囁くもの 前
この人って幸せですよね、ある意味
ジェイルが部屋に入ると、鼻に絡みつくような香と水煙草の匂いがした。
これではもう部屋にしみついているだろう。
香炉や水煙草類は撤去されているが、まだ薄っすらけぶっている気がする。
寝具や調度品、部屋全体にこの匂いが付くのは職業柄致命的だ。
ジェイルは隠密や暗殺を生業にしている。身体能力が高いので、正面でも戦えるが一人で多勢を相手にすることもできる。だが無駄な力を消耗しないためにも、隠れて動くことが多いのだ。
勘の鋭い人間が、この臭いに気付いたりしたら面倒だ。
稀に、貴族が嗅覚の鋭い種族を傍に置いていることがある。
だから、ジェイルが使うものは極力匂いが少ないものか、匂いが捉えにくいものを使用する。すぐに匂いが散るものや、僅かに痺れさせて嗅覚を狂わす類のものだ。
習慣づいているとはいえ、それなりに手間をかけているのだ。ヒトの苦労を無に帰すような真似をされたジェイルは気分が悪い。
恐らく、クローゼットなどの僅かな服にもこびりついているだろう。
一応換気の為か窓は空いている。
(クソアマ、アイツがギャーギャー騒ぐからそれなりの屋敷にしたのに。これじゃあまた新しい巣を見繕わなきゃならねえ)
レナリアは奔放で、自分の尻拭いなどはしない。
不平不満はいっちょ前だが、自分で下準備や根回しをしようという考えがないのだ。
そのツケを払わされるのは、なんだかんだで上から付けられたジェイルと、ジェイルがいない間に監視しているベルナだ。
レナリアが男を引き入れるのは今に始まったことではない。酷い時など、数人引き入れて乱交パーティ状態だった。そのせいで、何度か住居を引き払う羽目になったこともある。
自分が追われている身だと自覚がない。何度いっても「私はヒロインだもの」と訳の分からない論理を振りかざす。
最近は、お気に入りの男ができたのかだいぶ癇癪は減った。
男を転がすのが得意なレナリアには珍しく、逆に入れあげている。
上手く機嫌取りのできる男らしく、その男との予定が入っているときは比較的大人しくしているのだ。
(しかし胡散くせえ。あの男、出来過ぎている。レナリアは夢中になって気付いちゃいないが、裏が取れねぇ)
仮面舞踏会や、怪しげな仮装パーティのような場所に良く出没するらしい。
あくまで比較的であり、見かける頻度には波がある。一時期ぱったりで出なくなったこともある。
暗闇の中で、水中の薄布をひっかいているような感覚だった。
レナリアの部屋に行くと、喜色を隠そうとしないレナリアの笑い声が響いていた。それに相槌を打つ緩やかな低い声が、例のお相手だろう。
レナリアはめかし込んでいたというし、今乱入したらそりゃあ甲高い声で騒ぐだろう。
溜め息をついたジェイルは、感情を押し殺して部屋を離れた。
ジェイルが部屋に到着した頃には、レナリアは既に来客を持て成しにいっていた。
レナリアはいつもの派手なドレスとは違い、上品で清楚な濃淡のあるピンクのドレスを纏っていた。
スクウェアカットのデコルテや、裾に繊細なフリルがあしらわれた可愛らしいデザインだ。胸から腰のあたりまで光沢のあるリボンが細かく交差しながら続いており、パフスリーブや切り返しの部分にも織り込まれている。
贈られたときは子供っぽく地味だと思ったが、レナリアが試着するとそれは良く似合った。
くるりと一回転すると、フレアドレスのたっぷりしとしたドレープのラインが優美だった。ダンスなどで翻すことも想定しているのか、裾から僅かに見えるペチコートのレースの細かいプリーツがとても華やかだった。
華奢な首や、手足や腰のラインを強調して心許無い胸元や腰はコサージュと共にレースやリボンがしっかりボリュームをカバーしてくれる。
よく見れば、ローズブランドの品であったのもレナリアの自尊心を擽った。
いくらジェイルたちに訴えても、ローズブランドは無理だと却下され続けていた。
ならば他のブティックでオーダーメイドを望んでも却下。
自分で買えと言われると、レナリアは非常に腹が立った。自分が「ドレスを贈られる価値もないその辺の女」の一人にカウントされそうで、惨めだった。
買いたいときは自分で買うけれど、男に贈られるプレゼントは別枠だ。
仮面の男は、その日は素顔だった。
今までの社交場が社交場だったので、レナリアは彼の正しい髪色どころか目の色すら知らない。フルフェイスタイプや色硝子入りの仮面をかぶられると判別がつかないのだ。
だが、数多の男を相手取ってきたレナリアの美形センサーがしっかりと反応していた。
僅かに見える目元や、顎や唇、鼻筋などのパーツが非常に整っていた。
(思った通り、ううん、思った以上にイケメン……!)
仮面を外した下には白銀の髪をオールバックしているが、毛先を僅かに遊ばせているので堅苦しい雰囲気はしない。淡い黄金色の瞳は優し気に少し垂れていて、泣き黒子が何ともセクシーだった。通った鼻梁に、やや薄目の唇は上品である。
そこから紡がれる、極上の名器のような声は特にお気に入りだ。
上等な薄手のコートにペイズリーの刺繍の入った黒いベストとカメオのブローチが付いたクラバット。今日もそうだが、落ち着いたシックな装いを好み着崩すことはない。派手なドレスコードの時は勿論それに倣うが、漸くプライベートでもあってくれるようになると上品なセンスがうかがえた。
読んでいただきありがとうございました!
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