マッドマックス 怒りのデスロード 前編
はい! とうとう行ってまいりましたマッドマックス! 怒りのデスロード!! いやさ、マッドマックス4!
そう、世間様じゃあ平日ですが、不意を打って昼間の仕事を休んで見てきたのでやりますよ! カンフーマスターが陰陽思想をもとに映画をひもとく、この地球でおそらく唯一のルードボーイ系太平天国系師父による完全ネタバレ型映画感想コーナー「シネマ・ハッスル」! マッドマックスの巻、前半でございます。
はい、マッドマックス、大変好評えておりますよね。もう映画好きたちの中ではわっしょいわっしょい祭り状態のようで。
昨今山ほど見られる旧コンテンツのリメイク・ブームの流れに乗っかった一作だと思われていたこのタイトル、今時マッドマックスもないだろうという半笑いだった世間様が今じゃみごとにさしょいわっしょい。
というかこの作品、そもそもリメイクとかじゃない。主演のシャーリーズ・セロンは「リブート」と言ってるそうだけど、全然そんなじゃない。冒頭にも書いた通りきちんと4です。
監督のジョージ・ミラー曰く「前作との直接的なつながりは描いていない」だそうなのだけど、世界観そのものは冒頭のラッシュで繋がっているらしきことが分かるので、架空の救世主であるマックスの神話のうちのいくつかあるエピソードの一つとして見るのがよさそうだ。
そもそもの企画は98年にあり、01年に今までと同じくメル・ギブソン主演で撮影の予定があったものの、911テロとそれに続く戦争の影響で撮影は延期、実に14年越しの完成、公開となった物らしい。
ここでのマックスは冒頭、これまでの作品での闘争による勝利では描かれていない、失敗の経験からくるトラウマによって落ちぶれており、本人の数少ないモノローグでは「生きてるものにも死んだものにも追われている」状態で砂漠をさまよっている。実際、彼の耳目には助けられなかった死者の声や姿が常に現れているというかなり重篤な状態。
この状態は監督曰く「狂気に憑りつかれている」らしく、視聴者がわはここでいったん、前三部作での英雄イメージを切り離して挫折した男としての姿を見なければならない。
これは非常に重要なことらしく、エンディングで流れるおなじみのマックス神話ナレーションでも「砂漠をさまよって自分を見つける」ことが結論めいて語られる 。
で、ですね、さきに祭りが起きていると書きましたが、なぜこの映画がそれだけの祭りを起こすのかと言えば、この作品自体が祭りそのものなんですよ。
上映時間中に起きてることを書くと、過ちから悪霊に憑りつかれてしまった男をみこしに担いで王様と新しい王様がだんじり祭のようなことをして、王位の交代を果たす、という奇祭の模様を描いているだけで、ほかの場所や時間のことには一瞬たりともカメラは向かわない。
走って走って走って奇祭終了、後夜祭でわっしょいで終わる。
つまり、もともと人間の民俗意識に触れた作りになっている、という訳。これは優れた伝統芸の特色であり、相撲も歌舞伎もみんなこのような、身体知、われわれ中国武術家の言う元神に訴えかける作りになっている。
で、その祭りの模様を細かく語りますと、まずマックスは始まるなり捕獲される。
捕獲したのは、砂漠に砦を作っているイモータン・ジョーという王様の一派のもので、彼らは放射能汚染で人が住むには厳しい状態となった世界で地下水源を汲み上げ、緑の再生を行い始めて社会を再生しつつある連中なのだけど、彼らはまがりなりにも文明を築いている物のどうしてもかなり厳しい階級社会かつ、ほぼ食人行為もいとわないレベルのシャーマニズム社会で、カリスマであるジョーの一族だけが清浄な空気をボンベで吸い、緑を植えた環境で過ごせている。
最下層にはほとんど流民のようなボロボロの連中がいて、中間には国体を維持する軍隊蟻的な男衆のウォー・ボーイズってのがいる。
マックスを捕まえたのはこのウォー・ボーイズで、マックスを輸血用血液の元として活用するのが目的だった。
彼らは母乳の出る女たちも牧場のようにして養ってたり、このように人間を非人間的なまでに活用して厳しい環境の中での社会の体裁を整えてたんだけど、こう書くとひどい社会みたいに感じるでしょう?
でも、全マッドマックスに出てくる集団の中で、実はこいつらが一番まともな奴らでさ、そこがこの映画をすごい物にしてるのね。
作品場、敵役として出てくるイモータン一味も、全然悪としては断定してないんだよ。
あくまで、過酷な社会で生きる人間として描かれてる。
マックスの血を抜き取るウォー・ボーイズにしたって、放射能汚染に対する手段として行っていて、非常だけど決して悪の意図を目的として行っているわけじゃない。
キーワードは「過酷」「非情」であって、サイコ・キラーのような甘ったれた悪党では決してない。
マックスを輸血状態でつないだまま出撃するウォー・ボーイズ
の一人ニュークスには一切悪気がない。
イモータン・ジョーの宗教的な洗脳で、社会のために戦って死ねば天国に行けると信じていて(この辺りが湾岸戦争の影響を食らったとこだろう)、それを叶えるためにマックスを車につないで一緒に出撃してしまう純粋な青年として描かれている。
愛用の戦闘車両のボンネットに十字架を立て、そこにマックスを縛り付けて出撃してしまう。
マックスの視点(そして観客の視点)からすると全然訳のわからないこの出動、一体何が起こったのかと言うと、唯一ウォー・ボーイズじゃない戦闘部隊の大隊長フュリオサ(これがシャーリーズ・セロン。坊主頭で義手)が、輸送物資の水と燃料と母乳を積んで完全武装したトレーラー、ウォー・タンク(ウォー・リグ)で運搬物資を盗んでそのまま逃走したのを追いかけるためだ。
ちなみに、この映画の中で最大のイモータンの失敗は、こいつを大隊長にしたことだと思う。
彼女はさらわれてきた他部族の人で、何度も逃走したりしたりしてるっていう反抗の常習者なのに、なぜか軍部の大隊長にしてしまっている。
たぶん、ウォー・ボーイズは自分の意思を持てないように考える力を与えないで育ててるからなんだろうけど。
で、この逃亡者を捕まえに行こうとウォー・ボーイズが出撃するときに、指揮してるのは親玉のイモータン・ジョー本人とその息子のリクタスって奴なのね。
ここがえらいなーって思って 。
人任せにしない。ちゃんと、武将として自ら出撃してるんだよね。やっぱり危険を省みず自ら危険に身を投じる、ちゃんと社会を形成しようとする政治家として描かれてるんだよね。
だからこそ、アホのニュークスが並走したジョーと目があったときに「目が合った! 俺を見てくれたんだ!!」って感動する。
ほかのボーイズも、交戦が始まるやイキイキしてる。撃たれたボーイズのモロゾフって奴は「俺を見ろ! 立派に生きて立派に死ぬ!」と言って、自爆攻撃とかするのね(つまり、こういうところが湾岸戦争に気を使ったとこだな)。
で、それを見てたほかのボーイズたちも「いえー! モロゾフいーぞ! バンザーイ!!」って大盛り上がり(だからこういうところがところが)。
ボーイズたちはそーゆー奴らなんだよね。
だからニュークスは悪気なくマックスのことを「輸血袋」って呼んでて「いいぞ輸血袋!」って話しかけたりしてる。
で、追っかけっこの途中で、と言っても追いかけっこしかしないんだけどまぁその第一ラウンドでね、輸血袋だったマックスが逃走、気を失ったニュークスを鎖でつなげたままフュリオサ大隊長の逃亡車に合流。
そこで初めて、マックスはこの逃走劇の目的を見るのね。
それはジョーがかこっていた花嫁たちで、おなかに子供を宿してる女性たちなんだけど、これがみんな美人。
もう汚い男たちしか でてこない絵面の中で彼女が出てきたときがほんとに、なんて美しいんだろうって見える。そういう風に元神に訴えかけてくるように作りこまれている。
作中でも、目を覚ましたニュークスが「キラキラだ! 女神様だ!」と子供のように感動してるし、後半に出てくる女性も「同じ人間なのかい?」と感嘆している。
この映画のすごいところは、実はこっからなんだ。
彼女たちが出てきたところから、命と性に対する姿勢が強く語られてくる。
監督は「フェミニズムになったのは結果としてであって最初から意図していたわけではない」と言ってるけど、そこも含めてすごい。
と、言うわけで長くなったので前半はここまで。
そう、世間様じゃあ平日ですが、不意を打って昼間の仕事を休んで見てきたのでやりますよ! カンフーマスターが陰陽思想をもとに映画をひもとく、この地球でおそらく唯一のルードボーイ系太平天国系師父による完全ネタバレ型映画感想コーナー「シネマ・ハッスル」! マッドマックスの巻、前半でございます。
はい、マッドマックス、大変好評えておりますよね。もう映画好きたちの中ではわっしょいわっしょい祭り状態のようで。
昨今山ほど見られる旧コンテンツのリメイク・ブームの流れに乗っかった一作だと思われていたこのタイトル、今時マッドマックスもないだろうという半笑いだった世間様が今じゃみごとにさしょいわっしょい。
というかこの作品、そもそもリメイクとかじゃない。主演のシャーリーズ・セロンは「リブート」と言ってるそうだけど、全然そんなじゃない。冒頭にも書いた通りきちんと4です。
監督のジョージ・ミラー曰く「前作との直接的なつながりは描いていない」だそうなのだけど、世界観そのものは冒頭のラッシュで繋がっているらしきことが分かるので、架空の救世主であるマックスの神話のうちのいくつかあるエピソードの一つとして見るのがよさそうだ。
そもそもの企画は98年にあり、01年に今までと同じくメル・ギブソン主演で撮影の予定があったものの、911テロとそれに続く戦争の影響で撮影は延期、実に14年越しの完成、公開となった物らしい。
ここでのマックスは冒頭、これまでの作品での闘争による勝利では描かれていない、失敗の経験からくるトラウマによって落ちぶれており、本人の数少ないモノローグでは「生きてるものにも死んだものにも追われている」状態で砂漠をさまよっている。実際、彼の耳目には助けられなかった死者の声や姿が常に現れているというかなり重篤な状態。
この状態は監督曰く「狂気に憑りつかれている」らしく、視聴者がわはここでいったん、前三部作での英雄イメージを切り離して挫折した男としての姿を見なければならない。
これは非常に重要なことらしく、エンディングで流れるおなじみのマックス神話ナレーションでも「砂漠をさまよって自分を見つける」ことが結論めいて語られる 。
で、ですね、さきに祭りが起きていると書きましたが、なぜこの映画がそれだけの祭りを起こすのかと言えば、この作品自体が祭りそのものなんですよ。
上映時間中に起きてることを書くと、過ちから悪霊に憑りつかれてしまった男をみこしに担いで王様と新しい王様がだんじり祭のようなことをして、王位の交代を果たす、という奇祭の模様を描いているだけで、ほかの場所や時間のことには一瞬たりともカメラは向かわない。
走って走って走って奇祭終了、後夜祭でわっしょいで終わる。
つまり、もともと人間の民俗意識に触れた作りになっている、という訳。これは優れた伝統芸の特色であり、相撲も歌舞伎もみんなこのような、身体知、われわれ中国武術家の言う元神に訴えかける作りになっている。
で、その祭りの模様を細かく語りますと、まずマックスは始まるなり捕獲される。
捕獲したのは、砂漠に砦を作っているイモータン・ジョーという王様の一派のもので、彼らは放射能汚染で人が住むには厳しい状態となった世界で地下水源を汲み上げ、緑の再生を行い始めて社会を再生しつつある連中なのだけど、彼らはまがりなりにも文明を築いている物のどうしてもかなり厳しい階級社会かつ、ほぼ食人行為もいとわないレベルのシャーマニズム社会で、カリスマであるジョーの一族だけが清浄な空気をボンベで吸い、緑を植えた環境で過ごせている。
最下層にはほとんど流民のようなボロボロの連中がいて、中間には国体を維持する軍隊蟻的な男衆のウォー・ボーイズってのがいる。
マックスを捕まえたのはこのウォー・ボーイズで、マックスを輸血用血液の元として活用するのが目的だった。
彼らは母乳の出る女たちも牧場のようにして養ってたり、このように人間を非人間的なまでに活用して厳しい環境の中での社会の体裁を整えてたんだけど、こう書くとひどい社会みたいに感じるでしょう?
でも、全マッドマックスに出てくる集団の中で、実はこいつらが一番まともな奴らでさ、そこがこの映画をすごい物にしてるのね。
作品場、敵役として出てくるイモータン一味も、全然悪としては断定してないんだよ。
あくまで、過酷な社会で生きる人間として描かれてる。
マックスの血を抜き取るウォー・ボーイズにしたって、放射能汚染に対する手段として行っていて、非常だけど決して悪の意図を目的として行っているわけじゃない。
キーワードは「過酷」「非情」であって、サイコ・キラーのような甘ったれた悪党では決してない。
マックスを輸血状態でつないだまま出撃するウォー・ボーイズ
の一人ニュークスには一切悪気がない。
イモータン・ジョーの宗教的な洗脳で、社会のために戦って死ねば天国に行けると信じていて(この辺りが湾岸戦争の影響を食らったとこだろう)、それを叶えるためにマックスを車につないで一緒に出撃してしまう純粋な青年として描かれている。
愛用の戦闘車両のボンネットに十字架を立て、そこにマックスを縛り付けて出撃してしまう。
マックスの視点(そして観客の視点)からすると全然訳のわからないこの出動、一体何が起こったのかと言うと、唯一ウォー・ボーイズじゃない戦闘部隊の大隊長フュリオサ(これがシャーリーズ・セロン。坊主頭で義手)が、輸送物資の水と燃料と母乳を積んで完全武装したトレーラー、ウォー・タンク(ウォー・リグ)で運搬物資を盗んでそのまま逃走したのを追いかけるためだ。
ちなみに、この映画の中で最大のイモータンの失敗は、こいつを大隊長にしたことだと思う。
彼女はさらわれてきた他部族の人で、何度も逃走したりしたりしてるっていう反抗の常習者なのに、なぜか軍部の大隊長にしてしまっている。
たぶん、ウォー・ボーイズは自分の意思を持てないように考える力を与えないで育ててるからなんだろうけど。
で、この逃亡者を捕まえに行こうとウォー・ボーイズが出撃するときに、指揮してるのは親玉のイモータン・ジョー本人とその息子のリクタスって奴なのね。
ここがえらいなーって思って 。
人任せにしない。ちゃんと、武将として自ら出撃してるんだよね。やっぱり危険を省みず自ら危険に身を投じる、ちゃんと社会を形成しようとする政治家として描かれてるんだよね。
だからこそ、アホのニュークスが並走したジョーと目があったときに「目が合った! 俺を見てくれたんだ!!」って感動する。
ほかのボーイズも、交戦が始まるやイキイキしてる。撃たれたボーイズのモロゾフって奴は「俺を見ろ! 立派に生きて立派に死ぬ!」と言って、自爆攻撃とかするのね(つまり、こういうところが湾岸戦争に気を使ったとこだな)。
で、それを見てたほかのボーイズたちも「いえー! モロゾフいーぞ! バンザーイ!!」って大盛り上がり(だからこういうところがところが)。
ボーイズたちはそーゆー奴らなんだよね。
だからニュークスは悪気なくマックスのことを「輸血袋」って呼んでて「いいぞ輸血袋!」って話しかけたりしてる。
で、追っかけっこの途中で、と言っても追いかけっこしかしないんだけどまぁその第一ラウンドでね、輸血袋だったマックスが逃走、気を失ったニュークスを鎖でつなげたままフュリオサ大隊長の逃亡車に合流。
そこで初めて、マックスはこの逃走劇の目的を見るのね。
それはジョーがかこっていた花嫁たちで、おなかに子供を宿してる女性たちなんだけど、これがみんな美人。
もう汚い男たちしか でてこない絵面の中で彼女が出てきたときがほんとに、なんて美しいんだろうって見える。そういう風に元神に訴えかけてくるように作りこまれている。
作中でも、目を覚ましたニュークスが「キラキラだ! 女神様だ!」と子供のように感動してるし、後半に出てくる女性も「同じ人間なのかい?」と感嘆している。
この映画のすごいところは、実はこっからなんだ。
彼女たちが出てきたところから、命と性に対する姿勢が強く語られてくる。
監督は「フェミニズムになったのは結果としてであって最初から意図していたわけではない」と言ってるけど、そこも含めてすごい。
と、言うわけで長くなったので前半はここまで。