「新型コロナは心にどう影響したのか ~奪われたケアについて~」(視点・論点)
2021年04月06日 (火)
十文字学園女子大学 東畑 開人
こんにちは。臨床心理士をしています。コロナ禍のこの一年、心の相談を続けてきました。ですから、あくまで私の場合ではありますが、カウンセリングルームから見えた新型コロナウィルスの心への影響について、お話ししたいと思います。
新型コロナは心にどう影響したのか。意外な答えかもしれませんが、実を言えばこの一年、カウンセリングルームで語られる相談内容に大きな変化があったわけではありませんでした。もちろん、コロナによって経済的に追い詰められた人もいましたし、ウィルスに感染する不安にひどく脅かされた人もいました。ですが、クライエントの多くはコロナ以前と変わらない内容について話をし続けました。家族のこと、職場のこと、パートナーのこと。社会は一変し、生活や仕事も大きく変化したにも関わらず、彼らが苦しみ続けたのは身近な人間関係のことだったわけです。心というものはごくごくプライベートなものですから、その苦しさは結局身の回りのごくごく小さなところに姿を現すのだと思います。
ですが、それは心がコロナの影響を受けなかったということでは全くありません。実際は逆です。コロナは心に深刻な影響を与えたように思います。ただし、それは見えない形で、つまり間接的になされたように思うのです。間接的。ここに今日のお話のポイントがあります。
個人情報保護のために加工した事例ではありますが、例を挙げたいと思います。たとえば昨年の夏前から学校に行けなくなり、部屋にひきこもりがちになった高校生がいました。初めてカウンセリングにやってきたとき、彼が語ったのは、ごくごく小さな話でした。苛立った親に日々追い詰められていること、学校の勉強についていけないこと、そして、そんな自分を無価値だと思うこと。まるでパンデミックなど起きていないかのように、彼は自分の住む小さな世界で起きていることを語り続けました。
ですが、よくよく話を聴いてみると、彼の苦しさの深いところに、コロナの影が差していることがわかってきました。両親が苛立ちやすくなったのはリモートワークがきっかけでした。毎日同じ場所にいることで、以前から不仲だった両親の喧嘩は増え、それが彼を追い詰めていました。あるいは以前から勉強が遅れがちだった彼は、オンライン授業になっていた期間に、授業にまったくついていけなくなりました。教室にいれば友人や教師に助けを求めることもできたけど、それが難しくなってしまったからです。
こういうことです。コロナは心に新たな問題をもたらしたのではなく、以前から存在してはいたけど、ギリギリのところで誤魔化されていた問題を顕在化させました。問題を覆い隠していたヴェールを、コロナが剥ぎとったのです。それが「間接的」ということの意味です。
さて、重要なことは、このヴェールが心にとって、きわめて貴重なものであったことです。「問題を覆い隠す」というと、悪いことのように聞こえるかもしれません。実際、政治家や経営者であれば、隠蔽や粉飾は悪いことでしょう。だけど、心の場合は違います。
心の問題はいつでも直面化すればいいものではないからです。心も人間関係も本質的に矛盾に満ちたもので、問題を抱え続けるものです。ですから、人生にはそういう矛盾と向き合った方がいいときもあるのだけど、とりあえず先送りした方がいいときもあります。余裕がない時に、問題と向き合おうとするならば、破壊的なことが生じてしまうこともあるからです。
そういうとき、先送りによって、時間を稼ぐことが助けになります。時間は心の良薬です。激しい怒りは時間を置くことでマイルドになっていきますし、人間関係は時間を経る中で落ち着くべきところに落ち着いていきます。問題と向き合うのは、そうやって余裕ができてからでも遅くない。ですから、ヴェールがきちんと存在してくれると、心は助かります。
それでは、この失われてしまったヴェールとは一体なんだったのでしょうか。つまり、コロナは私たちから一体何を奪っていったのでしょうか。
これを私は人と人との間で交わされていた「ケア」だと考えています。ケアとは相手のニーズを満たすことを言いますが、体を同じ場所に置いておけた頃、ケアは私たちの間でこまめに交わされていました。たとえば、あの不仲の両親は職場で雑談をしたり、飲み会に行ったりすることで、ケアされていました。外でケアを得ることで、家庭をギリギリのところで保っていたのです。彼もそうです。教室で授業を受けていると、わからないところは友人が教えてくれたし、廊下で心配した教師から声をかけてもらえることもありました。そういうケアがあることで、かろうじて授業についていくことが可能になっていました。
つくづく体は便利だと思います。何に困っているのか、言葉にするのが難しいときでも、体があればモジモジしているだけで、相手に心配してもらうことができました。体は飛沫をまき散らし、ウィルスを運ぶ危険なものでもあるけれど、同時に効率的にケアを運ぶ高性能の乗り物でもあったわけです。
そういうケアの交わしあいが、危ういバランスではあったにせよ、日常をギリギリで成立させていました。だけど、コロナはケアを奪い去ってしまいました。すると、私たちはむき出しになった問題と直面せざるを得なくなり、傷つき、ときに打ちのめされてしまいます。カウンセリングで私が聴いていたのは、その果ての話だったのです。
まとめましょう。新型コロナウィルスが心に与えた影響は間接的なものでした。小さなケアたちが奪い去られることで、以前から存在していた問題が顕在化してしまいました。私たちはコロナの時代に孤独になったと言われますが、それはコロナが孤独をもたらしたのではなく、以前から存在していた孤独を誤魔化しようがなくなってしまったということだと思うのです。
ですから、必要なことは、以前なら体でやり取りしていたケアを、言葉で置き換えることです。大変なことです。体ならば簡単にやってのけられたことを、言葉でやるのがどんなに大変なことか。同じ職場にいれば、同僚の不調は目で見てわかりましたし、廊下で「大丈夫?」と声をかけて、一緒に居ることができました。ですが、体がそこにないならば、メールやメッセージでいちいち調子を尋ねないといけません。同じように苦しいときには、それをいちいち言葉にしないと伝わりません。膨大な労力をかけないと、ケアを交し合うことができなくなってしまったのです。それでも、その労力をかけることには報酬があります。かけた労力の分だけ、人は自分が気遣われていると感じるからです。ここにケアの本質があります。
グローバルなパンデミックに比べると、心はあまりに小さいものです。そして、そういう小さな心を支えるものも小さなケアであれば、損なうものも身近にある小さな人間関係です。そういう小さきものたちを見失いやすくなったことこそが、コロナの時代であったと私は思っています。