医療機関の目標は、すべての患者を公平に扱いながらできる限り多くの命を救うことである。しかし、それを実現するための方法は誰にもわからない。BRYAN R. SMITH/AFP/AFLO

どの患者を“助けない”べきなのか? 新型コロナウイルスと闘う医師たちが「命の選別」に取り組もうとしている

新型コロナウイルスの感染が急速に拡大し、医療機関がパンク状態に陥っているニューヨーク。こうした事態が全米に広がることを見越して、治療の優先順位を決めるトリアージの統一基準づくりに医師たちが動き始めた。誰を助けるべきか、そして“助けない”べきなのか──。極めて困難なルールの策定が、いま米国で始まった。

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マンハッタンの病院で働く救急救命(ER)専門医のスティーヴン・ウォールは、新型コロナウイルスの感染者が急増していくのをはっきりと感じていた。通常なら人工呼吸器が必要になるのは毎回の勤務シフトでせいぜい1回で、たいていはけがをしてパニック状態に陥っている患者を落ち着かせるために一時的に使用する程度だ。それがいまでは、毎日ほぼ2時間ごとに気管挿管の措置を施している。

ニューヨーク市のあらゆる場所で同じことが起きていることを、ウォールは知っていた。クイーンズのエルムハースト病院では、ベッドが空くまで待っている間に患者が死亡した事例が複数確認されているという。

この状況が続けば、彼が勤務する病院でも医療機器や人手が足りなくなるのは明らかだった。「患者の優先順位を判断して医療機器の割り当てを始める必要が出てくるでしょう。2〜3週間でそうなります」

人工呼吸器の“割り当て”が意味すること

人工呼吸器の“割り当て”とは、具体的にはどのようなことを意味するのだろう。ウォールはニューヨーク大学で臨床生命倫理学を研究しているが、この問いに対する明確な答えはもち合わせていない。年齢で判断すべきなのだろうか。医療崩壊に陥っているイタリアでは、高齢者は治療を断念するといったことが実際に行われている。

ただ、年齢は若いが健康状態は悪く、人工呼吸器をつけても死亡する可能性の高い若者の場合はどうすればいいだろう。患者が医療従事者で、数週間以内に回復して現場に復帰できそうなら優先すべきなのか。指針は何も示されていない。

生命・医療倫理分野のシンクタンクであるヘイスティングス・センターのナンシー・ベリンガーは、この問題は「全米で議論されています」と言う。状況は感染者が激増するニューヨークが最も緊迫しているが、生命倫理の専門家たちはどこに住んでいても、これから起きるであろう事態に備える必要がある。

ニューヨーク大学医学部で医療倫理部門の責任者を務めるアーサー・キャプランは、政府の新型コロナウイルス対策調整官を務めるデボラ・バークスの発言に疑問を投げかける。「バークスは優先順位について考えるべきときではないし、病床が不足するような心配は無用だと言っています。わたしはそうは思いません。感染者の急増を想定して準備すべきです。エルムハースト病院のような小規模な医療機関は、すでに限界に達しています」

キャプランは、ニューヨーク大学が進める医療機器の割り当て計画の策定を主導しており、数日中に詳細を公開する予定だという。

「準備はほとんどできていない」

新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)を受け、全米の医療機関は同様の計画を用意するよう求められている。病院には通常、緊急時のトリアージ(治療の優先順位を決めること)のガイドラインが存在するが、これは銃の乱射事件や爆弾テロなどを想定したものだ。

銃の乱射や爆弾テロの場合、負傷者はいくつかの病院に分散して搬送される。事件は何の前触れもなく起こり被害は甚大で、病院側は難しい選択を迫られることもある。ただ状況に応じて、提携先や政府の指示を受けたほかの医療機関から支援が提供されるだろう。

一方で、パンデミックは津波のようなものだ。医療システム全体が飲み込まれ、長くその状況が続く。ヘイスティングス・センターのベリンガーは、「医療従事者は普通は1人の患者の治療に専念できます」と言う。「ところが突然、1週間もしくは2週間後に感染するかもしれない人を含め、コミュニティ全体について考えることを強いられるのです」

米国ではパンデミックを想定したガイドラインの有無は地域によって異なる。SARS(重症急性呼吸器症候群)やエボラ出血熱の流行を受け、一部の州や医療グループでは過去20年の間に緊急計画の策定の必要性が叫ばれるようになった。

ただ、何らかのガイドラインがつくられても、外部に公開されることはほとんどない。また具体的な対策も盛り込まれおらず、たいていは20世紀初頭に起きたスペインかぜの大流行を基準にしているようなありさまだという。カプランは「まるで文学のようなもので、実用性はまったくありません。準備はほとんどできていないのです」と語る。

存在しない共通ルール

選別という行為そのものは、医療現場では日常的に行われている。例えば、どの患者に臓器移植をするか判断する、新種の医薬品を投与する、保険の種類に基づいて治療の順番を決めるといったことだ。ただ、パンデミックの場合は、はるかに多くの人が厳しい現実に直面することになる。治療する患者を選択する必要性に迫られることなど絶対にないと思っていた医療従事者も、それを余儀なくされるだろう。

医療機関が目指すのは、1人でも多くの人を救うこと、そしてできる限り公正であることだ。ところが、具体的にどうすればいいのかは不明瞭なまま放置されている。

健康維持機構(HMO)傘下の医療機関カイザーパーマネンテのトーマス・カニンガムがまとめた報告書によると、緊急時に医師に提示される指針には、医療機関や地域ごとに大きな違いがあることが明らかになっている。カニンガムは、カイザーパーマネンテのウエスト・ロサンジェルス・メディカル・センターで生命倫理担当ディレクターを務める。

人工呼吸器や病床が不足した場合、どんな患者の治療を断念するのか。優先順位を決める際には、どのような基準を用いるのか。患者が助かったときの利益を考慮する必要があるのか──。これらには共通のルールがないのだ。

一部の医療機関はポイント制の評価システムを採用するが、結果の算出方法はガイドラインが作られた当時の医学常識に基づいている。また、年齢だけを基に優先順位を決めるよう定めた指針もある。

アラバマ州が2010年に公開したガイドラインは、エイズ(AIDS、後天性免疫不全症候群)患者や特定の精神障害がある人には人工呼吸器を使用しないよう求めている。また、医療機器などの割り当てに関するガイドラインがまったく存在しない自治体も多い。

カニンガムは自らが働く病院向けのガイドラインを作成するため、膨大な量の研究論文や公開されている州の指針などを集めた。できあがった素案は、全国にある系列病院のネットワークと共有するために「Googleドライヴ」に上げてあるという。

統一基準づくりを急ぐ生命倫理学者たち

パンデミックが進行するなか、生命倫理学者たちはエヴィデンスに基づいて、さまざまな指針の差異を減らす努力を続けている。ヘイスティングス・センターのベリンガーは、「どのようなルールなら納得できるでしょうか。例外的な場合はどうすべきでしょうか」と問いかける。「国が示す統一のガイドラインがあれば、もっと簡単なはずです」

この試みは米生命倫理人文学会(ASBH)を中心に進められている。ヒューストン・メソジスト病院の生命倫理プログラムを担当するジャネット・マレクが、学会員たちにそれぞれの勤務先のガイドラインを共有するよう3月初めに提案したことで、議論が始まったのだ。マレクはパンデミックを想定したガイドラインを探していたが、ヒューストン・メソジスト病院には事故などで多数の死傷者が出た場合に備えたものしかなかったという。

カニンガムによると、ASBHのメーリングリストはそれ以来「年中無休のヴァーチャル哲学セミナー」のようになっている。そこでは統一基準づくりに向けて、臨床倫理の専門家たちによる話し合いが盛んに展開されている。

カニンガム自身は新型コロナウイルスの感染検査のために検体を提出したばかりで(のちに陰性であることが確認された)、電話でインタヴューに応じてくれた。今回のパンデミックに対応するためのガイドラインの策定に当たって参考にしようと思い、カイザーパーマネンテの災害時のガイダンスを探し当てたが、「内容が薄すぎた」という。

一般に出回っている医療機関や自治体のガイドラインにも、すぐに使えるような実用的なものはない。ニューヨーク州が2015年に公開した人工呼吸器の優先割り当てに関するガイドラインを見つけたが、長さが270ページもあったという。カニンガムは「ICU(集中治療室)で治療に当たっている医師たちに『ちょっと読んでおいてくれないか』と手渡すのは無理でしょうね」と言う。

複雑化する臨床倫理のパズル

医療従事者を悩ませるのは、誰が優先的に人工呼吸器を使うべきかということだけではない。使用時間も問題になる。パンデミックのような絶望的な状況で、特定の患者に人工呼吸器を装着し続けるべきか、どの時点で見極めればいいのだろう。

これに関しては、48〜72時間で回復しないのであれば呼吸器を外すべきだとした指針が複数ある。だが、新型コロナウイルス感染症である「COVID-19」の症例データは、この段階での判断では早すぎる可能性を示している。48〜72時間で無理だと思っても、そのまま装着を続けていれば助かる場合があるのだ。

マレクは「判断を下すべき時間枠については、現時点では共通した見解がありません」と説明する。少し前に完成したヒューストン・メソジスト病院のパンデミックのガイドラインでは、治療の過程で明らかになったエヴィデンスに基づいて、医師に判断基準を変更する裁量を与えている。

いま注目を集めるのは人工呼吸器とICUの病床の数だが、これは時間が経つにつれ複雑化する臨床倫理のパズルを構成する要素のごく一部に過ぎない。例えば、人工呼吸器の挿管や割り当ての判断をする呼吸器系の専門医が不足したら、どうすればいいのだろう。ICUは看護師がいなければ機能しない。

米集中治療医学会(SCCM)が3月末に発表した報告書は、こうした問題について警告している。しかも、医療従事者の感染は想定しない状態で、すでに人手不足だという。医療機関はいまでも、誰が防護服を着用すべきか、人的資源が限られたなかでも進めなければならない手術はどれかなど、あらゆることについて優先順位を決めざるを得ない状況にある。

医療従事者を優先的に治療すべきか?

さらに、COVID-19だけの特別な事情も存在する。まだ十分なデータは得られていないが、それでも中国やイタリアなどの症例を見ると、これまで言われてきたトリアージの原則が当てはまらない可能性があるのだ。

従来のトリアージのガイドラインでは、臓器障害を点数化してその合計で重症度を評価する「SOFAスコア」と呼ばれる判定システムが採用されていることが多い。例えば、肝臓や心臓の機能が低下している場合は人工呼吸器を使っても生存確率は低いため、これがひとつの基準になる。

ただ、救急医療の専門家たちが3月初めに全米医学アカデミーに提出した論文は、COVID-19の治療でSOFAスコアを過度に信頼することに対して警鐘を鳴らしている。SOFAスコアはそもそも、敗血症での臓器障害の深刻さを判断するためにつくられたものだ。論文では2009年に起きたH1N1亜型インフルエンザウイルスのパンデミックのデータを基に、SOFAスコアは肺炎による肺の機能不全においては、生存可能性の予測にほとんど役立たない点が指摘されている。

一方、ASBHのメーリングリストで議論になっているのは、医療従事者を優先的に治療すべきかという問題だ。一般的な緊急事態向けのトリアージガイドラインでは、医師や看護師だからといって特別扱いされる理由はないとなっている。回復して再び治療に携わることができるようになるころには、非常事態は終息しているはずだからだ。しかし、パンデミックの場合は事情が異なる。

ヒューストン・メソジスト病院のマレクはこれについて、「公正さの問題です」と指摘する。「医師はすべての患者を平等に扱います。自分の仲間だから優先的に助けるなどということはしません」

身体障害者の権利との狭間で

最後に、身体障害者の権利擁護団体などは先着順の治療を求めていることに触れておこう。ハーヴァード大学の研究者で障害者の権利擁護活動家でもあるアリ・ネーマンは、人工呼吸器の優先割り当ては障害者差別につながると主張している。

また、生きていくために人工呼吸器を必要とする人たちが治療を求める権利が侵される恐れもある。ネーマンは3月23日付の『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿で、「効率の名の下で公正さは犠牲になるだろう」と書いている。

現在の事態に対応するための指針策定を進める生命倫理学者たちは、身体障害者の権利とできるだけ多くの感染者を救うための方法との間で、バランスをとる必要があると指摘する。カニンガムはこの問題を巡り、緊急ガイドラインの多くで採用されている「除外基準」という発想をなんとかしたいと考えている。これは、緊急時には最終手段として、年齢や障害の有無など特定の基準だけに基づいて機械的に治療を断念することを求めたルールだ。

新たな基準は全米に広がるか

カニンガムはカイザーパーマネンテのガイドラインで、ピッツバーグ大学の救急救命治療研究者ダグ・ホワイトが提案する複合的な評価基準を採用する方針という。この評価基準では、SOFAスコアや回復して退院した場合の予測寿命といった複数のデータを考慮した上で、判断を下すことになっている。年齢が大きな判断要因となるのは確かだが、少なくとも特定の条件のために治療が否定されることはないと、カニンガムは語る。

理想的には、トリアージは患者とはかかわりのない人物で構成された専門チームによって実施されるべきだ。また、最終的な判断を下す前に異論がないか確認するプロセスが必要なほか、状況が落ち着いてから個々の事例について事後検証をすることが望ましい。

カイザーパーマネンテのパンデミックガイドラインはまだ草案段階で、これから外部評価や見直しが必要になる。ただ、カイザーパーマネンテのネットワークが8つの州およびワシントンD.C.に及ぶことを考えれば、その影響力は強いはずだ。

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概念の「結び目」をつくる、「インターフェイス」を意識する──SFプロトタイピングが示唆する、未来の生み出し方【後編】

プロダクトデザインに留まらず
多岐にわたったデザイン領域を手がけている
ソニー クリエイティブセンター。
常に、先進的で、斬新で、アメイジングな
アウトプットを要求される日々を送る彼らだが
そのクリエイティヴィティの源泉の一端を担っているのが
デザイナー自らがいま世界で起きていること、
最新のトピックスやカルチャーをリサーチし、
未来の方向性を考える『DESIGN VISION』の活動だという。
そんなDESIGN VISIONのメンバーが注目しているのが
「SFプロトタイピング」だ。
気鋭のSF作家・津久井五月との邂逅によって
DESIGN VISIONチームは何を得ることになるのだろうか。

前編はこちら

「SFプロタイピングを国をテーマに実践してみる。」

尾崎 前回のお話を受けて、世界観のようなもの、その世界観を補強する年表、そしてちょっとした地図を用意しました。そこからストーリーをつくる、というフェーズには1週間ではたどり着けませんでした。ですので本日は、土台となるコンセプトからストーリーへとジャンプしていく際に、どのように考えていけばいいのか、ヒントをいただければと思います。

津久井 一緒に考えていく感じですね。よろしくお願いいたします!

尾崎 まず、国家の資格条件を少し調べてみたのですが、永続的な住人、明確な領域、政府、あとは他国と関係を結ぶ外交の能力というのが必要条件でした。一見明確なようで、意外と曖昧だなと。今後メタヴァースのようなものが現実化していくときに、こうした条件すらなくなっていくことを想定したら面白いのではないかと思いました。

DESIGN VISION

DESIGN VISIONは、世界でいま起きている大きな潮流を読み解き、インサイトを導き出すべく、ソニー クリエイティブセンターが6年前にスタートしたリサーチプロジェクト。

尾崎 個人的には、国籍というものにあらためて興味が湧いてきたので日本における帰化や永住の仕組みを調べてみたのですが、意外なことに、条件だけを見るとそんなに大変ではないんです。実際には大変だと思いますが、書いてある法律的にはそこまでではない。そこで今回のSFプロトタイピングでは、国籍にフォーカスしてみることにしました。

具体的には、「自分が生まれた地、あるいは血統に基づく国籍とは別に、もうひとつヴァーチャルに国籍をもてることが可能になった世界」という世界観を想定してみました。

大谷 既にエストニアが電子居住権を発行していますよね。現状では電子署名ができたり、銀行口座を開設できるぐらいの機能しかありませんが、将来的にいろいろな権利まで拡張し、やがて国籍のようなものになると仮定してみました。

そうすると、電子移民として「2つめの国をどこにするか」という選択肢が出てくるはずで、国が競争するようになるのではないかと。

尾崎 ただしそうした「電子的な世界」は、従来の国よりもGAFAやBATみたいなグローバルデジタルプラットフォーマーのほうが実力があるので、最初は業務委託というかたちで彼らに委任し、オンライン上の公共サーヴィス等々を提供していくことになるのですが、それがだんだん形骸化し、最終的にはグローバルデジタルプラットフォーマーが、ある種の電子国籍を運営する主体となっていく世界……というものを描けたら面白いなと。

大谷 電子国籍を選択する際の競争軸になってくるのが、利便性や優遇政策やコスト、あとはガヴァナンスの形態も重要だと思います。例えばとある巨大SNS運営会社が国を運営するとなった場合、民主的にガヴァナンスするといくら公言したとしても、やはり、CEOのある種の独裁制にもなりえるので、「通貨発行権などは渡したくない」といった感情が当然出てくるのではないかと。

なので、ガヴァナンスを透明にし、民主的な仕組みを入れていかないと支持は得られないだろうと。ただ、それだけだと普通なので、ソニーらしさという意味でも、エンターテインメント性も重要になるはずだという面も加えて、SF的に表現していけないかと考えました。

尾崎 電子国籍取得者に対し、投票権をはじめとするさまざまな権利を与えていく過程においては、対価としていろいろやらなければならないことがあると思います。例えばサイバー上の兵役とか警察みたいなことや、メタヴァースでチート行為を探るプレイヤーみたいなこととか。そうした「役務」をこなし、その対価としてさまざまな権利を得ていくといったことが起きるのではないかと思い、その過程を年表に落とし込んでみました。

架空の年表
2010年頃~ グローバルデジタルプラットフォーマーの強大化
-国の法人への徴税権の形骸化
2014年 エストニアが電子居住権を提供開始
-電子署名
-銀行開設
-法人登記
2020年~ コロナパンデミックのロックダウンが⻑引き、オンラインでの生活が常態化。
2021年~ 各国がエストニアにならい、電子居住権を提供開始、競争が始まる。
2022年~ 各国が様々な電子上の様々な権利を提供開始
-婚姻証明書の交付(イタリアや同性婚を認めるオランダが人気に。)
-教育の提供を開始
-投票権(義務教育やサイバー上の兵役等が必要)
2023年 北米、中国のテックジャイアントがメタバース上の居住権を提供開始 ロックダウンが⻑引き、メタバース上のエンターテインメントの需要が高まる。
2025年 日本も電子居住権を提供開始
20XX年 新型ゲームプラットフォームの発売と同時にソニーも電子居住権の提供を開始する。 2020年ごろから徹底されていた情報の透明化とInclusiveで⺠主的なガバナンスなど信頼性への 評判が高い。またエンターテインメント企業としての評価が高い。
日本の公式 電子居住権運営業者(State as a Service)の一つとして選定される。
-法人登記: 税金(プラットフォーム手数料が安価で、人気に)
-銀行開設: 傘下の銀行との連動
-婚姻証明: 様々なゲーム、映画などの舞台でリアルな結婚式があげられるために人気に。
-優遇政策: クリエイター、アーティスト、エンターテイナー、若者

※年表は架空の話です。実際のソニーの商品、サーヴィス等とは一切関係ありません。

大谷 2020年のパンデミック以降、半ロックダウンの状況が常態化して、オンラインの流量がどんどん増えるだろうという想定のもと、いろいろな国が電子居住権を提供開始し、競争が始まる。ソニーも、20XX年の新型ゲームプラットフォームのローンチと同時に日本国からの委任を受けて、電子居住権・電子国籍を提供開始する……ということがありうるかもしれないという想像です。

尾崎 エンターテインメント企業ということで、アーティストやクリエイターたちに人気が出るのではという想定です。一応、主人公はアメリカ国籍のアンディという男性で、ソニーの電子国籍を得るために、東北の小学校でeスポーツの体育教師として3年間オンラインで就労し、無事権利を得る。その後アンディは様々な課題に直面するが、なんとかそれに立ち向かっていく。その様々な経験を通して、アンディは更に民主的で新しいエンターテインメントを楽しめる国を自ら作り上げることを志向するようになる……というストーリーを描きたいなと。

こうした設定をベースにストーリーを考えようとしたのですが、そこで行き詰まりました(笑)。

津久井 ぼくも昨年エストニアに行きましたが、エンタメが少なそうな国ですよね。街中を歩いていても映画館が1〜2つあるくらいで、遊べそうなスポットが少ない印象でした。実際、「週末はリラックスする」「サウナに入る」みたいなことを現地の人は言っていました(笑)。

津久井 エストニアの電子居住権は、制度的には魅力的に聞こえますが、企業を設立する目的がある以外は、あまり取っても仕方がないなという印象です。なので、楽しみのためとか、ゲームといった窓口があるのは、すごく面白いなと思ってお話を聞いていました。

遊びやエンタメといったことが有力な入り口になっていることには納得感があります。そこを中心におかれているのは、ソニーらしさもありますが、いまの世の中的にもいい切り口だと思います。

尾崎 AIやロボットの普及や、政治もスマートコントラクトで自動化していくと、余暇の時間がどんどん増え、その結果エンタメが人にとってより重要になってくる……ということは本当にあると思います。ホモルーデンスとしての本質に迫るということでもありますから。

なので、いまは企業がエンタメを提供しているけれど、国が権利として提供するという世界も、ありではないかと考えました。

津久井 確かに、結婚をはじめヴァーチャル上でのさまざまな権利を提供し始めたのは、海外だとセカンドライフであったり、日本だとMMORPGであったりしましたよね。それがマンガとかアニメに降りてきて、「この現実ではない別の場所」を目指すとき、ゲームの中っぽい世界への「転生」というのが典型的なイメージになっている最近のカルチャーも、確かに時代的な現象だと思います。

ひとつ、設定をつくるうえでのアイデアなのですが、もし地図を描くとしたら、現実世界の出来事をプロットするのではなく、ヴァーチャルな流入流出の矢印を描いてみるのもいいかもしれません。

現実の地理的な人口分布と、IT企業の本拠地がプロットされている図とは別のレイヤーで、例えば「日本からエストニアにどれくらいのヴァーチャルでの人口流出があるか」を想像する。それによって矢印の大きな流れが見えてくると、主人公はこの世界において、大きな流れに乗っている人物なのか、それとも時代の大きな矢印の流れに逆行する人なのか……といったことが見えてくるかもしれません。

大谷 なるほど。国民意識というのは、そもそもヴァーチャルで実態のないものかもしれませんが、自分が主体的に電子国籍を選ぶとすると、その国が掲げているストーリーみたいなところに共感して、そこの国籍を取るというケースも出てくるのかなという気がします。

津久井 現実世界では、アイデンティティ政治が拡がる一方で、GAFA等が提供しているものは、アイデンティティ的にはフラットで「誰でも入れます」という感じで、UI・UXの質で競い合っていますよね。ゲームはまさに、「こういう体験がしたい」「こういう気持ちになりたい」ということを軸にみんな選んでいると思うので、「どんなアイデンティティの人にでもこういう体験を提供する制度・仕組みですよ」ということを提示するのは、面白い切り口だと思います。

尾崎 従来の国籍は、土地とか血で縛られていると思いますが、ヴァーチャルだと、UXとか世界観とか、アニメや映画の世界の住人になりたい、といったこともあるのではないかと思います。

津久井 IPに紐付いてそれぞれの国ができるということあるかもしれませんね。逆に、ある程度偏ったイデオロギーの人が仲間を集めてヴァーチャルな国家をつくって先鋭化していく、といったこともありうるのかもしれません。それこそQアノン的な価値観でまとまったら、結構な規模になってしまいそうですし。

物語の主人公は、ペルソナからは生まれ得ない

津久井 実際にSF創作に近い作業をされてみて、どういう印象をもたれましたか?

尾崎 世界観というか、何を表現したいのかを最初にしっかりもたないと、ディテールばかり考えてしまうものだなと感じました。いままでの手法だと、商品ありきだったり、来年の市場を考えるということで想像しやすかったのですが、未来をフィクションで考えるとなると、自由度が高すぎてどんどん末端の設定ばかり考えてしまい、一番重要な世界観をうまくまとめ上げられず、難しかったです。

大谷 結局、物語を駆動していく主人公を考えられなかったのだと思います。調査をおこない、「こういうターゲット層のペルソナは……」と絞り込む作業は慣れているのですが、ストーリーをドライヴしていくキャラクターをつくったことははじめてで、とても苦労しました。

津久井 今回の主人公・アンディは、アクティヴィスト的な設定でしたよね。つまり、ある価値観を強くもっていて、それを勝ち取る/勝ち取らないというのがお話の根幹という感じですよね。

尾崎 何かを壊す人がいないと、物語が進まないのかなということで、そういう設定にしたんです。

津久井 主人公の造形を考えるとき、反逆的な人、元々は順応しているけれど何かに目覚めたりする人、というタイプもいるし、順応したままで、そのなかでの悲哀とか面白さを書くということもあると思うのですが、今回の場合、構想した世界像にどう近づいていくかという過程を主人公に負わせているイメージですよね。

仮に電子国籍をソニーが提供するものだとして、権利拡大をし終わった物語のゴールでソニー国がユートピアとして提示されるのか、あるいはソニー国がディストピア的なものになっていて、それに主人公が抵抗する物語にするのか、という論点があるなと思います。

ソニーが提供するディストピア、というのはあまり考えたくないテーマだと思いますが(笑)、その方向はひとつあるのかなと。いま考えている世界像にネガティヴな面を与えることで、そこをちゃんと議論していこうと踏み込んでいくのか、それとも、いまの世界のネガティヴなところを、オルタナティヴな未来で塗り替えようとするのか。

どちらがいいというよりは、どちらかに決めた方が進めやすいという話です。

大谷 現実世界の矛盾を解決するユートピア的な世界を、ソニーの技術やサーヴィスで変えていく、というのが一番わかりやすいやり方だとは思います。

津久井 これはテクニックの話なのかもしれませんが、最後に至るのがユートピアの場合、登場人物は品行方正じゃないほうがいいと思います。「正しい人が、正しいことをして、正しい結果が出ました」ではあまり驚きがありません。むしろ、登場人物はメチャクチャな人たちだけれど、勝手な欲望や妄想が、歴史のイタズラみたいなことを経て、結果としていまの世界に対するオルタナティヴの提示となり、その流れに呼応して企業が考え方を変え、新しいことを提示できた……という建て付けなのかなと。

尾崎 だとすると、以前におっしゃっていた、インターフェイスとなるデヴァイスの創造が重要になってくるのかもしれません。主人公の行動原理は「まあそうだよね」と思えるくらいの動機だけれど、そこにあるインターフェイスが登場することで、この世界のテーマが掘り起こされる、といった感じでしょうか。

大谷 そうしたインターフェイスというかデヴァイスは、最近のSFではどのように描かれることが多いのでしょうか?

津久井 好みに基づく私見ですが、インターフェイスの物理的な大きさや重さはなるべく消し、そのかわりに、インターフェイスがつくる関係性を広く描く、という方向性はあります。例えば、幽霊みたいに見えない媒介者がいて、デジタルなものとフィジカルなものの交感が自然に発生している……という世界観は、いまっぽいのかなと思います。

いまのゲームやエンターテインメントは基本的に視覚文化だと思うのですが、ゆくゆくはゴーグルとかを付ける必要もないし、ヴァーチャルな何かの視覚が直接得られるわけではないけれど、肌感覚でつながっているという感じになるのではないでしょうか。UIがなくなって、純粋なUXだけの状態というか。

物語は「パスポートサイズ」

津久井 先程の国籍の話に戻ると、パスポートをインターフェイスとして捉えてみることもできるかもしれません。「20XX年の新型ゲーム機はパスポートです」みたいなことが言えるとしたら、そのすごいパスポートは、ゲーム世界のインターフェイスでもあるし、現実世界における身分証明とか移動のためのものでもあって……という感じでパスポートを「結び目」にし、ゲームを入り口にしたソニーのサーヴィスと、国籍や名前を証明しなければならないリアルの場面との接点を表現できると面白いなと思います。

スマホのかわりにパスポート(新型ゲーム機)を持っていて、そのパスポートが、ヴァーチャルとリアルの間をいろいろな意味で調停できるデヴァイスになっている、というストーリーはあり得るかなと。

パスポートには「いまの社会の規範」が詰め込まれていると思うのですが、それがもうちょっと柔軟にいろいろな領域に溶け出していくというか。「顔写真ってフィジカルの顔じゃなければいけないの?」とか、「いろいろな顔があっちゃいけないの?」とか。名前にしても、いまは唯一の氏名しかないけれど、ほかの名前もありうるし、性別もそうだしとなっていくと、いまの社会の窮屈さや、それをちょっと変えると現実へのどんな変化が起きて、どんなふうに楽しくなるか……といったことが考えられるかもしれません。

大谷 インターフェイスとしてのパスポート、という視点は面白いと思います。現実世界での利便性を考えると、物理的には消えていく方向なのかもしれませんが、あえてその意味を拡張して考えてみると、想像力が膨らみそうです。

津久井 現実の窮屈さに対して、主人公たちが、パスポートという誰も改造してはいけないものをハックして面白くしていく過程で、世の中を大きく巻き込み、ソニーみたいな企業もそこにいろいろなサーヴィスを紐付けていくことになる……というストーリーはわかりやすいですね。

お話のつくりかたとしては、最初にソニーを真ん中にもってくるというよりは、既存のパスポートに対する不満とか不便に対して、「もっとこうできる」とか「いらない」といった議論が存在し、そこに絡めていく感じでしょうか。パスポートの発展史みたいなものを骨組みにし、まだ不十分だということで、いろいろな企業を巻き込んだもう一段上の発展を描く……ということも考えられますね。

EU(シェンゲン圏)のようにパスポートがなくても移動できるエリアがどんどん拡がっていくなかで、デジタルの身分証明が普通になってパスポートが消えるかと思ったけれど、別のかたちで復活して、むしろeレジデンスカードの機能なども包含していく、みたいな未来があるのかもしれません。

反逆とユートピアの実現みたいな大きなストーリーがなかったとしても、空港でチェックインしたり、銀行でお金を下ろしたりといった、アンディがパスポートを取り出す一連のシーンのなかに世界像が詰め込まれていて、そこでは当然不満も残っているけれど、努力して獲得した権利でもある、ということが表現できれば、SFプロトタイピングとしては十分成立するのではないかと思います。

尾崎 うーん、キレイにまとめていただき、ありがとうございます! 駆け足でしたけど、今回SFプロトタイピングの一端に触れさせていただき、これまでのさまざまなアプローチやフレームワークでは得られることができなかった視点から、ソニーというものを見ることができた気がします。

ペルソナやユーザーシナリオを立てて……といった既存のやり方との違いを学べましたし、SFプロトタイピングという視点で見ることで、ソニーのガバナンスの方式であったり、開発の方式をいろいろ想像できたので、非常に得るものが多かったです。

SF作品としてアウトプットできれば、『DESIGN VISION INSIGHT REPORT』とはまた別のかたちでメッセージを伝えやすくなるという手応えを感じることができました。今後、チャレンジしていきたい領域です。

SF作家の方の想像力にこうして触れられる機会はそうそうないので、とても貴重な機会となりました!

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