マッド・マックス 後編

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 シネマ・ハッスル! マッド・マックスの巻 後編でございます。
前編を読んでらっしゃらない方はまずそちらからどうぞ。完全ネタバレですよ。
はい、では始めます。ここまでで、物語は追う側と追われる側に分かれています。
追う側は王様のイモータン・ジョーとその息子のリクタス率いる軍隊蟻人間のウォー・ボーイズ達。
彼らはそれぞれよくて、まず吹き替え版ではジョーが竹内力。あの何を言ってるのか分からないカオルちゃんだ。口マスクのジョーにぴったり。
筋肉馬鹿のリクタスにはプロレスラーのスイーツ真壁だ。
ウォー・ボーイズの奴らは何がいいって、とにかく狂信者なのでホモソーシャルなスパルタのり。彼らが交わす挨拶が両手の指を組み合わせて相手に向けるってのなんだけど、これ、完全に包拳礼なんだよね。
つまり、これ太平天国党なんだよね。殉死して天国に行くって信じてて流民を率いてる連中ですよ。
対する逃走側は、かつてウォー・ボーイズに指揮をしていた大隊長の女戦士フュリオサと、彼女が逃がしてる妊娠中のジョーの花嫁たち。そして救世主としての失敗からトラウマに憑りつかれた狂人マックス(吹き替えはエグザイルのなんかMOKICHIだかTASUKEだか誰だか)と、マックスを輸血袋として頼っていたウォー・ボーイズのニュークス。
この、花嫁たちが画面に出てくるようになってからがこの物語の真骨頂。
社会を循環させ、子供たちを未来につないでゆくというシステム社会を維持しているイモータン・ジョーに対して、花嫁たちは「WE ARE NO THING!」って抗議して逃走したのね。
子供を産む道具として生きて行きたくはない、って。
この汚染に飢餓に渇きに暴力っていう過酷な世界観の中で、彼女たちは自分たちのアイデンティティのために行動に出てる。
だから、逃走車両にニュークスが紛れ込んできたときに、フュリオサがとっさに殺そうとすると、彼女たちは「殺さないで!」「ウォー・ボーイズなのよ!」って助けるんだよね。
子供を産む機械としての自分たちの運命を否定したように、戦うために作られたウォー・ボーイズっていう何も知らないバカな子の命も、人の命として尊重するんだよ。
すごくない? それが女ってもんであり、それが人間だってことなんだよ。
これが、この残酷な世界を描いた映画が語ることなのね。
でも全然甘ったるい展開にはならなくて、花嫁の一人が車から落っこちた時も、花嫁陣は戻って助けようって言うんだけど、マックスは追手の車にひかれたから無駄だって言うんだよ。
両者の間にいるリーダーのフュリオサは、マックスがちゃんと見届けたのを確認したうえで戻らないことを宣言するんだよ。
で、このさきがさらにこの映画のすごいとこね。
死んだ花嫁の一人を回収したイモータン・ジョーは、彼女とおなかの子を悼むんだよ。
彼は人類の復興のための手法として、冷酷ではあるんだけど、命を軽視はしてないんだよね。
自ら危険に面して出撃してきたのも、花嫁達を連れ戻すためなんだよね。
ここで、男性視点からのイエの発展のために嫁と子供が必要だという価値観と、花嫁側からの自分たちを道具としては扱わせないっていう願いの対立の構図になる。
実際、花嫁の一人はもう砦に帰ってキレイな場所での生活に戻りたいとか言い出すんだよ(それを仲間が、あんなの道具扱いだと止める)。
どちらも、殺し合いをしようとはしてないっていう珍しい暴力映画なのね。
それを強調するためにか、奪われた物資の取引先だったほかの都市のボスたちも追跡側に参戦してくる。
これが人食い男爵って言われてる商業担当者と、武器男爵っていう軍部の担当者。
これにインフラを受け持ってるジョーが三国同盟を作ってるっぽいのね。
で、この軍部の奴とかははじめから花嫁達の命を尊重する気なんかはなくて、さっさとみんな殺して仕事を終わらせちゃいたいから、霧に紛れて抜け駆けして火器を乱射しながら追っかけてくるんだよ。
この戦いはタイヤが埋まって進めない湿地帯で行われるんだけど、ここでニュークスが活躍してピンチを抜けられるのね。
その時にニュークスが、「俺にこんな立派なことができるなんて!」って無邪気に喜ぶんだよね。
ここでまた、こいつが歯車社会の中でなんの自己評価も与えられずに育てられてきたってのが分かってもう現代社会の窮屈さとかがキューーッ!! と締め付けてくるわけですよ。
で、その間に武器男爵をマックスが単身撃破、兵器を回収して帰えってくるんだけど、そのシーンは画面では描かれないんだよ。
これは、ヒーローの活躍シーンよりも花嫁や頭の悪い子の頑張りこそが描きたいものだってことだよ。
追っ手を引き離した逃走部隊は、目的地である女たちが暮らしているっていう緑の谷に着くんだけど、そこはもう汚染が回ってなくなってたのね。
で、すっかり賊と化していた谷のおばあちゃんたちと合流して、今度は来た道をまっすぐ戻って砦にさきに入って、そのまま乗っ取っちまおうって作戦にうつるのね。
これ、武侠ファンにはおなじみの跳虎離間の計だよね。
さっきも太平天国って書いたけど、これ実際かなり中国の影響がある映画だと思うんだよ。
と、いうのも、追っかけてくる敵の真ん中を突っ切ってゆくシーンで敵がしかけてくる攻撃が、ばね仕掛けでウォータンクに飛び乗ってくるとか、もろに古代中国の墨家教団の戦法みたいな奴なんだよ。
そう思って見ると、前半から使ってた槍の先に爆弾しかけた奴とか、そもそもおなじみのの弩弓とかがもろに古代中国だよね。
で、なんやかんやでジョーを殺し、車(玉座)を乗っ取ってその死体を突き出して砦の次の長にフュリオサは就いて物語は終わるんだよ。
作中、割に前半で彼女は怪我を痛がる花嫁の一人に「それでも行こう。人生は痛いものなんだ」ということを語るんだけど、その気丈な彼女は、緑の谷が汚染で無くなっていたのを知ったときに初めて泣くんだよね。
この、帰る所は無い、進むしかないってとこがこの作品の一つのメッセージなんだろね。
それを彼女達は、誇りをもち、かつしなやかで優しく生きようとするんだよ。
その意味で、彼女が王位を継承した段階でマックスはその、これから母系社会になるであろう国から、山田風太郎の柳生十兵衛よろしく去ってゆくんだ。
つまり救世主、神話の英雄としてのマックスは、ジョーの後を継いでしまったらもう次は倒される怪物としての支配者になるしかないんだよね。
ここら辺りが、この作品が祭りであるというゆえん。
これは任期を終えた神や依り代が、いずれは新しい神を迎えるために焼かれたりするっていう風習が世界的にあるんだけどさ、そういう一過性の守護者って、片目であったりとか片足であったりするんだよ。これは目印であったり通常とは異なるという神性の象徴であったり、あるいは単に逃げられないようにするって 意味があったりするんだけどさ。
だから、フュリオサは始めから片腕でそこに機械の義手をしているのがジョーを殺したときに腕が壊れて片腕に戻るのだし、交戦の結果生死をさまようという神聖体験をして生き返ったのち、片目になってるんだよ。
そういう、微に入り細に穿って野生状態での人間社会の成立とか、そこに置ける文化英雄の存在と価値観の転換のために行われる儀式を人間生理にばっちり訴える形で描いたこの作品、まさに神話を描いた伝統芸能。
 この奇祭に、ぜひみなさんもご参加ください!!
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