はじめに医療の世界で病院を格付評価するための「病院機能評価」というものがある。これは「財団法人 日本医療機能評価機構」というところが扱っている「病院版ISO」とでもいうべきもののようだが、検索するとわかるように、現場の医師や関係者からはすこぶる評判が悪い。以下は検索表示でいちばん上で出てきたこの公営格付に関する感想の一つである。
それと病院機能評価を受けるためには受験料が必要だそうです。病院規模で変わるそうですが、数百万はかかると仄聞します。病院としても一旦受験したからには合格したいでしょうから、機能評価の委員が指摘する一言一句の達成に奔走するそうです。病院中が審査に奔走した挙句、合格後には膨大な書類仕事とウンザリするような委員会業務が残ると聞いています。医療系ブログでも時にこの病院機能評価について少し触れているところがありますが、未だに「素晴らしい」と書かれた物を読んだ事がありません。
当事者や周辺からあげられている問題点としては、杓子定規のマニュアル・教条主義/要求内容が現場の実態にあっておらず、無理に適用することでかえって運営品質が低下する恐れがある/審査費用が高額だがそれに見合うだけの中身がない、といったもので、この通りだとすれば、それらの点もISO認証の引写しである。
次に同じく医療業界からであるが、薬事法における医療機器販売に関して、販売管理者の配置と講習会の受講を義務化するという制度がある。これは販売店で指定の「医療機器」を販売する際に、事業所ごとに販売管理者を設置して、その管理者に所管の財団法人((財)医療機器センター)が主催する有料講習会の受講を義務づけるというのもので、この管理者配置と有料研修の組み合わせというパターンもよく見られるものだ。これについては、民主党の内山晃 衆院議員がそのものずばりの意味のない「官製資格ビジネス」だとして強く批判している。
「販売管理者を配置する目的は利用者の安全確保のはず。しかし目の届かない家庭で、説明書どおりに使用しない誤使用からくる危険を防止できるのかといえば、それはかぎりなく不可能だ。したがって安全確保などは有名無実であって、管理者の配置などは形式的なものに過ぎない」 「(薬事法や特定商取引法、製造物責任法について学ぶ講習会も)あの程度の内容なら企業が日常業務の範疇でもっと高度な知識を習得できている。(受講料の)一万七千円は高すぎるし、そもそも根拠のない単価」「受講料はいずれ販売価格に上乗せされる。そこから最終的に回りまわって、エンドユーザーが払わなければならない。(略)そして誰が潤うのかというと厚労省OBが天下っている外郭団体」「高度管理医療機器にクラス分類されたコンタクトレンズで医療機器センターが得る見込みの収入は十数億円になる」
また「結婚紹介サービス」業界でも、ちょうどこんな話があがっていた。
結婚相手を紹介する業界が分裂し、優良事業者を推奨する「マル適マーク」を二つの認証機関が出す事態になっている。そもそもこの認証制度は「婚活ビジネス」をめぐる苦情が絶えないために利用者が業者を選ぶ際の目安にしてもらおうと、経済産業省の旗振りで導入された。経産省の仲裁も実を結ばないなど業界の溝は深く、元のサヤに収まる兆しは見られない。
認証制度は業界側が経産省のガイドラインに基づきサービス内容や料金水準を満たしているかを審査する制度で、08年に始まった。業界は「結婚相手紹介サービス協会」を設立し、有識者で組織するNPO「日本ライフデザインカウンセラー協会」が認証業務を担当。これまで263事業所にマル適マークを発行した。
ところが加盟社の一部から、15万7500円の審査料金や月々8400円の使用料を巡り「高過ぎる」「認証基準が不透明」などと異論が噴出。一部大手が離反し、昨年3月に新たな認証機関としてNPO「結婚相手紹介サービス業認証機構」を発足させた。審査料金は8万4000円、使用料を2年間で2万1000円と設定し、今年2月16日、61事業所に独自のマル適マークを発行した。
経産省が乗り出して話し合いが複数回持たれたが、物別れ。協会側は「業界大手の影響力が強い機構では審査が甘くなり、利用者のためのサービスが行き届かない。身内意識が強く『お手盛り審査』になるのが心配」と主張。一方、認証機構側は「経産省OBが事務局長を務める協会の審査料金はなぜか必要以上に高く、小規模な個人事業者は申請できない」と譲らない。(略) 経産省サービス産業課は「消費者にとっては一つの方が分かりやすいが、どちらがいいとはコメントできない」と渋い表情。
以上の例でもよく特徴が出ているが、この種の格付・認証規制を並べてみていくと、そこに次のような定番のパターンがあることが浮かび上がってくる。
- 法律や制度で外枠を固めておいて、その運用を受託で実際に取り回す公益法人等の外郭団体を設立、そこに金を流すルートを作る。直接間接のいろいろな手法を駆使して他のルートは遮断、できるだけその団体の使用を義務化する方向に持っていき、そこに天下り。
- 大義名分、錦の御旗は、「消費者保護」「安全安心」「命がどうした」など。誰も反論できずにその裳裾の下に隠れ込める、立派で気恥ずかしくなるようなものがいい。
- 格付・審査の中身は、コストがかからないように切れるだけ切って極力無内容で空っぽなものにする。外側から義務化して締めつけてあればそれで「客」が逃げる心配もない。一方で審査料は公的権威の対価として高く売る。
- 格付は曖昧で中途半端な形にわざとぼかしておいて、事ある時には、これは格付認証ではなくて運営や啓発のための指標提示にすぎない等の言い訳ができるように逃げ道も作っておく。
また、ここではたままた医療業界の事例を多く取り上げたが、この分野がこうした屋上屋を架すような課役に特に狙い撃ちされることには合理的な理由があり、この領域がそうしたものの巣窟のような状態になってしまったとしても、外側からみる限りは少しも不思議なことではない。というのは、そもそもの大元の土台たる医師免許そのものが、そうした資格規制のいちばんの親玉みたいなものだからである。この点では医療界の主張にも無理に接合したような自己亀裂がみられる。管轄の中央官庁も、中身は同じことをしているだけなのに、ただ矛先が違うだけで同じ口から喝采されたり呪詛されたりしているし、国民の生命と安全に関わる仕事なのだから経済的効率性を度外視して割高な負担も了とすべきという建前論も、それが当人の身分に関わるときには医師団体自身から、また周辺資格にかかわる時にはその運営団体から、それぞれ聞かされることになるが、一方がそれを言っているときにはもう一方はそっぽを向いている。自分自身の態度がまず分裂しているのだが、そのことに気づいている例はあまり見ない。上記のような締めつけの追加負担も、とりあえず目の前に降りかかった火の粉を振り払って本来の職分に集中したいという気持ちは(ISOに悩まされたビジネス界の側からみても)大いに理解できるものだし、そうしてもらわなければ治療を受ける方だって困るどころではないけれども、それでも、外側から客観的に見ている限りは、まるで自分の腕で自分の顔を殴っているように、あるいは猫が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回転しているように、見えてしまうのは避けられないものがある。逆に言えば、そこに食い込んで甘い汁にありつこうとしている側も、基本的な構造において論理的な意味では反撃できないことを見越したうえでそれに悪乗りし、嵩(かさ)にかかっているのである。なんとなれば医師という個人の身分に官公庁が大いに容喙し、国家資格という形で高額の費用を徴収しながらその水準を審査していいのなら、病院という組織に同じことをしてなにが悪いのか、医師という個人に対して役に立たないと当事者も認める雑な評価過程で格付(免許付与)しても構わないのなら、病院という組織に対してそうしてなにが悪いのか、という話にどうしたってなってしまうからである。弱みを握られて食いつかれた者の常としてそのまま骨までしゃぶられることにならなければまだ幸いであるし、憤怒のあまり無理に建て増されたこの二階部分に火をつけるようなことにでもなれば、そのまま自分のいる一階まで一緒に類焼して燃えてしまうということだって決してありえないことではない。
よく「国家試験の勉強は、現場では全く役に立たないよ」と先生や先輩方はおっしゃいます。しかし「研修医として働くのに役に立たない」と断言されてしまう国家試験、その合格を目標にして大量の暗記を強いている今の医学教育とは一体何なのでしょうか。医師には正確な知識はもちろん必要ですが、診断にいたるための考え方・問診や身体診察手技・患者やコメディカルの方々とのコミュニケーション能力も同じように重要です。しかし現行ではぺーパー試験のみで「暗記ができる=医師として適任」と判断されています。平成21年5月に発表された文部科学省医学教育カリキュラム検討会の報告書では、日本の医学部6年生は「医師国家試験の受験対策に追われ、臨床実習が形骸化し、基本的な診療能力が十分身に付かない」と国家試験の弊害が指摘されています。(略)実技試験がなくペーパー試験のみで車の運転免許がとれたら皆さんはどう思いますか?では、問診や診察などのスキルの試験がなく、マークシート試験のみで医師免許がとれている今の日本についてはどう思いますか?(略)また全てを多選択肢型ペーパー試験で行おうとするあまり、妥当性に疑問が残る試験問題もあります。患者との会話の一部分を読ませて「次に喋る言葉として適切なものはどれか」「この会話に使われているコミュニケーション技法はなにか」という問題があります。しかし会話が行われている背景・雰囲気・関係性を全く無視したペーパー試験では、コミュニケーション能力は適切に評価できません。
こうした指摘は、公営の評価サービス作成における上記の定食メニューの要件をほぼ満たしている。こんな適当で中途半端な選抜過程であれば、おかしな事業者が相当数紛れ込んでしまうのも当然のことかもしれない。むしろ片一方でそうであるにもかかわらず、日本の医療が全体として高い水準に保たれているのだとしたらそちらの方が驚かれることで、例によって仕組みのまずさを所属者の属人的、献身的な尽力で補完している賜物なのであろうが、こうしたまずい部分を正し(当然設計主義的な国家の集中管理は止めて)もっと洗練されたインフラに移行すれば、さらに良くなり、無理な負担も減るにちがいない。そういう期待が生ずるのを拒絶する足場としては、現状の実態はあまりに脆弱すぎるものだろう。
この官製資格ビジネスについては、先に東京新聞が記事で特集してリストアップしている(2009/9/30)。それをみると、よくもこれだけたくさんこの手のものを拵えたものだとその精励ぶりには感嘆するほかないが、その量は減るどころか、これからもますます増殖していく一方のようだ。まさに情報の非対称性という錦の御旗を楯に取った、企業への天下りならぬ「消費者への天下り」である。見てきたように、この種の存在はその構造上、格付サービスに対するわれわれの本当の需要には応えられない。情報の非対称性を格付サービスで乗り越えるためには、いずれにしても社会的な追加コストがかかり、上記の官製評価サービスのコストもただでさえ膨張している医療費に上乗せされ、ただでさえ破綻しかけている健康保険の加入者が追加負担するわけであるが、こららの官営サービスはコストをかけただけの効果がなく、金を払っても中抜きの人件費に消えるだけで払い損である。政府がそれをどう整理するか以前に、まずわれわれ自身がそのことにはっきり気づき、自らを正しく啓発することが、こうした見せかけの無意味な存在を減らして真に有効な評価サービスを社会の中に育て、所有していくうえでの転換点になる。
前回も述べたが、現物の商品・サービスでもその方が「わかりやすい」などという理由で一種類に限られる必要がないように、それを評価する格付サービスもひとつでなければならない必要はまったくない。ひとつしかなくて地位が安泰ということは、それ以上工夫も進歩もしなくていい、安心して劣化すらしていいということでもある。格付サービスは対象の業界にとっての審査サービスや気象予測サービスに相当するものといえるだろうが、実際のそれらの事業と同様に、当然予測精度と自身の信用獲得に向けての事業者間の競い合いが必要である。それはそれ自体が市場機能の中における立派なひとつの製品・サービスであり、競争政策と独禁法の精神によって当然目配りされるべき対象のひとつである。官業の独占に限定するのを所与の前提のように称するのは、単に官僚の利害にとって「わかりやすい」だけであって、消費者の利益にはならない。情報の選択に関するサービスという事業の性格上、事業者の数を減じることへの強い「淘汰圧」がかかるにしても、そうならなおのことそれは行政の先回りした人為的な差配によってではなく使用者自身の自由な選択によって実現されるのが望ましい。乗用車が「トラバント」一種類だけ、衣服が人民服一着だけあればよくて他はなくていいということになったら、購入者は確かに選ぶときに「わかりやすい」かもしれないが、そこで産業の進展は止まり、かえって製品に対する社会の信用と期待を損ねるのである。国家管理で一種類しかない医師や病院、弁護士や結婚サービスの事業者格付は、国家管理の乗用車や人民服と同じくらいの粗製品である。