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NUULLMOON

天体の発生

あの日、どうも道を走る車のライトがギラギラしているように感じられた。軽い高揚感もあった。こういう時は何か良いアイディアでも思いつきそうなものだったが、結局何も思いつく事はなかった。あるいは、何か思いついたがすぐに忘れてしまっただけかもしれない。ビルの上の看板や信号機もやたらとギラギラしていたように思う。夜だったが、空が妙に明るい気がした。雲で覆われていたが、紫がかった妙な色をしていた。

例の喫茶店に着くと、彼は何やらノートと紙を広げて計算していた。彼のいるテーブルに座ると彼はニヤリとしてつぶやいた。

「脱出の準備はいいですか?」

私は、ああまたか、と思った。やれやれ、だ。

「本当にね、とにかくすごい事が分かったんですよ!」

やっぱり、そういう事だ。昨日まで彼が計画していた数々のプロジェクトはまた、棚上げになったのだ。今、彼はまた「それどころではない」状態になったのだ。彼はものすごい勢いで説明を始めた。今度はどうやら天文学の話らしい。興奮して涙ぐみながら叫ぶ。

「つまりこれは、地球に向かって光の速さで近づいてくる天体がある、という事なんです!」

「そう、なんですか…」

「隕石のように地球にぶつかるか否か?ではなく、地球めがけて、ほぼ光の速さでやってくるんですよ」

「なるほど」

「地球がこちら側にいる時はこっちに向かって、約半年後、地球がこちら側にいる時はこっちに向かって……つまり、地球を狙い撃ちしているというわけです!」

彼の言う事に対して肯定も否定もしないようにする事には慣れていた。

年齢不詳の彼は、私と出会う前から一体いくつのプロジェクトを計画してきたのだろうか。それは周囲の人を魅了する事もあればうんざりさせる事もあっただろう。そしてそれらは彼自身を幸せにする事は無かった。彼はいつも切迫していた。いつもエッジの際にいた。いや針の先端部分というべきか。あるいはそこにいる事が彼の幸せなのか?あるいはそこを離れた瞬間に、もっと悲惨な事になるのか?

私はここ数ヶ月、創作意欲を失っていた。単調な日々がいけないのだと思い半年続いた仕事も辞め、アルバイトでも探そうと思っていたところだ。できるだけ今までの経験が役に立たない職種にしようと思っていた。だがその事はしばらくは彼には黙っておこうと思った。無職の期間中、彼の計画に時間の全てを取られるのは避けたかった。私にもやるべき事はたくさんあるのだ。それにもう、彼の何かに協力するのは一切止めようかとも思い始めていた。彼はいくつかの分野では確かに天才的な能力を有していた。だが彼はあまりにも早く次の計画に移りすぎる。他人から見て分かりやすい成果を産み出す事はもう一生不可能なのではないかとも思った。

「結局のところ、地球を脱出するしかないのです!」

それにしても彼は興奮すると声が大きくなりすぎる。

少し離れたテーブルに、黒いスーツを着た男が座っているのが見えた。以前にもこの喫茶店で見た気がする。外を走る車のライトは、店の中から見てもギラギラしているように見えた。

「ここで外部とは何か、という事も真剣に考えないといけません!」

私は空を見た。やはり店内から見ても異様な色をしている。

「宇宙は外部を必要としています。ここでいう宇宙とは、物理的な広がりとしての宇宙だけでなく、抽象的な概念、現在とか過去とか、アイウエオとか、小説とか、架空の人物とか、コンピュータ上の仮想空間とか、1+1=2とか、1+1=3とか、あらゆる存在を含んでいます。つまり別の宇宙、というのはありません。あらゆる世界をも含んだものとしての宇宙を考えます」

「それは…森羅万象とかの方がいいんじゃないですか」

「そうかもしれません。ただ宇宙は短くて好きなのでとりあえず宇宙とします。宇宙は常に外部を必要としています!もちろん、外部として認識された瞬間、宇宙の一部になるわけです…」

彼は「あっ」とつぶやいて、また計算を始めた。

もう一度スーツの男を見てみた。この男は彼を監視しているのかもしれない。この妙な感覚は何だろう。彼は命を狙われているのかもしれない。彼は一時期、日本の裏社会について熱心に調査していた事があったから、その時に何らかの勢力の監視対象となったのかもしれない。相変わらず彼は無邪気に何か計算をしている。スーツの男が机の上に置いているカバンが不自然に感じられる。小型のカメラでこちらを撮影しようとしているようにも見える。

私はトイレに行くついでに男の横を通ってみる事にした。私が急に立ち上がって横を通る事でこの男が一瞬緊張するかどうかを確かめたかった。だが、実際に通ってみるとよく分からない。緊張したようにも見えたし、緊張していないようにも見えた。カバンに何か仕掛けがあるのかどうかもよく分からない。トイレから出てくる時に男の顔を見ると、大きなあくびをしていた。これはわざとだろうか。

席に戻ると、彼は虚空を見つめながらつぶやいていた。「しかし……我々の故郷は太陽系である事は間違いありません。太陽系に住んでいたころの記憶……」

子供を連れた女性が店内に入ってきて、スーツの男がいるテーブルに座った。突然、外から笛と太鼓の音が聞こえてきた。

「あっこれは…獅子舞と傘回しの練習ですね…え?ああ、傘踊りでしたか!そういえば明日から祭りですね!実にタイミングが良いですね!いったん店を出ましょう!」

獅子舞と傘踊りの行列は神社に入っていくところだった。私たちも後を付いて行った。神社の境内には巨大な輪っかや金色の神輿があった。夜だが祭りの準備で人は多い。彼は「祭りの前日。」とつぶやいた。

空を見ると、雲の移動が異様に速いように見えた。だが地上は無風だ。

彼は携帯電話の番号とメールアドレスがまた変わったというので教えてもらった。

彼は巨大な輪っかを懐かしそうにさすりながら言う。「ジンライムでも飲みたい気分ですね。最近全くお酒を飲んでないんですよ。単にお金が無いからというのもありますけど。では、今日はそろそろ行きます。えーっと、それでは今日は夜8時半に起きたんで、えー、だいたい9時20分くらいに起こして下さい!21時20分ね!だいたいでいいです!」

彼は鳥居をくぐる直前、

「私の言っている事を正確に理解しているのはあなただけです!」

と叫んだ。

私は境内で太鼓の練習をいつまでも眺めていた。

 

家に帰ると、私は翌日の21時20分に私と彼の携帯電話に同時にメールが届くようにセットした。

ここ最近の私としては珍しく、全く眠れなかった。そのまま21時20分まで、起きていようと思った。ずっと本を読んでいようと思った。読みかけだった本を2冊読めたから充実はしていた。1日中本を読むのは久しぶりだった。2冊目を読み終えた時、21時15分だった。メールを私の方にも届くようにセットした意味は無かった事になる。

結局やはり喫茶店で会う事になった。

「調子はどうですか?」

いつもは適当にごまかすのだが、この日はなぜかここ最近の自分の状態を正直に言った。仕事を辞めた事はまだ言わなかった。

「なるほど、抑鬱感の無い無気力状態ですね。医者には行きましたか?あなたの場合、飲むクスリを間違えると妄想がひどくなって大変なことになりますよ!」

彼は大爆笑した。

「もうすでに天体の影響が出始めています…あなたも予感に満ち満ちているようですね。今からできれば1年以内に…まあ2年以内くらいでもいいですが、地球を脱出する必要がありそうです……ふう。さっきたまごをおとしたおうどんを食べただけなので、集中力がありません。ところでNASAがこの天体の存在に気づいているかどうかは分かりません。でもとにかく……あなたの協力が必要なのです!」

ふと彼は人間では無いような気がした。もう何百年も何千年も人間のフリをしている何か。あるいは自分を人間だと本気で思い込んでいる何かかもしれない。彼は大昔から、その時代の誰かと一緒に、似た状況を繰り返しているのだ。

「宇宙にとって外部は…いやしかしそもそも光とは何かを考えたときに、やはり光は外部を孕むのではないか、とも考えられますし…」

「そういえば、例え地球に向かっているとしても、他の惑星、木星とかにぶつかって吸収されたりしないんですか?」

「そう、そこなんですがね!」

そう言って彼は残りのアイスコーヒーを一気に飲み干した。

「木星の位置や土星の位置によって、この天体は進路を変えている可能性があるんです。その法則がやっと昨日わかったんです。そのパターンで進路を変えていくと、何年後に太陽系に到達する事になろうとも、必ず他の惑星を避けて通る事になるんです!」

私は残りのアイスコーヒーを飲み干し、

「それより祭りを見に行きませんか?」

と聞いてみた。

「あなたは私の言っている事を全く理解していない!理解しているつもりになっているだけだ!」

彼は1000円札をテーブルの上に放り出して帰っていった。

今日は車のライトがギラギラしているようには見えなかった。

 

翌日は本屋に行ったり祭りの見物をしたりしていた。特に約束はしていなかったが夜になって例の喫茶店に行ってみた。やはり彼はいた。そしてやはり計算をしていた。

「終わりなき祭りの前日を生きなければならない人たちにとって、この400年はとても辛い時期だったのだと思います。本当に……」

そう言って彼は涙ぐんだ。

「まず、祭りの前日を生きなければならない人が見かけ上、少数派になってしまいました。見かけ上です。そして地球が丸い事も知れ渡ってしまい、フロンティアが有限である事が分かってしまいました。20世紀は特に最悪でした。宇宙に移住出来るのはまだもう少し先である事が確実となった上に、地球上のどの地も“祭りのあと”になってしまいました。もう行く場所は戦場か刑務所か、あるいは病室か自室くらいしか…研究室というのもあるかもしれませんがまあ研究室は病室みたいなものですし……まあでもよく見ると、ここ数十年で少しづつですが状況はましになってきている気がします。人類が意図せずして……だから慌てて宇宙に脱出する必要は無いんです……」

彼は急に立ち上がってトイレに向かった。

今日はやけにしみじみと語る。しかしあれだけすぐ脱出する必要があると言っていたのに、また正反対の事を言っている。

店内はこの時間帯にしては人は少ない。昼間の喧騒の余韻で、雑音が一瞬だけ笛の音や掛け声に聞こえる事がある。

しばらく待っていたが、彼が戻ってこない。もう20分経つ。

トイレに様子を見に行ってみた。

おかしい。

いない。

どういう事だろう。

席に戻るとコーヒーはさげられていた。

空が異様な色をしている。紫がかった不気味な空だ。東の空が特にそうだ。星は見えない。私は店を出て外に彼がいないか探してみた。

外は異様な空気だった。押しつぶされそうだ。彼の携帯電話に何度かかけてみるが、出ない。しばらく歩いてみよう。東に向かって歩いていると、警官とすれ違った。

あらゆる存在は、認識されるまで、存在していない。それは宇宙についても同様だ。ある時、宇宙は外部を「発見」した。全く同時にその外部は宇宙を発見し…だがそもそもその外部は宇宙の一部でもあり…いやそもそもその時点までは宇宙は存在しておらず……

次の交差点でまた警官とすれ違った。さっきの警官と同じく、西に向かっている。

なんだ?何か事件か?

振り返るが、最初にすれ違った警官の姿はもう見えない。事件らしい気配もない。祭りで動員されている警官なら北に向かうはずだ。

まあ警官はいい。とにかく東の空がおかしい。東に向かおう。

次の交差点ではさすがに警官とすれ違わなかった。東の空はますます異様な色をしているようにみえる。

その次の交差点は赤信号だったので待っていると、向かい側にまた警官がいるではないか。何だどうなってる?

3回も警官とすれ違う事はそうはないはずだ。

私が外部を発見する。と同時に宇宙も私が外部を発見した事を発見する。いややはり外部に対して発見はおかしい場合もあるのではないか。外部は収束するのか。外部を収束させる力。力を収束させるのは外部で……

このあと何度か交差点を通過したが、警官とはすれ違わなかった。やはりただの偶然か?だがみな同じ方向だった。警察は西に向かうが、私は東に向かう。これは何かを暗示しているのだろうか?

東の空はますます怪しい。私はどんどん東に向かう。

来た!また警官だ。今度は2人だ!自転車に乗った2人組の警官がこちらを見る事無くそのまますれ違う。

なぜ4回もすれ違う?どういう事だ?もしかしてこれは私だけに宛てた何らかのメッセージか?そういえば警官たちはみな、視線は送らずに意識だけをこちらに向けていたような気がする。4回とも交差点というのはどういう事だろう?地図を見る必要がありそうだ。駄目だケータイの電源が切れている。ここは大きめの交差点だから地図がどこかに……あった!

私は喫茶店のある交差点からまっすぐ東に向かってきた。最初に警官とすれ違った交差点は、喫茶店のある交差点から数えて2つ目の交差点。2回目にすれ違った交差点は3つ目の交差点、3回目は5つ目の交差点。そしてここは公園の前だから…4回目にすれ違ったのは8つ目の交差点になる。

これはどういう事だ?

2,3,5,8…

2+3=5、3+5=8か?

そうかフィボナッチ数列か。

いや待て、何故そんな回りくどい事をするのか?それにフィボナッチ数列って1から始まるんじゃなかったっけ?いや0か?こんな事をして、私がフィボナッチ数列である事に気づかなかったらどうするつもりなんだ。いや、そういえば昨日たまたま部屋でまだ読んでない本を何冊かパラパラとめくっていた時にフィボナッチ数列の話が出てきたはずだ。どの本だったか…いやちょっと待て。何故そんな事が分かる?私が昨日、たまたまフィボナッチ数列の話を本で見かけた事が何故?そんなこと誰にも話してない、メモもしていない。これはやはり相当に高性能な監視カメラが私の部屋の中に仕掛けられているという事ではないか?そもそもフィボナッチ数列でなくても良かった?何か目的があって、たまたまフィボナッチ数列が便利だった…?誰かが、私がフィボナッチ数列の箇所を読んでいる様子をカメラ越しに確認し「これだ、これで行こう」と決定したのか?

8の次は、5+8=13か……しまった早く行かないと!

私は走り出した。

13番目に何がある?私に何か伝達する事があるのかもしれない。

2回ほど車に轢かれそうになったが、すぐに13番目の交差点に着いた。心地いい息切れ。ここに何がある?さあ何でも来い。人の気配はない。まさかあの天体か?まさかここに例の天体が落ちてくるとか?いやでも直径100kmとか言ってたからどの交差点でも大差ないよな?

歩道と車道の間にある植え込みが高さ50cmくらいあるので、上に上って周囲を見回してみる。特に何もない。警官もいない。

私は5分ほど、植え込みの上から周囲を観察してみた。何も起きない。植え込みから降りる時、足をひねってこけてしまった。自転車のブレーキの音がした。

「大丈夫ですか?」

警官だ!

やっぱりだ。

さあ私に何か用事があるはずだ。

「お酒飲んでます?」

「いや大丈夫です」

さあ私に何か用事があるはずだ。さあどうした。

だが一向に何も切り出してこない。やはり解読できている事をこちらが先に伝えるしかないのか。

「ここが13番目ですよね?」

「え?」

警官はポカーンとしている。

「あ、大丈夫です。何でもないです」

警官はそのまま自転車に乗って西へ向かっていった。そういえば喫茶店でお金を払っていない事を思い出した。だが喫茶店が通報したのなら、すぐ私を捕まえるはずだ。どういう事だ。

この13番目の交差点は一体何なんだ?もしかして植え込みを掘り返したりしないと駄目なのだろうか?警官たちは一体何だ?何らかの超自然的な力が働いて、彼らは誘導されていたのだろうか?人の行動を完全に操る事が出来るのだろうか。いや……待て。そもそも操られているのは私だったとしたら?フィボナッチ数列の話が出てきたのはあの本だ。思い出した。でもあの時何故あの本を手にとった?私は単に操られて、あの本を手にとらされただけなのではないか?

そういえば4回目の時だけ警官が2人いたな…4回目は8番目の交差点で…他は2,3,5,13…

8の時だけ警官が2人。これはどういう事だ?素数の時は警官が1人で素数以外は警官が複数になるとか、そういう事だろうか?フィボナッチ数列における次の数字は8+13=21だ。21は3で割れるから素数じゃない。21番目の交差点でも警官と遭遇するだろうか?、遭遇するとしたら警官は複数だろうか?これは確かめる価値があるだろう!

私は走り出した。

神経が昂ぶる。

しばらく行くと、道が分岐していた。これは想定外だ。どういう事だ?どっちに行けばいい?

私はとりあえず五叉路の中央付近に立った。異様な熱気があたりを包む。風が妙に頻繁に方向を変える気がする。これはあの天体の影響か?あの天体がやって来るのか?

五叉路に車が1台入ってきた。クラクションを鳴らしている。どうするべきか。何かやけにリズミカルで感情のこもってないクラクションだな。あっ!このクラクションの回数が21回になっているとか?そうか数が大きくなってくればそのように変化してもおかしくはない。

しまった、今が何回目のクラクションか分からない。どうするべきか。とりあえず車をよけてみよう。よけてすぐクラクションが止むなら回数は関係無いのかもしれない。

よけてみるとクラクションは止んだ。車は嫌味なほどゆっくりと横を通り過ぎていく。スモークガラスで中は全く見えない。

そうか、ナンバープレート!4つの数字を足すと……21になる!やっぱりだ!

だが次はどうすればいい?

21の次は13+21=33だ。

違う!こんな事をしてる場合じゃない!天体だ!

そうだ、そういえばここは彼のマンションの近くだ。まず彼の部屋に行ってみよう。彼なら数字の意味も分かるかもしれない。

彼の部屋の前に着くと、やはり様子がおかしい。ドアの横にある細長い窓から、玄関に積み上げてあったダンボール箱が少しだけ透けて見えていたはずだ。でも今は何も無いように見える。夜だからか?いや、ついこないだ夜に玄関まで来た時はやはりダンボール箱が見えたはずだ。

ドアの鍵は……開いている。

中はもぬけの空だ。

どうなってる。

中には何も無い。

どういう事なんだ…

そうだ天体がやって来る…

私はあわててマンションを出た。

電信柱から、「アホが!」「死ね!」という声が聞こえてくる。電信柱の中にスピーカーが埋め込まれているのだろうか?電信柱に耳をつけてみるが、よく分からない。手の込んだイタズラだろうか。

そういえば13+21=34だ。さっき計算間違いしたのが知れ渡ってしまったのだろうか?彼は一体どこへ行ったのか?34とは何なのか?そこに天体がやってくるのか?

そうだ、このへんで彼は猫に餌をやっていたはずだ。あそこにちょうど猫がいる。猫が私を凝視している。年老いた女性が寝巻き姿で植木に水をやっている。そうだ、あのおばあちゃんに聞いてみよう!私は彼の特徴について説明する。

「いやあ……ちょっと分かりませんなあ」

「天体がどうとか、言ってる人はいませんでしたか?」

「テンタイ?」

「あー、あとその、よく猫に餌をやっていた事があるはずなんですけど」

「いやあ……おたくが餌をやってんのんは見ましたけど」

「え?おたくって?私ですか?」

「ええ……あのほら、ちょっと上がっていかんかね」

おばあちゃんが家に手招きする。

「ああ!いや!いいです」

恋猫には思いもよらぬ事!たぶんあのおばあちゃんはもうボケているのだろう。いや天体はどうするんだ!違う、外部だ。まず外部だ!

犬の散歩をしている老人がこちらを全く見ずに「そう、外部ですよっ!」と元気よく叫ぶ。なるほどやはりそうか。犬は私を凝視している。

道の向かい側の店の前では、店主らしき男が俺こそが外部だとでもいうようなすました顔をして立っている。

貴様か!貴様が外部か!

「あ、はい、もちろんここが外部です。私も外部です。あなたにもおすすめしますよ。」

なんだこいつは!全くふざけやがって。それと最近は相手を見ずに話すのが流行っているのか?口もほとんど動かさずに、器用な人だ。

別の店からはガイブ、ガイブとけたたましくがなりたてるBGMが聞こえる。夜だというのに、こんなんで苦情が出ないのか?え?貴様が外部か!

「ええ。ここではあらゆる外部を取り揃えております。ここには外部ではないものなんてありません。想定されうる全ての外部があなたのものに。」

まったく!

何だ貴様もか!

「いらっしゃいませ。現代人に足りないのは肌の触れ合いです。ここには日本で唯一“さわれる外部”があります。あなたの五感を優しく刺激し、包み込み、癒しつくす外部。この未知の外部を心ゆくまで堪能なさってください。」

貴様もか!

「こんにちは。ここにあるのは、生まれた時には厳密な意味でこの世に1つしかない外部です。他のどの外部ともどこかのポイントが確実に少しずつ違っている、そんな外部です。そのポイントは常に、この世に既に存在していた外部と同じ数だけあります…そう、無限の速さで生成され続けるこれらの外部はあなたを永遠に飽きさせる事はないのです。」

貴様もか!

「ようこそいらっしゃいました。ソフィスティケイトされた人は必ずここにたどり着きます。ここは選ばれた地球市民のための外部です。ジェンダーレスでオーガニックな、外部の最終形態がここに。」

もういい!

 

そうこうしているうちにまた彼のマンションに戻ってきた。もう一度部屋に行ってみる。やはり中には何も無い。これは紛れも無く現実だ。ユニットバスの電気を付けてみる。これで部屋の中も少しは見える。よく見ると、床に家具の跡が無い。荷物を出した後なら家具の跡が付いているはずだ。いや、彼は荷物のつまったダンボールを家具代わりにしていたはずだ。だから跡は付かないのか?いや1個くらい家具があってもおかしくはないのではないか?2回しか中に入ってないのでよく思い出せない。

これは一体どういう事だ。いつ荷物を出した?もう彼は脱出の準備を始めているという事か?

いや違う。やはり気配がない。あるようでない。

ここには誰も住んでいなかった。ここはずっと空き家だ。

久々の静寂。心臓の鼓動が速くなる。

ちょっと待て。オーケー。落ち着こう。

そういえば何も無い部屋というのはなかなか好きだ。

ええと、それで。

つまりそういう事だ。

彼は、存在しなかった。

そういう事だ。

彼は最初から存在しなかった。ただそれだけの事だ。

私は部屋を出た。

 

外部が存在するまでは宇宙には何も存在しない。あらゆる事象が存在しない。「存在しない」という事柄も存在しない。

光はそれ自体に外部を孕む。

なぜ、今なのか。

必然性がある。

宇宙が存在している事も全くの偶然だからだ。

外部を収束させる力。

力を収束させる外部。

収束の光。

マンションの下で寝転んで休憩していると、住民らしき人が「大丈夫ですか」と声をかけてきた。

だが「大丈夫ですか」と言った先から突然ものすごい勢いでわけの分からない事を怒鳴っている。一体どこからそんな声が出てくるんだ。ほとんど聞き取れないが、コーヒーを飲んだら金を払うのが人間としてのマナーだ、と怒鳴り続けているように思える。表情が怒ってないのにすごい怒声だ。

あるいはこの人も、天体に影響されているのだろうか?

私は歩き出した。

道を歩く人はみな、こちらを見ずに突然わけの分からない事を話しかけてくる。どいつもこいつも何なんだ!

それより天体はどうするんだ!

「癒しですね。」

何だ貴様は!

「つまり私たちは、意識しなくてもいつも遠いどこかの天体に癒されているのです。」

違う!違う!

「人は希望が無いと生きていけません。」

何だ貴様は!

「つまりこの天体というのは、希望の象徴なわけですね。」

違う!違う!

「非常に批評的なアンガージュマンですね。」

何だ貴様は!

「つまり『資本論』の“大洪水よ、我が亡きあとに来たれ”へのオマージュですね。資本主義への嘲笑的な態度がラディカルに表明されているわけですね。」

違う!違う!マルクスなど1行も読んでません!いや1行くらいは読んだかもしれません!いやまあ、ひょっとすると1ページくらいは読んだのかもしれませんが、とにかく違います!

どいつもこいつもだめだ。とにかく今日は異様に疲れる。大きい交差点に来た。ああ疲れた。角にあるビルの前にへたり込んでしまった。ここはどこだ。もう人通りもほとんどない。眠いのでしばらく眠る事にする。

 

どれくらい眠ったか分からない。今何時だろう。もうすぐ朝だろうか。

近くに傘が置いてある。これは私の傘だろうか。いや傘を持っていた覚えはない。いや待てよ、持っていた気もする。でも何でこんなにボロボロなんだ?

うっ吐きそうだ。

なぜあれは、ずっとこちらを見ている?

光はそれ自体に外部を孕む。

光の収束。

収束の光。

吐きそうだ。

腹を押さえてしゃがみこむ。

見知らぬ女性。

「大丈夫ですか?えっと、救急車呼んだ方がいいですか?」

「ああいや、大丈夫です」

「今日は青いカバンは持ってないんですか?」

「えっ」

何だ。この人は何を言うんだ。青いカバンて何だ。しかも質問だけしてスタスタと立ち去っていく。香水の匂いが懐かしいがよく思い出せない。吐き気が一気に消し飛ぶ。

「あの、青いカバンというのは」

「いつも持ってたじゃないですか」

「いつも?」

「いつもです」

彼女は背中を向けたまま淡々と答える。歩くのが段々速くなる。待ってくれ。前から男が2人、話をしながら歩いてくる。私達に近い方の1人が、すれ違いざまに「そんな女の話まじめに聞くなよ」と言った。何だそれは?私に言ってるのか?男2人はそのまま何か話をしながら去っていく。彼女も気にせず歩いていく。待ってくれ。

「あの、ちょっと、いつもって……その、いつから?」

「2年前くらいから、ここに」

「え、2年?」

「だって天体の研究してるんでしょ、あの交差点で。路上で。そのための道具、青いカバンに入れてたじゃないですか」

研究?2年て何だ。2年てどういう事だ。ちょっと待て。待ってくれ。目を見て話してくれ。

前に回りこむと、彼女はビクッとしてそのまま回れ右して走り去ってしまった。

彼女は一目散に走りながら「とにかく2年間、あなたはずっとこのへんをウロついてたんですう!」と捨て台詞のように叫んだ。

2年。2年とは何だ。どういう事だ。そもそも彼は存在しなかった。天体について考えていたのも彼ではなく私で…喫茶店で…

そうだ。よく考えたら喫茶店でお金を払っていない。

良かった8000円ある。8000円……確か2年前のあの日も残りそれくらいだったのではないか?私は2年間も全く金を使わずに…だけど2年てどういう事だ。2年もの間、一体何を食べていたのだろうか。全く思い出せない。

とにかくお金を払いに行かないといけない。

喫茶店に向かって走り出した。

 

喫茶店はあの当時のままだった。外から中の様子をうかがう。何という事だ。いるではないか!彼が!2年前の、あの服装のままで!あの時の席に!

店員はあの時と同じ人ではなかった。

「あの…私は、あなたが存在していないものだとばかり…」

彼は一瞬、呆けたように私を見た。そしてすぐに何もかもを了承したという顔をして叫んだ。

「よくある事!よくある事!そういう事は、よくある事です!とにかく座ってください!」

彼はとても嬉しそうにしていた。

「そうですね、店員も交えてちょっと話でもしてみましょうか?そしてそれをケータイで動画で撮影しておくのはどうです?それを何度見返しても私が同じように映っていたとしても、私が存在しないといえますか?動画が再生される度に全く同じ幻覚が再現されるというのはちょっと考えにくいですよね?」

ええと……そういうもんなんだろうか……だめだ、まだ混乱している。

「まあ、とにかく、よくある事です!」

「もしかして2年間、この喫茶店に毎日来てたんですか?」

「え?2年?」

「え?」

「2年というのは?」

「えっと、最後に話してから、約2年ですよね?」

「……6時間と、ちょっとですよ」

「え?」

「あなたが急にいなくなって電話してもつながらないから、朝までいようと思ってそのまま店にいただけですよ」

「だってさっき、2年間あそこでウロウロしていたって、教えてくれて」

「本当に2年経ったような感じがしますか?」

「え……」

「2年経って、何年何月何日になったんですか?」

「……」

「まあ誰の声を信用しようとあなたの自由です」

「いや……私はただ……空が」

「強烈な予感に満たされた世界というのは、残響音を楽しむには適しているのかもしれません」

「えっと……つまり?」

「意味と意味の共鳴、概念と概念の共鳴の、そのかすかな残響音の方を楽しむ快楽を知った人というのは、その感覚が時としてその人を助け、時としてその人に対して牙を剥きます。あなたは聴いているだけのつもりかもしれませんが、実際にはあなたが耳を近づけるにつれ意味の方も少しづつ変化します。そしてある時点からハウリングが起こるわけです!これは危険です!とにかく耳を近づけすぎない事です!」

彼は店員を呼んで、アイスカフェオレを2つ注文した。

店員はごく普通に対応をしている。

やはり彼は確かに存在しているようだ。

店員は、朝になったから交代しただけなのだろうか。

「私は今日から部屋も探さないといけませんし」

「えっ部屋?」

「家賃滞納で。まあ心配かけると思って言わなかったんですけど。とりあえず荷物は知り合いの会社の倉庫に1ヶ月だけタダで置かしてもらえる事になりました」

「そうだったんですか…それで部屋が…」

「そういえば、さきほどこのへんで自殺未遂があったみたいですね」

「えっ自殺未遂?」

「本当かどうかは確認してません。さっき隣のテーブルに座ってたカップルの会話から得た情報です」

「そうかそれで…警官がウロウロしてました?」

「たくさん集まってましたね。硫化水素とかだからじゃないですか?」

「そっか…私はてっきり…」

「とにかく客観的に見る事です。自分自身を。遠い宇宙のかなたの、自分とは全く縁もゆかりも無い物体、生命体かどうかもよく分からないそのナニモノカを観察するが如く、自分を観察し続ける事です。目には見て、手には取らえぬものですよ!手に取れるなんて思うから自分を客観視出来なくなるのです!で、今は妙な声とか、聞こえてませんよね?大丈夫です。おそらくあなたは踏みとどまれます。踏みとどまり続ける事が、あなたにとって幸せかどうかは分かりません。あ、私は全然踏みとどまれてないので、参考にしないで下さい!私の最大の失敗作は私です!これはもう大失敗です!あまりにも人に迷惑をかけすぎています!私が何かをしようとする度に!本当にこの物体はもう、全然ダメダメです!でもまあ、今の時代はウェブもありますし!あなたはこの時代に生まれてきて本当に良かった!まさに、本当に、絶妙なタイミングです!」

カフェオレがやって来た。私も話さなければならない事がたくさんある。

「私の事はともかく……ようやく分かったんです。収束しようとする時、同時に収束されているんです。私が何かを認識するまで、私は存在していない。人間から見て意思を持っていないように見える物とか…カメラのように記録媒体としての性質を持たない物にも…我々は常に見つめ返され収束されていて…たとえそれが生物でなくても、例えばディスプレイでも…相互的なので…だからこそ、何を見るかではなく何に見つめ返されるかが重要で…」

「ちょっと違うけど、その通りです!いやいやその通りです!本当に、その事を、口を酸っぱくして言ってきたつもりだったのです!あなたは本当に、私の言う事を何もかも理解してくれます!何もかもです!」

「相互に収束し合うというその連続性こそが…いやハウリングが…いやそもそも多層的なハウリングで……あっ」

 

それは一瞬にして起きた。

真っ白な閃光に包まれる。

私は閃光そのものになる。

分かっている。

ずっとずっと以前からそうだった。

分かっている。

無いんだろ。だから織り直そう全てを。

 

「ようこそ」

NUULLMOON