内需転換の鍵

先日の東洋経済の「世界経済危機」の特集号(2/14)は力が入っていて面白く、久しぶりに自分で雑誌を買って読んだ。

全編内容が濃く読みごたえがあったが、特に興味深かったのは慶応大学の竹森俊平教授の分析である。

経済危機で外需の輸出系製造業が打撃を受けている中で、またぞろ大慌てで内需拡大の掛け声が飛び交っているけれども、そんなに都合よく急に切り換えられるはずもないし、前々からずっと言われ続けてきたのにいまだに変わっていないのはなぜなのか。

竹森氏によると、輸出・外需の牽引で経済成長した国が内需型経済に切り換えるのはそもそもたいへん難しく、それができた唯一の例外がアメリカだという。他の成長国は日本や中国も含め、そのアメリカの旺盛な消費に輸出品を買ってもらって貯め込んだ莫大な外貨を自国内にまわさずにまたアメリカに還流させ、かくて「貧しい国」から「豊かな国」への資金の逆流という本来逆になるはずの流れが定着した。

なぜこうなってしまうか。それは両者の金融市場の差、金融能力の差だという。金融市場を高度に発達させたアメリカと比べて、自国市場が未発達で貧弱な成長国は、得た富貴を自国内で苦労して再投資するより手っとり早くアメリカに投資した方がよい、その方がメニューも豊富で運用もやり易いし、結果も満足ということになる。

これは現にまったくその通りになっているので、とても説得力のある見立てと思う。中国や中東で大規模な国営ファンドを組んで運用することが流行したが、もてあました外貨を海外で運用しやすいようにまとめて船団に仕立てたわけで、やっていたことはみなこれだった。

輸出成長国の内需型経済への転換とは、先進消費国への輸出で稼いだ資金を自国内の内需型産業に適切に再投資することにほかならない。それによってはじめて産業全般の底上げが図られ、内需産業が成長するが、そこには金融の介在が不可欠である。

金融の力とは具体的には投資能力であり、稼いで貯めた資金を文字通り融かして有望な新事業、新産業に再配分する能力である。それはどの事業に投資したらリスクテイクに見合う良いリターンが得られるかを見抜く眼力そのものであり、発達した産業を前提としながら、そのさらに先を回って露払いしお膳立てする、さらに成熟した経済へのリテラシーが要求される。また、ここでいわれている金融市場とは、単に候補者を受け身に選びファイナンスするだけでなく、そこにモノとヒトとを投じて適切に組み合わることに能動的に関与し、足りなければ外からでも連れてきて合流させる機能をも含むようなものであろう。いずれにせよそれはかなり苦労の大きい仕事なので、そのままにしておけば、その労を迂回して、金融先進国の金融機関が調合したオートクチュールの方に資金が流れるということは避けがたい。そうした動きの内側では、投資運用とは事業への融資ではなくてそれをどこかの誰かがパッケージして味付けした加工商品の購入であるという誤解あるいは錯覚が生じやすいだろう。

国内を見れば、銀行はあいかわらず事業を見ずに担保や個人保証を見て金を貸しており、新興市場は闇勢力の食いものにされて市中の一般投資家からは見放されている。これらはいずれも金融の機能不全を示すもので、投資の萎縮でだぶついた国内資金は直接あるいは生保や銀行、年金経由でアメリカのファンドに流れ、その一部が「外資」として戻ってきて国内の投資先をも果敢に探索するという倒錯的状況になっている。よく言われるように「外資の脅威」の中身は国内の年金資金だったりするわけで、いわば自分の血なのだが、その外資にさえ免疫反応を起こして拒絶しがちで、稼いだ資金が自国内の産業育成に活用されず、貧血状態が固定化する。

こうした認識はもう一人の慶大教授である池尾和人氏も同じのようで、このいびつな資金の流れを是正するには、自国内で投資機会を作り、稼いだ貯蓄資金が正常に循環できるように、小泉改革時の郵政民営化のような官から民へという行政改革の文脈における表層的な構造改革を超えた、産業構造の転換というより大深度の構造改革が必要だと主張している。問題が噴出している医療・介護一つをとっても、強い社会ニーズがあるのは明らかなのに、現場レベルでは供給者・受給者双方から悲鳴が上がり、我先に舟から人が逃げ出す惨憺たる状況にあるが、これも制度的な緊縛が強すぎて「貧者の共産主義」状態になっているという。こういう肝心のところで産業としての可能性を自ら閉ざしておいて、片方で輸出の一本足頼みを嘆いても無意味で、ある意味自業自得かもしれない。

また、大きな問題になっている労働市場との関係においても、ここに至る経緯を10年単位で振り返ってみるなら、もともと輸出主導の経済成長とそれがもたらした富が一つの頂点に達し、このまま輸出中心を続けるか内需転換かの岐路にたった段階で、輸出競争力の維持をを前提とした「高コスト体質」への危機感が一種の国民運動のような形で広範に生じ、妥協的な形でそれがいびつに矯正された結果、そのゆがみが既得権を持たない(まだ参加していない)若年層に全部押しつけられたということがいえるのではないかと思う。そうであれば、労働市場の変質とそれによる購買力の抑制は内需の貧相さの原因というより自分でそう選択したことの結果、崖からの跳躍に怯んで後ずさりしたことに対してめぐってきた因果ということになろう。

内需転換は簡単ではなく、たいへんエレガントな課題で、その鍵は金融にあるというこの現状把握は、今回の経済危機の土壌を金融の過剰に求める一般に流布する見方とは正反対に逆なので驚かされた。今回の事態ではアメリカの金融市場の暴走がその大きな一面であることは確かだけれども、その裏側には、この炉に燃料を供給した、稼いだ外貨を自前で活用できない輸出成長国の金融の貧困という側面が表裏一体で張りついているわけだ。この視点からすれば、原因は金融の暴走なのだから、金融立国という幻想は終わった、地道なものづくりに回帰だ、という方向感は、アクセルとブレーキをあべこべに踏み違えた危険な誤診医療ということになる(「ものづくり」にさらに加重すれば輸出するしかないのだから依存症がますます悪化するだろう)。金融の過剰はよそのうちの病気で、自分たちの問題はむしろ金融の欠乏にある。隣り合った糖尿病患者の病状のひどさにおそれをなして、栄養失調の患者が一緒に食事制限にお付き合いするようなことをしていたらいつまでたっても自分の健康はよくならない。隣の患者の処方箋を自分のものと取り違えるな、という専門家からのこの警告は、よくよく含味されるべきだろう。





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2009/02/24 | TrackBack(0) | 政治経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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