13代斎院 韶子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||||||||||||||||||||||||
しょうし | あきこ | 三品? | ||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
父:醍醐天皇(885-930)
母:女御源和子<正三位> (947没,光孝皇女) |
延喜18年(918) | 天元3年(980)1月18日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||
醍醐(897~930,父)、 朱雀(930~946,異母弟) |
卜定:延喜21年(921)2月25日
初斎院:不明 本院:延長2年(924)4月14日 退下:延長8年(930)9月29日? |
上皇(父)崩御? | ||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||
柔子(959没,叔母) [六条斎宮] 父:宇多天皇 母:女御藤原胤子 |
卜定:寛平9年(897)8月13日 初斎院:昌泰元年(898)4月25日 野宮:昌泰元年(898)8月22日 群行:昌泰2年(899)9月8日 退下:延長8年(930)9月22日 |
天皇譲位 | ||||||||||||||||||||||||||||||
同母兄弟:慶子内親王(903-923,敦固親王室) 常明親王(906-944,四品) 式明親王(907-966,三品中務卿) 有明親王(910-961,三品兵部卿) 斉子内親王(921-936,斎宮) 夫:源清蔭(884-950,陽成天皇皇子)、橘惟風(異説あり) 斎院長官:源忠(延喜23年(923)4月10日~延長4年(926)4月13日以前?) 仲連[姓不明](延長5年(927)4月17日~同8年(930)8月以前) 醍醐天皇第十三皇女。 母源和子(宇多天皇の異母姉妹,885年臣籍降下)は、父醍醐天皇の叔母。生年不明だが、佐藤早樹子氏の説では、和子は仁和元年(885)4月14日、光孝天皇の皇女で唯一人源姓を賜り臣籍降下していることから、光孝即位後に誕生した皇女であろうとされる。斉子内親王誕生の921年時点で40歳以下と想定すれば、880~884年頃の生まれなので矛盾はない。以上により、和子の生年はおおよそ884~885年頃と推測される。 11代恭子内親王、12代宣子内親王、14代婉子内親王は異母姉妹。 斎院長官源忠(惠)は嵯峨源氏で、韶子の祖父宇多天皇の再従兄弟にあたる。 ※同母兄常明親王は『皇胤系図』によると四品だが、『本朝皇胤紹運録』では三品刑部卿とされる。一方、『日本紀略』天慶7年(944)11月9日条の薨伝では「四品常明親王薨」、また『九暦』天慶7年(944)5月5日条の記述でも「四品常明親王」とあり、官職の記載はない(ただし、『吏部王記』承平6年(936)3月13日条の「上野太守」が常明であろうとされる)。参考論文: ・佐藤早樹子「陽成・光孝・宇多をめぐる皇位継承問題」p12 (『日本歴史』(806), p1-18, 2015) 参考リンク: ・『天皇皇族実録50.醍醐天皇 巻5』(宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム) ※宣子内親王については83~84コマにあり ・『日本の親王・諸王』内「常明親王」略伝 ┌──――――――─────┐ | | 仁明天皇 源弘 | | | | 光孝天皇 源弼 | | ├──────────┐ | | | | 宇多天皇 | 源忠(惠) | | [長官] ┌────┤ | | | | 柔子 醍醐天皇=======源和子 (斎宮) | | | | 朱雀天皇 ◆韶子 【韶子内親王の着裳記事について】 『大日本史料』では延長2年(924)3月25日に「韶子内親王著裳、同日三品」とする。これについて、『西宮記』の原文では「昌子内親王、於承香殿西廂著裳、天皇結腰、有送物御遊、宸筆叙品、<三品>雖不后腹、依先朝恩云々、以黄紙書叙品」とある。 延長2年当時韶子内親王は数え7歳であったが、その後の例を見ても内親王の着裳は最低でも10歳以上であり、7歳は着裳年齢としては早すぎる。さらに着裳の腰結役も、韶子の同母姉慶子内親王の着裳(当時14歳。腰結役の初見)では尚侍藤原満子(高藤女、醍醐天皇の叔母)が、また異母妹の康子内親王(皇后穏子所生。当時14歳?)の時は左大臣藤原忠平(穏子の兄、康子の伯父)があたっており、どちらも両親以外の親族である(ただし康子の場合は、父醍醐天皇の没後であった)。 これについて服籐早苗氏は「着裳の儀式では、父天皇が結腰した例は他に無いのに対し、着袴は父天皇が結腰するのが一般的」であるとしている。よって当該記事も着袴の間違いである可能性が考えられるが、当時の着袴記録は3歳で行われた例が多く、断定はできないものの7歳での着袴はやや遅いと思われる。 ※服籐氏は、成女式における腰結役は当初は女性であり、それが次第に一族尊長の男性(父親等)に変わっていったものであると推察している。なお後の一条天皇皇女脩子内親王の着裳(寛弘2年3月27日)では、父一條天皇が健在であったが、腰結役をつとめたのは左大臣道長である。これについて、『小右記』同日条に「西宮帥承平三年記云、小一條大臣結康子内親王裳腰者、依件記所結歟」との記述がある。故皇后宮定子所生の脩子は一条天皇鍾愛の長女であり、同じ后腹内親王の先例に准じての人選であったと見られるが、韶子(昌子)の例については触れていない。さらにこの頃、韶子は翌4月に紫野本院入りを控え初斎院で潔斎中の身であった。『河海抄』は韶子の母源和子を承香殿女御としており、この点と年代から韶子の記事と判断されたものであろうが、既に初斎院入りした斎王が初斎院を出て着袴・着裳を行った可能性は低いと思われる(かなり後の例であるが、34代範子内親王が初斎院内で着袴を行った記録がある)。 また「宸筆叙品、<三品>雖不后腹、依先朝恩云々」について、服籐氏は韶子の母源和子が光孝天皇皇女であったためかとしている。しかしそもそも『西宮記』の記述は、『日本紀略』にある朱雀天皇皇女昌子内親王着裳の記事と非常によく似ている点が注目される。 「是日也、朱雀院第一皇女昌子内親王、於承香殿初笄、天皇神筆給三品位記、又侍臣奏絃管」(『日本紀略』応和元年(961)12月17日条) 村上天皇が兄朱雀天皇の遺児である昌子を大切に庇護し、東宮憲平親王(のちの冷泉天皇)の正妃に娶わせたことはよく知られている。『日本紀略』にはない「雖不后腹、依先朝恩云々(皇后所生ではないが、先朝の恩によりこのようにした)」という記述も、こうした背景と一致しており、安田政彦氏もこの点を指摘している。 醍醐皇女の中では、承平3年(933)皇后安子の一人娘康子内親王が着裳と同時に三品に叙されている(のち一品へ昇叙)が、韶子の母源和子は光孝の娘とはいえ臣籍に下った女御の一人にすぎず、韶子自身も更衣源周子所生の勤子内親王(四品)のように父醍醐が特に寵愛したという逸話などは見られない。韶子の同母姉慶子内親王は敦固親王室となりながらも生涯無品であり(『日本紀略』薨伝)、それ以外の皇子女も元服・着裳と同時に三品に叙された親王・内親王はいない(服籐氏は、着裳と同時の三品直叙は后腹内親王の特権であったろうとする)。また醍醐皇女の韶子を除く斎院3人では、14代婉子内親王が斎院卜定と同時に三品とされているが、当時婉子は既に28歳?であった。こうした例と比較すると、わずか7歳の韶子だけに後の昌子内親王にも匹敵するほどの(着袴だとすれば昌子以上の)特別待遇があったとは考えにくい。 なお上記康子内親王は韶子と同時に内親王宣下されており、韶子が初斎院で着袴(着裳?)・叙品されたのだとすれば、わずか1、2歳差の異母妹、それも后腹内親王である康子を差し置いての異例の厚遇であったことになる。韶子がそれほど鍾愛の皇女であったのならば、そもそも他に大勢年長の内親王がいる状況で、敢えてわずか4歳の韶子を斎院にはしなかったのではないか(余談ながら、醍醐の寵愛篤かったと言われる源周子所生の皇女で斎王となったのは、父醍醐の没後に卜定された雅子内親王のみである)。 また当時の貴重な史料である『貞信公記抄』は各親王の元服・着裳について比較的よく記録が残っており、延長2年(924)3月部分も現存するが、その中に韶子の着袴または着裳に関する記述は見られない。加えて『日本紀略』記載の内親王の薨伝は品位を記述したものがしばしばあるが、韶子内親王の薨伝にはその品位についての記述はない。これらの点から見ても、安田氏の指摘の通り『西宮記』の記述は韶子ではなく、昌子の記事を年月日を誤って記載した可能性が高いと思われる。 なお延長年間に行われた親王・内親王の元服・着裳の記事を見ると、『貞信公記抄』延長3年2月24日条に「従内有召、依八九親王(時明、長明)又公主等(普子内親王)加元服事也」が見られる。この記述から、この翌日(延長3年2月25日)に親王・内親王の元服・着裳が行われたという記録が当時の『貞信公記』または他の史料にあり、『西宮記』の著者または写本の筆者はそれを記載しようとして、誤って次に記述するつもりだった昌子内親王着裳の記事を写したのではないかと考えられる(「韶子」を「昌子」と書き間違える可能性は考えにくいが、「延長3年2月」→「延長2年3月」程度の写し間違いであれば、比較的可能性は高いと思われる)。 参考論文: ・服籐早苗「平安王朝社会の成女式」 (『平安王朝の子どもたち:王権と家、童』吉川弘文館,2004) ・安田政彦「親王・内親王」 (『王朝文学と官職・位階(平安文学と隣接諸学4)』竹林舎,2008) ※その他関連論文はこちらを参照のこと。 ※韶子着裳記事についての詳細は小論「延長二年の着裳記事~「不后腹」昌子内親王の三品直叙について~」を参照のこと。 【韶子内親王の斎院卜定について】 12代宣子内親王が在任のまま薨去した後、韶子内親王が卜定されるまで8ヶ月かかっている。この頃は大抵3~5ヶ月で次の斎院が卜定されており、韶子の場合は異例の長さであると言える。 醍醐天皇の皇女たちは皆、姉妹である宣子の服喪のため3ヶ月間は卜定不可能であったと思われるが、服喪が明けた10月以降は韶子の異母姉である5人の内親王(勤子、都子、婉子、敏子、雅子)が候補に該当していた(更衣満子女王所生の修子、普子は、宣子死去の直前に母満子が急死、当時は喪中であった)。しかし結局年内に卜定はなく、12月に内親王宣下を受けたばかりの韶子が翌年2月に卜定されている。 醍醐皇女の中で斎宮・斎院に選ばれた皇女7人のうち5人は更衣所生であり、女御所生の皇女が卜定されたのは13代斎院韶子と同母妹の斎宮斉子の2人のみである(もっとも源和子以外に皇子女をもうけた女御はなく、また皇后・妃所生の皇女たちは斎王になっていない)。逆に更衣源周子所生の内親王3人(勤子・都子・雅子)の中で卜定されたのは雅子(斎宮)1人であり、更衣満子女王所生の2人(修子・普子)は斎王にはならず結婚した。 ところで韶子の母・源和子は光孝皇女で、宇多上皇や為子内親王(醍醐妃)の異母妹である。宇多は始め同母妹の為子を醍醐天皇の妃とし、藤原氏を外戚としない皇子の誕生を期待したと言われるが、為子は皇女1人を産んだのみで早世。その後藤原基経の娘穏子の入内を許すことになったものの、宇多は異母妹の和子に再度皇子誕生の期待をかけ、為子の没後に入内させたのではないかとする説がある(なお同じ頃に入内したと見られる更衣源封子は父が光孝皇子で、また藤原鮮子も光孝皇女(源礼子)を母とする皇孫であり、和子入内と同様に宇多や皇太夫人班子女王の意向があったものか)。 結果的に所生の皇子の即位はなかったものの、和子は903~921年の19年間で三男三女に恵まれた。醍醐後宮で最も多くの子女をもうけたのは更衣源周子(三男四女)で、和子はそれに次いで多い。当時同じく女御であった穏子(923年立后)は、早くも903年に皇太子となる第一皇子保明親王を出産したが、その後は康子内親王誕生(920年?)まで第二子出産はなかった。 なお源周子所生の皇子2人と皇女1人(高明、盛明、兼子)が源氏に臣籍降下したのに対し、和子所生の皇子3人は全員が四品または三品に叙されている。源周子は更衣ながら醍醐天皇の寵愛篤い妃であったが、和子の子女は女御腹の親王として、父天皇の待遇も格上であったらしい。 しかし延喜21年(921)の斎院卜定では何故か他の更衣(源周子・藤原鮮子)所生の内親王5人はいずれも選ばれず、前年末の韶子の内親王宣下を待っていたかのように卜定となった。満子女王所生の2人は服喪のため当然候補外としても、何故この時敢えて女御所生の(しかも年少の)韶子が選ばれたかは疑問が残る(韶子の同母姉慶子内親王はこの頃19歳で、既に敦固親王と結婚していた可能性が高い。また同母妹の斉子内親王は、韶子卜定と同年の921年生まれで、仮に誕生後でも数え1歳の卜定は例がないことから見ても候補外だったと思われる)。 韶子内親王が卜定された延喜21年(921)2月25日から約9ヵ月後の11月9日、皇太子保明親王に第一王子慶頼王が誕生している。逆算すると、韶子の卜定が内定したと思われる同20年12月17日の内親王宣下の頃には、慶頼王の母である皇太子妃藤原仁善子はまだ懐妊していない。当時は保明が女御穏子の唯一の皇子であり、仮にその後保明に男子が生まれなかった場合、次の皇太子候補として最も有力なのは和子所生の第五皇子常明親王・第六王子式明親王・第七皇子有明親王の3人であったと思われる(第一皇子克明親王・第三皇子代明親王・第四皇子重明親王はいずれも母が更衣なので、即位の可能性は殆どなかったであろう)。 なお、慶頼王誕生から半月後の11月24日、常明(16歳)・式明(15歳)・有明(12歳)の三皇子は異母兄重明と共に元服した。皇太子保明の元服(14歳)に比べて、常明と式明はやや遅いものの有明は逆に保明よりも早い。これは三兄弟揃っての元服を待ったために長男・次男が遅れたものであろうと思われるが、皇太子の男子誕生を待って挙行されたような時期である点は注目される。 この2年後の延長元年(923)に皇太子保明が急死、さらに同3年(925)には幼い皇太孫慶頼王までも夭逝することになるとは誰も想像しなかったであろうが、もしそのまま穏子腹の皇子及びその子孫が絶えていれば、和子腹の皇子の即位が本当に実現していたかもしれない。そもそも和子入内が先述のように宇多上皇の肝いりで行われたのだとしたら、当時いまだ立后前の女御穏子や、その兄の藤原仲平・忠平兄弟にとって、穏子以外で唯一子をもうけた女御、それも源氏とはいえ皇女で宇多の妹でもある和子が産んだ皇子たちは、最も警戒すべき存在であっただろう。さらに穏子の娘である康子内親王が韶子と同時に内親王宣下されていたことを考えると、韶子の斎院卜定という形で韶子と康子、引いては穏子の子と和子の子への待遇の差を明確にし、和子腹の皇子の即位はありえないことを示そうとしたのではないだろうか(だとすれば、上記の韶子着袴または着裳における三品直叙もなおさらありえないと思われる)。 その後保明が若くして急死し、一時は和子の皇子にも帝位が巡ってくるかに見えたが、保明の死からわずか一月後に穏子が立后、それに続き慶頼王が父の後を継いで皇太孫となった(なお穏子の立后は、淳和天皇后正子内親王以後実に96年ぶりのことである)。山本一也氏はこの穏子立后について「慶頼王を皇嗣と定めるための施策である」と述べ、慶頼王が「女御(源和子)所生子よりも上位、すなわち皇后所生の系統に位置づけられなければならなかったのである」としている。 こうして強引に「前皇太子の母」として穏子を立后させたにもかかわらず、慶頼王もわずか5歳で夭折したため、結局保明の男系子孫は断絶する。しかし慶頼王の立太子後に穏子は寛明親王(朱雀天皇)・成明親王(村上天皇)を産んでおり、最終的にこの二人が皇后所生の皇子として相次いで即位、醍醐皇統を継承することとなった(保明の娘熙子女王は後に朱雀天皇女御となり、さらに熙子の産んだ昌子内親王は冷泉天皇皇后となっている)。 一方、女御和子の皇子三人は四品または三品に叙されたものの、彼らに即位への道が開かれることはついになかった。その後和子は天暦元年(947)に正三位で薨去、和子の子女の中で最も長命を保った韶子はさらに30年以上を長らえたが、前斎院の内親王でありながらその余生は世間からも殆ど忘れられたものであったらしい。斎院退下後の韶子の消息はまったく不明で、『日本紀略』にわずかにその薨伝を残すのみである。なお薨伝には夫の名はなく、既に触れたように従来降嫁したとされてきたのは誤りであり、他の多くの前斎院と同様に未婚のまま一生を終えたものであろう。 関連論文: ・島田とよ子「班子女王の穏子入内停止をめぐって」 (『園田学園女子大学論文集』32,1997,p15-26) ・山本一也「日本古代の皇后とキサキの序列:皇位継承に関連して」 (『日本史研究』470,2001,p24-57) |
史料 | 記述 |
一代要記 |
醍醐天皇 (賀茂) 詔[韶]子内親王 <帝六女、延喜廿■[年]二月■[十]七日爲親王、同廿二[一]年二月爲齊院、同八月遭母喪、始配大納言源清蔭、後配河内守橘惟風、> (皇女) 韶子内親王<三品、賀茂齊、> |
帝王編年記 |
醍醐天皇 (皇女) 韶子〃〃〃[内親王]<賀茂/齋院> (齋院) 韶子〃〃〃[内親王]<同第十/三皇女> |
二中歴 |
(齋院) 韶子<同(延喜女) 延喜廿二年> |
皇代暦 |
醍醐天皇 (齋院) 韶子内ゝゝ[親王] 帝第十三女 |
本朝皇胤紹運録 |
(醍醐天皇子) (322)韶子内親王[賀齋。配大納言清蔭并河内守惟風等。母同常明(女御和子。光孝女)] |
本朝女后名字抄 |
(賀茂齋内親王)
韶子内親王 延喜廿二年卜定。醍醐天皇第廿九御女。母女御利子。<配大納言清蔭并河内守惟風等。> |
賀茂斎院記 |
韶子内親王 醍醐天皇第十三皇女也、 母女御利子、光孝之女也、 延喜二十一年二月二十五日卜定<時四歳>、 延長八年九月廿九日廃之、 円融院天元三年正月十八日薨、 <系譜曰、韶子、配大納言(源)清蔭並河内守(橘)惟風等> |
大和物語(11) |
故源大納言の君(源清蔭)、忠房のぬしの御むすめ東の方を、としごろおもひて住みわたりたまひけるを、亭子の院の若宮(*)につきたてまつりて、離れ給[ひ]て、程経にけり。こどもなどありければ、言(こと)も絶えず、おなじところになん住み給[ひ]ける。さて詠みてやりける。
(源清蔭) すみのえのまつならなくに久しくも君と寝ぬ夜のなりにけるかな とありければ、かへし、 (東の方) 久しくもおもほへねども住吉の松やふたたび生ひかはるらん となむありける。 *この「若宮」は従来韶子とされ、また「亭子の院(宇多天皇)」は「延喜帝(醍醐天皇)」の誤りとされてきたが、「若宮」を宇多皇女とする説もある。 |
大和物語(12) |
おなじおとど(源清蔭)、かの宮をえたてまつり給[ひ]て、みかど(宇多天皇?)のあはせたてまつり給[ひ]たりけれど、はじめごろ忍びて夜々かよひたまいけるころ、かへりて、
(源清蔭) あくといへば静こころなき春の夜のゆめとや君をよるのみは見ん |