俺の目の前にディッシュに入れられた生後1週間の仔ネズミが一匹。
まだ眼も開けられない状態で、突然研究室の"皿"に入れられて、液体にまみれ、わけもわからずのたうちまわっている。
俺の手には眼科剪刃。
その刃先は仔ネズミの頭の径のゆうに二倍はある。

「それじゃあ、頭を切り落として。
一瞬で切れば痛みは感じない。」
先生が言う。

思えば、初めて医師になりたいと思ったのは漫画が描く医師の、圧倒的なカッコよさに憧れたからだった。
一遍の澱みもなく、医師は限りなく善を尽くす存在であると、初めてその漫画に触れた時は思った。
それから月日は経って、沢山の経験を経て、絶対的な善も絶対的な悪もそんなものは存在し得ないのだと知った。
けれど、今日ほどそれを実体験として痛感した日はないかもしれない。
誰でも子供の時に見せられるであろうアンパンマンはある一点(子供の視点であったり、バタ子さんの視点であったり)から見れば善だけれど、
立場を変えれば善であるとはいいきれない、というか巨悪である。
医療は現在の人間の立場からすれば、有難い、良い存在なのだろうけど、その実、医療の発展は無数の動物達の死骸の上に成り立っている。
それどころか、例えばナチスの人体実験によって医療がどれだけ発展したかを鑑みると、悪(のように俺の立場からは見える)によって構築されている、といっても過言ではないかもしれない。
こんなことは当然昔からわかっている。

わかってはいるが、いざ自分がその一部に組み込まれようとすると、途端に自分が何をやっているのかわからなくなった。

善悪を具体的に定義するためには、なにかに属さねばならない。
医療に属している限りは、動物を使った実験は「医療から見て善」であるのだから、なんら罪悪感を感じる必要はない。
自分の中で完全に論理立てて正当化できているはずの行動を実際に行うのが、これほど難しいとは。

優先順位を考える。
俺は研究がしたい。
その想いが何にもまして最優先されることで、そのためにはそれ以外の部分で犠牲がでることは覚悟している。
覚悟している、という言い方は違う、正確に、嘘偽りなく言えば犠牲は厭わない、と思っている。
俺が悲しみながら首を落とそうが、笑いながら落とそうが、そんなことは殺される側からすれば関係ない。
結局、「かわいそう」と思う自分を見て、「俺は優しい人間だ」と、他の生物を殺す自分を少しでも美化したいだけなのかもしれない。
自分のためだけになんの罪もない生き物を殺すのに。

想定される最悪のケースはこういった躊躇いの気持ちを持って切った挙句、一瞬で首を切れず、不必要な苦しみを与えてしまうことである。
最後は何も考えずにただ、剪刃を仔ネズミの後頭部に血が出そうなくらいグイと押し付けて、鈍角を成す柄を力いっぱい握った。

ある意味、初めて医療に携わったのかもしれない。