2019年08月29日00:45
弾左衛門/靴の歴史①
弾左衛門/靴の歴史
○弾左衛門
長吏頭の矢野弾左衛門と、非人頭の車善七はそれぞれの階級の頂点として存在していました。
非人頭車善七との確執がありました。
弾左衛門は、扶持は一万石、金融業も営み財力は五万石の大名並でした。
皮革の取扱いの他、燈芯、ヒット商品の雪駄、勧進を仕切ってきました。
斃牛馬(へいぎゅうば)勝手処置令により、皮革の専売権を失います。
13代最後の弾左衛門(弾内記、弾直樹)は、日本製靴業の端緒を開きます。
(備考) 弾左衛門 明治元年(慶応4年)1月 弾内記と改名。
明治3年12月 弾直樹と改名。
○靴の歴史
明治3年、新政府の兵部大輔・大村益次郎の勧めで、旧佐倉藩士の西村勝三が「伊勢勝造靴場」を築地入船に設立します。
その後、西村は明治35年の「日本製靴株式会社(現・リーガルコーポレーション)」設立に至ります。
また、江戸の皮革産業を仕切っていた弾直樹が滝野川や浅草に靴産業の拠点を築き、大塚岩次郎が13歳で「大塚商会(現・大塚製靴株式会社)」を設立し、後に皇族や陸海軍の御用達となります。
○茶利革
<滝野川>
弾直樹は明治3年9月、滝野川の幕府反射炉跡の地所、建物全部を「製革、製靴、伝習所及御用製造所」と認められ、明治4年2月アメリカの皮革技師、 チャールス・ヘニンガーを招きます。
音無川の水を使って靴用の鞣し革が生まれ、チャーリーの名にちなんで茶利革と呼ばれます。
現在は、醸造試験場跡地公園(北区滝野川2-6)及び赤レンガ酒造工場(酒類総合研究所東京事務所:平成27年7月10日広島事務所に移転)となっています。


<音無の赤レンガ道> 北区滝野川
赤レンガ酒造工場入口側の道路は愛称「音無の赤レンガ道」として整備されています。

<橋場の靴工場>
弾直樹は、西村勝三と同じく政府丘部省に軍靴を納めるため、滝野川から浅草橋場(江戸時代の銭貨鋳造機関、橋場銭座跡)に移転します(明治5年(1872)1月)。
この地は、東京都人権プラザとなっていましたが、移転・閉館となっています。

<亀岡町自宅/弾製靴所>
明治5年(1872)12月、製靴部門は亀岡町一丁目14番地(現:都立浅草高等学校内:今戸1-8-13)の自邸内を「弾製靴所」、製革部門は三井組の資本が入り地方橋場1373番地(現:東京ガス千住工場内)「弾・北岡組製革所」と改組、2分されます。
<浅草新町 弾左衛門囲内 弾左衛門屋敷>
弾左衛門屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた南北に長い広い区画で、周囲を塀と寺社で囲われていました。
弾左衛門屋敷は、山谷堀の今戸橋と新鳥越橋(現在の吉野橋、江戸切絵図では三谷橋)の間に位置し、東京都立浅草高等学校の校庭が屋敷跡です。
運動場の外の横の道路が囲内の中心通りで、その左右が囲内。
中心通りは山谷堀に面して門があり、北に向かいます。
弾左衛門たちは、日本橋尼店から鳥越町に移転を命ぜられ、さらに鳥越の丘を切り崩して、入江を埋め立て幕府の御蔵を造るため、鳥越町からこの地へ移転しました。
この地を新鳥越町とし「新町(しんちょう)」と呼んでいました。
江戸切絵図では「穢多村 俗ニ新町ト云フ」と記されています。
新町は、明治4年10月に亀岡町1丁目・2丁目・3丁目となります。
稲川實氏(皮革産業資料館 副館長)「靴の歴史散歩」によれば、弾直樹の長男・謙之助氏は、明治42(1909)年に屋敷地(亀岡町1丁目14番)を明け渡し引っ越します。
稲川氏の掲載地図では、山谷堀小学校と屋敷は併存しています。
山谷堀小学校の開校(明治42年)は、大番頭石垣元七氏の地(亀岡町1丁目13番)となっています。
なお、石垣元七氏が明治34年に逝去した時の住所は亀岡町3丁目となっています。
大番頭石垣元七氏は、東京市収入役、東京市会議員となっています。
山谷堀小学校が開設した時点で弾家の屋敷が消滅したとか、弾家が寄贈したとかの記述も見受けられますが、明治42年に山谷堀小学校が開設した時点で、開校地は大番頭の屋敷で、弾家の屋敷は残っていて、大正2年時点で、浅草区会議員八田浪之助氏が住んでいます。



○皮革産業資料館 台東区橋場1-36-2 03-3872-6780
皮革産業資料館は、台東区の地場産業である皮革産業に関する製品や書籍、文献を収蔵・展示する資料館として昭和56年(1981)に開館しました。
国内では唯一の皮革専門の資料館として貴重な存在です。
展示品の中には元大関小錦の靴や長島茂雄氏のスパイクシューズなどもあります。
皮革産業資料館は、普段は閉まっていて、1階の事務室で見学を申し出ると、2階の資料館の鍵を開けて見学となります。
2階から見るスカイツリーは、隅田川が映えてグッドビュースポットです。
リーガルの祖、西村勝三の棚は、桜組造靴場など資料が色々ありますが、以前訪問した時は、弾左衛門の棚は写真1枚のみでしたが、写真もなくなり、ワインコルクの肖像画に置き換わっていました。
一方で、副館長の稲川實氏の著作物は、靴産業に関して弾直樹について一番詳しいと思います。
「東京都立皮革技術センター」のサイトに、靴の歴史散歩(皮革産業資料館 稲川 實 副館長)が掲載されていましたが、
ホームページ改編で、掲載資料が消えたのが残念です。














○東京都人権プラザ展示室 台東区橋場1-1-6 2018(平成30)年3月31日廃止
東京都人権プラザは、老朽化等のため平成29年2月16日に港区芝へ移転し、残っていた「分館」(台東区橋場1-1-6)も平成30年3月31日をもって廃止されました。

以前の東京都人権プラザ展示室です。
「東京都人権プラザの歴史」として弾直樹のコーナーがありました。
閉館した「東京都人権プラザ」は、弾直樹が起した皮革会社跡地に建っていました。











○今戸神社 台東区今戸1-5-22
今之津八幡神社に隣接地の白山神社を合祀し、今戸神社と改称(昭和12年7月)しています。
源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の安部貞任・宗任の討伐の折、鎌倉の鶴ヶ岡と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今之津八幡の創建になります。
白山神社は、浅草新町の守り神でした。白山神社の跡地は、痕跡は何もありません。







<白山神社>
探し当てたかつての白山神社。
「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」(東京市公園課 1923)に掲載

○本龍寺 台東区今戸1-6-18
徳川が天下を取ると他家の「葵紋」の使用がはばかれるようになりました。
寺紋は、徳川氏の「徳川葵」とは違いますが「立葵」の紋です。
弾左衛門の菩提寺で、矢野氏墓があります。








【参考文献】
○「弾左衛門とその時代」 塩見鮮一郎 河出書房新社

○「資料浅草弾左衛門」塩見鮮一郎 批評社 1996.12

○「貧民の帝都」塩見鮮一郎 文春新書

○「江戸の貧民」 塩見鮮一郎 文春新書 文藝春秋 2014.8

○「江戸の弾左衛門―被差別民衆に君臨した“頭”」中尾健次 三一新書

○「靴づくりの文化史」稲川實・山本芳美 現代書館 2011

○「西洋靴事始め」稲川實 現代書館 2013

○弾左衛門
長吏頭の矢野弾左衛門と、非人頭の車善七はそれぞれの階級の頂点として存在していました。
非人頭車善七との確執がありました。
弾左衛門は、扶持は一万石、金融業も営み財力は五万石の大名並でした。
皮革の取扱いの他、燈芯、ヒット商品の雪駄、勧進を仕切ってきました。
斃牛馬(へいぎゅうば)勝手処置令により、皮革の専売権を失います。
13代最後の弾左衛門(弾内記、弾直樹)は、日本製靴業の端緒を開きます。
(備考) 弾左衛門 明治元年(慶応4年)1月 弾内記と改名。
明治3年12月 弾直樹と改名。
○靴の歴史
明治3年、新政府の兵部大輔・大村益次郎の勧めで、旧佐倉藩士の西村勝三が「伊勢勝造靴場」を築地入船に設立します。
その後、西村は明治35年の「日本製靴株式会社(現・リーガルコーポレーション)」設立に至ります。
また、江戸の皮革産業を仕切っていた弾直樹が滝野川や浅草に靴産業の拠点を築き、大塚岩次郎が13歳で「大塚商会(現・大塚製靴株式会社)」を設立し、後に皇族や陸海軍の御用達となります。
○茶利革
<滝野川>
弾直樹は明治3年9月、滝野川の幕府反射炉跡の地所、建物全部を「製革、製靴、伝習所及御用製造所」と認められ、明治4年2月アメリカの皮革技師、 チャールス・ヘニンガーを招きます。
音無川の水を使って靴用の鞣し革が生まれ、チャーリーの名にちなんで茶利革と呼ばれます。
現在は、醸造試験場跡地公園(北区滝野川2-6)及び赤レンガ酒造工場(酒類総合研究所東京事務所:平成27年7月10日広島事務所に移転)となっています。
<音無の赤レンガ道> 北区滝野川
赤レンガ酒造工場入口側の道路は愛称「音無の赤レンガ道」として整備されています。
<橋場の靴工場>
弾直樹は、西村勝三と同じく政府丘部省に軍靴を納めるため、滝野川から浅草橋場(江戸時代の銭貨鋳造機関、橋場銭座跡)に移転します(明治5年(1872)1月)。
この地は、東京都人権プラザとなっていましたが、移転・閉館となっています。
<亀岡町自宅/弾製靴所>
明治5年(1872)12月、製靴部門は亀岡町一丁目14番地(現:都立浅草高等学校内:今戸1-8-13)の自邸内を「弾製靴所」、製革部門は三井組の資本が入り地方橋場1373番地(現:東京ガス千住工場内)「弾・北岡組製革所」と改組、2分されます。
<浅草新町 弾左衛門囲内 弾左衛門屋敷>
弾左衛門屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた南北に長い広い区画で、周囲を塀と寺社で囲われていました。
弾左衛門屋敷は、山谷堀の今戸橋と新鳥越橋(現在の吉野橋、江戸切絵図では三谷橋)の間に位置し、東京都立浅草高等学校の校庭が屋敷跡です。
運動場の外の横の道路が囲内の中心通りで、その左右が囲内。
中心通りは山谷堀に面して門があり、北に向かいます。
弾左衛門たちは、日本橋尼店から鳥越町に移転を命ぜられ、さらに鳥越の丘を切り崩して、入江を埋め立て幕府の御蔵を造るため、鳥越町からこの地へ移転しました。
この地を新鳥越町とし「新町(しんちょう)」と呼んでいました。
江戸切絵図では「穢多村 俗ニ新町ト云フ」と記されています。
新町は、明治4年10月に亀岡町1丁目・2丁目・3丁目となります。
稲川實氏(皮革産業資料館 副館長)「靴の歴史散歩」によれば、弾直樹の長男・謙之助氏は、明治42(1909)年に屋敷地(亀岡町1丁目14番)を明け渡し引っ越します。
稲川氏の掲載地図では、山谷堀小学校と屋敷は併存しています。
山谷堀小学校の開校(明治42年)は、大番頭石垣元七氏の地(亀岡町1丁目13番)となっています。
なお、石垣元七氏が明治34年に逝去した時の住所は亀岡町3丁目となっています。
大番頭石垣元七氏は、東京市収入役、東京市会議員となっています。
山谷堀小学校が開設した時点で弾家の屋敷が消滅したとか、弾家が寄贈したとかの記述も見受けられますが、明治42年に山谷堀小学校が開設した時点で、開校地は大番頭の屋敷で、弾家の屋敷は残っていて、大正2年時点で、浅草区会議員八田浪之助氏が住んでいます。
○皮革産業資料館 台東区橋場1-36-2 03-3872-6780
皮革産業資料館は、台東区の地場産業である皮革産業に関する製品や書籍、文献を収蔵・展示する資料館として昭和56年(1981)に開館しました。
国内では唯一の皮革専門の資料館として貴重な存在です。
展示品の中には元大関小錦の靴や長島茂雄氏のスパイクシューズなどもあります。
皮革産業資料館は、普段は閉まっていて、1階の事務室で見学を申し出ると、2階の資料館の鍵を開けて見学となります。
2階から見るスカイツリーは、隅田川が映えてグッドビュースポットです。
リーガルの祖、西村勝三の棚は、桜組造靴場など資料が色々ありますが、以前訪問した時は、弾左衛門の棚は写真1枚のみでしたが、写真もなくなり、ワインコルクの肖像画に置き換わっていました。
一方で、副館長の稲川實氏の著作物は、靴産業に関して弾直樹について一番詳しいと思います。
「東京都立皮革技術センター」のサイトに、靴の歴史散歩(皮革産業資料館 稲川 實 副館長)が掲載されていましたが、
ホームページ改編で、掲載資料が消えたのが残念です。
○東京都人権プラザ展示室 台東区橋場1-1-6 2018(平成30)年3月31日廃止
東京都人権プラザは、老朽化等のため平成29年2月16日に港区芝へ移転し、残っていた「分館」(台東区橋場1-1-6)も平成30年3月31日をもって廃止されました。
以前の東京都人権プラザ展示室です。
「東京都人権プラザの歴史」として弾直樹のコーナーがありました。
閉館した「東京都人権プラザ」は、弾直樹が起した皮革会社跡地に建っていました。
○今戸神社 台東区今戸1-5-22
今之津八幡神社に隣接地の白山神社を合祀し、今戸神社と改称(昭和12年7月)しています。
源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の安部貞任・宗任の討伐の折、鎌倉の鶴ヶ岡と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今之津八幡の創建になります。
白山神社は、浅草新町の守り神でした。白山神社の跡地は、痕跡は何もありません。
<白山神社>
探し当てたかつての白山神社。
「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」(東京市公園課 1923)に掲載
○本龍寺 台東区今戸1-6-18
徳川が天下を取ると他家の「葵紋」の使用がはばかれるようになりました。
寺紋は、徳川氏の「徳川葵」とは違いますが「立葵」の紋です。
弾左衛門の菩提寺で、矢野氏墓があります。
【参考文献】
○「弾左衛門とその時代」 塩見鮮一郎 河出書房新社
○「資料浅草弾左衛門」塩見鮮一郎 批評社 1996.12
○「貧民の帝都」塩見鮮一郎 文春新書
○「江戸の貧民」 塩見鮮一郎 文春新書 文藝春秋 2014.8
○「江戸の弾左衛門―被差別民衆に君臨した“頭”」中尾健次 三一新書
○「靴づくりの文化史」稲川實・山本芳美 現代書館 2011
○「西洋靴事始め」稲川實 現代書館 2013
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