「脱経済」の経済

以前取り上げたドラッカーの処女作「経済人の終わり」の後半分は、著者の専門に近いところで、大戦時のドイツ経済の分析が中心になっている。当時のドイツの経済運営については、一般には、世界恐慌の中でアメリカの向こうをはって国家規模の巨大な公共投資を打って失業の苦しみから国民を解放し、短期的にはアメリカを上回る大成功をおさめて、それが政権に対する信任を決定づけたこと、反面それは軍国主義、軍需産業と一体不可分になっていたため、経済面に限ってもどのみち行き詰まりが避けられなかったことなどが俯瞰されることが多い。しかしここにおいても若きドラッカーの筆は、そうした表面的ななぞり書きをはるかに超えて因果の裏側にまで突き通った独自のものになっている。

同書の前半部では、前回みたように、資本主義であれ社会主義であれ経済原理そのものへの疑念と拒否が社会に充満し、それがヨーロッパが作り上げてきた道具立てへの全否定に流れ込んでいくありさまが描き出されていた。しかし否定に基く社会の再構築といったところで、アメーバの死骸や幽鬼ではないから、そこに何らかの組織的な意思決定システムと指揮伝達系統は存在しなければならず、物資も生産し飯も食っていかなければならない。そこでこの「否定の社会」は、それまでのもろもろの運営手法について、その中身はくり抜かれて捨てられながら外形だけが薄く透けた脱け殻のように空疎に維持される奇妙な姿になった。この奇怪な状態を人々が「真正民主主義」「真正資本主義」のような「真正」何々の名で呼んだとドラッカーはいう。

今日ヨーロッパでは、資本主義と社会主義の実体が、妙なやり方で放擲されつつある。大衆が、恐慌なる魔物を招来するものとして企業、利潤、経済発展をみているからには、これらのものはすべて放擲しなければならない。しかし、工場管理、財務、価格政策、会計、生産、流通などの外形は維持しなければならない。そこで、それらのものを「真正資本主義」、あるいは「真正社会主義」と名づける。政治の領域においても、政治的自由、少数派の権利、世論、主権在民、選挙などにかかわる原則は、すべて放棄しなければならない。しかし、形式的民主主義の外形、すなわち、選挙による負託、国民投票、形式的平等は維持しなければならない。

旧秩序の実体は容赦なく破壊する。そして形態は注意深く維持する。かつての革命であったならば、共和国そのものを破壊しておきながら、その後の共和国の大統領としてヒンデンブルク(ワイマール共和国の大統領)を迎えるなどということは決してなかったはずである。

知られているように当時のドイツが「発明」したこの着ぐるみは、その後のほとんどの独裁政権が、欣喜して着用するところのものになった。しかし根本的に異なっているのは、それらの後代の亜者の場合には、それを専ら(国家の、あるいは自分自身の)「外側」に対する無邪気な偽装のために行っていたのに対して、本家の場合には他人ではなく自分自身に対する内向きの楔(くさび)としてそれを用いたということである。創始者の場合には、他国や、支配者からみた自国民を騙すという即物的な、形而下の、それこそ政治的な意図からではなく、もっと切羽詰まった一種の「自己同一性危機(アイデンティティ・クライシス)」への防波柵として、いわば形而上的な目的からそれが行われていた。他者への欺瞞にせよ、自分へのそれにせよ、亜流者たちの場合には、根の部分ではそれが嘘であることは知っていた。ということは、嘘でない別の自分、そうした体のいい仮面の裏で舌を出してほくそ笑んでいる酷薄な自分がちゃんと取ってあるということである。しかしドイツの場合には、そんな心の余裕、他人を構っている余裕はぜんぜんなかった。否定の怒りに身をまかせた結果、裏返って自分が全部無明の闇の中に消えてしまいそうだったからであり、どこで踏みとどまって人間としての、社会としての最低限の形状を維持するかというぎりぎりの闘いを自分自身と戦っていたからである。他人を騙す余裕も自分も騙す余裕もなかった。

経済についても同じである。経済の原理を自己否定した矛盾した経済は、いわば血液を抜きとられた死んだ器に等しいが、頬を打って仮にもそれを励起させ、再稼働させるには、かわりに何か別の代用の液体を中に流してやらないといけない。そのために彼らが必死で見つけだしてきてすがったのがあの(いずれも非経済的な)「余暇活動」や「レクリエーション」であり「名誉による褒賞」であり、そしてきわめつきとしての「軍国主義」だった。「軍国主義経済」は「経済運営の軍隊化」と「軍需産業への経済の統合」という二側面があるけれども、前者は経済を稼働させる代用原理の探究そのものである。

軍国主義経済とは、経済の軍事化だけでなく、社会のあらゆる関係を上級士官と下級士官、士官と兵隊の関係に代えることを意味する。それは、経済的特権を指揮権に、経済的報酬を勲章に、利潤動機を軍規に、組み立てラインの労働者としての任務を一兵士としての任務におき換える。(略)軍国主義においては、国全体が一つの軍隊である。民間人は一人もいない。腕に抱かれた赤ん坊さえ民間人ではない。

事実上、産業家は労働者と同じであって、自由はない。行政の許可がなくては、雇用も解雇もできない。他社から人をもってくることもできない。賃金も上から決められる。製品価格も上から決められる。建設機械、靴、肥料などの重要物資の価格は、コストを下回って定められる

また、後者の「経済の軍事化」についても「軍事」に「経済」を従属させ、奉仕させることで軍事物資の確保と経済拡大の両得を狙ったものではなかった。それは生産能力が軍需に蕩尽されることで経済の役に立たなかっただけでなく、実際には軍事自体の目的にすら役に立たず、驚くべきことにそのことが既に自覚されていた。ドラッカーは、自己目的化した闇雲な軍需生産が戦略的な機動性を損ない、物資と外貨の徒らな消耗を招くとして軍の上層部自身がそれを嫌がっており、その阻止に動いた最高幹部が政治闘争の中で何度も解任されたという注目すべき記述をしている。

当時のドイツで行われていたのは、このように公共事業がどうの軍産複合体がどうのといった、われわれの理解する通常の経済の文脈に収まるような大人しい試みではなかったのである。なにかもっとはるかに度はずれた、ちゃぶ台そのものがひっくり返されるような、抜き差しならない価値の転倒とそれに基づく社会実験が行われていた。そしてそれが立ち行かなくなったということは、最も根本的な部分では、この代用原理、代用血液もまたうまく機能しなかったということであり、その顛末は本書の中で解剖学的な粘着性で詳細に追跡されている。

資本主義経済を機能させる赤い血球、その究極の原動力とは畢竟「利潤動機」であり、資本主義経済の引き起こす問題をどう克服するかという問いは、最終的には利潤動機なしに機能する経済をどう形成するか、という問いに等しい。経済運営の稼働原理に利潤動機よりはもう少しましな、もう少し上の、より倫理的な成分を注入すること。社会主義の実験がまさにあからさまにそれを志向しており、しかしそれが壮大な失敗に終わったことはわれわれも歴史の中で体験してきたとおりである。ドラッカーがある意味で評価しているのは、ドイツの試みが、その社会主義の失敗も見越したうえで行われた、かつまた、その後に未だに続く者のない、そのことに対するただ一つの無謀な挑戦だったからである。

それらの考察をへたうえで、ドラッカー自身が本書の中で示唆した当面のつっかい棒は驚くことに結局「宗教」だった。今さら塵を払って宗教を持ち出すほかないということは、その解決がどれほど困難かを示しているし、その洞察がいかに炯眼だったかは、欧米諸国でその後政権与党が建て直されたキリスト教を精神的支柱に持つようになったこと、また、資本主義経済に対する唯一の対抗勢力が、最終的にイスラム教諸国になったという事実によって正しく証明された。イスラム教はよく知られているように利子という資本主義経済の根幹の機能についてわれわれとは違った考え方と実践を持っているのである。

また、前回も述べたように、ドイツのこの体をはった人体実験以降、未だに同様の挑戦を行う者が出ていないということは、同じ問題が引き続きわれわれ自身のものでもあるということである。実際にわれわれは現代の社会生活の中で、諸種の社会的価値をもたらす源泉として、企業の他にも労働組合や行政機関やNPOや教育組織といったいろいろなタイプの組成組織に所属し、かかわり、動静を見聞きするが、経験を深める中で欲望の原理という最も卑近な位相で土台を合わせた営利企業こそが逆に倫理的に最も清潔であるというとんでもない逆転現象を痛感させられるようになる。労働組合や行政機関のような「Non-Profit」な、欲望の原理より一歩上に階を踏み出した、より高尚な行動原理で結合された組織が、自分が軽く見た欲望の原理によっていかに容易に足を掬われ、陸に揚げられた青魚のようにあっという間に、しかも骨の髄まで腐敗してしまうかは、わが眼で見ずには信じがたく、見ては絶望のあまり世を儚みたくなるほどである。逆に営利原理を隠そうともせず露骨に押し出している私的企業は、ちょうど危険な核物質を制御して電力を取り出す原子力発電のように、それを制御するための会計による精密な情報開示や、株式市場による相対評価、倒産による退出システムなどのもろもろの装置を伝統的に厚く築きあげてきた。天上の神々を動かしえざりせば冥界を動かさむ。よく正視した者こそが最も正しくそれを制御でき、さもなくば一瞬で燃え尽きて汚い燃えかすになってしまうようなものをまだしも有用な燃料として活用できるるという逆説がここでもまた観察される。

そのことが今もっとも巨大な形で顕現しているのが、おそらく中国が行っている巨大な試みだろう。中国は現在、社会主義的な成分と資本主義的な成分を強引に癒着させたハイブリッドな経済を運営しているが、もしもそのうちどちらの方がより腐敗が多く、倫理的に劣り、機能性に欠けるかという質問を投げかけたとしたら、利潤動機に基づかない社会主義的部分の方こそがそれであることに、たぶん十億国民全員が一斉に諾(うべな)うにちがいない。

欲望原理、利潤動機が組織形成の稼働原理としてもっとも適しており、強力なのは、皮肉にもそれが倫理的にもっとも程度が低く、そのゆえにこそ現代のわれわれにとって最も広く、そしてまた深く通底した幻影だからである。はるか過去にはそうでない社会ももちろんあったし、今後遠い将来にあっては、いつかきっとそうでない社会もありうるにちがいない。しかし今のわれわれにとっては、それを抜け出すことは容易なことではないし、それが正しいことかもよくわからない。少なくとも表面的、意識的なちゃちな補助手すりの設置程度でそれが揺らぐ可能性が毫もないことは、社会主義や上記のドイツのような、はるかに深耕された大規模な挑戦ですら失敗に終わったことによって証明されている。そしてまた未来のいつかにそれが切り換わる時にも、おそらくそれは営利を羨み憎むことで誰よりそれに執着していることを自ずから白状する者たちが企てる、的外れで自家中毒的な攻撃によってではなく、むしろそれをはなから無視し、そもそも目にすら入らない者たちの、いわば無為の毒によって、寒風に落ち葉が枯れ落ちるように自然に脱落することでそうなるのではないかと考えられる。

ちなみに当時のドイツの経済運営については、ビル・トッテン氏(「アシスト」というソフトウェア会社の社長の方らしい)もコラムで高く評価している。氏はアメリカ出身とのことだが、現役の企業経営者が向こうでこうした主張を公にして無傷でいるのは難しいことだろうから、日本国内での話しとはいえ、かなり思いきった、踏み込んだ内容といえるだろう。単なる利益追求を超えた経済のあり方への挑戦というところで、なにか相通じるものがあったのかもしれない。


ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり
P・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳)
ダイヤモンド社




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2009/10/26 | TrackBack(0) | 政治経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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