プロローグ/チョークポイント
海事用語で「チョークポイント」と呼ばれる専門用語があります。
「チョークポイント」とは日本語では「閉塞浅海域」と訳されていますが、軍事用語では「戦略的阻止点」と訳され、敵艦隊を阻止するための重要な海峡や地点を意味します。
欧州とアジアを結ぶ海洋航路ではスエズ運河はその「チョークポイント」の典型例であり、この運河を通航できる最大船型は「スエズマックス」と呼ばれています。
同様に、パナマ運河を通航できる最大船型は「パナマックス」です。
今回、中国からオランダに向かう途上の2021年3月23日にスエズ運河で座礁事故を起こした日本の正栄汽船が所有するコンテナ船「エバーギブン」は全長400メートル、全幅59メートルであり、スエズ運河を通航できる最大サイズでした。
本稿では、チョークポイントとは何か、今回のスエズ運河座礁事故とロシアの北洋航路を考察したいと思います。
バルチック艦隊の悲劇
帝政ロシアのバルチック艦隊は1905年5月27~28日の日本海海戦において全滅しました。
バルチック艦隊の主力部隊が喜望峰を廻り、小型艦船主体の補助艦隊がスエズ運河を通過したのは、戦艦や巡洋艦は当時のスエズ運河を通航できなかったためでした。
レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)からスエズ運河経由ウラジオストクまで約1万2300海里、北極圏の北洋航路経由の場合は8000海里弱となり、4400海里も距離は短縮します(1海里約1.8キロ)。
喜望峰経由では、距離はさらに伸びます。
むしろ、当時の軍艦で喜望峰経由、対馬まで辿りついたこと自体、奇跡と言えましょう。
バルチック艦隊の悲劇はこの長距離遠洋航海と日英同盟に起因します。
ロシアのバルチック艦隊は英国植民地に寄港できず、水・食料・石炭は洋上補給となり、将兵は補給確保と長距離遠洋航海で疲労困憊。対馬に着く頃には戦闘できる状態ではありませんでした。
このことは、一水兵として日本海海戦(ロシア名ツシマ海戦)に参加したA.プリボイ著「ツシマ」の中で克明に記されており、この海戦記は涙なくしては読めない作品です。
歴史に「もしも」は禁句ですが、もしも全艦隊がスエズ運河を通過して一気呵成に対馬を目指せば、準備のできていない日本の連合艦隊は敗北していたかもしれません。
あるいは対等の海戦となり、バルチック艦隊の主力部隊はロシアの旅順艦隊に合流していた可能性もあります。
この場合、日露戦争の帰趨は変わっていたことでしょう。
換言すれば、日本海海戦は「勝つべくして勝った海戦」と言っても過言ではありません。しかし、このことは連合艦隊の偉業を貶めるものではありません。
世に、「勝つべくして勝つはずの戦い」で敗北した実例は枚挙に遑がありません。
代表例は「ミッドウェー海戦」です。
正規空母4隻を有する日本の連合艦隊はミッドウェー島攻略を目指しました。しかし、軍事的には圧倒的優勢のはずが正規空母4隻と優秀なパイロットを失う大敗となり、この敗北を契機として日本は敗戦への途をまっしぐらとなりました。
世界のチョークポイント:
ホルムズ海峡とスエズ運河石油通航量
米国のEIA(エネルギー省エネルギー情報局)が2017年7月25日に発表した「世界の石油トランジット輸送チョークポイント」(World Oil Transit Chokepoints)によれば、石油海上輸送のチョークポイント通過量は下記の世界地図と表の通りです。
なお、ここで言う石油(Oil)とは原油(Crude Oil)と石油製品(Oil Products)の総称です。
同報告書によれば、2011年から16年までの石油海上輸送に於けるチョークポイント通過量は以下の通りです(単位:mbd=百万バレル/日量)。
世界の石油海上輸送量は毎年約6000万bdですから、スエズ運河を経由する550万bdは世界の石油海上輸送量全体の1割弱、ホルムズ海峡通過量は3割強に相当します。
原油価格は3月23日には約6%急落しましたが、23日のスエズ運河座礁事故を受け、翌24日には約6%急騰。以後、油価は乱高下を繰り返しています。
スエズマックスとパナマックス
スエズ運河を通航できる最大船型は全長400メートル、積載総トン数24万トン、喫水線下断面積(全幅×喫水)1006平方メートルです。
今回座礁した「Ever Given」は 全長400メートル、総トン数22万トン、喫水線下断面積926平方メートル(全幅59メートル×喫水15.7メートル)ですから、スエズ運河を通航できるギリギリの船型でした。
一方、パナマ運河通航可能最大船型は全長366メートル、全幅49メートル、喫水上58メートル、喫水15メートルです。
運河拡張工事は2016年6月に完工しましたが、これは米国メキシコ湾岸で生産・出荷されるLNGをパナマ運河経由で東南アジア(主に韓国・日本・中国)に輸出するためでした。
日本の原油輸入量/ホルムズ海峡
日本の原油輸入量は1973年(昭和48年)に最大値を記録後、以後一貫して減少しています。
1973年は第1次オイルショックの年で、油価は従来のバレル3ドル台から11~12ドル台に急騰しました。
日本のロシア産原油輸入量・シェアは2015年が最大となり、以後減少しています。
日本に輸入されているロシア産原油はサハリン-1(S-1)のソーコル(鷹)原油、サハリン-2(S-2)のサハリン・ブレンド、およびESPO原油の3種類です。
なお、ESPO原油とは西シベリア産原油と東シベリア・極東産原油のブレンド原油です。すべて軽質・スウィート原油(硫黄分含有量0.5%以下)であり、日本はウラル原油を輸入していません。
日本が輸入する原油の約9割が中東産原油、日本が輸入する原油の約8割がホルムズ海峡を通過しています。一方、ロシア産原油輸入路にはチョークポイントはありません。
ご参考までに、日本が輸入しているロシア産原油の出荷基地は、S-1ソーコル原油はロシア極東のデ・カストリ出荷基地、S-2サハリン・ブレンドはサハリン島南部のプリゴロドノエ出荷基地、ESPO原油はナホトカ近郊のコズミノ出荷基地になります。
日本のエネルギー安全保障を考慮すれば、チョークポイントのない、短期間で日本に到着するロシア産原油の輸入量拡大が日本のエネルギー安保に貢献することになります。
しかし原油を輸入するのは日本の民間石油会社ですから、日本政府も強要はできません。
一方、「ロシアの石油やガスに依存することは危険である」と巷間よく言われることですが、これは政治的発言であり、事実に反します。
ロシアの石油・ガスほど安全な供給源は存在しないと筆者は考えます。
よく引き合いに出されるウクライナ向け天然ガス供給停止問題は、政治的次元とは異なる純粋にビジネスの世界での話です。代金を支払わない相手に商品を供給しないことはビジネスの原則です。
ロシアの打算/北洋航路開拓
一方、今回のスエズ運河座礁事故に関し、懸念すべき事案もでてきました。それは北洋航路です。
ロシアはスエズ運河を経由する南廻り航路の代替航路として、北極圏を通過する北洋航路の宣伝を始めました。
筆者は、北洋航路は商業航路であると同時に軍事航路であると考えております。
北洋航路が拓かれれば、セーベロ・モルスクを艦隊根拠地とするロシア北洋艦隊とウラジオストクの太平洋艦隊が2週間の航路で接続されることになります。
これが何を意味するのかと申せば、バルチック艦隊の悲劇を避けることができるということです。
下記の地図をご覧ください。北極圏ヤマル半島で生産されるのLNGは日本にも輸出されています。
この途上にカムチャッカ半島があり、同半島のペトロパブロフスクにLNG積替え基地建設構想が進んでいます。
表面上の理由は、砕氷型大型LNG船でヤマル半島や対岸からLNGをペトロパブロフスクまで輸送して、ここでLNGを備蓄タンクに移し、小型LNG船で東南アジアにLNGを輸出する構想です。
一方、ペトロパブロフスクには露太平洋艦隊の原子力潜水艦基地があると言われています。
ウラジオストクの露太平洋艦隊が太平洋に進出するためには、宗谷海峡・津軽海峡・対馬海峡のチョークポイントを通航しなければなりませんが、ペトロパブロフスクにはチョークポイントはありません。
ロシアの攻撃型原潜がチョークポイントなしに南下すれば太平洋です。これが何を意味するのかと申せば、太平洋における制海権の軍事バランスが崩れるということです。
ただし、ミサイル原潜が南下する必要性はありません。ペトロパブロフスクの湾深くで、静かに遊弋していればよいだけです。
一方、ペトロパブロフスクには難点が2つあります。それは補給困難である点と電力不足問題です。
露ガスプロムはガス発電のために同半島のガス田を探鉱・開発して、天然ガスパイプラインも建設しましたが、埋蔵量が少ないためガス火力発電には不安が残っていました。
しかし北洋航路が開拓され露北洋艦隊と太平洋艦隊が2週間の航路で接続されれば、その途上にあるペトロパブロフスクへの兵站補給問題は解決します。
同地にLNG火力発電所を建設すれば、電力不足問題も解決します。
すなわち、北洋航路開拓はロシアにとり一石三鳥の効果をもたらすことになります。
ロシア北洋艦隊は軍管区に昇格
ロシアの北洋艦隊は1932年に創設されました。
ロシアが北洋艦隊を重視していることは、北洋艦隊が2021年1月1日から軍管区に昇格したことからも明白です。
露V.プーチン大統領は、北洋艦隊を軍管区に昇格させる2020年12月21日付け大統領令に署名。この大統領令は2021年1月1日に発効しました。
北洋艦隊には、西部軍管区からムルマンスク州・コミ共和国・アルハンゲリスク州・ヤマロネネツ自治管区を抽出して北洋艦隊麾下として、最新兵器も北洋艦隊に優先装備されることになりました。
エピローグ/奇貨居くべし
今回のスエズ運河座礁事故を受け、内心一人ほくそ笑んでいるのがロシアのプーチン大統領と筆者は推測します。
スエズ運河の脆弱性が現実のものとなり、北洋航路の重要性と有利性を世界にアピールする千載一遇の好機となりました。
今回のスエズ運河座礁事故は、プーチン大統領にとりまさに『奇貨居くべし』と言えましょう。