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「青春は爆発だ!」。田村 心&小沼将太らが舞台『最遊記歌劇伝-異聞-』で人間の内なる“アドレッセンス”を客席に炸裂させる

「青春は爆発だ!」。田村 心&小沼将太らが舞台『最遊記歌劇伝-異聞-』で人間の内なる“アドレッセンス”を客席に炸裂させる

9月4日から、東京ドームシティ シアターGロッソにて、『最遊記歌劇伝-異聞-』が上演中だ。原作の峰倉かずやの大人気コミック『最遊記異聞』を下敷きに、ポップで軽やかで、ほんのり甘くほろ苦い“青春”ミュージカルになっている。初日幕開き前にゲネプロが公開され、さらに出演者がこの舞台にかける意気込みを語った。

取材・文 / 竹下力 撮影 / 鏡田伸幸

これぞ“演劇”という醍醐味

観劇中、いくども「演劇は肉体だ」と、誰かが言っていたことが絶えず脳裏をかすめていた。それがなぜか、そして誰だか思い出そうとした瞬間には、あっという間に公演が終わって、カーテンコールを迎えていた。瞬きすら許さない、スピーディーで熱狂的かつ感動的な舞台。歌劇(ミュージカル)らしくカンパニーの“魂”のこもったレビュー・ショーが続き、テーマ曲の高揚感漂うナンバーが流れ、唾を飛ばさんばかりの勢いで、“青春”を歌い続ける若き役者たちを観ていると、“演劇”の楽しさを肌で感じてしまう。“演劇”のプリミティブな面白さは、役者たちの肉体の躍動、肉体の美しさにこそ宿っているのだろう。

劇場の“シアターGロッソ”はとても面白い構造で、まるで二次関数の曲線のように、急勾配に客席に下ったかと思うと、舞台にかけて急激に上昇して行く構造になっている。なので、天井がとても高い。音響はコンサートホールのように隅々まで行き渡っていて、音がこもることがないから、その分、台詞の淀みがダイレクトに感じられてしまうので、役者泣かせでもあり、観客泣かせでもあるかもしれない。ただ、一度、その舞台構造を活かした作品が生まれれば、圧倒的なショーになる。今作では、その構造を存分に活かし、音響も澄み渡っていて、舞台中央に階段があり、舞台上に金属の櫓が組まれてグングンと上昇し、天井近くから紗幕がクールに垂れかかった余計な装飾を削いだ舞台装置も見事な出来栄えで、まずはスタッフワークの妙技に惚れ惚れしてしまう。

舞台はとある月夜の晩から始まる。光明三蔵法師(三上 俊)が何かを思い出している。それは、健邑(烏哭三蔵法師)が師匠である剛内三蔵法師(桃醍)を追い詰めていくシーンだった。そしてたおやかなミュージックがかかり、三上の艶やかな歌が聴こえ、物語がキックオフする。

暗転すれば現在になる。眼鏡をかけたどこか影のある烏哭三蔵法師(唐橋 充)と光明三蔵法師がいる。そこへ、彼らのお師匠である、待覚法師(うじすけ)がやってくる。どうも、若くして三蔵という徳の高い僧になった烏哭には、本来なら三蔵の証である額に浮かぶチャクラの印が出ていないという。待覚は光明に、烏哭を連れて育成行脚を促す。各地に散らばった三蔵たちと出会い、チャクラを得ようということらしい。

そして立ち去った待覚のあと、残されたふたりは会話を続け、光明はさらにしみじみと思い出す。自らが、峯明という名前の修行僧であったことを。そして烏哭に殺されてしまった友の桃醍のことを。それがなぜかという因縁を。

舞台は過去に遡り、大霜寺という数多くの僧侶を排出してきた寺が舞台になる。そこにいるのは、明日の“天地開元経文”を手にして三蔵になる夢を見る若き修行僧たち。峯明(田村 心)、桃醍(小沼将太)、玄灰(深澤大河)、青藍(古谷大和)、道卓(前川優希)、蝶庵(二葉 勇)、丸福(月岡弘一)、抄雲(齋藤健心)、義兆(福井将太)、隆善(谷戸亮太)らが熱心に修行に励んでいる。

ただ、どうやら峯明は修行をサボっているようで、みんなの調子が狂ってしまう。それでもなんだか、ガヤガヤして楽しげに見える。彼らは三蔵になることの本当の過酷さは知らないからだろうか。ただ、彼らはひたすら修行をすればいつかたどり着けるものだと思っていた。そして、次の日には、“天地開元経文”の継承資格をかけた第一次本試験が迫っているのだった……。

舞台は、光明三蔵法師と烏哭三蔵法師の思い出し話が主軸となっている。2人の三蔵を中心に狂言回しが行われ、テンポよく過去と現在が行ったり来たりする。時折、光明たちは、峯明たちの修行の場、いわゆる回想シーンに登場しながら、どんなことが起こるのか、あるいは起こってきたのかを丁寧に説明する。過去と現在の時制が同時に目の前に起こる。これぞ演劇ならではの面白さだ。過去の回想シーンは、峯明、桃醍、玄灰の仲良し3人組が主軸となりストーリーを展開していく。

峯明の田村 心は、超絶的に面倒ごとが嫌い、争いごとも嫌い、脱力していてやる気もないのに、なぜかなんでもできてしまうスーパーマンという役柄を熱演していた。いわゆる笑いをさらっていくキャラクターだから、台詞に淀みがあれば存在が浮いてしまうかもしれないし、この劇場の構造に飲み込まれてしまうかもしれない。でも、そんな心配はつゆとも感じさせず、彼の台詞はとても闊達で、絶えず流麗で、劇場に彼の台詞が映える。さらに、三上(光明)という未来の自分になる存在がいるから、どのように演じ分けるか、じっと見届けたけれど、どこか超然とした大人の三上に重なりつつも、幼さなさを残して演じ分けて見事なハマり役だった。そして何より、初座長とは思えない堂々とした居住まいでカンパニーをまとめあげていた。

桃醍の小沼将太は、寺では唯一の長髪で真面目で体育会系の男子という役。インタビューで「かっこいいという設定がなくなっていた」と笑いながら言っていたけれど、彼の大きな体躯や、表情、演技は、すべてにおいてかっこよかった。基本的に、彼以外は場を賑やかにする修行僧が多いので、彼が軸となってブレないからこそ、お笑いやほっこりしたシーンが出来上がるのだろう。

玄灰の深澤大河は、とても暗い過去を持った妖怪という役どころ。小沼とは対照的に小柄な体躯を活かした、悩み多き男の子を透明感あふれる演技で演じていた。

それでもやはり、この舞台の主役はすべての修行僧だ。どうしようもなくフレッシュで、失敗ばかりして、夢ばかり見ている、“青春”まっただ中の、手のつけられない男の子たち。もちろん、個々のキャラクターを追うのも楽しいけれど、“青春群像劇”と言って差し支えない、みんながいるから、笑って泣いて、時には一緒に怒ることのできる舞台なのだ。1人のピースも欠けてはならない。だから田村を中心とした座組みは、激しい稽古の末に完成度も高い。サボりぐせのあるやつも、お馬鹿なやつも、真面目なやつも、ナルシストも、優等生も、みんなしっかりと生きている。みんながみんな汗をかき必死に踊って、歌っているから“人間そのもの”という存在が迫ってくる。

まるで男子校の教室のように……そう、みんなが経験しているだろうノスタルジーがあり、それでいて発散しようがないもどかしい淡い想いをありありと感じさせる。そんな舞台を浅井さやかが音楽で彩る。汗臭い歌も、バラードも、10代の悩み多き歌も、たくさんの曲を舞台にちりばめれば、“青春”の煌めきを感じるだろう。

脚本・演出の三浦 香は、三蔵という位を勝ち取るための、主役を際立たせ、どこかバトルで勝ち残っていくお話を主軸にするのではなく、誰もが主役であるような脚本で、キャラクターごとに見どころを作っている。青春群像劇にふさわしく、笑いも、涙も、お馬鹿なことも、シアターGロッソを学校の教室に見立て、ワイワイした一コマに仕立てあげた。何より、“演劇”そのものを感じさせる、肉体を十二分に使った演出に、映画やテレビだけでは味わえない、生の肉体を晒したリアルな“人間”の表現へのこだわりを感じる。これこそまさに“演劇人”という仕事っぷりだ。

青春とは、演劇とは、答えは明確ではないけれど、その光の一筋が提示されれば、終演後は清々しい感覚を味わえる。もちろん、三上や唐橋の熟練の演技が、しっかり脇を添えていたからこそ成立していたのはいうまでもないだろう。

人は生き、いずれ死ぬ。そんな当たり前の人生を、どれだけ必死に生き続けるか、「お前たちそんなクヨクヨしてないで一生懸命生きろよ!」という問いかけを演劇というフィルターを通して、役者の魂と肉体をぶつけながら感じさせてくれた傑作舞台であった。

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