もちろん彼らが司法改革を阻止して、いやがっている資格者の増員と競争強化の流れを逆回転させるためには、世論の支持の後押しを受けて、最終的には政治を動かすことが必要であり、そのための工作という面もある。しかしそれだけでは足りない。彼らがやりたがっている価格の再統制と広告の再規制を実現するためには、世論と政治を動かすだけでなく、法律面においても通り抜けの邪魔となっている厄介な杭(くい)を引っこ抜いてわきにどかす必要がある。その法律こそが独禁法である。
周知のように独禁法は(もちろん民間事業者の)事業活動における競争環境を整備し、その障害を取り除くための法律のパッケージであり、その大前提には、当事者にとっては辛くてできれば避けたい事業者間の競争は、商品やサービスの利用者にとっては有益であり、ひいては社会にとってもそうであるという根本的な考え方がある。独禁法はきわめて強力な法律で、すべての事業者は等しくその適用を受ける。例外扱いを受けるのは一種の徴兵忌避のような禁忌であって、特別に重い事由が必要であるし、それも裏付けとなる根拠が軽減すれば、ただちに解除される。現にそれを受けているのは、明示的に定められたごくわずかな事業者だけで、その範囲は段階的に縮小されてきたし、最終的にはゼロにまでそれを消滅させるのが消費者にとっては利益の最大化された理想的な競争状態であり、法律の目標である。
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「競争による消費者のメリットは?」:公正取引委員会 |
弁護士事務所も事業者である以上その例外であるはずもないが、もともとは弁護士会はそれを無視して報酬規定と広告規制を設け、傘下の会員に強制するということをしていたらしい。そこに会員の一部からの抗議と告発を受けて公取委が介入し、違法な運用との指摘を受けて、曖昧な部分が整理され、禁足も解除された、というのがこれまでの経緯のようだ。つまり、弁護士業界における報酬と広告の「自由化」とは、制度として公式に行われていたものが公式に解禁されたのではなくて、もともと自由だったのを拘束していた違法状態が解消されただけ、というのがより実相に近いことになる。
価格の民主性
弁護士会のような業界団体は、会員に対してもろもろの統制を行うというのが一つの側面であるので、独禁法とその背後にある競争政策との兼ね合いにおいて、何はしてよくて何はいけないのかの線引きがこのようにしばしば問題になる。そこで公取委はこれらの資格者団体向けに、想定事例集を公表していて、それを見ると双方の境目が現状でどうとらえられているかを知る良い参考になる。まず価格設定についてはどうか。自由な価格設定とそれによる価格競争は、言うまでもなく競争環境の中でも要(かなめ)の中の要である。それは消費者にとっても競争がもたらす利益の最たるものであると同時に、事業者にとっても最も重要な経営上の武器であり権利である。そこには前回も言及したように、競争によって価格は(上がるのではなく)事業者の利益と消費者の利益が折り合う最も適切な下限まで下がる、という考え方があり、すべての事業者はそれを当然の公理として事業活動を行っている。よって、自由な価格の追求は独禁法の体系全体の礎石といっていいものであって、事業者間の価格競争を妨害して、自己の取り分を積み増すことは、利用者の利益を横盗りする、最も有害な行為である。そうした前提にたったうえで上記のリーフレットでは以下のように言う。
特に、資格者団体については、強制入会制度が採られており、資格者は団体へ入会しなければ業務を行うことができないことから、資格者団体において競争制限的な活動が行われた場合には競争に与える影響が一層大きなものとなる。このため、資格者団体が行う活動については、会員の機能又は活動を不当に制限したり、需要者の利益を不当に害するものとならないよう十分注意する必要がある。
事業者が供給する商品又は役務の価格は、事業者の競争手段として最も重要なものであり、事業者団体が構成事業者の供給する商品又は役務の価格を制限することは、独占禁止法上問題となる。資格者団体が会員の収受する報酬について制限することについても、通常の事業者団体と同様に、独占禁止法上問題となる。
会則に資格者の収受する報酬に関する基準を記載することが法定されていない場合において、標準額、目標額等、会員の収受する報酬について共通の目安となるような基準を設定することにより、市場における競争を実質的に制限することは、独占禁止法第8条第1号の規定に違反する。
この指摘を念頭に、過払い請求を中心に問題視されている弁護士の「法外な」高額報酬について考えてみよう。まず確認しておきたいのは、高額な報酬や高い利益率それ自体はなんら問題ではないということである。IT業界や食品業界でも八割九割の粗利を取る例は(われわれがよく知っている製品の中でも)いくつもある。競争環境が維持され、買い手に納得感があるならそれでなにも問題はなく、外からどうこう言うことではない。それだけ製品競争力が強くて誰もそれより低い価格で同等の商品を提供できないということであり、買う側もそれだけ貴重なものを手に入れる対価として充分支払い甲斐があるわけで、双方にとって有益で正常な取引である。
では何が問題か。高額なものであれ低額なものであれ、あるいは無料のものであれ、それをはじめによく説明しないことこそが問題なのである。トラブルになっている事例でも、料金水準それ自体ではなく、「最初にその値段を聞いていたら契約はしなかっただろう」ということこそがクレームのほんとうの中身になっていることに注意しなければならない。それでは店を出る段や事が済んだ後になってから高額料金をふっかけるあやしい飲食店や葬儀業者と同じになってしまう。すなわち「ぼったくり」とは高額料金そのものではなく、それを正しく知らせないことをいうのである。金額の問題ではなくどこまでも情報の問題である。
金融庁は11日、18日の改正貸金業法の完全施行を前に、葬儀費用や海外で緊急に必要となった費用については「総量規制」の例外とする、と発表した。総量規制は借り手の年収の3分の1を超える融資を基本的に禁じるルールで、同法の完全施行に伴って導入される。葬儀費用などのほか、「社会通念上緊急に必要と認められる費用」は、同規制の例外として、貸出残高が年収の3分の1を超える場合でも、返済能力に応じて融資を受けられることになる。
日本弁護士連合会の新しい会長に決まった宇都宮健児氏は28日、テレビ朝日の番組で、消費者金融の過払い利息返還請求を巡って高額報酬や誇大広告の問題が広がっているとして、「再規制が可能かどうか検討して対応したい」と述べた。宇都宮氏は、報酬制限が2004年に廃止されたことについて「依頼者と弁護士が合意すれば青天井になった。非常に問題だった」と指摘。00年の広告規制の解禁にも「私は当時反対した」として、見直しに意欲を示した。(略)ただ、報酬は競争を促す狙いで自由化された経緯があり、公正取引委員会が再規制を問題視する可能性も高い。宇都宮氏は「一般的に規制を復活させるのではなく、債務の整理事件などに限定すれば実現性はある」として、公取委と交渉する方針だ。
事業者が価格をつける権利とは、それを下げる権利であるとともに、常に自分の売るものにより「高い」価格をつける権利である。自由な値付けの中で市場参加者はできるだけ高い値段で売ろうとし、それについての充分な情報を与えられた中で、購入者が最も値打ちがあると思うものをこれも自由に選ぶことによって、その財貨にとっての最も低廉な水準に価格が収束するということこそが、市場取引と競争の基本的な構造である。これはどんな低価格の商品、また高価格の商品にも平等にあてはまる。アクセルとブレーキの両方がなければ自動車をまともに走らせることができないように、事業者が高い価格を自由につけることができなければ、その商品の最も低い価格も実現しないのである。価格を動かす権利の一方が破壊されることで、市場の価格探索機能が麻痺して機能不全になるからである。
これを逆からみれば、横並びの一律料金が現に強制的に実現されていて、それで事業者が撤退もせずに市場に残って経営が存続しているということは、利用者の側からみれば、歪んで形成された、不当な水増し料金を払わされ続けているということに他ならない。それが事業者にとって出血的な安すぎる水準に設定されているのであれば、事業者の大半は供給を続けられず撤退するからである。市場の調節機能が効かないので、それは自由な交渉によって落ち着く水準よりは常に高い価格となり、利用者の財布から「過払い利息」ならぬ「過払い報酬」として奪いとられるものになる。一部の「ぼったくり」事業者を見せ金にして弁護士業界が戻ろうとしているのもまさにこの世界であり、現実にそうなっていることは前回の資料でも指摘されていた通りだ(もともと公取委が介入したのも、報酬規定を下回る割安な料金を提示した事業主を弁護士会が懲戒しようとした事案が発端だったという)。事業者が自由に値札をつけて、顧客がその情報をもって選択するということは、顧客も価格決定のプロセスに参加するということである。反対に事業者が決め打ちで値段を決めるのであれば、すべての決定過程は事業者の内部に閉じていて顧客はそれにまったく関与できず、ただ一方的に口を開けて与えられるのを待っているだけになる。事業者は高く売るのが仕事で顧客は安く買うのが仕事なのだから、顧客が締め出されたこの片輪走行の過程で安い価格が実現しようわけがない。不当な高額請求を行う事業者を本当に一掃したいのであれば、弁護士業界は、まさに新会長が就任の抱負で述べたその通りに、ただ「業界の風通しをよくする」ことに専心しさえすればよい。低い価格を実現するために高い報酬を取る(高い価値の商品を売る)ことを制度で禁止しようということを思いつく者など誰もおらず、悪い品を高値で売りつけようとする愚かな事業者が面目を失してただ退場させられていくだけの、他のすべての業界と同じように、である。
自前主義の病―Not Invented Here Syndrome
次に、公取委の同じリーフレットでは、広告については以下のように言っている。事業者が行う広告は、需要者の需要を喚起する重要な競争手段の一つであり、事業者団体が構成事業者の行う広告について、需要者の正しい選択に資する情報の提供に制限を加えるような自主規制等を行うことは、独占禁止法上問題となるおそれがある。
資格者団体が、会員の行う広告について、媒体、回数、場所、内容等を制限することにより、需要者の正しい選択に資する情報の提供に制限を加えることは、独占禁止法第8条第4号の規定に違反するおそれがある。また、このような行為により、市場における競争を実質的に制限することは、独占禁止法第8条第1号の規定に違反する。(引用元同上)
広告をめぐる問題の根幹部分は、前回振り返ったのでここで繰り返すことはしない。ここでは、上記のように広告の情報提供機能を肯定的に評価するのが一般的で当然の考え方であって、それから目を背けて逃げ回るのは無意味で有害なだけだ、ということをあらためて確認したうえで、この関連でしばしば主張される内容について二点ほど補足しておきたい。
そのひとつは、広告に代表されるような「市場原理」を導入すると、弁護士としての腕が必ずしもよくなくても営業的に立ち回るのがうまい事業主ばかりが顧客を集めるようになってしまい、「儲かる弁護士と腕の立つ弁護士が別」になってしまうという危惧についてである。この不満は、関連の議論の中ではよく表明されるものであるが、事実認識としては残念ながら少しだけ間違っている。正しい相関は、「市場機能を導入しないと」 儲かる弁護士と腕のたつ弁護士が別になってしまう、というものである。それというのも、これまで現にそうしてきたように、市場取引における交換や分業の機能が充分使えないと、顧客開拓の成否は弁護士当人が本来の職務能力とは関係ないところでたまたま偶然持っていた属人的な能力に全面的に依存することになるからである。弁護士本人はもちろんそうした専門的な訓練を経ていないし、その分野に職業的関心の中心があるわけでもないから、職務能力とあわせてそれらの才能が本人自身の中に偶然同居している比率はかなり低いだろう。これらのお膳立てにおいてこそ、まさに小松弁護士の書いていたとおりに、「弁護技術は凄腕なのに客が少ないと言う事務所もあるし、その逆の場合もある」という状況が生まれるのである。それはちょうど、よそから買ってきた服は着てはいけない、他人の作った料理を金で買って食べてはいけないということに法律で固め打ちに決められたら、自分でそれを作れる人だけが良い服を着られ、美味しい食事を食べられることになるのと同じである。逆に市場の交換機能が解放されていれば、外部の専業者の機能を契約を通じて自由に自分に組み合わせることができるので、本人が苦手な要素であっても条件がかなり平準化され、同じ土俵にたてるようになるし、職業者としての本来の能力に集中して研鑽を深めることで効果を相乗することもできるのである。だから市場機能の導入はそれらの不公平を拡大するのではなくて逆に軽減し、腕のよい職人が正しく世間から評価されるようにするための最大限の手伝いをする。これは医師と病院経営の問題についてもまったく同じで、医師本人に事業体の経営能力を無理に要求しているような現状では、確かに「儲かる医者と腕のいい医者は別」になるだろうし、それこそ弁護士と法的交渉においても同じ話で、よそから助っ人を頼んではいかんということになったら自分自身がプロボクサーであるような者だけが常に裁判で勝つだろう。
弁護士に依頼者が支払う報酬について、クレジットカードの支払いの是非を議論していた日本弁護士連合会は、19日の理事会で、引き続き各弁護士に自粛を求めていくことを決めた。各地の弁護士会から「仕事がビジネス化しかねない」などとする慎重な意見が多数出たためだ。(略)今回の決定を受けて日弁連が近く会員あてに送る文書では、(1)カード会社がカード会員に対し、積極的に弁護士を紹介する(2)カード会社に依頼者の事件内容を知らせる(3)依頼者の支払い能力がないのを知っているのに、弁護士費用をカード払いさせる――といった場合には、懲戒処分の対象になりうるとしている。
こんなふうに、広告に限らずなににつけ外部のユニットを活用することへの拒絶反応が強いので、そのうち潔癖症がさらに進むと、多重債務問題の解決に取り組む弁護士たるものが汚らわしい現金に触れるなどまことに嘆かわしく、「仕事がビジネス化しかねない」し、脱税の元にもなるので、生活物資は国からすべて現物配給でもらうことにして、依頼者に対してはすべてタダでやることにすると言い出してくれるかもしれない(本気でそういう世界を夢見ているのかもしれないが)。
広告に関するもうひとつの関連の論点は、弁護士の職業特性は、法的紛争のような、人間生活の負の部分にかかわるものがもっぱらであるので、広告による積極的な宣伝にはなじまないというものである。しかしこれも単に食わず嫌いの経験不足から来る初歩的な誤認でしかない。確かに弁護士事務所が広告をさかんに出すようになった近年の状況は、お世辞にも洗練されたものとはいえないもので、一面では国営選抜された選良の実態がいかなるものであるかをわれわれに見せつけてあまりあるものがあったのも事実であるけれども、それも最近では経験を増すことで、特に先頭集団においてはだいぶんおもむきが変わってきている。民間事業者の仕事も、華やかで目をみはるような娯しみを世に与えるようなものばかりではなくて、いわゆる「静脈系」のものもいくらでもある。それらのデリケートではあるが不可欠な分野を天職に定めた企業も、顧客にどうやって自分達の仕事の意義を伝えるかについての、長年の、注意深い経験を積み重ねてきている。弁護士の紛争処理におけるプロボクサーとしての技能と同じように、広報のプロボクサーとしての真の凄味は、そのような困難な領域においてこそ十全に発揮されるべきものだろう。それがどういうものかを垣間見たければ、弁護士業界は、たとえば生理用品や衛生陶器を扱う企業のブランド担当者を招いて、その苦労や秘訣について教えてもらったらよいのではないか。
以上に確認してきたように、例外扱いを認めないことの中に仕事がいを見いだしている独禁法の理想は、どうかして市場機能の外に自分を置こうと画策する業界にとっては、大きな関門となって立ちはだかっている。先日タクシー業界が体よくその脱出に成功したことが報じられていたけれども、規制強化の時代とは、さまざまな業種が同様の嘆願理由書の重い風呂敷包みを携えて、その門前に長い列なし沙汰を待つ(閻魔さまである公取委にとっては苦々しい)状態のことをいうのかもしれない。しかしながら弁護士業界のそれも含め、この状況が意味するところをより包括的、客観的に把握するためには、この発火点を観察しているだけではまだ不十分で、大元になっている独禁法そのものの意味と位置づけを、前提条件としてではなくそれ自体を対象物として検証し直しておく必要があると考えられる。それによってこの弁護士業界の動向が意味するところも、より深い、本質的な形で露わになるはずだ。それはまたひとつのまとまったテーマとなるので、別に一稿をたてて行うことにしよう。