デジタル社会の実現を阻むのは「三つの壁」

1963年創業のボストンコンサルティングは、世界最高峰の名門コンサルティングファームとして常に世界のビジネス界をリードしてきた。その日本法人に18年在籍し、経営陣にも名を連ねた太田直樹氏は、AIやITなどデジタル分野にも精通する文理両道の経営コンサルタントだ。そんな太田氏の目に、私たちの社会はどのように映っているのか。コロナ禍で浮き彫りとなった日本のデジタル化の遅れの要因と、2021年9月に発足するデジタル庁への期待について話を伺った。

取材・文/盛田栄一 撮影/丸山剛史

コロナ禍で国民もデジタル化の遅れに問題意識を持つように

みんなの介護 昨年から続くコロナ禍では、医療機関と保健所がいまだにFAXで情報をやりとりしていたり、特別定額給付金の給付に時間がかかったりと、日本社会のデジタル化の遅れが浮き彫りになりました。太田さんは総務大臣補佐官時代、地方がITを社会実装するための政策立案に携わり、現在もCode for Japan理事として、ITで地域の課題解決をめざす活動をサポートされています。日本社会でデジタル化がなかなか進まない現状を、太田さんはどう見ていらっしゃいますか。

太田 高度情報通信ネットワーク社会形成について定めた「IT基本法」がわが国で施行されたのは2001年。これを機に、日本は通信ネットワークや産業、行政のデジタル化に向けて本格的にスタートを切りました。

ところが、あれから20年経った今も、特に行政のデジタル化はほとんど進んでいません。専門家や有識者はその事実を知っていますが、国民の多くは、デジタル化の遅れについてあまり関心がなかったのではないでしょうか。というのも、コロナ禍以前まで、全国的にはずっと「平時」だったからです。

日常生活で私たちが役所の世話になる機会は限られています。引っ越しや免許の更新も数年の一度のことだから、「面倒だけど、まあいいか…」と多くの場合はやり過ごすことも多いですよね。そしてそれっきり、事務手続きが面倒だったことも忘れてしまいます。

みんなの介護 確かに、自分もそうでした。

太田 ところが、コロナ禍のような「有事」には、「まあ、いいか」では済ませられません。特別定額給付金や持続化給付金の手続きが煩雑だったり、役所の作業が進まなかったりと、国民になかなか支給されないという事態が問題視されています。一方、アメリカでは3日、ドイツでは1週間程度で支援金が入金されたという話を聞けば、「日本はなぜこんなに時間がかかるのか」と、誰もが疑問に思います。

コロナ禍では、世界の国々がほぼ一斉に同じ状況に置かれ、しかもネットなどを通じて各国の情報がリアルタイムに入ってきました。それにより、日本社会で行政のデジタル化が遅れていることに多くの国民が問題意識を持ったはずです。だからこそ、「早急にデジタル庁を新設すべき」という流れが生まれたと私は理解しています。

戸籍の氏名表記がデジタル化を阻んでいる

みんなの介護 なぜ行政のデジタル化がなぜ進まなかったのでしょうか。

太田 それを阻む要因として「三つの壁」があるといわれています。

まず一つ目が、「縦割りの壁」です。例えば、国民に対して、デジタル処理でいち早く特別定額給付金を振り込むためには、国民の情報が載っている住民基本台帳がデジタル化されていなければなりません。今回の特別定額給付金は総務省と自治体の管轄ですが、金融機関が銀行口座をカタカナで管理しているのに対して、総務省も自治体も行政手続きに使える形でカタカナを持っていないのです。ですので、誤ったカタカナで申請が行われたりすると、振り込みができなくなってしまいます。姓名の読み仮名の大元は、法務省が所管している戸籍情報ですが、これまで法務省はデジタル化に対応するために読み仮名を法制化することに積極的ではありませんでした。

みんなの介護 ひらがな名・カタカナ名の人を除いて、戸籍の氏名は漢字で書かれていますね。

太田 はい。また、「表記ゆれ」の問題もあります。例えば、ある人が漢字を書き間違えて届け出れば、戸籍上は間違った漢字が正式の名前として登録されます。書き間違えでなくても、戸籍では「渡邉」なのに「渡邊」と書いてしまうと、コンピュータではじかれてしまいます。現在、戸籍や住民情報のデジタル化を進めていますが、その中でこういった問題が頻繁に発生しているのが実情です。

すると、企業や銀行が把握しているその人の名前と、戸籍謄本の名前が合致しなくなります。コンピュータは完全に一致しているデータしかマッチングできません。結果として、その人の書類は人間が手作業で処理するほかないのです。

日本国民の政府に対する信用度は世界最低レベル

みんなの介護 「縦割りの壁」以外にどんな壁があるのでしょうか。

太田 二つ目は「横割りの壁」です。選挙の時期に自宅へ届く家族全員分の投票用紙は、市区町村が管理している住民基本台帳の情報を基に郵便で送っています。この台帳には氏名・生年月日・性別・住所が載っていて、汎用性が高いのですが、国は自治体が保有する台帳を利用することができない決まりになっています。これが「横割りの壁」です。

ですから、個人が特別定額給付金などを政府が準備したオンライン手続きのサイトで申請するときには、申請用フォーマットに住所・氏名などを毎度記入しなければならず、時間のロスが生じます。

みんなの介護 記入の回数が増えれば、その分ヒューマンエラーも起こりやすいということですね。

太田 そうです。別の言い方をすれば、日本は「ベース・レジストリ」がきちんと確立されていません。ベース・レジストリとは、デジタル社会の基本インフラとなる、人・企業・土地などの台帳のこと。これが強固でないうえに、省庁間の壁、国と自治体との壁に阻まれ、デジタル化がなかなか進まない状況にあります。

かつてはすべて紙で管理していた欧米でも、デジタル社会におけるベース・レジストリの重要性にいち早く気づいた2000年代に、こつこつとデジタルへ移行していったのです。どんなに小さい国でも、デジタルデータへの移行には5年・10年かかりますから。

最後の三つ目の壁が「国民の壁」です。マイナンバーが導入されるときも、その意義を理解しつつも、「プライバシーを侵害されたり、政府に監視されたりするのはいやだな」と考える人が多いと思います。

エデルマンという調査会社が世界各国を対象に行っている信頼度調査「トラストバロメーター」の2020年版を見ると、日本の中央政府に対する信頼度は38%で最下位。平均の65%を大きく下回っています。「トラスト」は国によって概念の違いがあるので、数字の単純な比較には注意が必要ですが、少なくとも日本人は「お上」にあまり世話になりたくないと思っていることは確かです。自分の個人情報がデータ化されることに不安感を持つのも当然といえます。この問題を直視する必要があります。

2021年9月に発足するデジタル庁。医療・介護、教育、防災の組織改革への参画に期待

両極に分かれるデジタル技術に対する見方

みんなの介護 ちなみに、政府への信頼度第1位はどの国だったのですか。

太田 1位は中国で95%、2位はインドで87%でした。

日本では「なんで中国が」と思う人が多いかもしれませんが、世界では特に新興国が中国の技術に高い関心をもっています。例えば、コロナ禍で導入された健康QRコードには世界が驚きました。国民一人ひとりの健康状態が常にチェックされていて、QRコードが緑なら自由に外出できますが、QRコードが赤だと電車に乗れません。

また、中国人は天網(スカイネット)というコンピュータと監視カメラのネットワークで常に監視されていて、例えばある人が信号無視したりすると、3分でスマホに通知が来るとか。国内のどこに居ても10分以内に居場所が特定されるそうです。まるでジョージ・オーウェルの書いた小説『1984』のような社会が、すでに現実のものとして実装されているわけです。

みんなの介護 何だか息が詰まりそうですが、国民はどのように感じているのでしょうか。

太田 中国人の中には、監視システムをポジティブに捉えている人もいるのです。私の中国の友人は、「天網のお蔭で民度が上がった」と喜んでいます。道ばたでツバを吐いたり、信号無視したりする人が目に見えて少なくなった、と。

ですが、そんなデジタル社会の危険性に警鐘を鳴らしているのが、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリさんです。彼は、政府やIT企業が国民のあらゆる個人データを掌握することで、やがて監視社会に変化していくことを非常に恐れています。一方、新型コロナウイルスへの対応で世界的に知られることになった台湾のIT担当大臣のオードリー・タンさんは、デジタル社会こそが多くの人たちの声を反映することができ、直接民主主義を実現できるシステムになると肯定的に捉えています。

みんなの介護 ハラリさんとタンさんの考え方は真逆ですね。

太田 そうですね。デジタル社会について突き詰めて考えていくと、自分はどんな人生を生きたいのか、最後には人生観や哲学の話に行き着くのです。

日本人はこれまで、行政や公共的な分野のデジタル化に関心が低く、加えて「お上」にお世話になりたくないという国民性があるのですが、今、自分ごととしてデジタルに関心が高まってます。例えば、東京都が公開した新型コロナウイルス対策サイトは、行政では多分初めての試みだと思いますが、300人以上の市民エンジニアが、中学生も含めて参加して作成し、使い勝手が良いこともあり、2000万人以上に利用されています。オードリー・タンさんも台湾から開発に参加されたんですよ。

政府は2021年9月にデジタル庁を発足させ、行政のデジタル化を本気で進めようとしています。特にデジタル化が遅れている「医療・介護」「教育」「防災」の分野では、デジタル庁が関係省庁に積極的にコミットしていくことになるでしょう。デジタルは、カタカナやアルファベットが多くてわかりにくいと思っている方もいるかもしれませんが、デジタル改革に参加する人が広がるといいなと思っています。

「賢人論。」第136回(中編)太田直樹氏「超高齢社会における問題の本質は世代を問わない「孤独・孤立」」は4/15(木)に公開します

賢人論。(けんじんろん)は、「みんなの介護」がお送りする特別インタビュー企画です。様々な業界の第一線で活躍する“賢人”の皆さんに、介護業界の現場を取り巻く問題、将来の展望について、また自身の介護経験についてなど、介護にまつわるあれこれについて、自身の思いを忌憚なく語ってもらいます。