を生みたてまつらせたまへり。口惜しきこと(男子でなかったこと)を誰も誰も思し嘆く。殿の上(師実室麗子)とりわきかしづきたてまつらせたまふ。
栄花物語
(40・紫野)
【白河院の行幸、令子内親王の斎院卜定】
 故宮(中宮賢子)うせさせたまひては、いづれの宮たちをも見たてまつらせたまふこともなく、なかなかに見たてまつらんにつけて催されぬべしとて、この二三年ばかり、かくいみじき御有様どもを見たてまつらせたまはざりつるを、御禊のほどより、斎宮(媞子内親王)をも見たてまつり、内(堀河天皇)をも、御禊の後、行幸もたびたびありなどして、殿(師実邸)におはします姫宮(令子)見たてまつらせたまふなりけり。日一日(ひひとひ)もてあそび、よろづのをかしきことを尽して御覧ぜさせたてまつらせたまひて、還らせたまひぬれば、名残恋しく思しめさるらんかし、ただ斎宮の御方にのみおはします。(中略)

 かくて瑠璃女御と聞えしうせたまひぬれば、斎院(斉子女王)おりさせたまひぬ。(中略) 一院(白河院)の姫宮(令子)、殿におはします、斎院にゐさせたまひぬ。いと華やかにめでたき御有様なり。
 定まらせたまひなば御対面難(かた)かるべければ、院に渡らせたまふ。四条宮の姫宮(禛子内親王)も渡らせたまふ。若き人々、薄物、綾、かとり(※)の単襲(ひとへがさね)の色々なるに、裳、唐衣などめでたくをかしう、花の色々を織りつくして十人、さらに大人などは織りたる五重なる三重なる、浮線綾など着たるもあり。四条宮の姫宮の御方にも四人ばかりぞさぶらはせさせたまふ。かたち、有様心ことに選らせたまへり。斎宮(媞子)の御方もおろかならんやは。院いづれもおろかならず見たてまつらせたまふ。
 かくて六月つごもり方にゐさせたまひぬ。人の家(源高実邸。近衛万里小路)におはします。またの年の御禊にぞ、大膳職にわたらせたまふ。御禊の有様などいとめでたし。屐子(けいし、履物の一種)はきなどさえ選らせたまへり。

※「かとり」=糸偏に兼。絹を固く織った平織りの布地のこと。
 字はこちらを参照(字源)。
讃岐典侍日記
(上)
【白河院、前斎院(令子)御所へ渡る】
 日の暮るるままに、耐へがたげにおぼしめしたれば、院(白河法皇)にかくと案内(あない)申さする。
「おどろかせたまひて、近くて御有様聞かんとて、にはかに北の院(令子内親王御所。堀河院の北隣)に御幸ありて」と奏す。
讃岐典侍日記
(下)
【萩の戸の花】
 明けぬれば、いつしかと起きて、人々めづらしき所々見んとあれど、具してありかばいかが物のみ思い出でられぬべければ、ただほれて居たるに、御前のおはしまして、いさいさ、黒戸のみちをおれら知らぬに教へよと仰せられて引きたてさせ給ふ。参りて見るに、清涼殿・仁寿殿いにしへに変らず。台盤所・昆明池の御障子、今見れば見し人にあひたる心ちす。弘徽殿に皇后宮(令子内親王)おはしまししを、殿(摂政藤原忠実)の御とのゐどころになりにたり。黒戸の小半蔀の前に植ゑおかせ給ひし前栽、心のままにゆくゆくと生ひて、御春の有輔が、
  君がうゑし一むらすすき蟲のねのしげき野辺ともなりにけるかな
といひけむも思い出でらる。

【鳥羽天皇、大嘗会御禊】
 十月十一日大嘗会の御禊とて天の下の人いとなみあいたり。其の日になりて播磨守(藤原)長実御びんづらに参りたり。内の大臣殿(源雅実)朝餉の御簾まきあげて、長押の上に殿(摂政藤原忠実)さぶらはせ給ふ。縁に、左衛門佐いと赤らかなるうへのきぬ着て、事おきてて、しばしありて御びんづらはてかたになりて蔵人参り「女御たいめんに参らせ給へり」と奏すれば、「聞かせ給ひぬ。事どもすすめよ」といそがせ給ふ。事なりて皇后宮(令子内親王)などめでたくしたせさせ給へり。

【雪の思い出】
 一とせ、限のたびなりければにや、常より心に入れもて興じて、参りの夜よりさわぎありかせ給ひて、その夜帳台の試などに夜ふけにしかば、つとめて御あさひの例よりもありしに、雪降りたりと聞かせ給うておほとのごもり起きて、皇后宮(令子内親王)もその折におはしまししかば、御かたがたに御ふみ奉らせ給ふとて、御前に侍ひしかば、日かげをもろともに作りて結びゐさせ給ひたりし事など、上の御局にて昔思い出でられて物ゆかしうもなき心地してまでなど。わらはのぼらんずる長橋、例の事なれば、うちつくり参りて作を、承香殿のきざはしより清涼殿のうしとらの隅なるなかはしとのつままで渡すさま昔ながらなり。

【几帳のこと】
 皇后宮(令子内親王)の御方つねよりは心ことに、細殿の几帳などにも織物の三重の几帳に菊を結びなどして、袖口、菊・紅葉いわいわにこぼし出されたりしかば、過ぎにしかた、例はさやうに乱れさせ給ふこともなかりしが、一昨年も「上の御局に、人々のきぬどもの中によしと御覧ぜんを、上臈・下臈ともいはず、それかれを出ださん。わざと出だしたるとはなくて、はづれてゐあひたるやうにせよとて、御手づから人たち引きすゑて、一のまには出せと仰せられしかば、皆人の袖口もりうたん(竜胆)なるに我が唐衣の赤色にてさへありしかばひとりまじりたらんがけしきおぼえて、「これこそ見苦しくや」と申ししかば、「遠くては何か見えむ、あへ、など、其の人といふふみ付けてもなし、よも見えじ」あながちにせんとおぼしめしたりし事なれば、咎なきやうにいひなさせ給ひて、すべて黒戸の傍につづきたる、小半蔀より御覧じて、「あの袖今少しさし出せ、これ少し引入れよ」など、もて興ぜさせ給ひし有様、いかでか思い出でざるべきぞなど覚えて目とどめらるれ。
今鏡
(2・白河の花宴)
 その後、いづれの年にか侍りけむ(大治元年十二月十六日?)、雪の御幸せさせ給ひしに、たびたび晴れつつ、今日今日ときこえけるほど、にはかに侍りけるに、西山船岡の方御覧じ巡りて、法皇(白河院)も院(鳥羽院)も、都の内には一つ御車にたてまつりて、新院(鳥羽院)御直衣に紅のうち御衣出ださせ給ひて、御馬にたてまつりけるこそ、いとめづらしく、絵にもかかまほしく侍りけれ。
 二条の大宮(令子)の女房、いだし車に、菊紅葉の色々なる衣ども出だしたるに、上下に白き衣を重ねて縫ひ合はせたれば、ほころびは多く、縫ひめは少くて、厚衣(あつぎぬ)の錦などのやうにて、こぼれ出でたるが、菊紅葉の上に雪の降り置けるやうにて、五つ車たて続け侍りけるこそ、いと見所おほく侍りけれ。
今鏡
(7・有栖川)
 故中宮(賢子)の姫宮、二条の大宮とて、女院(郁芳門院媞子)の御おとうとおはしましし、令子内親王とて、斎院になり給ひて、後には、鳥羽院の御母にて、皇后宮になり給ひて、大宮にあがらせ給ひにき。いと心にくき宮のうちと聞き侍りしは。
 侍従大納言(藤原成通)、三条の大臣(藤原公教)など、まだ下臈におはせし時、月の明(あか)かりける夜(よ)、さまやつして、宮ばらを忍びて立ち聞き給ひけるに、あるはみな寝入りなどしたるもありけり。この宮(令子の邸)に入り給ひければ、西の対の方(かた)、静まりたるけしきにて、人々みな寝たるにやとおぼしかりけるに、奥の方に、わざとはなくて、筝の琴のつま鳴らしして、たえだえ聞えけり。いとやさしく聞えけるに、北の方のつまなる局、妻戸たてたりければ、「月も見ぬにや」とおぼしけるに、うちに源氏(物語)読みて、
「榊こそいみじけれ」
「葵はしかあり」など聞えけり。台盤所の方(かた)には、さざれ石まきて、乱碁(らんご)ひろふ音など聞えけるをぞ、「昔の宮ばらもかくやありけむ」と侍りける。
金葉和歌集
  • (雑部)皇后宮(令子内親王)弘徽殿におはしましけるころ、俊頼西面の細殿にて立ちながら人に物申けるに、夜のふけゆくまゝに苦しかりければ、土に居たりけるを見て、畳を敷かせばや、と女の申ければ、畳は石畳敷かれて侍り、と申を聞きてよめる
          皇后宮大弐
(593)石畳ありける物を君にまたしく物なしと思ひけるかな
行宗集
  • 皇后宮(※)斎院にておはしまししとき(1091-1099頃)、故源中納言など人人あまたまゐりて、まりのことなどありて、三月つごもりのことにや、まかりかへりしに、ものにもかかでさぶらひしてかくありし
(23)いかにしてたちかへるらむ神がきにかかれるふぢのいろをみすてて
(いかにして立ち返るらむ神垣にかかれる藤の色を見捨てて)

  かへし
(24)さらぬだにかへるそらなきゆふざれにむすびとどむる神がきのふぢ
(さらぬだに帰る空なき夕ざれに結び留むる神垣の藤)

所京子氏はこの「皇后宮」を28代統子内親王(上西門院)とする(『斎王和歌文学の史的研究』1989)が、源行宗(1064-1144。30代斎院怡子内親王の外祖父)は統子立后(保元3年(1158))の10年以上前に死去している。『行宗集』の歌の配列は詠まれた年代に規則性がないため、個人名のない官職のみの詞書から人物や年代を特定するのは困難だが、この詞書は年代こそ不明ながら後年往時を回想して書かれたことが伺える。他にも個人名と官職、また「堀川院御時」「郁芳門院かくれさせたまひて」等、堀河天皇時代に詠まれたことが明らかな歌が複数あり、一方で保延年間とする詞書から晩年の作とわかる歌も見られるが、詞書は行宗自身が生前に記した(または行宗の記録に基づいた)と考えられる。
 また統子の皇后宮時代は、保元3年(1158)~同4年(1159)のわずか1年と極めて短かった。その1年の間に『行宗集』が他撰により成立した可能性も否定はできないが、行宗の生前において統子は「皇后宮となった前斎院」ではなく、逆に成立が統子の立后後とすれば、むしろその後の上西門院時代の方が30年とはるかに長く、確率としてはかなり低いのではないか。よってこの皇后宮は、嘉祥2年(1107)に立后して以降24年間皇后宮であり続けた前斎院令子内親王と思われる(なお令子は「二条太皇太后」の呼称でも知られるが、太皇太后時代は10年あまりで皇后宮時代よりも短かった)。また「まりのこと」の詞書や歌の描写から本院での催しと推測され、従って行宗28歳から36歳の頃であろう。
 なお「故源中納言」は、令子が太皇太后になる(長承3年(1134))以前に中納言で死去した源氏の公卿と推測される。令子斎院在任中の公卿では源家賢(1048-1095)がいるが、この場合は行宗と同年代で『行宗集』にも「頭中将国信朝臣」の名で登場する歌人の源国信(1069-1111,康和4年(1102)権中納言)である可能性が高いと思われる(国信は令子の叔父で斎院長官(1089~1091)でもあった)。

【追記】塚谷多貴子氏の「皇后宮令子歌壇論――金葉集期の女流歌壇――」(1974)は上記の二首を(源)国信と行宗の贈答としており、従って「皇后宮」を令子と見なしている。



 ←前

戻る

次→