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デイヴァイン・フューリー 使者 注・ネタバレ

ものすごく、面白い映画を観ました。
 これからその話をします。
 先週、話題のボディビルダー出身俳優マ・ブンソクことマブリーの「悪人伝」は観たんですね。
 そのために、下敷きになっている「続・夕陽のガンマン」を観て、ついでに韓国+夕陽のガンマンの元祖で大好きな作品「グッド・バッド・ウィアード」を見直してね、鑑賞を致しました。
 普段、韓国映画ってあんまり見ないのは上映期間や回数がいまいち少ないからなんですけど、タイミングが合えば観たいなって作品はいくつかあって、そのたびにすれ違ってしまったんですけども、今回は強引に合わせて行きました。
 それくらい期待していた。
 で、これから話すのは「悪人伝」の話ではありません。
 先週に引き続き見た韓国映画の「ディバイン・フューリー」です。
 これ、ビルダー出身の170センチ台100キロのマブリーではならぬ、韓国のイケメン俳優さんが身体作って出てるってのが話題になっていたそうで、役柄は総合格闘家です。
 その総合格闘家が、まぁ生意気な悪ぶったタイプなんですけど、それがキリスト教が大嫌いで十字架を見るとむかむかするってヤツなんですけど、なぜか右手にキリストの聖痕が浮かんできてしまって、その手でパンチして悪魔祓いをするエクソシストになるって話です。
 ね、驚くでしょ?
 絶対別に見ないでしょ?
 どーーーーーーーーーーーでもよさそーーーーーーーーーーーーーうなこの映画、韓国ではこの二年くらい、オカルト物が流行ってるそうで、そういう中で出てきた作品だろうと思うのだろうけど、でも、こういうまったく知らないべたな映画って、韓国から来て上映される奴、面白いんだよ。
 だもんで、このサンデーのマンガとかマーベルヒーロー映画の一作目みたいな奴の、どこが見どころなのか伺いに行ったのね。
 んで、主人公がUFCみたいので戦うシーンは予告編で何度も見てたし、粗筋も知ってたんで、冒頭は当然そこから来ると思ってたのね。
 まぁ主演とかタイトルとか監督とかのクレジットが出てる中、スタジアムの廊下をガウン姿の主人公が歩いてて、観客席からの歓声とか聴こえる中でグローブを回したりして歩いてるからの、リングアナウンスの呼び出しと同時にライトの中に主人公が現れてワ―、みたいなとこから始まると思ってたのね。
 でも違うの。
 冒頭で出てくるのは、包丁でネギを刻むシーン。
 トントントントンって小学四年生くらいの男の子がまな板の上でネギを刻んでて、次にボールに卵を落としたところにネギを入れてぐじゃぐじゃぐじゃぐじゃって溶いて、そこに味の素だか塩を四振りするのね。
 あー、そんな言ったら濃いんじゃない? でもそれが韓国での作り方? そういう調味料なのかな?
 と思ったそれをフライパンに入れて玉子焼きを作るのよ。
 で、鏡の前でヒゲ剃ってる白いランニング姿のおじさんが映って、それに「おとーさーん、ご飯できたよー」って男の声が重なる。
 窓の外から明るい光が入ってくる狭い部屋で、ちゃぶ台に向かい合って二人はご飯を食べるのね。
 なんだこの出だし。すごくね?
 夏休みの少年を描いた名画みたいな出だしなのね。
 あれ、間違えてきちゃった? って感じなんだけど、まぁそこから、ご飯食べたら教会に行くみたいな会話をしてるから、たぶんこの映画で大丈夫なんだろうって思うんだよね。
 でまあ予測するのが、たぶんこの後、少年は神を憎むきっかけになるような経験をするんだろうなあってことなんだけど、それもすぐ起きない。
 教会行って、お祈りして、二人は食堂で昼食を摂るんだよ。
 この食堂がまた光にあふれていて、かつビニール張ったようなテーブルが並んでるとこですごいウェルメイド映画な感じがするんだ。
 そこで少年は「お父さんは一生懸命お祈りしたのにどうしてお母さんは死んじゃったの?」って訊くわけよ。
 お父さんは襟を正して「お父さんも祈ったけど、お母さんはお前が元気で生まれてくることをもっと強く祈ってたから、そっちが優先されたんだ」みたいなことを言うんだ。
 神様に関する姿勢をここですごく丁寧に描いてるのね。
 その後、部屋に帰ってから父親は警官の制服を着て仕事に出てく。
 ここまでの15分から20分くらい。
 お父さんは夜の道で飲酒運転の検問をしたんだけど、その時に停めた車の運転手の韓国イケメンみたいのの、目が赤く光るんだ。
 それで一瞬、ラバーで出来たようなSFXっぽい化け物の顔になるのね。
 その安っぽさがすごい!
 もう、ほんとに雨宮慶太の作品に出てくるような、深夜の大人向け特撮ドラマみたいなセンスの奴なのね。
 はじまったよー。ようやくはじまったよー。
 と思ってたら、アルコール検査されるの嫌さに、運転してた悪魔はアクセルを踏み込んで逃げようとするのね。
 切符切られるの嫌さに闘争しようとした悪魔を逃がすまいとお父さんは頑張って窓にしがみついていた結果、転がって救急搬送。
 のち、死亡。
 なんじゃこりゃ!
 全然英雄的じゃない!!
 お葬式のシーンになって、そこで祈りを挙げに来た神父さんに、男の子は「嘘つき! 助からなかったじゃないか!」って言ってキリスト像を投げつける。

 ここまで20分以上かも。
 それはさんでやっと総合格闘技のシーン。
 いや、このペース配分、度肝を抜かれた。
 すごい集中力を惹きつけられるのね。この人は一体何を伝えようとしてるんだって。
 で、試合はカリフォルニアで行われてて、主人公はウェルター級のチャンピオン。対戦相手のホームの選手は白人種なんだけど、体格では主人公より劣ってるんだ。
 二人が並んで試合前のグローブ合わせをするシーンでも、明らかに主人公の方が大きい。
 つまり、これは強大な相手として白人を描いているっていうシーンではないのね。
 じゃあどういう意図なんだ?
 って思うじゃない。
 画面を読み取ろうと集中する訳よ。
 んで、両者グラブを合わせて、コーナーに戻るってとこに至って、主人公の目に対戦相手の背中が見えるの。
 そこに、キリストのタトゥーがある。
 それを観た途端、主人公の顔色が変わるんだ。
 頭の中に、子供の頃の主人公の声で「神を殺せ」「父さんの仇を打て」っていう声が響いてくる。
 これがやりたかったのかー。
 このシーンを書くためのディティールだったと思うんだ。
 だって、普通、対戦相手のことはみんな知ってるんだよ。
 だから背中にタトゥがあったら事前に相手の過去の試合映像とかで観てるはずなんだよ。
 普通に考えたら、これはすごく変なことだよね。ここで相手の身体を初めて見るってのは。
 でも、そうじゃなくてこれは、主人公がチャンピオンで傲慢な奴で体格でも勝っていて相手を嘗め切ってるから、多分そういう事前研究とかしないヤツだから起きたことなんだ、っていうことが前提のシーンだと思うんだ。
 この、相手の身体のキリストを見て激昂して残虐ファイトに走るっていうことを印象的に描くためにここまで下ごしらえをする姿勢、まさにネギを刻むシーンから旨そうなきれいな玉子焼きを作る様を描く作りに表現されていると思うのね。
 これ、そういう映画なんです。
 全部見る前から知ってた話だと思って観ると、全然味わいが違う。
 知ってる話でも中身が面白い。
 その試合後、帰国の飛行機の中で右掌から出血が始まって、彼は悪夢にうなされるようになります。
 医者に行っても原因が分からないので祈祷師の所を訪ねたりした結果、バチカンからやってきているエクソシストのアン神父と言う熟年の韓国人神父と出会います。
 彼がまだ若いチェ神父と言う地元の神父と二人で悪魔祓いをしているところに主人公は出くわすのですが、この映画、悪魔憑きになった被害者の描写が結構怖いんですね。
 こりゃ相当エクソシスト見込んだな、ってくらいに、怖い。
 アクション映画でもヒーロー映画でもなくて完全にオカルト映画とか心霊映画みたいな気味悪さなのね。
 その怖さのあまりにチェ神父はやられちゃうんですよ。
 んで、単身頑張ってるアン神父を助けに飛び込んだ主人公は偶然聖痕のある右手でかましたスティグマ・パンチで悪魔を倒してしまう。
 この流れ、もうみんな何回も見てるでしょ?
 飽きるほど知ってるプロットでしょ?
 でも、被害者が怖いとか、アン神父の悪魔祓いが重厚な演技で説得力があるとかで、全然違う絵面に見えるんですよ。
 でね、その後、アン神父がなぜバチカンから来たのかってことになるんですけど、それはソウルに闇の司祭が居るからだってことが分かる。
 出た、中ボス。ってみんなわかるじゃない。
 この、反キリストの司祭が、悪魔を呼び出して人間に取りつかせて怪人にして、果てはその魂を奪って悪魔に捧げて自分をパワーアップさせてるって話になるの。
 みんな知ってる特撮ヒーロー物の構図だよ。
 アン神父と主人公は怪人たちを倒しながら闇の司祭に向かってくんだけど、やっぱりその流れを見ているうちに考えさせられるんだよ。
 これだけしっかりした作りで、一体何を訴えているんだろう?
 この映画における悪魔とは一体何を意味してるんだろう? って。
 闇の司祭って言うのは、会員制っぽい高そうなクラブを経営してるイケメン若手実業家で、悪魔にいけにえを捧げてひたすら自分の力を望んでる。
 二人目に悪魔憑きとして出てくるのは、いかにもそのクラブに行ってそうなモデルみたいな女の子で、そこからさかのぼると、これはそういう社会的な力、上っ面の強さなんだな、ということがなんとなく感じられてくる。
 そういう表面的な価値観が悪魔なんだな、と。
 韓国社会の、そういうステータス重視の過酷さや虚無感みたいな物が悪魔への崇拝、誘惑として働いているのだろうな、と思うのは、主人公はアメリカで活躍してるような総合格闘家だから、街でも「あ、サインください」みたいに顔が知られてる有名人なんよ。
 で、高級マンションに住んでスーパーカー乗り回してるんで、いかにもセレブ、悪魔側、って感じなんだけど、実際は酒もたばこも興味がない、ただ自分を高めることが好きなだけで、両親居ない中でボクシングやりながら徴兵に行ってそこで出会った上官に紹介されて総合やってるっていう、アン神父曰く「気は荒いが弱い者を助ける心を持っている」青年なのね。
 それは恐らくは、父親が亡くなった夜に「おばあさんの言うことを良く聞くんだぞ。勉強は出来なくてもいい、正しく生きろ。弱い者いじめをするヤツは懲らしめてやれ」って言われたことが心に染み込んでるのね。
 劇中で、中国が莫大な資本投資をした総合格闘技大会での試合をオファーされても、彼は断ってアン神父を助けに行くんだけど、その時に試合をオファーしてる社長みたいのの目が、赤く光ってるのね。
 でも、別に彼は悪魔に取りつかれてるだとかなんだとかでもないの。
 ただ金と成功に囚われただけの人の演出に、悪魔憑きと同じエフェクトが掛かってるのよ。
 これと対象的なようなのが、孤児院で同じ孤児にいじめられてる子で、まぁ彼が作中で一番不憫な子なんだけど、その子が「君を助けてあげる。僕を信じろ」って言ってきた闇の司祭に付け込まれてしまう。
 そういう、社会の底辺に居て力が無いと苦しいって人達が悪魔に取りつかれてしまう。
 だからこそ、彼は作中の悪魔憑き怪人の中で一番怖くておぞましく描かれる。
 けど、彼に近い環境で居た主人公は、神を憎んでいるけど父親の存在を持っていることで誘惑には掛からないんだよ。
 それにもちゃんと説得力があって、見てるうちにどんどんアン神父と主人公のツーショットが親子に見えてくるように出来てるんだよ。
 あくまで信仰を否定する主人公に対して「子が親を見習うのは、親のしていることを理解しているからではない。親が自分を愛していることを知っているからだ」って言うシーンとかもうその辺の重なり具合とかがヤバくてさ。
 ほとんど悪魔退治には役立たないその辺のシスターたちも、弱くてしょぼいんだけど、ちゃんと神を信仰して震えながらも十字架を前に出して退かないだけの姿勢は見せるのね。
 そういった重層的な積み重ねから感じられてきたのは「この監督、ちゃんと信仰を知ってる人なんだ」ということ。
 上っ面の形式をなぞれば、ヒーロー映画の一作目なんてもうAIでできるテンプレ企画じゃん。
 だからこそ、監督の持っている信念みたいな物が圧倒的に力を持ってくるんだと思う。
 ぜんっぜん凡百の同ジャンルの作品とは手触りが違う。
 だからこそ、ただの悪魔祓いのシーンで、エグくて怖くてゾッとするんだけど、ちょっと泣いちゃうんだよコレ。
 泣きながら怖がらせられて思ってたのは、言うぞ。いいかッ! 言うぞッ!!
「藤田和日郎の作品くらい面白い!」だッ!!
 どうだ、すごいだろ。
 これ、そのくらい面白いヤツだぞ。
 ちゃんと、最後は主人公が敵のアジトに乗り込んで、右手が信仰の炎に包まれてそれを使って総合格闘技で悪魔憑き幹部たちをなぎ倒してくんだよ。
 そういう映画だよ。
 でも、ちゃんと勝ち負けが読める。
 これ大切。
 悪人伝はね、世界的に評価を受けてて、スタローンがアメリカでリメイクするそうなんだけど、私にとってはそういうところが全然良くない映画だったのね。
 例えば、主人公たちが三人で犯人の連続殺人鬼「デビル(また悪魔だ)」を追いかけるシーンてのが二回出てくるんだけど、これが両方ダメなの。
 主人公達は訓練されたムキムキの警官なんだけど、それがヒョロガリの不健康そうな連続殺人鬼に追いつかないのね。
 これ、なんか理由ある方がいいんだよ。
 でも、なんの理由もなく、ただの追いかけっこで、向こうも地の利があるとかじゃないのに追いつかないのね。
 しかも二度目の方では、主人公たちは街中のヤクザ総動員って言う反則級の包囲網で犯人を追い詰めてるのに、なんの理由もなく最後には主人公達は三人くらいで犯人と追いかけっこをして最後逃げられちゃう。
 なんだそれ。
 こういう雑さが私すごい気になるタイプで。
 だから評判がいい「透明人間」も全然だめで。
 そういう、単なる走力任せとか運任せでストーリーが作為の方に向かうっていうことがディヴァイン・フューリーには無い。
 ちゃんと、人間の心の質と強さっていうところで話が動いてる。
 これ、感動にそのまま繋がるしすごいんだよ。
 しかも、そうやって感動させた後、最後には途中で脱落しかけたチェ神父が頼みの綱になるし、エンドロール前には「チェ神父はエクソシストとして返ってくる」っていう、マーベル映画のパロディとかオマージュみたいなテロップが出て、自分の仕事に対する自覚的な感じが表現される。
 すごい作品だよこれは。
 特に映像関係詳しくてオカルト映画好きのTさん! これ見た方がいいよ!!
 ひっさしぶりに面白い映画みた。
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ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語 注・ネタバレ

「ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語」を観てまいりました。
 アカデミーノミネートで、非常に現代的な形での若草物語の映画化だということで大変に評価の高い作品です。
 冒頭、主人公のジョーが編集部に原稿を持ち込みするシーンから始まり、そこで横柄な編集長から「フィクションに女性が出たら終わりは結婚するか死ぬしかない」と言われるところからのスタートが大変に今日的なジェンダーを描いている、と評判です。
 物語は、自分自身を生きたいという彼女を中心に進んでゆき、彼女を取り巻く環境では「お金持ちを捕まえて結婚して家族を養う」か「家伝の財産があれば一人でも幸せになれる」というどちらに周辺の女性たちが振り分けられてゆきます。
 その環境の中で、ジョーはお金持ちとの結婚も断り、妹の死という喪失の中で、自分の物語を小説にして、それによってお金持ちになり、また結婚もする、という終わりを迎えます。
 冒頭の編集長の言葉通り、死んでしまう女性が妹のベス。愛する人と結婚するもお金持ちになれなかったのが長女のメグ、結婚してお金持ちなるのが、ジョーとの対比性が最も高いエイミー、という明白な構造に四姉妹は振り分けられています。
 これを、ジェンダー的な物語と取ってももちろん良いのですけど、ちょっと引っかかるところがありました。
 若草物語って子供のころから何度も読もうとして挫折しているのですけれども、古典の名作としてのこれってどこがおもしろいのだろう。
 私には全然面白くなかった。
 退屈で刺激が薄かった。
 今回の映画化で、その一旦が見えたのは、女の子たちが寄り集まってっきゃっきゃ楽しそうにしているところが、うーん……ちょっと辛い。
 たぶん、私にとっては全然面白くない小さな世界で身内だけが面白いことを心底喜んでる感じと言うか。
 例えばおばちゃんやおばあちゃん同士の近所の噂話に白熱してられる様を観ている感じとか、映画館でアイドル映画をグループで見に来ている十代の女の子たちの盛り上がり方みたいな。
 これって、たぶんネットでいう「陽キャ」の大学生のつまらなさに対する覚めた視線とか、逆にオタク集団のつまらなさに対する視線に通じるんだと思うんですよね。
 人は個人史を生きる物で、個人史ってのは朝何を食べたとかつまづいたとかそういうパーソナルなきわめて小さな自分だけにしか興味がないことに足して全力で感情を動かすってことだと思うんですよ。
 でもって、これはきっとそういう面白さです。
 だから、例えば子供のころの私が好きだったトム・ソーヤーの冒険みたいな、恐ろしい殺人鬼が出てくるサスペンスや洞窟の中での探検と言ったような、もう一回り大きいところでの面白さとは種類が違う。
 クレヨンしんちゃんではない、サザエさん的な物が若草物語だとか赤毛のアンの淡い面白さだと思うのですね。
 若草物語と似た構図の物語、スタンド・バイ・ミーがものすごく面白かったのは、やはりその味付けの濃さが私みたいな物にも分かりやすかったからだと思います。
 そう。おそらくは、キングは自分史版の若草物語を書いた結果が、タイトルが「死体」となってしまったのだと思うのですね。
 その「死体」、映画化タイトル「スタンド・バイ・ミー」は、同じ田舎町で育った友達のうち、ほとんどが「社会的に死ぬ」話です。
 最後の章で、作家になった主人公「なぜぼくだけがこうして大人として生存できたのだろう」と不思議そうに振り返るのですが、ここから照らし合わせて、まさに今回の「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」は、社会的な生存の話になっているように読めます。
 ジェンダーの物語として取ると、自立した女性の社会的な成功を掴む話、ということになるのですけれど、私はその先が常に気になるんですね。
 社会的な成功(経済とステータス)が、本当に人生の最重要課題なの?
 これって、冒頭の編集長の言葉である「物語に女性が出てきたら最後は死ぬか結婚するしかない」のままで、そこから一歩も出ていない。
 そういう意味で自覚的に相対化しているのだけれど、そのために作中のジョーはメタ的に、テーマを金で売るという描写があります。
 つまり結局はやはり社会的な経済の話で、ステータスとお金による生き残りの話になっているように見えます。
 もちろん、ルックが南北戦争周りのクラシックな時代ですので、それは革新的な印象を与えてくれるのですが、例えば「アナと雪の女王」シリーズが同様の自己の確立とジェンダー、社会的ステータスの話でありながら、ずっと重みのある対価を払っているように感じられるのは、アニメーションというタッチの軽さでバランスが取れるからでしょうか。
 もちろんこの映画は自覚的で、物語の初めの方で奴隷制について語っているシーンからそれがうかがえます。
「奴隷制は恥ずべきことだ」「でも私たちはそれで恩恵を受けている」と言う短いやり取りがさしはさまれるのですが、これはまさに現代経済の豊かさを支えるエシカルでない部分のことを言っているのでしょう。
 最近も「風と共に去りぬ」がその部分において話題になったばかりですね。
 そういった、経済弱者、社会ステータス弱者というものがあった上で、自分たちが望みうる階層での社会的生存を描くと言うのがこの物語であったと思います。
 王子様的立ち位置であるローリーは完全にニートでしたし、ベスの死は経済的に有益ではなくボランティアの結果として書かれていました。
 ウィキペディアを見たら、原作はもっとキリスト教性が強い話で、四姉妹の父親は極めて先進的なプロテスタントだったらしく、一言で言うなら「プロテスタント道」という物がだいぶ打ち出された作品であるようでした。
 この映画版で描かれていた経済性こそ、まさにアメリカ的資本主であり、ではアメリカ的経済とは何かというと、それはプロテスタンティズムです。
 つまり、これはプロテスタントであるアメリカによる世界支配、ここまでの、ニュー・ノーマル以前のグローバナイゼーションという物が、どのような背景を根底に持っているのか、という話であるように感じました。
 これまで何度も挫折してきた「若草物語」でしたけれども、ようやくここにきてあらすじを味わうことが出来たのは、この切り口のおかげだったのではないかと思います。
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T-34 レジェンド・オブ・ウォー 注・ネタバレ

世界的にコロナ・ウィルスの危機への圧が高まっている中、普段ならしているレッスンやダンスが出来ない。
 そんな中で、せめてもの娯楽産業への忠誠心の表現として、マスクをして、他のお客と距離を取ってやってくるこのコーナー。
 太平天国系師父にしてフェンシング・グランド・マスターが、陰陽思想とハロハロ文化の観点からネタバレ全開で映画の感想文を書いてゆく、シネマ・ハッスル!! 
 今回のお題は「T-34」です!!
 これ、好事家の間では昔からよく口に上っていた映画「鬼戦車T-34」のリメイクなんだよな、と思ってたら、調べたら違ったみたいです。
 監督曰く、同じ伝説を映画化しただけでリメイクではない、とのこと。強気!!
 あるいはもしかしたら、そのくらいこの第二次大戦期のエピソードはロシアでは有名なのかもしれません。
 と、言う訳で、この作品、久しぶりのロシア映画です。
 何年かに一度、定期的にロシア映画をハッスルしていますが、今回の作品はこれまでとはちょっと経路が違う。
 というのも、ゴリゴリのエンタメ映画です。
 内容はそれこそ、昔ながらの戦争英雄映画。
 しかも、絵面が90年代から00年代っぽいという、実に拾い物のDVDスルー的作品なのです。
 ほんと、なんでこの映画劇場公開されたんだろうって不思議になるくらい、ハリウッドの映画に目が馴れた素人からはチープに映ります。
 ザック・スナイダーの300よろしく、アクションシーンの要所要所で入るスローモーション。
 Xレイ・バイオレンスとか、マトリックス前後の時代の演出への嗜好があっちゃこっちゃにあふれまくっていますが、舞台は旧ソ連。
 そして動いているのはスローモーな戦車と言うところが独自の味わいを醸し出しています。
 物語は、国境線における絶望的な戦線に英雄的な戦車長が配置されるところから始まります。
 しょっぱなから彼は、距離と角度から追ってくる戦車の着弾と軌道を直感的に割り出して、トラックで砲弾をよけながら逃げ切るという離れ業を展開します。
 ほとんどニュータイプなんですが、これが非常に説得力があるように見せられます。
 その能力を持った戦車長が、前線基地でやる気のない戦車兵たちに打ち捨てられていた戦車を掘り出させて、迫りくるナチの戦車隊との対決に挑む訳ですが、戦車って言うのは運転士、砲弾詰め替え係の装填手、砲撃をする砲手と、指揮を執る戦車長で運転するんですね。
 そして、機動性が極めて高いわけではなく、装填にも時間がかかる。そのため、戦いは先に軌道と時間を読んだ方が有利になるというものとして描かれています。
 レーダーやソナーが発展している訳でもなく、飛行機による偵察もなく、戦車長の肉眼と直感による判断がすべてになり、ほとんどモビルスーツの戦いみたいになっています。
 実際、初めて我々の前に姿を現すナチの戦車は、ハッチの上から将校の上半身が生えており、そこで生身で判断する彼の意思によって動くという、いわばある種のガンタンク的な物として現れます。
 それに対して、主人公側の作戦は、偽装と潜伏、太陽の角度と言う、肉眼、生の耳を欺く要素で相手の速度と角度を誘導し、時間を優位に働かせて勝利を望むという物です。
 大砲に見せかけたダミーの方に相手の戦車の主砲を向けさせれば、それが自分たちの方を向くには数十秒の時間がかかる。その隙にこちらは狙いをつけて打つというじれったくなるような低速バトルがこの映画の醍醐味です。
 また、砲弾の選択も重要なポイントになっており、装甲を貫く徹甲弾と、爆発する榴弾の使い分けも重要になります。
 主人公の戦車長は、相手戦車を二台並べさせるように誘導して、両方の胴体を貫通して一発で二台倒せるように徹甲弾を使ったりします。
 逆に、早まって真芯を捉えない角度で放たれた砲弾は弾かれます。
 特に戦車は側面が弱点で正面は防弾性に優れているので、対戦する時の角度も予測しなければなりません。
 とはいえ、砲弾を弾いた戦車は無事でも中にいる兵士は無事ではありません。
 鐘の中に居て外から撞かれたかのように、強力な衝撃をフィジカルに食らいます。
 するとどうなるか。
 戦車の中で兵隊さんたちは、フラフラのグロッキー状態になり、よだれを垂らしながらもどうにかKOされないようにふんばって一生懸命戦車を操るのです。
 まさかの根性バトル!
 そういう、昔のロボットアニメのような調子でこの映画は進んでゆきます。
 初戦で相手の戦車部隊をほぼ壊滅に追い込んだ主人公ですが、しかし最後の一台、将校の指揮する一台には数の不利にて敗北してしまいます。
 それから数年後、ドイツに連行されて捕虜収容所に連れていかれていた主人公ですが、件の将校が配下の戦車部隊に模擬戦で訓練をさせたいと考えたことから、戦場から回収されたT-34型戦車を操縦する敵役をするように指示をされます。
 収容所の中に居た戦車兵たちでチームを作り、戦車を整備、操縦訓練を積む主人公たちですが、彼には計画がありました。
 それは、戦車の中に残っていた六発の実弾を頼みに、模擬戦中にそのまま訓練所から逃走、チェコに亡命するという計画です。
 かくして、戦車野郎たちの闘争劇が始まる、という、ある意味で前回ハッスルした1914にも通じるような、どこか非現実的なファンタジックな英雄譚です。
 どちらの映画も、夜の森で詩人が歌を吟じるという指輪物語のようなシーンがあり、実に幻想的な味わいをともないます。
 こちらの映画では、ただ走るだけでなく、途中での食料や燃料の調達のために普通の街の日常に戦車で押し込むシーンなど、とても物語らしい。
 旅の英雄らしく「略奪はダメだぞ」と戦車長に命令されたちょっと頭の緩い装填手が、街の市場でお婆さんなどに「お願い」して徴発をするなどと言うところは、牧歌的なユーモアを感じました。
 戦争とはいえ、あくまでタッチはその調子。
 監督が言うように「伝説」の映画化だということなのでしょう。
 国境近くの町で待ち構えていた例のナチ将校の戦車部隊と、二度目の大戦になるに至っては、パズルゲームのような戦いが月明かりの下で繰り広げられます。
 その最後、再び一騎打ちとなった二台の戦車は、決闘のルールに乗っ取って手袋を投げ、場所と時間を決めて、石橋の上で騎士同士の騎馬試合のような戦いを行います。
 決着の後には握手さえする。
 素朴なヒロイズムとロマンスを高らかに歌い上げた、見ていて気持ちのよいファンタジーでした。
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1917 命をかけた伝令 注・ネタバレ

コロナ騒動で、週末にも仕事が入れづらい。
 入れなかったと言って遊びにも行きづらい。
 そんな中でやってきたこのコーナー。
 太平天国系師父にしてフェンシング・グランド・マスターが、陰陽思想とハロハロ文化の観点からネタバレ全開で映画の解説を書いてゆく、シネマ・ハッスル!!
 今回の作品は「1917」です!!
 ワンカット風映像で、第一次大戦中の伝令兵士二人を描いたこのお話なのですが、えー、油断してると酔います!
 とにかくそれをまず訴えておきたいのです。
 その上で、お話なのですが、世界が現代社会に移り変わったとも言える時代、第一次大戦の地獄を描き、そこを旅する地獄めぐりのお話、とも言えるのですが、あまりストーリー的な起伏はありません。
 ほんとに、ただただ移動が描かれます。
 マッドマックスのように、何か神話的なモチーフがあった上での移動の描写なのかもしれないという感じです。
 雰囲気としてはダンテ辺りに近いイメージでしょうか。
 かつて「ダンケルク」をアトラクションみたいな映画と評した人がいましたが、こちらは撮影手法もあいまってそれどころではないアトラクション感です。
 以上。
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フォードVSフェラーリ 注・ネタバレ

さて、前回過去最高傑作が出てしまったので、もはや目的を見失ってしまったこのコーナー。
 そのせいもあってずいぶん間が開いてしまいましたがフィリピンはマニラ、ケソンの地からお送りいたしましょう。
 太平天国系師父にしてフェンシング・マスターが、陰陽思想とハロハロ文化の観点から、ネタバレ全開で映画の感想文を書いてゆくシネマ・ハッスル!!
 今回のお題は「フォードVSフェラーリ」です!!
 はい、アカデミーにノミネートもされていたこの作品、事実を基にマット・デイモンとクリスチャン・ベイルのバットマン俳優が主演するカーレース映画です。
 いわば、二人のバットマンがバット・モービルを作るような話とも言えるのですが、これ、前回紹介した「ジョジョ・ラビット」がアヴェンジャーズをモチーフにした部分があり、マリッジ・ストーリーにもスカーレット・ヨハンソンが出演、かたやではジョーカーはもちろんDC映画。つまり、今回のアカデミーはアメコミだらけ!!
 というのは置いといたとしても、前期に引き続きアンチ・トランプ政権映画が多い中で、ポリコレ的正義を前提に置く必要のあるアメコミ映画とそのキャストが活躍するのは必然とも言えましょう。
 ジョーカーはもろにトランプ映画としての側面もある訳だし。
 あそこでは、あるフィルターを通しては居る物の、トランプの子供としての二人が比較されていた描かれていたとも言えます。
 その視点で見ると、今回のアカデミーは格差社会への反発がテーマになっているという声が良く聴かれましたが、さらにそれを踏み込むと、その格差社会がなぜ成立したか、という視点が存在しうると思うのです。
 それを考えると、今回のノミネート作品である「パラサイト 半地下の家族」「1917」「ストーリーオブ・マイライフ 若草物語」「ジョーカー」「ジョジョ・ラビット」「マリッジ・ストーリー」「フォードVSフェラーリ」のうち、5作は少なくとも戦争の話だということが見えてきます。
 若草物語は、なにせアメリカ独立戦争で最初にイギリス軍と交戦をした地でのお話です。
 そこで描かれるバリバリのサウス・ベル(南部淑女)の四姉妹。これ、トランプ支持層の精神的ルーツだとも言える訳です。
 1917ではその、追い抜いた父親であるイギリス軍の姿が描かれる。
 ジョジョ・ラビットはその後の第二次大戦とそれによる工業化の話。
 パラサイトもまた、なぜアカデミー初の外国語映画が韓国映画だったのかということを考えるとき、もちろん作品自体が極めて優れていたからだということは当然なのですが、アメリカ側からの関心度として、韓国が朝鮮戦争におけるアメリカの土地であったということが抜きには出来ないのではないかと思われるのです。
 前回までは、エンターテインメント業界の内側を描いた作品が、業界人であるアカデミー審査員の支持を得やすいのではないかというような傾向が見られたのですが、今回それをしているのはジョーカーだけ。
 むしろ、アメリカ史、戦争の影響、工業化や経済の流れのような物が今回の主軸のように思えます。
 長くなりましたがその前提の上で、今回のフォードVSフェラーリに目を向けますと、これ、やはり戦争の影響の話なんです。
 というのも、これは作中でフォードの重役だったリー・アイアコッカがプレゼンしているのですが、第二次大戦が終わった後、復員兵たちが子供を作ります。
 それから15、16年経ち、その子供たちが車に乗る時代となる訳です。
 しかし、「いくらでも交換可能な部品を重視する」という興行主義で来たフォードの車は、そういう子供たちが乗るにはダサいっていうんで売れないんですね。
 彼らが欲しがるのはスタイリッシュなヨーロッパ車なんです。
 そこで、フォードは経営に陰りが出始めていたフェラーリを買収に行くんですけど、そのフェラーリの工場ってのがかっこいいんですね。
 一人一人の職人さんが一つ一つのパーツを作っていて、芸術作品が出来ている。
 どの部品一つとっても、大量生産の交換可能な物なんて作ってないんですよ。
 その、工房の隅で社長自身がコーヒーを飲んでるような、そういう場所なんです。
 流れ作業で車を作ってて、二代目のボンボン社長が示威行為のためだけにレーンを止めてわざわざ無意味なパワハラパフォーマンスをするようなフォードの工場とは比べ物にならない。
 フォードっていうのは、そういうアメリカ型、もっと言うと、つまりはいまの日本の労働環境や社会の基本になった仕組みを作った会社なんですね。
 フォードはアメリカに大量生産っていう物をもたらして、中産階級って物を作った会社だって言われているそうです。
 つまり、それまでは貧乏人と資本家しかいなかったとこに、金持ちじゃないけど家が持てて子供は学校に通えるっていう中産階級を大量に生み出した。
 逆に言うと、飯が食える奴隷層を作ったとも言える、というと悪意でしょうか。
 そういうフォードに関してね、フェラーリの社長は「醜い工場の醜い車」って吐き捨てる。
 実はこのフェラーリの社長、初めからフォードになんか会社を売るつもりはなくて、インサイダー取引での値段を吊り上げるためにパフォーマンスとして会議をしていただけなんですね。
 これでフォードは怒っちゃって、フェラーリに恥をかかせて、かつフェラーリに任せようとしていた若い子に売れるイケてる車を作ろうとして、元レーサーのマット・デイモンとイギリス人レーサーのクリスチャン・ベイルを雇って、専門の部署を作る訳です。
 で、このクリスチャン・ベイルがブルドッグってあだ名で呼ばれているくらい、命知らずで喧嘩っ早くて社会になじめてない人なんですけど、彼は実は第二次大戦の帰還兵なんですね。
 つまり、ある種の戦争後遺症だとも言えるし、リアルな現実を知ってしまっているから甘やかされた社会の内側の人間と価値観が共有できない人間でもある訳です。
 マットとクリスチャンの二人は、元トップレーサーと軍人だから、ゴールや作戦を与えられたらまっしぐらに向かう訳ですよ。
 でも、フォードの会社側ってのは、それこそ甘やかされた社会の人たちだから、内側での派閥争いとか、自分の体面とかがすべてになっちゃってて、会社がわざわざ自分たちの意思で興した事業を、自分たちで潰そうとするようなことばっかりするんですよ。
 きちんとしたコンセプトや自分の意思、真実というものが無い人達だから。
 これはつまり、結局は交換可能な仕事をしている、交換可能な人達だから、足の引っ張り合いしか仕事が無いんですね。
 これがつまり、アメリカ型社会、すなわち日本型サラリーマン社会の基本です。
 仕事をしているふりのパフォーマンスと足ひっぱることしかない。
 だって、仕事そのものは誰でも出来るようなことしかないんだもん。
 そういう風に仕組みが設定されてるから。
 つまりすべてが共同幻想なんですよ。
 だから、真実なんてものを見てしまうとその仕組みすべてが脅かされてしまう。
 これがフェラーリとの違いなんです。
 もっと言うと、ヨーロッパ型の生き方とアメリカ(および日本)型の生き方の違いなんです。
 そういう、主催者たちそのものに足を引っ張られながら行うチームの戦いっていうのがこの映画の中心です。
 フェラーリは別になんも悪いことしません。
 それどころか、フェラーリの社長も元レーサーで「わかってる」方のヒトなんでちょっと主人公たちと通じ合う節さえあります。
 その「わかってない」フォードのボンボン社長が懲らしめられるシーンがあります。
 試作品のレース車の助手席に、騙されて文字通り乗せられてしまうのですが、そこで社長は初めて超高速の世界に身を置きます。
 回転数7000以上、250キロ以上で走ると、映画の中でのメカニック言葉で言うと「初めてのヤツは大便をもらす」くらいらしいんですね。
 その、保証のないジェットコースターに振り回された社長は、車が止まった後で子供みたいに声を上げて泣き出してしまいます。
「知らなかった! 知らなかった!」ってとてもかっこ悪くなくのですが、その繰り返しの言葉に継いで「爺さん(先代社長)にも教えてやりたかった」って言葉が出た時に、とても胸が熱くなりました。
 そう。
 彼等、分かってない人たちは、知らないだけなのです。
 矮小でくだらないように見えても、真実に触れる機会が無かったからの結果であって、足の引っ張り合いがすべての社会の外を知れば、やっぱり感動する心もある訳です。
 自分たちが作っていた物が、そんなすごい世界に繋がっている物だって、彼は初めて知ることになった。
 そこで生きているマットやブルドッグの世界を。
 そのブルドッグが、夕暮れ時のテストドライブ場に座って、息子に話すシーンがあります。
 あの角を走るとき、ブレーキングの目印が感じられる。あそこには、最高のラップを生み出す秘密が隠れている。
 真実の世界で生きる彼には、そういう物を感じる感覚が育まれているんですね。
 息子に「わかるか?」と訊き、息子が分かると答えると「わかるなら大丈夫だ」と言う。
 つまり、社会の人たちのようにはならないということなのでしょう。
 本当の人生を生きられる、と。
 人だけを見て生きているのではなくて、きちんと世界を観る力があるのだ、という。
 この映画のクライマックスの後、ブルドッグがなおテスト・ドライブをするシーンにかぶさるモノローグがあります。
「エンジンの回転が7000を超えるころ、それは後ろから静かにやってくる。そして、耳元で問いかけてくる。お前は何者なんだと」
 真実の世界に生きるっていうのは、そういうことなのでしょう。
 これが見失われて、世界でなく人のことばかり見て、足を引っ張ることばかり考えて生きるようになると、現代社会人の出来上がりです。
 今回の初めのほうに書いた「なぜ世の中はこんな風になってしまったのか?」この作品はそれに対する一つの答えとして提示されているのではないでしょうか。
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プロフィール

萬芸廊 降利夫

Author:萬芸廊 降利夫
 ストリート・ギャング、私服保安員、ボディ・ガードと壮絶な人生を経て、ライフスタイルとしての若隠居を始めたアラフォー男児。
 素晴らしい仲間達、文学、気功学などを通して現代社会から一歩退く生き方を選択。
 現在、武術家、ダンサーとしてささやかながらも静かで滋味のあるビューティフル・ライフを目指して日々暮らしている様を書いております。
 今のキーワードは「すべてが、愛だ」。

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