1.基本情報【名称】革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会【結成】1984年10月 【機関誌】『プロレタリア革命』 革労協狭間派に対して労対派と通称される。分裂の詳細に関して双方の資料が整わないため、集められた限りにおいて紹介するにとどめる。 警察系出版社の立花書房が85年に出版した『過激派集団の理論と実践』によれば、労対派と狭間派の対立は’77年2・11の革マル派による中原一殺害に遡る。中原殺害後、内ゲバ・軍事路線重視の中原直系と言われる竹海衆(狭間嘉明)を中心とする学生運動出身活動家グループ(以下「狭間派」)と、労働運動・大衆闘争重視の滝口弘人らを中心とする労働者グループ(以下「労対派」)とが対立しており、狭間派は比較少数派であり労対派から路線転換を迫られていたところ、’78年8月の目上委差別ビラ事件を機に狭間派が内糾中央対策委員会を設置し、責任者らの査問から発展し、労対派の幹部や活動化を糾弾して追い落としをはかり、以後狭間派が革マル派との内ゲバを継続した結果労対派との亀裂は深まり、’80年9月15日の三里塚現地闘争等で労対派に対する暴力行使によって完全に分裂し、後に労対派と狭間派は中間派の抱き込みや相手側の切り崩しを図った結果、幾度かの内々ゲバ事件に発展したとする。 労対派機関誌『プロレタリア革命』6号(1982.01.01付)33頁以下によれば、「宗派グループ(転載者注:狭間派のこと)の一部一般民『指導部』は自らを『内部糾弾本部』に位置づけ」、「内部糾弾闘争の推進過程を部落民同志に対しても一般民同志に対しても政治操作してきた」のであり、また「組織内に『自主申告』(密告)制度なるものをはりめぐらし、その『自主申告』制度を通じて『スパイ』摘発と『中特委』なる党内秘密期間を確立せんと策動し」、「組織をあげた自己批判作業が問われているにもかかわらず、討論の禁止や制限、隔離―『任務制限』やら致、糾弾主体の問題をめぐる論争の圧殺を含め組織破壊行動が行われてきた」とし、このことを指して労対派は、狭間派が「差別糾弾闘争の政治的利用、小ブル的権力闘争への手段化をもって解放派潮流の宗派的制圧をおし進めんと」したとする。 そして「先進的党員一人一人の闘いが全国的に開始され、差別問題の政治利用―解放派の私党的制圧に対決していく運動が形成され、公然と組織問題に成るにつれ追いつめられた宗派グループは、『内部糾弾闘争の組織的総括をおこなう』と欺瞞して、反対派処分のための中央委員会を強行開催(転載者注:この開催は’80年夏)し、同志を組織処分していった」とし、これに対して労対派は「組織中央部の混乱・破壊をおこなったことに対し、『党中央委員会を破壊しこの機関の機能を停止させようとした事例を解党主義のとくにはっきりした例』(レーニン、『解党主義の清算』)として、われわれは総反撃を開始し、県委員会(地本)の戦闘的強化、再確立を通して組織中央部の再建に突入していく決意を固めてい」き、「こうした解放派再建運動が、宗派グループによる解放派の私党的制圧を粉砕した」とする。 このような中で「党(同盟)から生まれた解党主義に対して、これと断固と対決しつつ、さし迫った九・一五三里塚闘争の組織化をわれわれは、全力で推進し」、「解放派の組織的試練を解決していくために、そして三里塚闘争の前進を全力でかちとっていくために、そして友人諸君の協力を含め、組織的解決の糸口を見出さんとしてきた」が、「彼らは『木の根共闘統一指揮者団』なる木の根共闘はもとより、宗派グループ内部において位置づけることが決してできない襲撃部隊をつくりあげ、九・一五当日、結集せんとする三多摩の同志諸君を早朝多摩で襲撃し、三里塚現地で集会に参加せんとする労働組合、反戦青年委員会のメンバーに襲撃をおこない多数の負傷者を出し」、更に「東京反戦のメンバー二人を襲撃―ラ致し、即刻われわれにかえすという現場での約束を反古にして、数日間も身柄を拘束していた」とする。そしてこのことによって「解放派の革命的再生の道は、公然たる全国分派の確立をもってしかもはやありえないものとして党内状況は突き進んだ」という。即ち分裂が決定的になったということである。 狭間派との党派闘争開始以来、幾つかの分派組織を経て、’84年に解放派全協を結成した。 参考:革労協再建連・社青同中央再建委から全協へ 2.ヘルメット 1981.06.15 宗派グループの弱々しい敵対を粉砕し、宮本公園に登場 ( 『プロレタリア革命』第4号 1981.10.15付 26頁) 1981.12.11 12・11神大に登場した再建委部隊(『プロレタリア革命』第6号 1982.01.01付 83頁) 1981.12.11 12・11神大登場の「四・二〇実行委」と再建委の部隊(『プロレタリア革命』第6号 1982.01.01付 77頁) 社青同や反戦青年委員会、労働組合や大衆組織の立‐三会議のヘルメットを確認している。また少数ながら学生は居たはずで、神奈川大学に自治会の再建委員会として公然登場しているが、ヘルメットが不鮮明のため、全学連ヘルを被っていたかどうかは不明。 3.実物資料・解放派全協機関誌『プロレタリア革命』2号1981.08.01付・解放派全協政治理論機関誌『プロレタリア革命』1号1994.11.15付 |
4.社会主義青年同盟各派 >