バリアフリーに生きる100cm、20kgの2児の母
子育ては大変だけど、それに勝る喜びがある。障害者にこそおすすめという伊是名夏子さん
「障害があるから大変とか、障害がなければよかったって思ったことがないんです」。そうあっけらかんと語る、コラムニスト・伊是名(いぜな)夏子さん(35)。沖縄から単身上京、ひとり暮らし、ボランティア、海外留学、結婚、出産……。持ち前の明るさとバイタリティーで文字どおりどんな“障害”も乗り越えてきた、バリアフリー人生とは?
◇ ◇ ◇
身長100センチ。体重20キロ。
伊是名夏子さんに初めて会ったとき、あまりの小ささに息をのんだ。生まれつき骨形成不全症という障害があり、手足はきゃしゃで身体も細い。2人も子どもを産んだとは、にわかには信じられなかったほどだ。
「子どもが好きで、子育てしたかったから」
ちょっと高めの可愛らしい声。明るい口調でさらりと言うが、骨が弱く骨折しやすいため、普通に生活していても危険と隣り合わせだ。
「昨年の冬、寒いから布団をかぶって寝ていたら、当時3歳の息子が下にママの足があるってわからないでタタタッと歩いてきて、バキッとなっちゃって。骨折まではしなくても、ヒビが入ったりすることは、よくあります」
これまで何度も骨折・手術を繰り返したため、手や足は変形している。重い頭を支える背骨はくの字に湾曲しており、歩くことはできない。耳の中の骨がもろいため右耳は難聴で聞こえず、左耳も補聴器を使用している。
そんな夏子さんが母になるまでには、一体どれだけのハードルがあったのか──。
◇ ◇ ◇
夏子さんが生まれたのは沖縄本島北部の病院。父の伊是名進さん(73)は夏子さんが生まれたときのことを、今でも忘れられないという。
「ずーっと泣いていてひと晩泣きやまなかったんです。翌朝調べたら、両足2本骨折していて、頭蓋骨もとても薄くて。レントゲン写真を見せてもらったら、僕はちょっと気が遠くなりましたね。本土から来た有名な先生に診てもらって病名がわかったんです」
骨形成不全症は2万~3万人に1人の発生頻度だといわれる。生まれてすぐに亡くなるケースから、ほとんど症状の出ない人までさまざまだ。
進さんは高校の英語教諭、妻も家庭科教諭で共働き。仕事の都合で北部の今帰仁村に住んでいたとき、三女の夏子さんが生まれた。
赤ん坊のころは特に弱く、抱っこしただけで骨折したこともある。骨を強くする注射を1日おきに家で打った。進さんはかわいそうで嫌だったが、妻は顔に出さずに打ってくれたので助かった。
1年後に那覇市に戻り、進さんが夜間の高校に転勤。夏子さんが小学校に入るまで、昼間は面倒を見ていた。近くの子どもを集めて遊ぶ一方、自作ドリルを使って娘たちに1人1時間ずつ教えるなど勉強も厳しくさせた。
「上の2人と違って、末っ子の夏子だけが勝ち気でね。決して自分からは参ったとか言いませんし、親の言うことは聞かない。手を焼いたことが何回もありましたが、その“我の強さ”が、いい方向に向いたのかなと思います」
6歳のある日、夏子さんはこんな決心をした。
「骨折しても泣かないって決めたんです。泣くと、ヒクッヒクッという振動で、余計に痛いってわかったから。
次に骨折したとき本当に泣かなかったら、両親は病院に連れて行ってくれなくて。メッチャお願いして診てもらったら、キレイに折れてました(笑)」
幼いながら、自分の障害を受け入れる第一歩だったのだろう。
さらに両親の育て方のおかげで自立心が養われた。共働きで忙しい伊是名家では「たとえ障害があっても、自分でできることはやりなさい」という方針だった。
例えば、料理。最初は母に教わったりしながら、夏子さんは7歳のころから料理やケーキ作りを開始。1人で留守番しているときもガスコンロの前にイスを並べ、その上に立って料理をしたが、落ちて骨折することも──。
それでもめげなかったのは、進さんの言う“我の強さ”だろう。治るとまた毎日のように料理をして上達。ひとり暮らしを始めてから役に立った。
夏子さん自身は3歳上の姉の存在が大きかったという。姉のようにすることが当たり前だと思い、姉がピアノを習うと自分も習い、習字教室に行くと一緒に行く。小5からは進学塾にも通った。
「かわいそうとか、大変だねとか言う人もあまりいなくて、“なっちゃんはこうなんだよね”と、みんな普通に受け入れてくれました。そんな居場所が、地域のあちこちにあったのは本当によかったです」
あえてバリアフリーでない学校へ進学
小・中は養護学校(現・特別支援学校)で、ほぼ教師とマンツーマンの9年間。高校はどうしても普通校に行きたかった。
ところが、進学先をめぐってもめにもめた。夏子さんは高松宮杯全日本中学校英語弁論大会(現・高円宮杯)で入賞して、アメリカに招待されるなど英語が得意。両親や養護学校の校長には、英語教育に力を入れるバリアフリーの新設高校を強くすすめられた。
一方、夏子さんの志望は県立首里高校。伝統校だが校舎にエレベーターはない。「何で?」と不思議がられた。
「だって、新設校に行ったら、先輩がいないじゃないですか。私は部活をしたり、たくさんの友達と遊びたかったから。あとはね、すごい好きな男子がいて、首里高校を受けると聞いて(笑)」
反対を押し切って受験。見事に合格した。
解決策は自分で考えた。各階に車イスを置き、階段は抱っこしてもらう。行動的な夏子さんは放送部や生徒会にも所属。放課後もあちこち行ったが、運び手を探すのに困ったことはない。
同級生の當間笑美子さん(35)もよく抱っこしたひとりだ。大変だと思ったことは1度もないという。
「なっちゃんの依頼の仕方って、遠慮しないんですよ。“あ、笑美子お願い”という感じで自然だから、こっちも構えない。抱っこするときも、“今日はここが痛いから、こう持って”とか明確に伝えてくれるし。私が風邪ぎみだったりすると、“ほかの人に頼むわ”と気遣ってくれるから、私もできなくてごめんねって気分にならなかったです」
幼いころから地域で培ったコミュニケーション力のおかげだろう。
當間さんによると、夏子さんは友達が多く、いつも人の輪の中心にいたそうだ。
「英語の先生にすごいトキメイて、“キャー、ヒデキー、ヤバイ”みたいな感じで、うるさかったですよ(笑)。先生にも遠慮しないで何でも言うし、台風の渦巻きのようにみんなを巻き込んで、いろいろ前に進めてくれる人でした。
なっちゃんが首里高校にいたことで、生徒たちが得たものは大きいと思います。障害があるとかないとか関係なく、人って何でもできるんだなと思いました」
修学旅行は真冬の北海道に行った。教師たちは「雪の上を車イスで行けるか」など悩んだが、同級生が「抱っこすればいい」と、みんなで後押ししてくれた。
親元を離れ、初めてのひとり暮らし
「チョー、楽しかった!」
早稲田大学第一文学部に入学して上京。初めてのひとり暮らしの感想を聞くと、夏子さんのテンションは一気に上がった。
沖縄では車の移動が多いため手動の車イスを家族や友人に押してもらっていたが、東京に来て、初めて電動車イスを使用した。
「ひとりでどこにでも行けるのがすっごいうれしくって。無駄にコンビニをハシゴとかしてて。アハハハハ。親は心配して、毎日のように電話してきたけど、何も困らなかったです」
簡単に言うが、18歳でひとり立ちするのは健常者でも大変だ。父の進さんも最後は根負けしたそうだ。
「高校進学もそうでしたが、どう説得しても無理でした。姉たちが東京の大学に行ったので、自分も当然行くものだと思っていて、もう好きなとおりやりなさいと言うしかなかったです」
実際にどうやって家事をこなしたのか。夏子さんに聞くといちばん面倒だったのは洗濯だという。当時は縦型の洗濯機しかなく、手が届かない。棒で洗濯物を取り出し、低い位置に干したが、時間は2倍かかった。生活用品は工夫して下に置いた。電球を替える、布団を干すなど、できないことは友人に頼んだ。
大学ではカンボジアの孤児を支援するNGOサークルに加入。カンボジアに行って孤児に英語を教えたり、遊んだり。国内では資金集めのチャリティーコンサートを開いたり、JICAの勉強会に出たり。イベントでは率先して、いろいろな役目を買って出た。
そのサークルで、ひとりの男性と出会う。気さくで明るく、さわやかな彼に夢中になった。
当時の様子をサークル仲間の田中由記さん(35)が教えてくれた。
「なっちゃんは肉食系ですよ(笑)。何をするにしても、遊ぶときはまず彼に声をかけてからほかの人も誘い、脇から固めていくような、それは見事なアプローチでした」
だが努力のかいもなく、グループ交際のまま。夏子さんは「3、4回はフラレてますよ」と笑う。
「フラレたのは自分の障害のせいだとか、引け目に感じなかったのですか?」
思わず聞くと、夏子さんは即答した。
「考えなかったですね。だって、考えても歩けるようになるわけじゃないから」
夫の両親の反対。結婚式が延期に
2人の関係が変わったのは大学4年のときだ。
「彼がすごい就活で悩んでいたので、いろいろ話を聞いてあげたり、サポートしていたら、あっちから付き合おうかと言ってきたんです」
友人たちは祝福してくれたが、結婚までにはさらに高いハードルが待っていた。
夫の両親に猛反対されたのだ。
「あなたのオムツは誰が替えるのとか言われて、エ? 私、トイレは自分でできますし、彼にお弁当も毎日作ってたし。でも、いくら私ができます、頑張りますと言ったところで、あなたは障害があるんでしょって、頭から反対でした。聞く耳を全く持たない彼らの態度に怒りと悲しみを感じました。
でも、理解できないのはあちらの問題だから、どうしようもないじゃない。結婚の話し合いがにっちもさっちもいかなくて、彼が1回ひるんじゃって……」
すでに結婚式の招待状も送っていたが、全部キャンセルして延期した。
ちょうどそのころ、田中さんは夏子さんと会った。田中さんも悩みを抱え、「お互いにしんどい状況だね」と話した数日後。夏子さんから手作りのクリスマスリースが届いて、感激したそうだ。
「自分に余裕のあるときに他人にやさしくできるのは当然ですが、なっちゃんは自分が本当に苦しい状況にもかかわらず、他人に対して気を配れるんです。本当に思いやりのある人って、こういう人のことをいうんだと思いました。彼女の魅力に1度ハマったら、もうなっちゃん以外の人は考えられないと思いますよ」
半年後、結婚式を挙げたが、夫の親族は出席しなかった。
障害の遺伝を覚悟して2児を出産
夏子さんが初めて婦人科の検診に行ったのは20代半ば。夫と付き合い始めてしばらくしたころだ。
だが、冷たいひと言で門前払いされてしまったという。
「あなたは診察台に乗れませんよね」
次々と断られたが、あきらめなかった。
「同じ障害の友人に紹介された先生に診てもらったら、あなたの子宮は普通の女性と同じ6センチ以上あるから、妊娠の可能性はあるわよと。身体はこんなにちっちゃいのにねぇ。妊娠を続けるのが苦しくなったら、出せばいい。できるところまでやってみましょうと言ってもらえて、あ、そっかと」
28歳で結婚してすぐ会社員の夫の転勤で香川県に転居した。香川大学大学院で特別支援教育を専攻。同じ骨形成不全症の20代の女性たちにインタビューして論文を書き、修士号を取得した。
論文を執筆中に待望の妊娠がわかった。
だが、骨形成不全症は遺伝する。子どもが同じ障害を持つ可能性は2分の1──。
夏子さんは心臓や肺も小さいため、母体が耐えられず、未熟児で生まれるリスクもある。
「何か問題があるだろう」
そう覚悟して妊娠・出産に臨んだが、医師も拍子抜けするほど順調だった。
2013年に香川県で長男を出産後、転勤で神奈川県に。翌年、長女を出産した。
2回とも35週で帝王切開により出産。体重はともに2100グラムで、少し小さいが元気な赤ちゃんだった。
「夫も私も遺伝すると思っていました。特に2人目の性別が女だとわかった瞬間、“絶対に遺伝するわー”と。今まで遺伝していない女の子は見たことないから」
結局、2人とも障害は遺伝していなかったのだが、夏子さんは障害児を育てるつもりだったと聞いてビックリした。出生前診断であきらめてしまう夫婦もいるのになぜか。理由を聞くと、意外な答えが返ってきた。
「だってね、それなりに育てていけばいいわけだから。私自身、障害があるから大変とか、障害がなければよかったって、本当に思ったことがないんです。誰にでも、やりたいけどできないことってあるわけで、私は歩けないけど、そのかわり、泳ぐのはすごく好きだし」
だが、幼少期には1年に3回は骨折。病院のベッドで長い時間を過ごしていた。それでも大変ではなかったのか。
「もちろん、骨折すると痛いし、すごく嫌ですよ。でも、これくらいなら全治3週間とか自分でわかるんで(笑)。よく入院もしたけど、ビデオとかもいっぱい借りてくれたし、何かしら楽しみを見つけていましたから」
どこまでも前向きな言葉をあっけらかんと口にする。
強行突破で米国、デンマークに単身留学
出産は順調だったが、本当に大変だったのは生まれてからだ。料理、洗濯、掃除、子どもの世話など、日々の生活を支えてくれているのはヘルパーたちだ。実は、夏子さんがヘルパーを利用し始めたのにはキッカケがあった。
話は大学時代にさかのぼる。夏子さんは在学中にアメリカ西海岸のサクラメント大学に1年間交換留学、デンマークに3か月留学している。親には絶対反対されると思い、試験に受かってから事後報告して強行突破してしまった。
それにしても車イスの女性が外国に渡りひとりで暮らすのはどれだけ大変なのか。想像もできない。夏子さんのバイタリティーには、驚かされてばかりだ。
「アメリカは世界でいちばんハード面が整ってると思います。バスもタクシーも車イスで乗るのに困らないし、日本より生活しやすかったですよ。むしろ人種差別のほうが激しくて、競争社会だし、なんか合わないなと感じました」
次に行ったデンマークはアメリカほどハード面が整っていないが、人々が助け合って補っている。何より人を大切にする姿に感銘を受け、自然とこう思えた。
「危ない思いをしてまで自分で全部やらなくても、ヘルパーさんに頼れるところは頼ってもいいかな」
障害者にこそ子育てをすすめたい
今は朝3時間、午後は2時から9時までの7時間。合計10時間、19歳~57歳まで10人の女性ヘルパーに、交代で来てもらっている。
夏子さんは素早い動きができないので、動き回る子どものオムツ替えは難しい。危ないよと子どもを片手で抱っこして止めることもできない。料理も大鍋でたくさん作るのは難しいので、切り方まで指示をして作ってもらう。子どもが熱を出しそうなときは、ひとりでは病院に連れて行けないので、先を見通してヘルパーを確保しておく……。
いちばんつらかったのは、2人目を産んだ直後だ。2、3時間おきの授乳にオムツ替えと、ただでさえ大変な時期なのに、当時、夜勤の仕事をしていた夫の帰宅は連日、夜中の2時、3時──。
「ヘルパーさんが夜9時に帰ったあとは、私ひとりで赤ちゃんと2歳児を見ていて。何かあったらどうしよう、すぐ救急車を呼ぼうとか、ずっと気を張っていたので、ホント、大変でした」
ヘルパーは自治体や派遣会社を通じて頼むのが一般的だが、夏子さんは自分で探している。子育ても頼むため相性が大事で、信頼関係を築きたいからだ。
そのひとり、介護福祉士の佐藤沙安也さん(27)とは10年以上の付き合いだ。佐藤さんが通っていたフリースクールで大学生の夏子さんがスタッフとして働き始め、知り合った。佐藤さんが16歳でヘルパーの資格を取ると、すぐ夏子さんから声がかかった。
「昔からなっちゃんは天真爛漫で、可愛いんですよ。今も家で子どもと一緒にいると、ときには、なっちゃんが私のひざの上に乗ってきたり、わざと“沙安也がマッサージしてくれないと嫌だ~”とゴネてみたり(笑)。私のほうがずっと年下なのに、甘えん坊キャラなんですよ」
子どもたちは4歳と2歳のやんちゃ盛りだ。保育園から帰宅後は競ってママに甘える。夏子さんの母親ぶりを、佐藤さんが教えてくれた。
「例えば、子どもが何か悪いことをしても、“何でこんなことをしたの?”と時間をかけて話をきちんと聞くんです。頭ごなしに叱らず、子どもの気持ちを1回受け止めるところがすごいですよね。もちろん、毎回はできないと思いますが、そうしようと努めているのが、横で見ていてわかります」
夏子さんは「障害者にこそ子育てをすすめたい」と力説する。
「私が結婚するときは、障害者の結婚はありえないとか、子どもを産むなんてありえないとか、すごく反対されたけど、子どもって、どんな親でも必要としてくれるじゃないですか。親の障害を否定しないし。私が歩けないことも当たり前のこととして受け入れるし。ホント、おすすめですよ。ただ、2歳差は大変。それだけが計画外でした(笑)」
理由を聞いてなるほどと共感できた。同時に、実行できる人は少ないだろうとも。夏子さんほど強い人はめったにいないから。
車イスだから、大変なのではない
「どうしてそんなふうに、いつも前を向いていられるんですか?」
インタビュー中、何度も浮かんだ疑問をぶつけると、少し考えてこう答えた。
「うーん、楽しいからかな。私だって落ち込むし、失敗もするけど、何かしているほうが楽しいじゃない。あと、信頼する人の手を借りながら、自分の毎日は自分で作れると信じているからです」
その言葉どおり、新しいことに次々とチャレンジしている。
昨年末にはなんと舞台デビューを果たした。女優の東ちづるさんのプロデュースで見世物小屋を復活しようと車イスのダンサー、寝たきり芸人、女装詩人など障害者やマイノリティーが多数集結。『月夜のからくりハウス』と名づけた一夜限りの舞台で、夏子さんは人魚の衣装を着て、小人プロレスのマネージャー役をした。
「やっぱり“違う”って、不思議だし、面白いし。特に今回は、人と違う自分の特性や強みを生かして表現したいと集まったので、本当に、いい意味での見世物になれたと思いますよ」
夏子さん自身、車イスで街に出かけるだけで注目を浴びる。小さな子どもは夏子さんを見て、親に「あの人、何?」と聞くが、親は「行くわよ」と話をそらせて立ち去ろうとする人が多い。
「ジロジロ見られて嫌だとは思いません。それより見ないほうがいいとか、存在を隠されるほうが私はすごく嫌です。だから、障害者を知ってもらうチャンスだと思って、目が合った子どもに、“こんにちは。車イスだよ”と自分から話しかけたりしていますよ」
昨年11月には新宿から表参道までJRと地下鉄を乗り継いで移動する様子をユーチューブにアップした。健常者なら20分で行けるが、駅員に連絡して電車に乗るスロープを出してもらい、エレベーターを乗り継ぎ60分かかった。それでもいつもより早いほうだと苦笑する。
「車イスだから大変なわけではなく、ハード面が整っていないから大変なわけでもなく、ちょっとの思いやりや理解がないことが怒りにつながることが多いですね。
昨日も新宿に行きましたが、駅でエレベーターに乗るのに5回待ちました。車イス優先エレベーターと書いてあっても、スーツケースを持った人や歩ける人が先に乗ってしまう。そういうことが毎回、毎回起こるので疲れますよ」
これまで各地で講演をして実情を話してきたが、2010年からはコラムニストとしても活躍。沖縄の琉球新報や東京新聞・中日新聞で障害者の日常や子育てなどをつづる連載を続けており、ブログもひんぱんに更新している。
これからの目標はNPOを立ち上げること。すでに「イエサポ15」と名前もつけている。障害者のヘルパーは15歳からできるので、高校生など若い人に広めていきたいと、やる気満々だ。
大学卒業後、沖縄で小学校の英語講師をしていたこともあり、若い人に関わる仕事を再びやりたい。いずれ大学の教壇にも立ちたいという。
「地域の中で私のような障害者が生きているのが当たり前になれるように、障害者がどうやって生活しているのか、どうやって子育てしているのかを、若い人たちに伝えていきたいです。若いうちに知ることで、もっと助け合いが広まるんじゃないかな~」
持ち前の行動力で、周りの人をどんどん巻き込んでいく夏子さん。
ひとりの強い思いが、大きなうねりになり、社会を変えていく。そんな日を夢見て、今日も発信を続ける──。
取材・文/萩原絹代 撮影/坂本利幸
萩原絹代(はぎわらきぬよ)◎大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある
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【新型コロナ】まさかの感染だった夫婦、入院までの“克明な記録”
病室の窓から見える風景。青空が広がる日は気持ちがよかった 撮影/若林理央
「陽性です」看護師の静かな声がした。「ひどい風邪だと思いますよ」と励ましてくれた医師が、顔色を変えて診察室に戻ってくる。
新型コロナウイルス。テレビやインターネットで、毎日のように目にしている病気だ。病院から連絡を受けた保健所のヒアリングを経て、入院が決まった。「入院はいつまでだろう」。私はフリーライターだ。仕事ができなければ、そのぶん収入がなくなる。身体のつらさより、不安のほうが大きかった。入院先の病院での隔離生活も想像がつかなくて怖い。
回復し日常生活を取り戻した今、そのときの気持ちを冷静に振り返ることができるようになった。新型コロナにかかったからこそ、わかったことがある。それを、この記事で伝えたい。
「人ごと」だった新型コロナ
2021年3月14日、倦怠感と咳(せき)があった。
「風邪でもひいたかな」
似た症状の夫と、そんな会話をした記憶がある。
新型コロナウイルスが流行し、初めての緊急事態宣言が出てから、早くも1年がたとうとしていた。とはいえ、私の周りでこの病気になった人はいなかった。
翌15日の朝、咳がひどくなり飛び起きた。熱を測ると38.8℃。
『東京都発熱相談センター』に電話をして症状を説明すると、丁寧な口調でこんな言葉が返ってきた。
「発熱外来のある内科に行ったほうがいいですね。PCR検査をするかどうかは、医師の判断で決まります」
PCR検査。検査をするとなったら、新型コロナ陽性の可能性があるということだ。
私たち夫婦は30代。2人で生活しており、どちらも最近は自宅で仕事をしていた。私はフリーライターだが、この数週間は対面取材もなく、3日に1度、スーパーに行くときしか外出をしていない。
まさか。
発熱相談センターの担当者は「先に病院に電話してください。今、急に発熱のある患者さんが来ても、病院は受け入れられないんです」と付け加えた。
自宅からいちばん近い内科の開院を待って、電話をした。体温と症状を伝えると到着時間を聞かれ、その時間に合わせて医師に診てもらえるようにすると言われた。いつもは1時間くらい待たなければならない人気の病院なので驚いた。
予約した時間に夫婦で赴くと、受付の前には待っている人たちがいる。私たちは熱があるので、ついたてで仕切られたスペースに案内された。
3分ほどで看護師がやってきた。発熱のある患者を前にして、医師と看護師が装着しているのはマスクとフェイスシールド、首から足までを覆う医療用のガウンである。このガウンがニュースで時折耳にする、防護服と呼ばれているもののようだ。聴診器を胸にあてるとき、医師は私たちのすぐそばまで近づかなければならない。
「新型コロナかもしれない患者の診察って嫌だろうな」と思うのだが、医師はなんでもないことのように言った。
「風邪がひどくなったのかもしれませんね。2人ともPCR検査を、奥さまは高熱もあったのでインフルエンザの検査もしましょう」
「風邪がひどく」という言葉に、彼の気遣いが感じられた。
インフルエンザの検査は、綿棒で鼻の奥の分泌物を取る。患者と医師の間はパーティションで仕切られていて、鼻の部分だけあいていた。
「今年はインフルエンザになる人が少ないので、大丈夫だと思います」
医師の言葉のとおり、すぐにインフルエンザではないと判明した。
PCR検査のため、紙コップに入った水を全部飲み込んでから、専用の容器に引かれた線のところまで唾を吐き出す。最後にキャップのようなもので容器を閉じ、看護師に渡した。
「PCRの結果は、明日の夜に電話でお知らせします」
そう言われて解熱剤と咳の薬の処方箋をもらい、帰路についた。
「陽性」と告げられて
私の症状が悪化したのは、その日の夕方である。関節痛、食欲不振、嘔吐、咳。体温は38度台のままだ。
PCR検査を受けた病院はもう閉まっていたので、『東京都発熱相談センター』に連絡した。今朝、新型コロナの検査を受けて結果待ちだと言うと、一般の救急外来での診療を勧められた。自宅の近くにある救急外来は発熱相談センターでは見つからず、救急センターの電話番号を教えてもらった。
救急センターで紹介された病院は4つ。すべてに電話したが、高熱の患者は受けつけていない、もしくはベッドに空きがないとのことだった。
3月半ばの東京は、感染者数が以前より少なくなっていた。しかし、診察時間外に病院を見つけるのは、こんなにも大変なのか。何件も電話しながら、苦しむ人を受け入れられない病院のジレンマも感じた。
私は睡眠障害があるため、精神科で睡眠誘導剤を処方してもらっている。行ける病院がないので、それを飲んで寝た。幸い、夜中に苦しむことはなかった。
目が覚めると、体温は37.2℃まで下がっていた。とはいえ、いつ昨夜と同じ症状になるかわからない。PCR検査を受けた病院に電話をして、昨日と同じ流れで診察を受けた。
夫の症状は私と少し異なっていた。倦怠感と頭痛があり「味覚と嗅覚があまりない」と言っていたが、その日の夫は平熱だった。
私だけ新型コロナの抗原検査を受けた。緊急性が高いと判断されたのかもしれない。これはPCR検査と異なり、15分ほどで結果が出る。昨日のインフルエンザと同じように、鼻の奥に綿棒を入れて検査した。
「いよいよ結果がわかる」という緊張感と安心感が、同時に押し寄せてきた。
看護師が、診察室の外で医師を呼んだ。高い声が印象的な女性だったが、そのときだけ声が低くなった。
「陽性です」
はっきりと聞こえた。医師がすぐに戻ってきた。
「マスクの鼻のあたりを、もう少し押さえてもらえますか」
そう言った医師は平静を保とうとしていたと思う。だが、明らかに驚いていた。
「病院から保健所に伝えます。保健所から今後の療養先などの連絡があるので、自宅で待っていてください」
新型コロナ陽性。
テレビの報道やネットニュースの見出しが、めまぐるしく頭の中をよぎる。
どうやって患者を帰らせるのがいいか、医師と看護師が相談している。この病院で陽性患者が出たのは初めて、もしくは久しぶりなのかもしれない。
「タクシーなどは使わないで歩いて帰ってください」
そう言われたので、夫と一緒に人があまり通らない道を選んで帰った。
自宅のあるマンションの前で、管理人さんが掃除をしていた。「おはよう」と、いつものようにあいさつしてくれる。
彼は高齢者だ。マスクはもちろんしている。だが、何か発すれば飛沫(ひまつ)が飛んで感染するかもしれない。管理人さんに万一のことがあれば私のせいだ。心の中で謝りながら、離れたところで会釈してマンションに入った。管理人さんは、不思議そうに私たちを見ていた。
この日の東京都は、新型コロナ感染者数が300人ちょうどだったことを覚えている。
その中のひとりが自分だった。
保健所からのヒアリング
スマホの音が鳴るように設定して3時間ほど寝ていると、保健所から電話がかかってきた。所要時間は30分ほどだった。症状が出た時期や症状の内容、直近2週間の行動、これまでにかかった病気、手術歴などを聞かれた。
保健師の判断は、私の場合は病院入院になるというものだった。「ホテル療養じゃないんですか」と、思わず言ってしまった。ホテルならWi-Fiもつながるし、仕事ができるのに。
フリーランスは仕事をしなければ収入がないので焦った。だが、保健所の判断は絶対だ。
「だめです。病院入院は確定だと思ってください」
陽性が確定してショックを受けている感染者に対して冷たい保健師だな、と感じた。
しかし、今振り返ると、それは私が動揺していたからだ。保健所の忙しさを想像できていなかった。
濃厚接触者は、昨日のPCR検査の結果がまだ出ていない夫だけだった。夫と完全に部屋を分けるように言われ、入院に必要な物の説明を受けた。入院期間は長くなるかもしれないが、もちろん家族や友人との面会はできない。
聞きながら、以前にテレビ番組で目にした映像を思い出した。オンラインで家族に見守られながら、最期のときを迎えた重症患者。死因が新型コロナだったせいで感染の恐れがあり、死後も会えないまま火葬しなければならなかった、志村けんさんのご遺族。
私は高齢者でも重症者でもない。それなのに大げさだと自分でも思う。だが、彼らが直面した苦しみは、私にとって、もう人ごとではなかった。
電話中、泣きそうになったがこらえた。えたいの知れない「感染症」が、形をなしていった。
「重症患者ではないので大部屋なら無料、個室ならプラスで3万円以上かかると思うが、どちらがよいか」と聞かれた。睡眠障害があるので「結婚前の貯金を切り崩そう」と決め、個室を希望した。
明日の朝に体調確認の電話をすると伝えられ、通話は終わった。入院は病院が決まり次第、恐らく次の日からになるそうだ。
夜、医師から電話があり、夫のPCR検査の結果が伝えられた。陽性だった。
民間救急車に揺られ、病院へ
3年前、海外旅行中に腎盂腎炎(じんうじんえん)になり、緊急入院した。眠ることすらできないほど苦しかった。
「あのときほどは身体がつらくないし、日本の病院だから言語やシステムの違いで苦労することもない。なんの心配もない」と自分に言い聞かせる。
翌朝、体温は36度台に下がった。だが、発症2日目の症状がひどかったので、体調確認の電話をかけてくれた保健師は言葉を選びつつ、「やはり入院で」と私に告げた。
ホテル療養の可能性が消えたのは残念だったが、病院なら土日も当直の医師がいるし、看護師もたくさんいる。ありがたいと思わなければならない。
13時、知らない番号から電話がかかってきた。出ると民間救急の職員だった。
「13時半に到着します」
保健所と連絡が行き違ったらしい。慌てて入院用の荷物を確認していると、すぐに保健所からも電話があり、入院する病院名を教えてもらった。そこまで民間救急車で連れていってくれるそうだ。
私が新型コロナになったのは比較的、感染者の少ない時期だった。それでも保健所や民間救急、病院は忙しい。
民間救急の職員は、恐らく同じマンションの住民を不安にさせないため、マンションの入り口から見えにくい場所に車を停めてくれた。民間救急車は、消防署の救急車よりも小さい。救急車というより小型バスのようで、色は白かった。
医療用ガウンで首から足まで身を包み、マスクをした2人の男性が降りてきた。あいさつしてすぐ、手袋をつけた手で私の持ってきたスーツケース2つと、大きなバッグひとつを手際よく運ぶ。
「後ろの席にどうぞ」
そう言って私を誘導した後、2人はビニールのパーティションで仕切られた運転席と助手席に座り、髪にキャップをした。乗るまでキャップをしなかったのは、私がコロナ患者だと周囲に思われないよう、最大限の配慮をしてくれていたのだ。
車の後部にあるスペースはとても広い。すぐ横には、青いシートをかぶった車イスがある。保健所によると、ほかの新型コロナ患者と同乗することもあるらしいが、そのときは私ひとりだった。
民間救急車にはサイレンも赤色灯もない。通常の車と異なるのは、私と運転席・助手席の間にスペースがあり、ビニールのパーティションで仕切られていることと、助手席の職員がひっきりなしに電話をしていることだ。
「立てない高齢の方ですね、15時にお迎えに行きます」
そんな話が聞こえた。
病院に着いたのは14時過ぎだった。
民間救急の職員は私を支えて車から降ろし、私と、新型コロナ専用病棟の前で待っていた看護師にあいさつをして去っていった。
こうして、私の入院生活が始まった。
(文/若林理央)
【※新型コロナ体験記・後編は4月18日(日)の21時に公開します】
【PROFILE】
若林理央(わかばやし・りお) ◎読書好きのフリーライター。大阪府出身、東京都在住。書評やコラム、取材記事を執筆している。掲載媒体は『ダ・ヴィンチニュース』『好書好日』『70seeds』など。ツイッター→@momojaponaise
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ナチュラル美魔女の若返りメソッド
ろっかん あれ? この前お会いしたときよりも、なんかお顔がスッキリされていませんか?
熊谷 そうなんです。ろっかん先生に眼圧リセットを教えていただいてから、目の調子とともに、私生活もスッキリ、リセットしてしまいましたので(笑)。
ろっかん いずれにせよ、よかったです(笑)。眼圧をスッキリさせたことによって、新しい発見があったのかもしれませんね。
熊谷 ろっかん先生に初めてお会いしたのは昨秋でしたね。目の疲れの改善と身体の調整をお願いしたのですが、眼圧リセットの施術が終わると視界がぱーっとクリアに! コンタクトをした状態の視力は、右が0・6から1・0、左が0・3から0・6に上がったのにもビックリしました。
ろっかん 眼圧リセットはすぐに効果が表れ、ご自分でもやっていただけるマッサージです。眼窩(目の周りのくぼみ)を広げて、眼圧を調整すれば、目の不調が改善します。僕はもともと美容面での施術が多かったのですが、眼窩が狭くなると、目がくぼんだり、目が小さくなるため、眼窩を広げてきました。
その際、「視界がよくなった」という声をたくさんいただき、見た目だけでなく、目の調子がよくなることに気づいたのです。加齢などで眼窩が狭くなると、眼球に圧力がかかり、眼圧は高くなり、血流が悪くなります。その結果、目の動きが悪くなり、視神経が圧迫され、視力低下や眼精疲労、視野が狭まるといった目の不調につながるのです。
熊谷 すごい発見ですね! あまりに効果があったので、眼圧リセットは毎日行っています。私は小さいころから目が悪くて、小1から眼鏡をかけ、大学生のときから今までずっとコンタクトレンズをつけています。
だから、目がゴロゴロしたり、目が疲れるのは日常的。最近は年齢もあって、夜に字を読むのがつらく、細かい作業ができなくて、大好きだったビーズアクセサリー作りからも遠のいていました。
でも、眼圧リセットを行うようになってからは、目の疲れがなくなり、読書や手芸をする意欲が湧いてきたんです! 人生がますます楽しくなった気分です。
眼圧リセットの更なる効果
ろっかん それはよかったです。眼圧リセットの道具は“手のひら”だけなので、いつでもどこでも行えます。
熊谷 ホントにそうですね。眼圧リセットの中でも、私がよく行っている「眼窩ほぐし」のマッサージは、おでこに手を当てるので、悩んでいる人のようなポーズになります。誰かに見られると「深い悩みでもあるのかな?」と心配されるので、そこだけ注意しています(笑)。
ろっかん 熊谷さんはとても素直で、お伝えしたことをきちんと続けてくださるので、効果も出やすいんですよね。
熊谷 いえいえ、ろっかん先生のおかげです! 眼圧リセットを始めてから、久しぶりに友人に会うと、「すごく小顔になってる!」と驚かれました。小顔効果もあるんですよね?
ろっかん 眼圧リセットを行うと、むくみも取れやすくなり、フェイスラインが整うので小顔になります。こりかたまっていた頬の筋肉も動きやすくなるので、リフトアップが叶うんです。熊谷さんはもともとが小顔ですが、さらにキュッと引き締まりましたね。
熊谷 はい!「鼻骨ほぐし」も鼻が通って気持ちがいいです。
ろっかん 鼻骨ほぐしは、くぼんだ眼窩が引っ張り出され、鼻骨が出てくるので、鼻が高くなって、瞳が大きく見えるようになります。さらに鼻腔が広がって、鼻呼吸がラクになるので、花粉症の人も鼻がスッキリするはずです。
熊谷 眼圧リセットを行っていると、目の周りがいかにこっているのかがわかりました。最近はマスク生活で、顔の筋肉を動かさないから、口角が下がって頬も落ちて、老け顔になりがちですよね。頬が下がると福が逃げるともいわれますし、美容面でも効果があるのがうれしいです。
ろっかん 頬が下がって顔に影ができると「険がある」と言われ、きつい顔つきに見えてしまいます。眼窩を広げて、骨や筋肉を正しい位置に戻すことが、目の健康とアンチエイジングの基本ですね。
毎日の積み重ねで身体にゆがみが
ろっかん 熊谷さんはスリムですし、ゆがみやこりも少ないので、そんなに直すところがないんです。ただ、60年以上生きていると、疲れているところは出てきます。そこだけ改善すれば大丈夫です。
熊谷 ありがとうございます。健康や美容の秘訣を聞かれて「何もしてないんです」という方がいますが、61年も生きていると「何もしなくても大丈夫」はありえません(笑)。日々の習慣や自然にやっていることが身体のクセをつくってしまうので、食事や姿勢には気をつけています。
私が生まれたときから61年間持っているものって、身体以外にはないんです。だからこそ、身体のどのパーツも大事で、メンテナンスが必要だと思っています。あるべき場所に戻ってもらうだけで身体は若返って、また頑張れるんですよ。
ろっかん ホントにそのとおりです。毎日のちょっとした積み重ねが身体をゆがめていくので、立ち方、歩き方、座り方のクセを直すことを意識してもらいたいです。
熊谷 1時間のトレーニングをしても、あとの23時間をだらっと座って過ごしていたら、トレーニング効果も出ないですよね。
今がいちばん健康で元気なんです!
熊谷 実は昨年の8月に腱鞘炎になって字が書けなくなりました。それが、ある日突然、ロックがはずれたみたいに治ったんです。そのときに、「心が身体に影響していたのかも」と気づき、身体だけを一生懸命治そうとしてもダメなんだなとわかりました。できるだけポジティブな言葉を使うようにしていると、心も身体も整いやすいように思います。
ろっかん 素晴らしい考えです。施術をしていると、がんこな人、とらわれている人は、身体が硬くなっていて、なかなか直らないのを実感しています。身体は気をつくり、気は身体を引っ張るといいます。
熊谷 身体をメンテナンスすれば心が晴れますし、頑張ろうという気持ちが出てくると身体がしゃんとしますよね。私は舞台の本番前に、蹲踞というお相撲さんが取る姿勢になります。身体を立てた状態のままひざを折って腰を下ろし、つま先立ちで両ひざを開いた姿勢です。すると心が落ち着き、平常心で舞台に立てるんです。
ろっかん 熊谷さんは身体にいいと聞いたことを、ちゃんと実践されているので、お元気なんですね。
熊谷 実は私も健康のことを真剣に意識しだしたのはここ数年なんです。母は57歳のときにがんで亡くなってますので、自分もその年代になって、あらためて身体を大切にしようと考えるようになりました。食に関する資格も取って、自分の身体をつくってくれる食を大事にしています。おかげで61歳の今がいちばん元気です!
ろっかん 素晴らしい! 健康のために毎日、食べたり飲んだりしているものはありますか?
熊谷 最近は「昆布水」にハマっています。ペットボトル1本分の水に2枚昆布を入れて沸騰させ、冷ましてから飲むんです。知り合いの女性がこれでおなかがぺったんこになったんですよ。お肌の調子もいいそうです。
ろっかん 僕もダイエット中なのでやってみようと思います。熊谷さんは静岡県の浜松市に移住されてから、ますます健康になられてますね。
熊谷 はい! 自然の力は身体にとても影響します。青空、風、緑、お花……と、季節の変わり目を自分の身体で感じることが増えました。すると、悩んでることがふっとぶんです。「きれいだなあ」と空を眺めていると、自分のことから気がそれて、「あれをやらなくちゃ」と焦っていた気持ちも落ち着きます。静岡では自然に感動し、東京では新しい建物やアートを楽しみ、両方を行き来することで日々ワクワクすることが増えました。
ろっかん ぜひ眼圧リセットを続けて、目と身体の健康をキープしてください!
熊谷さんの人生を変えた! 眼圧リセットマッサージ
美容効果が大きく、緑内障や近視を遠ざける眼窩ほぐし
(1)拇指球をおでこのくぼみに当てる……両方の眉頭あたりにある「眼窩のくぼみ」へ拇指球(親指のつけ根)を添える。
《POINT》眼窩のくぼみは、「眉の下」「顔の中央寄り」を目安にしましょう。
(2)片手でひじを支え、眼窩を押し広げる……ひじを片手(または机など)で支え、眼窩を上へと押し上げる。1つの動作につき、1日1分程度を目安に。
《POINT》右側が終わったら、左側の眼窩も同じように行おう。ひじを机などにつけて行ってもOK!
鼻が通りやすくなり、視力も、鼻の高さもアップする!鼻骨ほぐし
(1)鼻骨をつかみ押し下げる……まず親指と人さし指で、鼻骨をつかむ。次に、鼻を床のほうへグッと押し下げる。
《POINT》鼻骨の位置は瞳の横あたり。間違えないようご注意を。
(2)同時に、片手でおでこを押し上げる……もう片方の手のひらをおでこに置いて、上に押し上げる。くぼんだ眼窩が引っ張り出され、瞳が大きく、鼻も高く見えるようになる。
《POINT》ひじを机などにつけて押し上げるとらくちん!
清水ろっかん
しみず・ろっかん 骨格矯正士。「体幹矯正 ろっかん塾」主宰。30年以上にわたり、他に類を見ない独特の骨格矯正による美容メニューを次々に開発。その高い技術力が芸能関係者に口コミで広まり、多くのメディアに取り上げられる。著書は『清水ろっかん特製 外反母趾らくらくサポーター』(主婦と生活社)ほか多数。
体幹矯正 ろっかん塾:TEL03-5929-7042
熊谷真実
くまがい・まみ 1960年3月10日生まれ。東京都出身。1979年NHK朝の連続テレビ小説『マー姉ちゃん』の主役に抜擢され、同年製作者協会(エランドール賞)を受賞。2016年『マンザナ、わが町』で紀伊國屋演劇賞・読売演劇賞受賞。2020年11月27日より浜松市やらまいか大使就任。SBSテレビ(静岡放送)『ORANGE』月曜レギュラー。ローフードマイスター、野菜ソムリエ、米粉マイスターの資格も持つ。
《取材・文/紀和静》
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マスク使い回しで健康被害? やってはいけない節約術
節約のためと、不織布マスクを使い回していると…
時代が変われば節約法も変わります。激安品を求めてスーパーをはしごしたり、トイレのタンクにペットボトルを入れたり。食費も、光熱費も間違ったアクションをしてしまうと損するだけでなく、健康に悪影響が! 余計な出費を招くことにもなりかねません。しっかり情報を最新バージョンにアップデートして!
少しでも出費を減らしてお金を貯めたい─その一心で、日々、節約に励んでいる人は少なくない。最もスピーディーに効果を実感できるポイントとは?
「家計の支出には、2種類あります。住居費や通信費など毎月必ずかかる“固定費”と、食費や交際費のようにお財布から出ていく“変動費”です。節約と聞くと食費など目先の出費に意識が向きがちですが、まずは固定費の見直しから始めるのが効果的です」と節約アドバイザーの和田由貴さん。
実際、住生活ジャーナリストの藤原千秋さんは、固定費の見直しが大きな節約に。
「うちは5人家族で全員がスマホを使ってます。以前、大手キャリアのスマホだったときには毎月のスマホ代に3万円もかかっていたのですが、格安スマホに変えたら5人分で月1万円を切りました。食費などの変動費で月2万円を節約するのは大変ですが、固定費は1度見直せば大きな節約効果が続くことを実感しています」
日々の節約も長い目で見れば大きな効果をもたらす。でも、よかれと思って取り組んでいる節約が、実は健康を害するおそれがあるものも。
「特にコロナ禍の今はなおさらですが、感染予防の意味でも、衛生面を犠牲にする節約はやるべきではありません。例えばマスクは節約すべきではないですね」(藤原さん)
さらに、コロナ禍による自粛生活が続いた昨今、旅行やレジャーに代わる楽しみのひとつが食となった。旅行に比べてお金はかからないが、そこにも落とし穴が。1度、生活に根づいた習慣から抜け出すことは難しく、コロナ後も同じ感覚だとムダ遣いになってしまうからだ。
「おいしいものをお取り寄せする、いい食材を買ってプチ贅沢をするなど、食を楽しむこと自体に問題はありません。お取り寄せや高級食材は、特別なもの。そうとらえておくほうが、コロナ後のスムーズな節約生活につながります」(和田さん)
また、節約に関する知識自体、時代の変化により今では意味がなくなったものも。
「家電も住宅設備も、日々進化しています。その中で、昔のままの節約情報で止まっていると、逆に損をすることもあります」(藤原さん)
意味のある節約行動につなげるために、次ページをチェッックしよう!
見直し固定費ベスト3
固定費は1度見直しをすると節約効果が持続するのが一番のメリット。
1.住居費(家賃・ローン)
ローンの組み換えや、家賃の交渉もしてみる価値あり!
2.通信費
格安スマホ激戦時代。料金の検討を。
3.保険料
年齢や今の家族構成に合ったものを選択すべし。
食費編
安い商品を求めて地域のスーパーを回る、お得な見切り品はとりあえず買っておく、お惣菜は絶対買わない。その節約方法、実は逆にコストがかさんでいます!
底値を求めてスーパーをはしご…… →移動費も考えるとソン!
「自転車や徒歩ならまだしも、車を使ってスーパーのはしごをすることはガソリン代など交通費もかかっていることをお忘れなく。また、買い物の回数に比例してムダなものを買う頻度が増えるので、買い物の回数は少ないほうが節約につながります」(和田さん)
お惣菜は絶対買わない →人数によっては作ったほうがソン!
例えば単身や2人暮らしの場合は、時間とお金の節約になる。「揚げ物など手間と材料費がかかるお惣菜なら買ったほうがラクでトクな場合も。食事をすべてお惣菜でまかなうと高くつきますが、適度に取り入れると逆に節約につながるんです」(和田さん)
惣菜の作りおきをする →献立を考えるのが不得意ならソン!
まとめ買いしての作りおきは性格によってはムダに。「献立を考えるのが苦手で、しっかり材料を使いきれなかったり、同じものを食べることに飽きやすい人は、作りおきを意識すると食材をムダにしてしまいがち。無理してやらないほうがベターです」(和田さん)
食材が余ったら冷凍する →鮮度が落ちているならソン!
余ったものを冷凍しても使うことを忘れがち。「半端野菜などは冷凍せず、すぐに使ってしまいましょう。肉などは鮮度に不安がある残りものを冷凍しても、“これ使って大丈夫かな”と、結局は使わずに捨ててしまう可能性が高い」(和田さん)
スーパーの目玉商品を買う →つられて買いすぎたらソン!
「チラシなどで目をひく激安の目玉商品は、実は客寄せ的なアイテム。目玉商品にひかれてスーパーに出向くとほかの商品もついつい買ってしまうというワナが」(藤原さん)。お会計をした後に、「この商品、買いすぎちゃった!」と気づいても後の祭り。
見切り品を買いあさる →買いすぎると消費しきれずソン!
賞味期限や消費期限が近い見切り品は、買ってすぐに食べるのなら購入はアリ。「安いからといってすぐには食べないものまで買うのはNG。特に見切り品を冷凍保存するのは鮮度面でも衛生面でも不安があり、あまりおすすめできません」(藤原さん)
生活編
待機電力を減らすために電源コードを抜く、キッチンのスポンジを掃除道具に使う、トイレタンクにペットボトルを入れて節水……。その節約方法、すでに時代遅れです!
トイレのタンクにペットボトルで節水する →壊れたら大ゾン!
「最近のトイレは節水が考慮されているものが多く、流す水量を減らしてしまうとトイレや配管が詰まってしまうことも。結果的に修理代金がかかるため節約どころではなくなってしまいます」(和田さん)。「集合住宅のトイレ詰まりでほかの部屋に被害を与えてしまうと多額の補償金や賠償金を請求されてしまう可能性も。たった数十円の節約が、大変な出費につながる危険をはらんでいます」(藤原さん)
不織布マスクを使い回す →不衛生でマスクの意味がなくなる!
不織布マスクが不足している時期ならいざ知らず、手ごろな価格で入手できる今、使い回しは不衛生なだけ。「最近は抗菌作用など高機能な布マスクが販売されており、洗って使い回しをしたい人はそうしたものを使用するのも一案です。まずは健康を守ることを第一に!」(藤原さん)
洗剤やシャンプーを水で薄める →雑菌が繁殖して不衛生!
「希釈して使うタイプのもの以外は、水で薄めると雑菌が繁殖して腐敗する可能性があります」(藤原さん)。「ボトルタイプはポンプの根元に輪ゴムを巻いて下まで押せないようにして押し出される量を少なくするなど、使用量を減らすことに意識を向けたほうが節約効果が高いです」(和田さん)
夫の小遣いをカットする →協力が得られず節約効果が出ない!
「小遣いの目安は収入の1割で、例えば月の予算が30万円なら3万円。この割合を超えている場合はカットするのもアリですが、まずは自身の見直しを。妻の小遣いが生活費と一緒になって、明確になっていないことも」(和田さん)。「小遣いが適正な金額の場合はカットするよりも使い道を記録してもらうことがおすすめ。夫の金銭感覚が養われるため、長い目で見れば節約につながります」(藤原さん)
スポンジの使い回し →菌をまき散らして不衛生!
「キッチンのスポンジには台所に生息している菌がついているため、トイレやお風呂場で使用すると本来、その場所にいない菌を移植することになり、悪臭などの原因になりとても不衛生です!」(藤原さん)。また、スポンジやブラシは菌の温床でもあるため、食器洗いスポンジは毎月、トイレブラシは最低でも年に1度、お風呂場のスポンジは2か月に1度は交換しよう。
家計簿は妻が把握 →妻のみの管理ではムダ支出が見えづらい!
せっかく家計簿をつけていても、妻がひとりで抱え込むと家族はお金の流れを知ることができず、節約もうまくいかない。「例えば、グーグルカレンダーに、住居費や光熱費、通信費、サブスク、学費など毎月の支出が決まっているものの金額を引き落とし日に記入。一家で出費を把握して、家族それぞれが支出を意識するようにならないと、節約はうまくいきません」(藤原さん)
電源コードはマメに抜く →今どき家電は待機電力がほぼかからない!
「最近の家電は待機電力がほとんどかからないものが多く、電源コードを抜き差ししても節電効果は微々たるもの。また、番組表をダウンロードするタイプのテレビは、電源コードを抜くと番組表が消えてしまい、新たな取得の際に電力がかかることも。エアコンは頻繁に電源コードを抜き差しすると故障の原因になるおそれも」(和田さん)
番外編
見直せば節約につながる!意外な3つの「ムダ遣い盲点」
調味料
加えるだけで味つけができる合わせ調味料は便利なアイテムではあるものの、日常的に使ってしまうと高くついてしまう。家にある基本の調味料で味つけをするほうが節約になる。
丸ごと冷凍
例えば、肉を丸ごと冷凍した場合、解凍した際にすべて使い切らないとムダになってしまう。小分けにしてラップに包んで冷凍しておけば必要な分だけを使うことができる。
災害用品
常温で保存できる缶詰やレトルト食品、乾麺などは日持ちがするため、気づくと賞味期限が切れていることもある。定期的に見直しをして、賞味期限が近いものは消費したい。
節約アドバイザー・和田由貴さん
日本女子大学家政学部卒業。消費生活アドバイザー、家電製品アドバイザー、食生活アドバイザーなど、幅広く暮らしや家事の専門家として多方面で活動。『月3万円貯まるムダなし生活術』、『適当!カンタン!楽しい! 和田由貴のシンプル節約術』など著書多数。
住生活ジャーナリスト・藤原千秋さん
大手住宅メーカー営業職を経て主に住まい、暮らしまわりの記事を専門に執筆、監修、企画、アドバイザリーなどの業務に携わる。『この一冊ですべてがわかる! 家事のきほん新事典』、『人生が整う 家事の習慣』など著監修書、マスコミ出演多数。
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稲垣吾郎、『SMAP×SMAP』での大先輩との思い出
稲垣吾郎 撮影/廣瀬靖士
「この作品との出合いは、坂本眞一先生の『イノサン』という漫画。僕がTBSでやっていた『ゴロウ・デラックス』で坂本先生と対談させていただきまして、作品の世界観に魅せられましたし、サンソンという死刑執行人がいたことに驚き、クローズアップしたいと思ったんです。
この作品をやるなら映像より舞台に向いているんじゃないかと思い、演出の白井(晃)さんらと企画について話していたら、こんなに早く実現できてびっくり。昔からあまり自分で積極的に企画を出したりしないほうなのですが、自分発信でスタートし、形になってうれしく思いますね」
稲垣吾郎がベートーヴェンに続き今度は死刑執行人に! 新作舞台『サンソン』が4月23日から東京を皮切りに各地で上演。18世紀のフランスに実在し、ギロチンの開発にひと役買い、ルイ16世の処刑にも携わるなど激動の時代を生きたシャルル=アンリ・サンソンの人生を描いていく。
「ベートーヴェンでもご一緒したスタッフが多いので、安心と信頼もあるし、再び舞台をできるのはうれしいです。いま稽古が始まってだいたい1か月くらい。ようやくスケッチができあがったデッサンの段階なので、ここから色をつけて、さらにブラッシュアップしていきたいです」
『SMAP×SMAP』での思い出
サンソンと深く関わることになるルイ16世役には、初共演となる中村橋之助が挑戦。
「橋之助さんにはお会いしたことなかったんですが、お父様(中村芝翫)には『SMAP×SMAP』のゲストに奥さまと出ていただいたことがあって。
'97年とか、たぶん橋之助さんが生まれて数年たったころじゃないかな。覚えているのが、帰り際に優しい目つきで“私はあなたとは気が合いそうです”っておっしゃってくださって。芸の世界の大先輩に言われたらうれしいじゃないですか。
ただ、何が理由だったかわからず、いまだに気になっているんですが……。橋之助さんとは僕と同じ空気を感じるのですが、本人に言ったら“あっ、わかります”と言ってくれました(笑)」
フランスで大好きな映画の舞台を巡って
舞台となるフランスは大好きで、これまで何度も足を運んだそう。
「たぶん4、5回くらい……もうちょっと行ったことがあるかな。初めて行ったのはプライベートで23歳のころ。10代後半くらいからフランスの映画にハマって、モンマルトルの丘とか、凱旋門とか好きな映画の舞台となった場所を歩いたのを覚えています。
『ポンヌフの恋人』という映画が好きでポンヌフの橋にも行ったり。僕の中ではいちばん好きな橋かな。香取くんの個展をルーブル美術館でやったときも草なぎくんと行ったしね。パリはどこに行っても気持ちいいし、憧れがあるので、また行きたいですね」
草なぎくん&香取くんから刺激を!
草なぎくんが日本アカデミー賞をとったのは刺激になったし、舞台も似たような時期に本格的に始めて、本数も同じような数で、ずっと一緒にやってきた気持ちです。香取くんは、やっぱり三谷(幸喜)さんとの2人でしか出せない空気感の作品が面白いし、最高ですよね。4月に明治座でソロステージが始まったみたいで、今回は“ユーモアな香取くん”が見られるのかな。3人にとって、舞台や映像だったりと大切なものがたくさんあるけど、お互いに頑張りたいし、エールを送りたいです。
『サンソン -ルイ16世の首を刎ねた男-』
4月23日〜5月9日まで東京建物 Brillia HALLのほか大阪、福岡でも公演
ヘアメイク/金田順子 スタイリスト/黒澤彰乃
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「昭和の食卓」栄養素を網羅、認知症を予防しよう
アジやイワシ、赤ワインやコーヒー、ココナツオイル、えごま油……認知症予防にいいといわれる食材は数あれど、実際、医師たちはどんな食事をしているの? 3人の賢者が口をそろえてあげたのは……!
※画像はイメージです
昭和の食卓が最適!?
「日本の一般人が西洋食を日常的に取り入れ、いろいろな食材を食べるようになった1970年代中ごろの昭和の和食が、認知症のリスクを下げることがわかっています」
そう語るのは、老年医学の専門医、山口潔先生だ。今回の企画では認知症に詳しい3人の医師に“認知症予防として自分が食べているもの”を伺ったところ、なんと全員が口をそろえて“昭和の和食がベスト”と回答! イメージはごはんと味噌汁、焼き魚と野菜サラダ、そして漬物。そこにパンと目玉焼き、スープと果物など、完全な和食に洋食が加わった、“和洋折衷食”だ。
「ごはんと味噌汁、主菜に副菜が2つ。こういった一汁三菜スタイルの和食が、認知症予防には最適です。栄養バランスにすぐれ、さまざまな栄養素を複合的にとることができます」
と、脳神経内科医の内野勝行先生。
読者世代は子どものころ、「なんでも食べる子、元気な子」と呪文のように親や先生に言われてきたが、これが認知症予防の原点だったのだ!
DHAなど認知症予防の成分は近年続々と登場したが、結局はまんべんなく食べることが重要。実際に3賢者の食卓を拝見しよう。
“脳のゴミ”を減らす「1975年型の和食」
「アルツハイマー型認知症は、アミロイドβという脳のゴミがたまる病気です。40代からアミロイドβを脳にためない食事をとることが予防につながります」
と内野先生(以下同)。それはズバリ、
「“1975年型の和食”です。和食文化に、西洋食がちょうどいいバランスでまざり合った食事です。現在、認知症によいといわれる成分が多く、それが作用し合って相乗効果を生んでいます」
東北大学の研究グループの報告によると、この「1975年型和食」が血糖値や悪玉コレステロールを下げることがわかったという。
「高血糖状態はアミロイドβを増やすことがわかっています。糖をとりすぎて血液中に糖が急激に増えると、それを処理するために大量のインスリンが分泌されます。すると、それを分解する酵素が必要になります。その酵素はアミロイドβを分解する役目もあるため、糖の分解に使われてしまうとアミロイドβが蓄積してしまうのです」
「1975年型和食」は、野菜やキノコなど食物繊維が豊富で血糖値を急激に上げることが少ない。
また、抗酸化力が高い食材も「1975年型和食」には多く含まれているという。
「抗酸化物質は認知症予防に重要です。活性酸素は細胞を錆びつかせる悪者で、アミロイドβを増やすことがわかっています。さらに、アミロイドβが増えると、活性酸素がさらに増えるという悪循環に陥ってしまうのです」
鮭の切り身やエビなどに含まれるアスタキサンチンをはじめ、和食によく使われる食材には抗酸化物質が多い。
「昔ながらの和食には、まぐろやイワシなど魚が多く、DHAやEPAが含まれています。こちらも認知症予防として知られている栄養素です」
しかし、「1975年型和食」を毎日作るのは、現代人には難しい。そこで、
「和食の食材をスープにして、冷凍しておけば楽ちんです。きちんと作れないときは、それを解凍し、卵や豆腐などを加えるだけでOKです」
それも難しいときはサプリメントを利用して栄養を補ってもいい。
「私のメソッドは、型にはまらないこと。栄養が不足していたら、サプリメントで補ってもかまいません」
ストイックになりすぎることが、逆に認知症リスクを高めるとか?
「ストレスは認知症リスクを高めます。笑いながら楽しく食べることが、何よりも重要な認知症予防。お子さんやお孫さんと一緒にスープ作りを楽しんで、アミロイドβという敵をやっつけましょう!」
サプリメントで栄養調整
『万能トロッカ』。内野先生が開発した和食の栄養素がとれる、その名も「トロッカ」。DHA、EPA、アスタキサンチンなど認知症予防に適した栄養素がぎゅっとつまったサプリメント。
金町駅前脳神経内科院長・内野勝行先生
脳神経内科医。帝京大学医学部医学科卒業後、都内病院の神経内科や千葉県の療養型病院副院長を経て現職。豊富な臨床経験から認知予防をわかりやすく解説。
孤独な食事はNG!
「食品摂取の多様性が低下すると認知症になりやすい、という研究結果があります」
と山口先生(以下同)。 まさに、なんでも食べる子、認知症にならない子なのだ。
「日本の研究で、食品摂取の多様性が低いグループに比べ、最も高いグループは約44%、認知症機能低下リスクが少ないという結果が出ています」
バラエティーに富み、栄養バランスのよい食事が認知症予防に適した食事だという。
「65歳以上はやせている人のほうが早死になので、体形は気にせず何でも食べましょう」
中高年の肥満は生活習慣病につながるが、やせすぎはよくないのだ。また、
「現在、フレイル(要介護のリスクが高い状態)は認知症の前兆であることがわかっています。フレイルを予防することが、すなわち認知症の予防につながると考えています」
フレイル予防の食事とはどんなもの?
「先ほどの多様性の高い食事、それから必要量のタンパク質を摂取して、フレイルの原因の1つであるサルコペニア(筋肉減弱症)にならないようにすることです。筋肉は60歳を過ぎたころから急速に減っていきます。また、筋肉をつくる力も少なくなり、70代に入るころには、20代の半分になっています」
サルコペニアの予防は、タンパク質をしっかりとること。
「加齢とともに食が細くなってくるので、高タンパク質の食品を選ぶといいでしょう。朝昼夜、3食ともタンパク質食品を食べましょう。ヨーグルトや豆腐など、食べやすいものでかまいません。最近は、高タンパク食品や食品にタンパク質の量が表示されているものもありますよ」
ほかの栄養素では、DHA、EPAなどオメガ3系の油、ビタミンC、E、B2、B6、B12、葉酸も認知症予防に適している。
さらに、食に関わる環境も重要だという。
「栄養バランスにすぐれた食事でも、孤独を感じながら食べると認知症につながります」
ここで大切なのは、孤独と孤独感の違い。
「ひとり暮らしの食事より、同居なのに家族と別にひとりで食べるほうが、孤独感が強いことがわかっています」
孤独感を感じないためには、外食もいいという。
「行きつけの店で、マスターと話しながら食べるのもいいかもしれません。快刺激が認知症予防になることがわかっています。楽しく食べることが重要なのです。
アルツハイマー型認知症は20年以上かけて、ゆっくりと進行する病気。これだけ長く原因を積み上げた病気は、もしかしたら薬ではそう簡単に治せないのではないかと思ってしまいます。40歳を過ぎたら、予防が何よりも大切なのです」
お酒ならワイン!
お酒を飲むならワインがオススメ。赤ワインに含まれるレスベラトロールという抗酸化物質が話題となったが、ほかにも抗酸化物質が豊富
ふくろうクリニック等々力院長・山口潔先生
老年医学の専門医。浜松医科大学医学部卒業、東京大学医学部附属病院老年病科特任助教を経て現職。高齢者医療と認知症、MCIの予防に取り組む。
昔ながらの和食でタンパク質を!
「年齢を重ねたら、身体にいい栄養素よりも脳にいい栄養素に目を向けてください」
と、栄養に関する著書もある佐藤先生。例えば、運動時にとることがすすめられているアミノ酸のBCAAを運動せずに多くとると、脳の神経伝達物質となるアミノ酸、トリプトファンなどが脳に入りにくくなる。
「身体と脳の栄養は同じではありません。認知症予防には脳と身体の両方の栄養が必要で、高齢になると脳の栄養を意識したほうがいいでしょう」
脳と身体の両方にいい食事のポイントは、タンパク源をバランスよくとること。
「肉、魚、大豆、乳製品、卵、これが5大タンパク質といわれています。この中から毎食2種類以上とりましょう」
肉の種類は何がいい?
「鶏むね肉にはイミダゾールペプチドという、身体と脳の両方に働く抗酸化物質が豊富に含まれています。特に地鶏の“熟成阿波尾鶏”には、イミダゾールペプチドがブロイラーの2倍以上含まれているので、よく食べています。脳は有酸素運動をしているので、活性酸素がたくさん出ます。抗酸化物質は脳の健康に非常に重要な物質なのです」
脂質ではDHA、EPAなどのオメガ3、それからアラキドン酸などオメガ6も必要だ。さらに、
「野菜、海藻、キノコ、発酵食品、薬味、酢の物を積極的にとります。つまり、昔ながらの和食ですね。ごはんと味噌汁、タンパク源は5種類中2種以上、野菜、海藻、キノコを使用したおかずをとります。薬味(ネギ、大根おろし、わさび、からし、しょうがなど)を利用し、デザートに果物をとります。
キノコは、動脈硬化予防で知られるシイタケ、認知症予防のヤマブシダケがオススメ。発酵食品は、味噌、漬物、ヨーグルトがいいでしょう」
佐藤先生は、野菜に強いこだわりが。
「野菜は、自宅の屋上で作り、半分以上、自給自足をしています。残留農薬と残留肥料の問題があるからです。特に残留肥料は胃内でニトロソアミンとなり発がん・糖尿病のリスクが上がります」
自宅で野菜を作ったり、毎食、バラエティーに富んだ和食を食べるのは、現代人にとっては難しいのでは?
「サプリメントを利用してもいいですよ。脳のためにはDHA、EPA、レシチン、イチョウ葉エキス、マルチビタミン・ミネラル、アラキドン酸、抗酸化物質(コエンザイムQ10、アントシアニン、カロチノイド類)が入っているものを選んで」
昔ながらの和食、足りないときはサプリメントを利用して人生100年を元気に乗り切ろう!
野菜は自宅で栽培
自宅の屋上で野菜を収穫。すべてプランターで栽培。ピーマン、トマト、ナスなど数十種類の野菜を毎年収穫。昨年はミニトマトが1686個、大根は94本、タマネギ142個などプランター栽培とは思えない。写真は収穫野菜で漬けた漬物
稲毛病院・佐藤務先生
整形外科/健康支援科部長。宮崎医科大学卒業。昭和大学医学部統合医学科講師兼任。日本ビタミン学会代議員。ビタミン外来にて脳の栄養学を指導。
(取材・文/山崎ますみ)
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『機関戦士ガンダム』実写映画化に不安、蘇るトラウマ
『機動戦士ガンダム』の実写映画の製作が発表されたが……
今なお熱い人気をほこる日本のアニメ『機動戦士ガンダム』が実写映画化し、Netflixで配信されることが発表された。監督は『キングコング:髑髏島の巨神』のジョーダン・ヴォート=ロバーツ。脚本は『LOST』シリーズやマーベルコミック関連のドラマなどを手がけるブライアン・K.ヴォーンが担当する。キャストやストーリーはまだ発表されていない。
「ガンダムの実写化の企画は、ガンダムを製作するサンライズとアメリカの映画会社レジェンダリー・ピクチャーズが提携し、数年前から進んでいたそうで、監督や配信元などが具体的に決まってきたということでの発表されたようです」
と語るのは、ある映画ライター。
最新技術は期待できるが、果たして…
レジェンダリー・ピクチャーズはアメリカのSF怪獣映画『パシフィック・リム』シリーズなどでも有名で『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』や、5月14日に公開を控えている『ゴジラVSコング』、さらに『名探偵ピカチュウ』も手がけるなど、日本の人気キャラクターコンテンツを題材にした作品も複数製作してる。そのため、「ゴジラやポケモンシリーズに続く、日本の主要なコンテンツであるガンダムシリーズに乗り出した流れがある」(前出・映画ライター)という。
元々のキャラクターイメージをベースした上で、最新の3DCGでキャラクターに新たな魅力を吹き込んできたことから、ガンダムにも最新技術と新たなスタイルでの展開が期待できそうだ。前出のライターが続ける。
「ガンダムなどのモビルスーツはCGで、クルーなどを俳優が演じるというものになるでしょうね。『ゴジラVSコング』に小栗旬が出演していますが、日本の人気俳優の出演や、日本語吹き替え版で、アムロ役の古谷徹さんやシャア役の池田秀一さんの起用など、日本のファンに向けたサービスもいろいろ考えられそうです。ただ、ゴジラやポケモンに比べると、ガンダムはアメリカでは誰もが知っているキャラクターやストーリーという感じではありません。それゆえに新たな解釈で大胆に作れるという面もあるかもしれません」
そもそも“ガンダムの実写化”は、日本のファンからすると、なかなか思いきった発想だと感じる人もいるだろうが、実写化にはどんな可能性が秘められているのだろうか。
「お台場に建てられた実物大の立像や、横浜に立てられた動く実物大ガンダムなど、スケール感など実写化のイメージはこれを基準にしやすい面はあります。さすがにこういったものをセットとして製作し撮影することはないでしょうけれども(笑)」
とアニメ関係者。またキャラクター人物を実際の俳優が演じることになると思われるが、一部のオールドファンによると“あるトラウマ”が蘇りつつあるという。
「90年代にプレイステーションのソフトとして発売されたガンダムのゲームが、伝説になっているんです。ガンダムなどはCGで再現、そこに実写を組み合わせた、まさに今回の映画のご先祖さまのような存在でもありますが、実写パートを演じた無名の外国人俳優たちが今なお語り草になっています」(同関係者)
原作アニメをなぞった実写化なだけに、そのイメージから大きくかけ離れたキャスト陣は、違和感でしかなかった。中でもファンに衝撃を与えたのは、歴代アニメキャラの中でも屈指の魅力を持つ、シャア・アズナブル役の俳優の出で立ちだという。
ほかにも実写版ドラマもあった
「シャアの精悍なイメージとは大きくかけ離れ、アゴがパックリ割れたガッチリした男性が演じていて、ヘルメットとマスクをしているものの、どうしてもアゴに目がいってしまう(笑)。アメリカでガンダムの実写映画製作のニュースを知って、“ケツアゴシャア”を思い出したファンは多かったようです。映画ではそういった事態を避けるためにも、オリジナルのストーリーとキャラクターにできるだけ近づけたほうがいいような気がします」(前出)
実は、実写を取り入れたガンダムはゲームソフトだけでなくほかにもある。ガンダム20周年記念作品として、2000年に日本でも放送された『G-SAVIOUR』という、カナダとの共同製作の単発テレビドラマだ。
ガンダムシリーズの宇宙世紀上で、現時点で最も未来となる宇宙世紀0223年を舞台にした作品となっている(いわゆる「ファーストガンダム」は0079年)。前出のアニメ関係者は言う。
「プレステのケツアゴに比べれば、実写パートの違和感はあまりない作品でした。CGのクオリティも当時としては非常に高いものだと思います。ですが、肝心の主人公機のガンダムが地味で全体的にメリハリもなく、演出が薄い印象でした。ガンダムを見ているというよりも、別のSFアクションを見ているような感じです。そのためか、のちに派生シリーズも製作されず、ガンダム関連の書籍などで扱われる機会も少ない作品になってしまっています」
“ケツアゴシャア”と不名誉な名前を付けられた実写版ゲームソフトに、印象の薄い実写ドラマ。そんな中での実写版映画の製作発表。今度こそファンを裏切ることはできないプレッシャーを抱えていると想像する。
「ガンダムの実写というのは、鬼門のような印象がありますが、ゴジラシリーズのクオリティが非常に高いことから“今度こそは”という見方もあります。だけど、『名探偵ピカチュウ』に登場したポケモンたちも、一部ファンから“そうじゃない”という描かれ方をしたのも事実なわけで(笑)。ガンダムではどんなモビルスーツが描かれ、どんなキャストが登場するのか、期待せず待ちたいところですね」(前出)
たとえどんなにヒットしたとしても、原作を超えるのは難しいところ。壮大な「黒歴史」作品とならないことを祈る。
〈取材・文/渋谷恭太郎〉
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華原朋美への暴行容疑で記者逮捕、周囲騒然のパトカー出動「現場写真」
4月16日の午前、品川区路上で事情聴取をうける華原(目撃者提供)
4月16日の午前中、東京・品川区内の路上で複数の警察官に囲まれて事情聴取を受けるジャージ姿の女性は、歌手の華原朋美だ。
「報道によれば、華原さんはタクシーで移動中、後を追ってくる別のタクシーに気付き乗客の男を問いただしたところ、腕をつかまれたり肩を押されたりといった暴行を受けたそうです。加害者はどうやら週刊誌の記者だということです」(スポーツ紙記者)
現場に偶然居合わせた人物は、当時の状況をこのように語る。
「華原さんは警察官に対してジェスチャーを交えて状況を説明していました。加害者が乗っていたタクシーの後ろにもう1台、乗用車も止まっていたので、2台から追跡されていたようです」
’96年に小室哲哉のプロデュースにより『I'm proud』をリリースしミリオンセラーを達成した華原は、これまでも週刊誌をはじめ世間の注目を集めてきた。
「'98年に交際していた小室さんとの破局をきっかけに精神的に不安定になり、2度の活動休止を余儀なくされました。昨年9月に所属していた事務所を退社しましたが、その後はSNSで積極的に発信したりボイストレーニングを始めたりなど、歌手活動の再開に向けて動き出していましたね。今年3月には、配信ライブを開催したところでした」(芸能プロ関係者)
4月1日にはマツコ・デラックスと矢部浩之が司会を務める『アウト×デラックスSP』(フジテレビ系)にも出演し、赤裸々トークを披露。今回のトラブルは完全復帰と思われた矢先の出来事だった。
「‘90年代に一世を風靡した彼女は、今でも話題に事欠きません。活動再開したことで、各メディアも動向を注目しているのでしょう」(同・芸能プロ関係者)
窓口の人物が語ったこと
逮捕された記者は、彼女のスクープを追っていたのだろうか。華原の窓口を務める人物に問い合わせると、心配と安堵が混じった口振りでこう答える。
「会社側に事件の話が届いたのは午後4時ごろです。それまでは華原が1人で毅然と対応していました。詳細については確認中です。記者が来た目的はわかりませんが、彼女にとっても大事な時期なので、あまり大ごとにしたくないというのが本心です」
ようやく復帰の光が見えてきた華原。3度目の活動休止にならないことを願いたい。
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加藤浩次に杉咲花も、「改名芸能人」の運勢上げ下げ
かつて改名した芸能人(左から)杉咲花、加藤浩次、ヒロシ
お笑いコンビ「流れ星」が『流れ星☆』と改名したことを発表。コンビの不仲や、ツッコミ担当であるTAKIUEの離婚騒動などの“負のイメージ”を一新し、運気アップを図ることが改名の理由のようだ。
“運”に大きく左右される芸能界では、改名は珍しいことではない。お笑いコンビでは『さまぁ~ず』(元:バカルディ)や『くりぃむしちゅー』(元:海砂利水魚)が有名だが、もともと人気者であった彼らの、ちょっぴりふざけた改名騒動に当時は驚かされた。ますますの活躍ぶりを見る限り、改名の大成功例! といっていいだろう。
芸能界の改名は難しい?
しかしなかには、逆に運気を下げてしまう改名例もある。10万人以上の姓名鑑定を行い、有名人の改名相談にも多く関わってきた、日本姓名学協会会長のなかやまうんすい先生によると、
「なんとなくイメージを変えたくて、よく考えずに改名をしている例も多く見受けられる」とのこと。
「せっかく改名したのに、以前の名前のほうが運勢的によかったと思う例や、姓名学的に使わないほうがよい字を用いた例もよくあります。名前の文字が持つ力や、画数の霊力はとても強力。芸能人に限らず、名前は人の運命を左右します。みなさんが考えている以上に、名前は大きな力を持っているのです」
芸能人の改名例をなかやま先生に診断していただきながら、わたしたちがすぐに取り入れられる、名前の運気アップ法も聞いてみた。
【本名の読み方や、漢字を変える】
本名で活動し、すでに知名度や人気を得ている芸能人が、比較的気軽にできるのがこの改名パターン。漢字の一部や読み方などを少し変更するだけのケースもあり、気づかれないことも多い。印象を大きく変えることなく、さりげなく改名できるのが特徴だ。
■加藤浩二→加藤浩次
3月に、吉本興業とのエージェント契約が解除となり、今後の動向が注目される加藤浩次もこの改名パターンにあてはまる。'18年に、名を「浩二」から「浩次」へとひっそり改名していた。
「この改名は、残念ながらあまり大きな意味はありません。というのも、『二』を『次』に変えただけでは、内運がまったく変わらないからです。
内運とは、姓の最後の一文字と、名の最初の一文字の画数を合計した数のこと。内なる本当の性格を表す数字です。加藤さんの場合、どちらも『藤+浩』で、内運は32画となり、変化がありません。
このように、内運の末尾が0、2、4で終わる人は、少々変わり者で、何事も早合点しがちという共通点があります。加藤さんに関していえば、天狗になったり、暴言をはいたりという傾向が今後も続くことが心配されます。『かとうこうじ』という呼び名にこだわらず、思い切った改名をしたほうが、運が開ける可能性が高いですね」
お笑いコンビ・極楽とんぼで加藤の相方である山本圭壱も、本名の圭壱から圭一へ改名し、再び圭壱に戻した経緯がある。山本は未成年者への淫行疑惑で'06年に吉本興業を解雇され、約10年の自粛期間を経たのちに復帰。コンビとしての活動が少しずつ増えてきた矢先に、今度は加藤が事務所との“トラブル”に見舞われた格好だ。
「極楽とんぼの『と』というひらがなは、『止』がもとになっています。勢いが止まるという意味合いがあり、あまりいい文字ではありません。コンビ名も含めて、本格的な改名を検討したほうがいいかもしれませんね」
■伊藤麻衣子→いとうまい子
昭和のアイドル全盛期に人気を博した伊藤麻衣子。'95年にいとうまい子と改名して以降、徐々に再ブレイクを果たした印象だ。40代での早稲田大学入学や、最近ではロボット開発者としての活動も話題となっている。
「改名前の漢字名は、総運(氏名のすべての画数を足した数)が47画で、成功運の強い名前です。瞬く間に運勢が開花するいい名前ですが、内運が32画で、精神が不安定になりやすい一面もありました。
いっぽう、改名後は総運が15画となり、さらに最強の運勢へとパワーアップしています。ちなみに、ビートたけしさんも同じ15画。多才で、ビッグチャンスを得て大成功できる画数です。
ただし、いとうさんもビートたけしさんも、名前に『と(ト)』が入っていますね。前述したように、この字には『停止』という、あまりよくない意味合いがあります。運の強さに油断せず、十分注意が必要です」
■藤岡弘→藤岡弘、
最近は、ファミリーでのテレビ出演が目立つ藤岡弘、。50歳を過ぎて恵まれた子どもたちは、高校生から小学生までの4人きょうだい。仮面ライダーのイメージが強烈な藤岡だが、名前の最後に「、」をつけて改名していたことを、20年ほど前に明らかにした。
「名前の画数を増やしたくて、『、』や『。』を足すというケースがあります。藤岡さんや、お笑いコンビ・EXITのりんたろー。さんなどがいい例ですが、実はこの改名にはなんの意味もありません。なぜなら、姓名学において、読点や句読点は文字として認識されないからです」
記号を足して一画増やしたつもりが、実はまったく変わっていなかったという残念な結果に!
「総運34画の藤岡さんは金運に恵まれますが、努力や苦労が実りにくい、分裂悲運という傾向もあります。藤岡さんに限らず芸能人の方は、知名度の低下を心配するあまり、中途半端な改名となってしまいがち。せっかく改名をするなら思い切って変えたほうが、大きく運勢が開ける場合もあります」
【芸名→本名、本名→芸名】
■星田英利→ほっしゃん。
読点や句読点がつく芸名として思い出されるのが、お笑い芸人の「ほっしゃん。」。当初は本名の星田英利で活動していたが、ほっしゃん。に改名。その後、再び本名に戻した。現在はNHKの朝ドラ『おちょやん』に出演中で、俳優として飛躍を続けている。このように、芸名と本名を行き来する改名パターンもよく見られる。
「星田さんの場合、芸名の『ほっしゃん。』は12画で、波乱含みの運勢。才知に恵まれるものの、困難に見舞われて挫折が生じやすい傾向があります」
実際に、芸名での活動中には人気女優との不倫が噂され、引退騒動まで巻き起こるなどトラブルも目立った。
「本名の星田英利は総運32画で、“福の神”と呼ばれる吉画数。明石家さんまさんと同じです。企画力にあふれ、チャンスをしっかりモノにできる運勢ですが、色難もつきものの画数。女性トラブルには引き続き要注意です。」
■齊藤健一→ヒロシ
お笑い芸人のヒロシは、本名から芸名に改名して一気に大ブレイク! 最近では“ひとりキャンプ”の魅力を伝えるソロキャンパー芸人としての地位も確立。冠番組を持ち、著書も出版されるなど、順調な活躍ぶりだ。ブレイク前は、お笑いコンビ・ベイビーズのボケ担当として、本名の齊藤健一で活動。売れない時代が長く続いていた。
「改名後のヒロシさんは、8画となったことで強力な運勢を引き寄せています。旺盛な行動力を生かし、名声や財産を築きやすいとされる8画には、タモリさんやヒロミさんなど、お笑いの成功者が多いのも特徴です」
吉画数に加えて、ヒロシの名前の中には吉文字も隠れているそう。
「『ロ』という字は、すべてのひらがなとカタカナのなかで、いちばん運のいい文字。人との縁を上手に築いて、成功を収める力を持っています。人名はもちろん、企業名の中にこの字を使うのもおすすめ。ユニクロなどがいい例です。商売運などを引き寄せる力がありますよ」
【芸名→芸名】
縁起をかついでつけたはずの芸名を、さらに別の芸名に改名するというパターンも少なくない。デビュー後、いまいちパッとしない状態が続くような場合に、イメージ一新を図って改名を行うこともあれば、さらなる運気アップを狙っての改名もある。
■真矢みき→真矢ミキ
宝塚出身の女優、真矢ミキは、所属事務所の移籍に伴い、'15年に名をみきからミキへと改名した。
「気になるのは、どちらの名前にも、縁起のよくない『き(キ)』の字が入っていること。この字は、『あと少しで体に刃が届く様子』を表す、漢字の『幾』がもとになっています。
名前に『き(キ)』があると、トラブルや事故に見舞われやすい運勢になってしまいます。真矢さんの場合は、あまり意味のない改名だったといえそうです。呼び名をどうしても変えたくないのであれば、せめて漢字に改名することをおすすめします」
■アンドレ・カンドレ→井上陽水
ミュージシャンのなかには、風変わりな芸名が多い。井上陽水のデビュー当時の名は、アンドレ・カンドレ。その後、本名の井上陽水(あきみ)を元にした「井上陽水(ようすい)」という芸名に改名した。
「改名後は総運28画で、つかんだ栄光が長く続きにくい傾向が。ただし、芸能人やスポーツ選手、研究者など、ひとところにとどまらずに移動が伴いやすい職業に就くと、才能を上手に生かせます。
注意すべきは『陽』の字。男性器を象徴する字で、男性の名に使うと、女性トラブルに見舞われやすくなります」
陽の字は「陽子」など、昔から女性にもよく使われる。2020年度の名前ランキング(明治安田生命調べ)では、女の子で最も多かった名前の表記が「陽葵(ひな)(ひなた)」という結果となったが――。
「男性器の象徴である『陽』が名前にある女性は、気の強い男っぽい性格となり、ダメ男が寄ってきやすい運勢です。たび重なる夫のトラブルに悩まされている南野陽子さんも、この傾向にあてはまっています」
■梶浦花→杉咲花
現在放送中のNHKの朝ドラ『おちょやん』で、主演を務める杉咲花。10代で日本アカデミー賞助演女優賞を受賞するなど、若手女優の中で大きな存在感を放っている。
子役時代の芸名は、梶浦花。母親である、歌手のチエ・カジウラの姓がもとになっていると思われる。中学生になって本格的に女優活動を始めるにあたり、現在の芸名となった。
「どちらもいい名前です。改名にあたり、総運が32から26に変わったことで、さらに個性がはじける運勢となっています。ただし、異性問題が起こりやすい数字でもあるので、注意が必要です」
花、さくら、すみれ、桃子など、花にまつわる名前は名づけの定番だが、運勢的にはどうか。
「植物、特に花にまつわる名前は、栄光の期間が短くなってしまうという傾向があります。努力が実り、咲き誇っているときは人一倍輝くけれど、それが長続きしないことが多いのです」
芸能人がいかに名前を大切にしているか。そして、名前がいかに人の運命を大きく左右するかということが、さまざまな改名事情から見えてきたのではないだろうか。なかやま先生によると、最近はキラキラネームの流行などにより、名づけに後悔した一般人からの改名相談も増えているそうだ。
読者のなかには、ここで挙げた改名例に照らし合わせ、「自分は運勢的によくない名前だったのか」と心配になった人もいるかもしれない。しかしなかやま先生は、戸籍の名前にこだわる必要はないという。
「名前の漢字を少し変えたり、ひらがな表記にしたりすることで、総運の数字が変わり、運が開けることがあります。公的な書類はともかく、日常では新しい名前の表記をどんどん使ってみましょう。戸籍の名前はそのままでも、十分運気アップにつながりますよ」
また、SNSで使うハンドルネームの改名もおすすめとのこと。
SNSのハンドルネームで気をつけることは?
「毎日のように使うSNSだからこそ、いいハンドルネームをつけることがとても大切です。特に注意すべき点は、
●総運、内運ともに、末尾の数字が0にならないこと
●危険な暗示のある6つのかな文字「き、キ、と、ト、ル、サ」を使わないこと
のふたつ。姓名判断の本などを参考に、縁起のいい漢字などを使うのもよいでしょう」
名前がもつ力を上手に使って、運を引き寄せよう!
チェック!
●総運:姓と名のすべての画数を足した数字。一生の運勢を暗示する、姓名判断においてもっとも重要なもの
●内運:姓の最後の一字と、名の最初の一字の画数を足した数字。内なる性格を表す。
●画数の数え方:姓名判断では、略字ではなく「正字」を用いる。たとえば、「沢」は「澤」の17画。「広」は「廣」の15画として数える。そのほかの字についても、漢字辞典などで正しい画数を調べよう。
なかやま・うんすい●40年以上にわたって10万人以上の姓名を鑑定。現・千葉ロッテマリーンズの井口資仁監督など、多くの著名人の改名に携わる
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平野レミ、最愛の夫の死…“抜け殻の日々”を支えた家族の絆
誰より手料理を喜んだ夫の影響で、歌手から料理の道へ。レミさんが考案するレシピには、にぎやかな家族との思い出がいっぱい! イラストレーターで最愛の夫、和田誠さんを亡くした後、抜け殻のようになったレミさんを支えたのは、息子や本音をぶつけ合える嫁、孫たちの存在だった――。エッセイ集『家族の味』(ポプラ社)に温かな思い出の数々を綴ったばかりのレミさん。料理で結ばれた強い絆と、家族だけが知る素顔とは?
平野レミ
47年間連れ添った夫・和田誠さんを亡くして
料理愛好家の平野レミさんの1日は、丁寧にお茶を淹れることから始まる。
「お父さん、乾杯!」
和田誠さんが穏やかにこちらを見つめる写真の前に茶碗を置く。手に持った茶碗をカチーンと合わせると、レミさんは思いつくままに話しかける。著名なイラストレーターで最愛の夫だった和田さんが1年半前に83歳で亡くなって以来、毎朝の日課だ。
「ちゃんと湯冷ましをしてちょっとぬるめにして、本当に、おいしい、おいしい、おいしーいお茶を淹れてね。だってね、和田さん、最後は肺炎になっちゃって水も飲めなかったんだから。それで骨になってうちに帰ってきたときに、大好きだったお茶を淹れて“はい”ってあげたの。そうしたら、和田さんがいつもと同じように“うん”って言ったのよ。和田さんの骨もちょっとカリカリって食べちゃったからさ。もう、一心同体よ。私の身体のどこかに和田さんが入ってるのよ。うれしいね」
テレビで見るまんま、テンション高めの声に早口で息つく間もなく話すレミさん。不思議なことは「ほかにもあった」と興奮ぎみに続ける。
2015年からNHKで『平野レミの早わざレシピ! 』に出演。ビックリするような創作料理を毎回たくさん作ってきた。今年2月に第10弾が放送されたが、その収録直前のこと。
「お父さんに、もうすぐ、たった1人で1時間の生放送をやるんだと話したら、放送の前の晩に夢に出てきちゃったの。それまで出てきたことないのにさ。不思議よねー」
無口だった和田さんは夢の中でも何も言わずに笑っているだけだったが、励ましてくれていると感じたそうだ。無事に生放送が終わった翌朝。レミさんはお茶を淹れて、こう報告した。
「お父さん、やったよー! 応援してくれて、ありがとうねー」
家の中には仏壇や線香は置いていない。
「和田さんに仏壇は似合わないと思って。チーンってやったらさ、本当に死んじゃったみたいじゃない」
その代わり、仲よしだった写真家の篠山紀信さんが撮ってくれた和田さんの写真の周りは、いつも色とりどりのお花であふれている。今でも、ふとした拍子に涙がこぼれる。「昨日もね」と話し始めたのは、ある商品のパッケージ作りが終わった直後のエピソード。
「早くうちに帰って、私の顔写真が載った商品パッケージをお父さんに見せようと思ったの。その瞬間、ああ、和田さん、もういないんだと思ったら、涙が出ちゃった。スタッフもみんな目が真っ赤になっちゃって。和田さんが生きていたときはいつもそうしていたから」
レミさんにとって和田さんは47年間連れ添った夫、2人の息子をともに育てた父親というだけではない。
結婚当初はただ料理好きな主婦だったレミさんを、料理愛好家の平野レミとして世に送り出してくれた、かけがえのない存在だ。
「今までは和田さんの手のひらにのっかって、自由自在に好きなようにやってきたけど、その手のひらがさ、土台がなくなっちゃったのよ……。私は、これからが地獄よ。今までが幸せだったから。あんまりね、いい人と結婚しないほうがいいかもね。死んだ後がたまらないから、本当に」
しんみりとした口調で話すレミさん。和田さんが亡くなった直後の嘆きぶりはどれほどだったろうか。
当時のレミさんの様子を話してくれたのは、食育インストラクターの和田明日香さん(33)。明日香さんは、レミさんの次男でCMプランナーの和田率さん(41)と結婚して11年。10歳を頭に3人の子どもがいる。
「お義父さんの写真の前にずーっといて、お義父さんの書いたメモとかをずーっと眺めていて。お義母さんはもう、本当に抜け殻というか、ものすごい喪失感で、何日もご飯も食べないし、水も飲まないし。
心配になるくらいの様子だったので、しばらくはうちに泊まってもらって。私も同じ年に実母を突然亡くしていて、何も話さなくても気持ちがわかるので、よくお義母さんと2人で抱き合って泣きました。今でもたまに2人でボロボロ泣きながら、お酒を飲んでいます」
明日香さんにとってレミさんは姑だが、レミさんはまったく裏表がなく、本音と建前を使い分けるのが苦手なため、常に本心でぶつかりあえる間柄だという。そんな明日香さんから見た、レミさんと和田さんはどんな夫婦だったのだろうか。
「いつもお義母さんが100しゃべったら、お義父さんは0.5くらいなんだけど(笑)、なぜかバランスが取れていて。お互いがお互いのことを大事に思って尊敬しあっていて、本当に素敵な夫婦でしたね」
結婚の日に焼いたステーキ
レミさんが結婚したのは1972年。シャンソン歌手としてテレビで歌うレミさんを見て、和田さんがひと目惚れしたのが始まりだ。
当時、レミさんは久米宏さんとラジオ番組に出ていた。すでにイラストレーターとして活躍していた和田さんは、友人の久米さんにレミさんを紹介してほしいと頼んだ。だが、レミさんの自由奔放な発言に振り回されていた久米さんの返答は「やめておきなさい」。それでも和田さんはあきらめず、ラジオ番組のディレクターに頼むと「紹介してもいいけど責任は持ちませんよ」とまで言われた。
一方、レミさんにとってはまるで知らない人からの突然のアプローチだ。どう感じたのだろうか。
「私も、いろんな男の人と付き合ったけど、和田さんは全然違うの。大地にどっしりと立っている感じがして、全然揺らがないの。とっても自信に満ちているんだけど、偉そうな感じはしない。和田さんは無口だから、そんなにしゃべってないんだけどさ、 “あ、この人いいな”と思っちゃったのよ。“結婚しよう”と言うから、私も慌てて、“しましょう、しましょう”って。アハハハハ」
10日後には、本当に結婚してしまったのだから、よっぽど気が合ったのだろう。結婚式はせず、和田さんのアパートで『ウエディング・マーチ』のレコードをかけ、シャンパンを開けてレミさんがステーキを焼き2人で食べた。
常温に戻した肉の片面に塩、コショウを振る。熱くしたフライパンに油をひいて、肉を焼く。焼き加減を10とした場合、塩、コショウのついていない面を先に7焼いて、裏返して3焼く。最後に醤油をパッとたらし、バターを少量のせてできあがりだ。
近所のスーパーで買ったごく普通の肉が、レミさんの母直伝の焼き方で、天下一品の味に変身!
「おいしい」
満足そうに食べた後、和田さんがこうつぶやいた。
「死ぬまでにレミの料理があと何千回食べられるかなあ」
その言葉を聞いたレミさんの心にスイッチが入る。
「あ、この人は食べることに命をかけているな。そう感じたから、よし、私も頑張って、お料理を作っちゃおうと」
食卓にたくさんの料理を並べると、和田さんは必ず、食べたことのない料理から箸をつけた。そして、「おいしいけど、ちょっとコクが足りないかな」など感想を口にする。
「やさしいのよねぇ、言い方が。“こんなマズいものダメだ”なんて言われちゃったら、“もうやんねえよ”ってなるけど、いつも心から、“おいしい、おいしい”って食べてくれたからね。歌の仕事は少しずつ減らしていって、どんどんどんどん、料理の世界にのめり込んでいっちゃったー」
小学生で初めて作った野菜うどん
実は、レミさんは子どものころから大の料理好き。自然豊かな郊外で、トマトやナス、トウモロコシなど、野菜が成長する様子を間近で見て育った。
父の平野威馬雄さんはフランス文学者で詩人。家には父が主宰する詩の会の仲間が多いときは30人ほど集まり、料理上手な母がもてなしていた。兄と妹はあまり料理に興味を持たなかったが、レミさんは母の横でよく手伝っていたという。
「お母さんがさ、でっかい鍋でカレーを作ってて、私が“早く、早く”って言うと、“カレー粉はよーく炒めないと粉臭さが取れないから、焦っちゃダメなのよ”と教えてくれて。ステーキもいっぺんに何枚も焼くと、フライパンの温度が下がって肉汁が出ちゃうから必ず1枚ずつ焼くのよって、30人分のステーキを丁寧に焼いていた」
包丁は危ないと子どもには使わせない家庭もあるが、レミさんの母は何でもやらせてくれた。レミさんがクッキー作りをして台所を粉だらけにしても、こう言って笑っていたそうだ。
「あらあら、今日もまた派手に散らかしたわね、レミちゃん」
初めて1人で料理を作ったのは小学校高学年のころ。学校から帰ってきて、お腹がすいたが誰もいない。庭になっていたトマトをもいできて、台所にあったピーマン、ベーコン、うどんと一緒に煮込んだ。味付けは塩と黒コショウをガリガリ。
「それが本当においしくてねー。算数なら1+1+1+1は4だけど、料理は足していくと100にも1000にもなっちゃう。しかも、作っているときはいい香りがして鼻でも楽しめるし、ジージー炒める音を聞いたり目で見たり、五感で楽しめるのが料理。あんなに楽しいものはないって学校の勉強より断然楽しかったな」
ガキ大将だったレミさんはよく近所の子を引き連れて、山の中を歩き回った。かくれんぼをしていて、ピカピカ光るきれいな棒を見つけ、つかもうとした途端、蛇だとわかったことも。藁が積まれてベッドみたいになっている上に飛び乗って、夕方まで昼寝をすることもあった。
中学まではのびのび育ったが、高校は進学校の都立上野高校に。
「いとことか、みんなそこだから、私も入るものだと思って、無我夢中で勉強したら入っちゃったのよー。中学の校長先生がさ、うちの父親に“いやあ、まぐれですね”って、言ったって(笑)」
上野高校の近くには東大がある。教師たちはみな東大を目指せと言い、生徒たちは昼休みも勉強している。ピリピリした雰囲気になじめなかったレミさん。
「学校をやめたい」
高2のある日、父の前に正座して恐る恐る切り出した。すると父はあっさり承諾。
「いいよ。やめろ、やめろ」
理由も聞かれなかった。
「こう言われたら、ああ言おうとか、いろいろ考えていたのにさあ。あのときの親への感謝というか、うれしさは忘れられないね」
高校の代わりに、父にすすめられたのは文化学院。自由な教育を掲げ芸術家や作家などを輩出した専修学校だ。レミさんは文化学院に通いながら、声楽家の佐藤美子さんにも師事し、シャンソンの勉強を本格的に始めた。もともとレミさんは歌うのが大好きで、父を訪ねてくる外国人客が持ってきたシャンソンのレコードを聴いては、マネをして庭で歌っていた。
文化学院在学中に、当時、銀座にあった日航ホテルの『ミュージックサロン』のオーディションを受けて合格。シャンソン歌手としてデビューした。テレビやラジオにも出るようになり、和田さんに見初められたわけだ。
家族5代で受け継ぐ「牛トマ」
結婚して3年目の'75年に長男、'79年には次男が生まれて4人家族に。息子たちの主治医だった小児科医の毛利子来さんから「食べたものは3か月後には身体の中で血や肉になるから、1回1回何を食べるかが大事ですよ」と教わり、無農薬野菜や有機卵を取り寄せるなど、食材にも気を配るようになった。
和田さんの友人が家に来ることも多く、レミさんは手料理でもてなした。ある日、遊びに来た作曲家の八木正生さんから『四季の味』という雑誌にリレー・エッセイを書いたので、次号はレミさんにお願いしたいと指名された。
「八木さんってメチャメチャグルメでさあ。トリュフを食べにパリから小型飛行機でどっかの村まで行ったなんてレベルの人なの。私なんて、八木さんたちがうちに来ると、冷蔵庫の中の食材でチャッチャッと作ってごちそうしていただけだから、断ったの」
どうしてもと頼み込まれ、レミさんは1回だけのつもりで、いつも作る料理のことを書いた。「素人だからこそ思いつく家庭の味」として写真付きで掲載されると大好評。次第にほかの雑誌からも依頼が来るようになる。
「本っ当にね、こんなに楽しい人生が開けたのは八木さんがチャンスを作ってくれたおかげ。どんどんどんどん料理の仕事が来るようになってから、八木さんから電話がかかってきたことがあって、お礼をいっぱい言ったのよ。それからしばらくして、八木さんが急死しちゃった……。
だからさ、心で思ったこと、感じたことは、とりあえず言っちゃったほうがいいみたい。何が起こるか人生、わからないからね。和田さんにも、“好きだ、好きだ”っていっぱい言っちゃったからね、私」
テレビの料理番組に出たのは、NHKの『きょうの料理』が最初だ。そのときは「牛トマ」を作った。フランス系アメリカ人の父方の祖父から受け継いだ家族の味だ。熱湯で肩ロースの薄切り牛肉200グラムをしゃぶしゃぶしたら取り出す。熟れたトマトを5、6個湯むきして大きめに切り、オリーブ油を熱したフライパンに入れたら炒める。トマトに火が通ったら、肉を戻し、塩、コショウしてできあがり。
レミさんは説明しながら、突然、アカペラで歌い出した。
♪トーマト、トマト、トマートー。赤ーく酸っぱい……。
「私がトマト大好きだから、和田さんが歌を作ってくれたの。牛トマは真夏の真っ赤に完熟したトマトで作ると、最高にうまいね。今じゃ小学生の孫が作っているから家族5代、100年よ。私が死んじゃって姿形は何にもなくなっても、味が伝えられていくっていいことよね。味で家族がつながって、絆が固く結ばれるみたいで。私は“ベロシップ”と呼んでいるの」
番組の中でも、いつも家の台所でやるように、トマトを手でぐしゃぐしゃとつぶした。すると、放送後に抗議の電話が何本も!
「あの下品なやり方は何だ」
ところが、数日後に新聞でこんな記事が出て、風向きが変わる。
「平野レミの料理はユニークで面白い」
テレビCMの出演も決まり、肩書に悩んでいると、和田さんがこう提案してくれた。
「レミは料理学校にも行ってないし、料理愛好家じゃないの?」
子どもに手加減しない母の味
料理はとても手早いが、それ以外の家事は苦手なレミさん。仕事が忙しくなると家の中はあちこちに物が散乱し、取り込んだ洗濯物が山積み。
次男の率さんは子どものころ、その山にダイブして遊んでいたと笑う。
「うちの母は忙しかったので、学校行事に関することは、手が回らないことがよくありました。例えば、給食のお金が払われていないと先生に呼び出されて恥ずかしい思いをしたり(笑)。遠足の持ち物も子ども任せだったので、自分で友達のお母さんに電話して聞いたり。まあ、でもそれが当たり前だったし、おかげでずいぶん自立したんじゃないかな」
率さんが今でも鮮明に覚えているのは夕飯の光景。テーブルいっぱいに料理が並び、席に座るのは父と兄と率さんのみ。レミさんはキッチンで料理を作り続けていた。
「できたてを食べさせることに、命をかけていたんでしょうね。毎日、毎日、いろんな創作料理がわんこそばみたいに次々と出てくるので、食卓はいつもにぎやかでした。
クミンや五香粉など、子どもが好まないようなスパイスを手加減なく使った料理がよく出てきたので、普通の子どもより舌は肥えていたかもしれません。好き嫌いなく育ちましたが、料理の実験中に変わったものを味見させられて、“ウエッ、なんじゃこりゃ! ”ということも、よくありました(笑)」
夕食が終わるとキッチンには食器が山積み。翌朝、それを和田さんが洗うのが日課だった。ゴミの分別をしてくれたのも、和田さんだ。
仕事から帰ってきた和田さんが玄関で靴も脱がずに「夕飯はどこか食いに行く? 」と誘ってくれることもあったと、レミさんは言う。
「私が昼からずーっと料理の仕事をしていて疲れているときなんか、すぐ察してくれてさ。で、外で食べて家に帰ってくると“やっぱりレミの料理のほうがうまいよ”って言われちゃうのよね。あーあ」
和田さんへの思いがこみあげてきたのだろうか。レミさんはため息をついた。
普通の家庭とは一味も二味も違う和田家だが、レミさんもフツーの母親と同じような心配をしたことがある。
長男の唱さんが高校生のときのこと。試験前でもギターに夢中な息子に、レミさんは「勉強しなきゃダメよ」と小言を言った。静かになったので様子を見に行くと、ギターを抱えたまま眠っている。
「心配になって和田さんに相談したら“放っておけば”と。愛を持って子どものことを信頼していれば、そんな変なことはできないよって」
その後、唱さんは音楽の道に進み、現在は人気バンドTRICERATOPSのボーカル&ギターとして活躍中だ。あるとき、夫にこう言われた。
「ほら見ろ、あのときギターを取り上げてたら好きな仕事に進めなかったんだよ」
4歳下の率さんは放任主義で育てられた。そのため中学生になると逆に危機感を覚え、自分から勉強を始めて塾にも通ったと話す。
唯一、レミさんが口うるさかったのは“食”について。外で食べ物を買うときは「原材料を見て食品添加物の少ないものを」と教えられ、率さんが出かけるときは毎回、「ちゃんと野菜を食べなさい! 」と送り出された。そんな厳しい食育を受けてきた率さんは、今年度の食学親善大使に任命されている。
「野菜を食べないと血液がドロドロになるとか、母にずーっと呪文のように言われ続けたので洗脳されちゃって(笑)。自分が親になった今は、子どもたちに“野菜を食え”って言ってます。それ以外は放任主義で育てていますよ。うちの場合、育て方と何を食べさせるかっていうのは、すごくわかりやすく脈々とつながっていますね」
パンツを脱ぐより恥ずかしいこと
レミさんの料理愛好家としてのキャリアは40年、これまで発表したレシピは数え切れない。意表を突く料理も多いが、実際に作ってみると簡単で本当においしい。
特に大きな支持を得たのは、時短料理の草分けともいえる「食べればシリーズ」だろう。作り方は手抜きでも食べると味は同じという楽しい料理だ。
シリーズの第1号は「台満餃子」。お客を呼んで水餃子パーティーをやる予定だったのに帰宅時間が遅くなり、1個ずつ包んでいたら間に合わないと思いついた。
餃子の具を大きいハンバーグ状にして耐熱皿に広げて電子レンジでチン。お湯を沸かし、餃子の皮がくっつかないように油をたらして1枚ずつ入れる。浮いてきたらすくって、具の上にのせる。香菜を散らし、酢、醤油、ラー油をかけて完成。
味はまさに水餃子で、みんなでつついて食べるとパーティーは大盛況。お客の1人が「怠慢だね」と言ったのを聞いた和田さんが、漢字を中華風に台満と変換して名づけてくれた。
「ごっくんコロッケ」(発表当時はプレコロッケ)は、お腹をすかせた幼い唱さんに、「コロッケが食べたい」とねだられて急いで作った、成形しないコロッケだ。
キャベツの千切りを大皿に盛って、ジャガイモを電子レンジでチン。その間にひき肉と玉ねぎのみじん切りを炒めて塩、コショウを振り、ほぐしたジャガイモと一緒にキャベツの上にのせる。コーンフレークを崩してパラパラかけ、ソースをかけて完成。
「ごっくんして、帳尻があっていればいいじゃない。主婦の料理は、そういうふうに自由にやっていいのよ。キッチンに立つ時間も短くてすむし、賛同を得ちゃった」
ほかにも、たこ焼き、小籠包など「食べればシリーズ」はどんどん増えて、今では30品もある。
レミさんは料理学校に通っていないので、いわゆる料理の常識にはとらわれない。だからこそ生まれた創作料理も多い。
例えば、NHK『平野レミの早わざレシピ! 』で紹介した「ホタテどっち」。普通、ホタテは旨みが逃げないように片栗粉をつけて炒める。だが、レミさんはホタテには何もつけず、輪切りしたエリンギに片栗粉をつけてホタテの旨みを吸わせるようにした。その結果、口にしたときにどっちがホタテかエリンギかわからなくなる不思議な料理が生まれた。
レミさんのマネージャーの奥田暁美さん(54)によると、本番前日までは普通にホタテに片栗粉をつけていた。それなのにレミさんが「絶対、逆だ」と言い出し、スタッフみんなの反対を押し切って、本番直前のリハーサルで試作。レシピを変更したのだという。
「ああ見えて、平野はすっごく努力家なので、納得できなかったりおいしくない料理を公開するのは“パンツを脱ぐより恥ずかしい”と言って、どんどんブラッシュアップするんですね。人に何と言われようが、自分の舌を信じて、自分のやり方を通すので、手伝う人間にとっては、とても大変ですが(笑)」
ときには生放送で失敗をしてしまうことも。先日も長ネギを1本、そのまま鍋に放り込んでしまい、慌てて切る様子がツイートされてバズったばかりだ。
「本当に平野は気短で、せっかちで、目の前のことしか見えていないので、自分ではネギを切ったと思い込んじゃったんですよ。よく作りながらこぼしたり、散らかしたりもするけど、あれもわざとハチャメチャにしているわけじゃなく、いつもどおりやっているだけなんです。そういう飾らないところが“うちのお母さんそっくりだ”と言われたり、共感されるんでしょうね」
2019年10月に和田さんが亡くなって、まもなくコロナ禍に。巣ごもりで料理に目覚めた人も多いせいか、自粛期間中もレミさんへの依頼は途切れず、毎日のように仕事をしていた。今年3月には和田さんとの思い出や家族に伝わるレシピ満載の単行本『家族の味』(ポプラ社)を出版した。表紙は和田さんが描いたレミさんの笑顔のイラスト。和田さんと初めて夫婦で登場した週刊誌の対談も転載されている。
こうして忙しく仕事を続けることで、救われている面もあるという。
上野樹里がつないだ母子の絆
家族の存在も、大きな心の支えになっている。
ある日、レミさんが知人に「思い出だけじゃ、つかむものがなくて悲しいのよね」と嘆くと、その人はこう励ましてくれた。
「いるじゃない。息子さんが。息子さんの半分は和田さんでしょう」
レミさんがその話を長男の唱さんと妻で女優の上野樹里さんにすると、樹里さんが夫にこう言った。
「ほら唱さん、手を出して。レミさんも」
唱さんと握手をしながら、レミさんの脳裏には幼い日の息子の姿が浮かんだ。
「手をつないで散歩したときは、やわらかで小さかった唱の手がさ、ギターを弾いてしっかりした手になっちゃって。その子が私の手をギューッと握ってくれてる。思い出って、つかめるねと思ったら、何かうれしくなっちゃって、心のつかえがストンと取れちゃったのよ」
レミさんが風邪をひいたとき、樹里さんが鍋いっぱいのうどんを作って持ってきてくれたこともあったという。
これまで和田さんを喜ばせたくて、たくさんの料理を作ってきたレミさん。夫の死で張り合いをなくし食が乱れがちなレミさんを見かねて、明日香さんは週の半分くらいは晩ご飯に呼んでいると話す。
「放っておくと食べないですもの。変な時間に焼き芋とか食べて、“お腹減らない”と言って。それがうちに来ると、すんごい食べるんですよね(笑)。
お義母さんと夫は、2人ともせっかちで負けず嫌いでズバズバ言い合うから、ワアーッとケンカみたいになることもあるけど、翌日は平気で仲よくしゃべっていますよ。夫は“お母さん、面倒くさい”とか言うけど、誰よりもお義母さんのことを気にかけて、ケアしているなと思います」
レミさんはせっかちなだけでなく、とても心配性で家族のことは放っておけない。孫の下校が少し遅いだけでも、通学路まで見に行ってしまう。明日香さんの首にしこりができたときは、「すぐ病院の予約をして。予約が取れるまで帰らない! 」と言って、本当にその場を動かなかったそうだ。
「もう、どこを切っても愛があふれてくる、本当に愛情たっぷりの人です。特に孫には甘々で、“ママには内緒だよ”と言いながら、どれだけ怒られるようなことをさせているか(笑)」
レミさんは独身時代を第1ステージ、結婚生活を第2ステージ、1人に戻った今を第3ステージと呼んでいる。
第3ステージでやりたいことを聞くと、「全然、欲がないのよね」と少し考え込んだ。
「ただ、与えられたことを一生懸命やってきただけで、目の前のことをクリアして、クリアして。それでいいの。欲もないし、野心もないし。これからは、ちょっとのんびりして、孫と遊んで。いつまでも楽しく料理をできればいいのよ」
「そのためにも大切なのは、食、食べることですね? 」
そう返すと、レミさんは大きくうなずいた。
「そう! いいことおっしゃいます。やっぱり、ちゃんと食べて健康な身体でいないとさあ、楽しいことも、楽しめなくなるからね。あとは、子どものため、嫁のため、孫のためにも元気でいないと。迷惑なんかかけたくないからね」
レミさんのキッチンは庭に面した南側にある。家を建てるとき、和田さんが「いちばんいい場所を取っていいよ」と言ってくれ、幼い息子たちが庭で遊ぶ姿を見ながら、料理を作ってきた。
さまざまな思い出の詰まったキッチンで、今は自分のために料理を作っている。
「和田さんは肉が大好きだったけど、今はステーキはあんまり焼かなくなっちゃったかな。でも、お刺身はたくさん食べようと思って。酵素がいっぱいだからね。あと生野菜ね。今朝もサラダにアボカド入れて目玉焼きものせて、こーんなどんぶりにいっぱい食べちゃった(笑)」
たくさん食べて、たくさん話して、レミさんは今日も元気だ。
取材・文/萩原絹代(はぎわら・きぬよ)
大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。