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「新型コロナは心にどう影響したのか ~奪われたケアについて~」(視点・論点)

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十文字学園女子大学 東畑 開人

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こんにちは。臨床心理士をしています。コロナ禍のこの一年、心の相談を続けてきました。ですから、あくまで私の場合ではありますが、カウンセリングルームから見えた新型コロナウィルスの心への影響について、お話ししたいと思います。

 新型コロナは心にどう影響したのか。意外な答えかもしれませんが、実を言えばこの一年、カウンセリングルームで語られる相談内容に大きな変化があったわけではありませんでした。もちろん、コロナによって経済的に追い詰められた人もいましたし、ウィルスに感染する不安にひどく脅かされた人もいました。ですが、クライエントの多くはコロナ以前と変わらない内容について話をし続けました。家族のこと、職場のこと、パートナーのこと。社会は一変し、生活や仕事も大きく変化したにも関わらず、彼らが苦しみ続けたのは身近な人間関係のことだったわけです。心というものはごくごくプライベートなものですから、その苦しさは結局身の回りのごくごく小さなところに姿を現すのだと思います。
 ですが、それは心がコロナの影響を受けなかったということでは全くありません。実際は逆です。コロナは心に深刻な影響を与えたように思います。ただし、それは見えない形で、つまり間接的になされたように思うのです。間接的。ここに今日のお話のポイントがあります。

個人情報保護のために加工した事例ではありますが、例を挙げたいと思います。たとえば昨年の夏前から学校に行けなくなり、部屋にひきこもりがちになった高校生がいました。初めてカウンセリングにやってきたとき、彼が語ったのは、ごくごく小さな話でした。苛立った親に日々追い詰められていること、学校の勉強についていけないこと、そして、そんな自分を無価値だと思うこと。まるでパンデミックなど起きていないかのように、彼は自分の住む小さな世界で起きていることを語り続けました。
ですが、よくよく話を聴いてみると、彼の苦しさの深いところに、コロナの影が差していることがわかってきました。両親が苛立ちやすくなったのはリモートワークがきっかけでした。毎日同じ場所にいることで、以前から不仲だった両親の喧嘩は増え、それが彼を追い詰めていました。あるいは以前から勉強が遅れがちだった彼は、オンライン授業になっていた期間に、授業にまったくついていけなくなりました。教室にいれば友人や教師に助けを求めることもできたけど、それが難しくなってしまったからです。
こういうことです。コロナは心に新たな問題をもたらしたのではなく、以前から存在してはいたけど、ギリギリのところで誤魔化されていた問題を顕在化させました。問題を覆い隠していたヴェールを、コロナが剥ぎとったのです。それが「間接的」ということの意味です。

さて、重要なことは、このヴェールが心にとって、きわめて貴重なものであったことです。「問題を覆い隠す」というと、悪いことのように聞こえるかもしれません。実際、政治家や経営者であれば、隠蔽や粉飾は悪いことでしょう。だけど、心の場合は違います。
心の問題はいつでも直面化すればいいものではないからです。心も人間関係も本質的に矛盾に満ちたもので、問題を抱え続けるものです。ですから、人生にはそういう矛盾と向き合った方がいいときもあるのだけど、とりあえず先送りした方がいいときもあります。余裕がない時に、問題と向き合おうとするならば、破壊的なことが生じてしまうこともあるからです。
そういうとき、先送りによって、時間を稼ぐことが助けになります。時間は心の良薬です。激しい怒りは時間を置くことでマイルドになっていきますし、人間関係は時間を経る中で落ち着くべきところに落ち着いていきます。問題と向き合うのは、そうやって余裕ができてからでも遅くない。ですから、ヴェールがきちんと存在してくれると、心は助かります。

それでは、この失われてしまったヴェールとは一体なんだったのでしょうか。つまり、コロナは私たちから一体何を奪っていったのでしょうか。
これを私は人と人との間で交わされていた「ケア」だと考えています。ケアとは相手のニーズを満たすことを言いますが、体を同じ場所に置いておけた頃、ケアは私たちの間でこまめに交わされていました。たとえば、あの不仲の両親は職場で雑談をしたり、飲み会に行ったりすることで、ケアされていました。外でケアを得ることで、家庭をギリギリのところで保っていたのです。彼もそうです。教室で授業を受けていると、わからないところは友人が教えてくれたし、廊下で心配した教師から声をかけてもらえることもありました。そういうケアがあることで、かろうじて授業についていくことが可能になっていました。
つくづく体は便利だと思います。何に困っているのか、言葉にするのが難しいときでも、体があればモジモジしているだけで、相手に心配してもらうことができました。体は飛沫をまき散らし、ウィルスを運ぶ危険なものでもあるけれど、同時に効率的にケアを運ぶ高性能の乗り物でもあったわけです。
そういうケアの交わしあいが、危ういバランスではあったにせよ、日常をギリギリで成立させていました。だけど、コロナはケアを奪い去ってしまいました。すると、私たちはむき出しになった問題と直面せざるを得なくなり、傷つき、ときに打ちのめされてしまいます。カウンセリングで私が聴いていたのは、その果ての話だったのです。

まとめましょう。新型コロナウィルスが心に与えた影響は間接的なものでした。小さなケアたちが奪い去られることで、以前から存在していた問題が顕在化してしまいました。私たちはコロナの時代に孤独になったと言われますが、それはコロナが孤独をもたらしたのではなく、以前から存在していた孤独を誤魔化しようがなくなってしまったということだと思うのです。
ですから、必要なことは、以前なら体でやり取りしていたケアを、言葉で置き換えることです。大変なことです。体ならば簡単にやってのけられたことを、言葉でやるのがどんなに大変なことか。同じ職場にいれば、同僚の不調は目で見てわかりましたし、廊下で「大丈夫?」と声をかけて、一緒に居ることができました。ですが、体がそこにないならば、メールやメッセージでいちいち調子を尋ねないといけません。同じように苦しいときには、それをいちいち言葉にしないと伝わりません。膨大な労力をかけないと、ケアを交し合うことができなくなってしまったのです。それでも、その労力をかけることには報酬があります。かけた労力の分だけ、人は自分が気遣われていると感じるからです。ここにケアの本質があります。
グローバルなパンデミックに比べると、心はあまりに小さいものです。そして、そういう小さな心を支えるものも小さなケアであれば、損なうものも身近にある小さな人間関係です。そういう小さきものたちを見失いやすくなったことこそが、コロナの時代であったと私は思っています。

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「東日本大震災10年 原子力災害の伝承と教訓」(視点・論点)

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東京大学大学院 准教授 関谷 直也 

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(1) 東日本大震災と原子力災害
東日本大震災はトリプルディザスターと海外では呼ばれます。過去に例のない地震、津波、原子力の複合災害です。
浪江町の請戸地区は、東京電力福島第一原子力発電所の事故の進展のため、津波によって流された多くの方々の救助に行けないまま3月12日朝に避難せざるを得ませんでした。請戸小学校の小学生と先生方は、大平山へ向かい津波で一人も犠牲を出さなかったという奇跡を起こしながらも、そのことはあまり知られることのないまま、その後、東京電力福島第一原子力発電所事故による避難のため、双葉郡8町村の住民と同様に全国に避難していくことになりました。
そして、放射線量は低減し、避難指示は解除されていきましたが、双葉郡の方々で、自宅に戻ることない方も多いまま10年を迎え、震災前とは異なった形で、復興がスタートしています。
さて、今日は東日本大震災の伝承について考えたいと思います。

VTR(伝承館)
2020年9月、この大規模な複合災害の課題や教訓を伝えるために、その浪江町から双葉町にまたがる復興記念公園に隣接する場所に東日本大震災・原子力災害伝承館ができました。ここでは展示のみならず、研究・研修も行われることとしています。
ただし、開館後、展示内容について、
「何を伝えたいのかわかりにくい」
「政府や東京電力に対する批判が弱い」
などの批判が多くありました。そして展示の改修をしたところです。地震・津波の被害、安全神話ゆえの対策を怠った人災であること、SPEEDIが避難に活用できなかったこと、双葉病院の避難状況などについて展示が加えられることになりました。今後もより多くの双葉郡、福島県民の「声」に耳を傾け、納得してもらえる伝承館に育てていく必要があると思います。

なお、批判を受け修正をしていくという作業は当然ですが、ポイントは展示内容に賛否両論があったということかと思います。
 大規模・複合災害、広域災害、長期災害、規模・範囲・時間の広がりは、個々人毎、さまざまな被害と生活再建の形を生んできました。
被災者の生活再建を前提に、帰還した人もいれば、移住した人、避難を継続している人など多様な復興の形もあり、「複線型復興」が日本学術会議をはじめ様々な方から提唱されてきました。
一人ひとりが体験した地震、事故、その後の10年間の体験や復興の過程は異なるのならば、一人ひとりが考えている東日本大震災・原子力災害の課題・教訓は異なるのは当然です。そのため誰もが納得しうる形での教訓の抽出は非常に難しい作業です。地域ごと、個人ごとに異なる状況と共通した教訓、すなわち、個別化と一般化のバランスを踏まえた教訓を引き出し伝えていくことが必要です。

誰しも、自分と異なった考え方は受け入れがたいものです。
長期にわたる原子力災害は他の災害と異なり複雑です。原子力災害を伝えようとするとき、広域避難、区域外避難、甲状腺がんなど健康影響、放射線に対する不安感、賠償など、原子力発電所事故の影響や放射線の影響をより大きくみようとする方向性と、地域再生、帰還、農林水産業や観光業の回復、風評被害、リスク・コミュニケーション、コミュニティ再生など、福島県の復興をより重視し、放射線の影響をより小さくみようとする方向性があります。これらは、放射線について不安の大小、原子力発電の推進ないしは再稼働の反対/賛成、福島県の農産物消費に対する考え方と結びついてしまっています。

ただ科学的な正確性が問題なのではなく、混乱が生じたこと、意見が対立してきたこと、合意形成の過程、それらこそが歴史・記憶として、伝えていかなければならない教訓です。
これらの様々な価値観を持つ人誰もが納得しうる表現となっていなかったということは、検証作業また伝えたい内容への昇華が十分にできていなかったことに他なりません。
また、避難生活や社会的な影響としての災害は、直後だけではなく10年間続いたわけです。現在も風評被害、ALPS処理水、除去土壌の再生利用・最終処分、区域再編、廃炉・エンドステートなどさまざまな課題が残っています。この相互に連関する課題を分析することが必要です。
そのためにも、より多くの双葉郡、福島県民の「声」を集めていく必要があり、またそれらを理解し、研究しつづける人材の育成も必要になってきています。

(2)原子力災害の伝承とはー海外との比較
ところで、海外における原子力に関連する展示施設は、様々な特徴を持っています。
ワシントン州ハンフォードにおいては、REACH博物館とワシントン州立大学において、マンハッタン計画を支えた場所という誇りと、クリーンアップの成果、Pacific Northwest National Laboratoryという国立研究所の設置まで地域振興を伝えるアーカイブ群が成立しています。

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チェルノブイリにおいては、「世界を救った人たち」としての消防士、処理作業に従事したリグビダートルの健康被害という惨事を伝えるとともに、強制避難の苦渋、失われた時間を体感するというダークツーリズムが象徴的です。旧ソ連の事故処理に対する恨みと運命論というキリスト教的な価値観が同居するところに、その特徴があります。

我々は、広島・長崎では平和、公害問題からは環境、阪神・淡路大震災からは防災を教訓として学び取ろうとしてきました。
では、原子力災害については何を学ぶべきなのでしょうか。
我々は原子力事故、原子力災害を伝承し、この原子力災害を知らない世代、知らない人々に知ってもらう、海外向けに情報を更新する必要があります。多くの人が、簡単に「災害を忘れてはならない」といいます。ただ「何」を忘れてはならないのか、「何」を学んでもらうのか、「何」を伝えるべきなのか、事故や災害への評価がかたまり切らないうちに、10年を迎えてしまったということもできようかとも思います。

(3)原子力災害の教訓
原子力災害は、核種、量と規模、季節、人口、土壌と作物によって、その被害の様相は異なりますし、また長期の災害/時間の経過をいかに伝えるか、何を伝えるのか、考え方に幅があります。
原子力事故の教訓としても「再稼働をしないこと」「原子炉の安全性を確保すること」「災害が発生したときの対処を考えること」立場によって、様々な幅があります。規制委員会による原子力規制は厳しくなり、改善も行われたがゆえに、福島原発事故規模の事故が起こる可能性は極めて少ないという主張をする関係者も増えてきました。だからこそ、事故前に立ち戻り、原子力事故とその後の災害対応の検証と教訓の抽出が必要なのです。

今後、じっくりとそれらを検討していかなければ、この災禍の教訓、災害情報の発信は難しいわけです。この原子力災害伝承館では事故対応、災害対策の検証など、調査・研究事業もこれから実施し、展示や記録をおこなっていくことになっています。
より多くの双葉郡、福島県民の「声」を集め、教訓を引き出すことができるかがポイントになります。
また、現在、政府・復興庁で、福島県浜通りに国際教育研究拠点を整備することが検討されています。そこでは、研究内容の一つとして、原子力災害に関する知識・知見の集積や、風評払拭に向けた効果的な情報発信手法、リスク・コミュニケーション等に関する社会科学研究が行われることになっています。

現在の大きな課題は情報発信にあります。
東日本大震災から10年を過ぎ情報発信が難しくなります。また新型コロナウイルス感染拡大の中、東日本大震災のことを、関心を失ってきた層にどう情報発信していくのか、後世に、海外にどう伝承していくのか、これが現在の復興の最大の課題といえると思います。 

10年とはいえ、課題は残り、復興もまだ道半ばです。事故・災害・復興の検証やコミュニケーションの手法の検討も十分ではありません。東日本大震災から「何」を学んできたのか、「何」を次の世代に残さねばならないのか、海外に伝え、後世に伝承していく作業は、まさにこれからともいえます。改めて、様々な教訓を引き出す努力をしていかなければならないのではないでしょうか。

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「原発事故10年 福島の復興のために」(視点・論点)

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原子力規制委員会 前委員長 田中 俊一

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はじめに
福島原発事故から10年、事故直後の避難区域は徐々に解除されてきていますが、避難は当初の予測を大幅に越えて長期化しました。
事故から6年後には、除染が終わった地域の避難が解除されましたが、現在も、帰還できる見通しがない広大な地域が残されています。
さらに、避難が解除された町村でも実際に帰還しているのは、高齢者が中心で20%前後に止まり、子育て世代、働き盛り世代の帰還は極めて少ないのが現実です。
なぜ、故郷(ふるさと)への帰還が進まないのでしょうか?理由は、一人ひとり違いますが、主な理由は、避難先での仕事や子供の教育が定着してしまっていること、医療施設が不備であること、介護体制や地域コミュニテイが崩壊していることなどが挙げられます。
つまり、原発事故から10年経った福島の状況は、様々な課題が、まるで糸が複雑に絡み合っているような状態にあります。
本日は、絡み合った糸をほぐして、復興への道筋を着実に進めるためには、何が必要であるかを考えてみたいと思います。

合理性にかける事故後の対策
今回の原発事故は深刻なもので、環境に放出された放射能も非常に多く健康への影響を心配する住民は、目に見えない放射線の不安に晒されました。
被ばく量の推定値は画面に表示されているデータのとおりですが、10年経って明らかになったことは、放射線被ばくによる健康への確定的影響は見つかっていないことです。しかし、住民の放射線被ばくの不安は、なかなか払拭出来ていません。
その最大の要因は、事故直後に決められた合理性に欠けた非科学的な放射線・放射能に対する国の防護基準や施策であることを重く受け止める必要があります。

避難と解除
一つの例が、避難と避難解除の基準です。今回の事故では、約15万人の住民が避難を余儀なくされました。

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避難は、年間20mSv、1時間あたり3.8μSvの線量率を越える地域が対象とされ、中でも年間50mSvを越えると予測された地域は帰還困難区域に指定されました。
事故から、3年ぐらい経つと、環境の放射線量は大幅に減少し、山林等の一部の地域を除けば、大部分の地域は、帰還できるレベル以下まで線量率は下がりましたが、避難は解除されませんでした。この理由は、「除染をしなければ、避難は解除しません」、あるいは「自治体の合意がなければ解除しません」とした、時の政府の政治約束です。一見、民主的にも見える政治的な約束ですが、誰が何に基づいて避難を解除するかが曖昧になり、避難解除は大幅に遅れて、10年経っても避難が続いている事態を招いています。
3年ぐらいで故郷に戻れると考えていた住民も避難が長期化し、いつ帰れるか分からない状況の中で、避難先での仕事や教育などが定着し、結果的に故郷に戻ることが難しくなってしまいました。事故から6年経過した2017年3月末に、除染を終えた地域の避難が解除されたものの、こうした地域で帰還してきた住民の多くは、高齢者ばかりというのも当然と云えます。
放射線の被ばく量を減らすための除染が、除染そのものが目的化してしまい、避難が解除できないというのは本末転倒です。避難が解除されなければ自宅への立ち入りもままならず、ふるさとの復興も住民の心の復興もあり得ないことは云うまでもありません。この10年、避難と避難解除の基準に科学的合理性がなかったことによって2300人を越える避難による犠牲者が出ていることと合わせて、国の責任は極めて重大であると云わざるを得ません。

食品流通基準と風評被害
住民の不安を徒に大きくして、農漁業の復興を妨げ、風評被害を拡大し、復興を妨げているもう一つの原因が食品流通基準です。

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一般食品の137Csの国際基準は、1000Bq/kgですが、その10分の1の100Bq/kgが現在の基準です。
なぜ、こんなに小さいのでしょうか? 時の厚生労働大臣の求めに応じて、食品安全委員会は、北海道から九州まで国産の食品は100%放射能に汚染されているという現実とはかけ離れたとんでもない仮定をして、事故後の暫定基準500Bq/kgを強引に100Bq/kgにしてしまいました。
日々口にする食品の基準が、異常に低く設定されたことによって、放射能についての不安や風評被害は県民だけでなく、国民の中でも助長され、定着してしまいました。

福島県の主要な食品の放射能汚染は、事故直後でさえ極めて小さく、実際の被ばく量は年間0.051mSvと1mSvと比べても十分低いという評価をしつつ、現実を無視して大臣の要求を優先させて基準を下げた食品安全委員会の責任は極めて重大です。
現実に沿って食品の流通基準を見直さなければ、福島県民の心の復興と農水産業の復興・再生は不可能であることを指摘したいと思います。

除染廃棄物
復興のもう一つの障害は除染廃棄物の処分です。原発事故後に、福島県では環境の放射能を取り除くために大規模な除染が行われ、その量は約1400万立方メートルと膨大な量に達しました。

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国は、除染した土壌等は、福島第一原発に隣接した大熊町と双葉町の中間処分場で貯蔵した上で、30年以内、2041年までに県外で最終処分を完了するために必要な措置を講じるとしていますが、これが大問題です。福島県で発生した放射能に汚染された大量の除染廃棄物を、福島県外で処分することなど実現不可能であることは明白です。とすれば、県内で速やかに安全に処分することが必要です。

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飯舘村では、除染土壌を利用して帰還困難区域である長泥行政区の田畑を再生、利用するための安全性を実証する事業に取り組んでいます。しかし、福島県もひたすら県外での処分を国に求め続けているだけで、そのツケは地元住民に押し付けられています。

福島第一原発の廃止措置
福島第一原発も、住民の不安要因の一つです。当初の混乱した状況から改善されたものの、壊れた原発は、住民にとって心の重荷になっています。トリチウム水の問題に見られるように、廃止措置は住民の理解が得られなければ、前に進めることはできません。住民の理解を得るためには、できることできないことを含めて真摯に正直に向き合うことが何より必要とされています。
国や東電は、福島第一原発の廃止措置は、40年で終わるとしていますが、廃止措置をどこまで行えるかも含めて、40年は単なる努力目標であることを明確にすることも極めて重要です。

科学者の社会的責任
合理性のない非科学的な放射線防護基準の策定、トリチウム排水からのトリチウム水の分離、除染土壌からのセシウムの分離など、一見、善意に見える科学者の無責任な提案が、福島の着実な復興の歩みを邪魔してきました。新型コロナでも同じですが、社会が大きなリスクに直面した時の科学者の社会的役割と責任を改めて学ぶ必要があると思います。

おわりに
 原発事故を招いたことについては、東京電力だけでなく、政府・行政、関係学会、関係者は、厳しく反省することは当然ですが、事故から10年の経過が、原発事故が如何に深刻な社会的問題をもたらすかを示しています。その上で、福島の復興ためには、科学的で合理的な国と県の強力なリーダーシップが不可欠であることを指摘して終わります。

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