技術を使用するときに、こうした害の面を抑えて便益を取り出すには、安全まわりの不断の物理的改良もさることながら、運用や制度面の工夫が果たす役割も大きい。技術の進展に比例して増大したリスクは、ひとたびそれが現実になったときには個々の利用者が自分ひとりで引き受けることができないほどのものにもなりうるが、一方でそうしたトラブルはそうそう滅多に起きるものでもない(航空機や鉄道に見られるように技術改良によってそれはさらに小さくなる)。ほとんど行き当たることのないそれらの危険のために使用と利益の全体をまるまるあきらめることが妥当なのか、という選択は常に生ずるだろう。そこで個々の利用者が協力してあらかじめ少しづつ積立をしておいて、万一の事故の際にそれを持ち出し、補償や被害回復にあてるという巧妙な仕組みが考案された。それが保険である。保険は、自動車保険のような技術使用に対するものの他にも、自然災害や戦乱犯罪、病気治療や旅行やスポーツなど、潜在するあらゆるリスクに対してかけられ、ひろく普及して、今の社会では当たり前のものになっている。保険は、われわれの取る行動からメリットだけをうまく取り出してリスクを軽減するのに役立ち、われわれの取りうる行動の幅をそれがない場合よりもずっと先まで広げることに成功している。
個人だけでなく企業も、自分で必要と考えた保険にごくふつうに加入している(時系列からすればむしろそちらの方が先だ)。しかしながら、大きな事業が有するリスクはそれだけ巨大なので、同業の事業者が少々より集まって積立を拠出した程度の小さな保険会社では、加入者が望む保険について、充分な引受けができないことがある。そこで、それらの保険会社同士がさらに広域で合同して場合によっては国をまたいで連合体をつくり、全体でより大きな、しかし頻度は小さなリスクを引き受けるための再保険(re-insurance)というものも行われるようになった。そのもっとも有名なものは、川べりの一軒のコーヒーショップで海運貿易の保険を取引することからはじまったイギリスのロイズだろう。
損害保険会社は、一般の保険契約者に万一の災害に対する補償を提供するという社会的使命を果たすために、安定した経営を行う必要があります。しかし、巨大タンカーや石油コンビナートのような保険金額の高額な契約を引き受けている場合、ひとたび事故が起こると高額の保険金を支払う可能性があります。また、地震や台風あるいは航空機の墜落などで同時に多くの契約に事故が発生する場合も、高額の保険金を支払う可能性があります。(略)そこで損害保険会社は、高額の保険金支払いに見舞われた場合に、どの程度までの損害であれば経営に影響がないか判断したうえで、引き受けた保険契約上の責任の一部または全部を他の保険会社に引き受けてもらうことが必要です。この保険契約が「再保険」です。(略)現在知られているなかで最も古い再保険の記録は、14世紀にスペインでつけられた海上保険の再保険であるといわれています。その後の地中海などにおける貿易の発展とともに、海上保険の再保険はヨーロッパ各地へ広がっていきました。
ロイズのピーター・レビーン会長はCNNの取材に対し、日本で3月に発生した東日本大震災と津波の金額的規模はまだ確定していないと述べた。同氏は、東日本大震災の負担額は相当額との見方を示しつつ、「いつ自然災害が発生しようとも、その負担を支援するのがわれわれの事業領域だ。当然われわれに保険金支払いは発生するが、まさにその負担をするためにわれわれは存在する」と語った。また、今回の震災が同社の通常算定範囲を超える事象かどうかについて「そうではない」と述べた。/他方、スイス再保険会社が29日に発表した調査によると、昨年の自然災害発生と原油流出事故に伴う経済的損失は2180億ドルに達し、一昨年の680億ドルと比べて3倍程度となった。
英国ロンドン北部エンフィールドのソニーの倉庫施設で8日未明から9日朝にかけて発生した火災が鎮火した。ソニー広報担当の富張仁氏が9日、ブルームバーグ・ニュースの電話取材で明らかにした。火災当時、倉庫内に人はおらず、人的被害はないという。 倉庫内には同国内向けに出荷する予定のCDやDVD、ブルーレイなどのディスク製品を保管していたが、数量は不明。鎮火は確認したものの、まだ現場に入れる状況ではなく、どの程度の被害状況なのか分からないという。富張氏は「保険は入っているが、何に対して保険がかけられているかなど詳細を現在、確認中」と述べるにとどめた。
保険は本来入っても入らなくてもよいもので、どうするかはそれぞれ自分の考えて決めるものである。個人の場合であっても、よく下手に保険に入るくらいなら貯蓄に励んだ方がよい、と言われるのがそれで、充分なキャッシュがあってトラブルが起きたときでも自分自身の資力で対処できる(あるいは、そうなっているだろう)と考えるのであれば別に無理に入る必要はない。反対にそれらも含めた準備が不足した状態で、リスクだけを剥き身で扱えば、問題が起きたときには自分は損害賠償や資産の喪失で破産し、巻き込んで被害を与えた者がいれば補償を受けられずに二度ひどい目にあわせることになる。そのあたりを見きわめて加入するかしないかを決めるのである。企業にとってもそれは同じで、企業は通常個人よりも大きな金額の資金を動かすので、選択の幅もそれだけ広がる。
一方、保険会社の側についてみると、たくさんの加入者から少しづつ積立を集めてリスクに備える保険会社の本領は、リスク事象が起きそうな確率を算定して、保険が成立するだけの妥当な保険料の額を決める算定能力の中にある。保険会社はそれを行うプロフェッショナルで、数学などの理論や過去の経験などを集約して慎重にそれを考量する。保険会社が扱うリスクには、企業や個人が挑む未知の(まだ一度も起きたことのない)リスクもあり、保険会社は未来を知ることのできないわれわれすべてと同様、結果的にそれに失敗することもある。とはいえ、たとえそうであったとしても、保険会社がそれらのリスクの算定を、他の誰にも抜きんでて熱心に研究し、誰よりそれに通じている専門家であることには変わりはない。算定に失敗して保険会社が破綻すれば、保険会社の社員と経営者は解雇されて失業し、自社の加入者にも大きな迷惑をかけることになるので、それをなんとしてもうまくやりたいという「インセンティブ(動機づけ)」も誰より強く彼らは有している。
保険会社とのかかわりを通じて、個人や企業は、自分が取ろうとしている行動のリスクについて、そうした見積りのいちばんの専門家、専業者が下す判断に触れ、それを取り込むことができる。個人がある地域に出張、あるいは居住する、大きな金額の買い物をする、あるいは海運会社がある航路での航海を計画するというとき、保険会社が示す、保険料を上下する、引受を拒否する等の反応は、計画の決行について、覚悟してそれを強行するにせよ、あるいは中止するにせよ、意思決定の有力な判断材料のひとつになるだろう。
ところが、このような保険を介した行動主体とリスクとの健全で繊細な関係を、横から割って入ってめちゃめちゃに掻き回し、台無しにしてしまう別の行為主体が存在する。それが他ならぬ「国家(政府)」である。国家は個人や企業に対し、保険会社が引いた上限枠を超えた、あるいは拒否したリスク行動に対し、なんらかの他の理由から、保険会社に変わって自分が後見するのでそれをせよ、と唆(そそのか)すことがよくある。そのもっとも端的で、巨大な失敗例のひとつが、今われわれの目の前で起きている原発事故に他ならない。ここで述べるのはそのことである。
原子力発電と保険
福島の事故が起きてから、原子力発電と保険の関係にも改めて注目が集まるようになった。それはどのようになっていたのか。事故が起きた場合の賠償方法を定めた「原子力損害賠償法」の中に保険の枠組みが組み入れられている。それによれば、電力会社は保険に加入して、想定される賠償額の一部をそれで賄う。補償額は現在原子炉1基について1200億円(制度開始時は50億円)で、きわめて大きな額なので、損保会社は連合して「日本原子力保険プール」という機構をつくり再保険を使ってそれを引き受けている。この保険からは地震など自然災害による事故は契約条件として除かれているが、JCOの臨界事故のときには、この保険プールから賠償金が被害者に支払われた。日本プールは、1960年に損害保険会社20社により設立され、現在の会員保険会社は24社で、保険業法に基づき金融庁から独禁法の適用除外の認可を得て、原子力保険事業に関する共同行為を行なっております。このようなプール組織に基づき、原子力保険を引受けることは各国に共通しており、日本プールでは、さらに世界21プールと再保険取引を行い、巨額の原子力保険の引受を可能としております。
とはいえ、原子力災害の場合、この金額でもまだとうてい賠償額が足りないケースも想定され、契約外の自然災害による事故もありうる。そこで原賠法では、民間保険が除外している自然災害起因のものについては政府が保険を肩代わりするととともに、それらの保険を超えた事象が起きたときには、電力会社自身が、天変地異と戦争のふたつの例外を除き、「無限責任」で賠償を行うよう定めている。さらに、そのふたつの場合や、無限責任といっても電力会社が資金がつきて支払い不能になる場合もあるので、そのときには国がしかるべき「支援」を行う。これが原賠法の補償の枠組みだ。
民間再保険の引受け範囲を超えて、今回のように賠償額が数兆円にのぼるといわれるような大きな事故が起きたときに、それを誰が負担するのかについては、長く規定のあいまいさが指摘され、議論があったという。しかし結局はそれが「国」でしかありえないことは、そのあいまいさを補うために先の国会で大急ぎで仕立てられ、電力会社を素通りしてほとんどの請求書を国民につけまわすことを決定した賠償支援法によって、いまや誰の目にも明白になった。
この保険という観点から原子力事故をみれば、、再保険を組んでリスクを散らしてもたかだか1千億程度までしか引き受けられないこと、しかも、現在の技術水準では自然災害起因の事故まではとても面倒はみられないこと、というのがリスク査定のプロである保険会社の判断だった。それを超えて国家が電力会社の発電方法にまで介入し、原賠法のような法律まで定めてレールを敷いてやったことが、電力会社が現在のような原子力発電を際限なく強行するという破滅的な意思決定に、影響を与えなかったと考えることはできない。
第四に、現在の原子力損害賠償責任保険につきましては、その大半を外国保険市場の再保険に依存しているのでありますが、一定の事由、たとえば日本における地震、正常運転等による損害は、外国保険業者がこれに応じないという実情にあるため、保険のみをもってしては賠償責任の全部を埋めることができない場合があります。このような場合における損害賠償の履行を確保するため、政府といたしましては、原子力損害賠償補償契約を原子力事業者との間に締結し、被害者の保護の完全を期することといたしました。(略)第五に、五十億円をこえる損害がかりに生じた場合の問題であります。政府といたしましては、このような場合はまずあり得ないと考えておりますが、万々一このような事態に至りました場合は、被害者の保護と原子力事業の健全な発達をはかるという、この法律案の目的を達成するために必要と認めますときは、国会の議決により、政府に属させられた権限の範囲内において、原子力事業者に対し、賠償に必要な援助を行なうことといたしました。また、原子力損害が異常に巨大な天災地変等によって生じたため、原子力事業者が損害賠償の責任を負わないような場合におきましても、政府は、原子力損害の被災者の救助や被害の拡大防止のために必要な措置を講ずるものとして、住民の不安を取り除くことといたしております。
資料によると、このように民間保険でわずかな部分しかカバーできずに、微々たる民間保険と気前のよく途方もない国家保証の組み合わせで事故の賠償に備えるという仕掛けは、日本だけでなく世界の原発利用各国で共通のものだという。スイス、ドイツ、中国、アメリカ、そして原発大国フランス、いずれも民間保険はほんの小さな額しかかけられていない。福島の事故後にAP通信から配信されて反響を呼んだ、ドイツのジャーナリストの「原子力のジレンマ―充分な保険は高すぎる」というレポートは、実態上は、各国ともほとんど無保険運転に近い状態だと指摘している。
From the U.S. to Japan, it's illegal to drive a car without sufficient insurance, yet governments have chosen to run the world's 443 nuclear power plants with hardly any insurance coverage whatsoever.(略)The bottom line is that it's a gamble: Governments are hoping to dodge a one-time disaster while they accumulate small gains over the long-term. (略)"Around the globe, nuclear risks -- be it damages to power plants or the liability risks resulting from radiation accidents -- are covered by the state. The private insurance industry is barely liable," said Torsten Jeworrek, a board member at Munich Re, one of the world's biggest reinsurance companies.
(要約)アメリカから日本に至るまで、保険を充分かけずに自動車を運転することはどこでも違法行為とされている。だが、政府は世界の443基の原子炉をほとんど保険なしに運転することを選択してきた。(略)詮ずるところ、それはギャンブルである。政府はたった一度の破滅を避けながら小さな得点をこつこつ積み上げていくことを望んだ。(略)「地球上のどこでも、原子力のリスクは国家がカバーしている。民間保険はほとんどそれを引受けできない」世界最大の再保険会社の一つであるミュンヘン再保険の幹部 Torsten Jeworrek は言う。
サブプライムローンと原子力発電
この問題を考えるうえで参考に比べられるものとして、近年起きた中で、同じように政府の介入、過干渉によって民間の健全なリスク感覚がおかしくなってしまい、福島原発事故に匹敵するような破局的な大災害に至った例がもうひとつある。サブプライムローン危機がそれである。サブプライムローン危機は、誰もが知るように、当初、投資銀行の暴走、格付会社の不手際や、証券化やデリバティブなどの金融工学といった、表面的な部分に焦点が当たり、当事者たちは問題を引き起こした戦犯として引きずり出されて強い指弾を受けた。しかし、その後、究明がより深まるにつれ、それではもともとそのようなたちの悪い住宅ローンを膨大に供給した元売りは誰なのか、という当然の疑問から、問題の真の元凶として、「GSE(政府支援法人)」に対してより多くの関心が集中するようになった。GSEとは「Government Sponsored Enterprise」の略で、文字通り「政府がスポンサーになっている企業」のことである。アメリカの住宅ローン市場の過半を占める住宅金融公社2社のうち、ファニー・メイは大恐慌後の景気浮揚策として設立された。低所得者層の住宅保有のために利用しやすいローンを提供することは政府が強く推し進めた政策であり、住宅公社2社は、その政府施策を展開するための、原発における東電と同じ「国策民営」の手足、実行部隊だった。証券化や無審査ローンはそれを無理やり消化し、実現するために編み出された手段だった。つまり、なんのことはない、前回の100年に一度の大金融危機から引き上げるための政府施策がめぐりめぐって次の100年に一度の大金融危機を引き起こしたのであり、税金投入の口実として魔女狩りの魔女を求め、世論とメディアを誘導して民間の金融機関を攻撃させた政府自身が真の、またすべてのはじまりだったのである。ライフネット生命の創業者の岩瀬大輔氏は、当時の状況を振り返った「サブプライム危機の真犯人」という小論の中で、(民間)金融機関をスケープゴートに仕立てた初期の論調はただの「俗説」であると言い切っている。また、ファニイ・メイを設立したルーズベルト政権も、その後低所得者に対する福祉政策としてその機能を拡大したクリントン政権も、いずれも今のオバマと同じ民主党である。
今回の米国の金融危機で連邦住宅金融公社のファニーメイ、フレディマックが財務上の破綻に直面した。結局、大規模な公的資本注入が行われ、連邦政府によって国有化された。元々両公社は政府の出資機関はなかった。それでも「暗黙の政府保証」が働くことによって調達した低利の資金をベースに1990年代以降、住宅ローンの証券化と証券化された投資商品を自ら莫大に保有して総資産2兆ドル(約190兆円)を超える巨大金融機関となった。米国でも2005年頃には膨張・巨大化する両公社の資産規模を制限し、低すぎる自己資本比率(2~3%程度だった)をもっと引 き上げさせるべきだという規制改革論議がなされた。しかし、組織の既得権益の壁を崩せず、改革は実らなかった。
竹森 原発事故の影響は金融市場にも出ています。東電の社債の金利は、米国でファニー・メイ、フレディ・マックの社債が国債並みに低金利だったのと同じ理由で低かった。政府は株主ではないけれども、国策を遂行している以上、万が一のことがあったら援助するという暗黙の了解があったと見られていた。実際、政府の東電支援の枠組みを見ると、かなりの援助があります。あれだけ事故の損害が出ているというのに、株主には減資しないと言う。それは経営の感覚をおかしくすると思います。
米国の巨大な住宅金融機関ファニーメイ(連邦住宅抵当金庫)とフレディマック(連邦住宅貸付抵当公社)の例は、政府の干渉がもたらす危険(暗黙の政府保証が住宅ローンの市場を歪め、致命的な結果を招いた)だけでなく、引き際の難しさも示している。連邦政府は両社を救済したものの、出口政策を持ち合わせていない。
「誰かが米政府系金融機関(GSE)債を売り始めたら終わりだ。うわさが流れただけでも市場が崩れかねない」――。GSEの関連債券の発行残高は米国債を上回る。大手民間金融機関やヘッジファンドに加え、巨額の外貨準備を抱える各国中央銀行の保有も小さくない。(略)GSE関連債券は、国債より高い金利設定にも関わらず、政府系金融機関の発行債券という安定性が売り物だ。発行残高は約5兆3000億ドルを超え、米国債を上回る規模に達する。投資家層は米金融機関や年金、投資信託、個人などに加えて、海外の投資家にも及ぶ。
米政府系住宅金融機関2社が経営危機を迎えていた08年8月下旬、日本政府が外貨準備を使って両社の支援を検討していたことが5日、関係者への取材で分かった。入札不調に終わる懸念があった2社の社債数兆円を、日本政府が買い支える計画だった。世界的な金融危機に陥る瀬戸際とはいえ、公的資金で外国の金融機関を救おうとしたことは極めて異例で、経済的に密接不可分な日米関係の特殊性を明らかにする事実といえる。
金融機関2社は、社債で調達した資金で金融機関から住宅ローンを買い取り、証券化商品に組み替えて投資家に販売しているフレディマックとファニーメイ。両社が発行した住宅ローン担保証券の残高は約6兆ドル(約540兆円)と米国の住宅ローン残高の半分を占め、世界の金融機関も広く保有していた。両社が経営破綻(はたん)すれば、日本を含めた世界の金融システムに深刻な影響を与えることは確実だった。
日本政府では、限られた財務省幹部が米財務省と緊密な連携をとりながら、外貨準備から数兆円を拠出して両社の社債を購入する救済策「レスキュー・オペレーション(救済作戦)」という名の計画を立案。通常は非公表の外貨準備の運用内容をあえて公表し、日本の支援姿勢を打ち出して両社の経営に対する不安をぬぐい去ることも検討した。
しかし当時の伊吹文明財務相が慎重論を主張し、9月1日の福田康夫内閣の退陣表明で政府が機能不全に陥ったため、実現しなかったという。米政府は9月7日、公的資金を投入して両社を国有化し救済したが、同月15日には米リーマン・ブラザーズが破綻し、結局、金融危機の深刻化は防げなかった。
ファニーメイは1938年フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策の一環として設立されました。その主要な目的は(そして後にはフレディマックの目的ともなるのは)住宅保有の幅広い促進にありました。ファニーメイ、フレディマックとも連邦政府の後ろ盾によって安いコストでの資金調達が可能であったことから、両機関は民間業者から住宅ローンを有利な条件で買い取ることが出来ました。両機関はさらに住宅ローン市場の拡大を図るため、最終的に住宅ローンにおける流通市場を創設するに至りました。さらに1977年に地域再投資法が制定されると、両機関はサブプライム、オルトAローンの分野においても事業を手がけるようになりました。最低所得者層にも住宅保有を可能とした同法は、信用力の低い借り手への与信拡大圧力を住宅ローン業者に対して生む結果となり、またその取り組みを支える目的から同法はファニーメイ、フレディマックに対しこうした貸付に対するポートフォリオ上の割合を拡大するよう求めました。
もう一人の著名なエコノミストのピーター・シフ氏は「政府の介入こそが今回の危機を招いた」という見解をさらに強く表明した。シフ氏は今から2年半前に「住宅市場のバブル崩壊」の予測を打ち上げていた。その予測が今回、的中して、いま改めて脚光を浴びることとなった人物である。(略)「この危機はウォール街の強欲を規制することに政府が難色を示したために起きたという認識がほぼコンセンサスのようになった。(略)「しかしその種の結論に欠けているのは、今回の危機を生み出すうえで政府が果たした決定的な役割である。政府の指導者たちは、国民に対して、非合理に住宅購入を扇動し、貯蓄を止めさせ、資金の借り入れや貸し出しを無謀に奨励して、住宅市場を侵食してしまったのだ」(略)ファニーメイやフレディマックに関しても、政府の事実上の保証によりリスクが少ないという誤った印象を住宅購入側に与えた。
上にあるように、サブプライム危機の場合は、原発事故よりある意味でさらに重症で、嗅ぎ薬を嗅がされて肝心の保険会社のリスク嗅覚まで乱れてしまい、日本の損保も含めた国内外の保険会社が毒入り債権を大量に頬張って、最終的にそれが集中したAIGという世界最大の保険会社の破綻にまで至ったことはまだ記憶に新しい。そして、こちらについても当時奇しくも「金融メルトダウン」という表現がさかんに用いられたけれども、原子炉のメルトダウンと同じようにこの大もとの住宅公社の問題も、ごまかされ、糊塗されているだけで、実際はまだまったくかたがついておらず、とめどない溶融が現在も引き続き進行中である。
「国家による保険」の危険性
このように政府が民間の保険会社になり代わって自分で保険機能を提供しようとする「国家による保険」の特徴は大きく二つある。ひとつはその無能力である。
国家は専業の保険会社とちがって、リスクを査定する専門の能力も経験も持たない。従って、まただからこそ、保険会社がその専門家としての判断によって尻込みしたような場所にも平然と、無鉄砲に進み出ていって、それなら自分にまかせろ、と後先考えずに安請け合いしてしまう。しかしその判断は、上の国会答弁にもあるように「起こるはずがないだろう」といったような、適当でいいかげんなものなので、実際に釜の蓋が開いて厄災が現実化すると、茫然自失するような被害の全体像が突如判明して、国全体が破産の瀬戸際に追い込まれるようなことにまでなってしまう(あるいは実際に破産する)。国民も文字通り地獄に道連れになる。
この事故では明らかに責任者は東電に原発事業を進めさせた国である。したがって、今後、原発事故の被害が拡大し、東電の手に負えないものとなれば、手に負えなくなった部分は国が補償しなければならない。したがって、国の負担に「枠」を設けることすら出来ず、負担額は青天井の状態なのである。(略)この原発事故について、日本政府の置かれた状況は、金融危機で破綻した銀行を徹底的に支援したために、国そのものが破綻の危機を迎えたアイルランド政府の状況に近いものがある。
国家による保険のもうひとつの特徴はその無責任である。
民間の事業体であれば、勇み足をしてリスクテイクに失敗すれば、関係者はみな相応の責任を取らされる。会社は潰れ、経営者は面目を失し、従業員は解雇され、株主資本は滅失する。しかし国家によるそれはまったくそういうことがない。そもそも誰に責任があるのかすら判然としないし、誰も解雇されず、誰も処罰されず、誰も弁償しない。給与と退職金は予定どおり払われ、幹部の職歴に傷すらつかない。巨額の賠償金は、自分たちは代理人の立場で振る舞ったにすぎず、国民は被害だけでなく利益も受けたという名目のもとに、国民全体に手渡しでそのまま転嫁される。まさに連帯責任は無責任である。たとえばJALが利権の食い物にされてああなったことは、政治の責任が7割、会社の責任が3割といったところだろうが、株主と従業員の責任が声高に叫ばれた一方で、政治家と官僚の誰が責任を問われただろうか。
こうして無能力な者が責任を問われることなしにリスク判断を弄べば、同じ惨事が繰り返し起きるのは必定といえる。未来の危難に神ならぬ身で備えようとする限り、民間企業もときには失敗する。しかし国家の骨折頻度はとうていその比ではない。しかも国家単位であるから、そのリスクの量がはんぱなものではない。先般、東電の救済枠組みが検討されるのと並行して、もうひとつの壮大な、そして同じタイプの賠償の調整が進められた。B型肝炎訴訟である。国は注射器の使い回しで生じた甚大な医療被害に対する過失を認め、賠償の支払いを受け入れた。被害と賠償の規模は、原発事故に並ぶほど深刻で巨大だが、これほどの人災、これほどの失敗のどこに原因があるのか、誰の判断がまちがっていたのか、原発事故や金融危機よりもさらに悪質なことに、それを検証しようという動きすらない。サブプライムのファニーメイ、原発事故の東電にあたる半国営のGSEである医療界も含め、全員頬かむりで事情を説明しよう、責任を取ろうと名乗り出る者はいない。そのうえですべての請求書は国民につけまわしであり、しかもそれを驚くべきことに増税で行うという。作為の当事者の側があまりに無自覚で、嵐の過ぎ去るのを待とうと鳴りを潜めているため、患者団体の方が世論の怒りが自分たちに向かうことを恐れて右往左往する、という惨状になっている。
政府・民主党は28日、B型肝炎訴訟で原告団と和解の基本合意が成立したことを受け、今後5年間で和解金などに必要とされる1兆1000億円について、財源の具体的な調整に入った。(略)細川厚生労働相は28日の記者会見で「(B型肝炎の感染原因となった)集団予防接種では多くの国民が利益を受けた。そういう意味では国民全体で(患者への)給付を負担していくという考えだ」と増税に前向きな姿勢を示した。和解金などを巡っては、救済期間は30年、必要な財政支出は最大3・2兆円に及ぶとされる。
集団予防接種の注射器使い回しが原因としてB型肝炎患者らが国家賠償を求めた訴訟で、政府が和解案を示した。訴訟原告以外の患者・感染者も賠償の対象に含めており、成立すれば今後30年間で2兆円が必要になる。この巨額賠償の財源確保と増税を結びつける発言が早くも政府から出始めたのはおかしい。(略)予防接種で感染症にならずに済んだ多くの人が、不幸にして感染した人たちを助けるのは当然だという、社会福祉的な考え方をこの問題に当てはめる空気が現政権にある。政府案の賠償額が妥当かどうかはともかく、患者は助けなければならない。だが、これは行政のミスの後始末をする話。すぐに増税に結びつける議論の運び方は不適切だ。
集団予防接種でB型肝炎ウイルスに感染したとして、患者ら600人以上が国に損害賠償を求めている裁判で、国は28日、裁判所の和解案を受け入れると正式に発表した。政府は、補償のためには今後30年間で最大3兆2000億円が必要と推計しているが、原告側は「増税の口実に私たちを使わないでもらいたい」と話している。28日午後に会見した原告団代表は「(国は)被害者を最大値に見積もって、私たちのために増税が必要だと言っています。まるで、国が被害者のごとく言っています。被害の深刻さをもっと明確にしてほしいと思います。増税の口実に私たちを使わないでもらいたいと思います」と話した。
Imagine there's no countries
以上の論考は、取り上げてきた諸種の問題において国家が果してきた役割に適正な光を当て、正しい問題解決に向けた思考を助ける目的で試みたものである。福島原発事故とサブプライムローン破綻は、いずれも国家と保険のかかわりの中で発生した。
想像してみよう。ジョン・レノンがかつて歌ったように、もしもわれわれの社会が「国家、すなわち専門性と責任能力のない強制権力―が存在しないコミュニティ」だったとしたら、発電会社は今あるような原子力をファイナンスできただろうか?自分が後ろ楯になって法律も用意してやるからぜひやってくれと頼まなければ、発電会社は自ら原子力を選んだか?もしも国家がなかったら、電力会社は原子力発電の前提になっている地域独占が自分の力でできただろうか?法律で認められた「総括原価方式」で好きなように原子力関連の経費を電気料金にまぶして転嫁できたか?その金を使って莫大な広告費でメディアににらみをきかせることができただろうか?税金から振り分けた莫大な交付金の実弾支援がなかったら、自身の力だけで立地自治体を買収できたか?あるいはつい先日の出来事に限っても、国があらかじめ東電を救済するという意向が示さなければ、先の株主総会で、責任追及も方針転換もなんら行われないまま、あのような強引で醜い進行が、株式持合いの大株主たちの同意のもとに、まかり通るようなことがありえたか?
いずれもまったく不可能である。
国家がなければ、今あるような原子力発電は存在できなかった。原子力が純粋な民間企業、民営経済の問題なら、なぜ原発立地に同意すると地元は「国から」電源立地交付金や核燃料税(の徴税特権)をもらえるのか。
また、そもそも原賠法の「責任集中原則」で賠償責任を電力会社経由で国に集中させなければ、製造メーカーを引っぱりこんで圧力釜からなにから含めた機器を製造させることすら、できただろうか。
原子力事故は「市場の失敗」ではない。「政府の失敗」である。市場経済が原発を造ったのではない。国家がそれを作った。その放埒と無知が、原子力という、自然に、ふつうに育めば、もっと別の、もしかしたら他の多くの技術と同じように輝かしく幸福なものでもありえたかもしれない、ひとつのありふれた技術の可能性を、まっとうなリスク評価から隔離することによって穢(けが)し、呪われた怪物と化し、閉ざしたのである。ちょうど自然な市場運営においては審査に通るはずのない低所得者層に無理にローンを提供するために、金融や住宅開発というありふれた経済機能にわざわざ手を突っ込んで暴走させ、怪物に育て、決定的に破壊したのと同じように。
上に引いた、各国の原子力と保険に関するレポートは、最後に次のような指摘で記事を結んでいる。
"If you take all external costs into account, the conclusion is inevitable: Nuclear power is not economically viable," Hohmeyer said. "The risk is only bearable if you externalize it on the wider society."
「もしもわれわれがすべての外部コストを勘定に入れるならば、結論は不可避である。原子力は経済的に存続不可能だ。そのリスクは、広く社会全体に外部化されることによってのみ、負担可能になる」
目先の利益しか頭にない愚かな営利企業が社会の共有地に垂れ流して顧みようとしない外部性(externality)を、高尚で慈愛あふれる国家が大所高所の視点から尻拭いする、というのは、国家に依拠する特権階級と、それに理論的根拠を供出することでお褒めに預かりたい提灯経済学にとっていかにもお好みの、耳に心地よい筋立てである。しかし、ここまで見てきたように、ふつうに目を開いて現実の姿を眺めさえすれば、事実はそういう机上の空論とはまったく異なる、グロテスクで醜いものであることがわかる。それらの学術の衣をまとった偏見に深く毒されている人びとでさえ、事実の経緯をありのままに述べようとすればまったく逆のことが口をついて出てしまう(しかもそのことに自分で気づいていない)。
未来を同じ破滅のループに導く誤りの硬い甲羅にひびが入るまで、何度でもそれを打ち続け、言い続ける必要がある。民間保険の雲上で核燃料を使って「ギャンブル」をしていた行為の主語は誰か、政府(government)である。世界の数百の原子炉を保険なしに運転することを選んできた判断の主体は誰か、政府(government)である。サブプライム問題でGSEを遠隔操作して狂わせた主(あるじ)、問題全体の真の黒幕は誰か、政府(government)である。
国家は企業の外部性を解決するどころか、自分ですら尻を拭けない外部性の怪物を自ら作り出し、企業と社会に押し付けた。
原発が爆発して放射性物質が広範に撒き散らされたとき、官庁は、汚染された農作物や廃棄物は自己の敷地内で厳重に保管し、安易に外に捨てないようにとお達しを出し、農家や下水事業者はその通達を守ろうと必死で努力した。しかしその政府と電力会社自身は、猛烈に汚染された原子炉の冷却水を、漁師が漁をし、われわれがその魚や海草を食べ、水を使い、周辺諸国も共同で利用する公共の海に、ろくに連絡もせず、誰の責任も負うことなく、いともあっさりと捨ててしまった。
国家が外部性を解決するのではない。国家こそが解決されるべき外部性である。