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死んだらどうなるの?
1
:
ななし
:2011/05/13(金) 00:14:35
死んだらどうなるんでしょう?
サイト内全部読んでないですが、それだけ知りたいです。
2
:
メビウス@管理者
:2011/05/14(土) 01:09:59
人間は死にません。
というのは、死という言葉を「亡くなる」と定義した場合です。
亡くなるとは一般的に無になるというイメージで捉えられています。
しかし肉体を構成する物質は他の元素に変化するだけです。
そして精神はデカルトのいうように、
「私は何であるか知らないが、何か在るものである」ことは間違いありません。
いくら疑っても、疑ってる何かが在るのは事実ですから。
なあばパルメニデスがいうように、無いものが在るものにはならないし、
在るものは無いものにもなりません。
3
:
メビウス@管理者
:2011/05/14(土) 01:14:00
>>2
>なあばパルメニデスがいうように
誤字失礼。正しくは「ならばパルメニデスがいうように」です。
もちろん、死という言葉を「神の下に召される」と定義する人もいるでしょうが、
本当にそんなことを信じてる人ならこんな掲示板で質問しないでしょうから、
一般的な死のイメージで私なりに回答させて頂きました。
4
:
メビウス@管理者
:2011/05/14(土) 21:21:46
しかし、戸籍と固有名詞で規定される個別的「人間」は消えてなくなる。
これは事実でしょう。
精神はその個別的な人間には帰属しないと見做すのが、私が信じてる
遍在転生観――梵我一如の思想のわけです。
5
:
メビウス@管理者
:2011/05/15(日) 16:05:58
>>4
の書き方は正確ではなかった。
私の死生観は遍在転生観に近いけれど、
存在論的にはパルメニデス――エレア派に近い。
梵我一如は似て非なるもの。
6
:
名無しさん
:2011/05/24(火) 00:21:29
哲学とは人間を特別視し過ぎていると僕はおもうね。
欲求も虫とでさえ同じ様にある。
人間は少し賢いだけで、虫と比べてもそれほどの違いは感じない。愛も欲求 大切にしたいという欲求
欲求の中に善と悪があり(まさに心の中)それを分けて認識しようとは、えらいご都合よろしいですね。
人間以外は、善悪味噌クソ状態の世界をありのまま受け入れているというのに選択の自由ばかり主張している。
その選択肢 自由 治安はみんなが努力した結果の 決して絶対ではない最良の状態だというのに自身のプライドばかり大切にする。
すぐにでも崩壊してしまうかもしれない幸福社会システムに有頂天になっている。
虫とかわらない存在者が有頂天になっている
7
:
メビウス@管理者
:2011/05/24(火) 01:26:02
>>6
さん、いくらか同意。
特に西洋哲学が人間を特別視するのは「自我」についてのこだわりがあるからでしょう。
自我を特権的なものとみなすことから、自我を持たないとされる動物との間に絶対的な
壁を作ります。デカルトは自我=魂を持たない動物は一種の「機械」とみなしました。
心の哲学においては、まず自我の存在を前提として思索を始めるために困難に直面する
のだと思います。
参考までに、自我へのこだわりを捨て、動物の心について考察したのが以下のページです。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/116.html
8
:
名無しさん
:2011/05/29(日) 21:13:15
性をもつ動物は死ねるという話を聞いたことがある。
それによると、死ぬことができるのは遺伝的なレベルの問題であって、
死ぬことによって弱い遺伝子を淘汰し、
強いものが生き残れるように仕向ける、ということだそう。
もちろんこれは「死んだらどうなるのか」、
という問いにきちんと答えてはいないんだけど、
こういう発想の哲学があったら教えて欲しい。
9
:
〃
:2011/05/29(日) 21:14:13
「遺伝的なレベル」じゃなく、「遺伝子レベル」と言ったほうがいいかな。
10
:
メビウス@管理者
:2011/05/30(月) 00:24:36
たぶんリチャード・ドーキンスの利己的遺伝子ですね。
生物は遺伝子のキャリア(乗り物)にすぎず、個としての生物は死んでも
遺伝子は生き続けるという考えですが。
この説は擬似科学だという批判もあります。ダーウィンの自然淘汰説の
正統な解釈なんですがね。
心の哲学には関係が無い分野ですが、素朴実在論的には意味があります。
多くの人は、自分は死んでも自分の子や孫が「自分の血(遺伝子)」を
引き継いでくれる、という想いに縋って死を迎え入れていることは事実です。
哲学的には、遺伝子なんて無意味ですが。
11
:
〃
:2011/05/30(月) 00:38:12
確かに、遺伝子レベルでの死を扱うことは、
哲学の振る舞いとはかけ離れたものがありますね。
ただ、そのようにして、哲学的な意味での死と、
生物学的な意味での死を分離してしまうことで、
死の問題の解決から遠ざかることはないでしょうか。
まあ、ベルクソンのように、
哲学に実証主義的な性格を取り入れようとしても、長続きせず、
後継者が現れない、という危険はあるのですが。
12
:
メビウス@管理者
:2011/05/31(火) 00:14:21
哲学的な意味での死と、生物学的な意味での死を一致させるのが実存主義なわけですが。
キェルケゴール、ニーチェ等、彼らは素朴実在論と見ることができるかも。
竹田青嗣は実存主義のエッセンスが現代思想に引き継がれているため、彼らを高く評価
してるんですが。
ニーチェのツァラトゥストラには、若い頃は無神論であったが死を間近にした老人が
翻心し、神に祈るのを批判する描写があります。私はその描写を見てニーチェの限界を
見たような気がします。
キェルケゴール流にいえば人は「死に至る病」からは逃れられません。つまり形而上への
問いは実存の根幹なはずで、そこからキェルケゴールは再帰的にキリスト教を評価するわけ
ですが、現代の人々にとっては、キリスト教の代替となるのが心の哲学だと考えます。
13
:
名無しさん
:2011/07/05(火) 22:22:30
正義は暴力だ
社会的な力のある者だけが真実でも偽りでも暮らせる
力ある者が他者に真実を求める
真実なんて弱者 貧困者には暴力そのものだ
嘘 ごまかし くらませなければ普通の暮らしさえ叶わない
これが理解できない者は自立したことのない子供だけだ
哲学の意義=真実 それは違う
哲学は宗教と倫理 道徳的に推し進めるのが本来だ
邪を断ずるのみではない 正義だけでは不完全だ
道徳 倫理 これも必ずしも正義である必要はない というよりグレーゾーンを認めなければ成り立たない
資本主義が悪をつくっている
悪に仕立てあげられている
悪はほんとうにワルいか?
生き物としての正常な反応をワルいといえるの?
正義のお金持ちは立派なのか?
14
:
名無しさん
:2011/07/06(水) 20:36:01
お金があるから正義面できる
お金がない人間がセコいズル賢く計算高い これ当たり前だよ
心が、思いやりが重要なのは誰もが分かっているようだが
真の思いやりは金なんだよ
現実を誤魔化すな
臭いもの見たくないものにフタをするな
創られた世界観の中で、少々の価値を生んだものを手にした
金持ちなんてそんなものだ
ゲームじゃねーんだからよ
遊びじゃ済まねーんだからよ
価値観や世界観が公正なものか疑えよ少しは
決められたものばかり
創作に過ぎないものばかりなんだぞ世界は
絶対普遍なものは仲良しでなければ存続しないってことだけだ
15
:
メビウス@管理者
:2011/07/07(木) 00:54:00
共同体や個人の数だけ正義や道徳があるけれど、
強者の正義がその時代における正義の「標準」になる。
これは当然だけど、問題なのは弱者の価値観がその強者に対する
反動として歪んだ形で現れるということ。
それがニーチェの洞察で、この場合の「歪んだ形」とはこの世に
絶望したゆえ来世に自己の可能性を見出そうとする「彼岸主義」とも
呼ばれる価値観です。
彼岸主義に陥るぐらいならば支配的な正義を否定して、この現実での生を
可能な限り謳歌するべきだというのは、相対主義が到達した見地ですね。
16
:
名無しさん
:2011/07/22(金) 20:35:56
>>2
いまいちよくわからないんですが、
有名な三段論法
1、ソクラテスは人間である
2、人間は死ぬ
3、ソクラテスは死ぬ
というのは間違いなんですか?
17
:
メビウス@管理者
:2011/07/24(日) 18:11:32
>>16
そもそも「人間」という概念が言語上の概念に過ぎないという考え方です。
つまり「人間」や「私」という概念は個別の心的現象(クオリア)に還元できる。
しかしクオリアはそれ以上還元不可能です。
したがって「在る(クオリア)は無いものにはならない」というのが結論です。
18
:
メビウス@管理者
:2011/07/24(日) 18:17:01
別の言い方をすると、「死ぬ」とされる「主体」がそもそも存在しないのだから、
「(私)が死んだらどうなる」というのは空虚な問いだともいえます。
これはインド哲学の「無我」に近い考え方ですが。
ちなみにパーフィットもこの考えに接近してますね。
19
:
名無しさん
:2011/08/10(水) 10:27:28
興味深い議論でしたので、
横からすみません。
メビウスさんは
>>2
で
> 疑ってる何かが在るのは事実
と仰っていますが、つまり「疑ってる何か」は「存在」しており、
>>18
での主体にはなり得ないのでしょうか?
>>16
の言い換えを
>>17
で行っていますが、
「疑ってる何か」⊂「クオリア」ということでしょうか?
何れにしてもこれらが「存在」している肉体(特に脳)と
強く相関があることは同意頂けますでしょうか?
そうなると、肉体の死(死=亡くなる)に相関して、クオリア或いは「疑っている何か」も
ある種の「肉体の死に連動した状態」或いは、
「肉体の死に連動したクオリアの発生 (又は、クオリアが発生しなくなる)」が起こるのではないでしょうか?
>>1
さんは、このような疑問を持たれているようにも見えるのですが如何でしょうか?
質問に至らないところがありましたら、すみません。
20
:
メビウス@管理者
:2011/08/11(木) 01:46:50
>>19
人間という概念が言語上の概念に過ぎないから
>>16
での「人間」という「主体」は存在しない、という意味で書きました。
たしかに
>>2
の「疑ってる何か」とは「クオリア」の意味で書いてます。
そのクオリアは「肉体の死に連動」して「発生しなくなる」よう見えます。
しかし、それは「みかけ」だけに過ぎないだろう、というのが私の考えです。
「在るものは無いものにならない」という原則があります。
物質的なものは無くなった様に見えても他の元素や素粒子に変化するだけです。
クオリアはどうでしょう? やはり無いものにはならないはずです。
しかし、クオリアは他の何かに還元することが想定困難で、現代の心の哲学でも
クオリアの由来については、物理主義では「創発説」、自然主義的二元論では「汎経験説」
によって説明しているのですが、いずれも因果的な説明として成り立っていません。
このことは「心の哲学におけるパルメニデスのアポリア」として書いてます。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/96.html
#id_e3265361
ちなみにフッサールは物的なものと心的なものの差異を重視し、
心的なものについては「それは、それによってそれ自身として現れる」
と、還元不可能性を強調し、そこからイデア論じみたことを言っていたり……。
問題の核心は結局のところ時間と空間の実在性にあると私は思っていて、やはりパルメニデスや
アウグスティヌス、スピノザが正しいんじゃないかと考えますが、まあ、時間の非実在性は
論証が不可能なことでもあります。これは信仰みたいなものです。
結局、論理的にはクオリアは「在るものは無いものにならない」けれど、
現に「生成変化しているように見える」という二つの事実は解決困難なアポリアとして
残るんだろうなと思います。
21
:
メビウス@管理者
:2011/08/12(金) 00:14:30
別の見方をしてみます。
仮にクオリアが「肉体の死に連動」して「発生しなくなる」とします。
しかし、ヒューム=パーフィットのような立場では、自己は「知覚の束」
であり、昨日の自分と今日の自分の同一性も恣意的に決まることになります。
極端に考えれば、私はクオリアが消滅するごとに死んでいるとも言えるし、
同時に新たなクオリアと共に生まれていると言えることにもなります。
そして主体を知覚(クオリア)に置き換えれば、自我と他我の境界も曖昧な
ものになります。今私が「我思う」と思って、1時間後はゲームに夢中に
なって何も考えていないとします。その同時刻、他の人物Bが「我思う」と
思ったのなら、今の「私」と同一なのは人物Bの方である、と考えることもできます。
上記の思考実験は心理的連続性を重視するパーフィットの正当な解釈ではあり
ませんが、還元主義を極端に解釈すればそのようにも考えられるということです。
22
:
名無しさん
:2011/10/02(日) 20:14:49
>>21
なぜ私が人物Bになるのかイマイチ分かりにくいのですが。
私がそのまま居ながら人物Bになるという解釈ですか?
23
:
メビウス@管理者
:2011/10/03(月) 00:23:28
>>22
仮に私が今、「私は実在する」と思っているなら、
その「私は実在する」という意識現象こそが「私」であるとみなします。
そして五分後、「お腹がすいた」と思ったなら、その意識現象は
五分前のものとは別の意識現象であるとみなすのです。
これが
>>21
で書いた、私はクオリアが消滅するごとに死んでいるとも言えるし、
同時に新たなクオリアと共に生まれていると言える、ということです。
このような立場を還元主義ともいいます。自己を個別の意識現象に還元するからです。
このような考え方には、「私は実在する」と「お腹がすいた」は同じ主体の
経験である、という反対意見があります。つまり自己や自我とは、個別の意識現象
や物理現象に還元できないという考え方で、これを非還元主義ともいいます。
しかしその非還元主義を否定する強力な思考実験があります。
デレク・パーフィットによる堆積のパラドックスを応用した脳細胞の置き換えです。
仮に私の脳細胞を少しづつ他者のものと置き換えていくとします。
では、何%の置き換えで私は私でなくなるのでしょう?
パーフィットはまた脳分割の思考実験も行っています。
人間は脳を二つに分割しても理論上は生きていけるそうです。
では、私の脳を左右に分割して、それらを二人の人物に移植したら、
二人のうちどちらが私になるのでしょう?
非還元主義の立場では合理的に答えることができません。
24
:
メビウス@管理者
:2011/10/03(月) 00:38:03
従って還元主義が正しいと私は考えます。
魂のような「通時的な主体」が存在しないならば、今「私は実在する」と思うのと、
明日「私は実在する」と思うのは、別個の意識現象ということになります。
脳細胞は日々変化してるのだから、完全に同一の意識現象は再現されません。
つまり、今の「私は実在する」と明日の「私は実在する」は、タイプ的には
同一であるけどトークン的には異なるのです。
ならば、人物Bという他者がいて、彼が三年後「私は実在する」と思ったなら、
その意識現象はタイプ的に今の私の「私は実在する」と同じものであり、
それゆえ
>>21
で書いたように、人物Bになるとみなせるのです。
25
:
メビウス@管理者
:2011/10/03(月) 00:52:30
元より現在の哲学者で非還元主義の立場をとるものは非常に少ないのですが、
パーフィットの思考実験はその非還元主義に致命傷を与えたと考えています。
バーナード・ウィリアムズは「記憶を失っても痛みを感じるのは自分だけ」
というような「肉体説」を主張しています。これもパーフィットの思考実験
には合理的に答えられないでしょう。
日本では永井均が非還元主義的な主張を行っていますが、パーフィットの、
自分の複製体ができてしまう思考実験にたいしては、どちらが本物の自分で
あるかは「まったくの偶然」によって決まるといいます。(『転校生とブラックジャック』)
合理的に答えられないのでは敗北でしょう。
26
:
メビウス@管理者
:2011/10/03(月) 01:11:36
なお、人物Aがいて、そのAは1日や2日では性格も変わらないし、
人格も連続しているように見える、という素朴心理学的な見方もあります。
この場合は個別の意識現象ではなく、性格という概念に焦点をあて、
人物Aと人物Bとは、性格がタイプ的に異なるといえます。
パーフィットはこの点に着目し、「心理的連続性」を重視します。
しかし、性格とは存在論的な概念ではありません。
存在論的には、個別の意識現象に焦点を当てざるをえません。
とはいえ、持続しているよう感じられる意識現象とは、どこで分割でき、
どのように構成されているのだろうか、といった心の哲学における
重要な問題は残ったままですが。
27
:
22
:2011/10/04(火) 23:28:37
なんとなく分かってきました。
仏教の無我に近い考え方ですね。
28
:
22
:2011/12/29(木) 20:48:38
分かったつもりにっていたけれど、よく考えるとまた分からなくなった。
管理人さんのウィトゲンシュタインの解説を見て確かにと納得したんですが、
「表象と一致する独我論の私」というのは、表象が変化すれば「私」も変わってしまう
ということでしょうか?
どうもこの辺が具体的に理解し難いです。
私は確かに「今存在し続けている」という感覚があるのですが。
こういう感覚が素朴心理学的な見方なんですよね?
29
:
メビウス@管理者
:2011/12/30(金) 23:08:49
>>28
>表象が変化すれば「私」も変わってしまう
まさにその可能性を指摘したのがバートランド・ラッセルの刹那的独我論です。
ウィトゲンシュタインも「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが
真に見えるものである」と、時制を限定して独我論を表現し、その可能性を
含意させています。
重要な点ですが、現代の心の哲学は自然科学を前提とした「自然主義」のもとで
考究されています。この立場を取るならば時間(変化)は既に前提されており、
脳の物理現象と対応しているクオリア(表象)は変化するものであるという
ことも同時に前提されます。
大半の心の哲学においては自己の概念、つまり「私」についてはパーフィットの
いう還元主義の立場が暗に前提されています。
人格の同一性における還元主義の立場では「私」は個別のクオリアだと考えるしかありません。
しかし、そのクオリアは常に変化しています。従って、
>「今存在し続けている」という感覚があるのですが
とあなたが書いたように、クオリアが常に変化していながらも「私」が同一で
あるよう感じられるのは、確かに安易に解答できない難問であり、実は心の哲学
でもあまり多くは語られていないトピックなんです。
私はデイヴィッド・ヒュームのページにおいて多少この問題に触れていますが、
ジョン・サールやチャーマーズも、この問題については僅かに言及している程度ですね。
30
:
メビウス@管理者
:2011/12/30(金) 23:23:23
なぜ自己意識、または「私」の連続性について、心の哲学が説明に苦慮しているかといえば、
実はクオリアが「変化」しているということを前提としているからであり、
そのクオリアの変化について合理的な説明ができないからなんです。
>>20
で書いたように物理主義では「創発」の概念でクオリアの生成を説明します。
しかし「創発」は因果的な説明を放棄しているに等しいですから、チャーマーズのような
学者は汎経験説を主張してクオリアを「原意識」に還元しようとします。しかしこれも
既述のように因果的な説明として無理があります。
クオリアが変化することに合理的な説明ができないなら、そのクオリアと論理的に
イコールであるとされる「私」の継続性と変化に合理的な説明ができるわけはないのです。
で、ここから先は私の個人的な信仰の問題になってきますが、問題の究明を阻止している
根本的な障害物は、パルメニデスが指摘した「変化」というものの矛盾なのだと思います。
人格の同一性のページで書いたことですが、「人格」概念はクオリアに還元することが
可能ですが、クオリアはそれ以上還元することができません。
ぼんやり海を見ている人には「青」のクオリアがあるかもしれませんが、その海に
巨大な津波が現れるのを見れば「恐怖」のクオリアが生じるでしょう。
しかし「青」のクオリアのどこを探しても「恐怖」のクオリアは見当たりませんから、
「ゼロはいくら足しても乗じてもゼロである」という論理から演繹して考えると
「青」が「恐怖」に変化したというのは単純にナンセンスに過ぎません。
結局、パルメニデスが主張した変化の矛盾を放置したまま心の哲学、意識のハードプロブレム
をいくら考究して仮説を立てたところで、それらは全て砂上の楼閣かもしれないのです。
仮に変化の矛盾を認めて、時間と空間の実在性を否定するならば、その砂上の楼閣を一気に
崩壊させることにもなります。むろん、これは論証が困難ですが。
あるいは、チャーマーズは自身が主張した汎経験説の不合理性を自覚していたからこそ、
情報の二相理論の「It from bit」というくだりにおいて、時間と空間さえも情報内部の
性質である可能性を展望しているのかもしれません。
31
:
メビウス@管理者
:2011/12/30(金) 23:45:37
それにしても、クオリアが変化してるということは因果的には実に不思議な
ことなのに、その点について言及した人物は驚くほど少ない。
古代にはもちろん、パルメニデスやゼノンがいて、中世ではアウグスティヌス、
近代にはマクタガートが時間の実在性に疑問を発していますが。
現代の心の哲学ではこの根本的な問題が放置されている。
放置ではなく、意識のハードプロブレムの核心なんだといえるのかも
しれないけど、論点が間違ってるだろうと思います。
そもそも脳がクオリアを「発生させてる」というのは素朴実在論的な見方。
脳の作用がクオリアを生んでいるよう「見える」といえるだけで、
実証的には脳とクオリアは対応関係にあるということのみが客観的事実なのに。
「見える」ものがそのまま正しいというなら今でも天動説がまかり通ってるはずですw
32
:
愚考
:2012/01/05(木) 01:08:10
飛び入り質問させて頂きます。
メビウスさんは時間と空間の実在性に疑問を抱かれているようです。
カントも確かに時空は直感の形式であると論じて実在性に疑問の余地を
残していると推察します。
しかし時空が実在しない世界とは果たしてどんなものでしょう。
私はこれを具体的にイメージ出来ません。
そもそもカントが論じたように時空が直感の形式として存在するならば、
その直感が存在するという理由によって時空もまた存在するという論法
もあり得ると思うのですが。
もちろん、これには「実在」という言葉の定義にも依るという可能性も
あると思いますが。いかがでしょう?
33
:
メビウス@管理者
:2012/01/05(木) 22:29:32
カントが「形式」と言ったのは妥当な表現であったけれど、確かに
具体的にイメージしにくいですね。
わかりやすく言えば「性質」ということになるでしょう。
これはクオリア・現象的意識の性質ということです。
たとえば、「赤」の性質とはどんなものかといえば、血の色である
「それ」であり、「青」の性質とはどんなものかといえば、澄んだ
空の色である「それ」という表現でしかクオリアの性質は表現できません。
実は時間と空間も同様なんですよ。
コンピューターを搭載したアシモのようなロボットは時間と空間を理解
しているように動作しますが、それは「機能的意識」を持っていることの
証明でしかありません。
ジョン・サールはコンピューターに現象的意識が欠如していることを
「中国語の部屋」の思考実験で示しました。アシモのコンピューターも
原理的には中国語の部屋と同じであり、即ち時間と空間を「感じて」いる
わけではないといえます。
アシモのようなロボットに時間と空間の性質を説明するのは、「赤」の
性質を説明するのと全く同じレベルの不可能性があります。
結論すれば、「赤」が赤であるように「時間」は時間である、ということです。
両者の差異は、時間や空間というものがよりメタレベルのカテゴリーにあると
いうだけに過ぎません。
従って時空が「実在」しないとは、クオリアや現象的意識の「性質」として
しか存在していないという意味です。
クオリアや現象的意識が時空の中を流れているというわけではないという
ことですね。
34
:
名無しさん
:2012/01/06(金) 04:42:38
実際問題として分析や認識に大した意味が感じられない
けっきょく世の中は善悪正誤ではなく人間関係により営まれるからだ
その人間関係での決定権 権力を人間本来の生物的な反応 生得行動や生存本能で扱うとき不条理が生まれる
といっても人間の判断決断は常に主観的なので致し方ないのかもしれない
親類友人恋愛先輩後輩師弟ビジネス政治経済宗教暴力団などなど
35
:
名無しさん
:2012/01/06(金) 04:46:10
たとえ1対1だとしても権力は発生している
その圧力は善悪正誤をこえている
一人ひとりのそういう関係性が作用しあい世の中は象られている
36
:
名無しさん
:2012/01/06(金) 04:48:50
まずは、その関係性への一手がなければ、どのような分析や認識や方法論さえ無意味だと思う
37
:
愚考
:2012/01/06(金) 17:01:03
>>33
丁寧な回答ありがとうございます。
以下の部分に関連して追加の質問をさせて頂きます。
>従って時空が「実在」しないとは、クオリアや現象的意識の「性質」として
>しか存在していないという意味です。
>クオリアや現象的意識が時空の中を流れているというわけではないという
>ことですね。
この部分ですが、カントが論じたように人間は物自体は決して認識できず、
知覚現象のみの世界で生きているわけですから、その知覚に時空が存在する
なら、やはり人間にとって時空は存在するということにならないでしょうか?
そのような意味で諸行無常の世界観をもつ仏教思想は実存的であり、
またリアリティーをもつと思うのですが。
38
:
メビウス@管理者
:2012/01/06(金) 20:47:58
>>34-36
たぶん宮台真司あたりを読んだのでしょう。
宮台は「こうして話してる私とあなたとの間にも権力が発生してるんですよ」
なんてくだらないことを得意げに書く人物ですからw
しかしあなたの書いてることは根本的に板違い。
ここは「心の哲学」の掲示板であり政治哲学や社会学は基本的に対象外。
もしあなたが、みんなが世の中の役に立つような意味のあることのみを
すべきだと思っているなら典型的な「中二病」というやつです。
そもそもこのスレの「死んだらどうなるの?」というテーマは人間存在にとって
最大級の問題であり、時間論はそのテーマと不可分の関係にあります。
その時間論に意味を感じられないなら、あなたには哲学的センスが欠如しているので
2chの社会学板に行くことをお勧めします。
なお、アンソニー・ギデンズ『第三の道』とウルリッヒ・ベック『危険社会』
あたりは、個人のエゴと社会的利益をどうやって調和させるかを考究した近年
の良書なので、読んでおくといいでしょう。あなたの問題意識に合致しています。
39
:
メビウス@管理者
:2012/01/06(金) 21:03:47
>>37
いきなり「人間」という主体を前提しまうのは、哲学的には凄い飛躍だと思いますよ。
私はいわゆる「無主体論」者で、人間や自我は概念上のみの存在とみなしてます。
この立場では「時間を認識している人間」は無く、「時間を認識している」と
いう知覚のみがあるとします。もちろん、その知覚とは何であるかという問題が派生
して行きますが、その派生していく先にこそ人間という概念存在の正体があると見ます。
仏教思想は確かに実存的ではあります。根本仏教には輪廻転生という形而上学があり、
日本の仏教には念仏を唱えただけで極楽浄土に行けるという楽天的な死生観がありますが、
しかし基本的に仏教は「生者必滅会者定離」など無常観の強い思想であり、
これは西洋哲学から見れば、良くいえば「現象学的」あるいは「実存的」でしょう。
しかし悪く言えば「素朴」です。
つまり諸行無常というのは哲学的・論理的な真理というわけでなく、感じたことを
そのまま言っているに過ぎません。要するに素朴実在論なんです。
今更いうまでもなく、哲学とは素朴実在論を疑うことから始まります。その意味では
仏教とは哲学ではないといえるかもしれません。
ただ、大乗仏教の成立に大きく寄与したナーガールジュナは時間の実在性を懐疑する
ような考究を行ってるんですね。キリスト教哲学者のアウグスティヌスも同様なんです。
時間論は人の死をテーマとする宗教家にとって無視できない問題だということでしょう。
40
:
hijk
:2012/01/25(水) 16:52:23
>>29
>クオリアが常に変化していながらも「私」が同一であるよう
>感じられるのは、確かに安易に解答できない難問であり、
>実は心の哲学でもあまり多くは語られていないトピックなんです。
クオリア≒現象的意識のうち「自のクオリア=自我核=イマココ」を
特別視すると解答できないでしょうか。外界からの知覚情報(血の
赤さや空の青さ)とは関係の無い、純粋に自分が自分であるという
感じ、これは文字通り外界からの知覚情報とは一切無縁な無色透明
無味無臭なクオリアなので「直接的には一切感じられないクオリア」
という逆説的なものですが、私自身は瞑想的な状態で自分の核にある
「自のクオリア」に接近できるような気がすることがあります。
(※錯覚かも知れませんが…(笑)。)
生命身体のような自我境界線の内部で脳のような情報処理機能が
外界の対象の何者でもない=いかなる対象よりも最も内奥にある
<これ>を計算し続ける時、それは即ち極限としては<イマココ>
を計算しようとしているわけですが、このような連続した情報処理
過程が現象的意識を因果的に発生させているのではないか、と。
(※相対論チックに情報処理伝播速度に上限があると考えれば
「遠く=より過去」「近く=よりイマに近い」「最内奥=イマ」
と時間的な対応も取れると思います。)
すると、現象的意識=「私」の連続性は、生命身体のような
自我境界線(内側が定義できる境界線)の連続性に担保されて
いることになります。このように考えれば、「私」の意識が
将来別のBさんに飛び移るような不自然な解釈も回避できる
のではないか、というのが私の主張です。
(※自我境界線を持たない意識のようなものが思考実験であれ
説得力を持って想定できるのであれば、私の主張は誤り
ということになると思います。)
以上の考えが正しければ、適切な自我境界線を設定して、
自のクオリアを計算し続けるコンピューターを構成すれば、
そのコンピューターは現象的意識を因果的に発生させるだろう
と私は思います。
(※でも、そのような方法で現象的意識を再現できたとしても、
空間や物質や現象的意識の本質が明らかになるわけでも、
「物質が現象的意識を因果的に発生させる」の「発生」
という言葉の中身(機序)が明確になるわけでもなく、
心の哲学の不思議は(この仮説だけでは)何ら解決して
いない、ということは承知しております。)
(※ちなみにこのようなコンピューターを構成するには、
メモリと演算装置(CPU)が別々のアーキテクチャ
ではダメで、演算装置の可塑的な変化そのものが記憶
でもあるような構成(記憶なんてモノはなく、思い出す
という計算だけがある構成)、計算過程自身が計算過程を
変化させるようなアーキテクチャが必要だろうと思います。)
板違いだったらゴメンナサイ。
41
:
メビウス@管理者
:2012/01/26(木) 21:58:45
「自のクオリア」というのはあると思います。
しかしそれは「直接的には一切感じられないクオリア」というものではないはずです。
心理学的にいうならば「対象化された自己」でしょう。
心の哲学では無意識とアウェアネスを厳密に区別しています。
わかりやすく言うとクオリアとは「感じられる」ものであるということです。
瞑想的な状態で自分の核にある「自のクオリア」に接近できるというのは、
ヤージュニャヴァルキヤのいう「ネーティ、ネーティ」のアートマンに近い
考えだと思います。
ただそのような考えは、やはりパーフィットのスペクトルの思考実験に
答えるのは難しいと思います。
アートマンのような主体を否定する無主体論という哲学がありますが、
スペクトルの思考実験に答えられるのは無主体論だけだと私は考えます。
ただし、無主体論の立場をとったとしても、「昨日見た赤と今日見た赤は同じなのか」
といったクオリアの同一性についての問題が生じます。自己についても同じ問題が
あります。
私は時間と空間の実在性を否定するパルメニデス的な絶対一元論だけがそれらの
問題を解消できると考えています。
いずれにしても、クオリアや人格の同一性を考え詰めると時間と空間の
実在性を問わざるを得ないのは確かだと思います。
だからこそチャーマーズは情報の二相理論において、時空そのものを
情報空間の間にある関係にすぎない可能性を示唆しているのだと思います。
42
:
hijk
:2012/01/28(土) 06:03:07
>>41
ご返信ありがとうございます。
なるほど確かに「自のクオリア」というのは軽率な表現でした。
私の瞑想(妄想)の中身をもう少し因数分解してみると…
・あらゆる思考や知覚の対象では無い、それら全てより内側の
イマココXが、常に計算・更新され続けている。
・そのイマココXを捉えようとすると、それはもう、仰るような
対象化された自己Sに変質してしまう。
・その自己Sよりも内側のイマココXがすぐさま再構成される。
・でもやっぱりXを捉えようとするとそれはSに転落する。
…と、こんな感じで、このような計算の連鎖が現象的意識の中核に
あるように感じられるのです。そして、この「あらゆるもので無い」
純粋無のような焦点・極限のX(言葉では何とも表現し難いのですが…)、
これを、無色透明無味無臭な自我核と呼びたいわけです。
そして人間の脳は実際にXの連続的再計算をやっている、と。
このようにXの常時更新が行われていることが現象的意識の本質
であり、ここに外来からの知覚情報が結合されるとクオリアが生じる、
と考えれば、クオリアは常に変化するとしても、それら全てでは
無いXは仮想極限的焦点として志向され続けており、これこそが
「私」の同一性、連続性の正体なのではないか、ということです。
(そしてパーフィットのスペクトル思考実験にも答えられる。
Xの焦点化を壊さないような脳細胞の入れ替えを続ければ、
当然「私」の同一性、連続性も維持される、というわけです。)
このXを自のクオリアと表現したのは軽率でしたが、何と呼べば
良いのか悩みます。心の哲学の領域で、似たようなことを考えて
いる人がいれば勉強になるのですが…。これが「アートマン」
のような考えに近いのかは不勉強で分かりません。勉強します。
Xは理想的には「あらゆるものではない」という意味で万人に
共通な極点ですが、これが主体を否定するという考えと関係する
のかどうかについても、考察を深めてみたいと思います。
>私は時間と空間の実在性を否定するパルメニデス的な絶対一元論
>だけがそれらの問題を解消できると考えています。
>いずれにしても、クオリアや人格の同一性を考え詰めると
>時間と空間の実在性を問わざるを得ないのは確かだと思います。
>だからこそチャーマーズは情報の二相理論において、時空そのものを
>情報空間の間にある関係にすぎない可能性を示唆しているのだと思います。
「パルメニデス的な絶対一元論」「チャーマーズの情報の二相理論」
いずれもしっかり理解したいと思いました。ご指南に本当に感謝
致します。心の哲学に対する自分のモヤモヤ感に、どう取り組めば
良いのかさえ分からなかったのですが、このサイトや、サイトの
該当箇所に挙げられている参考文献なども辿りながら勉強して、
管理者様のように自分の立場をハッキリ言えるようになりたいと思います。
43
:
hijk
:2012/01/28(土) 09:14:37
早速、「心の哲学まとめWiki」の「ヤージュニャヴァルキヤ」
の項目を拝見したのですが、大変驚きました。
>アートマンは純粋の認識主体である以上
>「~ではない、~ではない」(ネーティ、ネーティ)
>という方法でしか表現できない。「~である」と
>表現すれば認識の対象へと下落してしまうからだ。
ここに書かれていることと、42番の私のコメントは、
そっくりです。アートマンってこういう概念だったのですね!
「デイヴィッド・チャーマーズ」の「情報の二相説」にある
>情報を外側から見ると物理的、内側から見ると現象的
この部分は特に納得できます。一方で、その「外側/内側」
という概念はどこから出てきたのかは理解できないので
(なぜ情報から空間概念が析出されるのか分からないので)
引き続き勉強しようと思います。情報を実在とする考え方
には接したことが無かったので、大変新鮮に感じております。
45
:
was a bee
:2012/04/21(土) 20:43:59
どきり。
見ていたら見られていた的な、サルトルの鍵穴的な気分です。
自分の能力ではちょっとずつしか理解できませんが、
こちらのサイトきれいにまとまっていてとてもためになります。
これからも勉強させてもらいます。
46
:
メビウス@管理者
:2012/04/21(土) 23:13:25
おや、was a beeさんこんばんは。
あなたのWikipediaの記述は凄く参考になります。
よろしければこのサイトに対する意見や建設的批判も頂きたいものです。
永井均も言っていましたが、哲学をやってる者は、内心どこかで自分の
哲学が否定されることを望んでいますからね。
47
:
was a bee
:2012/04/23(月) 21:35:13
「あるがないに、ないがあるに変化する」ここに現象的意識というものの
不思議さがある、これは(メビウスさんのサイトを見させてもらって)確かにそうだと思いました。
このパルメニデスまで遡って、意識というものを問う、というやり方は
(最初は良く分からなかったですが)考えて見れば当然の道筋のように思えます。
自分が良く分からないのは、最終的なエレア派の一元論的なビジョン、の具体的なイメージですね。
確かに理屈として、ある何らかの一つのもの、を考えると様々な矛盾を解消できそうですが、
そうすると同時に「そうなると、この今・現にあるこの私の意識、流れているように思える時間、それはどこから来たのか、
どうつながっているのか」という疑問が出ます。
ちなみにメビウスさんの考えはシュレディンガーの考えに似ているように思いました。
シュレディンガーは「わが世界観」の中で(かなりうろ覚えですが)
「時間はない、たったひとつの今だけがある」
「私やあなたはいない、たったひとつの意識だけがある」
みたいなことを書いてました。これを読んでなんとなく「そういうものかな?」と思ったんですが、
でも「で、それって具体的にどういうことだよ?」とハテナマークが残ります。
エレア派的な一元論が最後に答えなければならないのは
「静的なひとつの何か」と「素朴に感じられる、現にある私の今のこの意識・時間の感覚」
この間のつながりなのかな、と感じられます。
48
:
was a bee
:2012/04/23(月) 21:47:26
ちなみにサイトの構成は見やすくて好きです。
左にメニューがあって、参照が便利。
個人的にはメビウスさんの見解がはっきり書かれていること、そこが特に好きです。
49
:
メビウス@管理者
:2012/04/24(火) 21:20:24
>>47
was a beeさんの疑問はもっともで、まさにその点、
つまり「意識が流れていると感じている」にも関わらず、「時空の実在しない世界」
とはどんなものかについて、どう解釈・説明するかが私の最大の問題だと感じてます。
ちなみに
>>32
の方も同様の疑問を述べておられます。
それに対し私は
>>33
で解答したのですが、やはり説得力に欠けるかなと思います。
この問題については現在、解答の工夫を試みていますので、もう少しお待ち
頂きたいと思います。
それにしてもシュレディンガーが私とほぼ同じ考えなのは驚きでした。
渡辺恒夫を通じて彼がウパニシャッドの影響を受けていることは知っていましたが、
時間の実在性までを否定しているのはエレア派に近いかもしれませんね。
早速「わが世界観」を読んでみます。
50
:
メビウス@管理者
:2012/04/26(木) 19:45:07
>>47
以前から一元論の合理性についてあれこれ考えて少しずつ纏めていたのですが、
これを機会に草稿みたいなものを書いてみます。
(一部
>>33
の説明と重複します)
カントは時空を知覚の「形式」であるといいます。
それではわかりにくいので私は「性質」と言い換えます。
たとえば、「赤」の性質(クオリア)とはどんなものかといえば、血の色である
「それ」であり、「青」の性質とはどんなものかといえば、澄んだ
空の色である「それ」という表現でしかクオリアの本質は表現できません。
コンピューターや各種センサーを搭載したアシモのようなロボットは、人間同様に
行動します。しかしジョン・サールが「中国語の部屋」の思考実験で示したように、
アシモは赤や青のクオリアを感じることはできないでしょう。
時間と空間も同様だと私は考えます。
アシモは人間同様に時空を理解しているかのように行動しますが、
それはアシモが「機能的意識」を持っていることの証明でしかありません。
アシモは時間と空間を「感じて」いるわけではないでしょう。
アシモのようなロボットに「流れる」「刹那」「広い」「遠い」といった
時間と空間の性質を説明するのは、「赤」の性質を説明するのと全く同じ
レベルの不可能性があります。アシモは「数字(bit)」だけで時空を
理解しているよう行動します。
結論すれば、「赤」が赤であるように「時間」は時間である、ということです。
機能主義的な説明からは抜け落ちている部分が、時間の「性質」です。
私には確かに時間が「流れているように感じる」のですが、アシモには理解できない
その時間の「流れ(変化)」の「感じ」こそが、時間の「性質」だと考えます。
空間も同様になります。
つまり素朴実在論や科学的実在論のように、最初に時空の存在を前提して、
その内部に知覚やクオリアがあると考えるのでなく、逆に知覚やクオリアと
いうものがあって、それらの「性質」として時間が空間があるということです。
これはカントについての観念論的、規約主義的解釈です。
51
:
メビウス@管理者
:2012/04/26(木) 19:48:13
ここまでくると一元論的な結論に必然的にたどり着きます。
多数の意識トークンがあって、それらの「流れ」が「私」という意識タイプを
構成しているとするのが素朴心理学的な見方です。
しかし、少し考えればわかるのですが、意識の「流れ」を感じるような反省的意識も
実は個別の意識トークンに過ぎず、その存在だけで過去に別個の意識トークンが
あったことの証明にはなりません。
たとえば、私に以下のような一連の意識現象があったとします。
①、車が地点Aにあると知覚する。
②、車が地点Bにあると知覚する。
③、車は移動しているのだと理解する。
④、①から③までの心理を反省し、意識は連続し、流れているのだと実感する。
ヒュームからすれば①から④はそれぞれ別個の知覚ですが、私は「変化」の実在性を
否定する立場から①から④までは纏まった「ひとつらなりの」意識トークンに過ぎ
ないだろうと考えています。
アシモには理解できない時間の「流れ」の「感じ」こそが、時間の性質であるように、
「①から④までがあった」という「感じ」こそが「ひとつらなりの意識トークン」の
性質だと考えます。(つまり「一個の観念」とみなすわけです)
これは①から④までが数秒の出来事でなく、数十年の出来事、あるいは人の一生その
ものであっても論理的には同じことです。
これは擬似科学でいう所の「パノラマ視現象」のようなものです。
中国では「邯鄲の夢」の故事があり、信長、秀吉なども人生を儚い夢に喩えました。
人生が夢に喩えられるのは、人生の「多数の体験」が、実は「一個の観念」
であることを論理的に否定できないからなのだと思います。
52
:
メビウス@管理者
:2012/04/26(木) 19:51:08
次に空間的な問題、was a beeさんが疑問に思われた以下の部分です。
>「私やあなたはいない、たったひとつの意識だけがある」
>みたいなことを書いてました。これを読んでなんとなく「そういうものかな?」と思ったんですが、
>でも「で、それって具体的にどういうことだよ?」とハテナマークが残ります。
実はこのような問題について、以下のページで考究しています。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/128.html
#id_6d771e16
仮に「私」を人物Aとし、スワンプマンのような複製体を人物Bとして、Aには心的現象A-mindがあり、
Bには心的現象B-mindがあるとします。A-mindと B-mindが、例えば同質の「私こそが本物の私である」
という心的現象だとするならば、「A-mind = B-mind」の等式が成り立つのか、と問うことができる
はずで、私は回答が三つありうると考えました。
①単に同じ心的現象が二つあると解釈する。
②全ての性質は同じだとしても、両者の唯一性によって両者は異なる存在だと解釈する。
③心的現象が二つあるようにみえても、実は一つである。
私の立場は③になります。上記ページで詳細に論じているのですが、
①では独我論的問題が抜け落ちており、②ではパーフィットのスペクトラムの思考実験に答えられません。
私は創発説・汎経験論ともナンセンスだと考えます。時空上に記述できる物理状態と時空上に
記述できない心的状態を存在論的に調和させるのは無理であり、従って消去法的に③となります。
しかし論理的に③が正しいとはいっても、「で、それって具体的にどういうことだよ?」とwas a beeさんが
いうように具体的イメージを描くのは困難です。
しかしイメージの断片を得ることはできるかもしれません。
まず他の人が怪我をしても、この私は痛くないという単純な事実があります。それこそが
「一つの肉体には一つの心が宿っている」という素朴実在論的な思い込みを生じさせます。
しかし実は、その場合の「私は痛くない」というのは実証された事実とはいえません。
その場合ほんとうに事実なのは、「私と思える肉体に痛みを感じた記憶が無い」ということ
のみです。
53
:
メビウス@管理者
:2012/04/26(木) 19:53:59
自我と他我には明確な「境界」があるとするのが素朴心理学的な見方ですが、
無主体論的な立場ではその境界は曖昧なものとみなせます。
またデレク・パーフィットなど、人格の同一性についての還元主義的な立場でも同様です。
サールの見解では、現代の心の哲学者は「人格」概念についてはヒュームのような還元主義
的な立場を取る者が多いそうです。
このような立場における「自我」のイメージはカントの統覚の概念とヒュームの観念論を
演繹すれば理解できます。
中島義道は、たとえば「私の痛み」などは反省的に理解されたもの、という見方をしています。
カントのいう統覚です。統覚される以前の状態はXという独特の刺激がそこに生じているだけであり、
それをあとで記述すれば「痛い」となる(Xは大森荘蔵のいう「立ち現れ」になります)。
ヒュームのいうように「印象」から「観念」への移行とは、世界から刺激を消し去り、
そのかわりに世界全体を刺激とは全く異なる観念によって埋め尽くすこと――
そうした操作をするものこそ「私」であり、「私」が痛みを感じているのではない。
痛みは世界の側にあるが、「われにかえって」「痛かった」と過去形で表すとき
過去と現在という両立しない時間をつなぐものとして「私」が登場する、と中島はいいます。
このような正統なカント――ヒューム解釈からは、「他者」イメージについての新たな
展望が開けると思います。
知覚というものが反省的に理解されて初めて「私」になるならば、理解される以前のXは
「他者」だと考えることもできます。
すなわち、統覚作用のみが「私」を出現させるとすれば、私以外の人物Bや人物Cなど
の「他者」と「私」の関係は、絶対的なものでなく相対的なものであるといえます。
以上のような他我論に加えて、時間と空間の非実在性(つまり時空を感覚の「性質」とすること)
を併せて考えれば、エレア派的な「一元論」は矛盾の無い、というよりむしろ自然な存在論で
あるとも思えます。
54
:
メビウス@管理者
:2012/04/26(木) 20:00:09
以上、解答としては不十分なのは承知していますが、いかんせんカントがいうように時空は知覚の
形式として常に伴っているものですから、われわれは「時空の無い世界」を「感じる」ことはできません。
ただ論理的に可能性が示され、イメージの断片を想うことができるだけでしょう。
ここで重要なことですが、実はこのスレッドのタイトル「死んだらどうなるの?」という問いの
核心部分が、その点にあるのだと思います。
われわれは「自分」が「在る」と素朴心理学的に思っていて、その「在る」ものが「無い」ものに
なるのが「死」だと素朴に思っています。
しかし、
>>2
でも書いたのですが、そのように「在る」ものが「無い」ものになるという死の
イメージは論理的に間違っています。
ならば、人間は今「在る」状態のまま永遠に在り続けるのかといえば、そうではないのです。
上述したように時空の実在性を否定して、それを観念の「性質」とする一元論の立場からは、
そもそも人間の「在り方」のイメージ自体が根本的に変わってきます。
つまり、デカルトが述べたように、確かに「想う我」は在るのですが、われわれは
その「我」の「在り方」について大きな勘違いをしているのだと思います。
われわれは自分が常に変化しているように感じているけれど、その変化は「我」の性質であり、
自分の本当の「在り方」はエレア派の哲学者が考えたように不生不滅で、変化もしないものだと考えます。
55
:
すてまーす
:2012/04/28(土) 04:38:57
最近この場所を知りました。良くまとまっている感じで、良いですね。
堆積の矛盾についてですけど、
現象的意識やクオリアに対してもメビウスさんが適用した
パーフィットの混合スペクトラムの思考実験についてのメビウスさんの考えについて、
物理主義的に「同じ」現象的意識やクオリアが人物Aと人物Bにあるとみなしても、「私」についての堆積の矛盾はないと思います。
矛盾や逆説であると感じた原因は、人物Aを「私」をした場合、
100%交換した場合に、自分を、人物Aにとっての人物Bであると、想像してしまうことだと思います。
ちゃんと想像するなら、100%交換した後の自分は、交換する前の自分にとっての、人物Bにとっての人物Bです。
だから、普通に、物理主義的に、それぞれの脳や状態がそれぞれの現象的意識やクオリアや唯一の自分を作っているだけとの考えは、有効だと思います。
ただ、自己の同一性や継続性については、まだ考えがまとまっていません。
56
:
was a bee
:2012/04/28(土) 12:44:59
>>52-54
返答ありがとうございます。
>いかんせんカントがいうように時空は知覚の
>形式として常に伴っているものですから、われわれは「時空の無い世界」を「感じる」ことはできません。
>ただ論理的に可能性が示され、イメージの断片を想うことができるだけでしょう。
これを聞いて逆に納得できました。
理屈から導かれるけれども、具体的なイメージとしてはうまく描けないもの、そういう位置で理解していくことで
良いなら、自分にも少しは理解できそうな気がしました。
20世紀以降の物理学が提示する世界モデルなんかも、まさにそういうもの「理屈としてこうだが、具体的にどういうことか、うまくイメージできないもの」の典型と思います。
たとえばアインシュタインが作った方程式に基づいて「時間の進み具合の差」を計算してGPSの精度を上げる、といったことは
現代では技術的な問題として普通に行われてるようです。
しかしそういう計算をしている技術者であっても、おそらく誰一人として、相対論的な時空というのが
具体的にどういうことなのか、というのはイメージできてないでしょう。
シュレディンガーが作った方程式も、ナノスケールの世界の現象を理解するために
あらゆる領域で使用されている式です。
たとえば今この私達のネット世界を支えている半導体という部品、この部品の設計と制御も、最終的な所はシュレディンガー方程式に基づく計算で行われます。
しかしシュレディンガーの式が提示する世界観が、具体的にどういうことかをイメージできるかと言われると、おそらく誰一人としてそれを想像することはできていないでしょう。
理論物理の世界でモデル化される、5次元の宇宙とか26次元の宇宙とかも似てますね。
理屈としての要請からそうしたモデルが現れる、または作ることが出来る。けれども、それがどういうものなのかは
人間には具体的にイメージすることができない。
なぜなら時間・空間という人間の知覚の形式に当てはめられないから、ですね。
57
:
was a bee
:2012/04/28(土) 13:19:18
そういえば、カントがいったことの延長線でしょうが、ドーキンスが何かこんな講演をしていました。
http://www.ted.com/talks/lang/ja/richard_dawkins_on_our_queer_universe.html
そこでホールデンの言葉が引用されています。
「宇宙は我々が想像しているよりも奇妙なのはもちろんのこと、我々の想像する能力を越えて奇妙なのではないだろうか」
私達の認知の能力がある特定の形式を持っている、ということの現代哲学での扱いは
進化論的認識論とか身体化された認知とかのキーワードの元で議論されてるようです。
58
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 00:24:56
>>55
すてまーすさん、
>100%交換した場合に、自分を、人物Aにとっての人物Bであると、想像してしまうことだと思います。
>ちゃんと想像するなら、100%交換した後の自分は、交換する前の自分にとっての、人物Bにとっての人物Bです。
これはどちらでもいいんです。
問題なのは、何%の交換で「私」と「他者」が入れ替わるのか、という問題に合理的に答えられないということです。
59
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 00:43:41
>>56
認知的閉鎖の壁があるでしょうね。
量子力学の描く世界は日常的な世界観とあまりにかけ離れているので
イメージするのが困難なのですが、私などは逆に、その点にこそ心身問題
が発展する可能性を感じています。
アプローチの方法は全く違いますが、ペンローズなども量子力学に可能性を
見出そうとしているみたいですね。
彼の量子脳理論についての著作はほぼ理解不能でしたが。
60
:
すてまーす
:2012/04/29(日) 02:17:15
>> 58
メビウスさん。
人格の同一性のページの説明だと、物理主義的な考えを否定する根拠として、堆積の矛盾を挙げていたと思います。
ところで、100%交換した場合の、俺が示した考え方は、合っていると思いますか?
100%交換した場合でも、「私」と「他者」が入れ替わるのかを合理的に答えられないと考えているのでしょうか?
もし、そう考えているなら、そのことは物理主義的な考えを否定する根拠にはならないと思います。
物理主義的(社会心理学的?)な考えだと、100%交換したら、俺の先の投稿で示した考えのように入れ替わっているとの考えだと思います。
で、100%以外だとどうなるかは、もう思考実験では確かめられません。でも、そのことは物理主義的な考えを否定する根拠ではありません。
それぞれの比率で交換したそれぞれの比率の脳に応じている、それぞれの現象的意識などが生じるだけとの考えですから。
それこそ、具体的に何%の交換で「私」と「他者」が入れ替わるのかは、問題でないです。
どれ程の交換の比率でどんな自分になるかは興味深い題ではありますけど、物理主義的な考えを否定することにはなりません。
100%の交換で堆積の矛盾がないのですから、100%までの比率であっても、矛盾がないでしょう。
つまり、物理主義的な考えを堆積の矛盾で否定するなら、100%交換した場合の俺が示した考え方が合っているのかなどを具体的に答えることが要ると思います。
「これはどちらでもいいんです。」って、全く根拠になっていません。
61
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 14:02:52
>>60
すてまーすさん、100%交換した場合は「私」と「他者」が入れ替わるとみなせます。
>それぞれの比率で交換したそれぞれの比率の脳に応じている、それぞれの現象的意識などが生じるだけとの考えですから。
>それこそ、具体的に何%の交換で「私」と「他者」が入れ替わるのかは、問題でないです。
この考え方には存在論的独我論の問題意識が欠如しています。
私の示した思考実験は心の哲学に独我論的問題を持ち込んだものです。
ちなみにトマス・ネーゲルも独我論的問題意識によって汎経験説を否定しています。
いわく「多数の自我が集まって単一の自我が作られるというのはありえない」と。
この問題は独我論的問題意識が有していなければ全くわからないでしょう。
もし、あなたが例えば大庭健のように独我論的問題意識をもっていないのであれば、
私がどう説明しようと大庭健と永井均の議論のように全くかみ合わないものになると思います。
62
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 14:15:31
とりあえず、独我論的問題を示してみます。
私を人物Aとし、別の人物Bがいるとします。
人物Bに「腹が痛い」という現象的意識・クオリアがあるとします。
でも、当然ですが「私」は全く痛くありません。
これが、人物Bが「他者」であり、人物Aが「私」であることの意味です。
独我論的問題意識の出発点です。
では仮に、人物Bに「腹が痛い」という現象的意識があり、同時に私である
人物Aにも同様の「腹が痛い」という現象的意識があったらどうでしょう。
「私」は「他者」と同一になるかといえばそうではありません。
私にとっては、ウィトゲンシュタインがいうように「ほんとうに痛いのは自分の
痛みだけ」です。
しかし、上で示した絶対的に相互排他的な関係にあるような「私」と「他者」が、
物理的状態――脳の状態に対応しているという物理主義的前提から堆積の
パラドックスが生じます。
物理状態は空間的に規定できるため何%というような分割が可能です。
しかし「私」や「他者」はそのような分割は不可能です。
63
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 14:35:26
たとえば「私」の3%と言うのは簡単ですが、そのような言葉は単純にナンセンスです。
SFの転送装置のようなもので人物Aと人物Bの脳細胞を少しずつ交換することは
「論理的」に可能ですが、「私」は常に論理的に「一つ」でなければなりません。
なお、上で私が述べた「私」とは、問題性を個別の現象的意識やクオリアにまで還元しており、
>それぞれの比率で交換したそれぞれの比率の脳に応じている、それぞれの現象的意識などが生じるだけとの考えですから。
というような現象的意識・クオリアそのものを指標する語として「私」を理解してもらって結構です。
その個別の現象的意識やクオリアにも堆積のパラドックスは成り立つというのが私の論旨です。
64
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 14:46:35
あと、
>100%の交換で堆積の矛盾がないのですから、100%までの比率であっても、矛盾がないでしょう。
この考えがわかりません。
そもそも堆積のパラドックスとは、何%の置き換えで概念が変化するのか
論理的に解答できないという主旨のものです。
ひょっとしてテセウスの船と勘違いしているのではないですか?
65
:
すてまーす
:2012/04/29(日) 23:55:14
>>61-64
メビウスさん。
もちろん、独我論的問題意識をも理解して踏まえて、考えを示していましたよ。
メビウスさんの最後の投稿に論点が綺麗にまとまっていますね。
> ひょっとしてテセウスの船と勘違いしているのではないですか?
いえ、テセウスの船と同じだと言っているんです。で、何%の置き換えで概念が変化するのか論理的に解答できると言っているんです。
つまり、少しでも置き換えたら、もう元のテセウスの船じゃないんです。少しでも置き換えた後に、また元の木材と全て置き換えたら、元のテセウスの船です。2回100%交換した例に相当しています。
色のグラデーションで考えると、分かりやすいですね。端からの端までの間の色はそれぞれの比率毎に確実に変わっていますよね。
で、なぜテセウスの船で考えると勘違いしやすいかと言うと、別の木材を用いても同じ効果(=形や性質など)を得られることが在るからです。
でも、少しでも置き換えたら、元のテセウスの船とは確実に別物です。効果がほとんど同じだけです。元のテセウスの船であるということは、効果だけでなくて、材料もが同じであることを表しているんです。
効果が同じだけど、材料が同じでないことは、双子の例や自分の複製体が自分でない例に相当しています。
つまり、効果だけで考えるから、勘違いするんだと思います。色のグラデーションの例は、効果と材料が同じ例だったということです。
だから、堆積の矛盾はありません。先の投稿で俺が言ったように、
それぞれの比率で交換したそれぞれの比率の脳に応じている、それぞれの現象的意識などが生じるだけなんです。
それこそ、具体的に何%の交換で「私」と「他者」が入れ替わるのかは、問題でないです。
少しでも置き換えたら、常に、どの比率であっても、その比率に応じて、入れ替わっているんです。
で、脳を交換した比率が近いと、それぞれの比率でのそれぞれの脳の効果(=現象的意識や私など)もが近いんです。似ているんです。それは物理的な特徴によっているのでしょう。
細胞は日々少しずつ入れ替わっていますし、現象的意識などと脳に因果関係もが在ります。物理状態は空間的に分割できることは、関係がありません。
なので、物理主義的に考えても、現象的意識などの堆積の矛盾はありません。
で、それを踏まえても、特に感覚的にまだ勘違いしやすいことが在ると思って投稿したのが、俺が最初にした投稿です。その勘違いが原因で、堆積の矛盾が在ると考えているのかなと思ったので。
66
:
すてまーす
:2012/04/30(月) 00:13:47
>>65
勘違いしやすそうな部分を思い付いたので、書いておきます。
> 効果が同じだけど、材料が同じでないことは、双子の例や自分の複製体が自分でない例に相当しています。
その「材料」を「状態」と読み替えると、勘違いすると思います。読み替えるなら、「物体」です。
つまり、物体は状態を持っています。で、それぞれの物体はそれぞれの状態を持っています。
つまり、別の物体が同じ状態になることも在るというだけです。
67
:
メビウス@管理者
:2012/04/30(月) 13:25:04
すてまーすさんは
>>60
で私の「人格の同一性」のページを読まれたと書かれてましたが、
論点が違っています。あなたが強調される以下の文、
>それぞれの比率で交換したそれぞれの比率の脳に応じている、それぞれの現象的意識などが生じるだけなんです。
>それこそ、具体的に何%の交換で「私」と「他者」が入れ替わるのかは、問題でないです。
これはデレク・パーフィットの、人格の同一性問題についての還元主義の主張そのままです。
パーフィットは堆積のパラドックスを応用して「人格」概念を個別の心理現象に還元するしかないといいます。
私の立場はそこから更に先に進み、個別の現象的意識やクオリアはそれ以上は他の何かに還元できない、と考えます。
そして、その個別的なクオリアなどを独我論的なデカルトの「私」と捉えます。
その「私」は他の何かに還元不可能にも関わらず、空間的に規定できる物理現象と対応しているため、
なお堆積のパラドックスが適用できるというのが私の主張です。
これが
>>63
で書いた、
>「私」の3%と言うのは簡単ですが、そのような言葉は単純にナンセンスです。
という言葉の意味です。
「人格の同一性」の「派生問題」で私が書いたのはそういう主旨のことです。
68
:
ななし
:2012/04/30(月) 17:48:00
>>65
堆積のパラドックス分かってないね。
これは論理的な問題ではないから論理的に答えたら駄目なの。
69
:
すてまーす
:2012/04/30(月) 18:14:04
>> 67
メビウスさん。
パーフィットは堆積のパラドックスは、非還元主義的に考えたら矛盾するってことですよね。
俺が示してきた考えは、非還元主義でないと思います。(一般的に言うと、現象的意識などを脳に還元している物理主義と言うのでしょうか?)
なので、俺が最初から示してきたように、物理主義的に考えても、堆積の矛盾はないと思います。
> パーフィットは堆積のパラドックスを応用して「人格」概念を個別の心理現象に還元するしかないといいます。
人格の同一性のページを見ましたけど、非還元主義を否定したのは分かりましたけど、(物理的還元をも否定して、)心理現象に還元するしかないと言っているのは、どこに書いてあったのでしょうか?その根拠は何なのでしょうか?
70
:
メビウス@管理者
:2012/05/01(火) 21:42:16
クオリアを物理現象に還元できるという心の哲学における「還元主義」と、自己や自我というものは
個別のクオリアに還元できるという人格の同一性問題における「還元主義」は全く意味が異なります。
このことは「心の哲学全般」「人格の同一性」のページで書いてありますが、この点を理解していな
いと私の思考実験とパーフィットの思考実験の違いはわかりません。
人格の同一性問題における還元主義的立場は、物理主義者でなく二元論者でも取ることができます。
たとえばデイヴィッド・ヒュームは自我の存在を否定しますが、徹底した観念論者です。
パーフィットは人格の問題については還元主義者ですが、心の哲学における還元主義については
否定も肯定もしていません。
なお、タイプ同一説やトークン同一説、またそれらを前提とした機能主義の多くは物理主義であり、
心の哲学における還元主義です。
それらの主張は、それ以上何かに還元できないクオリアを空間的に規定できて分割可能な脳状態と
同一視していることから、堆積のパラドックスが生じるというのが私の思考実験の意味であり、
これはパーフィットの思考実験の手法を借りてはいるものの、分析対象が「人格」ではなく「クオリア」
であることが違う点です。
71
:
すてまーす
:2012/05/02(水) 03:40:15
>>70
メビウスさん。
確かに、私は、心の哲学についての還元主義と、人格の同一性問題についての還元主義の、区別がはっきりしていませんでした。
そのことを踏まえて人格の同一性のページを見てみると、確かに、堆積の矛盾によって物理主義を否定してはいないみたいですね。
で、そのことで一応解決ということで終わろうとも思いましたけど、様々に関係しているので、もう少し続けたいと思います。
まず、人格の同一性のページに書かれている、人格の同一性問題についての還元主義の説明は、なぜか、心の哲学についての物理的還元主義が考慮されていないと思います。
人格の同一性問題についての還元主義的に考えても、観念論みたいだけになるとは限りませんよね。俺が示してきたように、人格の同一性問題についての還元主義的に考えて、さらに、心の哲学についての還元主義のような考えも成り立つと思います。
また、それとは別に、この掲示板でのメビウスさんの投稿では、人格の同一性のページと違って、「物理状態は空間的に規定できるため何%というような分割が可能です。しかし「私」や「他者」はそのような分割は不可能です。」などと、物理的還元を否定しているようです。
なので、今度はメビウスさんの考えについて矛盾していると思ったことを直接に否定してみたいと思います。それは最初から思っていたことなのですけど、全部が関係していたようです。
先に言ったように、なぜか、メビウスさんの人格の同一性問題についての還元主義の説明には、心の哲学についての還元主義が含まれていません。で、そのことが矛盾している結論を生んでいると思います。
人格の同一性のページの文章
> ①単に同じ心的現象が二つあると解釈する。
> ②全ての性質は同じだとしても、両者の唯一性によって両者は異なる存在だと解釈する。
その①や②について、メビウスさんはこの掲示板で「①では独我論的問題が抜け落ちており、②ではパーフィットのスペクトラムの思考実験に答えられません。」と答えていますけど、そう結論してしまう原因は、物理空間的な性質を考慮していないことや軽視していることだと思います。
そもそも、物理空間的な性質が反映している視覚内容などもが心的現象の1つなので、完全に同じ複製は作れません。なので、独我論的問題は抜け落ちていなくて、既に物理空間的な性質に含まれています。
なので、パーフィットのスペクトラムの思考実験に合理的に解答もできます。そのように独我論的問題は抜け落ちていないので、人格の同一性問題についての還元主義的に合理的に解答すると、それぞれの比率に応じているそれぞれの「私」になるだけです。
> ③心的現象が二つあるようにみえても、実は一つである。
との考えについては、(完全に同じ複製を作れたとしても、)複製した瞬間だけに成り立つだけであって、その後はそれぞれの脳がそれぞれに知覚したりしていくので、そのような物理的な整合性とも合い続けるためには、物理的な還元をもする考えが自然だと思います。③の考えは、絶対に可能性がないとは思いませんけど、かなり無理気味だと思います。
> 「物理状態は空間的に規定できるため何%というような分割が可能です。しかし「私」や「他者」はそのような分割は不可能です。」
については、不完全ではありますけど、神経網を真似したニューロネットが在って、ニューロネットは、1つのニューロンがなくなっても、そのニューロネットの全体が持っている情報は突然に失われません。そんな構造によって、非空間的な性質を得ています。なので、そう対比する考えは関係がないと思います。
後、念のために言っておくと、脳には同一性や継続性などを判断する知性の機能(=統覚?)もが在ります。
72
:
メビウス@管理者
:2012/05/02(水) 22:32:09
あなたは物理主義による還元主義をよく理解せずに書いています。
>メビウスさんの人格の同一性問題についての還元主義の説明には、心の哲学についての還元主義が含まれていません。
私が書いた「①単に同じ心的現象が二つあると解釈する。」というのが心の哲学の還元主義です。
>物理空間的な性質が反映している視覚内容などもが心的現象の1つなので、完全に同じ複製は作れません。
これは心の哲学における還元主義ではありません。タイプ同一説、トークン同一説、それらを前提とした
機能主義においては、仮に二人の人物がいて、両者の脳の物理構造が完全に同一であれば、それらの「機能」
であるクオリアもまた同一であるとみなします。
空間的位置が異なっていようと関係ありません。「自然の斉一性原理」があるからです。
脳がどこにあろうと、同一構造の脳の機能は同一とみなします。これが物理主義です。
73
:
メビウス@管理者
:2012/05/02(水) 22:33:35
なお、
>それぞれの比率に応じているそれぞれの「私」になるだけです。
これは、意識の超難問は意識のハードプレブレムに論理的に還元可能だとする三浦俊彦や大庭健のような
主張であり、全く独我論的問題意識が欠如しています。
「可能世界論」という分野があります。たとえば双子地球の思考実験があります。
パラレルワールドの地球でもう一人の私がいると考えてください。
そのもう一人の私は物理特性がこの私と同一ですが、それにも関わらず彼は「私」ではありません。
このような思考実験から、端的に「私」であるという事実は、物理特性やクオリアによっては同定
できないというトマス・ネーゲルや永井均の存在論的独我論の問題が生じます。
参考までに、以上のような双子地球のような思考実験は『転校生とブラックジャック』のような永井均の初期の
著作に頻繁に出てきます。存在論的独我論の良書です。一度読まれたらいかがかと思います。
74
:
すてまーす
:2012/05/03(木) 12:18:40
つまり、メビウスさんの考え方や考えの結論は、「物理空間的な性質が反映している視覚内容などは、心的現象の1つでない。」ことが、前提の1つだったんですね。
確かに、そう前提すると、メビウスさんの考え方に俺も納得や同意します。
そう考えていって、矛盾したから、例えば③のような考えを考えていったってことですよね。
因みに、俺は、そう考えていって、矛盾したから、「物理空間的な性質が反映している視覚内容などは、心的現象の1つである。」と考えているって感じだと思います。(正確に言うと、順序は違っていますけど。)
元々は、「俺が示したような(一般的な物理的な考えだと思っている)考えも、在りだと思っていて、そんな考えを、どんな根拠で否定しているのかや、なぜ考慮していないのか。」という感じに思っていたんですけど、そのことについてはっきり分かったので、自分の中で納得や解決しました。
この遣り取りの前半で俺が「還元主義」との言葉について勘違いしていたことによって、余計な手間を掛けてしまって、すみませんでした。
そして、このサイトやメビウスさんとの遣り取りのおかげで、様々なことを吸収できました。ありがとうございました。また機会が在った時は、よろしくお願いします。
76
:
メビウス@管理者
:2012/06/15(金) 02:08:31
>>50-54
で書いたことを「一元論の合理性」としてまとめてみました。
「パルメニデス」と併せて読んでもらえると私の考え方がわかりやすいかなと思います。
パルメニデス
http://www21.atwiki.jp/p_mind/96.html
一元論の合理性
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/14.html
#id_e9f8d93e
77
:
アルキ猫
:2012/06/30(土) 04:59:42
はじめまして。
単純な疑問ですが寝ている間(夢をみていない時)や気を失っている間はクオリアは発生しないと思いますが、これは死んだ時と違うのでしょうか?
78
:
メビウス@管理者
:2012/07/01(日) 00:32:36
アルキ猫さん、こんばんは。
夢を見ていないとされるノンレム睡眠時は、まさに死んでいる時と同じでしょうね。
一般的な「死」の概念との違いは、眠りから醒めると「自分」が再生されると推定
されていることでしょう。
でもその推定は哲学的には大変疑問のある点です。
なぜなら眠る前の私と、覚醒した時点の私は、はたして同一の存在なのかと
疑うことが出来るからです。
でもそのように疑うことができるなら、今たとえば自分に「我思う」というクオリア
(現象的意識)があったとして、5分後にやはり「我思う」のクオリアがあったとします。
ならば、この「我思う」は5分前のと同じクオリアなのか、別のものなのかと同一性を
疑うことが出来るのです。
そのような懐疑は死生観にも適用できます。
自分が死んで50年後、ある人が「我思う」のクオリアを持ったとします。
そのクオリアは今の自分の「我思う」と同じでは無い、ということもできないし、
その逆であるとも証明できないんです。
このように眠りと死の違いをクオリアの観点から考えると、哲学的疑問と可能性は
際限なく広がっていきます。
79
:
アルキ猫
:2012/07/01(日) 04:58:03
メビウスさん、レスありがとうございます。
やはり意識を失う=クオリアの喪失=死(または死と同等の状態)なんですかね。
意識の連続性という点では過去の記憶が元になっていることは確かだと思いますが、記憶を失ったとしても実体としての意識があればそれは自分自身であることは確かです。
仮に事故で記憶喪失になった人を他人はその人を別人とは見なさないですしね。
ただ50年後に生まれ変わった人については何とも言えません。
超心理学でいういわゆる「生まれ変わり」研究も本人の過去世の記憶と歴史上の記録の一致をもって生まれ変わりを実証しようという試みですので、記憶が断絶してしまえば50年前の人物と50年後の人物が同一人物かどうかはもはや実証不能です。
80
:
メビウス@管理者
:2012/07/01(日) 20:52:02
>記憶を失ったとしても実体としての意識があればそれは自分自身であることは確かです。
>仮に事故で記憶喪失になった人を他人はその人を別人とは見なさないですしね。
このような考え方はパーフィットがいう、人格についての「非還元主義」の立場ですね。
つまり自我や自己そのものという「主体」を想定し、その主体がクオリアを知覚するという
認識論です。でもこのタイプの認識論にはデイビッド・ヒューム以来、「無主体論」という
立場から批判があります。
ジョン・サールの見解では、現代の哲学者の多くはヒュームに同意し、個別のクオリア以外に
人格や自己そのものを想定する哲学者は少数派だそうです。
ちなみにパーフィットは「非還元主義」に対して、「自己」の概念が堆積のパラドックスに似た
問題を生じさせることを思考実験で示しています。
パーフィットの思考実験や、そこから派生する様々な問題は以下のページで詳述しています。
よろしければ参照して下さい。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/128.html
81
:
アルキ猫
:2012/07/02(月) 06:50:20
分かりました。
少し勉強させて下さい。
82
:
アルキ猫
:2012/07/04(水) 18:43:15
>メビウスさん
すみません、また質問させて下さい。
「意識がクオリアという最小単位に還元でき、その知覚の束が意識を産み出す」ということは、死んだ場合、肉体を構成する元素と同じように意識は分解されて個別のクオリアに分解される(可能性がある)と言うことでしょうか?
クオリアは残ってもバラバラになって別のそれぞれ別の知覚の束=別人の意識に再構築されるならば、死ねば自分の意識は消失し、この世から無くなるということになるかと思います。
またノンレム睡眠時のクオリアはどうなっているのでしょうか?無意識状態の人のクオリアは消失し、別の人の意識の元になっているのでしょうか?
83
:
メビウス@管理者
:2012/07/04(水) 21:21:06
>死んだ場合、肉体を構成する元素と同じように意識は分解されて個別のクオリアに分解される
これは性質二元論の立場の一つで「汎経験説」という主張ですね。
この立場では自分が死んで無くなるか否かはパーフィットが結論した
通り恣意的な判断だと思います。
なお、それと対立する立場に物理主義の立場の「創発説」というのがあります。
この立場ではクオリアは物質から生成されると考えているので、死ねば自分は
消滅します。
ちなみに、私の考えでは上記の二つの立場はともにナンセンスだと思っています。
私の考えをここで簡潔に説明することはできませんが、もし興味ありましたら
まとめサイトのTOPページに私の見解を記述したページを表記してありますので、
のんびりと読んで頂ければ嬉しいです。
84
:
was a bee
:2012/07/21(土) 18:38:19
>>76
おお、ありがたいです。
あまり咀嚼できてはないですが、何となく雰囲気は分かるような気がします。
とはいえ
「「「今・私にクオリアがある」というクオリアがある」というクオリアがある」・・・
的な無限後退が発生しそうな気もします。しかしそれもまた面白そうですが。
85
:
メビウス@管理者
:2012/07/23(月) 23:41:05
>>84
おや、お久しぶり。
確かに無限後退的な部分があって、その点をどう解決するかが課題だと感じています。
アイデアのひとつは、ゼノンのパラドックスを逆用して、存在は無限分割が可能だと認めることでしょうね。
もう一つは、今まとめているのですが、大森荘蔵の「立ち現われ一元論」のような立場で、
デリダが「差延」としたものに対して、「過去自体」を措定することだと思います。
しかし、いずれにしても永井・入不二両氏が問題にしている「現実性」について上手く説明でき
ないのが難点で、そこが今の私の最大の関心事です。
was a beeさんに何かいいアイデア、あるいは私の問題提起の仕方そのものについての疑問や批判が
あればぜひ伺いたいと思います。
86
:
メビウス@管理者
:2012/07/26(木) 21:05:50
あと一つ、まだまとまっていないアイデアなんですが、
「無限に分割する」というのは論理的には可能でも、自然的には不可能だろうと
考えたことがあります。
自然数を全て数えるというのは不可能です。またたとえば、自分は無限の言葉の
組み合わせを行うことができると考えていても、実際には有限の組み合わせしか
行えません。
つまり宇宙にあるクオリアの数は有限個かもしれないという可能性があるわけで、
実際には無限分割はできないという可能性です。
この考え方は決定論と自由意志の否定に繋がる問題なので、複雑ですが。
87
:
was a bee
:2012/07/30(月) 17:57:26
>>85
メビウスさんの考え、少しずつ読ませてもらってます。
非常にざっくりと考えると、時間も空間も意識へと還元する、意識一元論みたいなものと言って良いのかなと思いました。
そして堆積のパラドックス(人間→馬→ミミズ→微生物→・・・)を考えると独我論的な私という考えを維持しがたい、
この批判は、私もそう思います。
ただそう思いつつも、それでも独在論的な問題設定は形を変えてやはり存続するように思えます。
バラバラに散らばった変化も運動もすることなき、意識トークンの集まりの全体が、この世界であったとして、
それでもなお、やはりまだ問えることが残るように思います。
「なぜこの意識トークンが体験されており、別の意識トークンが体験されているのではないのか?」
太古の人々が導入した霊魂といった概念、デカルト的な我の概念、またカント的な統覚の概念、永井的な<私>の概念、
これらの概念が導入されたことの背景には、常にこのような問い、現に在る経験があまりに非対称的であるという事、があったように思えます。
そしてこのことは「一つである全体的意識」を導入してもなお、「なぜこの意識トークンか?」と形を変えてなお存続するよう思えます。
このことを「覚えている経験」と「覚えていない経験」という記憶に訴える形の議論を導入して、解決するか?
ここは何か自分の中でモヤモヤしてますが、微妙に解決しないような気がしてます。
この「なぜこの意識トークンか?」というのが、何かやはり最後に残る大きい問いのような気がします。
88
:
was a bee
:2012/07/30(月) 18:19:19
最近この論文を読んでちょっとおもしろいと思ったのですが、
「温度計に意識はあるか?」 by 大泉 匡史、土谷 尚嗣
http://www.emotion.caltech.edu/~naotsu/Naotsugu_Tsuchiyas_homepage/papers_for_download_files/12%20Mar%2030%20LiSa%20Oizumi%20Tsuchiya.pdf
麻酔は本当に「痛み」を消しているのか?それとも「痛み」は消しておらず、ただ「麻酔時の記憶」を消しているだけなのか、
みたいなことが少し書かれてました。
これは身近だけど、深い問題のように思います。経験と記憶。
89
:
was a bee
:2012/07/30(月) 18:38:32
ちなみに、今のところ自分は意識についてハッキリとした立場は持ってないのですが、
立場についての立場、どういう考え方がありえそうか、については
Crazyism (キチガイ主義?)とかいう考えに共感を覚えます。
http://www.consciousentities.com/?p=1068
意識の問題についてどういう答えが最終的に普及するにせよ、
そうした理論は必ずどこかしらキチガイじみた内容を含まざるをえない、と。
90
:
メビウス@管理者
:2012/07/31(火) 21:58:32
>>87
>そしてこのことは「一つである全体的意識」を導入してもなお、「なぜこの意識トークンか?」と形を変えてなお存続するよう思えます。
これは最もな疑問で、
>>85
でも書いた「現実性」の問題だと思います。
「現実性」と言っても永井均、入不二基義ではニュアンスが微妙に違ってますし、
そもそもこの問題はエレア派の時代からあったものだと思います。
ヒュームが主著『人性論』を封印しようとした事情は宗教的な問題かもしれませんが、
ひょっとしたら現実性の問題に気づいていたからかもしれません。
現在まとめている大森荘蔵の「立ち現われ一元論」も類似の問題に苦悩した形跡があります。
大森哲学はヒュームと同型の「無主体論」といえるものであり、was a beeさんが指摘されたのと
同様の指摘を大森に対してしている人がいます。
http://www.geocities.jp/toryon33/tokinagarezu.html
91
:
メビウス@管理者
:2012/07/31(火) 22:06:10
なお、現実性の問題に対する私の解答ですが、was a beeさんの以下の文、
>「なぜこの意識トークンが体験されており、別の意識トークンが体験されているのではないのか?」
このような捉えられ方をされるのは仕方ないのですが、私が構想したのは、
言語によって分節され、多数あるように見える意識トークンが、
実はひとつらなりの「唯一の」意識トークンではないかというものです。
この点、現段階では説明に苦慮していますが、いくつかアイデアが
ありますので、いずれ「一元論」のページに自分の見解として書くつもりです。
92
:
メビウス@管理者
:2012/07/31(火) 22:18:35
>>89
>Crazyism
確かにそうでしょう。
性質二元論の立場から主張されてる汎経験説では、原意識というものを
想定せざるを得ず、トースターにも何らかの意識があると考える人もいます。
対して物理主義の創発説では、脳を構成する素粒子の中にクオリア製造装置が
あるというようなものです。
上の二つの立場を拒否するなら、時間の実在性を否定する私のような一元論の
立場を取るしかないように思われます。
いずれも日常的感覚からかけ離れているのでクレイジーと思われて当然でしょうね。
でも、それは哲学なら当然のことでもあります。
哲学には日常的な世界の全てを転倒させる「力」があるのだと、私は信じてます。
93
:
アルキ猫
:2012/08/03(金) 20:38:33
こんばんは。
確かに意識が実は無主体であって個人固有のものでないというのは現代の常識や唯物論的科学観からすると主客転倒していて一般の人にはにわかに理解し難いものがありますね。
私も未だに分かったような分からないような…
まさに天動説が地動説になったような感がありますが逆に世の常識が逆転してるとも言えるのかも知れませんね。
94
:
メビウス@管理者
:2012/08/04(土) 22:32:32
>>93
アルキ猫さん、実は逆なんですよ。
近代以前の心身問題では素朴心理学が前提となっていたため、
「私」という自己が「痛み」などの感覚を知覚するという構図で
心的現象を理解していました。
しかし現代の心の哲学は自然科学の知見を前提として出発しており、
物理主義も性質二元論も同様に無主体論なんです。
すなわち物理的な実体のみを認める立場でも、それと対応して心的な
ものがあるする立場でも、物理的でもクオリアでもない「私」や「魂」
のようなものは認めないのが、大半の心の哲学の立場なんです。
ペンローズみたいな人は少数派ですね。
でも、それだけではどうしても上で書いたような「現実性」の問題が生じます。
その点はジョン・サールもチャーマーズも気づいていて、何かしら特別な原理が
あるかも知れないことを示唆しています。
95
:
メビウス@管理者
:2012/12/06(木) 21:27:24
>>76
では自分の見解をふたつのページに分けてましたが、
atwikiの仕様が変わって容量制限が緩和されたので、パルメニデスのページにまとめました。
なお空間の実在性については別の見地から考究してみました。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/96.html
#id_3812eb7c
97
:
ある唯物論者(異邦人)
:2013/10/12(土) 21:35:06
私は唯物論者です。
クオリアや現象的意識を含めおよそあらゆる現象は物理的現象であると考えます。
将来のレベルアップしたアシモであればクオリアや現象的意識を持つことが出来る可能性はあります。
それが可能であるのはクオリアや現象的意識が純粋な物理的現象であるからです。
98
:
メビウス
◆4lggoO1oV6
:2013/10/13(日) 21:55:58
>>97
スレ違いなので該当のスレにレスします。
99
:
名無しさん
:2013/11/16(土) 11:44:41
twitterやwikiを見るにメビウスさんのお考えも細かい変化があるように思われますが
ここで改めてスレッドの題について現在のメビウスさんはどのようにお考えですか?
100
:
メビウス
◆4lggoO1oV6
:2013/11/17(日) 19:33:49
個々の人間と時空の実在性を否定して、「宇宙に本当に存在しているのはただ一つである」とする
エレア派の立場を取る点で私は一貫しているのですが、「何が存在しているか」という問題
については考え方が変わってきました。
以前は自分が見たり思ったりする心的「現象」が自分の理解した通り存在するのだと大森荘蔵同様に
思っていたのですが、最近は時間の問題を考究した末に、人間は「現象」を正しく理解できない
のだと思うようになりました。
この問題は11月1日に①~⑩と連続ツイートしているのですが、
https://twitter.com/mobius774
いずれまとめwikiにも自分の見解として書くつもりです。
101
:
名無しさん
:2014/09/27(土) 23:13:37
まず、死んでも意識は続くと思う。霊体になっても人間や物などは見えてると思うし、もしかしたらあの世に行かなくても良かったりしてね。死んでもこの世に留まる霊はネガティブな思い100%で生きてきた霊だとどこかに書いてあった、よくいう成仏してないってやつだね。
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