その理由は、現代の企業は、もはや独禁法が手を添えてやらなくとも市場それ自体の推進力によって旺盛に競争し、前進していけるからである。現代の競争環境はかつての鈍くて重々しいものとはもはやまったく違ってしまっている。技術革新が激しく社会の動きも速いので、競争相手はあえて盛り立ててやらなくても違う業界、違う地域、違う階層から入れ代わり立ち代わり次々に出現する。自分の業界、自分の縄張り、自分の階層だけでお山の大将になったからといって少しも安閑とできないし、それで競争が終わるわけでもない。われわれの眼前では(それぞれの分野で独占企業である)電力会社とガス会社が家庭のエネルギー需要を取り合って全力で取っ組みあいをしている。水道事業者と食品メーカー、航空会社と鉄道会社、有線の通信サービスと無線のサービス、あるいは通信会社とテレビ会社が競争する。出版業界や音楽業界と同じように、弁護士業界は、これからまずまちがいなく、ソフトウェア業界と競争する。また、国内の支配的シェアだけに目がいって体力をいたずらに削いでしまうと、外からきた巨象にひとのみにのみこまれることもある。相手は上や横からだけでなく下からも来る。ただの一個人やたかだか数人の小組織が、伝統ある大企業を向こうに回して堂々の競り合いを挑み、対等に交渉し、提携する。圧倒的なシェアと歴史を誇る小売りや広告宣伝や旅行業の巨大企業が、比較すれば豆粒みたいに小さなネット企業に振り回され、地位が逆転する。それらの沸騰する小集団にとっては「独占」などなんの意味もなく、むしろ蟻が狙う芋虫のように鈍重で大きすぎる格好の的(まと)を別の言葉で言い換えたものでしかない。
最も劇的な例は情報通信業界である。特定の企業が憎たらしいほどの巨大な覇権を築いても栄華はあまりに儚く、しかもその賞味期限はますます短くなってきている。OS企業の支配を検索サービスの会社が倒したと思えば、次にはもうSNSやミニブログの企業が自分の順番を待ちかまえてすぐ後ろに控えている。こうした加速度のついた世界で、もはや独禁法になんの出番があるだろうか。審査機関が問題を認識し、腰を上げて調査に着手し、慎重にそれを終えて関連部局と調整し、どれ罰でも与えようかという頃には、覇権はもう日なたの淡雪のように見る影なく溶けて、世間の関心と放牧地も遠く別の地平に移っている。せっかく世の中の大部分の利用者が強く支持するほどの圧倒的なサービスを提供することに成功しながら、我が世の春を楽しむわずかな閑暇すらないのが逆に気の毒になるくらいだ。
われわれはもう本当は、薄々そのことを知っているのではないか。独禁法はもう競争を守り育てる必要はない。それは一人立ちした。市場の外部性が割って入ってリセットしてやらなければ引きつけを起こして立ち往生してしまうような停滞は存在しない。それは急な下り勾配を自分の重みだけの力であれよあれよと転がり落ちていくので、今となっては後ろから押しているような格好を繕うどころかそれに追いつくことさえ難しい。今問われるべきことがあるとしたら、この先もそれが有効である続けることができるのかということよりも、もともとそれは機能していたのか、必要なものだったのか、ということでさえあるだろう。
これを裏返しにみれば、企業はもうどこまでも自分のしたいように好きにすればいいのである。メーカーは小売りの再販価格を拘束したいならすればいいし、カルテルを結んで納入価格を釣り上げたいなら釣り上げればいいのである。無茶な廉売をしかけたいならすればいいし、シェアにあぐらをかいてぐうたらにしたいならすればいいのである。それが地平線の向こうから来る参入相手にわざわざ自分から帳(とばり)を開いて招き入れてやることにならず、悪事が千里を走って一夜ですべての顧客を失うことにならず、一時の浮利を生死を分ける致命傷で贖うことにならず、自分の体力を一方的に消耗するだけに終わると思うのでないならば。新聞や出版、CD業界は再販統制を続けたいなら続ければいいし、タクシー業界はバリケードを築いて参入制限をかけたいならかければいいのである。それが電子配信や運転代行のような、異次元の角度から参入してくる競合者に対抗するうえでかえって自分の手足をがんじがらめに縛ることになり、苦情すら言わない顧客に無言のまま見捨てられ、延命のつもりの措置がかえって死期を速めるだけだと思わないのであるならば。
甲府市などのタクシー事業者が、10月に施行された新法を受け、収益アップに向けた対策を協議することになった。車社会の県内では、不況による節約志向に加えて運転代行業の台頭で、タクシー業界の営業収入が低迷している。運転手の平均年収が全職種平均の半分程度で、全国平均を上回るペースで高齢化が進む中、今後の対策としてタクシー台数そのものを減らす可能性が出ていて、運転手からは「こんな景気で職を失ってしまったら…」と危機感を強める。業界活性化を目指した規制緩和から一転、規制を強める方向にかじを切った国に対する不満も出ている。(略)売り上げが減少している背景には、運転代行業の進出がある。複数の運転手は「代行サービスの料金はタクシーより安く、車社会の山梨では酒席に出掛けるときはマイカー、帰りは代行という流れができている」と嘆く。(略)新法は10月に施行されたタクシー事業適正化・活性化特別措置法。2002年の新規参入自由化以降、大都市を中心に台数が増えて運転手の減収につながったため、再び規制強化に転じる内容。県内では昨年のタクシー1台当たりの1日の売り上げが過去5年間の平均を1割下回ったことなどから、甲府交通圏(甲府市、甲斐市、中央市、昭和町)が特定地域になった。
車のトランクに収納できる折りたたみ式バイクを使って1人で行う運転代行サービスを松山市の「ひまわり代行」(上杉剛史代表)が四国で初導入し、値段の安さで人気となっている。客を送った後、客の車のトランクに積んでおいたバイクで戻るため、随伴車とその運転手が不要となり、通常より2割程度安い価格を実現した。折りたたむと全長78センチ、高さ61センチ、幅37センチになるイタリア製の50ccバイクを使用。トランクに横たえて置いても燃料などが漏れないように工夫されている。分解や組み立てはわずか1分で可能で、客の車にバイクを積んでもらって代行運転し、組み立てたバイクで帰路につく。人件費を大幅に減らすことができ、燃費の良いミニバイクで帰路を走るだけなので、燃料費も安く済む。(略)飲酒する機会が増える年末を前に、同社の上杉代表は「利用しやすいこのサービスで飲酒運転を減らしたい」と話している。
競争の守護者である独禁法は、本来当然に競争に打ち克つ「強い者」の味方である。それは競争の淘汰を経て残るべき優れた者の肩を持ち、そのような事業者が、反対の存在である古くて弱い者、大きくて弱い者、近くて弱い者に邪魔されて正しく勝てないでいる状態を糾(ただ)し、それによって産業を代謝して全体の質を引き上げることを目指す。それは、そのことが世のため人のためになるとの当然の確信を持って、強きを扶け、弱きを挫く。独禁法がもういらなくなってきたということは、もうそのような人工的な介助はいらなくなり、それらの弱い徒党がたとえ不正な手段をもってしても古い利権を維持することが難しくなってきた、言い換えれば、新しくて強い者、遠くて強い者、小さくて強い者たちが、放っておいても自分だけの力で道を切り拓けるようになってきた、ということである。その背景には、顧客/消費者の存在感と自律性が高まって、優れた強者の匂いをめざとく嗅ぎつけ、勝手応援団を結成して、規制機関が大立回りを演じなくても、その代わり役を自ら積極的に果たすようになってきたことがある。
コンビニへの介入は正当だったか
独禁法がもう役割を終え、仕事がないので余計なことをして民間の活動に有害な影響を与えたことをはっきり示したのが、「コンビニ問題」への介入だったと思う。コンビニチェーンの加盟店が、フランチャイズ本部から値引き制限を受け、自分で価格を決められないのはけしからんということでメディアも巻き込んでバッシングした問題である。コンビニフランチャイズの業態において、消費者が見ているものが個々の店舗の経営体ではなく(われわれはその名前も知らない)、フランチャイズ全体のブランドであることは、店の前に置いてある看板を見れば明らかである。そのブランドに対する顧客の期待の中に、価格に対する考え方も当然含まれている以上、見切り品も含めた値決めにチェーン全体が一定の戦略を持ち、それに加盟店が協力していくことには当然正当な合理性がある(もちろんそれがよいと思うなら個々の店舗に決めさせるという方針も含めてである)。
フランチャイズのチェーンはその価格戦略を引っさげて競合相手たちと立派に競争している。逆にいえば、消費者は頭の中で、夕方まで待って少し遠いところのスーパーまで自転車か車で行って売り切れになっているかもしれない見切り品を買うか、それとも近くのコンビニに歩いていって少し高いけれどもほぼ確実に手に入る商品を買って済ませるか、そしてそれをコンビニチェーンAとコンビニチェーンBのどちらで行うかを常に計算し、選んでいる。それはまた、コンビニの商品も値下げした方がいいかというアンケートには100%がYESと答える時の表面的な建て前の奥で動いている、消費者の必ずしも自覚的でない本当のニーズを事業者が忠実に追尾しているということでもある(コンビニは、もともと頭のてっぺんから尻尾の先まで、そういう言葉にならない「本音のニーズ」を愚直に追うことで誕生し、成長してきた業態である)。よってそこに競合との競争がないわけでなく、消費者の選択肢を奪っているわけでなく、統制によって被害を与えているわけでもない。ディスカウント店に対するコンビニの高めの価格設定は、消費者のより近い場所まで小さな血管をめぐらせ、常時新鮮な血を送り続けるという自分たちの中核競争価値のコストを反映させた正当なものであり、競合も含めた消費者の自由な選択の中でその運営コストに見合った最も低い価格が実現されているはずである。コンビニの「価格統制」は、競争の妨害ではなくむしろその追求、その最も純化された反映の結果である。
また、個々の加盟店経営者は、自分の価格戦略の方が小売り業としてよりプロフェッショナルで優れており、もっとずっとうまくやれる、顧客と社会に貢献できると思うなら、チェーンに加盟せずに自ら独立して店を構える自由はいくらでもあったし、これからもある。どこかの業界団体のように、加盟金を納めずに勝手に開業したら法律違反で牢屋にぶちこまれるなどということもない。既にコンビニがうようよあって入り込める余地はないと躊躇されるだろうか?入り込める余地がないのは、顧客が受け取る事業価値がコンビニと直接バッティングしている時のみである。もしもコンビニの戦略のどこかに彼らが思うような間違いが本当にあるのなら、それは需要の取り込みという点で大穴が空いているということであり、どれだけ実在の店舗が密集していようがそれは影のようなものでしかない。まさに(価格が安い)既存スーパーが過密に競争しているさなかに(価格が高い)コンビニの一号店が降り立った時のように、あるいは既存の検索サービス、既存のMP3プレーヤーがうようよしているただ中にgoogleやiPodが降り立った時のように、無人の野を行くに近いだろう。
「要らない独禁法」と弁護士業界のこれから
以上を踏まえたうえで、ふたたび弁護士の問題に戻ることにしよう。独禁法に対する上記の認識がもしも本当に正しいのであれば、弁護士業界についてはその警告が正当なものであるかに見えたことを、どのように解したらいいだろうか。聞くところでは、弁護士会の中には、加盟弁護士の報酬額について内部で審査を行う「報酬審査委員」という係がいまだにいるそうである。弁護士会の各所属会員が報酬審査委員の顔色を伺いながら依頼者に対する報酬の「さじ加減」を考量するとき、その姿と構造は、コンビニフランチャイズで本部のエリアマネージャーが各店舗経営者の価格設定について「アドバイス」する時のそれととてもよく似ている。弁護士会はまさにコンビニ本部のように各傘下事業主の価格決定を「指導」している。これでどこかの弁護士が加盟店の応援役を買って出てコンビニ問題に介入したりしたら、よその事業者の価格決定権を法廷で力説した代金を自分は内部統制された額で受け取るわけで、自分たちも公取委に唾をつけられている身分で漫才みたいな話になるが、その共通の図式において、コンビニに対する独禁法の介入が不当であり、弁護士会へのそれには妥当性が残るとしたら、それはなぜか。
それはひとえに弁護士会が「強制加入」、すなわち弁護士会に加入しないで独立して営業し、自分で価格を決める自由を認めていないからに他ならない。弁護士会が強制入会ではなく任意加入の本物の「フランチャイズチェーン」であるなら問題は少ない。コンビニと同じでどう値付けしようと勝手にすればよい。チェーンの方針に承服できない事業主は独立開業すればよく、公権力の介入はコンビニ問題に介入するのが不要であるのと同程度に不要かつ有害である。事業者がどうやっても自分で価格を決められないということは、顧客が価格を選べないということである。全国一律の弁護士会がみなさんにかわって判断しますが、これがみなさんにとっていちばんいい価格でしょう、といって一方的に強要される価格を利用者はただ丸呑みするだけになる。前に述べたようにそれは適切な価格ではない。
ここまで来ると、いよいよ弁護士業と独禁法が対立する問題の真の構造が、完全な透明度ではっきりと見えてくるのではないだろうか。すなわち、その本当の急所は、現在の弁護士という存在が、強力な規制特権を有する事実上の官吏としての下半身を持ちながら、半身では独立した民間事業者でもあるという、いわば半官半民の、カメレオン的、合成生物的な中途半端な存在である部分にあり、その政府規制の部分に、自身政府の一部であり、失礼ながら不似合いにも市場の番人をもって任じている公取委という規制機関が一種の自己免疫疾患のように反応している、というのが問題の真の図式なのである。弁護士会への法定による強制加入、(加盟なしの)独立開業の禁止、あるいは自由な参入や営業の禁止というのは、言い換えれば公的独占ということである。公取委は頭では民間業者としての弁護士業界に介入しているつもりでいるが、実際に体が反応しているのはこのように公的独占の部分に対してである。弁護士業界の中の非競争的兆候を示すマーカー物質に敏感に反応してそれを攻撃する免疫細胞としての公取委という構図は、はからずも競争環境を損なうことにかけて公的独占というものがどれだけはるかに有害で不毛であるかを、政府機関自身が身をもって示してくれたものといえる。われわれがこの貴重で奇妙な見せ物から学ぶべき真の教訓はそこである。
独禁法の正式名称は、ご存じの通り「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」である。わざわざ「私的」独占と銘打って限定してあるのは、「公的独占」は政府機能の本質そのものなので(公取委自身が市場監視機能における参入制限のかかった公的独占機関である)、刃がそちらに向いたら自家撞着、自爆行為になるというもっともな理由からであるが、上に述べた通り私的独占に対する政府の介入はもはや不要であり、公的独占(政府独占)はかくてもともと法の対象外である。独禁法がもう私的独占に対してすることがなく、仕事がなくて暇なら、この弁護士業界の例のように、自分たちの内側で、独占の真の害である公的独占の害、過剰規制の害を監視、摘発してもらうのを新しい役目にするというのはありうべきことだろうか。ちょうど会計検査院が行政の資金支出について政府機関同士の間で監査を行うようなもので、それもまた一法かもしれない。とはいえもっとはるかに重要なことは、相殺してゼロに戻すくらいならはじめからするな、ということであるだろう。解決すべき問題という穴を掘ってそれを自分でまた埋め戻せば確かに同じ状態には戻るが、費用は行って返すだけの二倍分余計にかかっている。税金をそんな自作自演の無駄遣いに使うのはもちろん許されない。はじめから規制せず、規制を規制しなければ、部局も人も予算も一円もかからない。それはすなわち最初から自由であれ、ということである。
翻ってこれを弁護士業界の側についてあてはめると、ここまでの整理が正当なものであるとすれば、弁護士業界の前には正しく二つの道があることになる。ひとつは「本部」への強制加盟を廃止し、法的特権を放棄して完全な民間事業者になる道である。その場合は、グループはばらけて任意に形成されることになるので、公的独占の日弁連の代わりに、コンビニのように複数の「フランチャイズチェーン」が並立する形になるだろう。それぞれのチェーンがどのような価格戦略、ブランド戦略を持って仕事をするかは自社の判断である。「市民系」の弁護士が糾合した市民系チェーンが、うちは明朗会計の一律料金で行きます、広告も好まないので、宣伝やホームページの掲示も行わず、市役所の法律相談会などを中心に地道に営業します、クレジット払いも非倫理的なので自分も持たないしお客にも使わせません、というのならそれもしたいようにすればよい。ブラックジャック医師のように、腕に自信があるので料金も独自に決め、独立独歩でやっていくという事業主がいれば、それこそ市場の価格調整機能が有効に機能しているということで、それもまた大いに結構である。営業の自由、職業選択の自由が正しく尊重され、参入規制もなく、周旋禁止のようなおかしな規定もない状態になれば、頭を使った資格者のうちの一部は事業者を評価する側にまわり、現在の国営選定のような機能不全状態から情報の風通しが大幅に増して、有能で誠実な弁護士が押し上げられ、質の悪い事業者が、最も効果的な形で排除されていくだろう。
もうひとつの道は、自衛隊員や消防署員のように、完全な公務員になってしまう道である。この場合は(真の有害な毒素である)公的独占の毒は解毒されず、そのままである。しかし少なくとも従来のようなよく分からない中途半端な股裂き状態からは解放される。市営プールのそれのように料金も堂々と固定でき、足りなくなったら増税でもして税金から補填してもらえばいいだろう。晴れて公的独占の仲間入りであるから、公取委にへんに追いまわされて四苦八苦することもなくなる。しかし反面で業界にとってうれしくないこともある。公務員であるということは行政の一部になるということであり、当然その全面的な指揮下に入るということである。養われる以上は命令に従うのは当然である。個々の弁護士にとっては「箸の上げ下ろし」まで上から細かく指示されるという点では今までと何も変わらないかもしれないが、少なくともその相手はこれまでの弁護士会ではなく行政の上位機関になる。懲戒も公務員全般がそうであるように、行政が外から自分で行い、情報も公開されるだろう。
このように考えれば、弁護士業界が自分たちにとって大切なものとみなしている、いわゆる「弁護士自治」についても、また違った視点からの見方が得られることになる。すなわちそれは、半身では公的独占であり、半身では民間事業者であるという中途半端な職業環境に特有の産物だということである。もしも弁護士が完全な民間事業者であるのなら、自治もへちまもない。はじめから自治であり、あえて強調するに及ばない。逆に完全な公務員であるなら、今度はそれは求めるべくもない。上部からの指揮命令に基づいて決められた範囲で決められたことをするだけで、自治などはじめから論外である。ここから導かれるのは、「自治」を過敏に問題視し、それを強調し続けるのは、庇護は受けているが介入は受けたくない、という虫のいい、甘えた状態にある中途半端でモラトリアム的な主体だけだということである。そのことは同じようにそれを聖域視する他の集団やあるいは個人についても等しくいえることだろう。それは散歩する首の回りに保護者が反対の端を握ったリード(首なわ)がしっかりかかっていることの、半独立、にせものの独立の、隠れもない表徴(しるし)なのである。