壁のあとさき

今年はドイツでベルリンの壁が崩壊してからちょうど20周年ということで、現地で当時の各国首脳が集まる大きな記念行事があった。先の経済危機を経てその影響が強く残る中での催しだけに、祝賀一辺倒ではなく、光と影が立体的なものとして浮き上がらせた解放後の歩みを皆が静かに振り返るいい機会になったようだ。

ベルリンの壁崩壊記念式典 (Wikipedia)

旧東欧圏の人々にとっては、それは政治的自由の獲得とともに、なりより市場経済の豊かな成果に近づく機会でもあるはずだった。西側諸国もそれを助けるべく目一杯の善意の手を差し伸べた。しかしもちろん単純にはそうはならなかった。東側とは比較にならない優れた製品やサービスとともに、良くないもの、すなわち景気循環や失業も一緒にやってきた。東側の人々にとっては、ショーウィンドウの中に買いたいものは山ほどあるのに、不況によって勤め先は潰れ、仕事と金がないのでそれが手に入らない。まさに今そういう状況になり、かつての単純な憧れに対する、正当なものでもあり、いずれは避けて通れないものでもある疑念もまたそこに生じている。

しかし壁の存在とその崩壊が意義深いものとして改めて振り返られるのは、まさにそれが所詮そういうものでしかないということについてである。そうした豊かさが激しい競争や脱落の苦しみなしにもたらされたとしたら誰にとってもどんなにかよいことだろうか。失業と不況なしに人々の生活の質を全体的に引っぱり上げることができるとすれば、それはすべての経済学にとっての夢であり、理想郷だろう。だが、壁のこちら側ではじめから生きている者にとっては、現実の問題としてそれが不可能であり、手元には決してやってこない永遠の夢想にとどまること、それらの厳しい社会的負荷が、よき果実と単に不即不離であるというばかりでなく、それらの厳しいストレスこそが直接よきものを生み出す原動力となっていることを肌で感じ、体で知っている。それらはすべて泥の養分を吸って咲いた蓮の花のように、おびただしい試行錯誤と競争と失敗の結果残されたものであり、他のなにものによってもそうなることはなかった。そしてそれらの積み重ねは、最終的に誰の目にもわかる圧倒的な彼我の格差となって社会全体をも経済的に引き上げ、その浸透圧で壁そのものをもうち崩したのである。

壁の崩壊という歴史的事件はまた、定常状態の経済運営では定かに判定できない政策行動の効果を明確に確認する貴重な実証実験の機会にもなった。東独を吸収する際、西独政府は(おそらく善意の気持ちから)実勢レートをはるかに上回る交換率で西独の貨幣を与え、西独に見合う水準まで賃金も強制的に引き上げた。しかしその結果は以下のような無残なものになってしまった。

第1のミスは1990年7月の通貨統合で生じた。通貨交換は統一の第一歩となる事業だったが、「旧西ドイツの1ドイツマルク=旧東ドイツの2マルク」という非現実的な比率で行ったのだ(個人については、貯蓄の一部を1対1で交換することも可能だった)。ちなみに、1989年当時の闇市場では、1対10で交換されていた。この通貨交換は当初、旧東ドイツ地域の消費を押し上げたが、同地域の企業の競争力は一夜にして失われてしまった。また、旧西ドイツ地域の労働組合が旧東ドイツ地域の賃金水準を西並みに引き上げようと運動したため、数百万人が職を失う羽目になった。

政府の職員やビジネスマンたちは、旧東ドイツ地域が人件費の安さに代表される比較優位性を活用しようとしても、ドイツの連邦制度やドイツ連邦共和国の法的枠組みが必ずそれを阻止すると不満を漏らす。


こうした端的な事例を見ると、やはり賃金の上昇は結果を尻尾から捷路で引き上げたからといって原因が解消するものではなく、きちんとした稼ぎを作り、手順を追って内発的に積み上げていかなければならないようである。過去にこうした歴然たる桁外れの失敗例があるのに、賃金相場に人為的に手を入れることがよい結果につながるし経済振興にもなると信じ続けている人々なり政党なりがいまだに根強く存在するのは不思議なことではないだろうか。また、GMの解体の際にみられたある種の逆説的なねじれがここにも現れていることも興味深い点である。すなわち賃金や為替の相場の人工的な固定というのは、本来より計画経済的な性格のもので、まさに東独の方がいっそう放恣に耽溺していたものである。その人工経済をもういやだといって逃げ出してきた人たちに避難先の運営者は親切のつもりで気づかないうちにまた同じような衣を着せてやり、それがまたしても同じように裏目に出ることで二重に彼らを侮辱し、苦しめるという失敗の上塗り状態になった。善意のつもりの支援者が、自分の側の無意識的な願望を投影した結果、助けようとする相手に逃れてきた苦しみそのものを与え、足の重りを取り除く格好を装いながらそれをさらに継ぎ足してやるというこの種のメカニズムは、経済的なものというよりむしろ心理的なものとして一般的に考察されるべきものだろう。

指導部の恣意で激しい振幅の政策が直行的に実施され、その結果わかりやすい結末に帰着することで、現実の部品でできた貴重な教材を周囲に提供するという点では、残されたもう一つの壁の向こう側の主催者も負けてはいない。ちょうど隣の国では凄まじい暴力的な通貨切り換えが行われていることが報じられているが、その趣旨は次のようなものだそうだ。

北朝鮮当局は今回の措置について「貧富の格差を防ぎ、平等社会を建設するという金総書記の構想によるものだ」と宣伝しているという。「富の再分配」を狙った措置だということを示唆している。実際、北朝鮮が旧貨幣から新貨幣への交換を一人当たりどれくらい認めているのか確認されていないが、交換限度額を超えた金は一瞬で紙切れになってしまう。従って、「市場で金を稼いだ人に対する事実上の没収措置」(チョ・ヨンギ高麗大教授)ということになる。「結果的に、今回の措置で“全員が貧しい社会”に後退すれば、以前の経済統制が再び効果的になるのではないかと期待しているのでは」との分析もある。


当地では苛酷な経済状況の中で住民たちがあてにならない国家配給に頼って餓死する危険から生活を防衛するために、近年広く「ヤミ市場」が定着し、その取引を通じて小財を蓄えるものも出てきたことが伝えられている。今回の実施では切り換え額の上限が極端に低い水準に制限されているために、それらはすべて蒸発することになった。十年の蓄えを一夜に失って絶望した住民たち、特に子供を持つ母親たちからさすがに命懸けの抗議行動が起きているという。

北朝鮮で市場の商人の大半は、子供を育てる40-50代の女性だが、彼女たちは今回の措置でこれまで稼いだ金を奪われただけでなく、商売さえも難しくなると、露骨に不満を示しているという。ある内部消息筋は「必死で働く女性たちが極度に腹を立てている。市場は金正日(キム・ジョンイル)総書記糾弾の場と化している」と話した。状況が切迫した女性商人たちは捕まるのも恐れず、仲間同士で集まり、当局を非難しているという。

北朝鮮軍が、最近断行したデノミネーションに対する反発により騒乱事態が発生する場合に備え、戦闘準備態勢に入った、とロシアの経済紙コメルサントが4日、北朝鮮内の外交筋の話を引用して報じた。 同紙によると、今回のデノミに対し北朝鮮の幾つかの都市では、「強盗のような政策だ」として批判する動きがみられるため、当局がこうした指示を下した、と消息筋は語ったという。(略)北朝鮮内部の消息筋によると、最高権力機関である国防委員会は最近、中朝国境の人民警備隊に「許可なく国境を越えた者については、その場で射殺してもよい」との発砲命令を下したという。デノミに関連した「不順勢力(国の秩序に順じない勢力)の逃走」を防ぐための措置とみられる。


また、今回の措置では、一般労働者の賃金は切り換え前と同じ額面で支払われるという決定がされたため、賃金は一気に百倍に引き上げられることになった。意図した通りに結果を導くことができさえすれば、これほどわかりやすい「労働者に優しい」政策もないだろうし、この種の善意の破滅的な無邪気さをこれほど戯画的に極端に示す例もないだろう。

4日にデノミを確認できる報道を初めて行った在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)機関紙の朝鮮新報は、「工場企業所で受け取る生活費は、従前の金額水準を新たな貨幣で保障されることになる」と述べた。このほかに北朝鮮内外でも、北朝鮮当局のこうした方針を裏付ける話が伝わっている。旧通貨と新通貨の交換比率は100対1のため、労働者に新通貨で従前水準の給与を支払うということは、賃金の100倍引き上げと同様の効果をもたらす。


上記のような視点に加えて、隣国のこうした状況からわれわれが学べる実践的な教訓があるとしたら、その一つは、強い需要圧力があるところには必ず価格メカニズムによる交換(市場)が自然発生し、それは決して除去することができない。最も苛烈な独裁政権の弾圧によってすら消すことができないという重い事実である。民主主義と選挙と議会が自ら求められず、移植され、教育され、監視されなければならないような酷寒の極北にすら市場は勝手にまた強力に自生する。国家権力が価格形成に介入して統制を行うのは、自然状態の実勢価格がお気に召さないからであろう。しかしそのように無理に価格を統制すると、必ずヤミ市場が生じてそれは否定され、自然水準に向かって訂正される。取引自体を否定すれば、その否定自体が否定され、むしろ野放しになって排水のない漏水のようにそこら中水浸しになる。

「ヤミ市場」とは幻の存在ではなく、それを「あってはならない」ものとみなす観念的否定者からそう呼ばれているだけの、「現にある」ほんものの市場(マーケットメカニズム)である。それは計画主義的発想の体制運営者が観念上でそう考えているところにおいて「ヤミ」であり、禍々しく非道な存在と目されているだけであって、その実状はわわれわれの市場経済圏で行われているものとなんら変わらない、稚くつたないけれども立派な、正しく機能する市場である。ちょうど進化学者がそれが二枚貝のものであっても昆虫のものであっても脊椎動物のものであってもそのどれもが正しく機能する立派な眼であると認めるのと同じように。

つまり市場とは経済があるところには必ずセットで不可避に伴走するもので、それを持ったり持たなかったりすること自体はわれわれが自由に選べるものではないのではないかもしれないのである。あるいはいいかえれればそれはわれわれの経済的自律性の発露そのものである。さる著名な哲学者の表現を借りるなら、われわれは経済的環境の中で市場という「自由の刑に処せられている」。だからこれはわれわれ自身の社会にあっても決して対岸にあるひとごとの話ではなく、賃金百倍の話しと同様に、問題となるようなもろもろの論点について理解を深め、効果的な制御の方法を探る際の反面教師、示唆に富む教材としてとらえられるものである。それらの論点というのは、たとえば上限金利や各種の嗜好品、武器や移植臓器といったことごとがそうであり、他にもいくらもあるだろう。





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2009/12/27 | TrackBack(0) | 政治経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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