地方で起こっていることは、広く日本で起こっている
辻村 主人公の名前が出てくるまで、普通の小説にしてはかなり時間がかかる。彼女が自分自身の存在っていうものに対して、さほど執着がないんだなって感じさせるくらいのページ数だなって思ったんです。しかも名前が初めて出てくるのは、お母さんが彼女を呼ぶ場面なんですよね。上手だなぁと思いました。
武田 ありがとうございます!
辻村 地方を舞台にしていることもとても良いなと思ったんです。私も書く時に、できるだけ地方都市を選んでいるんです。地方で起こることは、広く日本のどこかで起こっている。でも東京で起こることって、実は日本の中で東京だけで起きていることだったりする。
武田 特殊な環境ですよね。
辻村 そうなんですよね。日本のどこでもあり得る舞台の中で、家庭環境に問題のある女の子たちがこれからどうやって生きていくかっていう指針を見つける話を、まやかしの希望とかそういうことで濁すのではなく、地に足をつけて書いていく。自分で人間関係を選んで、そうすることで人生を切り開いていく姿が見られて、すごく嬉しかったです。
武田 今の言葉、額縁に入れたいです(笑)。
10代に感じた「不満」を、書けるうちに形に
辻村 実は、『愛されなくても別に』を読みながら、それこそ自分が『凍りのくじら』を書いていた頃のような懐かしさを感じたんです。そういえば20代の頃は全力で“ここ”と――例えば親や大人たちと戦っていたんだなって、昔の自分を思い出すような感覚がありました。武田さんが、自分自身を登場人物のモデルにしているとかではないと思うんですよ。ただ、登場人物それぞれの切実さって、武田さんが持っている切実さであったり、周りにいる同世代の人たちから感じ取ったりしたものじゃないかなと思うんです。そういった切実さを、物語の登場人物に託すことによって、より生の声として響かせる。そのやり方は、私自身が通ってきたところでもある気がして。武田さんは今、20代後半?
武田 27歳です。
辻村 私は今年、40歳になったんです。今の私には、『愛されなくても別に』のような書き方はできないし、『凍りのくじら』はあの形ではもう書けない。『凍りのくじら』の理帆子の切実さは、当時の私自身の切実さが投影されているんですよ。だけど、『かがみの孤城』(2017年5月刊)のこころの切実さは、こころ自身の切実さなんです。ただ逆に言うと、『かがみの孤城』は若い頃の自分には絶対書けなかった。不思議な感覚なんですけど。
武田 分かる気がします。私も今回の小説は、「書けるうちに書かないと」という思いが強かったんです。昔から母親や家族との関係はかなり良好なんですけど、それでも振り返ってみると10代の時は、家庭環境への恨みつらみが激しかった。周りの家庭の見えている部分の、しかもいいところだけに目を向けて、「なんで自分だけがこんなに恵まれていないんだ……」と、ド厚かましいことを思っていたんです。ただ、事実かどうかは別として、その気持ち自体は本物じゃないですか。それを今のうちに本にしておこうと思ったのが、『愛されなくても別に』なんです。20代の今だったら、尖ったことを書いたり、多少偉そうに見えるようなことを言っても若気の至りってことでギリセーフかな、と(笑)。もっと大人になったら、「こんなこと書いちゃって、お母さんごめんなさい」と思って、この辺りの感情を書けなくなってしまいそうだなという危機感があったんです。
辻村 素晴らしい。今回描かれている子たちは大学生ですけど、まだ感覚が地続きなところがたくさんあると思うんですよね、今の武田さんと。稀有な時間を過ごされていると思うんです。今書いているものはどれひとつとして、その後には書けないものだと思うので。
遊ぶ時間? そんなのない。遊ぶ金? そんなの、もっとない。学費のため、家に月8万を入れるため、日夜バイトに明け暮れる大学生・宮田陽彩。浪費家の母を抱え、友達もおらず、ただひたすら精神をすり減らす――そんな宮田の日常は、傍若無人な同級生・江永雅と出会ったことで一変する! 愛情は、すべてを帳消しにできる魔法なんかじゃない――。息詰まる「現代」に風穴を開ける、「響け! ユーフォニアム」シリーズ著者の会心作。第42回吉川英治文学新人賞受賞。
※この対談は「小説現代8月号」(2020年7月21日発売)に掲載された対談から一部抜粋したものです。