〈序〉月の無い夜に
いつも私の拙い小説を読んでくれる、親愛なるSへ。
「救いの無い物語なんて存在しないよ」
俺の隣で月の無い夜空を見上げ、小説家はそう言った。
周囲は耳を圧するほどの静けさに満ちていた。初春の空気は冬の名残を孕んで冷たく澄み渡り、呼吸をするたびに肺の奥底まで神経が研ぎ澄まされていく気がした。
岩影に停めた我々の馬車馬が時折小さく嘶く他に、周囲に生命の気配は無い。昨夜俺たちを包んでいた町の灯りは遙か後方に遠ざかり、眼前には荒涼とした荒野が続いている。夜の彼方に辛うじて、目指す山々の陰影が見えた。
まるで、この世界に生き残っているのは俺とこいつだけなのではないか。
そんなことさえ思える夜だった。
「そんなものは、もはや物語ですら無い」
顔を上げたまま、小説家はそう付け加えた。奴が夜空の何を見つめていたのかは分からない。そもそも曇天の夜空には暗闇しか広がっていなかった。奴の横顔は揺らめく焚き火の光陰のせいで憂いの表情にも、はたまた微笑を浮かべているようにも見えた。
「現実は物語なんかと違うだろう」
俺はそんな分かりきったことを言葉にしてみた。だが、小説家はすぐに首を左右に振る。
「そんなことは無いさ。誰の人生だって物語になり得るんだ」
「誰の人生だって悲劇になり得るぜ」
言い返すと、小説家は呆れたように吐息をついた。
「おまえがこれまでどのような『悲劇』を読んできたのかは知らないが、厳密には『悲劇』にも『救い』は存在しているんだよ。ゆえにカタルシスが生まれるんだ。救いが何一つ存在しない悲劇なんて、味のしない乾ききったパンと一緒だよ。涙どころか涎すら出ない」
小説家らしい機知に富んだ言葉に、今度は俺が吐息をつく。
「生憎、本はあまり読まないんでね」
正確には、全く、なのだが。
「ならば生き方を変えるべきだ。本を読むことはこの世界全てへの見識を深めることでもある。決して無駄にはならんよ」
「見識、ね」
俺の口元は知らず知らずのうちに皮肉げに歪んでいた。もし此処に鏡があれば、そこには俺が最も目にするのを嫌う表情が映っていたことだろう。すぐに顔をしかめ、吐き捨てる。
「今更、何を知れって言うんだか」
どれだけ知っても、知ろうとしても、予想の付かない出来事はいつだって最悪の形でやってくる。それは俺の経験則だ。
小説家が問う。
「嫌いなのか?」
「何がだ」
「この現実、世界そのものが、さ」
「嫌いだね」
正直な気持ちを口にする。だが奴は否定してくる。
「違うな、おまえが嫌っているのは世界じゃない。自分自身だよ」
知った風な口を、と俺が言葉を放つ前に、小説家は言ってのける。
「世界は誰も否定しない。この世界は私とおまえを肯定する為にあるんだよ」
あくまでも自信ありげに、まるでそれこそが真理だと言わんばかりに。思わず笑ってしまった。
「十代の前半にでも聞きたかった言葉だな」
乾いた笑いに乗せて、俺は紫煙を吹く。
「それなら、少しは心が動いたかもしれない」
残念ながら、奴の警句然とした言葉は古新聞の見出しほども俺の感情を揺さぶってはくれなかった。その言葉を信用するには俺は多くの罵声を聞きすぎていた。
「ひねくれた男だな、おまえは」
小説家は俺を見て苦笑したが、俺は今度は笑わなかった。少しだけまじめな顔で訊いてみる。
「アンタは本気でそう思っているのか」
躊躇の無い頷き。
「思っているよ」
「何故、そう思える?」
「最後の最後まで追い詰められても、出来れば私は前を見ていたいんだよ、きっと」
そう言って、小説家は再び曇天の夜空を見上げる。まるで其処に月の灯りでも探すかのように。
―――何故、こいつはそう思えるのだろう。
そんな疑問は当然のように俺の中に湧いてきた。
先ほど聞いた小説家の身の上話は、お世辞にも幸福なものではなかった。それはどちらかと言えば悲劇と称して然るべきものだったし、憎悪に身を焦がして自らの人生を放り投げてしまっても不思議ではない類の過去だった。
それなのに、こいつは揺るぐことなく此処にいる。小説家としての地位を得て、その実力すら認められ、今なお意欲的にその人生に臨んでいる。その有り様が俺には不思議で仕方がない。少なくともそれは、俺には出来ない生き方だ。
だが、いや、だからこそ、少しだけ分かったこともあった。
こいつはきっと、俺とは全く違う人間なのだ。
生半可な逃走と中途半端な責任感、自己嫌悪の無視に徹する夜明け―――こいつはそんなものとは無縁の世界で生きてきたに違いない。
最後の選択を迫られたとき、そこで白と黒のどちらかを選ばねばならないとしたら、こいつは間違いなく白を選ぶことができる人間だ。
俺はきっと、最後までどちらも選ぶことはできないだろう。
「そんなに自分を卑下するな」
いつの間にか俯いていた俺に、小説家の言葉がかかる。
「おまえは自分が思っているほど、矮小な人間ではないよ」
見透かしたような言葉に、俺は舌打ちを漏らした。
「心温まる言葉だな」
俺のそんな自嘲に、小説家は含み笑いを漏らした。
「私が唯一おまえに好感を持っているのは、そういう風に決して自分自身を憐れんでいない点だよ。その点だけは好意に値する」
「おまえに好かれたところで」と返そうとしたが、呑み込んだ。
小説家が優しげな微笑を浮かべて、俺の瞳を覗き込んでいたからだ。
「だから少しでも、そんな自分を誇りにしなさい」
そう、彼女は告げる。
「自分を憐れまないというのは、自分の目がまだ前を向いている証拠だよ。少しでいい。そんな自分だけは、ちゃんと認めてあげなくちゃいけない」
その言葉は、不思議なほどすんなりと俺の胸の中に収まった。何処かで聞いたことのある、ありふれた言葉だ。その筈なのに、こいつが言うと何故か妙な説得力があった。
俺は顔を背けて立ち上がり、無言のまま荷物から寝袋を一つ取り出した。視線を合わせずにそれを彼女へと放る。なんだか今は、顔を見られたくなかった。
「明日の昼前には目的地に着く。今日はもう寝ろ」
無愛想に言って、俺は自分の身体に毛布を巻いた。
「ああ。そうしよう」
小説家はいつものように淡泊に答えて、受け取った寝袋にくるまった。就寝の挨拶が無かったのは、昨夜と同じだ。
俺は毛布にくるまったまま焚き火の前に腰を下ろし、夜空を見上げた。
雲の隙間から少しだけ、仄かな月光が世界を照らしていた。
俺は少しだけ、その光を綺麗だと思った。
ほんの、少しだけ。
◆
正歴一八七三年の春。
俺は小説家と旅をした。
地図に乗らない魔の山へ、その中腹にあるとされる『一夜にして滅んだ町』へ、その伝説を確かめる為に。
その話をしようと思う。
物語とやらを語るならば、言うまでもなく俺よりもあの小説家の方が向いているだろう。或いはあの小説家ならば、もっと気の利いた台詞回しで、巧みな文法で、この話を涙無しには読み切れない感動の超大作にしてくれるかもしれない。過去は清算され、俺は新たな明日へと一歩を踏み出すことができるかもしれない。
しかし、敢えてこの件については俺の口で語りたい。俺が何を見て、何を感じて、そして何に決着をつけたのか。
きっと、これを語るべきはあの小説家ではなく、俺自身なのだ。
俺が語るべき、物語なのだ。
たとえどれだけ無様な語りであっても。
救いに到達できない物語だったとしても。
これからするのは、傭兵の俺がとある小説家と旅をした時の話。
鉄剣と、タイプライターの物語だ。