SOUL REGALIA 作:秋水
大幅な変更、改訂を行う可能性があります。
第一節
1
やれやれ、相変わらずとんでもねぇバケモンだぜ……
ああ、誰のことだって? んなもん決まってんだろ? 【
テメェの
大派閥の【イシュタル・ファミリア】まで含まれてるってんだから、本気でどうかしてるぜ。
しかも、幹部どころか神まで皆殺しときたもんだ。ったく、おっかねぇったらねぇぜ。
ああ? 神は死んでも天界に還るだけだろって? そりゃそうだがよ……
ははぁ……。お前さん、神罰同盟のビラを見たな?
本当かって? んなもんオレが知るかよ。
気になるなら、天界まで行って確かめてくりゃいい。まぁ、オレは帰ってくる方法を知らねぇからやらねえけどな。
うるせえよ、まだ迎えが来るにゃ早えぇ。
枯れたジジィと侮るんじゃねぇ。今だって歓楽街に行きゃ
ああ、クソ……。そういや、もう歓楽街もねぇんだな。
なに、再編は進んでるだろうって?
んなこたぁ知ってるよ。オレを誰だと思ってんだ。
だがな、指揮を執ってんのは【ガネーシャ・ファミリア】。オラリオ屈指の神格者、『大衆の主』と名高いガネーシャ様の眷属だ。
なら、廃退と淫蕩渦巻く享楽の都、淫都と呼ばれた街にはまず戻らねぇだろうよ。
やることは変わらねぇにしても、今までよりずっと小奇麗で風通しのいい場所になるに決まってる。
まぁ、オレたち情報屋にとっての聖地も今は昔ってわけだ。
ったく、やってくれたぜ……
つーか、あの野郎。歓楽街潰しときながら、今頃テメェはよろしくやってんだろうな……。
誰とだって?
そりゃ、神を殺してまで掻っ攫った
……いや、ただの娼婦じゃねぇけどな。
しかも、特に人気株だった【
愛人も兼ねてるマネージャーだって相当な上玉だってのに……どうやって誑し込んだんだか。
いや、【
ああん? それでも情報屋かって? ……おいおい、勘弁してくれよ。
そりゃ、お望みとありゃ麗しの女神、フレイヤ様のスリーサイズだって手に入れて見せるけどよ。
あの剣闘士だけは勘弁だぜ。ありゃ、まさに神も恐れぬ不遜の輩ってやつだ。
……頼むから、イシュタル様の『遺産』に関する情報をくれとか言い出すなよ?
なに、興味ない? そりゃいい。お前さん、きっと長生きできるぞ。
どうも奴さん、それを知っている奴らを皆殺しにしたようでな……っと、深入りは厳禁だ。
オレぁまだ命が惜しいんでね。
あの剣闘士みたいに、命を投げ捨てる……いや、投げつけるような真似はしねぇよ。
ったく、きっと奴は一度や二度は死んでも平気なんだろうぜ。
ああ、本当によくやるよ。【
だから、真似はしねぇっての。
つーか、お嬢さん。ずいぶんと【
まさか、お前さんもあの剣闘士の愛人なのかい?
なに、それでも構わないって? おいおい……。
何だって、あんな得体のしれない剣闘士がこんなにもてるんだか……。
ああ? 正妻は誰だって?
知らねぇな。あっちこちで浮名を流してる……と、言われちゃいるけどな。
ああ、他に【
実は年上趣味なのかね――っと。い、今のは聞かなかったことにしてくれ。
頼むぜ。本気で殺されちまう。特にエルフども知られた日にゃ火炙りにされかねねぇ……。
ええと、何の話だっけ?
ああ、【
マネージャーが【
四年前、いきなりいなくなったのも、実は単に他所にいる現地妻に会いに行っただけなのかもな。
くくく……。このオラリオに全員集合なんて事になったら、面白い見世物が見れるかもしれねぇな。
なに、あり得ない?
そいつぁ分かんねぇぞ。何たってここは世界の中心、神々すら魅了する世界で一番熱い街だ。
迷宮都市オラリオ。何が起こるか神にだって分からねぇのが最大の売りなんだからよ。
……とはいえ。
まぁ、まじめな話、奴の命運もそろそろ風前の灯火なんじゃねぇかな。
何でだって? おいおい、こんなの誰だって分かるだろう。明日は
こんだけ盛大に神殺しなんぞすりゃ、ギルドが黙ってても神どもが黙ってるわけがねぇ。
……それとも、あいつを抱き込んでるって噂のウラノス様には何か秘策でもあんのかね。
オレぁ、オラリオがひっくり返るような事でも起こらなけりゃ誤魔化せねぇと思うんだけどな。
2
「ぅん……」
身じろぎすると、素肌をシーツが撫でる。
その感覚で目が覚めた。
(朝か……)
すっかり馴染んだ
実際には朝というには少し遅く、昼というにはまだ早い。そんな中途半端な時間だ。
珍しい事に、私一人だった。寝台には私以外の体温も残っていない。
『何か食うものを買いに行ってくる』
気だるい身体を起こすと、床頭台に
(あ~…。そりゃそうか)
橙色に輝くその文字を見やり、内心で呻いた。
ちょくちょく霞が訪れるせいでつい忘れそうになるが、一応私達はギルドに追われている身だ。
迂闊に買い物にも行けやしない。
それに、どちらかといえば私の方が顔を知られている。
買い出しはそれこそ霞に丸投げするか、さもなくばいろいろと隠し玉を持つあいつが行くのがここしばらくの常だった。
ともあれ、その
『それと、風呂が沸いているはず』
「そりゃ気の利いた事で」
呟いてから、タオルと愛用の大朴刀だけ持って浴室に向った。
「ふぅ……」
程よい湯加減の浴槽に身を沈めて、息を吐く。
湯に包まれる事で、腰のだる重い感覚がほぐれていく。
……まぁ、それも決して不快な感覚ではなかったが。
(もう一〇日か。早いもんだねぇ)
私の古巣――【イシュタル・ファミリア】が消滅してから、もう一〇日ほどが過ぎた。
神罰同盟とかいう連中を返り討ちにしてからなら五日ほどか。
(ったく、大した怪物だよあいつは)
【正体不明(イレギュラー)】クオン。
仮にも大派閥の一つと数えられていた私達【イシュタル・ファミリア】を単独で壊滅させ、その後の一〇派閥からなる派閥連合すら、ほぼ一人で返り討ちにしたことになる。
驚くべきことに半月足らずで、だ。
(ま、そうじゃなきゃ今頃天界行きだけどね)
思った以上に早く動いたギルドによって抗争は調定され、イシュタルの悪行もまた認められた。
神罰同盟の連中がギルド職員にも手を出した事もあって、今のところ【ガネーシャ・ファミリア】に追われるような事態にはなっていない。
まぁ、クオンがギルドの創設神と面識がある、というのも大きな理由だろう。
神殺しなんて派手な事をやった割には、ずいぶんと平穏な生活が続いていた。
湯船の中で体をほぐし、汗やら何やらをのんびりと洗い流せる程度には。
(しっかし、『ダイダロス通り』にこんな建物があるとはねぇ)
さっぱりした気分で浴室を後にしてから。
クオンの拠点――この五日ばかりを過ごし、そろそろ馴染みつつある館を歩く。
年季こそ入っているが、なかなか上等な造りである。
『ダイダロス通り』の奥深くには区画整備が狂う前の名残りが残っている――なんて噂は聞いた事があったけど、まさか自分がそこに住む事になるとは思っていなかった。
もっとも、落ち着くべき場所に落ち着いただけ、という気もするけど。
(この造りは、どう見てもね……)
似たような間取りの部屋が複数存在する。
クオンは宿だったのではないかと見当をつけているけど……
「よう。おはよう」
部屋に戻ると、クオンは戻ってきていた。
この数日間で見慣れた簡素なシャツにズボン姿。
まぁ、この格好で出かけるはずもないから、戻って早々に『着替えた』のだろう。
(『ソウルの業』ってのは、相変わらず便利なもんだね)
実際、かなり羨ましい『スキル』だった。まぁ、厳密にはスキルとも言い難いようだが。
「ああ。おはよう。買い出しご苦労さん」
テーブルの上には出来合いの食事のほかに、袋に入ったままの食材もあった。
そっちはひとまず
「へぇ。マシなものを選べるようになったじゃないか」
太いソーセージと、たっぷりの野菜が挟まれたホットドッグを齧り、添えられたサラダをつついてから笑ってやる。
「口に合ったなら安心した。店員のオススメらしいしな」
この男の味覚は全くあてにならない。
何しろ――
「よくそんなもの食べられるねぇ」
今齧っているのはじゃが丸くん激辛ハバネロ味。何かもう、色からして引くほど赤い。
私だって別に辛い物は嫌いじゃないけど、流石に限度ってもんがある。
「これくらいじゃないと味が分からなくてな」
この数日の間に繰り返された、何度目かのやり取り。
(不死人、ねぇ……)
仮にも死線を共にし、その後五日も一緒にいれば、お互いに身の上話くらいは済ませてある。
不死人。クオンは、自分の事をそう言った。
(こうしてる分には普通のヒューマンにしか見えないけどね)
改めてその姿を見やる。
生まれは東国とやらだったそうだが、もうほとんど覚えていないという。
おそらく、極東なのだろう。黒髪、黒目。やや彫りの浅い顔はそこに生まれた人間の特徴だ。
彫りが浅いとはいえ、目鼻立ちの方は整っている。もちろん、絶世の美男子ではないけど、人並みよりはいくらか上の精悍な面構え。それなりに目が肥えていると自負している私が見ても、まずまずの男前と言ってやっていいだろう。
年の頃なら――見た目でいえば――私と大差ない。
精々が、
何でもその辺りで『ダークリング』とやらが浮かんだらしい。
けど――
(変わった痣にしか見えないんだけどね)
総評として言えば、その辺のヒューマンといくらも差があるようには見えない。
どこにでもいそうな、ごく普通の人間だった。
(ダークリングねぇ……)
簡素なシャツ越しに胸元を見やる。
ちょうど心臓の真上辺りに赤黒くいびつな円を描く――例えて言えば、羊皮紙に煙管の灰を落とした時に生じる火の輪のような――刻印が浮かんでいるのは四年前から知っていた。
知ってはいたが、特に気にしていなかったそれが、不死人の証だという。
(そんな大げさなものにはとても見えないんだけどねぇ)
生を失い、死を見失った呪われ人。死んでも蘇り、なお彷徨う者。
――と、その刻印が浮かんだ奴は、そういう存在になるという。
何とも怪しいが、信じるよりない。
それに、私は確かにこの手でこの男の心臓を断ち切り、体そのものすら両断しかけたのだ。
だと言うのに、今もこうして平然としている。
少なくとも、呪いを持たず、『ソウルの業』とやらも知らない人間では特に殺しにくいというのは確かなのだろう。
(まぁ、蘇ると言ってもそれは身体だけって話だけど)
少しずつ人間性とやらを――あるいは、
その果てに、理性を持たぬ亡者となり果てるそうだ。
実際にこの男は飢えもしない。乾きもしない。眠る必要もない。
味覚だってこの有様で、どれだけ強い酒を飲ませたところで酔いもしない。
記憶もだいぶ虫食い状態らしい。自分の故郷すら忘れる程度には。
「ところで、アイシャ」
「何だい?」
「せめて下着くらい穿かないか?」
「はっ、今さら何言ってんだか」
風呂上がりだし、髪を乾かすために頭にはタオルを巻いてはいるけど、それ以外は全裸だった。
そもそもアマゾネスなんてのは生まれつき露出の高い服を好む……いや、裸を見られたところで気にしない種族だ。相手が強い雄ならむしろ望むところでしかない。
それに――
「大体、この方が安心するだろう?」
見せつけるように胸を張り、その谷間を指先で撫でながら笑って見せる。
「それは、まぁ、否定しづらいが……」
クオンは、曖昧に頷いた。
――実際のところ。そもそもの始まりはこの男の一言にある。
あれは、ギルドの調停によってひとまず抗争が終わり、密かにこの館に身を寄せた日。
とりあえず一息つき、改めて――四年越しに――お互いの身の上話を済ませてからの事だ。
…――
「そう言えば、お前の【ステイタス】は封じられているのか?」
ふと、クオンが口にしたその言葉が全ての始まりである。
「何言ってんだい。いくらアマゾネスだって、『
鼻で笑ってから、ようやく自分の体に異常事態が発生している事に気づいた。
(
ありえない。イシュタルは死んだ。それだけは確かだ。その場に立ち会ったのだから。
それなら、何故私は戦える?
主神を失って一〇日もたってから、自分の身体に起こっている奇妙な現象を自覚した。
……奇妙と言うなら、主神を
「い、いや。でも、他の連中は
クオンに殺された神の眷属は、全員【ステイタス】を封じられていた。
もちろん、サミラ達もだ。
「お前と他の連中の違い、か……」
「まさか骨の髄まで『魅了』されたせいだって?」
今回の儀式で用いられるはずだった『殺生石』を手に入れる前のこと。
その前に手に入った『殺生石』を色々あって破壊した私は、その咎であのヒキガエルに散々ボロクソにされ、その果てにイシュタルに徹底的に責め抜かれて骨の髄まで『魅了』された。
それこそ、自分で自分の首を刎ねるようになるほどに。
(まさか、あの女神の『
そう思えば、さすがにゾッとした。
「ああいや、そっちじゃなくてだな」
しかし、クオンは首を振ってからこう言った。
「俺があの女神を殺した時……というか、そのソウルを取り込んだ時、お前思いっきり返り血を浴びただろう? それと俺の血も」
「そりゃね」
こいつの心臓ぶった斬ったは私だし。しかも、そのまま抱きかかえられてもいる。
それどころか、こいつは左肩から胸にかけて吹き飛ばされてるし。
で、事が済んでからは半ば背負うようにして肩を貸しもした。
そこまでやれば、そりゃもう血だって派手に浴びる事になる。
「さらに言えば、あの時イシュタルは奇跡……いや、『神の力』を使った。そこまでやれば、血を触媒としている『神の恩恵』とやらにもさすがに影響が出るだろう」
浴びた血が神の力を焼きつかせたか、それともイシュタルのソウルを取り込んだ俺の血を彼女のものと錯覚させたのかもしれない。
それが、クオンの推論だった。
「つまり、あんた達の血を浴びた影響だって? そんなことがあり得るのかい?」
「可能性なら。血とソウルには特別な関係がある……と、思う。例えば【ファランの不死隊】――【深淵の監視者】達も、狼血を酌み交わすことでその力を得た訳だしな」
「深淵?」
いや、他の言葉の意味もさっぱりだったけど。
妙に気になったのはそれだった。
「ええと……。説明しだすと長くなるからざっくり言うが、普通は人だろうが神だろうが立ち入れない魔境の名前だ。過去にそこを歩いた英雄がいてな。本来なら彼が遺した『遺産』の力を借りない限りは立ち入れない。【深淵の監視者】達は数少ない例外だよ」
もっとも、彼らの耐性は完全なものとも言い難いが――と、クオン。
「ふぅん……」
相変わらずよく分からないが……それはまたずいぶんと大仰なものだ。
こいつは本当にどんな人外魔境を旅してきたんだか。
「まぁ、それはともかく。なら、あんたの血があれば【ステイタス】の更新もできるってことかい?」
「……いや、それはどうかな。少なくとも今すぐにはできない。何しろやり方が分からないからな」
「イシュタルなんて血を垂らしただけだったけどねぇ」
「お前な。それは鳥はただ翼を羽ばたかせているだけだって言ってるようなものだぞ?」
「……そりゃそうか」
この男は何だかんだ言って、基本的には
神が当たり前にやっているからと言って、簡単に真似できるわけではないか。
「しかし、そういう影響が出るとなると……。いや、『最初の火』がない今、『火の陰り』も起こりえないんだ。流石に可能性は低いだろうが……」
何やらぶつぶつと一人で呟いてから、
「悪い。何も言わず、服を脱いでくれ」
真剣な顔でそう言った。
「あいよ」
元より私はアマゾネスで、
大体、こいつにはもう裸なんて散々見せている。
「さぁ、ご主人様。これでいいかい?」
それに、仮にも『身売り』したというのに求めてこないのは張り合いがないと思っていたところだ。
さっさと脱ぎ捨て、笑みを浮かべてやる。
で、それから。
全身隈なく――うなじやら胸の谷間やら乳房の下側やらまで確かめられた。
……まぁ、要するにその『ダークリング』とやらが浮かんでいないかを。
「流石に、そこまで影響しないか。いや、だが……」
まだぶつぶつ言っていたが、ひとまず安心したらしい。
確認を終えると、クオンは私の服を渡してきた。
……正直な話、面白くなかった。
「あんたねぇ。女に恥かかせるもんじゃないよ」
久しぶりの『お誘い』だと思っていたらこの扱いだ。
そのまま押し倒した私を、一体誰が責められるというのか。
……例えそれが、私から見ても爛れた生活の始まりだったとしても。
…――
「……まぁ、我ながらちょっとやり過ぎた気もするけどね」
いや、それくらい色々な理由で血が昂っているのも確かなんだけど。
「なんか言ったか?」
「囲われ女も板についてきたって言ったのさ。……ああいや、娼館にいるんだからただの娼婦か」
「娼館ってお前な……」
あくまでクオンはこの館を元宿屋だと言い張っている。
言い張っているが――
「何言ってんだい。どう見たって娼館の造りだろう?」
私から見れば、ほぼ間違いない。
ここは元娼館だ。それも、多分あまり性質の良くない手合いの。
まずは、同じような間取りの部屋が複数あるが……まぁ、これは言うに及ばずか。確かに、それだけを見るなら宿屋と見てもいい。
注目すべきは、館を囲う壁。不自然なまでに高いどころか、内側に湾曲があって登れないようになっている。これはもう、明らかに内部からの脱走防止のための造りと見て間違いない。
その門に設えられた堅牢な鉄柵。これは、私たちの
他に物干し台に使っている屋上は、かなり広く、簡素ながら空中庭園があったらしい痕跡も残されている。その一方で、外からは見えない造りになっている。おそらく、脱走できないように日の光を浴びさせるための施設――
さらには――
「地下にはおあつらえ向きの『調教室』まであるしね」
「ぐ……」
地下倉庫――と、この男は言い張っているが……どう見ても牢獄めいた造りだ。
物が揃えば、あのヒキガエルの部屋にも劣りはしない。どれだけ控えめに言っても、真っ当な宿屋にあるような代物ではなかった。
「ったく、本当に囲われ
ちなみに、この館に引っ込んでからの五日間。
私は概ね
まぁ、勘が鈍らないようこまめに手合わせしているが……これでも隠遁生活中だ。
流石に庭でやる訳にもいかず、地下にある隠し部屋を使用している。
案外広いが、所詮室内。精々準備運動に毛が生えた程度の事しかできない。
食料の買い出しに行くのは――今日もそうだったように――色々と追手を巻く方法をもつクオンか、人目を忍んで訪ねてくる霞の仕事で、私は精々シーツやら何やらを干す時くらいしか外に出る事はない。その時だって、件の物干し台に行くだけだ。
そんな状況で、アマゾネスと強い
まぁ、簡単に言えば、飯食って、抱かれて、戦りあって、抱かれて、風呂入って、抱かれて――なんてそんな生活が続いているわけだ。
しかも、それもまんざら悪くないと思っている辺り、我ながら危険なほど絆されている。
と、それはともかく
それから食事を終え、
「ほら、さっさと脱いじまいな」
ひとまずクオンの上着をひん剥く事にする。
どうせ着ているのは木綿のシャツ一枚だ。脱いだところで変わらない。
下は……まぁ、状況に応じてか。どうせいつも通り投げナイフの類が仕込んであるだろうし。
いつでも好きなだけ武器を出し入れできる『スキル』を持っているくせにマメなことだ。
もっとも、私は私で大朴刀だけは手に届く範囲においてあるが。
何しろ隠遁生活だ。いつどこから襲撃を受けるかは分からない。
「……たまには俺にも脱がせる楽しみを味わわせてくれていいと思わないか?」
ため息交じりに、クオンがぼやく。
「はいはい。今度表に出た時には好きなだけ剥いとくれ」
観念したようにクオンが上着を脱いだ……いや、正しくはソウルとやらに取り込んだだけだが。
(やっぱ便利なもんだねぇ)
すっかり馴染んだ身体に素肌を添わせ、声にせず呟く。
それだけでも割と心地よいと感じる辺り、やはり危険だった。
(ったく、初心なねんねじゃあるまいし)
まぁ、色々助けられられた相手で、しかも強い
何より、仮にも身売りした『ご主人様』な訳だが。
などと胸中で呟きながら、クオンの胸元に浮かぶ『ダークリング』を指先で撫でる。
大して大きくもない。少しばかり奇妙な形をした痣。あるいは刺青。何度見てもその程度のものにしか見えない。神々すら恐れた不死の呪い――そんな大げさな代物だとはとても思えなかった。
「何読んでるんだい?」
胸を撫でられているのは私も同じだった。
すっかり手慣れた様子で愛撫されている。
いや、愛撫というにも弱い。例えるなら仔猫の首をくすぐるようなものだ。
快楽と呼ぶにはあまりにもどかしく、しかし不思議と心地よい。そんな感触だった。
「うん?」
それはいいのだが、肝心のクオン本人は一枚の羊皮紙に目を落としたままだった。
しかも何だか随分と嬉しげなのが、そこはかとなく腹立たしい。
「ギルドの情報誌だ。少し気になる記事があったからな」
これで春画だったらどうしてやろうか――と、考えているとクオンはあっさりそう言った。
「はぁ?」
今のところギルドからは何の音沙汰もないが……さて、何か動きでもあったのか。
そんな事を思いながら、のぞき込むとそれは確かにギルドの情報誌……それも、冒険者の
冒険者にとっては見逃せない記事だが――当然というべきか、ギルドお抱えの人相書きの手による似顔絵と名前、所属する【ファミリア】名。昇格前のLv.と昇格後のLv.。そして、昇格までの期間だけが書かれただけの短い代物でしかない。
大体、Lv.1からLv.2へのランクアップならそうは言っても珍しい話ではないのだ。
最初の関門と言えばその通りだが、本当に険しいのはそこから先である。
加えて言えば、この男にとってはLv.7だってそこまで大した敵ではない。
一体何がそんなに嬉しいのやら――
「はぁ?!」
ざっと流し読みして、ようやくその記事のとんでもなさに気づいた。
――所要期間一ヶ月半。
とある冒険者の、所要期間には確かにそう明記されていた。
所属は――
(【ヘスティア・ファミリア】……?)
聞き覚えがある。
こいつが嫌悪していない……かどうかはともかく、まっとうな関係――奇妙な状態が続く私の
いや、そもそもこの坊やを知っている。
「そうか。あの時の坊やか……」
白髪に
フィリア祭で、シルバーバックを撃破して見せたLv.1のひよっこと同じ特徴だ。
「ああ」
あっさりとクオンは頷いた。
となると――
「あんた、やっぱり何かしたんだろ?」
具体的には『ソウルの業』とやらを仕込んだに違いない。
でなければ、Lv.1が
中層に出没するその怪物は、シルバーバックとは文字通り格が違う。
「いや、特に何も。生き残り方と、剣の振り方の基礎を教えたくらい……ああいや、他に≪呪術の火≫を分け与えたが」
しかし、クオンはあっさりと首を横に振った。
その左手に宿る『火』は、魔導士が言うところの魔法の杖だとは聞いているけど……。
「なら、こいつも雷の槍やら劫火やらを使えるってことかい?」
それなら、まぁ可能性はあるだろうか。
「いや、流石にそこまでは仕込んでいない。大体、≪呪術の火≫は本来なら奇跡の触媒にはならないしな」
これは師匠たちの手で生み出された特注品だ――と、クオンは笑う。
愛用の黒衣と同じということか。つくづく面倒見のいい師匠らしい。
「なら、一体どうやって……。まさか春姫の力じゃないだろうね?」
「まさか。あいつが生贄の儀式なんてするものか」
そりゃ、そうか。
こいつはあのヘッポコ狐を守るために八つの派閥を潰し、うち七派閥は主神どころか幹部連中まで皆殺しにしたような奴だ。
そのクオンが気にかけている相手が、そんな真似をするとは流石に考えづらい。
「大体、ウラノスも知っているんだ。怪しいと思ったら調べているだろうよ」
しかし、そうなると――
「ってことは、本当に一ヵ月半でミノタウロスを倒したって?」
「そうなるな」
どんなバケモンだい、そりゃ……と、内心で呻く。
フィリア祭で見かけたのは、
「これはうかうかしていると追い抜かれるな……」
追いつかれるのはともかく、追い抜かれるのは冴えない話だ――と、クオンが呟く。
そりゃ、むしろ私たちの台詞だ――と、言う前に。
(ま、今さらか)
Lv.の壁は絶対――なんてのは、もう四年も前に終わった話だ。
Lv.7と互角以上に渡り合うLv.0がここにいる。Lv.1がLv.2相当のミノタウロスを倒したところで驚くような話じゃない。
(私も腹を括るとしようじゃないか)
神を気取るつもりはないが……近いうちに派手な
その中で、これからもこの男についていくには『
「クオン」
もちろん、何年もかけて悠長に育てている暇などあるはずもない。
「どうした?」
だが。だからと言って――
「私にも寄越しな」
「……何をだ?」
「その≪呪術の火≫ってのをさ」
このまま単なる
「……何だって?」
家を守りながら無事を祈り、帰ってきたなら三つ指ついてお出迎え――なんて健気な役回りは
「大切な師匠からもらった『火』は、娼婦には渡せないかい?」
だから、まずはその『火』を。
そして、その『ソウルの業』とやらも。
「別にそんな事はない……と、言うか。そもそもお前に分けるなら何の問題もないが……」
「なら、いいだろう?」
私のものとしてやろうじゃないか。
これから先、こいつが挑む『巡礼』とやらにとことんまで付き合うために。
3
と、言う訳で今日は
そりゃまぁ、ボクだって晴れて派閥の主神となったわけだし、いつかはこの末端に加わる日が来るかなー、とは思っていたけど。
(まさか半年もかからないなんてねー…)
思わず遠い目をしてしまう。
この暇な神たちの退屈しのぎ――が、盛大に持ち上げられた末に生まれた諮問機関への参加資格は、Lv.2以上の眷属が最低でも一人はいること。
で、ボクらがその資格を得るまでに費やした歳月は半年どころか、なんと一ヵ月半。大切な事なのでもう一度言うけど一ヵ月半。本当に大切なのでもう一回言うけど、一ヵ月半だ。
費やしたのは歳月じゃなくて日々だった。
もちろん、ボクのベル君の努力の成果だ。本当なら、全力ではしゃいで力尽きるまでお祝いしてあげたい。何しろ、前代未聞の快挙だ。流石はボクのベル君!
本当に、ぎゅっと抱きしめて一緒に踊り回りたいくらいだ。
(娯楽に飢えたハイエナどもがいなければねっ!!)
開会までまだもうちょっと時間があるというのに、ぞろぞろと集まっては馬鹿話に花を咲かせている
(くっそー…)
こちらを見やる神達は、全員が嫌らしい笑みを浮かべている。
できたばっかりの弱小派閥が見せた――自分で言うのもなんだけど――奇跡の躍進劇をネタに遊び倒してやろうという魂胆が透けて見える……と、いうかそもそも隠す気すらない。
とはいえ、それに付き合っていては向こうの思うつぼだ。
「案外落ち着いてるわね?」
「緊張する理由もないだろ?」
一緒にここまで来たヘファイストスに応じる。
とりあえず、緊張する理由だけはない。
「もっと張りつめているかと思ったわ。いつもみたいにぐぬぅ~、って顔して」
「そんな顔したって周りのやつ等を楽しませるだけだろ?」
それで何か変わるならいくらでもしてやるけど。
違いないわね――と、苦笑してから、ヘファイストスが表情を改める。
「言うまでもないでしょうけど、今回は荒れるわよ。くれぐれも用心しなさい。私も可能な限りフォローするけど、本格的に飛び火してきたら流石に庇い切れないわ」
私自身も全く無関係じゃないしね――と、神友は小声で耳打ちした。
「うん。分かっているよ」
何を言わんとしているのかは、もちろん分かっている。
小さく頷き返す。
「ここに顔を出す神も増えたなー…って、いつもなら言うところだけど」
「今回は減ったな、ごっそりと。いやマジで」
初参加のボクには比較して判断する事はできない。
けど、この半月ばかりの出来事を鑑みれば、それは明らかだった。
確実に九派閥は姿を消している。残りに派閥も、派閥として存続できるかどうか。
「でもまー、今回【ランクアップ】の方は豊作らしいぞ」
「ほほう! それは愉しみですなぁ。ぐへへ」
とはいえ、そこは気まぐれな神の集まり。
陰鬱な――あるいは不穏な――空気は漂っていなかった。……少なくとも、今のところは。
神々の気まぐれは本当に気まぐれなのだ。何が起こるか分かったもんじゃない。
「ま、ひとまず適当に座りましょうか」
「席とか決まってないのかい?」
「ええ。だから円卓なのよ」
なるほど、上座も下座もないということか。
まぁ、しいて言えば司会席の傍に座るのは、その司会役と親しい神というのが通例らしいけど。
別にそんなところに座るつもりもないので、ボクには関係ない話だ。
と、そんな時――
「もし、そなたがヘスティアか?」
その呼びかけに、振り返る。
「君は……?」
そこにいたのは、青を基調とした
ただ、見覚えがない。ガネーシャと同じく――いや、デザインは違うけど――仮面で顔を覆っているせい、というのもあるだろうけど。
仮面に覆われていないほっそりとした顎先と、薄く紅が引かれた唇だけでそれが誰かを見極めろというのは流石に難易度が高すぎる。
「私はクァト。今はそう名乗っている」
「クァト?」
はて、と首を傾げていた。
そんな女神はいただろうか。まぁ、天界でも自分の領土に引きこもってたボクだし、知らない神がいても何の不思議もないけど。
「ふふっ。知らないのも無理はない。取るに足らない弱小派閥の主神故な」
そなたの眷属のような飛躍もあまり期待できそうにない――と、クァトは小さく苦笑した。
「ええと、それでボクに何か用かい?」
「なに、一躍時の
軽く口元に手を当てて、クスクスとクァトが笑う。
他の連中と違って、別に嫌味な感じはしないけど……。
「いや、気を悪くしたなら謝罪しよう。そなたらを敵に回したくはない」
私も、まだ命は惜しいのでね――と、小声でクァトが付け足した。
思わぬ言葉に、ぱちくりと目を瞬かせる。
「大げさだなー。ボクもベル君もそんなに乱暴じゃないぜ?」
「ふふっ。それならば良かった」
そう言って、クァトは少し離れた席へと向かっていく。
(あれ?)
彼女の背中を見送ってから、ふと思い至った。
(今のってひょっとして
ボクらはクオン君とも仲良くやっている。ヘファイストスが気にかけているのも、まさにそれだ。
だから、だろうか。
自分で思うより過敏になっているだけなのかもしれないけど……
いくら『
……まぁ、これから天界に戻れば死ぬほどこき使われるのは明らかなので、送還=死といっても過言じゃないのかもしれないけど。
いや、それにしても――
「えっと、今のは……?」
クァト。そういえば、どっかで聞いたことがあったようななかったような……
「ああ、彼女はああやってロールプレイしてるのよ」
「ロールプレイ?」
「そう。確か『涙の神』、だったかしら。悼みの涙や哀しみの涙を司る女神。そういう
「フィアナみたいな感じかな?」
それは、かつて
「そうとも言えるわね。実在はしないけど、存在はしているから、
確かに。少なくとも彼女がその役割を演じているうちは存在しているといえよう。
……まぁ、逆に言うといつ気まぐれを起こして消えるか分からないけど。
「ここにいるってことはやっぱり探索系派閥なのかい?」
いや、必ずしも探索系じゃなきゃ参加資格がないってわけじゃないんだけど。
そもそもヘファイストスのところは鍛冶系派閥なんだし。
「一応そうだけど……。眷属たちも『古代』の敬虔な信徒を真似て、説法したり、葬儀を受け持ったり、『ダイダロス通り』の
いや、
「ま、これもまた神の気まぐれってやつよ。どんな神でも、『
まぁ、
一方で概念的なもの――例えば、『
(フレイヤ達……も、まるっきり関係ないわけじゃないか)
その
ただ、マイナス方向の概念を司っているなら、むしろ架空の神を演じるほうが眷属を集めやすいということもあるのかもしれない。
……まぁ、選ぶ子供たちにとっては不安材料にしかならないかもだけど。
何しろ、自分の
弱小派閥のままっていうのは、案外その不誠実さこそが原因なのかもしれない。
それにしても――
(んん……?)
さっきから架空の神――と、いう言葉が妙に意識を刺激していた。
いや、確かにそんな名前の神には覚えがない。覚えがないんだけど……。
(どっかで聞いたような気がするような、しないような……?)
何だかもやもやする。
「うっし! そろそろ始めるでー! 全員はよ座れやぁ!!」
「「「へーい」」」
その感覚を持て余している間に、いよいよ
「彼女には気をつけなさい」
嵐の前の静けさ――もとい、嵐の前のざわめきにまぎれて、ヘファイストスが囁いた。
「どうしてさ?」
「【クァト・ファミリア】には裏の顔があるのよ」
「裏の顔だって?」
「あくまで噂話だけど、『死の傍でこそ涙は美しい』。眷属たちに、そう説いてもいるみたい」
「そりゃまた物騒だね」
確かに誰かを想って流す涙は奇麗かもしれないけど……その涙は悲しいだけだろう。
「ええ。『人を絶望の運命へと導く悪神ともいわれる』っていう設定みたいね。で、それが極まった結果――」
「第ン千回
ヘファイストスの言葉を遮るように、開会が告げられる。
っていうか、何でロキが司会なんだよ!
「――復讐を請け負っているっていう噂があるのよ。主に冒険者を対象にしてね」
冒険者達に絶望の運命を――声にせず毒づくボクの耳に、ヘファイストスが呟いたその『教義』が絡みついた。
…――
そんなこんなで、いよいよ
そもそも
始まりがそんなだから実際のところ有名無実な集まりなんだけど、今では合同で催しを企画できるくらいの力を持ってしまっている。そのせいで諸々の
ちなみに、今更だけど会場はバベル三〇階。
子供たちの立ち入りが制限されているその区画を丸々改装して作られたその広間には円卓が一つ置かれているのみ。周囲はガラス張りで、さらに天井も異様に高い。
空中に浮かぶ神殿――と、子供たちならそう言い表すかもしれない。
そういえば、
改装工事にはどこかの派閥の眷属が関わっているから、この会場に関する噂が流れ出ている可能性は充分にある。
ただ、実情は言えば――
『――決定。冒険者セティ・セルティ、称号は【
「イテェエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!」
ご覧の通りの
……一応言い訳をさせてもらうと、基本的に――そう、基本的には
だからこそ、こうして地上の生活を享受できているわけだ。
ただ、何故か命名の
神がおかしいのか。子が愚かなのか。
理由は定かではないが……現実として、子供たちが目を輝かせ、ボクらが悶えてしまう――そんな『痛恨の名』が確かに存在する。
と、いうか。今、ボクの目の前で大量生産されていた。
「狂ってる……」
最初の情報交換の間は、結構まとも……と、いうかちょっと不穏な空気が流れたりしたけど。
今や、それすらも見る影もない。
「あんたの気持ちはよーくわかる……」
悄然としながら呟くと、ヘファイストスもまた遠い目をした。
(世界とは悲劇なのか……)
世界とは何なのか。ボクらは何者なのか。どこからきて、どこへいくのか。
諸々思考を放棄して、訳も分からない哲学にふける。
(拝啓。親愛なるベル君へ。ボクは今、猛烈に君に会いたいよ……)
などと、現実逃避している場合ではない。
この惨劇は
一般に、下位派閥の眷属ほど酷い名前を付けられる。
大切な大切なベル君のために、何としても
「……ん、次で最後やな」
などと、新たに決意を固め、闘志が燃え上がると同時――
(見てておくれ、ベル君! 君に負けないように、きっと戦い抜いてみせるよ!)
ついに聖戦の時が来たのだった。
4
(相変わらず醜い事だ)
次々に馬鹿な字名をつけては笑い転げる神どもを見やり、吐き気にも似た感覚を持て余す。
ランクアップとは、命を賭した果てにあるものである。
死線を掻い潜った先にあるものすら笑いものにするのだから、やはり神どもは度し難い。
まったくうんざりするが……しかし、足を運んだ甲斐はあったのも確かだ。
無視できない情報がいくつか手に入ったのだから。
(リヴィラの街の
フィリア祭で暴れた『新種』と牛頭のデーモンの他に、見たこともないモンスターが現れたと。
悪神と象神の様子から察するに、
なるほど、シャランの言葉とも合致する。
(伝手はまだ残っていただろうか……)
シャランは駄目だ。彼女はいわば逃亡兵。接触など取らせれば殺される。
場合によっては危険な橋を渡ってもらう事もあるだろうが、今はまだそこまでする必要はない。
……ないが、デーモンと接点があるとすれば完全に無視もできない。
(別の者に、念のため探りを入れさせるか)
まずはそのあたりをはっきりさせなくては。
(もっとも、今はまだそこまで急ぐこともないか)
いずれは殺す――が、オラリオを混乱させてくれるなら、もうしばらくの間は利用価値がある。
具体的には、今も炉の神に絡んでいる悪神とその下僕とぶつけ合わせてみるとしよう。
……まぁ、火に誘われる蛾のように、すでに自ら飛び込んでいるようだが。
(問題は、むしろその裏側にいる者たちだな)
エニュオなる者ども。
地上にはそれなりの情報網を敷いたつもりだったが……まさかダンジョンの中にそんな勢力が存在していたとは。
(そろそろ、本腰を入れてダンジョンの攻略を行うべきか)
無論、ダンジョンこそが――より具体的には我らが王が到達したとされる七〇階層より先が、新たな巡礼地だと見当は付けていた。
いずれはそこを踏破し、玉座への道を拓かねばならないとも。
ただ、手駒が足りない。現時点でそこまで送り込める人員は、流石にごく僅かしかいない。
そして、その者たちですら巡礼地を
だからこそ、先送りにしていたが――
(いや、単なる異形どもの巣穴だと侮っていた訳ではないが……)
デーモンが存在している時点で無視などできるはずもない。
そして、そのデーモンを生み出している……あるいは、従えている何者かがいる可能性までは考慮していた。
だが、ここしばらくの動きを見るに、私が想定していたよりも遥かに複雑な勢力争いが起こっているようだ。
そちらに関しては、今の時点でも大きく出遅れてしまっていると言うよりない。
(仕方ない事だがな)
弱兵をいくら送り込んだところで、巡礼地はその全てを容易く飲み込む。
辿り着けるのは選ばれた者たちだけだ……が、神どもが『ソウルの業』やそれに連なる諸々の技術を抹殺して久しい。
火防女どころか
我らが秘術『暗い穴』も、その力を受け入れられる『真なる人』ばかりとは限らない。
有能な手駒は欲しいが……
なれば、使用には慎重であるべきだった。
この件については、帰ってじっくりと吟味すべきであろう。
(ラキアか……)
侵略戦争を繰り返す軍事国家が、オラリオへの遠征を開始したらしい。
正しくは国家系派閥――つまり、巨大な【ファミリア】だ。
神の下僕どもが殺しあう分には然したる問題はない。同志や民草の安全さえ確保できるなら、あとは好きにさせておけばいい。
そもそも、彼我の戦力差を考えれば気に掛ける必要はない……と、神どもは思っていそうだが。
(さて、どうなることやら)
何であれオラリオを混乱させてくれるなら、利用価値はあるといえよう。
ただ、その混乱が私達の動きまで邪魔するようでは困る。
どの程度の戦力を差し向けているかを把握しておく必要はあるだろう。
……それに、こちらに関しても少々気になる噂を聞かないでもなかった。
(どこから手を付けるか。優先順位も定めておかなくてはな)
この不毛な歓談が終わってすぐに指示を出すために。
……とはいえ、実際のところ順位に関してはほぼ決まっている。
エニュオとやらだろうが、ラキアとやらだろうがオラリオを混乱させてくれるなら当面――やり過ぎない限り――は、歓迎していい。私達が本当に用があるのは、
目指すべきはダンジョン。いや、その最奥にあるはずの『玉座』だ。
(そこを目指す者は他にもいるな、やはり)
私達と同じく、『火の時代』を生きた何者かが。
……いや、そのような曖昧なものではない。
(アン・ディール、か……)
ダンジョン内に存在する勢力の一角。それを担っているであろう人物の名を呟く。
……いや、もっと以前から私はその名を知っている。
古い巡礼地――貴壁の大国ドラングレイグの王兄。稀代の術者にして悪名高い狂人。そして、記録に残る限り、初めて『火継ぎの儀』の是非と問うた【原罪の探究者】。
それと同一人物と見ていいだろう。
(地上にまで手を伸ばしてくるとは、あちらは再編が終わったか)
密偵達の報告では、【フレイヤ・ファミリア】を襲撃していたのはこの男の手下らしい。
デーモンを率いる何者かと抗争中だと思われるが……地上にまで手を伸ばしてくるとなると、手勢はそれなりに揃っているようだ。
巨人の国と相打った【王国騎士団】再び、といったところか。
……いや、王の目覚めを知ったが故に、多少の無理を押し通した可能性もあるが。
(と、なればダンジョンの中はもうしばらく放っておいてもいいか)
あちらとて、思惑は私達と概ね同じはずだ。
いずれは接触することになるだろうし、その結果次第では敵対する事もありえるだろうが……それも含めて、だ。
機が熟せば、あちらから接触をとってくる可能性もある。
交渉――あるいは抗争――を有利に進めるにはこちらも機を見定めることが大切だ。
もちろん、事前の情報も欠かせない。情報収集だけはすぐにでも始めるべきだろう。
(ひとまず、リヴィラの街に配置する人員を増やすか)
そして、下層の
それらは、いずれ情報収集以外にも使い道が出てくるはずだ。多少時間をかけてでも、やっておいて損はあるまい。
(エニュオに関しては……拠点への入り口ならある程度分かっているな)
何しろ、シャランがいくつか把握しているのだから。
他の入り口も探しておいて損はないだろうが……それより、彼女が言う『鍵』をどうやって手に入れるかの方が問題だ。今のところ、まったく当てがない。
……いや、まったくない訳でもないか。
(【ガネーシャ・ファミリア】……)
我らが王と関係を持つこの派閥が、【イシュタル・ファミリア】滅亡直後から動き始めている。
彼女たちが回収している可能性は決して低くあるまい。
もし回収していなくても、
ひとまず、そちらは専門家に任せておくとしよう。下手に関わって、この派閥に目をつけられるような事になっても面倒だ。
(ラキアは意外と厄介だな……)
国家系派閥――
かつては正攻法であった各種の宣教師を装って――と、いう方法がほぼ役に立たないというのも、この世界の厄介なところだった。
(ただ、少々気になる噂がある。せめてそれだけは確かめておきたいところだが……)
しかし、これから仕込んでいてはまず間に合うまい。
ひとまず、あちらとも交易のある商会の連中を経由して情報を集めるとしよう。
(商人どもを動かすには、それなりの餌がいるな)
それに、根回しも。
(となると、すぐにできることは――)
ダンジョン内における拠点の確保。次いで、エニュオどもの拠点の入り口を捜索する事か。
どちらにしても、ダンジョン内の勢力争いに関わる事になる。
あちらの戦力が分からない今、ことは慎重に進めるべきだ。
だが――
(最優先は、それではない)
視線の先にとらえるのは、旅装を纏った神。 薄ら笑いを浮かべている男の姿だった。
(奴を野放しにしておくのは、少々煩わしいな)
いや、違うか――と、胸中の呟きを訂正する。
(我らが王の手を煩わさせる訳にはいかない)
王の手を煩わせるまでもない。あれは私が潰しておくべき羽虫だ。
つい先ほどのやり取りを思い起こし、小さく呟いた。
…――
「ラキアもだけど、アレもそろそろどうにかした方がいいんじゃないか?」
ラキアの主神、アレスとやらへの対処を話しあう――と、言えるほど高尚なものではないが――神どもにそう言ったのが、この男……ヘルメスとやらだった。
「【
「そうさ。またずいぶんと好き勝手してくれたようじゃないか。イシュタルたちを
自分達の蛮行を棚に上げて、よく言ったものである。
だが、呆れとともに聞き流せる発言ではなかった。
「いや、さすがにありゃただのブラフだろ?
「そーそー。
のんきな神どもが、愚かな事を口々に言いあう。
それを、相変わらずの薄ら笑いとともに見やってから、言葉を続ける。
「ブラフかどうか。それは、確かに天界に戻りでもしない限り分からない。けど、問題はそこじゃないだろう? 俺達が天界から降りてきて一〇〇〇年。持ちつ持たれつ、仲良く楽しくやってる所にいきなり現れて、
どよめきが起こった。
おそらく、その言葉はこの場にいる神の大部分の本音を代弁したものだったのだろう。
……まったく、愚かな事だ。
―――この『時代』において、最大の
「……それは、オラリオから追放しよういう話か?」
口を開いたのは、司会役を務める神だった。
確か、オラリオ最大派閥【ロキ・ファミリア】の主神だったか。
この連中も、我らが王に因縁を抱く者たちだった。
「もう少し言うなら、この下界から、かな」
次に生じたどよめきは、二種類――いや、三種類に分かれた。
一つは、言うまでもなくこの男の言葉に賛同するもの。
もう一つは、その言葉に反発するものだ。
……もっとも、一番多いのは最後の一つ。つまり、ごく単純な動揺だが。
「……念のための確認なのだが」
ざわめきの中で口を開いたのは、金髪碧眼の優男――確か、ディオニュソスとかいう神だった。
「それはいったい誰がやるのかな? 彼は大派閥の【イシュタル・ファミリア】を壊滅させている。さらに、一〇派閥からなる派閥同盟すらも。何よりも恐ろしいのは、単独で成し遂げたという事実だ」
なるほど、その指摘はまさに正鵠を射ている。
神どもが本気を出すとすれば、今の状態では太刀打ちできないだろうが……しかし、この凡夫どもにそれだけの度胸があるかどうか。
「それはもちろん、【ロキ・ファミリア】と【フレイア・ファミリア】にお任せするさ」
やはり、ないらしい。
その男は、実にくだらない結論を口にした。
「とはいえ、流石に丸投げにするんじゃ誠実さに欠ける。お膳立てはしよう」
「お膳立てやて?」
「ああ、そうさ。まず、地上で対峙するのは危険すぎる。アレは俺達を容赦なく殺しに来るからね」
「……まぁ、そらそうやな」
当然だろう。これほど分かりやすい弱点が無防備にうろついているのだ。
狙わない者の方がどうかしている。
「だから、やるならダンジョンの中さ。ギルドを巻き込めば、それらしい理由はでっち上げられる。何、ウラノスが動かなくても問題はないさ。実際にギルドを運営しているのは別人だからね」
確かにあの俗物――ロイマンとやらなら、この男の甘言をまともに飲み込みかねない。
「あそこなら、
再び、会場にざわめきが起こる。
あくまで私の体感だが、賛同者がいくらか増えているように思えた。
……もっとも、逆に嫌悪感を深めたものもないではないが。
「いくらアレが化け物じみていても限度があるだろう。あとは、歴史を担う英雄たちに任せるさ」
ああ、なるほど――と、納得する。
確かに、それなら一度や二度は殺せるかもしれない。
だが、それだけだ。我らが王――あの男の心をへし折れるものでない。
そんな事は分かり切っていた。
私が納得したのは、そこではない。
「英雄たちに打倒され、その偉業となりまた糧となる。それが怪物の役どころだ。そうだろう?」
自分達を至上として、人間を駒と見下す。
これが我らが王が唾棄し、嫌悪し、あるいは憎悪すら抱いた神そのものなのだと。
それを肯定するように、ぽつぽつと賛同の声が上がりはじめる。
だが――
「ずいぶんと盛り上がっているようだけれど……」
小さな微笑を浮かべながら、とある女神が呟いた。
オラリオ最大派閥【フレイア・ファミリア】が主神、『美の神』フレイヤ。
確かに、その名に恥じず声まで美しいといえよう。
ああ、その輝きに目が眩む凡夫がいたとしても致し方ない事か。
「私はやらないわよ?」
「え? ふ、フレイヤ様?」
よほど当てが外れたのか――それとも、演技がうまいのか――ヘルメスが驚愕の表情を顔に張り付かせた。
それどころか、他の神々もまた動揺を見せる。
「当然でしょう。彼のことは嫌いじゃないもの」
その中で、彼女はあくまで悠然と微笑を称えたままだった。
「い、いや。でも、フレイヤ様。アレはあなたの命だって狙ってるんだぜ?」
「そうね。ひょっとしたら、いつか殺しに来るかも知れないわね」
それがどうかしたかしら?――と、声にしていないその言葉が聞こえるようだった。
「刺激があるからこそ、下界での生活は楽しい。そうでしょう?」
「そりゃあ……だが、限度ってものがあるだろう?」
「それはもちろんそうね」
あっさりと頷かれ、ヘルメスはむしろ戸惑った様子だった。
そして、それですらその女神の微笑を揺るがすには値しない。
「でも、彼はその限度を超えるようなことをしたかしら?」
「当然だろう?」
「そうかしら」
あくまでも悠然と、艶然と、そして、超然としてその
「イシュタルは、
「そうだ! 具体的な金額はまだ不明だが、相当額の資金提供を行っていた疑いもある!!」
「なら、イシュタルは自業自得よね。それとも、
返事を待たずして、フレイヤが続ける。
「なら、神罰同盟、だったかしら。彼らを退けたのが問題? それもどうかしら。
我らが王がいなければ死者が出ていた可能性すらある。
この会議に参加する資格を持った神なら、その程度の情報は得ているだろう。
「い、いや、それは……」
やはり、この地において最も油断ならないのはこの
(完全なる神殺し。それが虚言ではないと理解しているだろうにな)
そのうえで笑って見せるとは、まったく大したものだ。
享楽主義なのは他の神どもと同じだが、この
文字通りに楽しんでいるのだろう。この地で起こる全てを。
(まぁ、少々偏ってはいるようだがな)
それは『美の神』とやらの性といったところか。
「だが、フレイヤ様。アレは俺たちの『
あり得てはいけない。それが、現代の神の多くに共通する本音だろう。
何しろ、自らの特権――それどころか、存在価値に関わる問題だ。
人間たちが『
(ああ、案外に気づいているのかもしれないな)
自分たちの時代など、もはや終わっているということに。
「だとすれば、ウラノスがアレに『
「あら。彼は正真正銘のLv.0よ。あれだけ大騒ぎして暴き立てて、もう忘れちゃったのかしら?」
「だからこそ、さ。暴けなかったのは、ウラノスが『
おそらく、その一言を待っていたのだろう。
その瞬間、フレイヤの目が小さく光ったような錯覚を覚えた。
あるいは、私と同じものを見定めたかったのかもしれない。
「つまり、あなたはウラノス、ひいては
その問いかけに頷けるはずがない。
無論、この女とて面従腹背の輩だ。故あれば容易く裏切り、あるいは出し抜くであろう。
だが、守らねばならない建前というものも存在する。
「確かに、ここ最近おかしな出来事が続いているわね。フィリア祭で姿を見せた『新種』達に、リヴィラの街の殺人事件。私が聞いた話では、その犯人は例の『新種』の一種類を従えていたそうね。その直後には二四階層におけるモンスターの
意地の悪い女だ。いや、実に女らしい女と言うべきか。
……まったく、男を弄ぶのに慣れているとしか言いようがない。
手綱を引くように言葉を転がすその姿に、思わずため息がこぼれそうになった。
「それらすべて、ギルドが裏で糸を引いていると?」
つい先ほど、ロキがかけた『揺さぶり』よりもずいぶんと露骨に仕掛けている。
自白するなら、この女神がこの局面でこれほど積極的に動くとは意外であった。
(いや、そうでもないか)
あの凡夫に利用されるなど、失笑ものであろう。
(それとも、当てが外れたかな)
フレイヤが自分に賛同するとでも思っていたのだろう。
だとしたら、つまらない男だ。その女神を、自分なら御しきれると思い上がったか。
「都市運営を担うギルドの創設神が、
クスクスと、その女神が笑う。
さしあたっては、あの男は突かないでいい藪を突いて蛇を出したといったところだろう。
「さらに彼が……【
そして、彼女は言った。
「ウラノスが、それでいったい何を得るのかしら? 私は失うものの方が多いと思うのだけれど。それとも、千年の祈祷に疲れ果て、破滅願望にでも捕らわれてしまったと?」
あり得ない。神どもの声が聞こえるようだった。
声にならないその賛同を得て、彼女は言葉を続けた。
「だとしたら、一大事だわ。せっかくの
有名無実といえど、都市運営に影響力を持つこの場で、
賛同を得るどころか、下手をすれば自分が孤立しかねない。
「まさか。別にそういう訳じゃないとも。……あくまで可能性の話さ」
さすがに、その辺りに対する嗅覚は鋭い。
あっさりと言い切ったヘルメスに、ここぞとばかりにフレイヤはとびきりの笑みを贈る。
「もちろん、ウラノスやギルドを妄信するのも問題だけれど……あまり反発ばかりしていると
その氷の微笑は、言葉よりも雄弁に告げていた。
私の愉しみを奪う事は許さない――と。
…――
(【ロキ・ファミリア】と【フレイア・ファミリア】。どちらの主神も食わせ物だが……こういった駆け引きでは、こちらのほうが一枚も二枚も上手だな)
弁舌の冴えと駆け引きだけを見れば互角かもしれない。
最後に勝敗を左右するのは、神としての性質だ。
(悪神より『美の神』の方が聴衆を味方につけやすいのだろうな)
……無論、聴衆を扇動できるからこその悪神。これが一騎打ちなら、結果は変わっていたかもしれない。だが、少なくとも今回は『美の神』の勝利だといえよう。
実際、かの女神は今も八面六臂の活躍を見せている。
Lv.1の身でありながらミノタウロスの単独撃破を果たした――さらに、ランクアップの最短記録とやらを大幅に更新して見せた少年――ベル・クラネルなる少年についても、
「強引に推理をしていいのなら、このミノタウロスが因縁の相手だった場合、獲得できる【
と、見事に丸め込んでいる。
ここはすでにフレイヤの独壇場だった。彼女の言葉に、誰も彼もが翻弄されている。
双璧の片割れ、ロキですらその勢いを止める事ができないほどだ。
程なく、議場にはフレイヤに賛同する声が増えていき――それがそのまま結論となった。
普段の言動ほどには愚かではない神々を相手に、これほど完璧に扇動してみせるとは、見事な手腕だといわざるを得ない。
いや、これこそが『美の神』の真骨頂なのだろう。
ただ言葉を紡ぐだけで。
いや、ただ在るだけで人も神も――果ては怪物までも魅了せずにはいられない。
「どうせなら、可愛い名前を付けてあげてね?」
いかなる気まぐれか、最後にその少年の弁護まで済ませると、颯爽と去って行った女王の姿に、いっそある種尊敬めいた感情すら覚えるほどだった。
(今回ばかりは感謝しよう。おかげで、こちらも害虫を炙り出せた)
ヘルメス、ディオニュソス、そしてロキ。
この三名が手を組み、何かしら企んでいるのは間違いない。
象神の眷属の死を口実に『揺さぶり』を入れた時、ロキばかりでなくこの二人も視線を巡らせていた。そして、時々は――あるいは無意識にかもしれないが――視線でやり取りを交わしている。
無論、揃いも揃ってとんだ食わせ物だ。よほど注意していなければ勘づくまい。
私とて確証を得たとは言い切れない。確認作業は必要となるだろう。
ただ――
(またおかしな組み合わせが出来上がったものだ)
これといって接点が思いつかない。……が、その辺りの事情はどうでもいい。
この三名がギルドを――そして、この場にいる全員を疑っているのは明らかだった。
それだけなら放っておくが、奴らは不遜にも我らが王の排除をも企んでもいる。
で、あるなら――
(早々に退場してもらうとしようか。この『時代』から、な)
ダンジョン攻略の憂いを絶つためにも、そろそろ地上の勢力を少し整理すべきだ――と。
決まったぁー!――と、歓声をあげる神どもを見やり、小さく呟いた。
5
「それにしてもあんのダァホ。余計な色気出しよって……」
「確かにヘルメスらしからぬ迂闊さ、性急さだったとは思うが……」
自らが司る葡萄酒……ではなく、紅茶――何しろ、これからちょいまじめな話をする訳だし、お互いに少しでも酔っぱらってはいられない―――に口をつけながら、
「だが、【
「『人斬り』か……」
ヘルメスの眷属――その精鋭たちを一人で斬殺し、アイズとベートすら歯が立たなかったという謎の剣士。
何より厄介なのは――
「容易い相手言うならきっちりトドメを刺しとけ言いたいわ」
アレを容易い相手と言ってのける……そして、その言葉通りの力を持っているという事だ。
「それは確かに。だが、【
「そらまぁ、今んとこ
少なくとも、今回の騒ぎはアレの方に道理があると言わざるを得ない。
うちもあれこれ調べたけど、ギルドの公式発表を覆せそうな情報は何一つ手に入らなかった。
……まぁ、フィンたちがいない今、イシュタルの『遺産』については手出ししなかったが。
(けど、そのピースをはめたところで、今見えかけとる『絵』が一転するとも思えんしなぁ)
むしろ、補強されるだけだろう――と、悪神としての直感がそう囁いていた。
「ヘルメスについてだが……」
もう一度紅茶に口をつけてから、ディオニュソスが言う。
「割を食っているのかもしれないな」
「割やて?」
この優男らしからぬ粗野な言い回しに、つい眉間にしわがよる。
「ああ。【
とはいえ、言わんとしている事は大体分かっていた。
「ウラノスと疎遠になりつつあるいうことか?」
あちらはあちらで一枚岩ではない、ということだ。
もっとも、それは別に驚くほどのことではない。
「元々ゼウスを裏切った前例がある。一度裏切るなら、二度目も裏切る。そうは思わないか?」
「ま、そら否定せんけど」
どの道、お世辞にも信用できるとは言えない相手だ。
ついさっきだって、危うく面倒ごとを押し付けられるところだった。
「幸か不幸か、私は【
なかなかの難問だった。
(いや、そーでもないか)
答えづらいのは、所詮心情的な問題でしかない。
それを無視すれば、答えは割と明白だった。言葉にするのはムカつくが。
「……そら、アレの方がまだ信用できるやろな」
扱いの難しい劇物だが……いわゆる獅子身中の虫にはならない。まともに取引さえ成立すれば、その期間は――こちらから裏切らない限り――おそらく裏切らないだろうと思う。
「いや、もちろん油断はできんけどな。それこそ、必要なら女子供でも躊躇いなく殺せる奴やろし」
少なくとも、アレは清濁併せ呑める手合いだ。
相手が誰であれ、背後から刺す必要ができたなら、それを実行してくるだろう。
ただ、それでも――
「けど、少なくとも今の時点ではうちらを殺す『必要性』はないんやろな。そーでないなら、リヴェリアの
四年前、リヴェリアが誤解を解き、和平を結んでから――自分から絡んだベート以外は――アレに何かされた子はいない。
立役者であるリヴェリアとはそういう噂が出るくらいには気さくなやり取りを交わしている。
それどころか、密偵として探りを入れさせた――そして、あっさりとバレて捕まった――ラウルですら無事……というか、何だかんだ言って飲み仲間に落ち着いている。
(いや、まぁ、適度に『餌』を与えとるだけやろうけど)
付きまとわれるよりは、こちらから適度に刺激を与えてやった方がまだマシだ――と、まぁアレが考えているのはそんなところだろう。
(リヴェリアが聞いた『暗い穴』いうんも、アレ自身が情報を求めとるだけやろうしな)
自分の代わりにうちらに探らせよう――と、そういう打算がありそうだった。
しかし、
(アレもアイズたんの『危うさ』は知っとるし、純粋に善意やった可能性もあるけどな)
打算と善意が全く矛盾なく組み込まれている辺りがムカつく。
いや、それはともかく。
うちらが何か『悪さ』をしない限り、あるいはその『必要性』が生じない限り、清濁入り混じったこの関係は続くだろう。その手ごたえは、確かにある。
「不安材料は、その『必要性』が何をきっかけに生まれるか今一つ読み切れないことやな。けど、それもうちらみたいな気まぐれによるものやない」
注意していれば、おそらく分かることだ。
……もっとも、分かったとしても回避できるかどうかはまた別の話だが。
そして、認めるのはめっちゃムカつくが――
(なんやもう、いまいち相手にされてない感もあるしな)
アレにとっては、たまに絡んでくる面倒な相手、くらいなもののような気がしてならない。
それもまた、うちとしては心底ムカつくけど……前回の遠征や、リヴィラの街では特別敵視されていないおかげで助かっているので、文句も言いづらい。
いや、だから余計ムカつくんやけど。
「ならば、今の時点でこちらから敵対するのは得策ではない。もちろん、君たちにも事情はあるだろうが……」
「まぁ、少なくとも手を組むんは無理やろな。アレはともかく、うちの子たちが納得せんやろし」
むしろ、心情的にはヘルメスの言葉に同意したいくらいだった。
もちろん、実際に仕掛けるつもりはないけど。……少なくとも、今のところは。
少なくとも今の時点では、心情以外の理由はほとんどないのだから。
「それと同じだろう。ヘルメスにとって、【
「ま、そらお互い様やろけどな」
アレにとっても、ヘルメスは目障りな存在のはずだ。
下手をすると、うちやフレイヤ以上に。
「零落したゼウスからウラノスへ鞍替えし、下界を楽しむうえで一番いい席を守ったと思った矢先、突如として現れた人間に邪魔された、といったところだろう。ヘルメスにとっては」
「ま、そんなとこやろな」
そら、あの優男にとってはさぞかしイラつく事態だろう。
柄にもなく、あんな迂闊な真似をしてしまうほどに。
(ま、そーなると……)
本気でウラノスはヘルメスよりアレを重用しているという事になるわけだが。
(その場合、考えるべきはそれが何を意味するかやな)
まぁ、それこそヘルメスが信用できないというだけの話かのかもしれない。
……割と本気でありそうなのだから、どうにも救いがなかった。
「ったく、自分の事情にうちらを巻き込むなっちゅうねん」
「まったくだ」
いずれ決着をつける日が来るかもしれないが、それはあの優男のためではない。
「それで、例の【
【
名前は、確かベル・クラネルとか言ったか。
確かに、一ヵ月半でランクアップというのは異常だ。言葉にするのも馬鹿馬鹿しいほどに。
だが――
「自分、あのドチビとも領土が近いんやろ? なら、そっちはうちに聞くまでもないやろ」
「……それは確かにそうだが」
あのドチビが
それならまだ『
「まぁ、彼女にとっては初めての眷属だ。ずいぶんと入れ込んでいるらしいという噂は、デメテルからも聞いているよ。ただ――」
その辺は、猜疑心に捕らわれているディオニュソスですら同様らしい。
ひとまず反論してくるものの、実際にはほとんど疑っていないのは明らかだった。
「分かっとる。まぁ、やらんやろな」
あのドチビがンなイカサマをするとは思えん。
いや、恋は盲目言うけど……そんならそれで、わざわざ馬鹿正直にランクアップの報告をするとかアホすぎる。
「もしこれがイカサマだったら、露見した時点で彼の冒険者としての生命はほぼ断たれる。ほかの神ならまだしも、あのヘスティアがそんな真似をするとは思えないな」
「分かっとるやん。うちもそう思うで。これは本当に
とはいえ、いくらなんでも早すぎる。
おそらく、アビリティの成長を促進する『スキル』でも発現しとるんやろ――と、呟く。
「それはそれで前代未聞だがね」
「そーやな……。んで、問題の『偉業』の方は……まぁ、あの腐れおっぱいの言うことも一理あったんやろな。ドチビもろともご愁傷様としか言いようがないわ」
仮にうちの推測が正しかった場合、眷属自身が自分の成長速度についていけるかどうかという問題が出てくる。
下手をすると、【ステイタス】に振り回されるばかりの冒険者になりかねない。
いや、それは別に珍しくない。その手の上級冒険者は結構な数いる。
だが、あの眷属の場合、そうなってしまうと――
「……ああ。あの少年も、これから厄介なことに巻き込まれそうだね」
あの腐れおっぱいの横やりに対応できないであっさり死んでしまいそうだった。
「そーやな。あの
フィリア祭の朝のやり取りを思い出す。
「案外、そのミノタウロスとやらもあの
実際にシルバーバックを嗾けている。ほぼ間違いなく、あの騒ぎはそれが狙いだ。
「まさか。いくら彼女でも、そこまではしないだろう」
「さてなぁ。あの
机に突っ伏して呻く。
別にあのドチビやその眷属を庇ってやる気もないけど……それでも、フレイヤに好き勝手されるんは我慢ならん。
(くっそー…。せっかくでっかい貸しを作れた思ったんやけどなぁ)
フィリア祭の一件。命を救った貸しは割とあっさり踏み倒された。
『あら。実際に助けてくれたのはガネーシャのところの子供たちじゃないかしら?』
と、いうのがあの腐れおっぱいの言い分だった。
(いや、確かにアレはアレでどう見てもうちらごと魔法で吹っ飛ばす気やったけど)
うちらがした事は、ガネーシャの眷属が配置につくまでの時間稼ぎだ。
端役ではないにしても、主役とも言い難い。
『もちろん感謝してるわよ。だから、もう少し貸しておいてあげる』
鷹の羽衣。天界にいた時にいただいた――もとい、借りたうちのオキニの事だった。
そんな昔のことを引っ張り出すとは、あの性悪女神め。
「けどまぁ、フレイヤが『極彩色の魔石』の黒幕、言うことはないやろな」
「……先にも言ったが、私にとってはこのオラリオにいるすべての神が容疑者だ」
「そら覚えとる。けど、本当にあの腐れおっぱいがやったんなら、そもそも手がかりを残すようなヘマはせんやろ」
遺体どころか、その手に『極彩色の魔石』なんて手がかりを残すなど、フレイヤとその眷属の仕事にしては雑過ぎる。
「しかし、彼女はウラノスを庇った――」
「いや、それもちゃうな。あいつはアレを庇ったんや。……いや、庇った訳やないだろうけど」
あいつの趣味はつくづく分からん。
いつか自分を殺しに来るかもしれない相手に、何でああまで肩入れしているのか。
「まー、あの腐れおっぱいもヘルメスと同じや。自分の道楽最優先ってな」
「それを言い出せば、私たちはみんなそうだろう」
ディオニュソスが苦笑する。
「そらそうやな」
元々はそのために降りてきている。
そういう意味では、ヘルメスは初志貫徹しているのだろう。
あるいは、フレイヤも。
「だいたい、あのドアホ。やり方が露骨過ぎたんや。あの腐れおっぱい、やれ言われたらやりたくなくなるひねくれ者やで」
「なるほど、君が言うと説得力がある」
「うっさいわ!!」
そう言って笑うディオニュソスに怒鳴り返す。
「しかし、解せないな」
「何がや?」
何しろ、うちらが追いかけているものは今のところ解せないことばかりだ。
「ウラノスの思惑、もしくは【
「そら、いくつかは思いつくけどな」
もちろん、今のうちらが知っている限りの情報を元にしているだけだが。
「まずは、戦力。自分も知っとるやろ? フィリア祭で暴れた『デーモン』について」
「ああ。話は聞いているよ。やはりあれも『極彩色の魔石』だったのかい?」
「いんや。アイズたんの話やと、はじめっから魔石はなかったらしい」
「……何だって?」
「やから、あのデーモンいうんは魔石を持っとらん」
「……念のため確認するが、それは【剣姫】が砕いた訳ではないという意味かな?」
「そうや。端っからその胸に魔石はない。逆説的に、あれは
あれに比べれば、フレイヤが逃がした他のモンスターなど可愛いものだ。
「んで、これは実際に追い回されたうちの感想やけど。デーモンいうんは
「……【
「そーなるな。で、それを踏まえると自分の言うアレの『価値』いうのも見えてくる」
「……なるほど。毒を以て毒を制すということか」
今のところ、もっとも筋の通った説明がそれだった。
ただ――
「もうちょい裏がありな気がするけどな」
フィリア祭で暴れたデーモンくらいだったらまだ手に負える。
アイズたん達が苦戦した理由として、武器がなかったというのは決して単なる言い訳ではない。
充分に装備が整っていれば――いや、それでも苦戦はしたかもしれんけど――あの時より被害は少なくなっていたはずだ。
「アレはそれこそ【ヘルメス・ファミリア】くらいやったら一人で潰せる。……いや、あそこは食わせ物が揃っとるからちょい厄介かもしれんけど」
アイズたん達の話からして、ランクアップの申請をまともにしていないのは明らかだ。
団長の【
(ゆーか、その団長が最大の隠し玉やけどな)
稀代の
どんなえげつない道具を持ち出してくるか分からない。
(いかにもあの優男らしい派閥やな)
掴みどころがない。と、いうより実態を掴ませない。
そして、そのまま良いように振り回され、あるいは使い捨てられる。
(油断しているとうちの子たちでも背後からグサリ、いう事もあるかもしれん)
あいつと手を組んでしまったうちとディオニュソスも、
とはいえ、それにも限度がある。
その奇襲が通じない状況に追いやられた時が、あの派閥の最後だろう。
それこそ二四階層でそうだったように。
「いや、そっちはともかく。何であれ、純粋に戦力だけ見ても申し分ないやろ。何しろ、【イシュタル・ファミリア】とその取り巻きどもを独りで潰すような怪物やで」
「……改めて言われると、ヘルメスの言い分にも多少の共感を覚えるな」
流石に今すぐ
「言うまでもないけど、デーモンかてその辺の派閥にとっては同じや。いや、モンスターと同じく手当たり次第に暴れる分だけ、あっちの方が厄介かもしれん」
アレは条件さえ整えば交渉にも応じてくる。
どのあたりに琴線があるのかいまひとつ読み切れていないものの……それでも、デーモンと比較すれば、まだマシだった。
「ひとまず、デーモンへの対策として抱え込んでいる、いうのはそれなりに筋が通るやろ?」
「……確かにね。私としては少し面白くない考察だが」
わずかに顔をしかめるディオニュソスに、胸中でうめく。
確かにこの結論では、ウラノスの行動はあくまでオラリオの安寧を考えてのものとなる。
必然、『極彩色の魔石』とウラノスが繋がっている可能性は低くなるだろうが――
(何かちょいおかしいな)
どうにもウラノスへの不信……何らかの悪感情が先行しすぎているように思える。
(これといって因縁がある言う話は聞いたことないんやけどなぁ)
こう言っては何だが、【ディオニュソス・ファミリア】はまだ有象無象の域を脱し切っていない。
仮にもギルドの
そう、例えば個神的な接点でもない限りは。
(いや、確かに天界でも領土は近いっちゃ近いんやったっけ?)
ドチビや優男と近いなら、必然あのクソジジイとも近いはずだ。
なら、何かあったのかもしれない。
それに巻き込まれているとするなら、とんだとばっちりだが。
「いずれにしても、厄介なことをしてくれた」
ディオニュソスのうめき声で、ひとまず考え事を打ち切る。
「ヘルメスか?」
「ああ。そうだ」
今の時点では、あの優男の方が厄介だ。
「ヘルメスの都合で【
「ま、そらそうやな」
完全なる神殺しを可能とするなら、野放しにはできない。
いずれその日が来る可能性があることくらいは覚悟している。
だが、今の時点で、あの優男の言い分を口実にしてフィンたちを戦わせる――と、いう気には流石になれなかった。
(確実に死人が出るからな)
ヘルメスが口にした作戦は、悪くないとは思う。だが、まったく無傷で勝てるわけではない。
うちらにも戦死者が出る可能性の方が圧倒的に高いだろう。
だからこそ、仕掛けるなら相応の覚悟と大義が必要だった。
「あの優男かて、そんくらいは分かっとるやろ」
「どうかな。奴は
「あ~…」
否定する言葉がまったく思いつかない。
あるいは、あの腐れおっぱいはそこまで見越していたのか。
(だとしたら、かなりヤバいな)
あの
今企んでいる何かを邪魔するなら、本気で叩き潰すつもりなのだろう。
それこそ、うちらもろともに。
ただでさえ
まして、とばっちりでそんな目にあったら、いくら温厚なうちでも流石にブチ切れる。
「ロキ。ここではっきりと言っておく」
表情を改めて、ディオニュソスが言った。
「以前にも言った通り、私は君の信頼が欲しい。逆に君のことも信頼したいと思っている」
神など誰も彼も食わせ物だ。
特に下界では誰もが
しかし、それでも。今、この時。目の前の男神からは誠実さを感じた。
だからこそ――
「だが、ヘルメスは別だ。あれの背後にはウラノスがいる。私は信頼どころか信用もしない」
……この頑なさにはやはり違和感を覚えずにいられない。
とはいえ、今の時点では決して過剰とも言い難いのも確かだ。
ウラノスが疑わしいのは事実。何か重要な情報を独占しているのは確かなのだから。
まだ判じきれない。情報が足りない。
「いずれにしても、あれが突かないでいい藪を突いて『蛇』を出した時に備えておくべきではないかと思うのだが、どうだろうか?」
「そら全面的に同意するわ。【
うちが自分で動いたら逆効果だった。流石にそれは認めざるを得ない。
「ならば、ここは私が受け持つべきかな。先ほども言ったが、私たちはこれといった接点がない。君が関わるよりはいくらか安全だろう」
「やめとき。フィルヴィスたんが『傷物』にされるで。あの子、絶対に押しに弱いタイプやろし」
派閥内では控えめな方のレフィーヤにすら押し切られるくらいだし。
「……いや、別に馬鹿にするわけではないのだが」
少し躊躇ってから、ディオニュソスが言った。
「私が思うに、レフィーヤ・ウィリディスが控えめなのではなく、他の
フィルヴィスの話を聞く限り、むしろなかなか積極的なタイプだとしか思えないのだが――と、ディオニュソスが付け足す。
「……あかん。返す言葉が思いつかん」
何というか、心当たりが多すぎた。
6
拠点としている館は『ダイダロス通り』にあるだけあって、至る所に妙な細工が施されている。
アイシャが言うところの『調教室』とやらに、万が一の時のために色々と貯め込んである『金庫』。
そして、今いる『祭祀場』も、全ては隠し部屋として存在している。
……もっとも、『祭祀場』と呼ぶのはいくら何でも大げさすぎると、自分でも思っているが。
何しろ、広い部屋の中心に篝火が一つ灯っているだけなのだから。
「とりあえず、『火』はこれで分けられたはずだが……」
久方ぶりに服を着こんだ――と、言ってもいつもの薄着だが――アイシャに告げる。
いや、ベルにも分け与えているのだ。それ自体には何の不安もない。
ただ――
「体の調子はどうだ?」
かなり不自然な状態にある『
懸念はその一点だった。
何しろ、呪術は【ステイタス】に項目を追加するほどなのだから。
「問題ないね。まだ【ステイタス】は機能しているよ」
「それならよかった」
相変わらずの美麗な体捌きを見せるアイシャに、ホッと胸を撫でおろす。
「ふぅん。やっぱり熱くはないね」
右手に灯した≪呪術の火≫に、左手をかざしながら彼女が呟く。
「ああ。揮発性が極めて高い、特殊な油にでも触らない限りは火傷もしない」
と、いうか。あの油はいったい何をどうすれば精製できるのか。
普段は陽炎と大差ない≪呪術の火≫を火種にできる原理が未だによく分からない。
「で、これが呪術か。あんたが四年前から使ってたやつだね」
元々魔法を発現していたからだろう。
特に教えるまでもなく【発火】を使いこなしながら、アイシャが呟いた。
「結構な威力じゃないか」
確かに。まだ『火』を育てていないにも関わらず、ベルより威力がありそうだった。
……いや、今のベルがどの程度の威力で使えるかは定かではないが。
「いいか。呪術師の心得だけは忘れないでくれよ?」
「『火を畏れろ』かい?
いや、確かにそれはもはや否定できることではないが。
「頼むからこれだけは真面目に聞いてくれ。本当に」
「分かってるよ。空中庭園であんたが派手にぶちかましているを見たからね」
あれはある意味において呪術の原型。あるいは、原光景の一つ。
魔女イザリスすら飲み込んだ『混沌の炎』の再現だった。
「それに加えて、最も基礎でもこの威力だ。甘く見るほど能天気じゃないつもりだよ」
真っ直ぐにこちらを見据えて、アイシャが言う。
「ああ、そうしてくれ。畏れを忘れれば、その火はたやすくお前を飲み込むだろう。そんなことになったら後悔してもしきれない」
「安心しな。私も焼け死ぬのはごめんさ」
アイシャが力強くうなづくのを見届けてから、俺もまた頷き返す。
「さて。それじゃあ、最初の呪術を伝えようか」
ソウルの中から、今まで手に入れてきた呪術書を取り出しながら告げる。
「お前なら、それなりの呪術でも修められるだろう。……何か、こういうものが欲しいっていう希望はあるか?」
「そうだねぇ……」
ほっそりとした顎先を撫でてから、彼女が言う。
「とにかく、力不足を補いたいね。そりゃLv.4に指先が届いてる手ごたえはあるけど、それだけじゃこれから先は足りないんだろう?」
「……まぁ、心許ないな」
正直なところ、本物のデーモンが出てくるなら
(あいつは、もう一皮剥ければ、な……)
その場合、流石に少しばかり厄介なことになるだろうが。
……まぁ、オラリオ最強というのはあながち単なる肩書ではないという事だ。
「力の底上げとなると、【内なる大力】か」
文字通りに身体能力を強化する呪術だ。
「へぇ。春姫の魔法みたいなもんかい?」
「いや、そこまで規格外じゃない」
話を聞く限りでも分かるほど、あの少女の魔法は規格外だった。
「お前たちの言う『Lv.の壁』とやらを超えられるかどうかは保証しかねるな」
何しろ、そちらの具合はまるで分らないからな――と、肩をすくめてか、続ける。
「もっとも、何であれ重ねがけすればその限りじゃないだろう。だが、お勧めはしない」
「何でさ?」
「体への反動があるからだよ。俺でも二分と持たない」
「持たない?」
「ああ、体が崩壊する。簡単に言えば、命を対価に力を買うようなものだ。これが禁術とも言われる所以だな」
命がけでやれば『Lv.の壁』とやらを超えられるかもしれない禁術。
一方で、あの春姫という少女の魔法は特別な代償もなしに
もちろん、相応に消耗するそうだが……それとて、普通の魔法の範疇を大きく超えるものではないらしい。
「……もう、思い知っているつもりだったけど」
アイシャが大きく嘆息した。
「あのヘッポコ狐の魔法は、つくづくあれだね。神どもじゃないけど、『壊れてる』としか言いようがない」
「そうだな。実際とんでもない」
神罰同盟の連中が目の色を変えて追い求める訳だ。
正直、ガネーシャに預けたことすら不安な程だった。
……あの男すら魅了するなら、いよいよオラリオ中の神と一戦交える事になるだろう。
誰も彼もが彼女の力を欲するのだと証明されるのだから。
(と、いっても。俺にはおそらく関係ない魔法なんだがな……)
階位昇華魔法。つまり、『
逆に言えば、それを宿していない俺には毒にも薬にもならないと見ていい。
もし『ソウルの業』に影響するとして……それでも、深奥に至ったといわれる俺のソウルを強化できるかどうか。
できるとすれば、それこそ本当に『壊れている』と言えよう。
「他には? 似たような魔法……呪術はないのかい?」
と、そちらはともかく。
「他だと、【カーサスの烽火】が似ているが……」
こちらはこちらで癖が強い。
「こいつは、
もう一つ欠点を挙げるなら、魔力の消耗もこちらの方が大きい。
「敏捷が高くないと意味がないってことか……」
「ああ。それと持久力だな」
「そっちは誰かさんのおかげでそこそこ自信があるよ」
……それはまぁ、生者と不死人の違いというか何というか。
いや、それはともかく。
「とはいえ、私の得物とはちょっと相性が悪そうだね」
大曲剣というべきか特大剣というべきか。いずれにせよ、一撃の重さを重視した武器だ。
相性を考えるなら、やはり【内なる大力】の方が向いていると言えよう。
「そうだな。この呪術を使うなら軽量武器で、というのが定石だ」
例えばもう少し成長したベルが使えば、恐ろしく凶悪なものになりそうな気がする。
次の機会があるなら、これを伝授してやるのもいいかもしれない。
「仕方ないね。なら、その【内なる大力】ってやつにしとくよ」
「そうか。……くれぐれも扱いに気をつけろよ。使い方を誤れば、本当に死ぬぞ」
最も無茶な使い方をした時は、二〇秒が限度だった。
あと一〇秒も継続していたなら確実に息絶えていただろう。
それでも果たしてアイシャ達の言う『ランクアップ』に匹敵するほどの強化だったかどうか。
仮にそれに届いたとして、割に合っているのかどうなのかも分からない。
「早速伝授しよう。そこに座って楽にしてくれ」
持ち込んだ敷布を指さすと、アイシャはそのうえで胡坐をかいた。
胸元――鎖骨の隙間より少し下あたりに指先を触れさせ、猛々しく獰猛な炎の憧憬――自分すらも焼き払う凶悪な炎熱を思い描く。
「くぅ……」
小さく、アイシャが喘いだ。
火を畏れる。それが呪術師だ。
だが、この呪術は、力の代償としてその畏れすらも受け入れる。
そして、受け入れたならそれはもう畏れではない。
だからこそ、これは禁術と呼ばれるのだろう。
「よし、これでいい」
継承は完了した。
「ああ、なるほど。確かに
魔法が発現した時に似ているけど、変な気分だね――と、アイシャが小さく呟いた。
(確かに奇妙な感触だよな)
初めて自分が呪術を継いだ時のことを思い出す。
別に呪術に限らないのだろうが、『感覚』が一つ増えるというのは奇妙なものだ。
「少し試してみよう。そいつは特にぶっつけ本番で使うのは危険だからな」
篝火にあたり、魔力を回復――と、言ってもそもそも消耗していないが――さらに念を入れて、回復薬の類が揃っているか確認する。
(あとは、【ぬくもりの火】だな。いや、これは危険だと判断してからでいいか)
どこまで維持できるか。その限界を把握しておくのもこの呪術を使う上では重要だ。
回復効果を一定時間持続させるこの呪術を併用しては、それを把握できない。
「やれやれ、ずいぶんと大げさじゃないかい?」
「そうでもないさ」
何しろ、一度や二度は死んでも平気な俺達とは違うのだ。
念には念を入れておくべきだろう。
…――
「炎の憧憬を思い浮かべろ。今なら、意味が分かるはずだ」
クオンの言葉に従い、右手に≪呪術の火≫を灯し、『炎』を思い浮かべる。
魔法を行使する――詠唱中の精神によく似た状態へと至っているのを自覚していた。
右手に灯る『火』と、つい先ほど受け取った『熱』がその力を発揮しているのだろう。
(炎、か……)
荒々しく、猛々しい力の象徴。
この血を昂らせる何かか。
もしくは……そう、闇を彷徨う者にとっての寄る辺。
(ああ、そいつは――)
視界の片隅で、奇妙な火――篝火とやらが小さく揺らぐ。
それを背にして立つ黒衣の男――
「――――」
右手の『火』が燃え上がった。
そこに宿る炎熱を、自分の胸へと押し当てる。
「―――ッ!?」
体が燃え上がる――と、そう錯覚するほどの熱が体を包んだ。
いや、実際に血のように赤い陽炎のようなものが体から立ち上っている。
「よし、無事に発動したらしいな」
「だろうね」
体が、熱い。
血が、滾る。
「少し動いてみるか?」
「当然だろうッ!」
とても堪えきれない――ッ!
地面を蹴り、一気に間合いを詰める。
力が増している今、相応に早さも上がっている。
能力に補正をかける『スキル』があるが、それを任意に発動させているようなものだろう。
効果のほどは……体感で言えば、充分に高域補正と言っていい。
「やっぱ素手じゃ分が悪いか……ッ!」
「泣き言は聞かないよ!」
それなりに長い付き合いだ。
こいつに
(素手での喧嘩なら、私の方が一枚上だからね!)
確かに身体能力では負ける。だが、経験なら私の方が優っている。
もちろん、圧倒できるわけではないが――
「う、お……ッ!?」
――攻撃手段を素手だけに限定できる今なら、こうして付け入る隙も見えてくる。
その隙を狙って拳を、あるいは蹴りを放つ。
「このッ!?」
ついに
だが、
「甘いねっ!」
来ると分かっているなら、引っかかってやるつもりはない。
相手の苦手とする間合い。そして、身体機能が上がっている今ならそれも可能だ。
「―――ッ?!」
交差した腕を逆に絡めとる。
だが、流石にクオンの方が早い。完全に捕らえるより先に、後ろに飛び退かれた。
(まだいける!)
呼吸はまだ続く。
なるほど、確かに持久力も高まっている――
(わけじゃないか……ッ!)
これは、強引に回復させているだけだ。
そのおかげで持久力が高まったように感じているに過ぎない。
そして、
(確かに、これは……ッ!)
キツい。確実に体が蝕まれている。
「そろそろ実感してきた頃だろう?」
クオンの言葉に舌打ちしていた。
まだ三〇秒ほどだというのに、体への反動は無視できなくなっている。
(冗談じゃないね……ッ!)
急速な勢いで、体が軋みを上げていく。
一撃ごとに自分の体を切り刻んでいるような錯覚すら覚えるほどだ。
「割に合わないんじゃないかい……ッ?」
口の中に溢れてきた血を吐き出すついでに毒づく。
「そいつはどうかな。あの子の魔法がでたらめなだけって気もする」
まったくだ。つくづくとんでもない。
ついに自壊し始めた体を自覚して、改めて呻いた。
「そろそろ打ち止めにしておけ」
「そうするよ……」
呪術の持続を打ち切る。
「くぅ……ッ!」
赤い陽炎が消えると同時、体が不満の声を上げた。
五〇秒経たずして、半死半生といった有様だ。
「―――――――」
クオンが右手をかざし、聞き取れない言語で何かの物語を口ずさむ。
回復魔法――いや、クオンは奇跡と呼んでいたか。
ともあれ、黄金の輝きに包まれると同時、傷が癒えていく。
「だから言ったろ? 重ねがけはお勧めしないって」
「ああ、よーく分かったよ」
こんなのを重ねがけしたら、本当に体がもたない。
ああ、まったく。
「あのヘッポコ狐、つくづくとんでもない魔法を発現させたもんだ」
これ以上の効果を、何の代償もなくやってのけるとは。
「三〇秒だ。それを限度としておけ」
妥当な基準だろう。
確かに体の自壊を明確に感じたのは、おおよそそれくらいの時間からだった。
「そうしておいた方が無難だね、こりゃ……」
ぐったりと頷く。
「どうする? 別の呪術にするか?」
「そういや、書き換えられるんだっけ?」
これが魔法と呪術の最大の違いだった。
魔法は一人三つ。しかも、個々人に依存する……いわば『一点物』だ。
だが、呪術は代々受け継がれる代物で、必要なら書き換えることすら可能となるらしい。
「便利なもんだね」
「そうかもな」
そもそも基盤となっている『力』――『
ならば、この程度の差異はあって当然なのかもしれない。
「別に呪術にこだわる必要もないだろう?」
「そりゃそうだけどね」
他に魔術やら奇跡やら……どうやら、その二つも魔法とは別物らしい。
「けど、そっちは【ステイタス】の問題が出てくるんだろう?」
「まぁな。お前たちの場合、一括で『魔力』扱いされていそうだが……」
クオン――いや、『ソウルの業』の場合、理力と信仰に区分けされるらしい。
魔術には理力、奇跡には信仰が必要だとも。
(その『信仰』ってのは、別に神に対するものでなくてもいいらしいけど)
……少なくとも、クオンは『別のもの』を信じているらしい。
本人は『炎への憧憬』――呪術の基礎の応用だと言っているが。
「分からないものは仕方ない。覚えて使えないなんて馬鹿な事態に陥っても笑えないしね」
何であれ、実際に使えているんだから、可能なのだろうが……その真似を私ができるかどうかはまた別の問題だ。
ここはほぼ確実に使える呪術に絞り込むべきだろう。
「攻撃への補正がかかる『スキル』があるって話は聞いているけど……まぁ、相手を選ばないのがこの呪術の強みかね」
「そうだな。その代わり持続させるには苦労するが……。ああ、そうだ」
そう言って、クオンは何かを取り出した。
「これをやる。少しはマシになるだろう」
掌には指輪が一つ乗っていた。
こいつの持っている指輪は
「それは?」
「≪再生の指輪≫だ。身に着けている間は、ごく僅かだが傷が癒えていく。気休め程度の効果だが……まぁ、ないよりはマシだろう」
「そりゃいいね」
どの程度回復するかは分からないが、この呪術を使うならあって損はないだろう。
「で、その指輪。どの指にはめてくれるんだい?」
笑いながら、左手の薬指以外を曲げて差し出してやる。
もちろん、冗談だったわけだけど――
「ほらよ」
私が指を引っ込めりより早く、クオンはあっさりとその指にその指輪をはめて見せた。
……失敗だった。
こいつの場合、これが本気か、冗談か、天然かを悩む以前の問題……根本的に
基本的には世慣れているせいでしばしば忘れるが……こいつは遥か大昔、『火の時代』とやらの生まれなのだ。
必ずしもオラリオの――今の時代の習慣を知っているわけではない。
「……どうかしたか?」
とぼけたその面からは、本心を読み解く事はできなかった。
「いいや、別に」
どうせ囲われ
そもそもアマゾネスだし。
元より、まっとうに嫁ぐなんて事は想定していない。
……ただ、それでも――
「どうする? もう少し試してみるか?」
何事もなかったかのように平然としているクオンを見据えて、小さく呟く。
ひとまず、だが。
何であれ、冗談のネタ晴らしには、少しばかり時間がかかりすぎなのは確かだった。
なので――
(外れを引いたら覚えておきな)
その時は、とりあえずその面に拳をぶち込んでやるとしよう。
7
アイシャに呪術を継承した翌日。
「そうそう、あの子の二つ名が決まったわよ」
三人で少し遅めの朝食を突いていると、仕事帰りの霞が言った。
「ベルのか?」
「ええ。【
ランクアップの最短記録を大幅に書き換えた
「ほう……」
割と無難な名前だった。少なくとも、俺はそう思う。
(神どもの命名感覚は今一つ理解が及ばないんだよな)
……いや、俺達も大概いい加減な名づけ方をしているが。
(何しろ、大体は持ってた奴の名前をそのまま使ってるだけだしな)
諸々の武具や防具を思い浮かべ、小さく嘆息した。
とはいえ、自分の名前すら忘れかねないような――そもそも、今名乗っている名前が本当に本名なのかどうかすら断言はできない――有様なのだから、それも止む無しだが。
「そういや、
ミニトマトにフォークを刺しながら、アイシャが呟く。
「ってことは、私達の沙汰も決まったってことか」
「どうかしら。少なくともギルドには何の告知もなかったけど……」
「下手すりゃ水車小屋の脇にでも吊るされることになりそうだけどね」
絞首台は水車小屋の傍に。どうやら、この『時代』にもかつてそういう慣習があったらしい。
魔石製品が普及し、水車小屋の価値が激減した今のオラリオでも形式として残るほどには。
……まぁ、流石にその周辺は関係者以外立ち入り禁止……つまり、
正直、この『時代』の神が娯楽を手放すとは驚きだった。
と、それはともかく。
「馬鹿言え。ウラノスがどう出ようが、お前たちだけは生き残らせる」
最悪の場合は、それこそアン・ディールを頼るつもりだった。
フェルズたちの話からして、ダンジョンの中に第二のドラングレイグ――いや、今は何と呼ばれているか定かではないが――を『建国』している。
(ま、ウラノスが今の状況で殺しに来るとも思えないがな)
今までで一番派手に暴れたのは確かだ。
何より、春姫という『切り札』の存在も示唆している。
だが――
(それでデーモンを迎え撃てると思っているなら、ここまでだな)
例えばオッタルをLv.8にしたところで、果たして
(まぁ、一度や二度は勝てるかもしれないが……)
だが、連中の新しい『飼い主』を見つけ出して仕留められるかどうか。
何しろ、奴は生者だ。ならば、挑める機会は一度だけ。
仮に、【ロキ・ファミリア】も巻き込むというなら――やはり、結論は変わらない。
あの春姫なる少女を生贄にするなら、ウラノスだろうがガネーシャだろうが殺す。
例えその結果、オラリオが混乱の渦中に沈もうとも、だ。
……どのみち、ウラノスとの関係が破綻すれば、あとは遅いか早いかの問題でしかないのだ。
イシュタルの時と同じく、『人助け』という名目は多少の気休めにはなってくれるだろう。
(いや、アン・ディールも喜ぶかもしれないな)
そして、世界のどこかにいるはずのあの男が再び姿を現すかもしれない。
……あるいは、黒教会も。
(奴らが『神なき時代』を想定していないはずがない)
どこまで
オラリオの崩壊は冒険者社会――ひいては『神時代』の崩壊とほぼ同義だ。
それは
あの狂人がまだ俺に利用価値を見出しているなら、交渉の余地は残されている。
「問題は糸目の小僧どもが先走った時だな。あいつらが出張ってくると色々と面倒だ」
「そりゃそうだろうね。何しろ都市最大派閥だ」
確かに、今更になって数を軽視するような愚行は侵さないが――それでも、人員はそこまで問題にはならない。……少なくとも、四年前の手ごたえから考えれば。
「本当に鬱陶しいのは首魁の二人、金髪の小人と糸目の小僧そのものだ。あの扇動家どもがその気になれば、集まってくる人数は神罰同盟とやらの比じゃない」
ついでに言えばどちらも策士だ。
基本的な対処法は変わらないにしても、その難易度は遥かに高まる。
「【フレイヤ・ファミリア】はどうなの?」
「あいつらの基準はよく分からないな。あの女が号令を出さない限りは動かないだろうが……」
つまり、完全に神の気まぐれに左右される。
そんなもの、いくら何でも読み切れる訳もない。
「まぁ、小人どもが遠征に行っている間は、これといった動きはないだろう」
あの女とオッタルだけならまだ対処できる。
多少手こずるかもしれないが、小人どもが帰ってくる前に対処できればそれでいい。
小人どもはそのあとで相手にすればいいだけの話だ。こちらも、多少手こずるくらいで済む。
今この時に双璧が崩れればオラリオは混乱するだろうが……まぁ、その辺はウラノスとガネーシャがどうにかするか。もし、その算段がないな全力でこの二派閥を止めるはずだ。
(何しろ、
そして、神々にとっての――いや、この『神時代』とやらの天敵である俺。
オラリオ……いや、人間への背信はお互い様だ。
互いに利用価値がある間は、このまま仲良くやっていけるだろう。
…――
「エニュオ、か……」
ガネーシャの神室にて情報を交換する。
「うむ! 組織名についてはウラノスからの情報だが、
「気になることはいくらでもあるが……」
どこから質問していくべきか。
しばらく迷って、まず最も初歩的なところから問うことに決めた。
「まず、それは組織名なのか? 敵は【エニュオ・ファミリア】だと?」
「いいや、【ファミリア】とは言い難い!! エニュオという神は天界には存在しなからな!」
「となると、架空の神か。あるいは、別の何かを意味するのか?」
「うむ! エニュオとは、俺達の言葉で『都市の破壊者』を意味する!」
「……それはまた、いつになく分かりやすいな」
なるほど、この上なく明確な宣戦布告だった。
「デーモン達の『飼い主』もこの勢力なのか?」
「それに関しては、まだ分からん!! クオンと接触できないからなっ!」
それはそうか。
(まったく、あいつめ……)
一体どこに雲隠れしたのか。
いや、霞なら知っているだろうが、彼女も彼女でなかなか抜け目がない。
四年前、試しに尾行させた事があるが、その時も早々に巻かれてしまった。
そのあとできっちりクオンから苦情も届いている。
今この時に同じことをすれば、今度は冗談では済まないだろう。
(まぁ、この街で完全に足跡を消そうと思ったら、『ダイダロス通り』が最有力だろうがな)
霞は元々この区画で生まれ育っている。
そこに加えて、地上の迷宮の名は伊達ではないのだ。中に入られたら、私でも追いきれまい。
「神ロキはカインハーストの名を口にしなかったのだな?」
「うむ! そちらは、下手をするとまだ【
可能性としては半々――より、少し偏っている程度か。
彼女にとっても扱いに困る存在なのは間違いないのだから。
「しかし、エニュオというのが神ではないとするなら、彼女達が参加している可能性もあるか……」
一週間ほど前に遭遇した女エルフを思い浮かべる。
彼女についても捜査はあまり進んでいない。何しろ、事は繊細な問題を含んでいるのだ。
下手に突いてエルフ達が暴走し始めては目も当てられない。
「カインハーストに関しては正直、【
出奔したとはいえ
彼女の賛同を得られるのであれば、政治的な問題はいくらか封殺できる。
少なくとも、オラリオにいるエルフ達の協力は得られるだろう。
「うぅむ。彼女に関しては、今は遠征から戻ってくるのを待つしかない!」
「五九階層か。私たちにとってはまだ未到達階層だが……」
最寄りの
その辺りは【ロキ・ファミリア】と言えどそう大きくは変わらないだろう。
差があっても精々数日といったところか。
(と、なればまだ向かっている途中か)
地上に帰還してくるのは、早くて来週以降。
何より、未到達階層に挑む以上、【
(気を揉んでも仕方がないか)
精々、彼女達の武運長久を祈るくらいしかできる事はない。
今の状況では、カインハーストに関しては後回しにするしかなさそうだ。
「『アンデッド』……例の『暗い穴』に関しては?」
そちらに関しても、【
「それについても同じだ! それに、俺にもウラノスから黙っているように指示があった! こちらも扱いが難しいからな! ガネーシャ同感!!」
それもそうか。
春姫……例の『生贄の少女』の魔法と同じようなものだ。
いや、その
「当面は、俺達だけで調査するしかない! だが!!」
「分かっている。人選には慎重を期す」
何であれ冒険者にとっては『甘い劇毒』のような代物だ。
迂闊に担当させて、木乃伊取りが木乃伊になっては元も子もない。
同じ
「そして、ラキアか。……この忙しい時に」
ラキア侵攻。過去の例からすると、長ければ半月ほど時間を取られる事になりかねない。
「そちらは仕方ない! 何しろアレスだからな!!」
「『クロッゾの魔剣』がない今なら、そこまでの脅威にはならないとはいえ……。開戦はいつ頃になる見込みだ?」
「都市外との交易も盛んな商業系派閥の話を統括するに、おそらく二ヶ月後といったところだ!」
オラリオに到達する前にこちらから強襲でも仕掛けた方が早いのではないだろうか――と、思いはしたが……、
(ギルドの許可が出ないだろうな)
何しろ戦力の流出を嫌っている。
まぁ、これについては致し方ない。何しろ、武力というのは外交において絶対不可欠の要素だ。
元より、巨万の富を抱くオラリオを狙う外部勢力は多い。例え一時でも戦力を落とせば、ここぞとばかりに攻め込んできかねない。
それに、出兵したとなると、他の周辺諸国から不必要に警戒され、外交的な軋轢を生み出すことにもなりかねない。
「デーモンに『暗い穴』、エニュオ一派。それにカインハーストの暗躍か。……どれも二ヶ月で片付く問題ではないんだがな」
「まったくだ!」
俺が、最近過労気味のガネーシャだ!――と、叫ぶ主神に、心の底から同意していた。
あいつが戻ってきてからの二月ほど、深刻な事件ばかりが続いている。
そして――
(神を気取るつもりではないが……まぁ、その程度の未来なら私にも見える)
本番は、むしろこれからなのだという事くらいは。
―お知らせ―
お気に入り登録していただいた方、評価いただいた方、ありがとうございます。
次回更新は12月初旬から中旬を予定しています。
18/12/16:一部改訂
18/12/17:一部改訂。脱字修正。あとがき追記
19/10/02:誤字修正
―あとがき―
と、いうわけで第二部が無事に始まりました。
この章は原作四巻の時間軸となります。
四巻は幕間の物語――と、原作のあとがきにも書かれていますが、本作でも今回はまさにそんな感じですね。
物語としてはあまり進まず、主人公を取り巻く思惑やら何やらに触れたり、ロキたちが知らない間に特大の地雷を踏んだり、アイシャさん強化フラグが発動したりしています。
ちなみに、アイシャさんが覚えた『内なる大力』ですが、今作ではちょっと設定を変えて、
・持続時間は任意
・重ねがけ可能。効果は20%ずつ重複。
・ただし、重ねがけするとHP減少率も0.3%ずつ上昇
と、言う感じになっています。
なので、二倍にするとHP減少率は3.2%。カンストHP(1400)でも、放っておくと31秒でYOU DEADします――と、言ってもゲームと違ってHPが数値であるわけではないのですが。
ひとまず『30秒が限界』とだけ思っていただければいいかと思います。
また、この辺の割合は後でこっそり変更するかもしれませんので、悪しからずご了承ください。
※18/12/17追記
変更いたしました。
具体的な数値はあえて決めず、強化・補正系のスキルと同じ扱いで、重ねがけすることで、高域強化、超高域補正となっていきます。
それに伴い、作中の該当箇所も改訂しております。
さて、次からは一足先に別のイベントが動き出す予定です。
何しろ、前章ではほとんど出番がなかったので、またそろそろ暴れさせたいな、と。
主人公が動くと割を食うキャラが方々で発生するのですが、次の被害者はさて…
そして、別の意味での修羅場へのカウントダウンも始まっていたりいなかったりします。
と、そんなわけで今回はここまで。
どうか次回もよろしくお願いいたします。
また、返信が遅くて恐縮ですが、感想などいただけましたら幸いです。