雇用規制という「ラチェット(爪車)」

経済情勢や景気動向について書かれた資料を読んでいると、時々「ラチェット効果」という言葉を目にすることがある。「ラチェット」とは「つめ車」のことで、なにかの経済的な動向の影響が全体に広がりつつあるときに、文字通りの「歯止め」として、それを押しとどめる役割を演じる因子のことだ。

ラチェット機構(Wikipedia)
ラチェット機構 (Wikipedia)

よく用いられるのは、「家計のラチェット効果」というものである。これは、景況が不況に入った時でも、消費者は慣性からしばらくはそれまでの消費水準を維持しようとするため、そのこと自体が景気をある程度下支えする効果を持ち、急激な冷え込みを和らげる現象を指す。

これは経済活動の中に自然に形成される一種の堰(せき)だが、政府が経済活動に関してもうける各種の人工的な規制にも、同じような切り欠き、あるいは防波堤としての効果を期待されているものがある。たとえば従業員の雇用に関する規制では、景気の冷え込みと業績の悪化で、従業員に直結的な影響が及ぶのを避けようとする意図があるだろう。

しかしこれが期待通りにうまく働いておらず、むしろ逆の結果をもたらしているという認識は、ますます明らかなものとして世界的にも共有されつつあるのではないか。

景気と業績が下降したときに、先行きを思いやって自由に人員の入れ替えができないとなれば、企業は業績が上向いた時も容易に人を雇わないようになる。できるだけテンポラリーな間に合わせの雇用で済ませようとするから、逆に雇用環境はいっそう浮動化して刹那的になり、企業側、労働者側ともに技能の蓄積が進まないし、労働者側の生活もかえって安定しない。一方でいったん抱え込んでしまった労働力は、目的もはっきりしないまま飼い殺しの状態に置かれるので、組織全体が低体温に陥り、空気も澱んで沈滞感、閉塞感が増す一方になる。明確な目的意識をもって新たに外側に作られた機動的な小企業にまるごと打ち倒されて、そのまま全員が破綻へ道連れになるということも起きる。労働規制の強い国はたいてい失業率が高く、とりわけ若年層のそれが高い。

それらの規制は、本来は、景気が下がっても下がらず上がったら上がるという歯止めの効果を期待されて設けられている。しかし結果は意図とは反対に、景気が上がっても上がらず下がったら下がるという逆向きの、悪循環的な収縮効果を強く発生させている。

しかも、2002年からの景気が良い時も上がっていません。下がり方が多少、緩くなったぐらいです。そして景気が悪くなると、がくっと下がる。つまり、景気が良くなっても下がって、景気が悪くなるともっと下がる。常に賃金が下がっているという状態が最近ずっと続いています。これは景気が良いということを一般の働く人たちが実感できない非常に大きな原因です。


家計とともに、ラチェット効果の語がもうひとつよく用いられる文脈は、「成果管理」「ノルマ設定」に関するものである。これは、共産主義国家の計画経済において観察された現象を定式化したもので、成果目標を達成してしまうと、たとえそれが偶然的な要因によるものだとしても、そこにラチェットがはまって、翌期からの目標値が引き上げられることはあっても引き下げられることはないために、管理される側が能力と情報を出し惜んでかえって本来可能な業績の向上が妨げられることをいう。同じ延長線上で、企業内のいわゆる「成果主義」人事管理でも弊害が指摘されることがあるが、同様のことは、雇用者と被雇用者の間だけでなく、(もともと共産国家においてそういう構図だったように)規制運営者(政府)と事業者の間にもそのままあてはまっている。上に述べた雇用の分野についていえば、雇用規制とは、いわば政府が雇用に関して企業に課した成果主義上の「ノルマ」である。強制をもってそれを課す統治者に対し、それとつきあっていかざるをえないという不快さと湿度感が強いほど、ラチェットへの警戒心は高まり、面従腹背の裏での回避行動は強化されるだろう。

これらの結果がもたらされるのは、ルールを設定する側の根底に、Aのボタンを押したらなんのひねりもなくBの結果になるだろうという、工業機械や家電製品みたいに単純で薄っぺらい人間観があることに原因が求められる。それは家庭や企業の中で、拳(こぶし)を振りかざして一方的に脅しつければ好きなように言うことをきかせられるだろうと考える強権的な配偶者や雇用主と同等かそれ以上に単純な人間観である。実際の生きた人間、生きた経済主体は、自分に不利な仕打ちを黙って押しつけられているわけではなく、どうにかして規制の固形性、硬直性がもたらす痛みを和らげようと自律的に考えて、身をよじり、身の置き場を新たに作り出そうとする。単純認識者は相手のそういう生きた反応を考慮に入れない。まるで世界の中に思考する主体は自分一人しか存在しないとでもいうかのように。これらの規制作成者はたいてい対象に対する保護と慈愛の心情を前面に打ち出しているのが常だが、こうしてその底には、自分はルールを自由に作る人でおまえ達はただ考えもなくそれに一方的に従う者だという、対象に対する強い侮蔑と見下しの気持ちが見え隠れしている。

上の引用にあるように先の景気回復時に賃金水準が低く抑えられるのも、企業が基本的にそれをもはやこれまでのような一本調子の右肩上がりの成長ではなく、成熟経済のふつうに上下動のある中での一時的なものと見るようになったからである。そこで「ラチェット=ノルマ」がなければ上昇分に応じて柔軟に踏み出すこともできるが、切り欠きをはめられて落ちた時に元に戻ることは許されないとみれば、迂闊に飛び出すことは当然強く慎むだろう。イケイケドンドンの営業環境ではないという判断の中できついノルマをはめられたセールスマンがそうするだろうのと同じように。これが先の時点で起きていたことであり、派遣をはじめとした非正規雇用に新規雇用が流れた理由である。派遣市場がなければ、それよりさらに、またはるかに賃金水準の低いアルバイトやパートに流れ込んでいたか、あるいはそれすらもなく、派遣市場の整備が呼び戻した生産拠点の国内回帰への流れが起こらずに、そのまま海外への雇用の流出が一方的に加速していたはずだ。

経営環境の「不確実性」が増大するなか、企業は中長期的な見通しが立たないと、正社員を雇えなくなった。彼らは、いざというときに雇用調整が難しい正社員の数を、できるだけ絞り込もうとしている。そして人手が足りなくなった分を、常用型の非正社員で補っているのが現状だ。景気の良し悪しとは関係なく、これは継続的なトレンドとなっている。

総務省がまとめた今年4~6月期平均の労働力調査によると、完全失業者(349万人)のうち、失業期間が「1年以上」は118万人(前年同期比21万人増)となり、7四半期連続で前年同期を上回った。(略)年齢階級別では「25~34歳」が30万人と最多で「35~44歳」26万人、「55~64歳」22万人が続いた。また、正社員は3339万人(前年同期比81万人減)、派遣社員やパートなど非正規社員は1743万人(同58万人増)だった。企業が雇用調整のしやすい非正規社員を増やしているためと見られる。


しかしながら、成果達成における鞭(むち)とノルマの効用に魅入られてそれで頭がいっぱいになり、馬は単に水辺に無理やり引っ張っていくだけでなく望めば水まで飲ませることもできると固く信じている者には、人間の本性に基づくこうしたあたりまえのメカニズムはもちろん目に入らない。むしろ反対にラチェットをちゃんとかけているはずなのに逆滑りが止まらないのは、刃の数が充分足りていないせいだ、脱法的な抜け穴を見つけて皆に教えたやつが悪いのだと考えて、ますますむきになってそれを継ぎ足し、体育会系の部活動や軍隊のスパルタ式の調練のようにますます重い漬け物石をぎゅうぎゅうに上乗せしていくようになる。そもそものピントがずれていると、刃を締めすぎて肉に食い込み、血が噴出してもまだ気づかず、ますます精を出してレンチを締め上げて、四肢が鬱血し壊死してちぎれ飛ぶまで締め上げることになる。そのありさまはまさに、元祖ラチェット国家の共産主義国が、アクセルを踏みこんでも経済の回転数が上がらず人心が靡かないのは日々新たにすべき革命が不十分なせいだと考えて、ますます凄惨な自傷の深みにはまっていった姿とまったく同じである。

金正日(キムジョンイル)総書記(67)の後継体制に向けた移行作業が進められる北朝鮮で、最有力後継候補の三男正雲(ジョンウン)氏(26)が主導するといわれる経済再建キャンペーン「150日戦闘」開始の約2カ月前、朝鮮労働党中央委員会が各分野での達成目標を具体的な数値で掲げ、全党員に指示していたことが分かった。(略)文書では「我々は既に政治思想強国、軍事強国の要塞(ようさい)を支配し、強盛大国建設の最後の要塞である経済強国の目標を達成するための頼もしい担保と有利な環境を整えた」と強調。「経済前線の当面の基本戦闘目標」として、大まかに(1)4大先行部門(電力、石炭、金属、鉄道運輸)に力を集中させ、経済全般を上昇軌道に乗せる(2)食糧問題の完全解決(3)国の経済を技術集約型に転換させる--などと列挙した。

北朝鮮の金正日総書記が年初から経済再建を目的とした視察や指示を頻繁に行っている中で、朝鮮半島筋は24日、金総書記の耳には正確な経済状態が届いていないという実態を明らかにした。(略)たとえば、金総書記が今年初め、「平壌市は一瞬も停電させてはならない」と指示し、同市に24時間体制で電力供給を続けることになった。だが、平壌に供給を集中した影響で、9月には平壌の北東に位置する金策市の城津製鋼所が停電、溶鉱炉が固まり大量の製品を破棄せざるを得なくなったという。/また、金総書記は4月にある生産工場を視察した際には、展示された製品を見て「(北朝鮮が同月に発射し、人工衛星と主張している弾道ミサイルの)光明星2号の打ち上げよりもうれしい」と称賛した。だが、実際には工場ではこの商品を製造しておらず、商品は工場側が闇市場で入手して再包装して販売していたとされている。


ラチェットを締め上げれば事態が好転するという信念に立つ者が、それを変えないままで、ぬるぬるとつかみどころのない生(なま)の現実に裏切られたらどうするのか。彼は今度は各企業や経済団体の「道義心」や「愛国心」に訴えて雇用の「確保」を要請しようとするだろう。当然そんなものはうまくいくはずもないが、それではどうするのか。彼は次には協力しないなら割当てを法定で強制する、という脅しをちらつかせながら「要請」しようとするだろう。そうまでしてなお捗(はか)がいかなければ? とうとう彼は背に腹は変えられないとばかりに、憲法の改正すらも視野に職業選択の自由を制限し、各個人、各企業に向かってお前は林業に行け、お前は介護をやれなどと、誰がどこでどのように働くべきかを計画的に指定するのに近いことをでもはじめるほかなくなる。しかしそのように石段を一歩一歩上りながら、「行政の許可がなくては、雇用も解雇もできない。他社から人をもってくることもできない」状態に近づくうちに、われわれの眼前に姿を現してくる黒々としたものはいったい何だろうか。

これらの締めつけにたしかにラチェットの機能があることは否定しない。ただその歯車の刃は、考えられているのとは逆向きにはまっている。



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福田 秀人 (著)
ベストセラーズ




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2010/09/04 | TrackBack(0) | 政治経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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