「育ち」というのは差別的だと思っていたが

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世の中ではあまり説明されないことがある。
言葉で説明してはまずいから言わないということはあるわけである。
道重さゆみちゃんがモーニング娘。のリーダーとして任されていたことは、モーニング娘。の育ちの悪い体質を一掃し、育ちのいいメンバーに入れ替えることであった。
これは決して口に出しては言われない。
育ちの悪いメンバーの撲滅とか露骨に言うなら差別と批難されるであろう。
だが、もうモーニング娘。には家がお金持ちのメンバーしか入らなくなった。
言うまでもなく、貧困層から芸能界に入ってくる人間はトラブルメーカーになる確率が高すぎるし、モーニング娘。はまさにその代表例だったのだから、完全に体質改善したのである。
人気は横這いだが、それなりに維持出来ているのは、体質改善に成功したからである。

貧乏人のトラブルメーカー体質というのは直しようがないのである。
はるかぜとか有村悠さんとか、どれだけ言ってもその衝動的な性格が治らない。
有村悠さんなどは東大に合格までしているのに、まったく勉強しないし、歴史の勉強さえすれば東大文学部西洋史学科の卒業証書をもらえるという条件であっても、絶対に本は読まないという育ちの悪さを貫徹して中退したわけである。
読書は損であり、読まずに済ませられるなら得だという底辺家庭の思考なのである。

この何が何でもトラブルを起こすとか、東大の卒業証書を破り捨ててでも本は読まないとか、こういう貧乏人特有の性質を見せられると、やはり「育ち」で人を選別するのは致し方のないことなのである。
生涯治らない病気なのだからやむをえない。
養護施設を豪華にするというアイデアもあり得るが、これは育児放棄の蔓延に繋がるから、家庭環境の悪さを軽率に税金で解決するわけにもいかない。

育ちのいい人間が最高の人物というわけでもない。
昭和天皇は近衛文麿に「あいつは表面はいいことを言ってるが実行しない」とか「近衛はなんか都合のいいことばかり言ってるね」という類の愚痴を結構言っているわけである。
その昭和天皇もまさに傍観者体質であり、なんか育ちのいい人間特有の業病とも感じるわけである。
細川護熙は近衛文麿の孫であるが、かつてはすごい人気があったわけである。
だが、どこかしら無責任であり、政権も簡単に投げ出した。
育ちのいい人間は、めんどうなことから逃げる体質があるように思われるし、トラブルだけは絶対に起こさないというのが生存戦略なのである。
この責任感の弱さは、家が金持ちであるという理由であまり表面化しないし、また四六時中トラブルばかり起こしている貧乏人よりは遙かにマシであるから、やはり育ちのよさこそ素晴らしいとなるのである。

貧乏人がやたらと自己責任と言われるのは、ある種の責任感の強さを見抜かれていて、そこを突かれているのである。
無責任な金持ちだからこそ、貧乏人の責任感に訴えることが出来るのだ。
この世の中には、責任感の強い真っ当な人間というのはほとんど存在しない。
やたらとトラブルを起こすか、やたらと面倒事は避けるか、どちらかなのである。
育ちのいい人間はやたらと印象がいいのだが、肝心な場面では責任回避するので、あまり賞賛するべきではない。
有村悠さんやはるかぜに比べたらマシというだけで、育ちのよさはそれほど素晴らしくないし、ただひたすら無難にやっているだけなのである。

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