SOUL REGALIA 作:秋水
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1
この地へと導かれたのは、今から二年ほど前になる。
遥かな未来からの呼びかけに応じ、さらに遠い未来――否、新たな『時代』に至るなど、色々なものがズレていたロードランを旅してなお思いもよらなかった。
まして、それが
まったく、これだから人生は面白い。
そして、先陣として『到達』して。
すぐに、
肝心の
いや、この地こそが新たな巡礼地。いずれ戻るのは分かり切っていた。
問題はそこではないし、事実こうして戻ってきた。
ただ――…
「むぅ……」
未だ出会えずにいる。
炉の女神の元に身を寄せていると聞き、とある教会を訪ねたはいいが不在だった。
これですでに四回ほどになるか。
「やはり、時間を変えた方が良いか」
今日も大きく輝く太陽を見つめ、小さく呟く。
やはり太陽は偉大だ――いや、偉大だが、今はそうではなく。
すでに街は朝を迎えている。街は目覚め、すでに新たな一日が始まっている頃だった。
「うむ。やはり次は夕刻に訪ねるとしよう」
聞けばまだ結成されて間もない派閥だという。炉の女神もまた仕事に励んでいるのだろう。
となれば、朝ではなく夜に訪ねてきた方が失礼にはならないのではないだろうか。
遅まきながらにそんなことを思う。
(なかなか難しいものだ)
長らく太陽のある生活から――何より、人里を離れて生き続けてきた身だ。
その後、縁あって小さな村を興して身を寄せたが……そこもやはり生者のみの街とは違う。
この街で過ごした二年にしても、ダンジョンに入ってしまえばやはり同じこと。
結局、人の世の機微は未だ忘却の彼方だった。
(本来なら
しかし、
迂闊な真似をしてはこの炉神の派閥にも迷惑が及びかねない。
それでは本末転倒だろう。
しかし、こうも出会えないとなると、そろそろ別の方法も模索しなくては……。
(彼女らに取り次いでもらうか。……いや、俺達を知る者は限られている。あまり世話にはなれん)
それに、先日のフィリア祭から色々と問題を抱えている。
普段からあれこれと世話になっている身としては、あまり手を煩わせたくない。
そして、あまり派手に彼らと関わるのは、それはそれで問題だった。
俺達は異邦人。何より、不死人だ。
神々のみならず人々に注視されては、色々と不都合が生じる。
そして……少しは傷も癒えたとはいえ、神への不信はまだ完全に拭い切れたとは言い難い。
アノール・ロンドで知った太陽の真実。焦がれ続け、探し続けた太陽の正体。
友が……そして、彼女がいなければ、俺はあのまま心折れ、亡者となり果てていただろう。
しかし、他に何か良い手があるかと言われれば――…
「うぅ~む、悩ましい……」
気づけば、かのカタリナの英雄を真似るように腕組をして、唸っていた。
これはまだ春先のこと。
今はまだ無名の少年が、サポーターの少女と出会ったばかりのころ。
彼の元に、とある少女が預けられる少し前。
2
「深淵とは何か?」
その魔女は、枯れた声で訊き返してきた。
「そうだ。実のところ、私達は未だによく分かっていない。詳しく教えてはもらえないか?」
頷いてから、もう一度槍女がその魔女に問いかける。
明らかに暗いダンジョンの中を、その魔女の案内に従って進んでいる。
一三階層での大量発生から一転して、異形どもの襲撃はほとんど止まっていた。
「闇よりも暗い闇。神々ですら抗えない厄災。忌まわしき呪い。概ねそのように言われている」
だから、こうして無駄話ができているわけだが。
「いや、そういう抽象的な話ではなくてだな……」
眉をひそめて、槍女がため息を吐く。
「もう少し具体的は話だ。『深淵』という
「なかなか難しいことを訊く娘だ」
魔女は苦笑したようだった。
「ごく小規模なものなら誰でも使える。人でさえあれば、な」
「何?」
「私が使う術がそれだ。闇術という名前は、もう忘れられて久しいかな」
「闇術だと?」
「ああ。忌むべき闇の魔術だが……そこの罰当たりは、まったく気にしなかったな」
小さく咳き込むように、その魔女が笑う。
言うまでもないことだが、視線の先にいるのは灰野郎だ。
「では、やはり術者がいると?」
「自然に発生するものではない。発生した原因を術者と呼ぶなら、もちろんいるだろう」
「もう少し分かりやすく言いやがれ」
持って回ったような言い回しに、つい毒づく。
あの陰気野郎といい、この魔女といい、灰野郎の知り合いはこんな奴らばかりなのか。
「さて……。暴走した闇術といえば、少しは分かりやすくなるだろうか」
「暴走だと?」
「もっとも、暴走しているのは『術』ではないがな」
「では、何が暴走している?」
「力の源というのが、もっとも無難な答えだろう」
「
「それにしちゃ派手すぎるだろうが」
猪野郎の呟きに舌打ちを返す。
とんだ間抜け……いや、意図的にそれを起こす奴もいると聞く。今回は後者だろう。
「神々ですら抗えないとは、どういう意味だ?」
それが聞こえたのかどうなのか、今度は猪野郎が問いかけた。
「言葉の通りだよ。遠い昔に湧き出た深淵を、神々は封印するのがやっとだった。……いや、それよりずっと前から、神々はその闇を恐れていたのさ。枷を嵌め、流刑に処し、封を施し、姦計を巡らして。どうやら、それでもまだ安心できなかったようだな」
それも仕方がない事か、灰野郎を見て再び魔女が笑う。
相変わらず、何を言いたいのかさっぱり分からない。
「封印しただと? ダンジョンみてぇにか?」
分かったのは、それだけだった。
「いいや。この『大穴』よりもう少し直接的だ」
首を横に振ってから、魔女は言う。
「国ごと深い水底に沈めたのさ。そのうえで、三人の魔術師が封印者に抜擢された。永遠にその国を封じるためにね。それから数百年、神々はついに深淵を滅ぼすことができなかった」
いや、そもそも――と。さらに続けた。
「その三人の封印者はどうやら人間だったらしい。神々には封印すらできなかった、とも言えるか」
「では、クオンが言う神の英雄とはどういう存在だ?」
猪野郎が、再び問いかける。確かにそれは気になるところだ。
もっとも、この深淵騒ぎにどこまで関係しているかは分からないが。
「それも言葉通りだよ。偉大なる太陽の光の王。かの大王に仕えしは誉れ高き四騎士。その中の一人がかの英雄だ。……もっとも、その名も忘れられて久しいがね」
「待て。そいつは冒険者じゃなくて、神そのものだってのか?」
「ああ、そうだとも。神々最大の英雄といえど、闇を持たぬ者。深淵には抗えない」
だからこそ、その闇は忌み嫌われるのさ。
何が楽しいのか、その魔女は咳き込むように喉を鳴らす。
「ならば、クオンの持つ『指輪』は、その神が遺したということか?」
「ああ、その通りだよ。もっとも、後世に伝えたのは別の者だが」
騎士は終に倒れ、使命と狼血を遺した――芝居の台詞のような言葉を口にしてから、
「先ほど少し触れたファランの不死隊とは、かの騎士の後継者たらんとした者たちさ」
「そんな『指輪』、何であんたが持ってるんだい?」
「……色々と事情があったんだ」
はぐらかすのはいつもの事だが――
「小ロンドに立ち入るために必要だったのだろう?」
魔女がからかうように笑う。
「小ロンド?」
「水底に封印された国の名だ。少し用があってね。水門を開けて水を抜いたはいいんだが……」
「つまり、お前が封印を破ったと?」
いや、あんまり驚かねぇけど。この神嫌いなら、神の封印くらいは平気で破るだろう。
世界を滅ぼしかねない封印を解く『必要性』というのが何だったのかは知らないが。
「そう責めてないでやってくれ」
半眼になる槍女に、再び魔女が笑った。
「その国で深淵を生んだ者達は、私の弟子が倒したのだから。『指輪』がなくとも深淵に立ち入れるのは、それが理由なのさ」
「深淵を生み出した術者を殺したから?」
「理屈はよく分からねぇが……。それが理由なら、今湧いてる深淵の原因をぶち殺せば、俺達も耐性が得られるってわけか」
「それはどうだろうな。何しろ、その主は少し特殊だった。でなければ、その馬鹿弟子とて乗り込みはしなかっただろう」
「そもそも、そこで深淵を発生させたのは誰だったんだい?」
「その国の王……公王と呼ばれてたやつらだ。どっかの蛇に騙された馬鹿な連中さ。……まぁ、俺も人の事は笑えないがな」
「連中って……。その国、いったい何人王様がいたってのさ?」
「大体四人。……そう、確か四人だったはずなんだ」
「……何でそんなに曖昧なんだい?」
「聞くな、頼むから」
当然の問いかけに、何故だか灰野郎は深々とため息を吐いた。
つくづくこいつの考えていることはよく分からない。
「それに、私の弟子は、真に正しく『深淵の主』と言える存在を殺している。この先に生じた深淵の『主』がそれほどの存在かどうか……」
灰野郎といい、陰気野郎といい、この魔女といい、揃って持って回ったようにしか話せねぇのか。
「その『深淵の主』とは?」
「深淵の主マヌス。ウーラシールに生じた最初の深淵。神の英雄すら抗えなかった厄災の化身。……いや、違うか。ただ己の墓を暴かれ、安らかな眠りを邪魔された憐れな小人さ」
「あァ? ……それじゃあ話が合わねぇだろうが」
つじつまが合わないどころの話ではない。時系列が完全に破綻している。
「灰野郎の持ってる『指輪』を作ったのがその神の英雄とやらだろ? で、その『指輪』を使って灰野郎は小ロンドの公王とやらをぶち殺した。てめぇが自分でそう言ったじゃねぇか」
しかも、小ロンドとやらが封印され、灰野郎がそれを解くまで数百年だ。
最初の深淵が発生したのは当然、封印される前の話。だというなら――
「どうして最初の深淵の主を灰野郎がぶち殺せる?」
「さて、その辺りは本人に聞くのが良いだろう?」
それは全くその通りだった。
魔女に話を振られ、灰野郎が嫌そうに舌打ちする。
「ロードラン……その当時、俺が彷徨っていた場所は色々なものがズレていた。時間の流れもな。百年は前にその地に挑んだはずの英雄の白霊……亡霊だか生霊だかに手助けをしてもらう事なんてざらだった」
「どんな魔境を彷徨ってるんだい、あんたは……」
半信半疑といった様子で
いや、半分でも信じようとしているのだから、色ボケした女ってのは分からない。
「まぁ、今はそういう場所だったと思っておけ。それで、色々と事情があってその頃の俺は魔術や奇跡の知識を集めてたんだ」
それを言えば、いつになく素直に話し出す灰野郎も同類か。
俺や猪野郎がいることを忘れているのではないかとすら思う。
「ウーラシールってのは、滅びる前は『黄金の魔術の国』と呼ばれていてな。何か残っていればと思ったんだが……」
「深淵が残っていたと?」
「いや、流石にそうじゃない。それだと深淵歩きの伝説が成立しないだろう」
「なら、何があったんだ?」
「あったというか……。ウーラシールの宵闇……まぁ、ウーラシール最後のお姫様を拾っただけだ」
「だから時間の流れがいい加減すぎるだろうが!?」
「俺に言われても困るな。少なくとも、倒したゴーレムから彼女が出てきたのは事実だ」
「で、そのお姫様を届けに行ったってことかい?」
「そうだ……と、ここで頷けたら、少しは格好がつくんだろうが」
灰野郎は小さく笑ってから続けた。
「実際はむしろ一緒にさらわれたようなものだな」
「あんたねぇ……」
「まぁ、聞けって。宵闇は助け出したら勝手に自分の時代に戻っていったんだ。彼女が自分で何かしたってよりは元々そういうものだったんだろう」
「それが本当なら、つくづくとんでもない場所だな……」
【
「ただ、互いに縁が結ばれたのは間違いない。それこそ過去の英雄と同じだ」
「理屈の上では、理解できないことはないが……」
過去の英雄と出会えるなら、過去に滅んだ国の王女とも出会えるだろう。
何とも投げやりに槍女が呻く。
「その出会いが、マヌスに目をつけられたきっかけの一つにはなるだろう。彼女のサイン……彼女との縁が残った場所の近くで、俺もさらわれた」
「どこに?」
「そりゃもちろん、今まさに深淵に飲まれつつあるウーラシールに」
「はぁ?」
魔女以外の声が重なった。
猪野郎までが怪訝そうな顔をしている。
「まさか、過去の時代に引きずり込まれたとでも言うつもりか?」
「そのまさかだ」
猪野郎の問いかけに、灰野郎はあっさりと頷いた。
「深淵とはそれほどの力か……」
未来の人間を自分のいる時代へと引きずり込む。
元々そういう場所だったこと――その話が本当だったとして――を差し引いても、どれほどの力が必要になるのか。
今ばかりはあの
「最初は俺も何が何だか分からなかったが、近くにエリザベス……宵闇の乳母がいてね。彼女が攫われた事も含めて、色々と事情を教えてもらったんだ。言われてみりゃ、確かに見覚えのある地形だった」
あとは、教わった通りその英雄を追ってウーラシールの市街地から深淵に向かったわけだ。
胸中で呻いていると、灰野郎が肩をすくめた。
「そのまま深淵の奥底で、マヌスをもう一度眠りにつかせてから元の時代に戻ったんだ」
「なら、あんたも伝説に名前が残ってるってことじゃないのかい?」
「いいや。何しろ、宵闇は助けた時は寝てたからな。俺がいたことは知らないだろう」
「……気絶じゃなくて?」
「どうかな。割と気持ちよさそうな寝息を立ててたんだが……」
あ、そう――と、
「そのマヌスという者は、何故自らの国を犠牲にしてまで深淵など生み出した?」
「マヌスはその闇を見出しただけだ。さっきカルラも言っただろう。深淵が発生したのは、ウーラシールの連中が彼の墓を暴いたからだ」
「確かに言っていたが……。何のために墓を暴いた?」
「カアスに唆されたから……と、言っても通じないか。簡単に言えば、その力が欲しかったんだ」
一国を飲み込むほどの力。確かに欲しがる奴は多そうだ。
「そして失敗して国ごと自滅したと?」
「そういうことだ。まぁ、よくある話だな」
灰野郎が肩をすくめるころには、ダンジョンは一段とその闇の濃度を増していた。
「深淵か……」
ふと、猪野郎が呟く。
「もうすぐそこまで近づいているようだな」
「ほう……。貴公、もしや分かるのか?」
「ああ。……なるほど、これは怖い闇だ」
魔女の言葉に頷いてから、猪野郎はそんなことを言った。
「幾度となく挑み、叩き潰してきたダンジョンの闇ではない。どちらかといえば、遠い昔、幼き日に恐れた夜の闇に近いように思える」
ふむ……と、自分の感情を改めて確かめるように唸ってから、続ける。
「これは郷愁、か? どこか誘われているように感じる。お前は、こちら側だと」
そして、俺の中にそれに呼応するものがある。抗う意志を挫かれかねないほどに。
猪野郎はそんなことを呟いた。
(郷愁だと?)
さっきから背中がざわつくような感覚が続いているのは確かだが……。
「これは驚いた。そこまで分かるのか」
しかし、どうやらその言葉は正しいらしい。
言葉通りに驚きを隠しもせず、その魔女は言う。
「ああ、分かる」
「見事だ。どこかの馬鹿弟子にも見習わせたいものだな」
クスクスと笑う魔女に、灰野郎が舌打ちする。
「そうだとも。厳重に封印されているが、人の内には闇がある。それは貴公とて同じこと。そして、貴公らはこれからそれを覗きに行く」
覚えておくことだ――魔女は歌うようにそう告げた。
「その闇に恐怖し足元を顧みるか、それとも郷愁に胸を焦がすかは貴公ら次第だ。そして、そのどちらもが許されるだろう」
それは、むしろ闇に誘い込むかのようにその魔女は囁く。
「郷愁を感じているのは認める」
対して、猪野郎は短く言い切った。
「だが、俺が帰るのはフレイヤ様の御許のみだ」
「フフッ……。見た目通り一途なのだな。私の弟子も少しは見習ってくれればいい」
ンなこと、今さら無理だろ。
「そりゃ、今さら無理ってものさ」
「ああ、分かっているよ。言ってみただけだ」
まったく同じことを
本当に、こいつら一体どういう関係性で繋がっているのか。
猪野郎どもと違って別に魅了されているわけでもないだろうに。
「さて、この先だ」
魔女が、小さく囁く。
問題の
その構造自体は珍しくもない。
昔一度や二度は来た事があったような気もするが、はっきりと確信は持てない。そんな場所だ。
例外はたった一つ。
「ああ、どうやら浸食は進んでいるようだな……」
視線の先。その地面には確かに『闇』があった。
薄暗いダンジョンの中で、なお分かるほど暗い『闇』。そうとしか表現ができない『大穴』だ。
暗夜の湖でも、あれほど暗くは見えまい。
そして……なるほど、確かにこれは郷愁といえるか。
その『闇』に飛び込んでしまいたくなる強い衝動を、その刹那確かに感じた。
(チッ、こりゃ確かに怖ぇ闇だな)
無数の蟲が這い寄ってくるかのような恐怖と、ほの温かい郷愁が混じった奇妙な感情。
その悍ましさに狂うか、それとも郷愁に焦がれるまま飛び込むか。
どちらを選んでもいいだろう。深淵に飲まれるという結末は変わらない。
抗うための意志が挫かれるというよりは、抗おうという発想そのものが鈍っていく。
調査隊の連中とて危険は承知していたはずだ。それが揃って深淵に飲まれた理由はこれか。
何よりもそれこそが厄介だった。
意思を挫くという意味では、モンスターどもの
(いや、これはむしろ――…)
まず抵抗するという発想を抱かせない。そして、感じるのは恐怖だけではない。
そういう状況には覚えがある。
(灰野郎が『美の神』を特に嫌う理由はこの辺にあるのかもな)
オラリオの人間にこの感覚を伝えるなら、おそらくそう教えるのが一番伝わりやすい。
猪野郎が敏感に嗅ぎ分けた理由は、普段からそういう状況にあるせいだろう。
「何だ、あいつら……」
しかし、それとはまったく別の意味で呻いていた。
その薄気味悪い『大穴』の周りには異形どもの他に
「まさかアルミラージとヘルハウンドか?」
どちらもこの階層ではよく見られる……主力と言っていいモンスターだ。
今までの異形の大半もこいつらだったはず。
だが――
「今までの異形とは雰囲気が違うな」
目の前にいる奴らは醜悪な様相となってこそいるが、原形の面影が見て取れる。
四本足で動くか、両足で動き回るか。その違いから見分けていた今までとはわけが違う。
「ああ。それよりも洗練されているように見える。……いや、むしろ安定というべきか」
猪野郎の言葉に、槍女が頷く。
安定というのは言い得て妙だった。
実際、外からもたらされた強引な変化ではなく、初めからそういう
「深みは本来、静寂にして神聖。故に悍ましい者達の寝床となる、か」
灰野郎が呟いた。
「澱もうが暴走しようが、結果は同じというわけだ」
「……何が言いたい?」
「深淵がモンスターに影響を及ぼすなら、当然その母体にも影響を及ぼすんじゃないか。そう思っただけだ。あくまで推論だがな」
「あァ? 影響だと」
「深淵ではないが、それと祖を同じくする代物は蟲どもの苗床になる。ある意味において、ダンジョンとは相性がいい。……そういえば、『世界の底』だと呼んだ奴もいたらしいな」
見ろ――と。灰野郎はその暗い穴を指さした。
その先では闇が波立ち、何かが這いだしてくる。
それは、確かに穴の周りにいる奇妙なモンスターだった。
「モンスターを生み出す力に干渉しているとでもいうのか。それとも――」
「ダンジョンと融合しようとしている。あるいは、乗っ取ろうとしているのか……」
「マジかよ……」
生まれるモンスターを変化させるという意味ではあの『宝玉』とやらも同じだ。
だが、それ以外にも余計な効果を持っている分だけ、深淵の方が性質が悪いといえる。
「放っておけば、この先ずっと『強化種』が生み出されるようになるってわけだ」
「いや、あれはもう『深淵種』とでも呼ぶべきかね」
呼び方は何でもいいが……いずれにしても放っておけば厄介なことになる。
「ま、さっきみたいに見た目だけの変化だったらいいんだけどね」
横目で
「さて。先ほどの娘らを助けた時は、まだ普通の異形だけだった。それでも辟易するほどの数だったからな。……一筋縄ではいかない、か。この短時間で変化するとは、私もまだ読みが甘かった」
「つまり、敵の強さは未知数というわけだな」
魔女の言葉に、今度は槍女が呟いた。
「だが、ここで退くという選択肢はあり得ん」
言うまでもないことを、猪野郎が口にする。
「時は一刻を争う」
「その通りだ。……やはり、一晩遅れたのが痛かったかな」
「らしいな」
いつ発生したか知らないが、僅かな時間で驚くほど脅威を増している。
創設神自らが動くのも納得だった。こんなもの、『強化種』よりも性質が悪い。
「ここから深淵まで大体八〇〇Mってとこか」
「あの異形どもがいなければ、滑り降りて飛び込むだけだが……」
そうはいかない。
さっきの『大発生』には遠く及ばないにしても、数えるのが面倒な程度には『深淵種』どもがうごめいている。
アルミラージとヘルハウンドがいる以上、遠距離攻撃も仕掛けてくるのは明らかだ。
相手の
とはいえ――
「奇襲を仕掛けるのは、少し難しいか」
身を潜められるのは、俺達が今いるこの高台が最後だ。
距離は
姿を消しでもしない限り、勘づかれずに近づくのは流石に不可能だった。
構造的には回廊のようなものだ。
正規のルート……と、いう訳でもないが、段差を滑り降りるのでなければ、迂回するように通る
そして、そこを使えば確かに群れの横腹に喰いつける。
繰り返すが、それまで勘づかれないなら、だ。
「二手に分けてもたかが知れている」
「ああ。よっぽど上手く注意をひかなけりゃな」
移動中に敵に気づかれないなら、だが。
だが、
「時に、もう一人は誰を連れて行く気だ?」
そこで、魔女が言った。
その問いかけに、全員が灰野郎に視線を向ける。
確かに、飛び込んだ先で揉めるのは間の抜けた話だろう。
「そりゃ、お前だろう。一番慣れているだろうし」
「構わんが……。奴らに闇術は効果が薄い。今さら言うまでもないだろうがな」
正論だったが、他ならぬ魔女自身が懸念を口にする。
「ならば、順当に【
「問題の『主』を放って殺し合いにならなきゃいいけどね」
続けて女どもがそんなことを言い合った。
だが、それは充分にあり得る話だ。
「なら、そちらの……」
「いや、むしろそれは――」
「――余計危険だね」
「……そうだったか」
「……うるせぇぞ、女ども」
いちいち指摘するんじゃねぇ。魔女も露骨にため息を吐くな。
「なら、やっぱり私か」
次に言ったのは
「あれが『深淵種』を生み出すなら、飛び込んで終わりとはいかないだろう?」
「それはそうだが……」
「なら、ここに残って雄どもの手綱を握る相手も必要になるじゃないか」
「……まさかそれを私に押し付ける気か?」
「他に誰がやるっていうんだい?」
「俺に、この犬共々貴様の指揮下に入れと?」
猪野郎が不快感をむき出しにして吐き捨てる。
「あァ? 誰が犬だ。この猪野郎が」
だが、それは俺の台詞だ。
「そういうところなんだろ。アイシャが気にしているのは」
女どもがため息を吐き、灰野郎が呆れたように言った。
反射的に怒鳴り返しそうになったが、何とか飲み込む。
この距離だ。下手に騒いでは、勘づかれる。そんな素人じみた真似は流石にできない。
「別に一人で飛び込んでもいいが……」
「今の有様で、一人で深淵に挑む気か?」
咎めるように魔女が鋭い声で問いかける。
それはまた何とも奇妙な言い回しだったが、拘泥するものはいなかった。
「なに、不利なのはいつもの事だ。……残念ながらな」
灰野郎は自嘲とも苦笑ともつかない吐息を零してから――…
「ところで、奇襲する気なら一つ手があるぞ」
「あァ?」
「これを貸してやろう」
不意に腕を取られると同時、俺の指に何かが絡みついた。
例の『スキル』の仕業だろう。
そして、それもまた指輪だった。モンスターか何かの目玉を模したような悪趣味な造形の。
「ついでにちょっとしたお
「はァ?!」
そっちに気を取られている間に、灰野郎が左手に『火』を灯して何かの物語を口ずさんだ。
途端、何か奇妙な黒い靄が俺の周りを取り巻く。
それは、ごく微かなものだったが――…
「てめぇ、何しやがった!?」
「その指輪は『赤眼の指輪』という」
「今使った奇跡は【贖罪】か……」
灰野郎と魔女がそれぞれ言った。
「ちなみに、どちらも効果は同じだ」
「ああ。
「つまり、『
今回ばかりは、何を言わんとしているかよぉく分かった。
「おい、後は任せたぞ」
「仕方あるまい。……【
要するに囮の役目を押し付けられたのだ。
「若人よ、苦難を求めたまえ。呪われた旅にも、いつか終わりがあると信じて」
灰野郎が何だか無駄に意味深な発言をして――
「てめぇが求めてろ、このクソ野郎どもがあぁああぁあああぁあッ!!」
それに反論する暇もなく、猪野郎が無駄に馬鹿力を発揮して俺を放り投げやがった。
兎野郎の時と同じく、景気よく景色が飛んでいく。
だが、そこはオラリオ唯一のLv.7。力の制御はおよそ完璧だった。
高台の縁辺りでちょうど減速し、脚が地面に届く。
ここで完全に踏みとどまるのは流石に難しいが、体勢を立て直すには充分だった。
「クソッたれが!!」
加速を殺さぬまま自ら地を蹴り、
真っ先に飛び掛かってきたのはアルミラージ深淵種。
顔面を蹴り抜き、まずは一匹仕留めるつもりだったが――…
(こいつ……!)
硬い。どう考えても通常のアルミラージよりも――いや、さっきの異形どもより遥かに。
少なくとも、死ぬ途中で最期に
「ギィ――!」
そして、思った以上に速い。
着地と同時、攻撃を仕掛けるはずが間に合わず、回避する羽目になった。
次々に繰り出される石斧や火炎を躱して蹴り落としながら呻く。
もちろん、あのデーモンほどではない。
その辺に湧いて出る
(マジで脇目も振らねぇな!?)
灰野郎どもが一斉に回廊を走っている。
その音や気配はモンスターどもも感じているはずだが、全く気にせずこちらに突っ込んでくる。
それを片っ端から蹴り飛ばしながら毒づいた。
(この
そう。通常のモンスターの範疇だ。その辺で普通に湧いて出るモンスターでしかない。
……ただ、その『その辺』に辿り着ける奴らが少ないというだけで。
(クソが、指輪を外してる暇がねぇ)
その一瞬を絞り出すには数が多すぎた。
もう少し数が減るまで攻防に専念しなければ、思わぬ無様をさらす羽目になりかねない。
半瞬で呼吸を整え、意識を切り替える。
魔法と指輪の効果か、相手は殺気立っている。
途切れることなく襲い掛かってくるその群れを迎え撃つには、まず手数を用意しなくては。
引き抜くのは指輪ではなく、双剣≪デュアル・ローラン≫。
深淵種だろう何だろうが、基本的にモンスターであることに変わりはない。
つまり、
そして、冷静さ。
一手の失敗も命取りとなる一対多数の乱戦ではそれも必要となる――…
「あの色ボケクソ野郎どもがぁあああぁああああァ!!」
そう。冷静に。あくまで冷静に、目につく怪物どもを端から手早くぶち殺していく。
流石にこの数だ。迂闊に守りに入ってはそのまま押し潰されかねない。
モンスターどもの勢いに飲まれるなんざ間抜けのすることだ。
敵が『数』で挑んでくるなら、こちらはそれを上回る『質』を見せつけてやる。
「【――飢える我が
それから、何匹ぶち殺したか。
不意に群れの向こう側から裂帛の咆哮が聞こえた。
「【ヘル・カイオス】!!」
それが呪文の末尾だと気づいた時には、群れを斬り裂き紅色に染まった斬撃が迫っていた。
舌打ちしながら射線から飛び退く。
「このまま叩き潰すぞ」
「誰に言っている」
その傷跡を、さらに三人の人影が抉り取る。
言うまでもなく、色ボケクソ野郎どもと槍女だ。
「【Tenebris disperdens】」
群れからはぐた間抜けは、魔女が放った『闇』に射抜かれ悉く灰となっていく。
それは制御された深淵だという。ならば、帰るべき場所に帰ったとでも言えばいいのだろう。
いずれにせよ、群れはもう総崩れだった。
霧散したことで『数』の利は失われ、『質』も精々が
「―――――」
そんな状況で灰野郎と猪野郎を相手になど、いったい誰ができるものか。
フィンだって撤退を選択するだろう。
あえて戦闘続行を選択したのは、獣の愚かさか。それとも一端の矜持か。
最後の一匹までくたばった今となっては、どうでもいいことだが……
「よし。連携の勝利だな」
「喧嘩売ってんだな、てめぇ……!」
白々しくそんな世迷い事を言い出したこの灰野郎を一体どうしてやろうか。
「落ち着け、【
「あァ?!」
訳の分からねぇことを――と、槍女に視線を向けると、そいつは槍の刃を……正確には、その『腹』の部分をこちらに向けた。
「あん……?」
咄嗟に目元を指先で触れる。
確かに目の色が変わっていた。赤い光が宿っている。
「ああ、それは気にするな。指輪の効果だ」
「……まぁ、ンなことだろうと思ったけどよ」
指輪を外すと、その赤い光も消えた。
「こりゃ何なんだ?」
「『赤眼の指輪』。デーモンの瞳を模したものらしい。効果はさっき説明した通りだ」
つまり
「どこの誰だか知らねぇが……何だってンなモン作ったんだ?」
いや、
つまり……認めるのは癪だが、今回のように。
「さぁな。安寧のみを求めるなら、初めから旅などするべきではないと言っていたが……」
至言と言えば至言かもしれないが、しかし――
「そりゃそうだが、限度ってもんがあんだろ」
外すまで効果が続くなど面倒極まりない。
「ああ。俺もそう思う」
だからこの状況で自分で使うのは躊躇うな――などと。
その灰野郎はあっさり言い切りやがった。
「やっぱ喧嘩売ってんだな……?」
「適材適所という話だ。お前がオッタルの不意を突けるなら、別に逆でも良かったがな」
俺も深淵に挑む前に余計な消耗はしたくない――と。灰野郎の言葉はいちいち癇に障る。
(そりゃ、俺かその槍女のどっちかだろうがよ)
前衛型のLv.5は二人しかいない。
そして、俺達が手を組めば猪野郎をぶん投げられるのか?――と、そう問われるならば流石に否定するしかなかった。
あとは意地の問題だ。槍女に任せるのを良しとするか否か……だが。
「つーか、囮が必要なら素直にそう言いやがれ!」
「その話はまたあとにしよう」
ため息を吐いたのは魔女だった。
そして、それは単なる仲裁のための言葉ではなかったらしい。
「……どうやら、この深淵は随分と積極的のようだからな」
「そのようだ」
灰野郎と魔女の視線の先では深淵が再び沸き立ち、さらに『深淵種』を生み出す。
まるでこちらを警戒しているかのように。あるいは、確実に殲滅するためか。
「無駄話が過ぎたかな」
「かも知れんな」
一匹一匹は大したことがない。最弱のLv.3でもまだ通用する範囲だ。
だが、この調子で次々に生み出されるなら、先に息が上がるのは俺達だ。
もっとも――
「だが、元よりダンジョンとはこういうものだ」
無限のモンスターを生み出す。
そんなものは、どの階層でも待ち構える最低限の脅威だった。
「言われるまでもねぇ!!」
「るぁあああぁあああッ!!」
見た目どころか威力も伴い始めた大火炎を掻い潜り、ヘルハウンドの延髄を蹴り砕く。
必要なのは速さ。そして、加速はそのまま『力』となる。
「まだ、温い」
こちらの処理速度は、モンスターの産出速度を超えていた。
モンスターどもの数は減り、深淵は確実に近くなっている。
それどころか、モンスターの発生速度自体が鈍り始めた。
思えば、あの『宝玉』も決して無尽蔵にモンスターを生み出せたわけではない。
『
あの化け物女の言葉を信じるなら、だが。
(力尽きやがったか……?)
もっとも、しばらくして再び産出が止まったのは事実だった。
だが――
「むっ?!」
そんな楽観を叩き潰してこそダンジョンだ。
次の瞬間にはさらなる変化が起こった。深淵が波打ち、新たなモンスターを生み出す。
気になるのは、生まれてきた個体が少なすぎるということだ。
何しろ――
「あれはオーク?」
より醜悪な面になった豚頭の化物。
「それにシルバーバック……」
白猿の名を投げ捨て、黒い毛皮へと変貌した大猿。
「ハード・アーマードのように見えるね……」
そして、
どいつも随分とでかくなっているが……どいつもこいつも『上層』のモンスターどもだった。
言うまでもないことだが、今まで相手にしてきた『中層』のモンスターどもに劣る。
「追い詰められ、自棄にでもなりやがったか……?」
自分でも信じていないことを呟く。
あり得ない。そんな軟弱なことを言うわけがない。
現に項の毛が逆立ち、体には今まで以上に力が満ちていく。
目の前にいるのは、明らかにそれは警戒すべき存在だ。
「なッ?!」
最初に動いたのはどれだったか。
それは分からないが、真っ先に突っ込んできたのはシルバーバックだった。
ミノタウロスよりも大柄になったくせに、素早さまで増している。
もちろん、力もだ。
――下手をすれば
「何で『中層』のモンスターどもより強くなってるんだい?!」
「知るかよ、ンなこと!!」
「取り込みやすかった分、改良も進んだんじゃないか?」
「その理屈だと、ゴブリン辺りは酷いことになりそうだな……」
「笑えん冗談だ」
それぞれが飛び退きながら、毒づきあう。
しかし、その理屈はあながち間違いではないのかもしれない。
「全員、散れ!!」
「うお!?」
地面を削り取りながら、何かが鼻先を通過していった。
いや、あれはハード・アーマードだ。
普通の奴らもやる攻撃だが、やはり速度が違う。
加えて重量も増えたせいで破壊力が増していた。
粉塵となって舞い上がる地面と、深々と残る轍の後に思わず舌打ちしていた。
「こりゃ、下手すると【
少なくとも盾で防ぐという発想は棄てた方がいい相手だ。
あの威力なら、盾もろともに削り殺される。
「ぬぅ?!」
続けて、重く鈍い音が響き渡った。
見ればオーク深淵種が猪野郎と
それどころか、何発か剣に斬られてもなお平然としている。
もちろん、奴が本気を出しているかは知らないが、それでもありえない光景だ。
動きは鈍重だが力と耐久は『下層』以下のモンスター……いや、階層主に匹敵すると見ていい。
「やれやれ、本当に積極的なことだ……」
そして、そこに加えて数の暴力までが復活しつつあった。
再びアルミラージやヘルハウンドの『深淵種』どもが湧き出てきている。
分散したままでは面倒だ。それぞれ攻撃を掻い潜りながら、全員が再び一ヶ所に集まる。
「『上層』のモンスターという考えは棄てるべきだな」
槍を構えながら、分かり切ったことを【
言われるまでもなかった。相手の力量を下らねぇ事で測り損ねるような無様をさらす気はない。
「ところで。何でも駆け出しの冒険者にあの猿を嗾けた外道がいるらしいんだが……。その因果が戻ってきたか?」
「俺が聞いた話では、その駆け出しにミノタウロスを嗾けた者がいるらしいがな」
「そりゃてめぇもだろうが!?」
「どっちにしても酷い話だねぇ。それに、私達にとっちゃとばっちりもいいところだよ」
「ふむ……。噂に聞く新人狩りというものだな。どこも事情は同じという事か……」
「……ところでその話、後で詳しく聞かせてもらうぞ」
一通り無駄口を叩き終わったところで、モンスターどもが再び動き始めた。
二度目の激突が始まる。
今度の先鋒はハード・アーマードだった。
「【Tenebris disperdens】」
魔女が放つ小さな闇の飛礫は、しかしその装甲に容易く削り散らされる。
そのまま減速することもなく、巨塊はこちらに突っ込んできた。
「まさか無傷とは……。流石に少し落ち込むな」
どこまで本気なのか、帽子を押さえて飛び退きながら魔女が嘆いて見せた。
魔導士としては手練れだが、やはり灰野郎側だ。
フィンが指摘したように、【ステイタス】のばらつきが激しいらしい。
まず間違いなく、『耐久』と『敏捷』は低い。どっかのノロマと同じ魔力バカと見るべきか。
いや――
「【Illa potestas omnis frustra】」
この女は正しく向こう側だった。それを不利とするような惰弱は残っていない。
その瞬間、周囲の景色が歪んだ。
生じた歪みに阻まれ、ハード・アーマードの攻撃が逸れる。
「【Sacrificium ibi】」
続けざま、まったく淀みなく紡がれる詠唱。
生じた暗い闇の塊が、高速で転げまわるハード・アーマードに食らいつく。
あれなら敏捷で劣る相手にも充分に当てられる。
だが――
「クソッたれが!」
問題は、当たったからどうなるかという話だった。
銀靴の一撃は、その分厚い装甲に阻まれる。
このモンスターに攻撃を防がれるなどいつ以来か。
やはり、これはもう別物だ。『上層』のモンスターなどではない。
だが―――
(まったく効いてねぇわけじゃねえ!)
装甲は欠け、いくらかヒビも入っている。
同じ場所にまともに数発叩き込めれば、間違いなく装甲を破壊できる。
とはいえ――…
(油断はできねぇか……)
この攻撃は危険だ。回転に巻き込まれたら抜け出せずに、そのまますり潰されかねない。
「――――」
灰野郎はシルバーバックを、猪野郎がオークを押さえている。
他の雑魚どもは女どもが受け持っていた。
別に狙ったわけではないが、うまい具合に二対一。攻略法もすでに見えてる。
速さで撹乱し、隙をついて装甲を抜く。魔法で狙うより、直接蹴り砕いた方が楽だ。
決して難しい戦いではない。むしろ、俺向きの戦いだ。
そして、こいつをぶち殺せば流れは一気に優勢に傾く。
――そう。モンスターが三匹だけなら。
「しまった!?」
少し遅れて、そのモンスターは飛び出してきた。
同じく巨体。黒く醜悪に変化した姿。しかし、原形もまた分かる。
ライガーファング。『中層』の……しかも、もう少し深い階層に棲息するモンスターの深淵種。
『上層』の三匹ほど強化が進んでいるかは知らないが、地力で言えばこいつの方が上だ。
切り札は切る
「避けろ、アイシャ!」
アルミラージの大群を押し返しながら、槍女が叫ぶ。
その声すら振り払い、その大虎は疾走した。
狙いは
「――――」
だが、その虎の横腹めがけて旋風が吹き荒れた。
言うまでもなく灰野郎。手には突撃槍。加速を殺さぬまま、一直線に大虎の横腹に激突する。
しかし。大虎もまた魔石を外した。いや、分厚い毛皮は見た目以上の防御力を有している。
浅い傷ではないにしても、致命傷には程遠い。
(クソが!)
そして、今まで相手にしていたシルバーバックがその隙を見逃すはずがない。
「――――?!」
背後から迫る一撃を、灰野郎は盾で受け止める。
横薙ぎの張手は確かに手に阻まれた――が、それは猿だ。
その手は、普通の獣より器用にできている。それは、この白猿とて変わりはない。
「クオン!」
盾を掴まれた灰野郎が、そのまま地面へと放り投げられる。
その程度で死ぬような奴ではない――が、動きが止まり、無防備になっている。
「チッ!」
そこに、ヘルハウンドどもが一斉に炎を吐き出す。
「【Quod verbum omnis non perveniant】!」
それ自体は、魔女の障壁によって弾かれたが――
「――――ッ!」
その頃には本命が動き出していた。
床から壁へ。さらに天井へと駆け抜けたハード・アーマードがその頭上めがけて突撃する。
すべてを粉砕するその巨塊が直撃すれば、流石にただでは済まない。
あの灰野郎が死ねば、深淵に対抗する手段が失われる。
……いや、だからこそか。元から奴こそが狙いだったのだ。
「邪魔だ!」
アルミラージどもを蹴散らす一瞬。その一瞬が惜しい。
あと一手足りない。もう一瞬だけ時間が――
「何ッ?!」
その時。深淵の闇を、太陽の如く輝く槍が斬り裂いた。
3
「何とか間に合ったようだな」
我が目を疑っていた。
ついに人間性が限界を迎えたか。
それとも、ソウルが凝っているせいで深淵への耐性を失ったか。
メレンの街で聞いた情報を含めてなお、自分の正気が信じられなかった。
「――――…ッ」
赤い羽根が飾られた
後の世にも
左手にはサーコートと同じ紋章が描かれた円盾。右手には一見すると平凡な直剣。
見間違えるものか。
「ソラール……」
立ち上がることすら忘れて、呆然と呟く。
遥かロスリックの時代にも、その象徴として知られていた偉大なる【太陽の騎士】。
「久しぶりだな、
「あ、ああ……」
カルラと再会した時と同じ、得体の知れない恐怖が呼吸を阻害する。
呼吸など不要のはずの体が、空気を求めて喘ぐ。
「積もる話は、いくらでもあるが」
兜の向こうで、ソラールが笑うのが分かった。
「まずはこれを伝えねばならないな」
あの頃と同じ、愚直なまでの誠実さと共に彼は言った。
「よくぞ約束を果たしてくれた」
「やく、そく……?」
まるで未知の言葉を聞いたようだった。
「ロードランの地で交わした約束だ」
それは……そう。忘れていない。
その約束は、忘れていない。例え亡者になり果てたとて忘れるものか。
「不死の、呪いを……」
かすれた声で、その約束を口にした。
不死の呪いを、この世界から祓い。
全てが幻だったあの『時代』に、偽りの太陽ではなく本当の太陽を取り戻し。
――そして、太陽なき時代に、今一度光をもたらすのだと。
それが、俺達が交わした約束。
しかし、それなら俺は――…
「そうだ。
だが、ソラールは声を震わせてまでそう言った。
「空には偉大な本物の太陽が輝き、人に呪いはない。遠き日の約束を、よくぞ果たしてくれた!」
そうだろうか。自分に続いた数多の犠牲を裏切って火を消し、『闇の時代』を拓き……しかし。
天には今も古き火が燻り、大地には
そして神は変わらず人を謀り、人はその思惑のままに使い潰されている。
消したはずの火が……古い因果が、今も静かに人を蝕んでいる。
何も変わらなかった。それでも、まだ、無意味ではないと――…。
「この『時代』にも、いずれ必ず小さな火たちが現れる。貴公らが遺した『残り火』たちが」
そうだ。世界が暗闇に飲まれる中、確かに彼女はそう言った。
「貴公はそれに導かれ、俺達もまたそれを守るためにここに来た」
差し出された手へと、手を伸ばす。
「さぁ、立て
力強い手に半ば引きずられるように立ち上がる。
ああ、この感触はとても懐かしい。遠いロードランの地で、幾度こうして立ち上がったことか。
例え全てが偽りでも。例え本人が認めずとも。
太陽は確かにここにある。
ならば――…
「行くぞ――ッ!」
灰の燃え滓に、再び熱が戻る。
「そうだ、それでいい。……忘れるなよ、馬鹿弟子。道に迷う者は、道をゆく者に他ならないと」
カルラが、小さく笑っていた。
凝りがほんの少しだけ解消される。
錆びついていたソウルが、軋みながらも再び巡りだしたのが分かった。
「ギィギィ!」
アルミラージの深淵種どもが一斉にわめきたてる。
動き出したのは、ヘルハウンドの深淵種ども。狙いは、察せられた。
左手に『火』を灯し、一気に加速する。
回避は間に合わない――いや、必要ない。
思い描く炎の憧憬。ロードランの地で俺を支えてくれた魔女たち。
親愛なる我が師。イザリスのクラーナより受け継いだ呪術の奥義――!
「ギィ――…」
立ち上り、荒れ狂う火柱が深淵種を飲み込み、魔石すら残さず灰に変える。
これこそが【炎の大嵐】。
「クラーナ殿の奥義、見事にものにしたようだな!」
炎が霧散すると同時、ソラールが斬り込んでくる。
その剣が巻き込めなかった大猿を真正面から斬り伏せた。
「馬鹿言え。この程度でものにしたなんて言った日には師匠にどやされる」
思い描く憧憬は、この程度のものではない。
「ウワッハッハッ! それもそうか!」
だが、やはりなかなかしぶとい。
まだ仕留めきれていない。だが、だからどうした。
ソラールの死角を補いながら、さらに一歩踏み込む。
我ながら出来の悪い猿真似だが……しかし、本物の猿に負けるわけにはいかない。
「ガァアァァアアアッ!!」
未だ舞い散る火の粉もろともに分厚い毛皮を斬り裂き、盛大に血が噴き出してくる。
その奥に、紫紺の輝き。もう一撃といったところか。
「ルゥアアァアアアアァアッ!!」
その一撃を防ぐかのように、ライガーファング深淵種が突進してくる。
(虎は苦手だな……)
凍てついたエス・ロイエスでは散々な目にあった。
(そういえば、あの時も深淵絡みだったか)
正確には主たる脅威は混沌の炎だったが……まぁ、何であれ姿が見えるだけ奴よりは随分と可愛げがある。
半歩飛び退き、武器を≪大竜牙≫へと切り替えた。
「―――――」
両手で構え、渾身の力で横薙ぎに。
回避など間に合うものか。
減速すらできないまま、その大虎は顔面から≪大竜牙≫に激突する。
顔面の骨が砕ける手ごたえ。
「ぬうぅん!!」
声もなく身もだえるライガーファングに、ソラールがさらに斬りかかる。
愚直に磨き上げられたその剛剣が、分厚い毛皮をたやすく斬り開いた。
それでも、最後の力を振り絞るようにライガーファングが荒れ狂う。
「―――――」
飛び退きながら、ソラールが物語を口ずさむ。
勇壮なる竜狩りの物語。その序章。
その名を【雷の槍】。
しかし、強固な
「ふんっ!」
投げつけられた槍は、ライガーファングの顔面から尾までを穿ち貫いた。
見届けるまでもない。
「――――ォォ!!」
まだ駆け出しの頃のベルが勝ったのだ。
多少強化された個体とはいえ、俺が負けるわけにはいかない。
「――――――」
加速は殺さず跳躍。上空でさらに回旋し――全ての加速を刃に託す。
まったく、ウーラシールではこの一撃に何度斬り殺された事か。
その鋭さは嫌というほどよく知っている。いや、あれとて最盛期には程遠いのだろう。
正気を失い、片腕を失い、それでもあの強さだ。それを、拙いながらに再現する。
「俺達を倒したいなら――…」
そう。再現できるならば――…
「最盛期のグヴィンでも連れてこいッ!」
半端な放浪者のものとはいえ、猿を一匹叩き斬るのに何の不足もあるはずがない。
――…
「ありゃ、いったい何者だい?」
突然やってきた――そして、灰野郎と驚くほどの連携を見せるバケツ頭に、
「ソラール。【太陽の戦士】の代名詞として知られる男だ」
当然というべきか。それに応じたのは魔女。
「『太陽の戦士』って、この二年くらいで噂になった奴かい?」
ダンジョンで窮地に陥っても諦めてはいけない。よく周りを見るといい。運が良ければ黄金のサインが見つかるかもしれない――確かそんな噂だったはずだ。
そのサインに触れれば、光り輝く『太陽の戦士』が助けてくれる――そんな、雑魚どもが喜びそうな下らねぇ話だった。
「そちらは分からないが……太陽の光の長子と誓約を交わした戦士たちだ。苦難に挑む者たちへの輝ける協力者。彼らを勝利へと導くことを使命とし、分かち合った勝利こそ何よりの誉れとする。そういった者たちのことだよ」
「ケッ、下らねぇ……」
噂通りの話だった。
「確かに、例外はある。人とはそういうものだ」
吐き捨てると、魔女は小さく笑った。
「ソラールとはその【太陽の戦士】の代名詞さ。それどころか、かの者こそが太陽の光の長子。世を忍び、人に身をやつした姿だと噂する者もいたというが……」
私の弟子は大笑いしていたがね――と。魔女はそんなことを言った。
「神の眷属を、奴が友と呼ぶだと?」
「おや、意外かな。ロスリックでは、私の弟子も【太陽の戦士】の一員だったのだが」
「はぁ?!」
あの灰野郎が神の眷属だったなど、いったい誰が信じるというのか。
「もっとも、最後にはその主神を見つけだして、戦いを挑みに行ったがね」
「ああ……。何かこう、妙に安心したよ」
「……確かにな」
おい、女ども。てめぇらまでそこで安心するのもどうなんだ。
「私の弟子について、どの程度知っているかは分からないが……」
呻きあう女どもを他所に、魔女はまた妙なことを言った。
「彼は、私の弟子と共に『最初の火の炉』に辿り着いた戦士だ。あるいは、彼こそが人類最初の【薪の王】となっていたかもしれない。そう言った男さ」
その言葉の真意を理解できたのは、やはり女どもだけだったらしい。
「ふぅん……。なるほどねぇ」
「やはり、本当だったのか。……彼が嘘を吐くとは思っていなかったが」
何に対して頷いているのはまるで分からない。
だが、あのバケツ頭も向こう側で――あの
「気に食わねぇな」
それはまったく気に食わねぇ話だった。
そういう事なら、なおさらこんなところで無駄話をしている暇はない。
奴らに好き勝手させないために、今ここにいるのだから。
「フン……」
猪野郎が鼻を鳴らす。
まだ深淵種の大物は二匹残っている。ひとまず、奴らをぶち殺すとしようじゃねぇか。
「るぁああぁああぁあッ!」
回転し迫るハード・アーマード深淵種へ真正面から突っ込む。
もっとも、こいつを真正面から迎え撃つ気などない。
(いくらでかくなろうが、車輪と同じだろうが)
激突する直前、横へ跳ぶ。
加速は殺さず、その横腹に回し蹴りを叩きこむ。
真正面からの力はよほどのものでもない限り粉砕するだろうが、横からの力は別だ。
むしろ、脆い。実際、あっさりとその巨塊はふらつき、でたらめな方向に激突する。
「がぁああぁああああッ!!」
体勢を立て直すべく、体を伸ばすハード・アーマード深淵種へと一気に接近する。
もそもそとした動きは全く鈍重なものだった。
「グィィイィ?!」
叩き込んだ拳は、思った以上に容易く腹の薄い装甲をぶち抜いた。
「ノロマが! 当たるかよッ!」
慌てたように短い前足を振り回す。
当たる訳もない。掻い潜りながら、さらに数発拳を叩き込む。
拳がついに腸へと届いた。そのまま抉り、引っ張り出す――が、流石に完全には無理だった。
なりふり構わぬ大暴れに舌打ちをしながら、後ろへと飛び退く。
内臓にあれだけ傷を負わせたのだ。放っておいても死ぬかもしれないが――しかし、死ぬまでは暴れ続けるだろう。それは面倒だ。
「来やがれッ!」
血をまき散らしながら、再びハード・アーマード深淵種が転がりだす。
見えているのか、それとも匂いか何かを追っているのか。
そいつはいっそしつこいほどに俺を狙ってくる。
まったく、所詮化け物は化け物だ。
「そらよ!」
猪野郎が抑え込んでいた――いや、誘導してきたオーク深淵種のすぐそばで跳躍する。
加速すれば急に止まれないのも車輪と同じだ。
いっそ笑えるほど馬鹿正直にハード・アーマード深淵種は豚頭に直撃した。
「ヒギィイィィイィ!!」
もっとも、そのオークも深淵種。
体を削られながらも、ハード・アーマード深淵種を放り投げる。
ハード・アーマード深淵種が装甲なら、その豚頭は分厚い筋肉を纏っている。
散々に抉られながら、まだ内臓までは届いていない。猪野郎の剣を耐え凌いだだけはある。
だが、好機だった。
豚頭へと接敵。力任せに振り回される腕を躱し、まずはその肘を蹴り砕く。
「グルゥ?!」
逆に曲がった肘に引きずられ、豚頭の巨体が僅かに揺らぐ。
狙うはその首筋。粉砕すべく横薙ぎに蹴りを叩き込む。
もっとも、首周りの筋肉もまた分厚い。軋みはしたが、折るには足りない。
(構うかよ!)
そのまま膝を曲げ、首に足を巻き付ける。
殴る蹴るだけが能ではない。こういう戦い方も心得ている。
(確かにモンスターどもには使いずれぇがな!!)
いわゆる
絡めた脚もろとも体を捻って、その豚頭の首を捩じり折る。
「グェゲ――――!?」
踏み潰された蛙のような悲鳴と共に豚頭の首がおかしな方向にねじ曲がる。
だが、まだ生きている。なかなかしぶとい。
一足先に着地し、近くにあった右ひざを真正面から蹴り砕く。
仰向けに倒れ込んでくる巨体の下敷きに――なんて間抜けをさらすのはノロマだけだ。
「あばよ!」
すり抜けるついでに、その延髄へと踵を叩きつけ、そのまま踏みにじる。
それで終わりだった。
最後に一度大きく痙攣して、ようやくオーク深淵種がくたばる。
一方で投げられたハード・アーマード深淵種もまた回転突進をやめなかった。
壁や天井をえぐり取りながら突進を続けているのは音だけで分かる。
「フン……」
だが、もはや無駄な抵抗だ。
その先に待ち構えるのは猪野郎。オラリオ唯一のLv.7。
忌々しいが、名実ともにオラリオ最強。
灰野郎もまた視野に入れるたった一人の
その
一方、鎧というものはどれほどの業物であれ、必ず弱点を孕んでいる。
着て動かなくてはならない以上、当然そこには遊び――隙間があるのだから。
それは、このモンスターの装甲も同じことだった。
「温いッ!」
剛剣一閃。
振るわれたその刃は、驚くほどの正確さで装甲の可動部へと滑り込み、そのまま通り抜ける。
転がり続ける巨塊が、ズレた。
噴き出る血に混じって、紫紺の輝きが宙に舞う。
その『深淵種』は、文字通り最期まで突進を続け、灰となって消えた。
「やはり、まだ神域には至らんか」
猪野郎がもう一度、つまらなそうに鼻を鳴らす。
その頃には、灰野郎が柄にもなくはしゃいだ声を上げるのが聞こえてきた。
…――
「ったく、
消耗したくないと言っていたのは、一体どこの誰だったか。
というか。あんなに楽しそうなクオンは初めて見るような気がする。
……いや、メレンでぶらついている間もそれはそれで結構楽しそうだったけど。
「馬鹿め。そんなもの、今の貴公に勝てるわけがないだろうが」
呻いていると、カルラとかいう魔導士が呆れたようにため息を吐く。
「何か、あんたと再会した時より嬉しそうじゃないか?」
「フン……」
からかってやると、思ったより素直にその魔女は拗ねて見せた。
まったく、可愛らしいものだ。
「あいつの女たちは、みんなあんな化け物揃いなのかい?」
少しだけ笑ってから、改めて問いかける。
ソラールという
力を封じられているという今のクオンよりも遥かに。
……いや。あれこそがクオンの言う『俺より強い奴ら』の一人なのだろう。
「いや、全員が戦いの術を心得ているわけではないよ。もっとも、私もほとんど面識がないが」
むしろ、私は他に一人しか知らない。カルラはそう言って苦笑した。
どうやら本当に他にもまだいて……そして、どうやら全員がオラリオに向かってきているらしい。
「私が言うのも何だけど、あんたも物好きだねぇ」
いや、分かっていたことだが。
「フフッ……。まぁ、私も所詮は闇の子の一人という事さ。王たる器に惹かれる。どうやら、その性からは逃げられかったようだ。……もっとも、それだけが理由ではないつもりだが」
その闇の子というのが何だか分からないが……言いたいことは何となく分かる。
強い
そして、それだけが理由かと言われたなら……。
「こりゃ、本気で気合入れて鍛えなおさないとね」
そうでなければ、本当にただの情婦になってしまう。
そんなことは
「あのバケツ頭……いや、まずは【
冒険者の最高峰。最初の目標としては手頃だ。
強暴なまでの
それは決して見果てぬ高みなどではない。
「まだ神域には至らんか」
他ならぬ【
……それにしても、神の領域とは大きく出たもんだが。
「なら、まずはその一歩だ。立て直される前に道を拓くぞ」
「言われるまでもないね!!」
大物はいなくなったが、まだアルミラージやヘルハウンドの深淵種は残っている。
そして、乱れかけていた呼吸はすでに整った。
なら、これ以上呆けている暇はない。
4
程なく、深淵種どもの数は目に見えて減った。
(
ひとまず、深淵種に共通する性質としてその二つは間違いない。
元よりダンジョンのモンスターは凶暴だ。冒険者を見れば有無を言わさず襲い掛かってくる。
……が、例えば『深層』に棲息するモンスターであれば不利を悟って退くくらいの知恵をつける。
この『深淵種』は、先ほどクオンを狙ったように戦いの機微を嗅ぎ分ける知恵があると見ていい。
だが、そのうえで劣勢も気にせず鏖殺を狙ってくる。
確固たる理性の元にある狂気。かつて
しかし、本当にダンジョンの力を取り込みつつあるというなら……。
(いくらでも使い捨てが効く死兵か)
場合によっては、そういう戦法をとれるということだ。
何しろ、ダンジョンとは無限にモンスターを生み出す母体なのだから。
「よし! 行け、
見慣れぬ戦士――ソラールが、クオンに向けて叫ぶ。
「受け取れ!」
その返事の代わりに、クオンはソラールに何かを投げ渡す。
言うまでもない。件の『指輪』だ。
深淵に踏み込むために必要なそれが戦士の手に収まる前に、クオンは疾走した。
振り返るどころか、一切の迷いなく、奴は深淵へと身を投げ入れる。
「すまんがカルラ殿、ここはお任せする!」
「ああ。前衛がしっかりしている。これなら、私でもなんとかなるだろう」
カルラという魔導士の言葉に頷き、その戦士が走り出す――
「ぬ!」
いや、そう容易くは行くまい。
ここがダンジョンで、あの闇が神々すら手を焼く厄災だというなら。
これ以上の進撃を易々と許すはずがない。
「深淵の様子が……」
変わった。これまでは完全なる闇だったそれが、今は煮詰めた汚泥のように泡立っている。
まさか実体を持ったとでもいうのか。それとも侵入を拒む保護膜のようなものなのか。
しかし、異変はそれだけではなかった。
「マズいね、こんな時に崩落だよ!」
足場が大きく揺れた。間違いなく、これは崩落の前兆。
いや、おそらく事態はもっと悪い。周りの高台が揃って崩落し始めた。
「いかん! 全員後退しろ!!」
【
ひび割れた地面の向こう側に、暗い闇が覗いている。
間違いなく深淵。このまま投げ出されたなら、最悪は全滅となる。
「気をつけな! 何か出てくるよ!」
次の瞬間、俺もろともに地面の一部が上に吹き飛んだ。
「何だい、あれは……!?」
「ミノタウロスのように見えるが……」
破片から破片へと飛び移りながら、【
言うまでもなく深淵の影響を受けている――が、確かにそう見える。
だが――
「でかすぎんだろ! ゴライアス以上だぞ!?」
半身を深淵に沈めたままでも、見上げるほどの巨体だ。
だが、
「臆するな。無理矢理生み出しただけにすぎん」
巨体ではあるが、表面はどこか蕩け、まるで熱せられた蝋人形のようだ。
深淵種とも異形とも言い難いその有様を見れば、出来損ないなのは明らかだ。
いや、だからこそあのような巨体にできたのか。
「その通りだが、しかし……!」
問題は足場だった。ひとまず全員が概ね同じような場所の足場に着地している。
だが、これがいつまで持つか。いつ復元が始まるか。
いや、そもそも――
「やべぇ!!」
その巨大なミノタウロスは腕を振り上げ――そして、何の芸もなく叩きつけた。
効果はあまりに劇的だった。
「むう?! これはいかん!」
そんな無様な一撃に当たるような未熟者はこの場にいない。
いや、あの程度なら新人でも避けられよう。それほどに単調な一撃だ。
だが、威力だけは強烈だ。特に、ひび割れた地面にとって。
地面が砕け、あるいは分裂し、いくらかが深淵に沈んでいく。
今の俺達は凍った水面に立っているようなものだ。
いかに上級冒険者とはいえ、翼を持つ訳ではない。足場がなくなれば落ちるしかない。
そして、下にひろがっているのは凍てつく水よりも遥かに危険な代物だった。
「あそこの足場に――!」
比較的大きく、まだしっかりとした足場に向けて【
それしか方法はないが……しかし、それを許してくれるほど愚かでも寛大でもあるまい。
迎え撃てないような速さではないが……迎え撃ったところで足場がなくては意味がない。
「クソ、間に合わない……!」
いかに俺達といえど、そのミノタウロスがもう一度腕を振り上げ叩きつけるより速く、その足場まで走り抜けられるかと言われれば――…
「止まるんじゃねェぞッ!」
動いたのは【
アレンに次ぐ『敏捷』の持ち主。あるいは、【剣姫】と同じかそれ以上の速さをためらいなく発揮し、その狼は巨牛へと駆ける。
構図はごく単純だ。【
ミノタウロスにとっては地面を粉砕するための腕で【
ひと手間増えた程度の事だったに違いない。
しかし、そのひと手間こそが俺達の命運を繋いだことに変わりはない。
そして、あの凶狼が自己犠牲などと殊勝な真似をするはずがなかった。
「受け取れ、貴公!」
「寄越せ、バケツ頭!」
二人の声が交差し、微かな青い輝き宙を奔る。
払いのけられ深淵に堕ちゆく【
……いや。
(さてはそこまで織り込み済みか?)
さもありなん。気位ばかりは高い男だ。
「忌々しい奴め」
まんまと先を越されたというわけだ。
「ううむ……。【深淵歩き】の伝説に挑めると思ったが……」
俺とは別の意味で、無念そうにソラールなる戦士が肩を落としていた。
「だが、仕方あるまい! 深淵は
もっとも、その後に続いた実にさっぱりとした言葉だった。
「私達も撤退とはいかないな……」
飛び散った破片が、この広間に通じる唯一の入り口を潰していた。
さらに言えば、高台が崩落した影響で足場もない。
もっとも、例えそうでなくとも撤退などという選択はあり得んが。
「当然だねッ!!」
大朴刀を両手で構え、【
「確かに、あれを放っておけば深淵の拡大が早まるだけだろう」
カルラという奇妙な魔導士もまた、杖を構えた。
「分かっている。ダンジョンの修復力がどこまで通じるかは分からん以上、拡大はできるだけ食い止めなくては……」
最後に【
「言われるまでもない。ここで奴を討つ」
俺も、つまらぬ私情はここに捨て置くとしよう。
「そうだとも! クオン達が深淵の主を討つまで、俺達がここで食い止める!」
ソラールという戦士が、剣と盾を構え――
「行くぞ!!」
咆哮を上げる巨牛との激突が始まった。
…――
ぶつりと。落ちた先に広がっていた汚泥の膜は思ったよりもあっさりと破れた。
いや、単に受け入れられただけか。
落ちればそれだけで即死なのだから、わざわざ受け止めてやる義理もないだろう。
その先に広がっていた闇は深く、そして重い。
一切の光を宿さない原初の闇。その中を落下していく。
それは、奇妙な感覚だった。
速さは分からない。ずいぶんと長い間そうしていたようにも思えたし、一瞬だった気もする。
あるいは、沈み込むと言った方が正確なのかもしれない。
いずれにしても、その完全な闇の先には、それよりは少しだけ明るい空間が広がっていた。
「っと」
あまりに軽い着地の感触に、逆に躓きそうになる。
というより、感覚がおかしい気がする。それに、背中が妙に熱い。指輪をはめた指もだ。
「うん? ソラールはどうした?」
先に飛び込んだ灰野郎が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「あとで本人に聞け。大体、ダンジョンの中で予定通り事が進む訳ねぇだろ」
「それもそうだな」
深々と灰野郎がため息を吐く。
来るならせめてあの魔女にして欲しかった――と、そんなところだろう。
「ま、仕方がないか。深淵狩りのお供は狼と昔から相場が決まっている」
「あァ?」
聞き返すが、灰野郎は気にしなかった。
それどころか、もう一度まじまじと俺を頭から足先まで見やり――
「まぁ、そうだな……」
もう一度ため息を吐いて歩き出した。
「伝説の騎士じゃなくてただの放浪者だしな。相方がならず者だって、そりゃ仕方ない話か」
「てめぇ、本気で喧嘩売ってんだな……?」
殺気が滲む――が、その程度で動じるような奴ではない。
振り向きもせず先に進む灰野郎に舌打ちしてから、俺も深淵の奥へと歩き出した。
神々ですら恐れた厄災。ダンジョンの力すら取り込んだ闇。『深淵種』の母体。
道中で見聞きした話から、その中は見渡す限りに深淵種や異形どもが蠢く魔境――と。
そんなことを考えていたのだが。
予想に反して、異形どもの襲撃は予想より格段に少ない。
そして、深淵の中は驚くほどに静かだった。静謐とすら言える。
(これが深淵ってやつか……)
むしろ、この静けさこそが厄介だ。
背中が焼け付くような悪寒。それを押しのけるような郷愁。
この『指輪』がなければ、俺も調査隊の連中と同じ末路を辿ることは今さら否定しようがない。
油断すれば、今すぐに『指輪』を外して投げ捨てたくなるような、そんな気さえする。
(薄気味悪ぃところだ……)
そこは暗い場所だった。だが、それでも見える。
どこにも光源が見当たらないというのに、自分たちの周囲だけが明るくなっている。
いや……それとも避けられているだけか。この闇に溶け込まない異物として。
「おい、灰野郎」
いつもの大剣は鞘に納め、斧槍を携えた灰野郎に問いかける。
「ここはどこだ?」
「深淵の中だが」
それはまったくその通りなんだが。
「聞きてぇのはそういうことじゃねぇ」
「分かってるよ。……少なくとも、従来の一五階層ではなさそうだ」
近くの崖を適当に滑り降りてから、灰野郎が肩をすくめる。
もちろん、先ほどの
高低差すらろくにないのは、『上層』の浅い部分くらいなものだ。
そして、高低差をはじめとした地形の差異は現在位置を把握するための重要な手掛かりとなる。
しかし、この場所はどこを見回しても記憶にある一五階層ないし一六階層とは合致しない。
「まさか過去のどっかとか言うんじゃねぇだろうな?」
ダンジョンの地形が変化する。そういう事も起こりえるのだと、五九階層で経験してきた。
もっとも、あの精霊擬きがくたばった今、本来の氷河に戻り始めているかもしれないが。
「それはないだろう。この辺りの時空は安定している」
「なら、ここはどこだってんだ?」
灰野郎は小さく唸ってから、
「ダンジョンが、どこまで深淵を許容しているかだろうな」
「あァ?」
「見ろ」
灰野郎が指さしたのは、何の変哲もない壁だった。
そこが崩れ落ち、中からモンスターが這いだしてきたとしても、何らおかしくない。
ただ――
「『深淵種』……と、通常種か?」
生れ出てきたアルミラージどもは、深淵種と通常種が混じっていた。
さらに言えば――
「変容しやがった」
通常種は生まれ落ちてすぐに変容を開始する。
意味が分からない。どうせ変容させるならそのまま生み落とせばいいものを。
「ギィイィィ!!」
とりあえず、話はあいつらをぶち殺してからだ。
どうせ数は少ない。大した時間は必要なかった。
「で、これはどういうことだ?」
飛び込み、蹂躙してから問いかける。
「さぁ。あくまで予想だが、やはり主導権争いの最中なんだろう」
「主導権争いだァ?」
「互いの力は欲しいが、相手に飲み込まれることは良しとしない。と、そんなところか」
「ダンジョンと深淵が、ってことか?」
だから『深淵種』とそうでないのが混じって生まれる。
そう考えれば、目の前の現象も一応は納得がいく。
別にその後の変容は主権争いとは全く関係ない。他と同じく深淵に飲まれただけだ。
「多分な。もっとも、仮にそうだとするならダンジョンにも深淵にも意思があるって話にもなるが」
「ダンジョンの悪意なら、嫌でも感じるがな」
「それもそうか」
灰野郎は小さく笑った。
「何であれ、ありがたい話だ。準備万端整っているところに飛び込むより、いくらか楽だろう」
鼻を鳴らす。
その通りだが、同意するのも癪だった。
「で、それとこの場所とどういう関係がある?」
「虫こぶというものを知っているか?」
「あん? ……確か枝や葉っぱにできる虫の巣みてぇな奴だろ」
「ああ。俺もさほど詳しいわけじゃないが、あれはお前が言うように虫に巣くわれた場所が異常に発達した結果らしい」
それが何だってんだ――と、問いかけようとして、その直前に意味を理解した。
「つまり、ここはその『虫こぶ』の中ってことか?」
ダンジョンに巣くう深淵。その周辺が異常変化している。
とすれば、見慣れない構造が出来上がっているのは納得だが。
「ダンジョンの地形まで変化させたってことか……」
「ここは本当に
過去には戻れなくとも、それくらいはできるだろう――などと。
灰野郎は相変わらずイカれた事を言いやがる。
「ンなことまでできるのかよ?」
「ゴライアスと同じか、それよりでかい巨大骸骨が暴れられるくらいの空間が、髑髏杯の中に広がっていたからな。それともその空間もろとも封印されていただけだったのか……」
「……色々面倒くせぇ話は抜きにして、純粋にてめぇの過去が気になってきたぞ」
俺ですらそんなことを思うのだ。
ただそれを聞き出しただけで、ロキも含めて神どもは大喜びしそうが気がしてならない。
「別に聞いていて面白い話はないと思うが」
本気かこいつ。いや、間違いなく本気だろう。
いっそ眩暈にも似た感情を、ため息とともに吐き出す。
「……どうやら、調査隊は優秀だったらしいな」
「あァ?」
不意に、灰野郎がそんなことを呟いた。
「見ろ」
指さした先にいたのは人影のようなものだった。
この奇妙な闇の中でもはっきりと分かる。
手も足もないぼんやりとした……それこそ、ガキどもが描く『お化け』の絵に似た何かが、そこに三匹佇んでいた。
「深淵湧き。おそらく、深淵に飲まれた人間が行きつく形の一つだ」
「……あれが、人間だと?」
「ああ。深淵に飲まれ、それでも最深部を目指したといったところか」
まぁ、他の冒険者が迷い込んだだけかもしれないが。
灰野郎はそんなことを呟いてから、
「気をつけることだ。その指輪を手放せば、お前も仲間入りだぞ」
ここまでくれば、流石に反論の言葉は思いつかなかった。
忌々しい気分で舌打ちしてから、問いかける。
「あれは異形の仲間……見たところ、ウォーシャドウみてぇなもんか?」
「近づけば襲ってくる。だが、あれは魔力の塊のようなものだ」
「物理的なダメージじゃねぇってことか。こっちも魔法以外通じねぇとか言わねぇだろうな」
「いや、殴れば殺せるはずだ。それを『死』と呼ぶかは知らないが」
俺も言葉遊びに興味はない。蹴散らせるなら、それで充分だ。
「ただ、意外と動きは速い。気をつけろ」
「誰に言ってやがる」
その辺りで、向こうも気づいたらしい。
宙を滑るようにして、こちらに近づいてくる。確かに、意外と速い。
だが、驚くような速さでもなかった。
「るぁあッ!」
先手を奪い返し、先頭の一匹――いや、一人の顔面らしき場所に蹴りを叩き込む。
確かに攻撃は通じる。思った以上に確かな感触が伝わってきた。
魔力型のウォーシャドウ擬き。ひとまずそういう認識で良いだろう。
つまり、殴れば殺せる相手だ。
「―――――」
灰野郎は容赦なく別の一体に斧槍を突き立てている。
そのまま押し潰すように地面に縫い付けると、淡い燐光と共にそれは消えた。
魔石は残らない。確かに人間だったらしい。
「チッ!」
一方で、俺が蹴り飛ばした奴は、まだ生きていた。
それどころか、するりとこちらに巻き付くように蠢く。
だが、もはやこいつらはデーモンと同じだ。俺の攻撃は、薄皮一枚何かに届いていない。
その動きを追って体を捻りながら、人間であればこめかみがある辺りに肘を叩き込む。
もっとも、そこが急所として機能しているとは思えない。
多少動きが鈍った気もするが、実際はどうだか。
ただ、魔力の塊という意味もよく分かった。
引き戻す一瞬前、触れていた肘に焼けたような痛みが走る。攻撃に転じたという事だ。
(手も足もねぇなら、そうなるか)
例え攻撃手段が体当たりであっても、その威力の正体は魔力。
加速がなくとも、それなりのダメージを与えられるとみていい。
……もっとも、こうして触れられる『体』があるのだから、それだけではないだろうが。
(大した問題じゃねぇ)
常にそういう状態なら、多少は面倒だがそうではない。
攻撃と防御が同時にできないなら、戦いの機微はいつもと同じだ。二度は喰らわない。
「くたばりやがれッ!」
そのまま蹴り抜く。銀靴を貫くほどの威力はまだない。
元々中空に浮かんだままの奴らだ。吹き飛ぶこともなく、転倒することもない。
好都合だった。下手に動かれないだけ、追撃しやすい。
そのまま脚を振り上げ、脳天に踵を叩き込む。それでようやく、その一体が霧散した。
「どうも効きが悪ぃな……」
舌打ちする。その頃には、灰野郎が最後の一体を仕留めていた。
やはり『
「そうかもしれないな」
あっさりと頷く灰野郎の掌に、何かが浮かんでいた。
この『深淵湧き』とかいうものをごく小さくしたような、小さな黒い何か。
「何だそりゃ?」
「『人間性』。カルラが言っていただろう? 人の内には闇があると。その欠片だ」
そんなことを言うと、灰野郎はその『人間性』とやらをいつもの『スキル』で
「ここで手に入ったのは幸運だった」
「ンなもんが何かの役に立つのか?」
「ああ。何が起こるか分からないからな」
相変わらず得体の知れない奴だった。
何度目かの舌打ちをしてから、灰野郎を追って歩き出す。
(ま、今さらか)
どうせこんな得体の知れない空間にいるのだ。
そこに関わりの深い奴らの得体が知れないのも当然だろう。
5
結論から言えば。
そのミノタウロス擬きそのものは確かに大した『強さ』ではなかった。
力は通常よりもいくらかありそうだがそれだけだ。
巨体ゆえに動きは鈍く、深淵に半身を漬けたまま出てこようともしない。
あるいは、脚がないのかもしれないが。
攻撃も単調だった。ただその巨腕を振り回すだけ。
今のところ、厄介な
それでも駆け出しか、Lv.2になったばかりの連中なら苦戦するだろうが――この場にいる連中にそんな未熟さはない。
そう。強さに関して言えば、決して大したことはない。
ただ、それでも――
「チッ! 厄介だねぇ……!」
通り抜けていく巨腕を横目に、舌打ちする。
そして、このままの状況が続けば、確実に全滅する。
理由は、ごく単純だった。
「いかんな。このままでは足場が……」
近くの足場に着地した【
「ああ。分かっている」
それどころか【
足場が足りない。そして、落ちたら終わり。
ごく単純なその状況は、どこまでも私達に不利だった。
「いずれにせよ、このまま逃げ回っているだけでは埒が明かん」
こちらに見向きもせず壁を破壊するその巨牛を見やり、【
壁を破壊している理由など、一つしかない。深淵の領域を拡大させるためだ。
深淵がダンジョンの力を取り込みつつある以上、これ以上の侵喰は見過ごせない。
「あの『深淵種』は、やはり出来損ないだ。
問題は巨体ゆえの重量と、何よりも足場が脆くなっていること。
おそらく、実体を持ったらしい深淵の上に浮かんでいるだけなのだから、それは仕方がない。
凍った湖の上に立っているようなものだ。体重で沈まないだけまだマシだろう。
「そして、もう一つ」
「分かっている。この状況で自己再生をされるのは厄介だな」
そう。再生能力だ。
「あれを『再生』と言っていいかは分からんがな」
まぁ、それはその通りなのだが。
そいつの巨体はヘドロのようなもので包まれ、したたり落ちている。
もはやミノタウロスの面影などほとんどない。
蕩けた蝋人形どこか出来損ないの泥人形といった有様だ。
自己再生……というより、体が融解しているせいだった。
「実際、泥人形を斬りつけてるとしか思えないけどね」
いくら傷を与えても、その傷口までが
あのまま自壊しないのがいっそ不思議なほどだ。
流石の【
「分かっている。……だが、例の薬が切れても終わりだ」
時間制限という意味なら、足場に限らない。
小箱は渡されているが、肝心のもう中身がもうほとんど残っていない。
あと一回分だ。それでも、全員分あるだけまだマシだろう。
「いずれにせよ、時間はかけられん」
結ばれた結論はまったく無駄がない。無駄がなく、どうしようもなく分かりきったことだった。
「いっそ本体に飛び乗るか……」
「いや、それはそれであまり良くないな」
【
「まぁ、見た目からしてよく滑りそうだけどね」
それとも底なし沼のように飲み込まれるだけか。
それもそうだが――と、私の軽口に苦笑してからカルラが続ける。
「闇術の効きが悪い。おそらく、あの蕩けた部分は深淵に戻りつつあるのだろう。いや、汚泥こそがあの『深淵種』そのものなのかもしれん」
そのおかげで、足場を失わないで済んでいるわけだが――と、カルラは小さく呟いた。
「それが結果として保護膜のようになっていると?」
「ああ。そして、あれが深淵かそれに近いものだとするなら、直接触れるのはあまり良くない」
特に貴公らにとっては――と、小さく付け足してから
「いずれにせよ、近づいて戦うのもあまり現実的ではない。闇術以外の術で狙うのがいいだろう」
「そいつは分かってるんだけどね……」
問題は巨体だという事だ。そして、あの『保護膜』とやらは魔法も減弱させる。
然るべき場所に当てなくては意味がない。
「ああ、任せておけ! 貫くまで何度でも撃ち続けるのみだ!」
確かに、こいつも雷を『槍』にして投げつけている。
そして、その『槍』こそが今のところ、一番深くまで抉っているのは間違いない。
それでも滴る汚泥に飲まれてまだ魔石までは届かない。
「要は胸元をぶち抜いてやればいいだけだろう? 楽な話さ」
深淵種だろうが、泥人形だろうが、モンスターはモンスターだ。
胸には
そして、的はでかく、動きは遅い。
「さしあたり、必要なのは水月を斬る術か」
「極東で言う禅問答というものだな。珍しいことを言う」
面白い――と。【
「期待しているよ」
作戦会議はここまでだ。思い出したように、その泥人形はこちらを向く。
どうも行動に一貫性がないというか曖昧というか……。
いや、そこまで含めて『出来損ない』ということか。
もはやミノタウロスですらなくなったそれを見やり、最後のポーション――【ミアハ・ファミリア】とやらが作った『新作』を煽る。
最初の異形どもとの戦闘で負ったかすり傷も含めて、消耗した
もちろん、完全にとは言い難いが……。
「誰に言ってるんだいッ!」
空瓶を投げ捨て、最後の突撃を開始する。
「【来れ、蛮勇の覇者。雄々しき戦士よ、たくましき
泥人形は、その両腕を左右に大きく広げる。どうせ大した知恵もない。
そのまま単純に打ち合わせる気だろう。蚊でも潰すように。
「はぁああァッ!!」
「おぉおおッ!!」
槍と剣。研ぎ澄まされた一撃が汚泥でできた腕を斬り飛ばし、あるいは穿ち飛ばした。
それでも
「【――女帝《おう》の
だが、遅い。詠唱はもう二節。
いや、まだ二節か。どこかのヘッポコ狐なら、とっくに歌い上げている。
『―――――ォォォ!!』
ここにきて、その泥人形が吼えた。
おそらく
辺りの深淵が波立つ。このままでは振り落とされる――
「【Anima nostra vehementer resonate】」
だが、その叫びを押し返すように闇の塊が奔り、その顔面を吹き飛ばした。
もはやミノタウロスの面影もない汚泥の塊だが、まだそういう機能くらいは残っていたらしい。
それで
「――――――――!」
ソラールが聞き取れない言語で勇壮な物語を口ずさむ。
左手に、雷が宿り渦巻いては再び『槍』を生み出す。
だが、それは今まで投げつけていたものより一回り大きい。
「【―――我が身を満たし我が身を貫き、我が身を殺し証明せよ。飢える我が
それに合わせて、私も一気に歌い上げた。
「【ヘル・カイオス】!!」
紅色に染まった斬撃は、狙い違わずがら空きの胸元に激突する。
だが、あと少し威力が足りない。
汚泥を引き裂き、蒸発させ、魔石をむき出しにしたところで霧散した。
舌打ちをしたが――もっとも、勝敗は決まった。
いくら汚泥がしたたり落ちようともう遅い。魔石の正確な位置ははっきりした。
「うおおおおおおッ!」
そして、投擲されるのは雷の大槍。
汚泥越しにも魔石に迫りつつあったその『槍』よりもさらに強力な一撃だ。
滴る汚泥もろとも魔石を貫くなどたやすい話だっただろう。
ただ――
「いかん! 全員下がれ!!」
やはり、そのでかさが問題だった。
魔石を失ったら素直に灰になればいいものを、くずくずに蕩け落ち始める。
もちろん、足場にも落ちて広がっていく。それどころか、重さに負けて足場が沈み始めている。
「【Anima nostra resonate】!」
カルラが魔法――いや、闇術とか言ったか――で、通路を塞いでいた瓦礫を吹き飛ばす。
まったく、あの泥人形に通じなかったのが悔やまれる威力だ。
「ったく! 最後の最後まで面倒な奴だね!!」
すぐ後ろに迫っているその汚泥が深淵そのものかは分からないが……わざわざ浴びて確かめる気などない。
残っている足場を駆け抜け、飛び移っては
(間に合うか!?)
一番接敵した私とソラールが一番出口から遠いのは当たり前だ。
このままでは足場を失うより先に汚泥に追いつかれかねない。
「二人とも跳べ!」
出入り口で【
沈みゆく足場を、最後に全力で蹴りつけて跳躍。
一か八かだったが……辛うじてお互いの手首に手が届く。
そのままもつれ合うようにして、通路の奥まで転がり込んで――…
「あとは、あいつら次第ってわけだ」
汚泥も足場を道連れにして、すっかり深淵に戻っていた。
いや……案外、本当に汚泥こそがあのミノタウロス擬きの『脚』だったのかもしれない。
深淵は今も、果ての見えない闇として静かにそこにあった。
今のところ、そこから新しい深淵種がわいてくる様子もない。
ただ、少しずつ広がっている。私達のいる場所も、いつまで持つことやら。
最悪は、薬が切れる前に撤退することも視野に入れなくてはならない。
「甚だ心配だが、そういう事になる」
カルラが小さくため息を吐いた。
「おや、惚れた雄を信じれないのかい?」
「いや。どれほどの怪物がいようと、最後に勝つのは私の弟子だ」
何の疑問も抱かず、彼女は言い切った。
「ただ、あの若者は……」
鼻を鳴らしたのは……意外にも【
「心配はいらん。気位だけは高い男だ。これ以上奴に頼るなど矜持が許さないだろう」
「オッタル。それは、お前の事だろう?」
珍しく【
小さな笑いが起こったのは仕方がないことだ。
何しろ、私達がやれることは全て終わった。後は結末を見届けるだけでいい。
「
少しだけ弛緩した空気の中で、今さらそんなことを言い出したのは、ソラールだった。
「そう呼ばれている」
「おお、やはりか! オラリオ最強と謳われる冒険者と共に戦えるとは光栄だ!」
ウワッハッハッハハ――と、快活に笑うソラールに、これまた珍しく【
「奴に言われたなら、皮肉だと思うところだが……」
そのため息もまた、快活な笑い声に溶けて消えるのだった。
6
今回の深淵歩きは、存外早く終わりそうだった。
その『霧』に触れて、そう確信した。
「この先に
「何で分かる?」
「この『霧』がかかっているからだ」
触れても霧散しない。つまり、この先には何かが待ち構えている。
「まずこの『霧』は何なんだ? ただの霧じゃねぇだろ」
「俺達にもよく分からない。『霧』だとか『光』だとか、適当に呼んではいたがな」
歪んだ時空か、あるいは因果を正すもの――なのかもしれないが。
もっとも、それとて完全なものとは言い難い。
「この先は一方通行だ。勝ち抜けた者か、敗れた者か。外に出られるのは、そのどちらかだ」
もっとも、敗者となった時点でただの生者であるこの同行者は死ぬだろう。
つまりは、入ったら最後、勝つしかないわけだ。
「上等じゃねェか」
そこのところ、本当に分かっているのか?――と。
問いかけようとしてやめた。
命の重さなど、俺達よりもよほど知っているだろう。
それが、どれほど貴く重く――しかし、どれほど軽々と吹き飛ぶものなのか。
暗く澱み、何をどうしても手放せなくなった俺達とどちらがマシかは知らないが。
「それなら、行くとしようか」
改めて、その『霧』へと手を差し込む。
慣れ親しんだ、導かれるような感触。あるいは、引きずり込まれているだけか。
それとて過ぎてしまえば一瞬の事。
その先にあったのは、広大な空間。光を宿さぬ深淵の底。
「ハッ、どうやら一方通行ってのはマジみてぇだな」
物珍しそうに『霧』をつま先で小突きながら、同行者が小さく呟いた。
「それで、深淵の主ってのはどこだ?」
同行者の問いかけに応じるように、深淵の奥から何かが近づいてくる。
それは――…
「貪食ドラゴン……?」
いや、違う。明らかに形状が違う。
「インファント・ドラゴンの『深淵種』ってところか?」
そうだ。『上層』における事実上の階層主。本来なら四mほどの小柄な竜。
もっとも、少なくとも大きさだけ見ても、もはや一端のドラゴンそのものだったが。
「そのようだな」
暗い鱗を着込んだそのドラゴンが、闇を振るわせて咆哮する。
貪食ドラゴンを連想したのは、その胸元に大きな『顎』があるからだ。
……もっとも、半身が裂けて見えるほどの『大顎』に比べれば遥かに慎ましいものだが。
とはいえ――
「まさかこの蜥蜴が闇の子ってわけじゃないだろう」
今までと明らかに異なる深淵の発生。
深淵とは暴走した人間性。人間性とはすなわちダークソウルの欠片。
闇術がその闇を御する術だとするなら……敵は深淵を統べるほどの圧倒的な存在だ。
「やはり、『主』は別にいるか……」
まさかこの蜥蜴にそれほどの力があるとは思えない。
それだけの力を宿しているなら在りし日のマヌスと同格か、それ以上の術者。
最も可能性が高いのは――
(深淵の落とし子。マヌスの『娘』たちか……)
しかし、だとするなら。
(寄る辺となっている『王』は誰だ?)
それとも、まだそれを見出していないのか。
いや、カルラのように『王』を求めない闇の子もいる。必ずしも必要という訳でもないのか……。
(カルラは『闇の子』としては変わり種らしいがな)
もっとも、それを言えば『闇の子』そのものが変わり種なのだが……。
「何を言ってやがる?」
いずれにしても、今は関係のない話だ。
まずこの蜥蜴の王様を始末しなくては。
「なに、今の俺でも勝てそうな相手だと言っただけだよ」
体内にソウルを奔らせる。
確かに、ほんの少しだけ
(存外、人の枷も簡単に外れるものらしいな)
自分の単純さに苦笑してから、何度目かの深淵狩りを始めた。
――…
(チッ、あの野郎……!!)
四年前とは比較にならない。おそらくは、猪野郎すらも置き去りにしている。
まるで枷でも外れたかのような――…
(マジで外れたのかも知れねぇな)
あの魔女とバケツ頭と再会したことで。いや、奴らが何かを赦したことで、だろうか。
つまり、フィン達の予測は正しいとみるべきだ。
……これは成長ではない。ただ枷を外し
「ッッ!!」
背中を焦がす熱よりも……いや、満月の光よりもなお狂暴な熱が体を駆け巡る。
血の一滴。髪の一筋まで力が満ちていく。
「ルゥアアァアアアァアアァァアア―――ッッ!!」
自身の枷を外すように吼えた。
意図したものではない。抑えきれぬ激情が、長く尾を引いて深淵を震わせる。
肉が爆ぜたような……獣化よりももっと深く、本物の獣にでもなったかのような錯覚。
その衝動のままに地を蹴る。真正面から迫るのは、インファント・ドラゴン深淵種の牙。
激突する直前に跳躍。加速を殺さぬよう、中空で転身。その威力のすべてを踵に託す。
「オオオォォオオオォオオッッ!!」
会心の一撃だった。記憶にあるどの一撃よりも重い。
その一撃が開きかけたドラゴンの顎を強引に閉じさせ、さらに仰け反らせる。
通常のインファント・ドラゴンなら頭を消滅させ、そのまま地面を砕いていただろう。
それが、少し仰け反るだけとは。やはり、『
それとも、純粋に硬いだけか。
(これが深淵か……ッ!)
神どもさえ恐れる厄災。今さらだが、まったく冗談にもならない事態だ。
だが、そんなことは気にもならない。それほどに血が猛っていた。
あの猪野郎は、どうやら本気で『神の領域』を見据え始めたらしい。
ならば、この闇に怯えている暇などある訳がない。
大体――
(この『親玉』を灰野郎はぶち殺してるんだろうがッッ!!)
初めて深淵を生み出した存在。神ですら届かなかった相手を、この灰野郎はぶち殺している。
こいつが……こいつらが今まで繰り返してきた戦いとはそういうものだ。
(こいつらに出来て、俺にできねぇわけがねェ!!)
例え『
相変わらず薄皮一枚届かないが……まったく通じていないわけでもない。
いつもより余計な手間がかかるだけだ。その程度、一体何の問題がある?
「くたばりやがれぇぇええええッ!!」
必ず。必ずその領域に到達するのだと。
焼かれ軋むように熱を発する背中を振り払うように
…――
名も知らぬ同行者は、思ったより頼りになりそうだった。
望外の幸運に、内心で感謝しておく……が、しかし。敵は仮にも深淵の主だ。
(やはり、そう簡単にはいかないか……!)
エストを煽りながら、内心で毒づく。
多少凝りが解れたところで、まだ『玉座』ははるか遠く――それどころか、最初の『壁』すら破れていない。
紛い物と言えど『深淵の主』を相手取るには、まだ力不足だった。
濁流のように迫る尾を盾で辛うじて受けながら、内心で舌打ちする。
劣勢だ。いつものように劣勢だった。今回も楽には勝たせてもらえそうにない。
無論、今さらそれを厭うことはないが。
「何!?」
今まで蠢くばかりだった胸元の『大顎』から黒炎が吐き出される。
「インファント・ドラゴンが
同行者が毒づく。
確かに
文字通りに『吐瀉』されたそれは、竜を中心にして広がっていく。
「面倒くせぇ奴だぜ!!」
まったくだった。舌打ちしながらそれぞれ飛び退く。
直線にすれば大したものではないが……同行者は前衛型だ。もちろん、俺も基本的には。
お互いに近づかないことには話が始まらない以上、この攻撃は厄介だった。
「【Soul Spear 】」
古き竜の言葉に導かれ、【ソウルの槍】が発現する。
青白い『槍』は狙い違わずその竜に直撃した――が、鱗に阻まれて致命傷には程遠い。
不死の要たる『岩の鱗』ほどではないだろうが……いや、それとて時間の問題か。
シースが何故人間を……まして、グヴィネヴィアに仕えていた聖女たちを……おそらく、最上級の
俺達が不死人へと転じる理由。あるいは、竜体化できる理由。
それらも含めて考えれば、シースが見出した理論もある程度は推測できる。
もっとも、この状況で立証してみる気など欠片もないが。
(距離を取るか? いや、それはそれで面倒だな……)
余計な思考は打ち切り、攻略に専念する。
周りは深淵の闇に包まれている。構造は小ロンドではなくウーラシールのそれだ。
ある程度の視界は確保されるが、それを超えれば途端に無明の闇に閉ざされる。
もっとも……それが梏桎になるかと言われれば、そうでもない。
足場はかなり良好だ。多少派手に飛び回っても滑落するような事にはならない。
この竜がこちらを振り払って闇の奥にでも向かわない限りは視界も塞がれない。
竜の動きのみに専念できる。状況としては文句なく最高だ。
もっとも、この階層の
「―――――ッ!?」
とっさに『火』を≪ゲルムの大盾≫に切り替えていた。
同時、通常の顎が開かれ、今度こそ正しく
深淵の炎は
少しでも気を抜けばその重さに負け、盾もろともに押し流されることは分かっていた。
何しろ、それには物理的な打撃すら宿っているのだから。
「クッ!」
暗い火の粉を引き裂いて、再び強靭な尾が唸る。
流石に凌ぎ切れず、構えた盾を崩された。
遮るものがなくなった空間。その先で、竜の眼に姿が映り込んだ。
唾液の滴る牙が迫る。完全な回避はとても望めない。
「――――――」
右手に『火』を灯す。思い描くのは、今は遠きウーラシールの闇。
我が師クラーナには体得できぬ……人のみが会得できる暗い炎。
陰すら生まぬその炎を一息の内に燃え上がらせる。
その名を【黒炎】。
ウーラシールにて開眼したその炎は、迫る顎をわずかに押し返した。
不満そうな唸り声と共に、長い首がしなる。
痛撃を凌いだ一瞬で、なりふり構わず地面に体を投げ出してその場を離れる。
不死人にとって疲労など錯覚のようなものだ。
乱れた呼吸さえ整えれば、すぐに
「るあぁああッ!!」
その一瞬を、図らずも同行者が確保してくれた。
行きずりの同行者とまともな連携などできる訳もない。
だが、灰瓶の中身を一口煽るくらいの余裕は与えてくれた。
とはいえ――
(どうしたものか……)
当然ながら、あの竜はもう『火の時代』の存在へと回帰している。
『火の時代』の闘争とは魂の喰らい合い――と、そう言ったのはウラノスだが……あながち間違いではない。
何しろ俺達にとっては『ソウルの業』こそが全ての戦闘技術の基本となる。
原初の闘争の最中に見出された朽ちぬ古竜に『死』をもたらす術。
(やはり、あまり効いていない……)
その有無の差は、思った以上に大きい。
同行者の様子を見やり、改めて呻く。
無論、その同行者は悪くない。シャクティと同じか少し上といったところだ。
つまり、この『時代』においては類まれな実力者と言っていい。
それでも、あのドラゴンに対しては攻撃が十全に通っていない。
深淵を帯びた鱗を貫くにはまだ足りない。
だが、それも当然か。あれはある意味古竜へと回帰しつつある。
全盛期のグヴィン達ですら死闘の末にやっと討滅した『灰の時代』の王者たち。
本来ならば、人間がまともに戦える相手ではない。
「―――――――」
竜狩りの物語……【雷の槍】の物語を口ずさみながら胸中で呻く。
今は早さが最優先。一瞬でも注意を惹いてやれば、あとは自力でどうにかするはずだ。
「クソが!!」
期待通りに顎を掻い潜ってから、同行者が吐き捨てる。
やはり、まだ若いというべきか。多少焦れてきている。
それも仕方がない。
自分の攻撃が減弱しているのは理解できているだろう。
一方で相手の攻撃は余計に響いているはずだ。
かなりの劣勢を強いられているのは想像に難くない。
焦れて苛立っているくらいならまだいいが、それが高じて無謀な突貫でもして返り討ちされては、少しばかり都合が悪かった。
(狙いが分散してくれなければ……)
今のベルを遥かに上回る素早い身のこなしは、囮としてもかなり優秀だった。
それがなくなれば、攻撃する隙を見つけ出すだけでも一苦労だろう。
……それどころか、最悪は連撃を喰らってそのまま押し潰されかねない。
同行者が生きているうちに、何とか流れをこちらのものにしなくては――…
「は……?」
その竜の背中に突如として
巨体に不釣り合いな小さなものだが、確かに翼だ。
飾り――の、はずがない。深淵の静寂を破る豪快な羽搏きがそれを告げている。
巨体が、浮かんだ。
「逃げろ!!」
それは、本能というより単純な経験則だった。
まず間違いなく厄介な攻撃が来る。場合によっては、それだけで即死しかねないほどに。
胸元の『大顎』が開き、そして――
「クソったれがッ!」
再び、膨大な量の黒炎が頭上から吐瀉される。
避けきれるはずもなかった。
従って、取るべき行動は防御。そして、ここで同行者に斃れられては困る。
つまりは――…
「が―――…ッッ!?」
同行者に駆け寄り、体当たりでもするような気分で諸共に≪ゲルムの大盾≫の陰に隠れる。
結果として、構え方が不十分なものになった。
いくら炎に対する絶対の耐性をもつその大盾と言えど、十全に扱えないなら意味がない。
濁流の如き重さに耐えきれず、盾が押し退けられ、そのまま黒炎に飲み込まれる。
いかに炎耐性に優れたこの黒衣といえど限度があった。
左腕の皮膚が焼け剥がれ肉が焼け血が沸騰し、その重さに骨までが砕かれる。
「つぅ……ッ」
お互い、即死でなかったのは幸運だったのかどうなのか。
もっとも、俺の方は左半身が黒焦げだ。出会ったばかりの頃の霞の料理より酷い。
痛覚が完全に失われているのは、いっそ幸運だろう。
同行者の方は、もう少しだけマシだった。結果として、俺が盾になっていたらしい。
とはいえ――…
(こいつは詰んだか……?)
状況としては全滅を一手先送りにしただけでしかない。
まだ
エストを煽るが、回復が間に合わない。一口では足りない。
「――――――!」
だが、今はこれが限界だ。
三度放たれる
我が親愛なる師、イザリスのクラーナが奥義。
曰く【炎の大嵐】。
立ち昇る紅蓮の劫火は、止めとなるはずだった
「クソ……がァ……ッッ!!」
その一瞬の間に、息を吹き返した同行者が回復薬だか万能薬だかを一息に飲み干す。
当然というべきか。全快とはいかないが……ともあれ、それでお互いに死に損なったわけだ。
ならば、まだ戦闘は続行できる。
もつれそうになる脚に鞭打って、ひとまず
「――――――」
可能な限り早く、【大回復】の物語を口ずさむ。
それで、何とか同行者も立て直したが……しかし、ここからどうしたものか。
続く連撃から辛うじて逃げ延びながら自問する。
(攻撃が激しくなったな)
単に激高しただけか。それとも、余裕がないか。
見た限り、まず間違いなく後者。向こうもソウルの流出が始まっているのが分かる。
「――――――」
獲物を前に、ダークリングが蠢く。
――守りに入った■■■■■なんざ、泡の抜けた
そう言ったのは、誰だったか。
ソウルを求め荒れ狂う
だが、その彼女のために、ここでは死ねないことだけは思い出した。
今はそれでいい。それだけ分かれば充分だ。何をどうやってでも、ここは生き延びる。
だから――…
「おい」
「何だ?」
そのために。ここで、あのドラゴンを殺す。あらゆる手段を使ってでもだ。
「一撃で良い。あいつの
「誰に言ってやがる……ッ!!」
同行者が、牙をむき出しにする。
とはいえ、こちらもソウルの流出は深刻だ。無論、俺自身も。
お互いにもう一撃でも耐えきれまい。
だが、構うものか。長期戦など初めから論外だった。
「上等だ。なら、お前の命を俺に預けろ」
「ふざけんな。てめぇが俺に預けろ……ッ!」
死する定めの生者と、死を忘れた不死人。『死』の持つ意味は互いに相容れないが……しかし、少なくとも今は運命共同体だ。
お互いに限界を迎える前に、多少強引にでも勝負に出るしかない。
「るゥあああぁああああぁああッッ!!」
咆哮と共に疾走する同行者の背を見送ることなどしない。
まずは武器を≪グレートランス≫へ。
「――――――」
さらに、左手に『火』を灯して、とある剣士の物語を口ずさむ。
その名を【雷の剣】。
竜狩りに連なる物語の一つ。あるいは、あの戦神を後を継いだ者達の物語か。
いずれにしても、それが竜である限りこの力には抗えない。
深淵に染まったあのミディールですら、耐性を獲得するには至らなかったのだ。
あの竜に通じないはずがない。
あとは、機を待つのみ。その程度には、あの同行者は当てにできる。
「喰らいやがれええええええええッ!!」
同行者が装備する足甲――そこに埋め込まれた赤い宝珠が輝く。
その輝きに導かれるように、黒炎がそこに集い――…
「なめんじゃねぇ!!」
黒炎を
この光景をここ最近の間に見た事があるような気もしたが――…
「―――――ォォッ!!」
いずれにせよ待ち望んでいた好機だった。
先ほど同行者がそうしたように、
「重てぇ……!?」
ふらつきながらも、同行者が横に飛び退く。
それに釣られ、竜が首を巡らせる。
進路が開いた。さらに地面を蹴りつけ加速。狙いはまだ開いたままの口。
危険を察知した竜が、今さらこちらに向く。だが、遅すぎる。
『ガ――――ァァッ!?』
すべての力を託した突撃は、雷を宿した穂先は喉奥まで抉り、首筋から飛び出した。
もっとも、それとて致命の一撃にはまだ届かない。
だが、それすらもう関係ない。一瞬だけ動きを止められたなら、それでいい。
槍を手放し、さらに走る。
行く手を遮るのは、鞭の如く撓る強靭な尾。
だが、狙いが逸れた。
「いい加減くたばりやがれッ!!」
同行者が、ドラゴンの頭上に踵を叩き込んだせいだ。
土壇場で強くなった――などと都合のいいことが起こる訳がない。
おそらく、黒炎を『取り込んだ』影響だろう。
敵の攻撃術を強引に
まったく、望外の幸運だった。その尾を足場にして、竜の背中へと飛び移る。
右手に『火』を。口ずさむのは、失われた竜狩りの物語。
今ならば、忘れられた竜狩りの姿を――あるいは、竜狩りの真理を再演できる。
そう。思い出せ、あの時の戦いを。
(竜の鱗を貫きたければ―――…ッ!)
雷を投げてはならぬ。
(その手で直接突き立てろッ!!)
物語に記されたように――そして、あの戦神がそうしたように。
右手に生じた雷を『杭』としてその竜の背中に叩きつける。
本来なら広域に拡散するはずの雷撃はそのまま体内へと叩き込まれ、内側から爆ぜる。
戯画では雷に打たれた様子を骨が透けるように描くことがあるらしいが……最初にその描写をした誰かは、案外とこの【雷の杭】を見た事があったのかもしれない。
内圧に耐え切れず、ついに鱗もろともに肉が焼け飛ぶ。
その瞬間。確かに骨格だけがむき出しになるのを見た。
無論、それも一瞬の事だ。骨もまた雷撃に粉砕されて散る。
叩き込んだ『杭』はついに竜の巨体を貫通し、そして
「は……っ?」
唐突な浮遊感。それは深淵に飛び込む時とは違い、あまりに急激だった。
成す術もなく、竜の体高よりもずっと長い距離を落下する。
この期に及んで落下死は流石に間抜けすぎる――などと、思う暇もありはしなかった。
地面に叩きつけられたせい、ではない。落ちてしまえば、さほどの距離ではなかったからだ。
「ま、助かったんだ。何でもいいか」
地面に寝転がったまま左手に『火』を灯し、炎の憧憬を思い描く。
つい先日、ベルへと伝えた【ぬくもりの火】。
虚空に浮かぶその炎に照らされ、互いの傷が少しずつ癒えていく。
「チッ、クソッたれが」
近くで同行者も手足を投げ出して寝転がったまま舌打ちした。
「しかし、マジで『虫こぶ』だったとはな」
視線の先には大穴。そして、その周りを取り巻くのは急速に風化していく岩の壁がある。
抜けた『底』だったものの残骸だろう。
おそらく、外から見れば巨大な柱のように見えていたはずだ。
「俺達は今まであの『石柱』の中をうろついてたってわけだ」
それを見据え、同行者が呟く。
通常であればこの階層にあんな『石柱』は存在しない。
「ああ。そのようだな」
あれはダンジョンが生み出した異常な造形物。まさに『虫こぶ』といったところだ。
あくまでもの例えだったが……自分でも思った以上に適切だったらしい。
それにしても、深淵が消えた途端、『虫こぶ』――『石柱』を破棄し、正しい形に修復を開始するとは、ダンジョンというのは大したものだった。
いや……それとも、余力がないからこそだろうか。
「床下ならぬ石柱の中の大冒険と言ったところか」
「それにしちゃ、少し広すぎた気もするが……まぁ、今さらか」
確かそんなおとぎ話だか童話だかがあったような気がする。
そんなことを思い出しながら言った冗句に、同行者は小さく鼻を鳴らしてから体を起こした。
流石にダンジョンの中だ。いつまでも寝転がってはいられない。
「さて、と……」
起き上がってから、辺りを見回す。
探しものは――いや、予想とは少し違ったが――すぐに見つかった。
「これが深淵の主だったもののなれの果てか……」
もちろんそれは『主』のソウル……ではなく、かなり大きな魔石だった。
「それも普通の魔石じゃねぇな」
ただ、同行者が言うようにただの魔石ではない。かといって、あの雑草どもとも違う。
ひたすらに暗い――深淵をそのまま凍り付かせたかのような黒い魔石だった。
「これ、触って大丈夫なんだろうな?」
「俺が知るかよ」
それはそうだろうが。
仕方なく、適当な槍を取り出して軽く突く。
割れた途端に……いや、いつぞやの髑髏杯のように触れただけでも再び深淵が湧くかもしれないので慎重に。
数回突くが、ひとまず変化はない。
覚悟を決めて近づき、指先で突く……が、やはり変化はなかった。
ひとまず問題はない。結晶化したソウルと概ね同じ代物と見てよさそうだ。
「ところで、そっちは大丈夫なのか?」
その魔石をソウルに取り込みながら、問いかける。
「あァ?」
「その足甲。確か銀色だったと思ったが」
「なッ!?」
同行者が装備していた足甲もまた似たような有様だった。
銀色だったその足甲は黒銀に染まっている。
「まだ効果が切れてねぇ……いや、まさか
「多分な。……少し動くな」
肩をすくめてから、そちらにも触れてやる。
魔石と同じく安定している。本来の機能として取り込んだからだろうか。
「体に影響はないか?」
そちらはまだ『指輪』を装備している影響かもしれない。
「今のところな。だが、重くなってるってのはどういう理屈だ?」
具合を確かめるように何度か足踏みしながら、同行者が問いかけてくる。
「深淵の炎は重い。感じなかったか?」
思った以上に安定しているようだ。どうやら、よほどうまい具合に取り込んだらしい。
誰が作ったか知らないがなかなかのものだ。
今度ヘファイストスに教えてやろう――…
(いや、やめた方が良いか)
何しろ深淵の武器だ。まず間違いなく、歓声ではなく悲鳴を上げる。
「確かにあれは明らかに物理的な衝撃を伴ってやがったが……。どういうことだ?」
「仮定ならいくつか立てられるが……そういう講釈に興味はないだろう?」
「そりゃ、あるとは言わねぇが……」
「なら、簡単にそういうものだと思っておけ」
などと言いあっていると、上から何かが落ちてきた。
「あん? 魔石……じゃねぇな」
「それは『七色石』だな。ソラールたちも無事らしい」
弓を取り出し、火矢を上へと放つ。
矢が上まで届いたかどうかは怪しいところだが……まぁ、光だけなら見えたはずだ。
「『七色石』だァ?」
「見ての通り光る石だ。目印代わりに使われることが多い」
ロードランでもドラングレイグでもロスリックでも割とありふれたものだったが。
「そういえば、この辺じゃ見ないな」
ないとなると、案外不便……なのかもしれない。
「何か少し熱を持ってるぞ……」
「確かに不思議と暖かい石だが……欲しいのか?」
拾い上げ、胡散臭そうな顔で匂いを嗅いでいる――獣人特有の行動だと言えよう――同行者に問いかける。
そういえば昔から割と子ども受けがいい代物だったような……。
「いらねぇよ!」
投げつけられたそれを受け取り、そのままソウルに回収しておく。
補給が効かないとするなら、お互いに無駄にはできない。後で返してやろう。
「どうやら、ここは一五階層らしいな」
その間に改めて辺りを見回していた同行者が言った。
「そのようだな」
ここは通常のダンジョンで……地形から察するに一五階層だ。
ついでに言えば、一四階層から下に落ちたことは間違いない。『七色石』を落として寄越したのがソラールたちだとするなら、やはり結論は同じことになる。
「見たところ、異変はない。深淵は本当に『石柱』の中に閉じ込められていたらしいな」
地面を何度か蹴るが、そこに深淵の気配は全く見られない。
「ってことは、ここから下は問題ねぇってことか?」
「多分な。……まぁ、『深淵種』や異形がいないという保証はしないが」
奴らにウラノスの祈祷とやらが通じるかどうかは微妙なところだ。
仮に通じてこの階層に留まっていたとして……それでも、『中層』に到達したばかりの冒険者には少々荷が重かろう。
「少し遠回りして確認してみるか」
「チッ、面倒くせェな……」
……まぁ、確かに。
正直に言えば、俺も早くカルラ達と合流して篝火の傍で一休みしたいというのが本音だった。
俺自身の消耗もかなりのものだが、シャクティと、何よりアイシャの無事を確かめなくては。
(二度も命を救われちまったな……)
今さらアイシャの強さなど真似できまいが……それでも、たまには生者のように命に固執するのも悪くないのかもしれない――などと、柄にもなくそんなことを考えてから苦笑した。
(それに、ソラールやカルラとは積もる話がいくらでもある)
呟いてから。
改めて、本当に再会したのだと――その実感が湧いてきた。
そう。話したいことは、いくらでもある。ただ、そのどれもが言葉にならない。
本人たちがいないというのにこの体たらく。
まったく、あれだけ死んだというのにまだ随分と人間臭いものだ。
「さぁ、帰るとしようか」
小さく苦笑してから、歩き始めた。
…――
「どうやら、終わったようだな」
そろそろ安全圏まで撤退を――と、そんな言葉がカルラの口から出た頃。
不意に【
視線を向けると、その『大穴』を満たしていた『闇』が音もなく消えていくところだった。
まるで栓でも抜けたかのような光景につい見入っていると、ダンジョンまでが明るくなった。
「驚いた。ダンジョンの中ってのはこんなに明るかったっけね?」
もちろん、相変わらず薄暗いが……それでも、今までに比べれば明るくなったと感じる。
一瞬風を感じたほどだ。
もちろん、それは錯覚だったが……それほどの早さで変化が起こっている。
「先ほど助けた娘らに聞いたが、もう少し下の方はもっと明るく綺麗なのだろう?」
ふと、カルラが呟いた。
「そうだね。初めて一八階層に行った時は、流石の私も少し感動したよ」
「確かにな。そこからしばらくは風光明媚だと言っていい。……モンスターさえいなければな」
頷くと、【
実際のところ、一八階層から『大樹の迷宮』。そこを抜けた先の『水の楽園』は、私が知る限りダンジョンの中で最も綺麗な領域だった。あれでモンスターどもがいなければいい行楽地になる。
「なるほど。……一度見てみたいものだ」
まったく、何をそんな奥手なことを言っているのやら。
「あんた、あいつの女なんだろう? なら、これから先嫌でも通るさ」
まず間違いなく、クオンはダンジョンの『最下層』を目的地と定めている。
なら、一八階層なんて浅いところは何の問題にもならない。
「あまり、戦いは得意ではないのだがね。……だが、まぁそれもそうか」
小さく笑ってから、カルラは別の事を言った。
「その弟子たちは無事か?」
「問題はなさそうだ。いざとなれば飛び降りる覚悟だったが……」
頷いたのはソラールだった。
光る何かをいくつか『大穴』――見慣れた崩落痕に投げ落としてから、しばらくその先を見つめていたが……まぁ、返事があったのだろう。
「少なくとも、火矢か何かを撃ち返せる誰かがいる。もっとも、【
「やはり、あの若者には荷が重かったか……」
「確かに奴は未熟だが」
カルラが小さく呟くと、【
「そこまで捨てたものでもない」
そして、その雄は珍しく冗談のような事を口にした。
「ソラールと言ったな。迎えに行くのはもう少し待て。あの狼はすぐにへそを曲げるからな」
「そこは畳みかけるところじゃないのかい?」
あのいけ好かない
「フン……。流石に今は、俺も面倒な事をしたくはない」
それこそ冗談だったのだろう。
私と【
「よくやってくれた、友よ!」
そこで、ソラールが叫び――
「太陽万歳!!」
――そして、何だか奇妙な格好をした。
足を揃え、両腕は指までまっすぐに伸ばして斜め上にして、空を仰ぎ見るような……。
「ああ、気にすることはない。あれは、太陽賛美……【太陽の戦士】たちの聖印のようなものだ」
「聖印って……」
いや、そういうのはまだ残っているけど。
思わず、【
「クオンも、その【太陽の戦士】の一員だと言ったな。なら、あいつもやるのか?」
「……? もちろん、必要な時にはやるだろう」
押し付け合いに負けた【
何故そんなことを訊くのか――と、その顔にははっきり書いてあった。
(……なるほど、これが神の言うところの『じぇねれーしょんぎゃっぷ』ってやつか)
などと内心で呻いていると――
「……そうか」
あの【
7
「お、おい……」
「も、戻ってきたぞ……」
ギルドが再びざわめき始めたのは、夕日の最後の残光が消えるかといった頃だった。
近づいてくる人影は五人。
一人はもちろんアレ。他に【
あと、何でか【
それはこの際どうでもいいとして……ベートも無事だった。そのことに、素直に安堵する。
調査隊の惨状は、既に報告が届いていた。
文字通りの半壊。犠牲者は成す術もなく『深淵』とかいう
そして、つい先日二四階層で発生した『大発生』を凌駕する『モンスターの大発生』も。
……それをどうやってガネーシャに――あるいは、ギルドに――伝えたのかは分からないが。
もっとも、そちらへの対策部隊の編成は思った以上にあっさりと編成された。
アレへの敵愾心というか反発心というか……ともあれ、そう言ったものを抱いているのはうちらだけではないらしい。
ここぞとばかりに多くの冒険者が参加を表明し――つい先ほど、出立した。
ただし、深淵が発生している一四階層への侵入は厳禁とされたが。
(マジでヤバいもんっぽいしなぁ)
あれからウラノスはギルドに留まっていた。
おそらく、ダンジョン封印の『祈祷』を投げ出したままだ。この千年の間、初めての事だった。
件の『大発生』はその影響かもしれないが……一方でモンスターの地上進出は確認されない。
普通に考えれば、誰かが封印を代行していることになるが……。
「戻ったか」
「ああ」
ウラノスの言葉に、あっさりと頷く。
あの【
まったく可愛げのない話だった。
「首尾はどうだ?」
「受け取れ。落とすなよ」
ウラノスの問いかけに、アレはあの奇妙な力で何かを取り出し、そのまま放り渡す。
「ぬぅ……ッ?!」
それは、原初の闇を凍り付かせたかのような魔石だった。
大分距離があるというのに、体中に鳥肌が立つ。それどころか、小さな悲鳴を上げている神すらいる始末だ。直接触れたウラノスが投げ出さなかったのは驚愕に値する。
「これは……これが深淵の源か?」
もっとも、すぐにロイマンに渡したのは仕方がない事だろう。
渡されたロイマンも悲壮な顔でおっかなびっくりそれを抱えている。
「ああ。とりあえず
「今回の、とは?」
「言葉の通りだ。あれは誰かが生み出した仮初の主でしかない」
詳しい話は、あとでシャクティにでも聞け――と、アレは投げやりにそう言った。
出し惜しみしたのではない。多分、普通に説明するのが面倒臭かっただけだ。
丸投げされたシャクティたんが深々とため息を吐いている。
「まだ深淵の発生は続くと?」
「向こうがその気ならな」
次に深いため息を吐いたのはウラノスだった。
「ひとまず一四階層の深淵は消滅した。これで文句はないな?」
「……いいだろう。これにて五件の神殺しを免罪とする」
どよめきは、朝方よりも随分と小さかった。
特に、うちら神は納得せざるを得ない。この『闇』は絶対にヤバい。
「だが、本体が残っているというなら、深淵狩りは継続してもらう」
「……その時は連絡を寄越せ。面倒を見てやる」
嫌そうに舌打ちしてから、アレが頷く。
「ダンジョンの様子は?」
「クオンの言った通り、深淵そのものは消滅しました」
ガネーシャの問いかけに応じたのはシャクティたんだった。
「ただ、異形と『深淵種』……深淵から発生した『強化種』が残っている可能性があります」
再びどよめきが生じる。
異形についてはともかく、『深淵種』とやらは調査隊どころか負傷して戻ってきた対策班からも何の報告もなかった。
「異形……。調査隊か?」
まだ未帰還者がいる。そして、話を聞く限り、生存は絶望的だ。
いや、ある意味『生存』はしているのかもしれないが……。
「それだけとは限らねぇな。普通のモンスターどもも影響を受けて変化しやがる」
言ったのはベートだった。それについては、後で詳しく聞こう。
「ただ、そいつらの変化はほとんど
「では『深淵種』は?」
「個体によって強化の度合いが異なるゆえ、一概には言い難い」
その問いかけに応じたのは、オッタルだった。
「『中層』のモンスターどもが『下層』級に。『上層』のモンスターが『深層』級にまで強化されて産み落とされた。原因は不明だが、『主』の采配次第ということかもしれん」
「『深層』のモンスターが『中層』にいると?」
「あれは多分、『深淵種』の中でも特別な個体だったと思うけどね」
肩をすくめたのは【
「ただ、異形が残っているのは間違いない。帰り道にも何匹か出くわしたからね。あと、『下層』並みの『深淵種』ならまだいるんじゃないか?」
こいつらは、私達が辿り着く前に結構な数産み落とされたみたいだからね――と。
その言葉に呻き声を上げたのは、冒険者達だった。
簡単に『下層』などというが――というか、お陰様で近頃はうちも時々忘れそうになるけど――そこに進出できる子供たちなど本来ごく僅かだ。
そんな領域のモンスターが一四階層……『中層』の入り口辺りにいるなどまったく笑えない。
となれば――…
「クオンよ。一つ『
言ったのはガネーシャだった。
「大体分かるが……言ってみろ」
その『
嫌そうな顔をしながらアレが促す。
「異形と『深淵種』の捜索および討伐に参加して欲しい!」
「だと思ったよ、クソったれ」
まぁ、他にあるはずもない。そんな分かり切ったオチよりももっと重大なことがあった。
(深淵、か……。こら確かにヤバそうやなぁ……)
あれは確かに神殺しの免罪に値する。
皮肉にも、うちら神こそがそれをよく分かっている。分かってしまう。
(マジで何が起こっとんねん。こんなんどう考えても
今起こっている事態は、ダンジョンが限界だと示しているだけではない。
どう考えても、もっと別の……うちらも全く知らない要因が絡みついていた。
…――
「それにしても、吹っ掛けたねぇ」
「何を言っている。相手は深淵の異形だぞ。まだ安すぎるくらいだ」
篝火で休息と補給を済ませてから、俺達は再びダンジョンへと戻ってきていた。
今度こそアイシャとシャクティを置いてこようと思ったのだが……結果はこの有様だ。
「というか、お前達。体は平気なのか?」
一息つけばすっかり疲労も忘れるような
「このところ毎晩あんたに鍛えられてるからね」
ええと……。それはともかくとして――
「『外』はそれでもまだ楽だったからな。最後の泥人形も含めて」
シャクティが肩をすくめた。
どうやら『外』は『外』で大分大変だったらしい。
もっとも、ソラールとカルラが……あと、オッタルもいたのだから、確かに戦力的には充分だったはずだ。
何しろ、彼女たち自身もまた類稀な実力者なのだから。
「ひとまず、調査隊の発見は団長である私の役目だ。全員が見つかるまで、休んではいられん」
その発見は九割方殺害と同義なわけだが――まぁ、今さら野暮な指摘か。
いずれにせよ、放っては置けないことに変わりはないのだ。
「それに、いつまでもダンジョンを閉鎖するわけにもいかない」
「そりゃね。駆け出しにとっちゃ死活問題だ」
「それどころか、万が一長期化すれば、オラリオ全体の問題となる」
まぁ、それはそうだろうが。何しろ、ダンジョンはオラリオの飯のタネだ。
実際、すでに『上層』への立ち入りは解禁されている。
理由はいくらかあるが……まぁ、主だった理由はベルとヘスティアのところのような、できたばかりの小さな派閥への救済措置だ。生者の世界もなかなかに世知辛いらしい。
「ま、あんたの所に加えて【ロキ・ファミリア】と【フレイヤ・ファミリア】までが揃って『上層』を見回ってるんだ。下手すりゃ、この千年で一番安全な状態なんじゃないか?」
「それはそうかもしれないが……」
もっとも、シャクティ達はメレンと歓楽街にも手を回しているし、糸目の小僧の方は遠征中で主力は不在だった。
唯一の例外はオッタル。奴は自分の手下を連れて、俺達とは別に『中層』を巡回している。
奴の心配はするだけ無駄だろう。本物のデーモンと出くわすか、また深淵が湧かない限り。
「あの若者なら、問題ないだろう」
カルラが小さく笑う。
「それに、異形どもを任せられる相手がいる方が都合がよいのだろう?」
「ま、そりゃそうなんだけどな」
ガネーシャから渡された依頼書の裏側には、無視できない
「それにしても、噂の少年と知り合いだったとは……世間とは狭いものだな」
ソラールがしみじみと呟く。
噂の少年というのはベルの事だ。
何でも『
霞が言っていた【
「妙な騒ぎに巻き込まれやすいのはお前譲りか……」
「俺はあいつほど酷くない」
シャクティの言葉にひとまず言い返していく。
まぁ、それはともかく。
要するに……またベルは何か厄介事に巻き込まれたらしい。
まったく、相変わらず忙しないことだ。
―お知らせ―
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次回更新は10月中を予定しています。
19/09/30:一部修正
―あとがき―
太陽万歳!
満を持して【太陽の騎士】ソラールさん参戦となります。
ゲーム中に表示されるソラールさん自身の二つ名は太陽の戦士じゃないんですよね。
そのことについ違和感を覚えるくらい、【太陽の戦士】の代名詞になっていると思います。やはり太陽は偉大なのですね!
これまでどこで何をしていたのかは冒頭でも少し触れていますが……詳しいことはまた追々ということで。
ウーラシールに迷い込んだとある呪術師が
深淵の闇に見出した呪術
手元に大きく黒い炎を発生させる
黒い炎はとても重く、物理的なダメージを伴う
尋常な盾などは、弾きとばしてしまうだろう
……と、いうのが無印における【黒炎】のフレーバーテキストですが。
拙作では、この『とある呪術師』が主人公ということになっております。この辺のことも、多分また後程作中で触れるかと思いますが…。
と、いう訳で深淵歩き再びです。
不死人流の連携が光りますね! …ええ、不死人流の連携ですとも。
例えばダークソウル2の最初の呪縛者戦で、ボス諸共にバリスタで射殺された経験のある白霊は私だけではないと信じています。
それはともかく。
その裏側ではダンジョンVS深淵的な戦いも起こっていたりいなかったり。
ダンジョンそのものの真相がまだまったく見えないので手を加えにくいのですが…
ただ、ダンまちの重要な要素のひとつですから、これから先もうまく擦り合わせていけたらと思います。
…まぁ、エニュオ関連を超える爆弾が潜んでそうで今からガクブルしてますが(苦笑)
と、そんなわけで今回はここまで。
どうか次回もよろしくお願いいたします。
また、返信が遅くて恐縮ですが、感想などいただけましたら幸いです。