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少女の望まぬ英雄譚 ※本編完結 作者:ひふみしごろ

九章 見送るもの

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温度差

ウルフェネイト攻略に対し、根本的な見直しが必要になったエルスレン軍はウルフェネイトから十里後退。

大型投石機投入を諦め、小型投石機の数を増やした。

破壊されることはもはや仕方ない、とはいえあれを行えるのが個人であれば、ともかく数を増やせば良い。


あれが何者であるかという情報についてはかつてアレハ=サルシェンカの軍にいたもの、そして重傷を負いながらウルフェネイトを抜け出した密偵の手により伝わったが、とはいえ、それは何の解決策にもならぬもの。

大型床弩以上の威力、射程を有し、射程外から大型投石機を破壊する馬鹿げた個人をどうにかする手段をその情報が提示する訳ではないのだ。

いっそ清々しい、数での暴力的手段に出る他ない。


「まだ顔が青いぞサルシェンカ公爵。あれに関してはもう気にするな、誰もお前の失態とは思わん」

「……は」


大天幕での会議――空気はあまりに重い。

流石のバズラー=ルーカザーンも憐れむように言った。

このビーナル=サルシェンカがどれだけの力を注いでいたかは流石に理解している。

民衆からの人気も高いアレハ=サルシェンカ――目障りになりつつあったこの男の弟を潰すべく、先日の戦の後様々な手回しを行ったが、とはいえ、サルシェンカ家自体を潰すつもりは毛頭なかった。

この戦後は適当な手柄を与え、最終的には子飼いにするつもりであったのだ。


少なくともあの攻城兵器を用意したことで彼の禊ぎは終えている。

それをまさかただの個人――アルベリネアに潰されたとなれば、彼を不憫に思うところがあった。

それにあれから二日、彼は急ピッチで小型投石機の製作に取り組んでいる。

どのような結果になろうと、少なくとも家の取りつぶしは避けられるよう便宜は図ってやろう。

その程度には彼も考えていた。


しかし、あれがビーナルの精神に与えたダメージはあまりに大きい。

ビーナルはあれから食事も喉を通らず、まともに眠れてもいなかった。

攻城兵器には入念な準備が必要なのだ。

工房で材料を用意し、微調整を重ね――莫大な金を注ぎ込んで用意した攻城塔と大型投石機。

それらが何の成果もなく消えたとなれば当然であった。

必死で掻き集めた技術者を何人も失い、それまで掛けたコストは取り返すことなど出来はしない。


「数日中には、我々の方でも十分な数の投石機が……」

「ああ、そちらに期待する」


幸い、連れてきた技術者や職人は優秀。

元々攻城戦が大いにあり得ることから小型投石器に関してもある程度の用意があったため、手詰まりという訳ではない。

彼の思考は現状の材料でどれだけ功績を挙げ、損失を抑えられるか、それだけを考える。

単なる投石機ならば他の貴族達にも用意がある。

ただ自分の投石機が狙われぬよう彼は祈る他なかった。


バズラーは彼から視線を切り、尋ねた。


「北部と南部に問題は?」

「動きはありませんな」


侵攻軍副将、リンカーラ=ウォーカルが答える。

齢は百に近く、もはや老人と言うべき男であったが、この中では誰よりも長く戦場で過ごした将であった。

バズラーにとっては幼少からの指南役であり、この男に関しては強い信頼を置いている。


「あれに合わせ、攻撃があるかと思いましたが……」

「どうにもないようだ。お前ならばどう考える?」

「狙いはやはり、持久策ですな。打って出ることはせんでしょう」


リンカーラは地図上のウルフェネイトを指さし告げる。


「三方包囲――前回と似た状況ですが、ウルフェネイトを取れていないことは大きい。クリシュタンドが死に、北部の心配がない分以前よりマシという見方も出来ますが」


それから綺麗に剃った顎に手を当て、続けた。


「短期決戦が難しい以上、このまま後退――領土の切り取りを行い終わりとするのが上策ですな」

「相変わらず面白味がないことばかり言う口だ。その上で攻める事を考えるならばと聞いている」

「となればやはり、力業となりましょう」


バズラーのうんざりとしたような目を向けられ、リンカーラは笑う。


「まず北部――アーナの軍にこちらから攻める事は選択にない。あの大樹海の突破は至難です。これは考慮外ですな」


アルベラン王国の北東部――東と北を隔てるのは大樹海であった。

天然の要害、これを突破するには大量の出血を覚悟せねばならない。

そして前回の戦の後、大樹海を背後に新規建設された砦をアーナ皇国軍は拠点にしており、これを攻め落とすことも難しい。


「まぁ、それはあちらも同様。現状の騎馬弓兵1万で問題はないでしょう。攻めては来ない」


アーナ皇国軍2万を前に、こちらの軍は1万。

だが弓騎兵のみで構成された単一部隊である。彼等を相手取るのはそれで十分であった。


遊牧民騎兵を扱う場合に限っては、軍に組み込まず単一で編成した方が都合が良い場合が多い。

元より羊と馬を連れ回る生活に慣れた遊牧民。

糧食の手配を行い、自由裁量を与えてやれば、彼等はその機動力で広大な平野を支配する。

相手は彼等に誘い込まれ、行軍中の襲撃により兵力を削り取られることとなり、打って出ればまともに戦うことも出来ずに潰されることになるだろう。

そして当然、それを理解しているであろう彼等が打って出るとは考えにくい。


「南はガーカ。まともにやりあえば危険な相手ですが、こちらも挑発に乗らず決戦を避けておけば不安は少ないですな」


こちらは3万の兵と弓騎兵が5000。

街の側を離れて攻めてきたならば、誘い込み後方を遮断出来る。

前回の失敗から学び、決戦さえ避ければどうにかなる相手であった。


「少なくとも今のところは南北に問題はなく。そしてこちらからも南北を攻める事は難しく。この戦いは現状の兵力でどうやってウルフェネイトを攻略するかとなるのですが……」


ウルフェネイトはアルベラン北部――竜の顎から続くクーレイル山脈、そして南のカルビャス山脈の狭間、その中間点に存在する。

ウルフェネイトの背後には二つの中央軍が南北の隙間を固めており、強引な突破は難しい。

片方の軍を狙えば必然、敵はウルフェネイトから打って出るだろう。

側面を狙われるのみならず、仮に突破に成功したところで後方連絡線を遮断される。

こちらはウルフェネイトをどうにかしなければ先へは進めない。


「誰もが聞きたいのはそれだ、リンカーラ。ガルシャーンが敗れた以上、それほど長期の策は取れん。決定的戦果を挙げる手段を求めている」


バズラーは言った。

特に南部のガーカ――本来必要のなかった3万5000の損失が痛い。

敵はノーザン=ヴェルライヒ率いる3万がウルフェネイトに、中央軍二人がやや後方に4万の計7万。

対するこちらは10万であった。

優位ではあるが、圧倒的、という程ではなくなっている。


「まずは一つ、ウルフェネイト攻略の後回しですな」

「……後回し?」

「ウルフェネイトの3万に対して5万を張り付け、それを盾に片翼突破。正面の敵2万を速やかに5万で討ち取る。敵の残る片翼――2万がどう動くかは大きな問題ですが、側面から敵増援2万がやってくることを加味しても最大で5万対4万、優位はこちらでしょう」


城郭都市ウルフェネイトを5万で攻略は出来ない。

しかし籠城させ、張り付けるには可能な兵力とは言える。

その間に敵中央軍を突破し王都圏を蹂躙、ウルフェネイトを孤立させるという手段であった。

どうあれこの状況、間違いなくアルベランにも余力はない。

強引だが突破さえ出来れば――南のガーカに張り付けている3万5000がなければ、より容易に選択出来た策だっただろう。


だがノーザン=ヴェルライヒはガーカと連動したかのようにウルフェネイトに籠った。


「しかし敵はノーザン=ヴェルライヒ。敵を褒める是非はどうあれ、優れた将です。あの遅延行動と段階的後退――こちらが南に戦力を振ってからウルフェネイトに引きこもったところを見るに、こちらがそれを選ぶ事は恐らく予想している。それ相応の準備を行っていると見た方が良い」


ウルフェネイト攻略のみを意識していた将軍達は感心した様子を浮かべていたが、その言葉に眉を顰めた。

バズラーは顎に手を当て、リンカーラを見る。


「しかし、それを踏まえても悪くないように思えるが?」

「そうですな。ですが、ガルシャーンが破られた状況を考えると不安が大きい。聞くところによるとガルシャーンはアルベリネアとガーカに対し、倍の兵力で敗れたとか。ガルシャーンの間抜けと考えるのは容易いですが、私はこれを甘く見ません」


リンカーラは答えた。


「エルカール、キルレア、ザルヴァーグにオールガン。十分に力のある将の名です。キルレアを除けば神聖帝国とも何度か刃を交えた。少なくとも無能な凡将などではないことはご存じのはず」

「……ふむ」

「ガルシャーンの最高戦力を圧倒したアルベリネアを単なる名将などと考えるべきではないでしょう。現にこの10万はただの個人に攻城兵器を潰され、敵に背を向け後退することを余儀なくされたのですから」


その言葉に僅かなざわめき。

この軍は神聖帝国大公爵、バズラー=ルーカザーンの率いる軍。

副将とは言え、その発言はあまりに苛烈なものであった。


バズラーは僅かに不快を浮かべ、しかし笑い。


「静まれ。面白くはないが事実だ」


響く低い声音でそう言った。


「つまりお前の不安は、5万で果たしてウルフェネイトの3万を封じ込めることが可能か否か、そうだな?」

「それもありますな。しかしこうも……既に西――エルデラントも劣勢、あるいは打ち破られているのではないかと」

「……ほう」


バズラーはその言葉に笑みを浮かべる。


「くく、大きく出たな」

「私は閣下と違い心配性でしてな」


悪い目で見た推論ですが、とリンカーラは続ける。

深い皺を更に深く刻むよう、笑いながらもしかし真剣な目であった。


「ガルシャーンを打ち破ったアルベリネア軍は西へ向かった。ここまでは南部からの情報、状況を見る限り間違いないでしょう。しかしそれを率いていたはずのアルベリネアはここにある」


リンカーラは黒豆茶で舌を湿らせ、続ける。


「ガルシャーン戦後、王都を経由しこちらに来た――普通ならばそう考える。だが、ガルシャーンの呆気ない敗北。アルベリネアがエルデラントに痛打を与えた後、単独でこちらに先行したという可能性も大いにあるでしょう」

「……なるほど。仮にお前の不安が的中していた場合、更に一軍規模の後続が現れる可能性が大いにあり得る」

「ええ。仮にそうであったなら、敵の後方4万は決戦を回避し、西からこちらに向かっているアルベリネア軍本体の到着を待ってから反撃を行うでしょう」


強引な突破は不安要素が大きいということです、とリンカーラは言った。


「予想が当たっているなら一、二週間でその増援は西から現れるでしょう。あえて最悪の最悪を想定するなら4、5日ですな」


言いながら、リンカーラはアルベランの国土を頭に思い浮かべる。

アルベリネアの到着は攻城兵器を潰した二日前。

最悪に最悪を考え、王都中央を最短距離で横断し軍がこちらに向かうならば、10日の距離。

早馬を乗り継ぎ、個人で先行するならば4日といったところだろう。


「アルベリネアはどうやったかはともかく、翠虎を手懐け乗騎にしています。速度の程はわかりませんが早馬を使ったと考えましょうか。エルデラント軍撃破と同時にアルベリネアが先行、こちらへ向かったとするならそのあたりになるでしょう」

「なるほど。お前の不安は理解した。……まずは一つ、そう言ったな?」

「ええ。最悪を想定しすぎ弱腰になることは愚かですが、とはいえ、この戦略でその最悪の事態が起きた場合、敗北すらもあり得る。9万対10万となれば数の優位は薄れますからな」


リンカーラは黒豆茶を飲み干し告げる。


「優位を活かすべきです」

「……優位?」

「弓騎兵です閣下。攻城戦に不要な単一編成の弓騎兵、1万4000によって敵の隙間を抜いて王都圏に。後方連絡線を脅かし、ウルフェネイト後方に位置する敵軍を背後から狙わせながら、状況によっては増援の足止めを。……その間に残る全軍を持って一気にウルフェネイトを攻略する」


弓騎兵単独であれば歩兵主体の敵軍に捉えられることなどない。

アルベランの外周は住民を避難させ略奪を防いだようだが、王都圏ならば村を襲い、現地調達で彼等の兵站も賄える。


「彼等の負担も大きい。長い時間は掛けられません。ウルフェネイト攻略はどうしても力業とならざるを得ませんし、多量の出血を覚悟する必要がありますが、それでも8万5000の兵力を持ってすれば3万のウルフェネイトを攻略することは十分に可能でしょう」


バズラーは少し考え、その男らしい顔に野獣の如き笑みを浮かべる。


「確かにお前にしては随分と強引な案だが……しかし悪くない。夥しい血肉を潰して城壁を越える攻城戦か」

「……個人的には愚の骨頂、下策中の下策ですな」


リンカーラは気が進まない様子で告げる。

短期で行う攻城戦など、よほどの装備がなければ行うべきではない。

大型投石機、攻城塔の対価は数万の兵、その命であった。


「私としては言った通り、ここで領土の切り取り、戦果として確定させるのがよろしいかと思われますが」

「そう思うのはお前だけだリンカーラ。豊かな南東を取っているならばともかく、東部だけでは切り分けるためのパイが足らん。内戦でも起こす気か?」


バズラーは居並ぶ将軍――貴族達へと目を向ける。

リンカーラの言葉は軍人の言葉としては真っ当だろう。

ただこの男は貴族社会というものをあまりに軽視する。

旨味があるからこそここに集う男達は身銭を切り、兵と装備を用意しているのだ。

アルベラン東部もかつてはエルスレンの領土――別段悪くない土地であったし、失地回復という意味では及第点。

だが、前回と今回の戦費を賄うにはそれだけでは足りない。

豊かなアルベラン南東部を取っていれば話は変わっていたかも知れないが、ここで終わらせる訳にはいかなかった。


サルシェンカのように破産する貴族が何人も出てくるだろう。

アルベランとは違い、貴族が固有の領地と権力を持つ神聖帝国においてそれは致命的な問題であった。

場合によれば自暴自棄になった貴族達の一斉反乱を引き起こしかねない。

それを防ぐためにはルーカザーン家がその面倒を見ざるを得ず、そしてそれによる莫大な損失はルーカザーン家自体にとっても大きい。

更に法王庁に聖戦を唱えさせたのはバズラーである。

その顔に二度目の泥を塗れば、どれほど上手く立ち回ったとしても数代先まで帝位は遠のくだろう。

様々な面で、ここで終わらせるという選択はあり得なかった。


「先の話の通り、ウルフェネイト攻略を主目的とする。カルード、お前の役割は重要だ」

「は。お任せください」


今回連れてきた遊牧民――その総指揮者。

大族長ラヌ=カルードは薄い顔に笑みを浮かべ、敬礼する。


「それだけにその功績は大きいと思え。貴様らのこれまでの貢献も踏まえ、限定的ながら自治権を認めてくださるよう皇帝陛下に上奏してやる」

「ありがたき幸せ。……必ずやご期待に添える活躍を」


そしてその言葉に細い目を殊更細めた。










会議室にはヴェルライヒ軍、各軍団長が並び、そしてノーザン=ヴェルライヒの隣に腰掛けるは銀の髪。

この部屋には不似合いな、美しき少女であった。


「わんわん」

「……なんでしょう?」


彼女は眉間に皺を寄せ、声を掛ける。

応じたのは頬に深い傷――凶相に疑問を浮かべ、グランメルド=ヴァーカスは少女、クリシェ=アルベリネア=クリシュタンドへ視線を向ける。


「それで、ハゲメガネ」

「……、は」


眼鏡を掛けた禿頭――神経質そうな顔に疲れを浮かべ、更に応じるはサルダン=ガルカロン。

与えられた選択権を行使する間もなく、彼の呼び名はいつの間にやらそれで定着していた。


「そしてガイコツ、アーグランド軍団長にもにゃんにゃんって愛称を付けて……クリシェ、考えたのですが……もしかしてとても失礼なことをしていたのではないかと思いまして」

「……失礼、と言いますと?」


サルダンは尋ねつつグランメルドに視線を向ける。

グランメルドは頷いた。

もしや、ようやく自身の付ける愛称が失礼どころの騒ぎでないことに気付いたか――その目には僅かな期待があった。

周囲にあった者も不思議と緊張を浮かべ、少女の幼い美貌を眺める。


「……なんだか、沢山お世話になったヴェルライヒ将軍だけ仲間はずれではないかと」


だが当然、クリシェが自身の過ちに気付くことなどなかった。

既に彼女の中で、自分の考える愛称は素晴らしいものであるという認識で固まっている。


「ご当主様の三人の部下で、ヴェルライヒ将軍だけヴェルライヒ将軍だなんて呼ぶのは他人行儀な気がするのです。その上、その部下にだけ愛称だなんて……」


全く誰も気にしていない所を気にするクリシェに皆が言葉を失っていた。

いつになく真面目な顔である。

その顔には非常に申し訳ない、という雰囲気が滲み出ていた。


「……、お気持ちだけで十分ですよクリシェ様。クリシェ様からのお気遣いはいつもしっかりと感じております」


――ついに来たか。

その美貌に笑みを浮かべ、爽やかに返事を返しながら、心中に吹き荒れるはなんとも言えない感情。

ハゲワシなる百人隊長、そしてガイコツから始まり。

グランメルドのわんわん、そしてコルキスまでもが彼女の中でにゃんにゃんという名で定着していることは彼女からの話で理解していた。

そして新たにハゲメガネ。


どれもとても羨ましいとは思えない罵倒のような愛称ではあったが、とはいえ、ここまで来るとむしろ感じるのは得体の知れない疎外感である。

彼女は常識では測れぬ天才であり、戦場において敵うもの無き絶対者であるが、その気性はどこまでも優しく純粋無垢。

これらの呼び名に悪意は欠片もなく、むしろ強い親しみの念があることは誰もが承知の上。


――だが、そんな彼女に自分一人がヴェルライヒ将軍である。

やはり、胸に去来するのはなんと表現するべきか分からぬ感情であった。

決して羨ましくはないが、とはいえそれはそれで何やら辛いような――多くの敵と味方を畏怖させてきたノーザン=ヴェルライヒの心中にあるのはそういう板挟み。


これからノーザン達が行うものは戦術会議。

毎日のこと、基本的方針は決まっているとはいえ重要な会議であった。

ここでノーザンが『それでは会議を始めましょう、クリシェ様』と彼女の話を打ち切るのは実に簡単な事であろう。

今のタイミングならそれが出来る。

とはいえ、本当にそうしてしまっていいのか――愛称を付けて親しみを持ちたいという彼女の無垢な好意を否定しまっていいのか。


「…………」


ふと見ればこの場の視線全てがノーザンに集まっていた。

ノーザンが果たしてどのように断るのか、あるいはどのような愛称を付けられるのか。

誰もがそこに強い興味を覚えていた。


ここで断れば皆の心に取り払うことの出来ない靄を残すことになりかねない。

――これからの重大な戦を前に。


彼女は一体、自分にどのような愛称を付けようと考えているのか。

ノーザン自身、一切の興味がないと言えば嘘になる。

愛称など付けられた記憶すらない。


それは例えがたい誘惑であった。

愛称は欲しくない。だが興味はある。

そしてそれは自分だけではなく、これはこの場の総意――ノーザンには彼女の発言を止めることは出来ないのだと気付く。


眉間に皺を寄せ、珍しいほどに真剣な顔で顎に手を当て、クリシェは横からノーザンの顔をまじまじと見つめていた。

宝石のような紫には一切の笑みもなく――まるでその様は芸術家か何かであった。

その口からまさか、わんにゃんガイコツハゲメガネなどと極めて幼稚な名前が吐き出されるとは誰も思うまい。


「クリシェ、リーガレイブさん……ああ、えと、聖霊のです。そのリーガレイブさんにバサバサという愛称を付けてあげようって思っていたんです。ちょっと名前長いですし」


聖霊の真名に対し、彼女はどこまでも適当であった。


「そ、そうですか……」

「はい。リーガレイブさんは羽の生えたおっきな蜥蜴みたいな生き物で、翼をバサバサってやるだけで小さな嵐を起こしちゃうんですよ」


なんとも畏れ多い発言である。

彼女が聖霊から真名を許されるような存在でなければ不敬極まりないもの――彼女がただの個人で、時代が時代であれば極刑ものであろう。

誰もが突っ込むことすら出来なかった。


「クリシェ的にはとても良い愛称だと思ったのですが、でもリラだとか、族長のアルキーレンスさんだとか、クレィシャラナの人達にお願いだからやめて欲しいって言われて……」


その場にいたならば誰もが止めたに違いない。

彼女は実に不本意そうであったが当然であった。


「ヴェルライヒ将軍は特徴のない、んん……面白味がない……面白くない顔? えと、まぁなんだかそんな感じでちょっと思いつかなかったのですが、甲冑は沢山羽が描かれてますし、そういうのが良いかなと」

「……、は、はぁ」


幼い頃は女のようなと呼ばれることもあったが、これまで一度もけなされた事のなかった顔。

それをあっさり面白くない顔呼ばわりされた事には、流石のノーザンも少し胸に揺らぐものがあった。

面白い顔であった方が良かったかと言われれば悩ましいが、それはそれで辛いものがある。


「それは……つまり、その、バサバサでしょうか?」

「それは駄目です。リーガレイブさんの翼の豪快な感じがバサバサーって感じなのです。ヴェルライヒ将軍ではすごく良いように見て精々わさわさとかぱたぱたくらいで……んー、この辺りまで来てるような気がするのですが」


クリシェは頭の上の辺りを指さす。そこに果たして何が降りてこようとしているのか。

地味にけなされているような気もしたが、竜と比べられては誰であってもそうだろう。

決して悪意はないのだ、とノーザンは黙って受け入れる。


「そうですね、やっぱりそういう方向ですね。なんだか来たかも知れませんっ」

「っ……」


誰もが真剣な顔で意識をクリシェに。

――だが、そこで響いたのは鐘の音。


「伝令! 入ります!」


バタバタと廊下を走り、入室したのは一人の伝令。


「敵軍、動きがありました! 単一編成、恐らく一万規模の騎兵が南側を!」

「……、他の動きは?」

「先ほど見た限りでは敵本体に大きな動きはありませんでした!」

「わかった。以上か?」

「は!」


ノーザンが手を挙げると伝令は敬礼し部屋を後に。


「もう少しで何かが……むぅ」


咄嗟にクリシェを見るが、彼女は唇を尖らせて不満そうに立ち上がっていた。


「恐らくこちらの想定通りの動きですね。騎兵単独、後方攪乱を目的としたものでしょう」

「え、ええ……」


そしてクリシェはノーザンを見る。

先ほどまでの稀な真剣さは消え、顔には面倒くさそうな色が滲んでいた。


「であれば確定とは言えないまでも、敵軍の行動は準備が整い次第このウルフェネイトに総攻撃の可能性が高いですね。王都を突っ切ってクリシェの軍が来ると考えた感じでしょうか。『ヴェルライヒ将軍』、クリシェは先にちょっと外を見てきます」


言うが早いかクリシェはとてとてと。

小走りに会議室を後にする。


彼女が去った会議室には何とも言えない空気が漂い、誰もがノーザンに何とも言えない視線を向けていた。

ノーザンは咳払いすると、サルダン、と真面目な声で告げる。


「まだ攻めては来ないと思うが、念のため東側の城壁へ確認を。問題がないようならそのまま副官に任せたままでいい。……会議の続きを行う」

「……は」


サルダンはクリシェの後を追うように扉を出て行き。

会議室にはただ、もやもやとした微妙な空気だけが残された。

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