ビル・ゲイツ、野望の達成
123便撃墜事件の恩恵を最も受けたのは、もちろんマイクロソフト社のCEO(当時)、ビル・ゲイツです。
難航していたウインドウ型のOSの開発が、一部トロンのプログラムを取り入れることであっさり終了し、85年11月、マイクロソフト社初のウインドウ型OSである、windows 1.0 が発売になります。
これ自体はあまり使い物にならなかったようですが、「無料の」OSである、トロンを市場から締め出すことに成功したマイクロソフト社は、次々とシェアを伸ばし、アップル社以外のほとんどのパソコンに自社OS(もちろん有料)を標準装備とすることに成功します。
90年に発売されたwindows 3.1 がそこそこヒットし、95年に出したwindows 95 が、爆発的に売れ、ついにビル・ゲイツは世界一の億万長者の地位に上り詰めることになります。
一世を風靡したマイクロソフト帝国は、日本航空123便の乗員・乗客520名の犠牲の上に築かれた、砂上の楼閣であるということができるでしょう。
中曽根康弘首相の苦悩
さて、ここで改めて、日本航空123便撃墜事件が、日本社会に与えた影響について考察してみましょう。
この事件にはアメリカ軍とともに、自衛隊が関与しています。自衛隊は軍隊ですので、命令によって動きます。自衛隊に命令を下した人物がいるということです。
当時の首相は中曽根康弘氏です。中曽根首相がどこまでこの事件に関与しているかということですが、ネットにはさまざまな説が飛び交っています。
いちいちすべてを上げることはしませんは、大まかに言って、最初から中曽根首相が計画し、自衛隊に命じて実行させていた、という説と、途中から中曽根首相が関与し、自衛隊に証拠隠滅をさせた、という説に分かれます。
最初の説の場合は、中曽根首相は最初からDSで、自らの意志で、日本を売り渡したことになります。2番目の説の場合は、中曽根首相はDS(ディープステート)にはめられ、弱みを握られてしまい、アメリカの要求を断れなくなったということになります。
中曽根首相の政策と言動を見る限り、私は2番目の説をとりたいと思います。
中曽根首相は、海軍出身で、ボルネオのパリクパパン沖海戦に従軍し、目の前で部下の戦死を目撃しています。
82年の首相就任後も、8月15日に靖国神社に参拝したり、教育基本法を可視性して日教組の分裂を誘発させたり、防衛費1%枠を撤廃して国防を強化したりしています。
アメリカによる再三にわたる、ドル切り下げの要求もかわし、85年1月に行われた蔵相会議でも見事にアメリカの要求を蹴り飛ばしています。
さらにはアジア通貨圏構想を発表し、経済的な第2次大東亜共栄圏構想を実現しようとしていました。
これらはすべて、反DS的政策です。特に最後のアジア通貨圏構想は、DSにとって、相当脅威だったと思います。
しかし日本航空123便撃墜事件以降は、翌9月22日に行われた、この年実に3回目の、蔵相会議でドルの切り下げをあっさり容認し(プラザ合意)、国鉄(86年)・電電公社・専売公社(85年)を民営化しました。
また、86年の衆参同日選挙で「ぜったいやらない」と明言した売上税’(のちの消費税)の導入を翌87年に提唱したりしています。
これらの政策は、のちの記事で詳しく解説しますが、すべてDS の利益となる政策です。
この極めて不自然な政策転換の裏には、やはり123便撃墜事件が尾を引いていると考えるのが妥当だと思います。
123便の罠
2つ前の記事で、123便撃墜までの流れをご紹介しましたが、ポイントが2つあります。
一つは、事件当日、123便が羽田を飛び立つ以前にすでに御巣鷹山に自衛隊特殊部隊が配置されていたということです。
これは自衛隊内部にDS将校が潜んでおり、事前にアメリカDSと通じて、部隊を展開していたことを意味します。
もう一つは、事件の発端となった最初のミサイルが、アメリカ軍ではなく、海上自衛隊の護衛艦まつゆきから、発射されたということです。
もちろん、まつゆきの調整をしていたアメリカのDS技師が、操作してわざと命中させたのですが、こんな回りくどい方法をとったのは、中曽根首相を罠にはめるのが目的だったと考えられます。
すでに述べましたが、ミサイル命中直後の海上自衛隊上層部はパニック状態で、ミサイルを誤射して民間機に命中させてしまった、という認識でした。
この情報は防衛庁に伝わり、防衛大臣の加藤紘一氏に届き、その後中曽根首相に伝達されます。
中曽根首相は相当困ったと思います。当時は今と異なり、左翼の勢力が格段に強い時代でした。また80年を境に、マスコミの力が強まり、様々な捏造報道で、世論を誘導するようになっていました。
たとえ単なるミスだとしても、自衛隊のミサイルが民間機にあたって墜落し、犠牲者が出たとなったら、左翼及びマスコミが自衛隊反対の声を上げ、自衛隊の存続そのものが危うくなってしまうと判断したのだと思います。
そのため、中曽根首相は、123便墜落直後に、自衛隊が123便に関係した他の機体のの回収を行い、証拠を隠滅することを追認したと思われます。
しかし、生存者の〇却については、最後まで悩んだと思われます。
事件当日夜9時30分ごろ、加藤紘一防衛大臣がヘリで現地を視察しています。
そして、深夜の0時5分、緊急連絡会議が招集されました。出席者は、中曽根康弘首相、加藤紘一防衛大臣、および航空、陸上の各自衛隊幕僚長です。
どうやらここで中曽根康弘首相は、腹をくくったようです。中曽根首相が発した命令は、「徹底的な証拠隠滅」でした。
これは深夜になってから行われたようなので、生存者の〇却は中曽根首相の命令が発せられたあとに行われたと思われます。
これは、機体の回収に当たった自衛隊員とは別に、これ専用の任務を帯びた特殊部隊約90名によって、朝方5時までかかって行われました。
DSの罠にかかった中曽根首相は、一夜にして、一気に闇に飲み込まれてしまったというわけです。
アメリカによる脅し
中曽根首相はなんとか、証拠の完全隠滅に成功し、事件と自衛隊の関与は一切報道されることなく、闇に葬り去られました。
自衛隊の存亡の危機は回避されたわけですが、事の一部始終はアメリカ軍に把握されてしまっていました。
中曽根首相はこれ以降、アメリカの意に反する行動をしようとすると、
「123便の件をばらすぞ」と脅されることになってしまったわけです。
実際、あれほど粘りに粘って拒否していた、ドルの切り下げを、一か月後の9月におけるプラザ合意であっさり認めてしまいます。
この時から首相を退任する87年までの間、中曽根首相は以前とは正反対のDS型経済政策をとり続け、日本経済を国際金融資本家が利益を上げることのできるグローバル型のスタイルに変えていってしまいます。
中曽根康弘首相は、本人の意思に反してではありますが、日本国をDSに売り渡す、最初の首相となってしまったわけです。
自衛隊のけじめ
事件直後から、自衛隊員の自殺が急増し始めます。通常は自衛官の自殺は年10人程度なのですが、この年は8月から10月にかけてなんと90人。
これはちょうど、証拠隠滅に当たった特殊部隊の数と一緒です。
自殺現場の写真を見ると(諸般の事情で写真は掲載しませんが)、踏み台のない状態で自衛官が2メートル以上の高さでずらっと一列に吊り下げられているのがわかります。
こんな方法で自殺ができるわけがありません。これは明らかに、事件にかかわった特殊部隊員を〇刑したものと思われます。
自衛隊は軍隊なので、DSに通じた上官が一人いれば、部隊を指揮して自国民を〇にかけることができてしまいます。
この時自衛隊は、事件そのものは隠蔽しますが、事件にかかわった隊員は確実に〇刑します。
自衛隊の総意としては、自国民に〇をかけることは絶対許さないという姿勢であることがわかります。
のちの記事で述べるように、123便事件以外にも、意図的にせよそうでないにせよ、自衛隊が自国民を〇してしまった事件は何件かあります。
そのたびに、ヘリが墜落したり、航空機が落ちたり、砲弾の誤射(?)があったり、自殺者が増えたりして、事件に関与した隊員が全員〇亡しています。
私はこれが自衛隊なりの、けじめのつけ方なのだろうと理解しています。
トロンのその後
トロンにとって不幸中の幸いだったのは、考案者の坂村健教授が、123便に乗り合わせることなく、ご存命であることでした。
坂村教授はその後もアメリカの度重なる妨害をかいくぐり、無料OS、トロンの改良と普及に努めました。
90年代から2000年代前半にかけて、トロンは携帯電話の分野に進出します。ここはDSアメリカのIT企業の盲点だったのです。
この時代の多機能携帯電話(いわゆる「ガラケー」)の70%に、トロンが使われていた時代もありました。
しかしここもDSに見つかってしまい、ガラケーからスマホに切り替えるにあたって、DS企業のOSが次々に採用されていき、トロンのシェアは20%程度まで落ち込みます。
ここで坂村教授が考えた次の手は、DSの手先のIT企業がまったく目が届いていなかった分野、すなわち家庭電器の組み込みOS分野でした。
みなさんの家のエアコンや、電子レンジ、洗濯機や掃除機、テレビのリモコンなどは、エレクトロニクス制御されてますよね?
その制御の基礎となるOSの分野に、トロンが進出し始めたのです。
結局日本製の家電のほぼすべて、世界的に見ても実に60%の家電に、トロンが組み込まれ、電子制御が実現しているわけです。
みなさんが今手に取っているリモコンにも、きっとトロンが入っていることでしょう。