高政との一騎討ちのシーンは、体力的にはキツかったですね。早朝から重い鎧(よろい)を着け、大きく振り回す槍(やり)も長くて重い。ロケ場所には大量の砂がまかれていたので、そこに足も取られてしまう。ワンカット撮り終わるたびにヘトヘトで、毎回しゃがみ込んでしまっている私を伊藤英明さんが「大丈夫ですか?」と何度も引っ張り上げてくれました。実際の収録は放送された尺よりも長いですし、テストもあります。
シーン的には挑発している道三ですが、実際は逆で、余裕の伊藤さんに圧倒されていました。
殺陣(たて)の練習も、私は少しずつ体に覚えさせようと数日かけて練習しましたが、伊藤さんは本番の前日にぱぱっと覚えたそうです。「何、この差は?」。私より10歳若いとはいえ、「この差は何だ?」という感じでした(笑)。初老?と自覚した本人だけでなく、冬の撮影で日照時間に限りがあり、緊張するスタッフ、兵として死体となって横たわるエキストラさん、そして川を渡るお馬さまも追いつめられ、何かと現実を突きつけられた最終日でした。
<長良川の戦い>では、高政の軍は1万以上いて、道三軍はほんの数千しかいない。しかし、高政に華々しく勝たせるつもりはなく、ある種の打撃、「父親殺し」という汚名を着せようという狙いが道三にはありました。
でも、それだけではなく、このシーンについて監督から「道三は高政を本気で突き刺そうとしている。どこまでもその精気を失わずに演じてほしい」と言われました。それはどういうことかというと、道三は常に進行形の感覚を持っているということです。
自分が殺されることで、息子に父親殺しの汚名を着せるというのが第1プランだとすると、うまくして息子を殺し自分が再び返り咲くという第2プランもあったのかもしれません。しかも、圧倒的に不利な戦で勝つとなれば、武将としての評判も高まるはずです。確かにそんな想像もかき立てる、一筋縄ではいかない人物ですよね。
<長良川の戦い>で、高政との一騎討ちに持ち込んだ道三は「そなたの父の名を申せ!」と叫び挑発します。そして思惑通り一騎討ちに持ち込みますが、最後は高政を守ろうとした家臣に刺されてしまいます。道三はそのまま倒れ込むように高政にぶつかっていき、「わが子、高政、愚か者。勝ったのは、道三じゃ」とつぶやくように吐き出しそのまま崩れ落ち絶命する。高政に倒れ込むというのは監督の演出でしたが、これによって壮絶とは別の余韻を創り出したと思います。
息子・高政になだれかかる姿が、このドラマでは見たことのない最初で最後の父子の抱擁にも見て取れます。また、最後に放った言葉も深く聴けば、「お前は間違いなく私の息子である」、その次の「愚か者」は、高政のことを指しているようでいて、同時に「こうせざるを得なかったこの父も愚か者だ」と、自らにかけているようにも聞こえます。「勝ったのは道三じゃ」と、数珠を引きちぎり、「己以外に救いなどは求めないのだ」と言わんばかりに倒れる。どうか父の生き様、死に様からさまざまな意を学びとってくれと願ったのかもしれません。
最後の最後に、これまで厳しく接してきた息子を抱きしめ、自分の愚かさを詫(わ)びる道三。そして命の脆(もろ)さをあえてさらしたかのような、あっけない終焉(しゅうえん)。そういう解釈をすると、このシーンは何か物悲しいものに見えてきます。
道三という人は、狡猾(こうかつ)な武将というイメージが強いけれど、文化や芸術にもすぐれていたそうです。常に死と隣り合わせで生きていると、感性も研ぎ澄まされていったのかもしれません。
そして、武士であり歌人でもあった西行(さいぎょう)の歌が特に好きだったそうです。西行のどの歌を愛していたかはわかりませんが、晩年に詠まれた「願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」という歌。その季節の桜が咲いている木の下で死にたい、という西行の願望を詠んだ歌です。
桜舞う木の下で散る命。そこにはある意味みずみずしい死に様が感じられます。自己演出にたけていた道三は、西行とは全く形が違うにせよ、きっとそういう「自分らしい死に様」を望んだのではないかと想像します。道三自身の辞世の句が示したように「この世以外に生きる場所はない」という独自の実感を貫いた姿は、後世の者たちに、決して枯れない希望のようなものを残したといったら出来過ぎでしょうか。
光秀は道三の最期の瞬間を見なかった。離れた場所から息絶えている姿を見て、ひざまずき深く一礼しただけ。でも、光秀にはさまざまな思いが去来したはずです。
この戦を思いとどまってほしいと懇願しに行ったとき、道三は光秀に自分がかなえきれなかった夢や志を託しています。「みな一つになればよい。さすれば、豊かな大きな国となり、誰も手出しができぬ」。また最後に「信長となら、そなたやれるやもしれぬ」と。そう語りかけてくれた道三が、今はもう息絶えている。その死に身からは主君としての生き様だけが残像のようによみがえり、光秀はこの光景を決して忘れることはないだろうし、戦国の黎明期(れいめいき)を良くも悪くも存分に生きた道三が語った言葉は彼にとって、ある種の道標(みちしるべ)になっていくのではないでしょうか。
道三は死にましたが、『麒麟がくる』というドラマはまだまだ序盤です。
主君を失した光秀は運命の奔流に投げ出されました。これから光秀が自分なりの真実を追い求めていくなかで、道三をはじめ、さまざまな人間の心の中をくぐり抜け、光秀が、そして長谷川さんが、最後にどんな境地にたどりつくのかを楽しみに見守りたいと思います。
では、道三とともに本木は去ります。さらばじゃ!