女人禁制という伝統儀礼への善悪というのは、一見すると正しいように思える。
ところが、宗教的な儀礼にせよ、宗教の世界観にせよ、必ずしも硬直的な正統主義によって不可侵のものでもない、ということだ。
ここのアポリアは、伝統主義と現代に必ずつきまとっている(続
スレッド
会話
返信先: さん
ボブズボウムによる創られた伝統の指摘以降、伝統の概念は一変した。少なくとも熱エントロピーの低い、変化しない伝統像から、ときに自分たちのアイデンティティやもしくは近代社会への参入条件であった、民族という概念のためにサルベージしたり、創造されるものとしての“文化”の場があった(続
1
4
熱い熱量を持つ場こそ、文化を巡る言説の領域である。
宗教的な儀礼が自らの意志で参加する場であるとして、地域の祭りがその共同体のものだとしたら、新しい祭りのありかたを巡って議論されることこそ、実は伝統儀礼や文化の姿である。
どの伝統も、誰かが作ったものであるのならば(続
1
4
これからの伝統となる形を私たちが作りうるものでもあることだということを再確認する必要がある。
ただ、誤解を招かないようにするが、文化における何かの具体的現象は、個人の恣意的、または特定のひとたちの恣意的な意図によって改変されるというものではない(続
1
4
それは、文化が集団的なイシューの場であり、醸成され、共有されうるものが前提であるからだ。
熊本の藤崎宮例大祭は、ボシタ祭りと言われ、元来そのボシタという言葉を連呼し、馬を暴れさせるという慣習があった。
しかし、ボシタには諸説あり、語源として性行為の方言説や、朝鮮出兵説(続
1
4
などから、議論がおこり、連呼する言葉が変化し、動物愛護の観点から馬に無理やり暴れさせるためにムチを売ったり、酒を飲ませるなどということも禁じられた。
今回のケースは市の認識が余りにも稚拙であるために、このような齟齬が起きたのだが、それこそ文化が熱い場であることの証だろう。
4