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『加能史料』をよむ 「戦国編」より 朝鮮に遣わされた偽の使者 |
古代より日本海沿岸地域には、対岸からの船がたびたび東着しており、環日本海交流として、 最近注目されています。能登・加賀も、古代・中世を通じて、使者や商人が来着する重要な地 でした。今回は、今年刊行された『戦国I』から、対岸地域との交流を示す大変興味深い史料 をご紹介したいと思います。
『海東諸国紀』は、朝鮮王朝の外交官であった申叔舟が、朝鮮成宗二年(1471)に王命によ り、日本や琉球の国情および通行の沿岸を記したものです。まず巻首には、「日本本国之図」 等の地図が収録されています。本文は、日本国に関する「日本国紀」、琉球国に関する「琉球 国紀」、日朝通行の諸規定を集成した「朝聘応接紀」の三部に分かれています。そして巻末に は、「畠山殿副官人良心曹饋餉日呈書契」(畠山殿の副官人良心の曹の饋餉の日に呈したる書 契)が追録されています。これは成化9年(1473)9月2日付で、畠山殿の副使良心が礼曹宴 の日に上啓したものです。(『戦国Ⅰ』・133頁)。この畠山殿とは一体誰なのでしょうか。
『海東諸国紀』によればこの書契の畠山殿は、能登守護畠山義忠の子息である義勝としてい ます。ところが日本の「畠山系図」では、義忠には義統(後には能登守護)という子息はいま すが、どこにも義勝の名は見当たりません。また義統と義勝を同一人物と考えるのは、かなり 難しいようです。さらに書契には、義勝が能登・加賀等四州の関塞を開いた功によって、管領 職に就いたとの記述がありますが、この時期の管領は細川勝元で、この記述が明らかに間違い であることが分かります。そうなると畠山義勝は、全く架空の人物ということになります。で は何故このような誤りが、朝鮮側にもたらされたのでしょうか。
1470年代には、畠山氏や細川氏と詐称した偽使が盛んに通行したとの研究がなされています。 この時期は当に、京都を揺るがした応仁の乱中であり、偽使名義にされた諸氏が争乱に忙殺され、 対外貿易に目が向かないことから、偽使は安心して大胆に通行を展開することができたようです。 この偽使の正体ですが、通行に地理的にも有利な対馬島主と、貿易資本を持ち合わせた博多商人 の共謀との見方が強いようです。偽使は、管領職を騙る等様々な虚像を作り上げることによって、 自らが正当な使節であることを朝鮮王朝に印象付けようとしたと考えられています。さらには、 室町幕府に偽使通行が露見しないよう、朝鮮からの通信使に、「南路兵乱により使行不可能」と いう情報を流し、朝鮮側の使者が京都まで来ることを阻止したとも言われています。
『海東諸国紀』「日本本国之図」
東京大学史料編纂所所蔵![]()
『海東諸国紀』収録の畠山殿書契は、偽使が作り上げた偽書と考えられます。この立場から、 『戦国Ⅰ』では、畠山義勝の記事をそれぞれの年月日で立網せず、『海東諸国紀」成立の月に一 括して掲載することにしました。
何気なく目にする史料の中に、他の史料との比較や当時の社会状況を考慮することで、思い がけない史実を知ることができるのです。