三菱自動車は9日、今秋をめどに取引先の部品メーカーなどから100人程度の人員の応援派遣を受ける方針を明らかにした。(略)4月から始まったエコカー減税などの効果で、名古屋製作所では減税対象車の小型車「コルト」などの生産が回復、7月は1日あたり2時間の残業と、月4日間の休日出勤を再開している。下期も回復が続く場合に備え、応援の形で生産要員を受け入れる。三菱自は昨年9月の金融危機以降、減産対応を強化。昨年10月末時点で約3300人いた非正規従業員を今年3月末までにゼロにした。非正規従業員の採用を再開する計画はまだないという。(強調引用者)
亀山市のシャープ亀山第2工場で8月から、液晶テレビ用パネルの生産量が1割引き上げられることになったが、雇用は現状維持のままだ。企業の増産が雇用情勢の改善に直結しない厳しい現実が浮き彫りになった。(略)井淵副社長は「今回の増産で85%まで回復できる」と説明。一方で、「生産の効率化を図ることで対応し、増産のための投資や雇用の変動はない」と、新規の雇用はしない方針を示し、第1工場についても「今後の活用を検討中」と述べるにとどまった。三重労働局職業対策課は「企業の増産は景気回復に向けた明るい兆し」と歓迎しつつも、「今いる従業員の配置転換や残業で対応しきれなくなってから、ようやく新たな雇用が生まれてくる。雇用情勢の改善には時間がかかる」としている。(同)
各企業が現在の状態を一時的な息継ぎにすぎないものとまだ慎重に見ているということもあるかもしれない。しかしながらもう一つの要因として、ここに年初の派遣斬り騒動による影響を見るとしたら穏当を欠くだろうか。雇用は「遅行指標」で回復には時間がかかるというが、それは「正規雇用」の話しである。派遣や期間工は企業にとってもともとそのための雇用なのだから、切られるのも早いが雇い直すのも早く、むしろそうしなければ、せっかくの稼げる需要に対し充分な供給を送り込めず、企業は貴重なチャンスを失う。
切られるのは早いがそのまま元に戻らないのは、件の騒動で期間従業員までが雇用環境において事実上「正社員化」したからではないか。それまで稼働量の機動的な調整のために派遣会社への手数料や住居の提供等の追加コストを負担して期間工や派遣を使っていたのが、正社員を雇うのと事実上同じになってしまったので、生産回復によって本当は雇いたいところだがうかつに雇えない。結果的にグループ内で融通したり、正社員の残業を積み増したりという苦し紛れの方法でやりくりすることになる。続報によると三菱自はその後期間工の採用も一部再開したようだが、それでも非正規でまず加減してそれで不足なら正社員で対応するというこれまでの雇用調整の段取りが逆転してしまっているのが注目される。さらにここにきて、既存の雇用の中でおさめるためのやりくりがグループ外にまでまたがるような、アクロバット的な例さえ出てきた。
トヨタ自動車がハイブリッド車(HV)の電池製造工場の従業員として、ヤマハ発動機の正社員を200人規模で受け入れることが28日、分かった。トヨタは、販売が好調なHV「プリウス」などの電池の増産が急務となっている。一方、主力の二輪車生産が落ち込むヤマハ発は現場の人員に余剰感があり、両社の思惑が一致した。
正規雇用自体に余剰感が出ているのも確かだが、余剰人員の活用は原因ではなくて結果だろう。企業で働いている人は身の回りを振り返ればわかると思うが、これまでは(しばしば使いものにならないが辞めさせることもできない)正社員の余剰人員がいるにもかかわらず、一足飛びに臨時雇用を使って売り上げを伸張し、むしろそれによって余剰人員分の食い扶持まで稼ぎ出していた(もちろんこのことはそれはそれでひどい話しだが)。トヨタにとってはまったく畑違いのヤマハの従業員を教育しなおしてラインに立たせるよりも、もとの電池製造をやっていた工員に声をかけて来てもらった方が本当はずっと望ましいはずである。だからここにあるのもやはり同じような逆転の構図であり、正社員の枠の中で極力完結させようという強い経営的意志である。
せっかく企業の活動量が復活したのに、かくてその振り分けは企業の枠すら超えた「正社員クラブ」の中をぐるぐる回っていて、「タブー」化した非正規労働者はその恵みにあずかれず、苦しい中切られっぱなしのまま、かやの外のままである。生産量も必要なだけ充分に回復せず、それも経済の湯熱にダブルで反映する。一方正規労働者の方は、残業増や休日出勤で対応するとすれば、ただでさえ組織のスリム化で業務量が増えているところにさらに上乗せになり、過労や作業品質の低下がいっそう危惧される状態になる。自治体も失業が固定化した求職者への生活支援のためにただでさえ息絶え絶えのところでライフポイントが低下する一方である。
国内の労働環境は、非正規労働者の大量失業と正社員の長時間勤務、過重労働が同時に問題化するという異様な状況になっているけれども(子どもだってそれなら両方を均せばいいじゃないかと思うだろう)、解雇があれば責めたてて押しとどめようとするような、直線的で短絡的な示威活動は、それを少しは和らげることにつながっただろうか。失業が「あってはならない」許しがたいものではなく、不況においては当然生じうるものとして、もっと冷静で実質的なところに的をしぼった支援が行われたのであったなら、今頃一度職を失した非正規労働者の多くが希望する同じ製造業の職場に復帰していたのではないか。そうなれば企業は必要な労働力を手当てし、順調に生産を回復して失地を稼ぎ、製品が国内に流通した分は消費を増やし、労働者自身ももらった賃金で消費し、納税もしただろう。自治体はその分教育訓練や生活保護の支給から解放され、息がつけただろう。どちらがよかったか。結果的にどちらがほんとうに彼らに対し「優し」かったか。景気と経済の呼吸を人為的な指図によってぎこちなくなぞり書きし、後追いするくらいなら、はじめから自然な振る舞いにまかせていた方がよほどよかったということにならないか。
これらの底にあるのは、現状の問題をいわゆる「市場の失敗」と見て、権力の背を押し、その威を借りて政策によってじかにそれを矯正してもらおうという視点だろう。しかし現実に起きているのは、このようにもともとが自律的調整の流れを矯めようとした強制措置、すなわち政策の失敗で、市場(労働市場)は仕方なく器の方円に従って自分のできることに努めた結果、それを増幅する格好になっているにすぎない。たとえていうなら、交差点のまわりでひどい交通渋滞が起きているので元をたどってみたら、その中心で親切で善意だけれども、いない方がむしろ良かったくらいの下手くそな警官が真っ赤になって交通整理をしていたという図で、政府は市場を出し抜くことはできないという凡庸な事実がここでもあらためて確認されただけである。
政策と行政は、個々の経済主体にああしろこうしろと一々指図するようなことは避け、介入する場合も自分が原因で市場の渋滞が起きないよう充分注意する必要があるし、既にそうなってしまっているなら、間に挟まって何かを塞き止めること自体を再考しなければいけない。必要なのは、政策の失敗を市場の失敗であるかのように誤診して、さらに薬を増やし症状を悪化させることではなく、血流を阻害しているおおもとの血栓を特定して取り除くことである。労働市場の場合は、自分の作った制度の不出来によって生じている、雇用環境全体のこうしたいびつな二重構造自体を早急に解消することも当然その中に含む。