ごあいさつ

 いつもありがとうございます。田中慧(たなかけい)と申します。

 私はこれまで15年間、衆議院議員の政策担当秘書として、全国各地を歩き、政策を作ってまいりました。

 私は、これまでの国会議員秘書経験の中から、「自治体のトップ」の判断一つで、その自治体の住民福祉に多大な差異が生じることを実感し、また、「どうしてこういう判断をされないのか」というじくじたる思いをしたことも何度もありました。また、「自治体が国の制度を利用しきれていない」、という現実も目の当たりにしてきました。

 私が南大隅町に初めて来たのは4年前です。仕事の関係でお付き合いのあった鹿児島ゆかりの友人から、「南大隅町という町が、急激な人口減に苦しんでいる、なんとかならないだろうか」というお話を伺いました。

 初めてこの町にきて、いちどに好きになりました。なんと素晴らしい景色だろう、なんと雄大な自然だろう。錦江湾の向こうにたたずむ開聞岳、そこに沈む夕日の美しさ。朝日も夕日も見ることができる、本土最南端の佐多岬。西郷どんのオープニングにも使われた、雄川の滝。

 日本中の人に、世界中の人に、この風景を見てほしい、この町を知ってほしい、と思いました。

 実は20代半ばのころ、知人から、愛知県の市長選挙に出てくれないかと依頼されたことがありました。その当時は、「地方選挙は、その地元に根付いた、その地元出身の人が出るべきだ」との考えがあり、きっぱりとお断りをしました。

 しかし、それから秘書としての経験を積むにつれ、全国各地の様々な取り組みを勉強する機会も増えました。その中で、疲弊した地方の再生、人口増に成功している自治体に共通していることが一つあることに気付きました。それは、「外からの人が新しい発見を地域にもたらし、もともと地域に住まう方々と連携してイノベーション(革新)を生み出している」ということです。地方創生の先駆自治体とされる島根県隠岐郡海士町の、そのきっかけとなった町長も、両親は外から島に越してきた方でした。いち早くインフラを整えて全国各地からITベンチャー企業の誘致に成功した徳島県神山町では、町が指定した民間団体主導の「逆指名制」の移住促進事業を成功させました。財政破綻で全国的にニュースとなった北海道夕張市で、市長として立て直しに挑戦したのは、もともと夕張市とは縁のなかった、東京都から派遣されていた職員でした。その職員、鈴木直道氏は、今では北海道のリーダーを務めておられます。

 そのような事例を勉強するにつれ、「もともと縁のない人が飛び込むからこそ、新しい価値を創造していける、それこそがその地域の住民の為になるし、国家全体に貢献することにつながるのではないか」との思いを強くします。

 先日、辺塚の港を訪れると、山中貞則先生の功績を顕彰する石碑がありました。山中先生は、これまで私が働いてきた、沖縄にとっても大恩人です。沖縄県の、県外出身者の名誉県民第一号が、山中先生です。そして、私自身、宿命を感じました。私の両親は、沖縄海洋博で出逢いました。沖縄海洋博は、沖縄の祖国復帰を記念して開催された博覧会でした。そして、沖縄の祖国復帰に、陰に日向にと尽力されたのが、山中先生でした。あのタイミングでの沖縄の復帰がなければ、私自身がこの世に存在することはなかった。つまり、山中先生のかげで、今私が存在している、その宿命を突き付けられた思いがしました。山中先生の愛するふるさとが、今大変に苦しんでいる。

 今、南大隅町は、消滅の危機にあります。毎年数百人ずつ人口が減少し、最盛期には25000人近くいた住民が、2010年には8800人、そして今では既に6800人に。高齢化率(住民に占める65歳以上の方の割合)も5割近くに達し、将来の見通しも立たない状況です。

※南大隅町人口ビジョン(令和元年度改訂版)より

 そうした状況に、特効薬はあるのか。国のあらゆる事業を誘致する覚悟と決意があれば、まだ間に合う。しかし今回が最後のチャンスだ、私はそう思います。

 国が抱える課題を南大隅が支える、南大隅が抱える課題を国が支える。その関係を築くことは、これまで国のど真ん中・永田町で働いて、人脈を作ってきた私だからこそできる、と自負しています。

 思い起こせば、近代日本は鹿児島の地から始まりました。その明治維新も、薩摩大隅出身者だけでなく、薩摩藩の意気に応じて集まった外部の人材も大きな力を発揮しました。南大隅が元気になれば、鹿児島が元気になる。そして鹿児島が元気になれば、日本が元気を取り戻す。日本の隅っこから日本全体を元気にする、これは南大隅の皆さんだからこそ、挑戦できることです。

 私に鹿児島の血は流れていませんが、義父は鹿児島出身、つまり私の娘には鹿児島の血が流れています。私は娘に、誇りあるふるさと鹿児島を見せてあげたい。

 私にこの大仕事をやらせてください。住民の皆様、お一人お一人のお声を伺いながら、皆さんと共に考えながら、共に汗をかかせていただきたい。この宿命を使命に変えて。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

田中けいの生い立ち

プロフィール


プロフィール写真
昭和57年(1982年)12月3日 福岡市生まれ
昭和60年 私立青葉幼稚園 入園
平成元年 那覇市立開南小学校 入学
平成7年 佐賀市立勧興小学校 卒業
平成7年 私立久留米大学附設中学校 入学
平成10年 私立久留米大学附設高等学校 入学
平成13年 東京大学理科一類 入学
平成16年 東京大学工学部 航空宇宙工学科 進学
平成21年 同上 中退
平成17年 衆議院議員 私設秘書
平成21年 衆議院議員 政策担当秘書 現職

趣  味:写真、野球、プラモデル、カラオケ
家  族:妻、娘、イヌ、ネコ、カメ
座右の銘:鼓腹撃壌(こふくげきじょう)

幼少期

 新聞記者をしていた父、主婦をしていた母のもとに、田中家の二男として福岡市で生まれました。父は福岡市に赴任する前は鹿児島支局に勤務。生まれた福岡市には1歳まででしたのでほとんど記憶はありませんが、マンションの共有テラスで遊んでいたことは何となく覚えています。

 1歳の時に父の転勤で小倉へ。幼稚園卒園の6歳まで過ごします。2歳年上の兄と同じ幼稚園(その後兄とは高校まで同じ)でしたので、年少組の私と、年長組の兄、1年だけ一緒に通いました。遠足が雨で中止になったとき、園内の好きなところでお弁当を食べよう、ということになり、私が兄のところに向かい、兄が私のところに向かい、ちょうど真ん中の階段で遭遇した、というエピソードがあるほど兄弟仲良く育ちました。

 幼稚園の頃の習い事はピアノと水泳。ピアノは幼稚園でやめましたが、水泳は小学校まで続けました。同じ幼稚園の中で自分だけが違う色の水泳帽だったことが誇らしかったことを覚えています。

小学校

 父の転勤にともない、小学校入学から沖縄県那覇市へ。入学した小学校は、市役所の隣にある開南小学校。卒業生には、元沖縄県知事の仲井眞弘多氏や、のちに私の上司となる國場幸之助衆議院議員、後輩には、女優の、新垣結衣さんがいます。

 沖縄には1年生から3年生まで在学しました。部活は、サッカー部。水泳も続け、運動会での選抜リレーにはクラス代表で選ばれるほど活発なスポーツ少年でした。

 4年生への進学と同時に、再び父の転勤で佐賀市立勧興小学校へ転校。当時、マンガ「スラムダンク」が大人気だったこともあり、バスケットボール部に入部しましたが、水泳は鼻炎の悪化で4年生いっぱいでやめることに。しかしその後、6年生で佐賀市の大会に出場し、4位入賞を果たします。

 6年生からは中学受験に向けた勉強に集中しました。塾でできた友達と競い合った日々は、今振り返っても人生で一番勉強をしていた時期かもしれません(笑)。

中学校~高校

 久留米大学附設中学校へ進学します。父も転勤で久留米に赴任することになり、家族で久留米に引っ越ししました。中高一貫校で、高校受験がない分、中学生になにか取り組ませよう、ということで、中学には珍しく「卒論」の課題がありました。私は、報道番組を見ていた時に「中国では死刑判決が出ても執行されることはめったにない」というコメンテーターの発言を疑問に思ったことをきっかけに、「死刑制度」の歴史について調べることにしました。が、調べる過程で、「冤罪事件」にまつわる死刑制度と切っても切り離せない課題を知り、そちらに重点を置いた卒論となりました。旺文社賞や久留米大学理事長賞をいただきました。

 高校にしか野球部はなかったのですが、昼休み、一人で壁に向かってボールを投げている私を見て、高校の軟式野球部の顧問の先生が、「練習に参加しろ」と誘ってくれました。高校ではそのまま野球部に入部。進学校のため、高校2年生の秋の大会での引退が慣例ですが、その大会で、県大会準優勝投手となることができました。

大学時代

 東京大学理科一類を受験。前期試験では数学で大きなミスを犯し、予想通り不合格となりました。ダメ元で挑んだ後期試験で、開き直ったことが幸いしたのか、(おそらく)ギリギリの成績でなんとか合格。結果としては現役合格を果たすことができました。

 大学では、準硬式野球部と学園祭の実行委員会に所属しましたが、残念ながら1年で肩を痛め、野球部は退部。その後は、学園祭に全力を注ぎました。2年目で駒場祭委員会事務局長、4年目には五月祭常任委員会委員長を務め、特に五月祭では、私の発案で、それまで学生主体のイベントだった学園祭に、大学当局や教授陣も巻き込み、オープンキャンパスや教授による最先端の研究を紹介する公開講座などを企画。来場者数を大幅に増やすことに成功し、委員会として、東大総長賞(総長:佐々木毅先生)を受賞しました。

 念願の工学部航空宇宙工学科に進学しましたが、周囲のずば抜けて優秀な同級生に圧倒されながら、自分自身が本来やるべきこと、果たすべきことは何なのか、と自問する中で、大学の目の前にあった、鳩山邦夫先生の事務所の門をたたきました。大学に通うよりも鳩山事務所に通うことが多くなる中で、2005年の郵政選挙で、鳩山事務所の政策秘書だった馬渡龍治氏が当選。人手不足の中で秘書としての勤務を誘われ、大学を休学して永田町の世界に飛び込むことを決意。その後、政策担当秘書試験に合格し、秘書としての資格を得たことから、大学も中退するに至りました。今でも両親には申し訳なく思っています。

 大学時代のアルバイトは、ステージ設営や家電量販店でのデジカメ販売員、引っ越し作業員、変わったものでは、パチスロマシーンの開発(デバッグのための、1コマずつの目押し作業、疲れます!!)を経験しました。デジカメ販売員の経験からカメラに興味を持ち、一眼レフカメラを購入、今も趣味にしています。

秘書として

 それから15年、基本的には永田町で、時に地元秘書として、様々な政策の実現や要望の実現に取り組んできました。

 自分の書いた原稿が、国会の議事録として永遠に残る、裏方ではあっても、この充実感は何物にも代えがたいものです。特に、次世代の党結党という、小さいとはいえ、一つの党を立ち上げていく過程に関われたこと、また、当時の平沼代表の代表質問の原稿を一部任されたことなどは、生涯の誇りとするところです。

 様々なご要望・陳情を処理する中で、自治体の方が国の方針をよく知らないまま勝手に判断して、地域住民のチャンスを奪ってしまったり、本来受けられるはずの支援が受けられていなかった、というような実態も目の当たりにしました。そのような経験を通じて、地方自治体の意識を変えていくことが国民福祉の増大に直結する、ということを学びました。

 朝5時に出勤し、夜0時近くまで働く、それが当たり前の日々でした。特にこの1年、コロナ禍が始まってからは地元のあらゆる声を吸い上げ、そして、政府のあらゆる支援策をどのように国民の方々に周知するか、に心を砕きました。支援策の中でも「ここがこういう条件だと適用されない」といった、現場で起きていることを官僚にぶつけ、制度改正に取組み、そしてフィードバックする、その繰り返しでした。

 そのような生活をする中でも、4年前にお誘いいただいた南大隅のことは常々頭にありました。南大隅の皆様は、真剣に、町の将来を憂いています。実際、お付き合いのある方で、すでに他陣営に関わってらっしゃる方でも、「南大隅のために必要なことは何か、話を聞かせていただきたい」とお願いすれば、よろこんで駆けつけてくれ、様々なご示唆をいただきました。そこには、「誰がリーダーになるにせよ、とにかくこの町をなんとかしたい」という篤い思いがありました。その思いにこたえていくために、お一人お一人に直接向き合う活動をしてまいります。

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政策

笑顔あふれる南大隅の未来の為に
あらゆる手段を使って町のトップセールスマンとして働きます!!!

田中けいの政治理念

◆すべての課題は「人口減少」から、との認識に立ち、すべての政策を「ストップ!人口減少」のために立案します。

◆政治の責任は、富(税)の分配だけでなく、富の創造にあるとの原点に立ちます。

◆暮らしと命を守り、人権を尊重し、物の豊かさと心の豊かさを実感できる社会を創ります。

◆声なき声に耳を研ぎ澄まし、心の声に寄り添い、政治の手を必要としている弱者のために。

◆支え合い・競い合い、励まし合う町を創造します。

◆県や国に頼るばかりでなく、自立した地方として県や国に貢献する誇りある町を目指します。

○消滅可能性都市から、持続可能な町へ
○都会に若者がでていく町から、親・子・孫三世代が同居・近居できる町へ
○本土の最南端から、日本の最先端へ

○新型コロナ対策を徹底、ワクチン接種を確実に進めます。

○一次産業の育成
 ・アンテナショップの開設
 ・漁港港湾の整備
 ・フイレ加工所の整備
 ・冷凍倉庫の整備
 ・あわび、サザエ、ハマグリ、タイ等水産資源の放流事業、イセエビ漁場の整備
 ・野菜用予冷庫の整備
 ・ハウス施設の整備
 ・畜産環境整備
 ・畜産浄化槽施設整備
 ・系統牛(佐多牛しらき)保存センターの整備
 ・農林業用共同利用機材の整備
 ・林産物加工センターの整備
 ・特産品加工所、研究所の設立
 ・ドローンを活用した小労力化、効率化の促進

○命とくらしを守る
 ・ドクターヘリポートの整備
 ・医師会病院の建て替え
 ・高齢者対応センター
 ・道路網の整備、維持管理強化
 ・簡易水道の整備
 ・治山事業の推進
 ・除間伐及び林道整備
 ・消防設備、救急設備の充実(ポンプ車、防火水槽、自治会ごとのAED)
 ・防災避難施設の整備
 ・コミュニティバスの運行
 ・ローカル5G整備、ICTインフラを活用した見守り強化、オンライン診療
 ・各家庭にソーラーパネル設置

○人の往来の活性化、観光客誘致
 ・高速船運航(鹿児島市)
 ・観光案内板の整備
 ・景観照明事業
 ・公衆トイレの整備
 ・夜間観光促進で宿泊客誘致
 ・すべての道路に携帯電話各社の電波網整備
 ・雄川の滝の遊歩道を車椅子で通行できるよう整備
 ・海岸線の公園整備

○子育て、教育支援、未来への投資
 ・子育てバウチャー(子育てクーポン券、教育クーポン券)の発行
 ・ICTを活用した先進教育、都市部の大学生との交流の促進
 ・南大隅高校に町内での雇用に直結する専攻科を新設
 ・三世代同居、近居に支援充実

○高レベル放射性廃棄物の処分場調査受け入れ
 ・2年間で20億円、その後の4年間で70億円の予算を確保、それを財源に上記各施策を推進。

田中けいの日々雑感

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