だれでも
私が◯◯字書きをやめた理由
「これだけフォロワーがいるのに、応援してる人たちを捨てて◯◯(私がいた前ジャンル)から逃げるんですか」というマロがきていたので答えてみることにする。不快に思う方もいるかもしれないので注意してほしい。

 まずはじめに、なぜ私がこの話を文字に打ち出そうと考えたのかという点から説明しよう。
 ことの発端は先日不具合にて届いていなかったマロが数件届き、その中に非常に面白い(などという表現をすれば煽っているかのように思えるだろうが、事実煽りたい気持ちもあるのでそう受け取ってもらって構わない)内容のものがあった件である。

 残念ながらマロを登録していたアカウントは削除済みな上、わざわざスクショを取ってぷらいべったーに貼って……というのは面倒なのでお見せすることはできないのだが、ざっくりまとめると以下のような内容だった。

「これだけフォロワーがいるのに、応援してる人たちを捨てて◯◯(私がいた前ジャンル)から逃げるんですか」

 これを読んだ瞬間、私はとてもすっきりした。前ジャンルのアカウントを削除後、なんとなくぼんやりと胸のうちに残っていた不透明な感覚。このわだかまりはいったいなんなんだろう、とずっと思っていたわけだが、私はどうやら気付いていなかったようだ。自分がそのジャンルから「逃げた」ということに。

 いや、もっと正確にいえば、「◯◯の字書き」という立場から逃げたのだろう。ではなぜ私は◯◯の字書きから逃げるに至ったのか。こんな面白みもないただの吐き出しを読んでくれている方には疑問を与えていたかもしれない。その疑問の答えを包み隠さずすべて曝け出したのが以下の文章になるので、そんな鬱屈とした内容知りたくもないという方はどうかブラウザバックをお願いできればと思う。ここまで読んでくれてありがとう!

   ◆◆◆

 さて、では今この一行に目を通してくれている方は、世間様から見たら至極どうでもいい私の持論を聞いていってくれるとのことで、お付き合いくださり心から感謝申し上げます。……と、いうのは嘘である。正直なところ物好きな方もいるものだなあと思っている。始終こういったふうに日記のような書き方になるので、不快に思われたり私を嫌いになる方もいるかもしれない。しかし事前に注意は促しているので自己責任としていただきたい。

 私が◯◯字書きをやめた理由はいくつかある。前のアカウントで何度もツイートしたように「一次創作にチャレンジしてみたい」という思いが大きいのは確かだ。しかしそんな前向きな気持ちばかりでは当然ない。

 私には元々非常に苦手で怖いものがあった。『期待』である。

 なんのこっちゃ、と思った方もいるだろう。私も自分のこの感情にきちんと気が付いたのは大人になってからなので、特に若い方からすれば「いいおばさんがなに言ってんだ」と思われるかもしれない。
 事実、『期待』を恐れているなんてことは社会人としては通用しない話である。期待されてこそ世のため人のため社のために働けるのだろう。期待に応えたい、という思いはとても尊く人を成長させるものだ。

 だから私はこの年齢になっても一般的な就職経験もなくのらりくらりと好き勝手に生きている。『期待』を恐れるがあまり底辺を這いつくばって雑草ばかりを食べながら薄汚れた人生を歩む典型的な社会不適合者。それが私だ。

 と、いうのは些か自分を卑下しすぎなので少し訂正しよう。私はそんな「ちゃんと働けない」「ちゃんと大人になりきれない」自分をあまり悲観的に思ってはいない。なぜって、そんな人生を選んでいるのは自分自身であり、年甲斐もなくふらついている私のせいで誰が迷惑するわけでもないので、そもそも悲観する必要がないからだ。金銭面などで将来のことは悩むときもあるが、基本的に私は私のことしか考えていない。私の生き様を見てなにか思う人がいてもまったく気にならないのである。

 そう。私は他人がなにを思っているのか、どう考えているのか、そういったことに興味がない。こういう言い方をすれば他人に流されない格好いい人間にも聞こえるかもしれないが、そんな綺麗な立ち振る舞いではない。ただ単に「他人なんかどーでもいいから傷付こうが不快だろうが私は私のしたいようにする」といった感じの自己中心的考えなだけだ。
 私のこんな性格や行動によって◯◯で知り合った人たち数人との繋がりが消えた。まあその点に関してはあちら側の言い分もあり、私の言い分もあり、そんでもって単純な大人の喧嘩揉め事なので割愛する。
 
 私がここに綴りたい内容はそこではない。「私は『期待』が苦手である」「私は私のことしか考えていない」この二点によって結果的に◯◯の字書きをやめるに至った、という話である。

 まずは『期待』の話をしてみよう。これは本当に文字通りで、私は小さい頃から他人に期待されることが苦手で仕方なかった。
 とんでもなく調子に乗った発言をすると、私は決して優秀な人間ではないが、かといって不出来でもない。たとえば学校の成績は然程集中して勉学に励まなくとも学年の真ん中あたり、バイトをすれば物覚えも早めでだいたい「動ける子で助かるよ〜」と上司に言ってもらえるようなタイプであった。余談だが運動だけはからっきしだ。

 しかしそれこそがまさに私にとって恐ろしい環境というものだった。勉強もバイトも、最初に人並みもしくはそれ以上にできてしまうと、先々を勝手に想像されてしまう。「勉強しなくても真ん中あたりなんだから、勉強すればもっと上を目指せるのでは」「数日であの作業をマスターしたのだから、こっちの作業もすぐにいけるだろう」こんな大人たちの考えがとても怖かった。なぜなら私にはなにかに対するヤル気や興味を持つという好奇心が欠けていたからだ。

 頑張ろうという向上心を持たない人間は、たとえ最初にある程度の場所まで行けても、そこから先へ進むことはできない。いや、できる人間もいるのかもしれないが、それはいわゆる「天才」と呼ばれる類の人種だろう。私は天才ではない。ただ少しだけスタートラインを飛び越える力が人よりも強いだけの凡人である。

 飛び越えた後はすっかり棒立ちだ。努力を重ねる他人が横をすり抜け、どんどん成長していくのをただぼうっと眺めているだけ。
 そうするとどうなるかというと、それまで私に『期待』を向けていた人たちはだんだん落胆していく。やがて見向きもされなくなり、過去の人間としてすら扱われない、忘れ去られた存在となるのだ。

 私はその瞬間を何度も何度も経験してきた。そんな人生を歩んできて、思うに至ったことがある。向上心というものは嘘偽りでも掲げておくに越したことはない、ということだ。
 
 趣味だろうが仕事だろうが、向上心を持って努力している人間というのは総じて美しいらしい。頑張っている人を見ると応援したくなる、という心優しい人間がこの世界にはたくさんいる。二十数年の人生でそう学んだ私は◯◯字書きでいる間もそのことを胸に活動してきた。

 そして悟った。私には無理だと。
 向上心を掲げれば、周囲の人間はあたたかく見守ってくれる。しかしそのまなざしは必ず『期待』を孕んでいるのだ。次作への期待、人間性への期待。もっといえばその人の生い立ちや人生観への期待まで及ぶ場合もあるだろう。

 まったくもって恐ろしくてたまらない。書けば書くほど前作との差異を気にしなければならない気がする。道徳的で穏やかな人間でいなければならない気がする。立派な大人でいなければならない気がする。

 もちろん、応援してくれている人たちの言葉にそんな含みなどないことはわかっている。しかしそんな強迫観念に支配された私は、私の妄想する素晴らしい人間とやらを演じてしまった。
 そしてそれに無理が生じた。だから私は◯◯字書きをやめるに至ったのだ。

 これはふたつめの論題「私は私のことしか考えていない」に通ずるものがあるのだが、結局どれだけ繕っても私は誰かのためになにかをできる人間には成り得なかった。
 先に「年甲斐もなくふらついている私のせいで誰が迷惑するわけでもない」と述べたことを覚えているだろうか。これには当然例外がある。私が大人になりきれず、SNSという場において自己中心的な行動や発言をしたせいで被害を被る方がいるかもしれない。それと親家族には心配をかけているだろう。後者はここに綴っている話とはまったく関係ないので置いておく。

 私の行動や発言を不快に思ったというならば、まあそれは申し訳ないと思う気持ちもなくはない。がしかし、結局のところSNSは自由閲覧の場なので、嫌なら見なければいいのひとことに尽きる。
 一方、私の行動や発言が意図せず曲解して誰かに伝わり、その結果第三者が傷付いた場合。私は罪悪感を持ち誠意を見せる必要があるのだろう。自分が直接的に悪いわけではなくても、傷付いた第三者へのケアと根本的な問題解決にはそれが大人として当然の対応だからだ。
 
 それができなかった。どうしても、絶対に。
 きっと私が本物の素晴らしい人間であれば、難なくやってのけただろう。しかしここで思い出してほしいのが、私は本来『期待』を恐れるうつけ者であることだ。

 私ならこんな発言はしない。こんな行動はしない。そんな期待を周囲に持たれていることが耐え難かった。私は自己中心的で、私だけのために生きている。だからSNSでの活動も、◯◯での活動も、すべては私のため。私の創作欲求と承認欲求を満たすための行動である。そこに第三者を慮る利他や、他人との関係性、そして「こうあるべき」という誰が作ったかも知らない倫理など入る余地もない。(ここでいう倫理というのは二次創作界隈においてのみ意味を持ち、公式様への配慮に関することや、公序良俗に反するものを除く)

 私は誰にも期待されたくない。向上心とは無縁なので、結局落胆される未来が待ち受けているからだ。そしてそれを改善したいとは思っていない。勝手に期待して落胆する周囲の方がおかしいとすら思っている。というか、他人になにかを求める姿勢を応援という言葉にすり替えているだけにしか思えない。
 応援されたくないということではない。私は欲求に忠実なので、応援や励ましの言葉は素直に嬉しいしもっと欲しいと思っている。書けば読んでもらいたい。反応のひとつでももらえたら創作意欲は上がる。今までいただいた応援のお言葉やご感想はすべて心に残り、それをくれた方々に全幅の信頼を寄せている。ただ私は私のために存在しているわけで、それ以上なにも求めないでほしいという我儘を言いたいだけなのだ。

 結論を出そう。
 私がフォロワーさまを捨てて◯◯から逃げたのは、「期待を恐れた結果、これからは自分のためだけに活動をし、そしてあわよくば、私の書く話を本当に好いてくれていた方にそれを応援してほしいと思ったから」である。そしてそれが◯◯では叶わないと知っていた。それは私が◯◯で活動していた間、各方面から教えてもらった、或いは勝手に聞かされた界隈の空気やルールを鑑みた末の判断だ。◯◯への興味が薄れただとか、そんな自然で透明な理由ではない。

 長くなった。本当にとても長くなった。そして取り留めのない文章で恥ずかしくも思う。
 こんな話を最後まで読んでくれた方。これは私の推測だが、「こいつこんな性格だったんかよ、やべーやつじゃん」くらいに思っている方が八割ではないだろうか。申し訳ないがこういうやつだ。
 ただどんな形であれ、私の綴った文章を最後まで読んでくれた「読者」さまであるあなたに心よりの感謝を申し上げたい。私の私による私のための話を聞いてくれてありがとう。そしてどうか、これからもこんなやべーやつと仲良くしてくれたら嬉しい。

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