3 漆黒の追跡者、前編
『ボウヤか。俺だ』
「えっ、赤井さん!? いったいどうしたの?」
共犯者からの唐突な電話に、コナンは驚いて声を上げた。
このタイミングだ。ベルモットに聞いた組織の動きと無関係ではないだろう。
ベルモットから広域連続殺人事件の暗下で蠢く組織の一員、アイリッシュについて聞いたのは今日のことだ。
黒の組織に所属する人員の一人が、殺人事件に巻き込まれて殺害されてしまった。その人員の持っていたNOCリスト入りメモリーカードは殺人犯に持ち去られ、組織はコードネームを持つ幹部の一人、アイリッシュにメモリーカード奪還の任を任せた。
ベルモットからの情報は大まかに言えば以上のようになる。
件の殺人事件を追うことは、そのまま組織を追うことに等しい。
殺人犯をアイリッシュに始末されてしまう前に捕えれば、組織戦において大きなリードとなることだろう。
そんな状況下だ。組織関連の情報は喉から手が出るほどに欲しい。
コナンは緊張に神経をとがらせて赤井の言葉を待った。
『ボウヤに早急に伝えておかなければならない情報が入ったのでな。件の殺人事件と組織に関係することだ』
「もうそっちにも情報が入ってたんだね。ジェイムズさんから?」
『いや、ジェイムズからも聞いたが、俺が気になったのは安室君からのものだ。この件に関しては俺も個人で調査に出てみようと考えていたのだが……ひとつ、無視できない情報があった』
「無視できない……?」
コナンと赤井の協力関係については、今のところ厳重に伏せられている。公安のNOCである安室と直属の上官であるジェイムズ以外に二人の協力関係を知る者はいない。
連絡も不審がられないように最低限に控えている。
それを圧して「無視できない」というのだから、その情報の重要性にコナンは身を固めた。
組織内に今も身を潜めている安室からの情報、というのも緊張を加速させる。
『アイリッシュという幹部については聞いたか?』
「うん、今回の殺人事件の捜査官に変装して紛れ込んでるっていう情報は掴んでる」
『なら話は早い。そのアイリッシュが、個人的な協力者としてコードネーム持ちを一人雇ったそうだ』
「雇った? 不思議な言い回しだね。あまり面識はないけど何らかの取引として協力してる幹部がいるっていうこと?」
赤井が電話の向こうで小さく笑ったことにコナンは気が付いた。
それはリラックスや単なる笑いではない。本気で警戒しているとき、緊張しているときの赤井の無意識の癖なのだとしばらく行動を共にしたコナンは知っている。
『そうか、さすがのボウヤも彼のことは知らないか。なら、覚えておくといい。これからも組織と対峙するというのなら、彼の情報なくして組織を語ることはできんからな』
そう前置きした赤井の声に油断はない。
『ボウヤは5年前のイランで起きた暗殺事件を知っているか?』
「えっと、選挙演説中に刺殺されたっていう有力候補者の事件だよね。たしか、犯人が証拠不十分のまま死刑判決を受けて話題になってた、あの」
『ならば、メキシコの上院議員30人が行方不明になった件は?』
「半年前に騒ぎになったやつだよね、いずれも室内から高濃度のアルコールが検出されたって」
『欧州委員会の最有力者が旅行中に殺害された件はどうだ?』
「バリ島で起きたあの……って、赤井さん、もしかしてそれって組織と関係があるの?」
『もちろん。組織、というより彼に、だがな』
どれも新聞の国際欄を騒がせた有名な事件ばかりだ。
イランで起きた暗殺事件は、海外TVでは生放送だっただけあって衝撃的なものだった。
次なる指導者と目されていた政治家が公衆の面前で殺害されたのだ。国際社会では大いに取り上げられたし、政治関連での影響も大きい。
8か月後に逮捕された被疑者は証拠もまともに揃わないまま、事件の幕引きを急ぐかのように死刑判決が下された。専門家の中にはその被疑者が本当に犯人だったのか疑わしいという見方も出ている。
メキシコでの事件はイランのそれよりも話題性は小さかったが、事件の不可解さはダントツに上だ。
メキシコの政治を主導する上院議員30人が、同日・同時間に一斉に行方不明になったこの事件は、今でもたびたび続報が流れる。
議員のいたはずの部屋には、いずれも酒類など置いていないはずなのにむせ返るような酒気が漂っていた。
この気化したアルコールを詳細に分析してみると、わずかだが行方不明の議員のDNAが検出された、なんていうホラ話も出回っていたりする。
最後の欧州委員会の件は有名旅行地バリで起こった。
バリ近くの島を急遽貸し切りにして他の旅行客を追い出したとして件の委員には批判が集まったが、それ以上に滞在中にその委員が殺害されたことは大きく取り上げられた。
大ぶりの刃物……たとえば長剣などのもので複数回切り付けられたことが原因の失血死。
委員は警備員や大量のボディーガードを私財を使いつぶす勢いで投入していたという事実がのちに明らかとなり、記者たちはそろってバリを目指して渡航することとなった。
『闇夜のカラスは厄介だが、彼はカラスなどという可愛らしい生き物では形容できん。奴らがカラスなら、彼は悪魔かドラゴンか。宵闇を飛ぶモノの中で、俺は彼以上の存在を知らない。今挙げた事件はみな彼の仕業だ。情報網はゼウスの眼、殺人技術はレヴィアタン、なんて裏では囁かれていたよ』
「……その『彼』っていうのが、組織のコードネーム持ちの……?」
唄うように告げた言葉には、警戒と同等量の賛辞が含まれていた。
遠いおとぎ話でも語るかのような現実感の無さ。
もし赤井の挙げた事件が本当に全てたった一人の犯行だとするのなら、それは確かに伝説足りえる。
『年齢、性別、身体的特徴、すべて不明の暗殺者、グラスホッパー。それが彼のコードネームだ』
「グラス、ホッパー……」
草むらに跳ねるもの。淡い緑をしたリキュールベースのショット・カクテル。
『グラスホッパーは雇われの組織員だ。その隔絶した能力ゆえにコードネームを与えられた外部の暗殺者。ゆえに組織から課される任務は『命令』ではなく『依頼』の形をとる』
「だから雇った、なんて言ったんだね」
『ああ。気を付けろよボウヤ。彼と相対したとして頭脳や武力を用いても無意味だ。俺が今生きているのは、言ってみれば彼の気まぐれに過ぎない』
「赤井さんも命を狙われたことがあるの?」
『…………さて、アレは狙っていたと言えるのか』
赤井は明言を避けたようだった。
それはコナンが断片的に耳にした「組織を抜ける際のあれこれ」に深くかかわることかもしれない。
赤井が話したがらないため詳しくはコナンも知らないが、安室、赤井、そして亡き宮野明美に関わる因縁があるらしかった。
コナンは追及を諦めて話を切った。グラスホッパーとかの優秀なNOC達の関係は気になるところだが、今は目の前の危機に集中すべきだ。
「ありがとう赤井さん。僕はこれから麻雀牌の事件の情報を集めてみるよ」
『そうか』
生きて帰れよ、ボウヤ。
祈るような赤井の言葉に、コナンは人知れず目を伏せた。
まったくもって赤井は鋭い。グラスホッパーのこともあるだろうが、それ以上にコナンは現在追い詰められていた。
帝丹高校にあった黒い騎士兜が壊された。帝丹小でコナンの作った粘土のイルカは背びれがなくなった。
きっと、コナンにはもう後がない。蠢く組織の何者かがコナンの正体を決定的に突き止めたのだ。
己の置かれた状況を正しく判断し向き合える力を持つコナンは、赤井の言葉に何も返さなかった。
信頼する共犯者に嘘をつきたくなかったのかもしれない。
通話を切った携帯電話をポケットにねじ込み、コナンは米花図書館を後にした。
――――――
推理は行き詰っていた。
今回の広域連続殺人事件の犯人は水谷浩介でほぼ間違いないだろう。麻雀牌はエレベーターの並び位置を示し、2年前のホテル火災で亡くなった本上なな子の復讐が動機と推察される。
しかし、いまだ解けていない謎がいくつか。
被害者をわざわざ気絶させたうえで別の場所で殺害したこと、麻雀牌の裏に刻まれた文字のこと、そして当の水谷浩介の居場所のこと。
コナンは東都のとある神社の石段に座り、考えにふけっていた。
真昼の太陽が木漏れ日をもたらす。過ごしやすい気候もあって、緑の生い茂る境内は推理するのにも一休みするのにもとてもいい環境だった。
己の思考に埋没すること十数分。
「英明、叡智を感じる瞳。あなたは江戸川コナン?」
「うえっ!?」
ふいに背後から声をかけられ、コナンは泡を食って振り返った。
そしてその姿に息をのむ。
コナンの真後ろにいたのは少女だった。
ゴールデンブロンドの長髪はゆるく巻いて腰まで伸び、華奢な手足は透き通った白絹のごとき繊細さ。
現在のコナンよりも年上だが、まだティーンには届いていないだろう。
怖ろしいほどに整った顔はまだ未熟な幼さを色濃く残している。
白い上質なハビット・シャツに落ち着いたストロベリー・レッドのスカートを合わせた姿は西洋人形のように愛らしい。
コナン自身の母親もその周りにいる人々も整った顔立ちの人間が多かったが、この少女は別格だ。
神秘性すら感じる美とは、コナンも初めて見るものだった。
「……え、えっと、僕がコナンだけど……僕に何か用?」
「キッドキラーであるあなたと話がしてみたかった。現代のエルロック・ショルメ、お会いできて光栄に思う」
「あ、え、あ、ありがとう……」
エルロック・ショルメとは『ルパン対ホームズ』に登場する探偵キャラクターの名前だ。シャーロック・ホームズのパロディキャラであり、ルパンとは幾度も対峙するライバルである。
「私はハサン・サッバーハ。ハサンでいい」
「ハサンさん……えーっと、エルロック・ショルメって僕のことを呼んでたけど、そんな風に報道されてたりしたのかな」
「否。平成のルパンを追うものなら、エルロック・ショルメだろうと私は考えた。しかし実際にあなたと言葉を交わして、あなたはエルロックのように怪盗を追うよりシャーロックのように事件を追う人のように感じた」
「……たしかに僕の保護者は探偵だから事件に関わることが多いけど、僕はまだ子供だよ?」
「そう。あなたは子供。だからホームズではなくシェリングフォードかもしれない」
「シェリングフォードなんてよく知ってるね。エルロック・ショルメもそうだけど、ハサンさんは推理小説を読んだりするの?」
初対面の子供ということで当たり障りなく答えていたコナンだったが、少々興味をそそられる会話だった。
シェリングフォードはシャーロック・ホームズシリーズがまだ試作段階だったときに付けられたホームズの仮名だ。
エルロック・ショルメもシェリングフォードも、ホームズシリーズをよく読んだことがある人でないと出てこない比喩表現だ。
コナンは小学一年生に囲まれてまともにホームズの話もできない日々が続いている。コナンの心を上昇させるには十分すぎる情報だった。
「是。私は『オレンジの種五つ』を気に入っている」
「短編集『シャーロック・ホームズの冒険』のひとつだよね! オレンジの種が五つ入った脅迫状が依頼主に届けられた、あの!」
「感情というものを憎悪していると言っていたホームズにしては、感情的な場面が多くて珍しかった」
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「アメリカの白人至上主義な秘密結社だよね。その規模と勢力がアメリカ政治を動かしたぐらいだから、それを反映して『オレンジの種五つ』でも後味の悪い結末にしたのかも」
「それはあるかもしれない。世のKKKに対して持つ不気味な印象の反映」
「そういえば、『オレンジの種五つ』を読んだってことは、ハサンさんは『まだらの紐』も読んだ?」
「是。日本語版のタイトルがひどすぎてびっくりした。すごくネタバレ」
「そう! そうだよね!! Bandの意味系統なんて日本語訳したら仕方のないことなんだけど、タイトルで分かっちゃうと辛いよね!」
予想の数十倍に通じる受け答えに、コナンのテンションは一気に駆け上がった。
このくらいの年頃の子供でホームズは難易度が高い。
図書館に収まっているホームズの児童書を手に取ってみてくれただけでも、程度に思っていたのだが、ハサンと名乗る少女の答えは幼いながら十分にシャーロキアンだった。
『まだらの紐』の原題は“The Adventure of the Speckled Band”。
Bandの意味は「一団」と「紐」の両方があるため、日本語訳するなら「まだら模様の紐をめぐる冒険」「まだらの一団をめぐる冒険」と二つの訳ができるだろう。
そのふたつが作中で読者にミスリードをさせる仕掛けになっているのだが、残念ながら日本語版では種明かしされてしまっている。
コナンはどんどんとホームズの話題を振ったが、少女は驚くことにしっかりとついてきた。
コナンほどには読み込んではいないようだったが、コナンの語りは深すぎて同じシャーロキアン以外ついてこられないことがほとんどだ。
毛利蘭は相槌を打ってくれるだけ良心的だった。たいていの場合同級生相手に話しても聞き流されてしまう。
それが、こんなに小さな少女相手に満足いくまで語れるとは。
この頃は黒の組織に自身の正体を探られていたこともあり、コナンもピリピリと心が休まらない日々が続いていた。
そんな中に吹き込む涼風に、コナンは自然と笑みを浮かべた。
「私はもともとヴィクトリア朝イギリスに興味を持ってホームズに入った。『ジキル博士とハイド氏』『フランケンシュタイン』『吸血鬼ドラキュラ』『不思議の国のアリス』。ホームズはその一つ」
「なるほど。あのころは今につながる名作が多いしね」
「是、是。ときに、シェリングフォード。あなたは私が話しかける前、何を考え込んでいた?」
話す中でコナンのことをシェリングフォードと呼ぶことにしたらしい少女は、唐突にコナンに疑問を投げかけた。
その問いにコナンははっと思考を戻した。
すっかりホームズ談義に夢中になっていたが、目の前の連続殺人事件の謎が放置されたままだ。
Xデーである7月7日は今日。まだ日は高いとはいえ、残された時間は多くない。
「あっ、僕、毛利のおじさんに頼まれて事件の捜査の手伝いをしてるところだったんだ」
「そう。私は捜査の邪魔をしてしまった。申し訳なく思う」
「ぜんぜんいいよ、そんなの! 僕もホームズの話ができて楽しかったし。じゃあ、僕はもう行かないと」
「なら、最後に一つだけ願いがある」
「なあに、ハサンさん」
問いかけると、少女はうつむいて少しだけ黙り込んだ。
目線を斜め右下にむけて、躊躇いながらも少女は願いを口にする。
「……シェリングフォード。あなたと握手がしたい。対価に私はあなたを守ろう」
「対価って。僕でいいなら、別に握手ぐらいいくらでもするよ?」
「そういうわけにはいかない。あなたは
「あはは、大げさ過ぎるよ。なら、機会があったら守ってもらおうかな。はい、握手」
右手を差し出すと、少女は恐る恐るその手をつかんだ。
両手で包み込むように少女は握手をすると、数秒ののちまたゆっくりと手を放す。
終始表情の変わらない、少々冷たい感じのする少女だった。美しい容貌も相まって人形のような無機質さすらあった。
しかし、握手の後。
少女はふんわりと、花のほころぶような笑顔を見せてコナンに笑いかけた。
「ありがとう、シェリングフォード。この世界の
神聖な誓い、神への祈り。あるいは婚前の宣言。
そんな清浄な言葉だった。
笑顔と言葉は透明な感謝と誓いに満ち満ち、コナンは赤面するよりも呆然とした。
「では、私はこれで」
「…………う、うん」
石段を下りていく少女の後ろ姿。
午後の風に金紗の髪が優しくなびき、鮮明なストロベリー・レッドのスカートと交差する。
背はコナンよりも少し高い。
黒の編み上げブーツが石段を鳴らす音を聞きながら、コナンはぼんやりと少女を目で追った。
境内の樹木がサラサラと木の葉を揺らす音。
七夕、東都タワーが戦闘ヘリに銃撃されるはずの時刻は、すぐそこに迫っていた。