1.基本情報【名称】革命的共産主義者同盟全国委員会[通称:中核派]【結成】1959年8月(1962年9月に中核派と革マル派に分裂)【機関紙】『前進』 ’59年に革共同から黒田派が分裂して革共同全国委を結成したが、’62年に政治局少数派の黒田派が脱退し、その後日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派を結成。一方革共同全国委の学生組織マル学同は多数派を黒田ら革マル派が占めたため、学生組織においては少数派である政治局多数派の影響下の学生がマルクス主義学生同盟中核派を結成。本多書記長(政治局多数派=中核派の最高指導者)によれば分裂直後の都内中核派学生活動家の数は18人にまで減少したという(『中核VS革マル(上)』95頁)。残る多数派は日本マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派を結成した。 中核派という名前は元々は学生組織マル学同の名前であったが、後に上部団体たる革共同全国委政治局多数派の通称として用いられることとなった。 中核派でも革マル派でもその組織名称の語幹にあたる部分は、政治組織・学生組織それぞれで革共同・マル学同だが、一般的に革マル派には「日本」が冠されている一方で、中核派には「日本」が冠されていないとされる。もちろん公的にはそのようになっているのだろうが、学生組織の支部レベルではそれほど厳密でもなかったようで、当時の旗を見ると中核旗の下の帯部に書かれた組織名称に「日本」とついているものが少なくない数見受けられる。(毎日ムック‐20世紀の記憶シリーズ『1968年』168頁下段1968.06.07付 板付基地反対デモ@福岡の写真は、マル学同中核派に「日本」がつき、マル学同革マル派に「日本」がついてない。) 反代々木(反日共)諸派では最大勢力を誇り、街頭における大衆武装闘争を数多く闘った。全国学園闘争や続く三里塚闘争でも活躍。(但し革マル派との“戦争”に明け暮れた時期は大衆武装闘争がやや下火になっていたらしい)
2.ヘルメット ≪学生組織≫ 【名称】マルクス主義学生同盟中核派
【ヘルメット】白地に「中核」。側頭部に「MSL」等。
労働者組織としてはマルクス主義青年労働者同盟が存在した(最近再建)が、大衆労働者組織である反戦青年委員会として街頭に出ているため、マル青労同のヘルメットというのは確認できていない。マル学同中核派と学生大衆組織の全学連のヘルメットは歴然とわかれている。革マル派の項で論じたような論点は存在しない。 MSLはマルクス主義学生同盟「Marxist Student League」の頭文字。1969.01.19 明大通り、バリケード構築、石油かんを盗み放火準備 1970.06.15 樺美智子追悼集会の暴力学生 1970.06.23 第二安保総力戦 ≪高校生組織≫
【名称】戦争と植民地主義に反対し、生活と権利を守る高校生協議会(反戦高校生協議会)【結成】1965年7月 【ヘルメット】白地に「反戦高協」。側部に「AGH」、「MHL」等。 反戦高協というのが通称であり中核派機関紙でも「反戦高協」と呼ばれた。後にマルクス主義高校生同盟を結成したとされ、ヘルメットにMHL(マルクス主義高校生同盟「Marxist Highschool-student League」の頭文字。)の文字が見られるほか、ビラなどでもその名前が見受けられる。下記スライドショー内の生写真に写る旗の中にも名前が見える。組織実態があったかどうかは不明。 反戦高協自体は’06年頃まで活動が確認されている。 「AGH」は反戦高協の略称であり、「アゲハ」と読むらしいが、生写真の三枚目(つまり4枚目)の反戦高協ヘルの右側頭部に「アゲハ蝶」の絵が描いてあるのは興味深い。 余談だが関西方面の中核派系学生ヘルメットには割とポップな絵が描いてあることが多い様に見受けられると東京の方の活動家から聞いたことがある。当然時期にもよるだろうが。
1969.04.28 沖縄デー 新橋地区 新橋大ガード下
下の三枚の写真は関西方面の時期不明の生写真
その他の写真は、下記スライドショー参考。 3.実物資料・革共同全国委機関紙 『前進』739号タイトル部 1975.06.16付・革共同全国委機関紙 『革共同通信』42号タイトル部 1974.11.04付 革マル派に印刷所を破壊された74年の一時期、『前進』に代えてホチキス止めのB4版機関紙『革共同通信』を発行していた。 ・反戦高協長野県委員会機関紙 『東雲』№18 反戦高協長野県委 1966.11.20付・マルクス主義学生同盟中核派ヘルメット(M氏提供) 転載厳禁
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