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SNSを利用する際、自分と似た興味・関心をもつユーザーをフォローする結果、意見をSNSで発信すると自分と似た意見が返ってくるという状況をエコーチェンバー現象と言うそうだ。現代のネット上ではこれが非常によく見られる。無自覚のまま、閉鎖的なクラスタに染まり、攻撃的になる人もいる。中傷文化に親しみ過ぎて過ちを犯さないために気をつけたいこととは。(取材・文/鎌田和歌)

大河ドラマの歴史考証から降板

ネット上で調子に乗ったツケ

 ベストセラー『応仁の乱』の著者であり、気鋭の若手歴史学者と評されることの多かった呉座勇一氏が、来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の歴史考証から降板することが明らかになったのは3月23日。

 ツイッター上で女性学者らを長年にわたって中傷したことが明らかになり、その責任を取って、自らの降板だった。

 その後も、呉座氏が所属する国際日本文化研究センターがホームページ上で謝罪(3月24日)、日本歴史学協会が再発防止に向けて取り組むことを明らかにする声明を発表(4月2日)、さらにこの問題を憂慮する研究者やメディア関係者の有志が「女性差別的な文化を脱するために」と題したオープンレターを発表し(4月4日)、賛同が集まっている。

 呉座氏本人への批判については、問題となってからすでにいくつかの論考が出ているためこの記事で深く取り上げることはしない。

 本稿で考えたいのは、彼が陥ったであろう、ネット上の「エコーチェンバー」と呼ばれる現象についてである。

「エコーチェンバー」という言葉は、本来音楽の録音をおこなうための残響室という意味だが、ツイッターやフェイスブックなどのSNS上で、自分と似た興味・関心をもつユーザーをフォローする結果、狭いコミュニティーになり、自分と似たような意見ばかり見聞きし続けて、偏ってしまうことも指すようになった。

 この「エコーチェンバー」のわなにかかると、「今さら何が問題なのかわからない」となってしまいがちだ。どういうことか。

問題を指摘する人と「何が問題かわからない」人

 呉座氏は長年、鍵をかけたアカウントでツイートを行っていた。

 ツイッターは基本的にフォロワー以外の人やツイッターアカウントを持っていない人でもどのようなツイートを誰が行っているか確認することができるが、鍵をかけると、自分が承認した相手以外からはツイートを見ることができなくなる。

 とはいえ、呉座氏には当時3000人近いフォロワーがいて、彼らにはそのツイートが確認できる状態だった。

 そんな中、呉座氏が鍵アカウントから数年にわたって中傷をしていた相手の一人である女性研究者の北村紗衣氏が中傷に気付き、ツイッター上で抗議を行った。

 その後、呉座氏が自分の鍵を外したことで、過去のツイートやリツイート、あるいはどのようなツイートに「いいね」をしていたかが誰からも確認できる状況になった。

 そのツイートがまとめられると(このまとめは現在削除されている)、その内容に驚き、あきれる反応を示す人が多くいた。複数の男女に対して、嫌悪感をあらわにし攻撃の対象とみなすようなツイートが多かったと筆者は感じた。

 一方でそれらのツイートを見ても、「何が問題なのかわからない」「別に変なこと言っていないでしょ」と、疑問を呈している人たちもネット上にはいた。

 つまり、呉座氏のツイートは批判には当たらないとする人たちだ。ただ、呉座氏自身が批判を認め謝罪をしていることもあり、こういった意見は現時点では多数派には見えないのだが、一方でこれまで中傷・揶揄(やゆ)・嫌がらせなどが黙認され、「ネットなのだからしょうがない」と許容されてきてしまったのは事実である。そのようなネット文化に浸かってきた層からすれば「今さら何が問題なのかわからない」となるのであり、その風潮をいいかげん変えようとする人たちの試みが、声明やレターである。

ツイッターは今や2ちゃんねる

 前述したオープンレターの中には、呉座氏が相互フォローの仲間と一緒になって特定の相手への「攻撃」や「中傷」を楽しんできた様子が、次のように説明されている。

たとえば誰かが、性差別的な表現に対して声を上げることを「行き過ぎたフェミニズムの主張」であるかのように戯画化して批判すると、別の誰かが「〇〇さんの悪口はやめろ」とリプライすることがあります。こうしたやりとりは、当該者個人を貶めるために、「戯画化された主張を特定個人と結びつける」手法としてパターン化されています。そこには、中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化が存在していたのです。

 ネット上の、特にツイッター上ではよく見かける光景である。ツイッターはオープンなように見えて、実はさまざまなクラスタがある。特定の趣味や嗜好、あるいは思想を持つ者同士でつながっていて、そのクラスタならではの常識やルール、マナーが存在する。頻繁に使用される言葉も、クラスタによって違いがある。

 そういったマナーや、一部だけで好んで使われるスラングが、ただの娯楽に用いられているのであれば全く問題ない。

 問題なのは、一部のクラスタでは、特定の個人に対する攻撃や中傷があたかも正義であるかのように行われていることだろう。ここまで書けば、昔からネットに親しんでいる人ならわかる通り、昔の2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)で行われていたことが、ツイッターの一部では行われている。

 2ちゃんねるで、特定個人に対するアンチスレッド(アンチスレ)が立ち上がり、「アンチ」が集結すると、その個人のネット上での行動(ときにはリアルの言動も)は逐一監視・報告され、あげつらわれていく。

 一時期、アンチの多かったママタレントが、「イチゴに練乳をかけて食べただけで炎上」したようなケースでもわかる通り、アンチというのはもはや対象が何をしても憎いので、すべての言動に落ち度を見いだそうとする。「そのぐらいはいいんじゃない?」「やり過ぎでしょ」などとたしなめようとする人には、「ここはアンチスレだから擁護したい人は出てって」となる。

アンチスレの「エコーチェンバー」がツイッターでも

 2ちゃんねるのアンチスレをのぞいたことがある人ならわかるかもしれないが、特に自分が嫌っていた人物ではないのに、書き込まれるコメントを眺めているうちに、本当にその人物がとんでもなく嫌なヤツに思えてくることがある。

 ささいな言動をあげつらって「また自慢してるよ」と書いてあれば本当に自慢しているように見えてくるし、「友人が実際に会ったらしいんだけど、そのときにこういうことがあって嫌いになったって言っていた」などという真偽不明の書き込みでも、さもありなん…と思う心境になってくる。非常に危険な心理だと思う。

 さらに、恐ろしいのは、自分の読みたい情報がそこに書かれていることが人間にとって「快感」である事実である。アンチスレをのぞいて特定の人物を攻撃する書き込みを「楽しい」と感じてしまうと、毎日のようにそのスレに通ってしまう。

 ツイッターは匿名掲示板のアンチスレではないが、「いいね」や「RT」で自分のツイートへの賛同者が見えやすい分だけ、次第に誰をどんな風に攻撃すれば支持されるのかがわかりやすい。

 その中に誤解や誤認があったとしても、特定人物を中傷・攻撃することの方がそのクラスタにとっての「正義」であるので、誤りの指摘は喜ばれないしスルーされる。

攻撃的なクラスタに見られる特徴は

 引用した文章の中で「お決まりの遊び」とあるが、このほかにも特徴をまとめてみる。ツイッター内でエコーチェンバーのかかったクラスタは多々あるが、その中でも攻撃的なクラスタに見られる特徴である。

(1)その対象が攻撃される理由について説明が省略される

 攻撃対象となる人物や思想があらかじめ決まっているので、それが出てきた瞬間に「たたいてよい」ことが確定している。クラスタ内での説明が不要であるため、「またお前か」「はい解散」など、少ない文字数で相手の存在を無効化するほどクラスタ内ではウケることがある。

(2)攻撃対象の言動を比喩によって誇張する

「顔真っ赤」「ヒステリー」「ぶったたく」「死体蹴りする」「火をつける」「人を焼く」「リンチ」「ナチス」「殺した」など、自分が攻撃したい対象の発言について過度な誇張を行う。逆に、自分たちが行っている攻撃については「やられたからやり返す」「そうか、それなら戦争だ」などと正当化する。

(3)相手が「対話」しないと主張する

 仲間内で中傷や揶揄を繰り返しておきながら、中傷や揶揄を行った相手に対話や説明を求める。相手がそれに応じないと、不寛容、不誠実だと言い立てる。

 ネット上で行われる「お決まりの遊び」は、そのクラスタ内では楽しいものなのだろう。しかしそこで行われているのは少なくとも、課題解決につながる議論ではない。

 ここ数年、ネット上で見られる「お決まりの遊び」の多くは、課題解決を望んで発信を行う人たちに対して、課題解決のための議論と見せかけて単に足を引っ張る目的で行われてきたように見える。そうでなくても、匿名掲示板の退廃的な文化が今でも幅を利かせていることを憂慮する。このような不毛な状況が改善され、中傷や中傷の扇動が少しでも減ることを願わずにはいられない。

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